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2006年8月27日 (日)

東寺

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京都市南区九条町にある東寺(とうじ)。
空海ゆかりの寺院です。
東寺真言宗・総本山。
山号は八幡山。
本尊は薬師如来。

平安京は大内裏から幅約85メートルの朱雀大路が京域を貫通。
南辺、九条大路に位置する羅城門に至っていました。
この正門とも言うべき羅城門の東西に建てられたのが「東寺」と「西寺」という2つの寺院。
これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院でした。
このうち東寺は後に弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えました。
何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は現存していません。
さて、この寺には「東寺」および「教王護国寺」という2つの名称があります。「教王」とは「王を教化する」との意味であり、「教王護国寺」という名称には、国家鎮護の密教寺院という意味合いが込められているのです。
しかし東寺と言う方が一般的です。

見所は以下のとおり。
・東寺金堂
 国宝です。
現存の建物は慶長8年(1603年)、豊臣秀頼の寄進によって再建したもの。
内部には広大な空間の中に本尊の薬師三尊像が安置されています。

・東寺講堂
 重文です。
 金堂が顕教系の薬師如来を本尊とするのに対し、講堂には大日如来をはじめとする日本最古の本格的な密教彫像である21体の密教彫像が所狭しと安置されています。講堂の諸仏は空海没後の承和6年(839年)に完成しているが、全体の構想は空海によるもの。

・食堂(じきどう)

・五重塔(国宝)
 東寺のというよりは京都のシンボルとなっている塔。

・御影堂(国宝)
南北朝時代に建てられた住宅風の仏堂である。国宝指定の名称は「大師堂」だが、一般には御影堂と呼ばれています。

・灌頂院(重文)

・宝蔵(重文)

・八幡宮

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高山寺

225841424_a1332e6ed3 後鳥羽上皇から「日出先照高山之寺」の勅願を得たことで知られる高山寺は京都・右京区栂尾にあります。
宝亀5年(774年)に光仁天皇の勅願によって華厳宗寺院として開創され、神願寺都賀尾坊と称したと寺院の案内には伝えられています。
弘仁5年(814年)には度 賀尾十無尽院に改称、また、平安時代初期には天台宗の寺院となり、度賀尾寺(とがのおじ)と改称されたといわれています。その後、一時荒廃したようである が、平安時代末期には文覚によって再興されたと言われています。

高山寺は山号を栂尾山と称し、宗派は真言宗御室派系の単立です。
創建は伝えられているように奈良時代ですが、実質的な創立者は、鎌倉時代の明恵上人です。
明恵房高弁(1173-1232)は承安3年(1173年)、紀伊国有田郡は現在の和歌山県有田川町にあたる場所で生まれました

見所を以下に書きます。
・石水院(国宝)です。
鎌倉時代の建築。入母屋造、柿(こけら)葺き。後鳥羽上皇の学問所を下賜されたものと伝え、明恵の住房跡とも伝えられています。
外観は住宅風。
本来は経蔵として造られた建物を改造したものと言うことです。
「鳥獣人物戯画」の複製が展示されています。

・日本最古の茶園:
 石水院の門の横、参道を隔てて西側には竹製の柵に囲まれた「茶畑」があり、そばには「日本最古之茶園」と書かれた石柱の標識が立っています。
案内には、鎌倉時代初期に栄西禅師が宋から茶種をもって帰国し、明恵上人に贈っり、明恵上人はこれを栂尾山に植え、その後、宇治その他の土地に移し植えられたといわれています。

・開山堂:
 明恵上人晩年の頃の草庵禅堂院があった跡と伝えられており、堂内には「明恵上人坐像」が安置されているようです。

・明恵上人御廟:

・仏足石:

・金堂(本堂):
 現存の「金堂」は寛永11年(1634年)に仁和寺から移し復興されたものといわれており、本尊の釈迦如来像が安置されています。

明恵上人の歌。
・あかあかやあかあかあかや
あかあかあかやあかあかや月

・山のはにわれも入りなむ月も入れ
夜な夜なごとにまた友とせむ

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2006年8月24日 (木)

地蔵盆

京都では八月も20日が過ぎると各町内で地蔵盆が行われます。
22〜23日は六地蔵巡り
23〜24日は化野念仏寺千灯火供養などが有名です。
あるいは雲ケ畑や広河原では松上げが行われいよいよ季節は秋になります。

さて今日は夏の京の風物詩と京都人について「あの世とこの世」の考え方を書いて見たいと思います。
なお、この記事は入江敦彦さんの京都人だけが知っているを参考にしました。
入江さんは著書の中で次のように書いています。
「京都に散在するあの世の多さに気がついたのはいつごろだっただろう。それらはあまりにあたりまえに私たちの周囲に散在していたため忘れられた極楽であり、見過ごされていた地獄である。」と。
京都は歴史上、かずかずの為政者たちの思いが深く絡まっている所です。
当然、奸計や無実の罪で非業の死をとげた者。
名もない多くの民衆の思いがあちこちにそれこそ散在しています。
したがって為政者は、非業の死をとげた者達の霊を慰めなければならない。
どうぞ怨霊となって祟らないでください、と祈らなければならなかったのです。
鎮魂の儀式はやがて民衆にも広がっていきます。
誰がいつ始めたかも定かではないがお盆の最後の日の送り火。
それは京都の人にとっては、祖先の霊を思いながら霊を冥界に送ると言うような生易しいものではありません。
五山送り火。京の人は「地獄のかまが開いた」と言い表し霊を冥界に送る。
祟らないで、と祈りながら。
五山送り火のような壮大な装置を使ってまで霊を送り返す必要があると言うのです。
それだけでは足りなくて、精霊流しに除夜の鐘。
そして著者はさらに言う。
どうしてこうも京の霊は祟るのか?
それは仏教と神道の考え方の違いだとみています。
仏教は死ねば極楽に行けます。ところが神道には極楽という考え方はありません。
あるのは黄泉です。
なにしろイザナギさえ黄泉の国に落ちたのだから。
しかし、永遠に黄泉の国の住人かというとそうではなくてこの世の人間が祭りで慰めることにより、次第に個性がなくなり常世と呼ばれる混沌に還る、と言うのが神道的な「死生観」であり、それがえいえいと京都人に受け継がれているというのです。
平安末期、仏教の布衍とともに神道的な考え方は仏教的考えと混合していき、
それは民衆は地蔵信仰とともにあの世とこの世が地続きになっていったそうです。
京の人は霊に対して畏敬と親しみを持つことで、
長いながい戦乱をくぐり抜けてきたのでしょうか???

そんな歴史を背負ったお盆最後の行事が今、京の町のあちこちで取り行われています。

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2006年8月23日 (水)

延暦寺

143972038_c217cf99af 滋賀県大津市坂本本町にある 比叡山には延暦寺という名の建物は実はありません。
比叡山そのものが延暦寺を表わしているのです。
その寺域は広大で、標高848mの比叡山の山中に数百の建物があり、東塔・西塔・横川(よかわ)の三地域に分かれる。

延暦寺巡拝券によると以下のとおりです。
〜〜〜〜〜〜〜〜
延暦寺は、今から凡そ1200年前、伝教大師最澄が京の都の東北である鬼門を護り万民の豊楽を祈って根本中堂に不滅の法灯を掲げ、以来幾万の高徳名僧が三塔(東塔・西塔・横川)十六谷の三千の堂舎にこもって血のにじむ修行を重ねて来た霊山である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
比叡山そのものは、『古事記』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われます。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智顗(ちぎ)の著述になる「法華三大部」(「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」)を研究しました。
そして延暦7年(788年)、最澄は現在の根本中堂の位置に薬師堂、文殊堂、経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(824年)のことでした。
時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになったのです。
wikipediaによれば最澄の教え、苦難が以下のように書かれています。
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延暦21年(802年)、最澄は還学生(げんがくしょう、短期海外研修生)として、唐に渡航することが認められ。翌々年、遣唐使船で唐に渡った。最澄は、霊地・天台山では天台大師智顗(ちぎ)直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。また、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師より禅を学んでいる。このように天台教学、戒律、密教、禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあるといえる。
延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏(悟りを開く)することができるというもので、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのである。最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。このような菩薩僧を養成するための大乗戒壇の設立は、最澄の死後7日目にしてようやく許可となった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
こうして創建された延暦寺。
その後著名な僧達を次々と輩出。
源信(恵心僧都、942-1016)『往生要集』の著者
良忍(聖応大師、1072年-1132年)融通念仏の唱導者
法然(1133年-1212年)日本の浄土宗の開祖
栄西(1141年-1215年)日本の禅宗の開祖
道元(1200年-1253年)曹洞宗の開祖
親鸞(1173年-1262年)浄土真宗の開祖
日蓮(1222年-1282年)日蓮宗の開祖

こうして不動の地位を得た延暦寺。

その権力、武力は年を追うごとに強まり、
強大な権力で院政を行った白河法皇をしては「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言わしめました。
しかし織田信長の焼き討ちなどに合い、現在まで三回焼失をしています。

見所は「三塔十六谷二別所」です。
東塔-北谷、東谷、南谷、西谷、無動寺谷
西塔-東谷、南谷、南尾谷、北尾谷、北谷
横川-香芳谷、解脱谷、戒心谷、都率谷、般若谷、飯室谷
別所-黒谷、安楽谷

ここでは東塔のみ紹介します。
・東塔地区における中心的な建物は延暦寺の総本堂にあたる「根本中堂」です。
「根本中堂」は日本で三番目に大きい木造建築であるといわれています。
   国宝。
    本尊の前には菊の紋章の描かれている六角形の三個の釣灯籠があり、菜種油が燃焼するほのかな光を放っている。これが延暦寺創始以来1200年間消えたことがないという「不滅の法灯」として有名です。

・文殊楼
    ここには中国五台山の霊石が埋められているといわれている。急勾配の階段を上がった楼上には文殊菩薩が祀られてい増す。

・大講堂
    ここは僧侶の学問修行のための道場とされている。 
 「大講堂」の本尊は大日如来であり、脇には聖徳太子、桓武天皇をはじめ、法然、親鸞、道元、日蓮など、一宗の祖師の木像が安置されています。
重要文化財に指定。

・戒壇院
天台宗の僧が住職になるための必修の条件である大乗戒(規律)を受ける堂で、年に一度授戒会が行われる。このためか「戒壇院」比叡山中でも最も重要な堂の一つ。
重要文化財に指定。

・阿弥陀堂
    ここは滅罪回向の道場であり、全国壇信徒各家の先祖を祀っている。

・法華等持院
・山王院
・浄土院
・無動寺谷

なおこの記事は延暦寺公式サイトとwikipediaを中心に調べました。

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2006年8月22日 (火)

京の六地蔵巡り

京都では、夏も終わりに近づいた8月22日、23日の両日は「六地蔵巡り」と言う行事が800年以上に渡り続いています。
都の出入り口(旧街道沿い)六ヶ所に祀られた地蔵菩薩を巡拝 して、罰障消滅、家内安全、無病息災、家運繁栄を祈願するのです。
さて、京の六ヶ所の出入り口(街道沿い)とは、以下のとおりです。
1.奈良街道・六地蔵の大善寺(伏見六地蔵)
2.西国街道・上鳥羽の浄禅寺(鳥羽地蔵)
3.丹波街道・桂の地蔵寺(桂地蔵)
4.周山街道・常盤の源光寺(常盤地蔵)
5.若狭街道・鞍馬口の上善寺(鞍馬口地蔵)
6.東海道・四ノ宮の徳林庵(山科地蔵)

この行事の起源は色々ありますが、一般には平安時代の初め小野篁(おのたかむら)が一度息絶え冥土へ行き、そこで生身の地蔵菩薩を拝して甦った後に、木幡山(こばたやま)の一本の桜の大木から六体の地蔵尊像を刻み、木幡の里(大善寺)に祀ったものと言う謂れが一般的であります。
さてこの縁起には、ふたつの説話がうまく取り入れられたものだと言われています。すなわち、小野篁の冥官説話と、西光法師の六地蔵造仏説話です。
六地蔵を造ったとされる小野篁は、『江談抄』『今昔物語集』の説話集の中で閻魔庁に仕える冥官として働き、この世とあの世を往復したとされています。そのため篁の造仏の伝承を持つ地蔵菩薩や閻魔像が多く、それらの像と並んで篁自身の像が並ぶことがあります。
また西光法師は七道の辻ごとに六体の地蔵菩薩を安置し、自己の滅罪と後世安楽を祈願したという話が『源平盛衰記』に出てきます。
この『源平盛衰記』の記事は、少なくとも鎌倉時代には、六道救済の六地蔵が、境を守護するものとして安置されていたことを示しています。
他の資料によれば、
中世の日記類には「明日六地蔵詣事」(『看聞御記』応永27年〈1420〉7月23日)などと出てきます。
また『資益王記』 (文明14年〈1482〉7月24日条)には、「参六地蔵 所謂西院 壬生 八田 屋禰葺 清和院 正親町西洞院」と、全く異なる巡拝地がでてきます。
平安後期、都では疫病が流行。
後白河天皇はこの地蔵尊像を深く信仰され皇位長久、王城守護を祈願。
また、都を往来する旅人たちの路上安全・健康、さらに広く庶民に疫病退散、福徳招来をも願われて、保元2年(1157)都の出入り口に祀るよう平清盛に勅命。清盛は西光法師に命じ、街道の入口に六角堂を建て、一体づつ分置し「廻り地蔵」と名付けました。
これにより庶民に地蔵信仰が広まり、六地蔵巡りの風習 が室町時代に始まったとされています。 近世になると、地誌類には「廻地蔵」の名前が散見し、「六地蔵縁起」とほぼ同じ内容が載せられています(『京羽二重』『日次記事』『都名所図絵』『拾遺 都名所図絵』『莵芸泥赴(つぎねふ)』『山州名勝志』『山州名跡志』など)。
その巡拝地は現在と同じ場所になっています。
江戸時代に現行の「六地蔵めぐり」が定形化する以前の様子は詳しくはわかりませんでしたが、六体の地蔵を六道にまつり、衆生の救済を願う六地蔵信仰は、貴賎をを問わず民衆にひろく流布したのではないかと考えられています。
いずれにしても、庶民の願いを込めた行事です。

今でも8月22日、23日の両日、町内の地蔵さま近くに集まり「地蔵盆」が催され、子供の無事成長を願います。
地蔵巡りは、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)に迷い苦しむ全ての人々を救済するように願って祀られた六体の地蔵菩薩を巡拝すること。
六ヶ所の地蔵寺を巡り、それぞれのお寺でいただく(買い求める)幡をお守りとして玄関先に吊るすことで、疫病退散、福徳招来などのご利益があるとされ、家運繁栄など祈願 し参拝します。
また、新しい精霊の初盆には水塔婆供養を3年間すれば 、その新しい仏様は六道の苦から免れるとされています。


平安京探偵団と言うサイトやうろちょろ京都散策というサイトを参考にして勉強しました。

 

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下鴨神社

賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は、京都市左京区にある神社で、一般には下鴨神社(しもがもじんじゃ)と言われています。
式内社、山城国一宮、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称され、両社をもって一社のような扱いをされてきました。賀茂神社両社の祭事である葵祭で有名。葵祭については別に記事にします。
上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の母の玉依姫命および玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀ることから「賀茂御祖神社」と呼ばれる。八咫烏は賀茂建角身命の化身です。
社伝では、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したと伝えられます。
西暦紀元前の崇神天皇の時代(BC90年頃)に神社の瑞垣の修造が行われたという記録があるといわれています。
また社殿が造営されたのは西暦450〜500年頃といわれているようであるが、天武天皇6年(677年)とするのが正確ではと言われています。
また一説には、天平のころに上賀茂神社から分置されたともされます。
上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷の崇敬を受け、
平安遷都の後は桓武天皇が、当神社に行幸されて以来、皇室との繋がりが強くなったといわれています。
平安京遷都以降は皇城鎮護の 神、賀茂皇大神宮と称せられるようになり、大同2年(807年)には正一位となり伊勢神宮に次ぐ地位が与えられ、伊勢神宮と同様、齊王(さいおう:神社に 奉仕する未婚の皇女)がおかれたという。より一層の崇敬を受けるようになりました。
 
見所は以下のとおりです。(いずれの建物も重要文化財指定です。)
・糺の森:
 神社は3万6千坪の広さをもつ「糺(ただす)の森」の北側に位置しており、参道はこの森の中を縦断。「糺の森」は古代の山城国の名残をとどめている自然環境とされ、国史跡に指定されている。

・森の中、参道に平行して西側に馬場が設けられており、ここで毎年5月3日には「流鏑馬(やぶさめ)神事・平騎射」が行われます。

・縁結びの御神木:
 楼門の前、楼門に向かって左側に「縁結びの御神木」があります。
 この「縁結びの御神木」の傍に祀られている下鴨神社の末社「相生社」の神威によって二本の木が一本に結ばれたといわれ、陰陽和合、縁結び、安産子育て、家内安全の御神徳の現れであるとされている。

・楼門:

御手洗社:

・「御手洗社(みたらししゃ)」
 社の前の池は「みたらしの池」とよばれ、毎年7月の土用丑の日には多くの人がこの池に足を入れ厄除け、病除けを祈るという「足つけ行事」が行われる。また、この池に湧く水の泡を人の形にかたどったのが「みたらし団子」で、ここがそれの発祥の地という。

・言社
 「えとの守り神」ともいわれ、中門の内側、幣殿の前に建てられている。
 大国主命は七つの名前を持っており、名前ごとに祀られているので七つの社になっているという。それぞれが十二支の守り神として、また、商売繁盛の神として信仰されているようである。

・本殿:
 「西本殿」には賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、「東本殿」には玉依媛命(たまよりひめのみこと)が祀られている。
国宝に指定されている。

・大炊殿・御井
 「大炊殿」はお供え物の内、主として飯、餅など穀物類を調理する場所で、「御井」はお供え物の調理に用いる水を汲む井戸であったとされている。

上賀茂神社ともども参考として神社の公式サイトやwikipediaなどを見て勉強しました。

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上賀茂神社

賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)別名を上賀茂神社と言います。
式内社、山城国一宮、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。
賀茂御祖神社(別名下鴨神社)とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称されます。
賀茂氏の祖神である賀茂別雷命(かもわけみかづちのみこと)を祀る。「別雷」は「若雷」の意味で、若々しい力に満ちた雷(神鳴り)の神という意味です。
雷(いかづち)の御神威により、厄を祓いあらゆる災難を除き給う厄除(やくよけ)明神・落雷除・電気産業の守護神として広く信仰されています。
神社社務所に寄れば、
方除は、以下のとおりです。
桓武天皇の御代に都が京都に遷されて以来、皇城鎮護の神、鬼門の守り神、総地主の神として崇められ、今日も建築関係等の方除祈願が多くあるそうです。

さて、由緒は古い。
創建については諸説ありますが、社伝では、神武天皇の御代にまで遡ります。
賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝えられています。『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよ りひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀 茂県主の一族がこれを奉斎したとのこと。丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社に祀られています。
国史では、文武天皇2年(698年)3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出。昔から皇室との関係が深かったようで、天平17年(745年)に天皇の病気治癒祈願が行われたのが関係の始まりとされている。以後、国家の重大時には必ず、奉幣・祈願が行われ、大同2年(807年)には伊勢神宮に次ぐ地位が与えられたといわれている。
794年の平安遷都の後は王城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年(807年)には最高位 である正一位の神階を受け、祭祀の主体は賀茂氏から朝廷に移りました。
そして、ついに賀茂祭は勅祭となりました。
『延喜式』では名神大社に列し、名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年 (810年)伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕。
嵯峨天皇は御杖代(みつえしろ)として皇女有智子(うちこ)内親王を初代斎王(さいおう)と定め、その制度は以来三十五代、約四百年続きました。
神社は中世になって一時衰退したらしいが、徳川幕府の庇護、信心により隆盛し、第二次大戦の終戦までは官幣大社の首位に位置していたといいます。

見所は、
・鳥居
・立砂と細殿
 二番目の鳥居をくぐると、正面に、白砂で作られたきれいな円錐形の「立砂」(盛砂)とその奥の建物「細殿(拝殿)」。
なおこの「立砂」は、ご神体である神山(後述)を形どったもので、神様が降りられる依代(よりしろ)を表しているといわれています。
鬼門などにまく清めのお砂の起源はここにあるらしい。また、料亭などに見られる盛り塩の起源もここにあるのではなかろうか。

・「細殿(拝殿)」は重要文化財。
・楼門は重要文化財に指定。
 楼門の手前に見えている朱塗りの橋は、境内を流れる「奈良(楢)の小川」の支流である小さな谷川「御物忌川(みものいみがわ)」にかかっている「玉橋」は、重要文化財に指定。この「玉橋」を渡ることは禁止されている。
・本殿、権殿 共に国宝に指定されている。
・舞殿、土屋 共に重要文化財
 「舞殿」の下を流れているのが「奈良(楢)の小川」(後述)であり、澄んだきれいな水が流れている。
なお、百人一首で有名藤原家隆の歌、『風そよぐならの小川の夕ぐれは みそぎぞ夏のしるしなりける』は、祈願者の一切の罪が祓い清められるという上賀茂神社の祭祀、夏越祓の情景を詠んだものとされています。

・その他の主な社殿
「北神饌所」。重要文化財に指定されている。
・二の鳥居の近くにある「楽屋」。
一の鳥居と二の鳥居の間にある「外幣殿」など目につく社殿。
これらは何れも重要文化財に指定。上記以外にも、上賀茂神社には多くの建築物はあるが、その殆どは重要文化財であり、楼門などと同様、寛永5年(1628年)前後に造り替えられたものであるといわれている。

葵祭については「まつり」としてまた別に書きます。


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2006年8月21日 (月)

お茶壷道中

宇治に茶の栽培を教えたのは栂尾高山寺の明恵上人。
鎌倉時代のことです。
五ケ所の万福寺あたりが発祥と言われています。
当初は栂尾の茶より格下扱いだった宇治茶。
しかし、豊臣秀吉が茶の湯を厚遇したことにより、宇治茶の地位が上がりました。徳川家康も上林家を保護したことにより宇治茶は不動の位置を納めました。 
さらに寛永10年(1633年)徳川三代将軍、家光のときに始まった宇治と江戸とのお茶壷道中。
道中は徒歩頭一人が宰領となって、茶道頭一人、茶道衆二人と若干の徒歩衆、同心衆を伴うものであったのですが、運搬する茶壺の増加につれて警備役人の人数も増え、四百名を超える大行列になり、盛大にお茶壺道中が行われていました。
「下にぃ、下にぃ」と通る行列に民衆は土下座し、少しでも粗略な態度を見せると、容赦なく罰せられたそうです。また、行列に人馬を提供するものは、農繁期に重なり、本業を投げ打って使役に従事しなければならず、庶民にとっては有り難くない道中でもあったようです。

♪ズイズイズッコロバシ胡麻味噌ズイ 茶壺に追われて 
       戸をピッシャン 抜けたーら ドンドコショ〜〜♪

童謡にかくされた庶民の思いが伝わってきます。

こうした泣く児も黙るお茶壺道中も、八代将軍、吉宗の行った享保の改革による倹約令の一つとして簡素化されました。
そして江戸から宇治に運び出す茶壺は三個に限定され、幕府も経費削減を図ったのです。

そして、毎年休みなく235回続いたお茶壺道中も、遂に慶応3年(1867年)江戸幕府の終焉によって、その役目を終えることとなります。

将軍とともに栄えた宇治茶ではありましたが、
江戸時代が終わってなお、現在でもお茶の名所として燦然と輝いています。

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2006年8月19日 (土)

宇治上神社

世界文化遺産に登録された現存最古の社殿建築は宇治の朝日山の山裾にひっそりと建っています。宇治の歴史はここから始まったとも言われています。

菟道稚郎子命(うじのわきのいらつこのみこと)・応神天皇・仁徳天皇を祀る。宇治神社と対をなし、明治維新前は両方を合わせて宇治離宮明神、八幡社と呼ばれ、宇治神社を下社・若宮とするのに対して、宇治上神社は上社・本宮と呼ばれていました。
延喜式神名帳には「宇治神社二座」とあり、それぞれ宇治神社・宇治上神社を指しています。
後に平安中期、平等院が建立されてから藤原氏の下で鎮守社として栄えました。
現存最古とされる平安時代後期の本殿が残っています。
一間社流造の小さな内殿が三棟並んでします。
左殿は菟道稚郎子命、やや小規模の中殿は応神天皇、右殿は仁徳天皇を祀っています。
これは一つの覆屋でつながれた特異な様式です。
拝殿は鎌倉時代前期の宇治離宮を移築したものといわれ、寝殿造の趣きを伝えています。
格子に板を貼った蔀戸や本屋根の軒先からひさしを突き出す縋破風(すがるはふう)と言う手法を用いて居ます。
境内にある湧き水は「桐原水」と呼ばれ、宇治七名水の一つとされ、家の神棚にそそなえるため訪れる人が多い所でもあります。。

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宇治平等院

10円玉でお馴染みの宇治平等院。
宇治神社の宇治川対岸のほとりにある平安王朝文化の粋を極めた建造物です。
もともとは時の関白、藤原頼通が61才の時、亡き父・道長の別荘を寺に改め創建したものです。
「極楽いぶかしくば宇治のお寺をうやまへ」と後の人々に謳われた平等院。
まず別業の正殿である寝殿を本堂にして大日如来を安置。
次に天喜元年(1053)、有名な阿弥陀堂建立、平等院創建当時の面影を伝える唯一の建物です。浄土式庭園の池の中島に東向きに建ち、本尊阿弥陀如来像を安置する中堂(ちゅうどう)、左右の翼廊、中堂背後の尾廊の計4棟が「平等院鳳凰堂」として国宝に指定されているものです。
中堂は入母屋造、裳階(もこし)付き。東側正面中央の扉を開放すると、建物外からも本尊阿弥陀如来の顔が拝めるようになっているのが特徴。本尊阿弥陀如来像(国宝)は仏師定朝の確証ある唯一の遺作。本尊を安置する須弥壇は螺鈿(らでん)や飾金具で装飾され、周囲の扉や壁は極彩色の絵画で飾られ、天井や柱にも彩色文様が施されていた。長押(なげし)上の壁には楽器を奏で、舞いを舞う姿の供養菩薩像の浮き彫り(現存52体)があり、本尊の頭上には精巧な宝相華文様透かし彫りの天蓋があります。。なお、「鳳凰堂」の呼称は江戸時代からで、当初は「阿弥陀堂」あるいは単に「御堂」と呼ばれていました。
世は末法に入ったとされ、疫病、飢饉があちこちで見られ人の心は荒みました。
こんな時代だからこそ阿弥陀如来の住む極楽浄土への思いは深い物があったようで平等院には、鳳凰堂以外にも法華堂、多宝塔、五大堂、不動堂などがありましたが、建武3年(1336年)の楠木正成と足利氏の軍勢の戦いの兵火をはじめ、度重なる災害により上記の堂塔は廃絶し、鳳凰堂のみが奇跡的に災害をまぬがれて存続しました。
庭園は史跡名勝庭園に指定されている平安時代の遺構。
ここにも極楽への強い思いが伺われます。
中堂内の絢爛たる空間、そして伽藍、庭、池、全てが極楽浄土の光景なのです。
現在の平等院は、浄土宗の浄土院と、天台宗系の最勝院(ともに鳳凰堂の西側にある)という2つの寺院が共同で管理しています。

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2006年8月18日 (金)

宇治

今日は世界遺産の宇治平等院と宇治上神社を中心に宇治について考察・勉強をしていきます。

まず地理的には京都の南、奈良との間に位置しています。
宇治川流域に形成された集落です。
地名の由来は古く応神天皇の四番目の皇子である菟道若郎子(うじのわかいらつこ)がここに宮殿をつくって住まわれたことによるというものが一般的でした。
が地名研究が進むにしたがい、「菟道」と言う字だけではなく、「鵜路」「宇遅」「宇知」などいろいろな字が当てられてきたことが分かりました。
さらに菟道若郎子が宮殿を建てて住むより前から「うじ」という地名はあったから、菟道若郎子に由来するものではないと言う研究者は「うち」と言う意味からではないかと主張。
その他には「兎に関する民俗と伝説」のなかで、文字どおりに解釈すべきだというものや「道」「路」に由来があると見たほうがいいと言うことで、「一番いい道」と言う意味だという説もあります。
さてこの様に歴史の古い宇治。
実際、政治や文学の舞台になり華やかな歴史を今に伝えています。
またお茶でも有名な宇治です。
wikipediaによれば歴史は以下のとおりです。
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* 646年 元興寺の僧道登が宇治橋を架ける
    * 672年 近江朝、宇治橋守に命じて大海人皇子の私糧運送を妨害させる
    * 1052年 藤原頼通、宇治に平等院を建立する
    * 1133年 宇治離宮祭が行われる
    * 1180年 以仁王が源頼政と組んで挙兵、平等院で平家軍と戦い戦死
    * 1183年 宇治川の戦い。源義経、木曽義仲軍を破る
    * 1221年 承久の乱。鎌倉方、宇治川から伏見を攻める
    * 1286年 叡尊、宇治橋大改修の供養を修して、亀山・後深草上皇が臨幸
    * 1486年 山城国一揆衆、宇治平等院に集まり国中の掟を定める
    * 1573年 足利義昭、宇治の槙島城にて挙兵するも失敗、織田信長に追放される
    * 1951年(昭和26年)
          o 3月1日、久世郡宇治町、槇島村、小倉村、大久保村、宇治郡東宇治町の2町3村が合併して、宇治市が誕生する。
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実は宇治橋を架けたのは僧道登か道昭かという謎があるのです。
「瀬田の唐橋」と「山崎橋」と共に、日本三古橋の一つに数えられる宇治橋。
僧道登か道昭か、あるいは二人で架けたのか?
説はいろいろありますが、
この宇治橋から眺める風景は今も昔も情緒あふれ人々の心をとらまえて離さない物があります。
宇治橋は古今和歌集や紫式部の源氏物語に登場する。 また、能の「鉄輪」で登場する橋姫伝説でも有名であるのは当然と言えば当然なのでしょう。

では次に平等院を見ていきます。

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2006年8月17日 (木)

龍安寺

日本庭園の代表的存在とされている石庭がやはり一番の見所の龍安寺。
臨済宗妙心寺派の禅寺です。
もともとは円融天皇建立の円融時がここにはありました。天皇崩御で寺が衰退。
その後、藤原実能が山荘を営み、そこに御堂を建て徳大寺と呼びました。
さらに細川勝元が譲り受け大雲山龍安寺を創建したと言われています。

さて、有名な石庭は方丈南庭で15個の石を巧みに配置した虎の子渡し...と呼ばれる名庭です。
幅25メートル、奥行10メートルほどの敷地に白砂を敷き詰め、帚目を付け、15個の石を5か所に点在させただけのシンプルな庭です。
近世の地誌類には、室町幕府に仕えた相阿弥の作庭と伝えるが、作者、作庭年代、表現意図ともに諸説あって未だ定かではありません。
15個の石は、庭をどちらから眺めても、必ず1個は他の石に隠れて見えないように設計されているということです。
この庭には近世以来「虎の子渡しの庭」の別称があります。
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虎は、3匹の子どもがいると、そのうち1匹は必ずどう猛で、子虎だけで放っておくと、そのどう猛な子虎が他の子虎を食ってしまうという。そこで、母虎が3匹の虎を連れて大河を渡る時は次のようにする。母虎はまず、どう猛な子虎を先に向こう岸に渡してから、いったん引き返す。次に、残った2匹のうち1匹を連れて向こう岸に行くと、今度は、どう猛な子虎だけを連れて、ふたたび元の岸に戻る。その次に、3匹目の子虎を連れて向こう岸へ渡る。この時点で元の岸にはどう猛な子虎1匹だけが残っているので、母虎は最後にこれを連れて向こう岸へ渡る。つまり、3匹の子虎を渡すのに3往復半するわけである。
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龍安寺の石庭はこの様子を表わしたものだというのです。
方丈の北側には水戸光圀寄進の知足のつくばいが有ります。
茶室に入る前に手や口を清めるための手水を張っておく石のことをつくばいと言います。ここには「吾唯知足」(われ、ただ足るを知る)の4字が刻まれているが、水を溜めておくための中央の四角い穴が「吾唯知足」の4つの漢字の「へん」や「つくり」の「口」として共有されています。

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二条城

実は、日本の歴史書において「二条城」と呼ばれたものは、私たちが今、知っている二条城以外にもありました。
・室町幕府第13代将軍足利義輝の居城。
・織田信長によって、室町幕府第15代将軍足利義昭の居城として作られた城。
・織田信長が、京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸。
そして徳川家康が、京に滞在中の宿所として作った城で今、現存しているものです。
桃山文化の粋が結集されていると言われる二条城は、

1603年築城。
1626年、三代将軍家光が後水尾天皇を迎えるために大改修が行われ大体いまの体裁を整えました。

二条城の北側には京都所司代、
南と西には京都東西町奉行が配置されていました。
今は痕跡は無く御池通り大宮下ルに二条陣屋が残るのみです。

さて見所はなんといっても国宝の二の丸御殿。
桃山時代武家風書院造りの代表的なもので、車寄につづいて、城へ参上した大名の控室の「遠侍」、
参上した大名が老中職と挨拶を交した「式台」、
将軍が外様大名に対面した部屋で、慶応3年(1867)には十五代将軍慶喜が大政奉還を発表し、徳川幕府265年の幕を閉じた歴史的な部屋でもある「大広間」、
「蘇鉄の間」・「黒書院」・将軍の居間と寝室の「白書院」の6棟が雁行に立ちならんでいます。部屋数33、畳は800畳余り敷かれています。
各部屋の襖絵は狩野派の手によるもので、部屋の目的に応じて描かれています。また欄間の彫刻、飾金具、長押(なげし)に打たれた花熨斗形(はなのしがた)の釘隠しなどは、金飾あざやかに豪華を極めています。
(ガイドブックより引用)

次に特別名勝の二の丸庭園。
小掘遠州の作庭と言われ、池泉回遊式庭園。
大広間から眺められるよう造られたものです。中央に蓬莱島、左右に鶴島・亀島の三島を置き、四つの橋を架け、西北隅に滝を落とし、池の汀に多くの岩石を配しています。別名「八陣の庭」とも言われています。

また、
創建時の天守は、『洛中洛外図屏風』に、城の北西部分(現在の清流園の辺り)に五重の天守として描かれていました。
この天守は、家光の代に行われた寛永の大改修において、淀城に移築されました。これに代わり、新たに作られた本丸の南西隅には、前年に廃城となった伏見城の天守が移築されたそうです。

清流園は江戸初期の豪商角倉了以の屋敷から建物の一部と庭石を譲り受け、
さらに銘石を、茶室を加えて1965年に完成。

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金閣寺

金閣寺を調べると、以下の通りです。
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鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院。寺名は足利義満の法名にちなむ。通称金閣寺(きんかくじ)、山号は北山(ほくざん)。1994年に古都京都の文化財として世界遺産に登録された。金閣には「この建物は金閣であり、金閣寺ではありません」との但し書きの看板が立っている。
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つまり正式名は山号を「北山」、寺号を鹿苑寺と言うのです。
一般に「金閣寺」の由来となった金閣は、漆地に金箔を押した初層・二層・三層からなる三層の建物で正式には舎利殿と称するものです。
初層・二層・三層のそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築でも有名です。
では、ちょっと見ていきましょう。
初層は寝殿造風で「法水院」。
二層は住宅風(武家造)の「潮音洞」。
三層は禅宗様の仏殿風で仏舎利を安置し「究竟頂」(くっきょうちょう)。
屋根はさわらの薄い板を何枚も重ねた「こけら葺き」で上には目出度いと言われる鳳凰が飾られています。

もともとは鎌倉初期、西園寺公経の別荘でした。
これを、1397年(応永4年)、足利義満が河内国の領地と交換に前身の西園寺を譲り受け、改築・新築によって作り直した北山殿です。そして義満はここで一切の政務を行ったそうです。

義満の住む北御所、夫人である日野康子の南御所、後円融天皇の母崇賢門院の御所からなっていました。

義満の死後、夫人が住んでいましたが、夫人没後は南禅寺、建仁寺に大半が移されました。そして義持によって北山殿は舎利殿を残して解体され、禅寺とされて鹿苑寺と名付けられました。

庭園には金閣の前に鏡湖池を中心に大小様々の島や石が配置されています。
この石は守護大名が献納したものです。

方丈の北には京都三松の一つ「陸舟の松」があります。義満自らが植えたと言われています。

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古都京都の文化財

1994年、12月15日。
17社・城が「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されました。

1 高山寺
2 賀茂別雷神社
3 賀茂御祖神社
4 竜安寺
5 延暦寺
6 鹿苑寺
7 仁和寺
8 慈照寺
9 天龍寺
10二条城
11西芳寺
12清水寺
13本願寺
14教王護国寺
15醍醐寺
16宇治上神社
17平等院 

これからは、この神社、お寺、城について勉強していきます。

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2006年8月16日 (水)

五山送り火

今日は五山送り火の日です。
京都の人々にとって、大文字は夏の風物詩です。
さて、この大文字。
実はその起源や由来が謎に包まれていて定説はありません。
江戸時代初期から、いろいろと研究されはじめられましたが、まだ起源にまでは到達していないようです。
しかし、現在有力説は弘法大師と足利義正説です。
まず弘法大師説。京都人は「弘法さんがはじめはったんや」と代々、伝承しながら弘法さんと行事と双方への愛着を示していました。
平安時代初期の弘仁年間(810〜824)に弘法大師によって始められたというもの。
その理由としては、
(1)代々、大文字の送り火をおこなっている浄土村は大師ゆかりの土地である。
(2)大文字の山自体も大師の修行の地の一つであった。
(3)あの大の字の筆跡は筆の名匠、弘法大師のものである。
(4)大文字山の斜面はかなりの高低差のあるデコボコしたもので、そこに地上から綺麗に見える大の字を設置するのは大師にしか出来なかったのではないか。などがあります。なお京都の人の間では「弘法さんがはじめはったんや」と代々、伝承されています。
もうひとつの代表的なものに「室町時代中期に足利義政が始めた」というもの。
その理由は、「大文字の送り火の正面は足利将軍家の旧室町幕府跡に向いている」という場所についてのものです。つまり一番良く見ることが出来るということでしょうか?
こうした起源とは別に「あくまでも民衆による自発的な行為だったので記録されなかったのでは」とも言われています。
大文字の送り火については、公家の舟橋秀腎の日記「慶長目件録」の慶長八年(1603年)の7月16日のところに「鴨川に出て山々の送り火を見物した」と記されているのが最初です。
しかし、この日記では「火が「大」の形だったかどうかも定かではありません。1600年代後半にやっと、地誌に「浄土寺には大文字…」の記述が現れてきます。
送り火の成立を室町後期と推定している研究者によればお盆の風習と併せて考えることが重要です。
もともとお盆とは中国から伝来された仏教行事のひとつ盂蘭盆(うらぼん)の略で、日本では盂蘭盆会(うらぼんえ)とも言われています。
日本書紀には、「齋明天皇が初めて行った」と伝えています。
8月13日に迎え火を燃やし祖先の霊を我が家に迎え、
15日か16日に送り火を燃やし祖先の霊が黄泉の国(よみのくに)へと帰るのを送るのが日本でのお盆の習わしで、15日がお盆当日となります。この迎え火と送り火の事を、おもに門辺で燃やしていたところから門火と言います。大文字の送り火も、この門火のひとつとされています。
そして鎌倉期に芽生えた集落ごとの自治体制が安定し、地域ごとの力が強まります。盆踊りが生まれるなど盆行事が盛大になり、
火をたいて祖先の霊を鎮める行事「万灯(まんどう)」も、家庭から地域へと広がりました。この大規模化した「万灯」が送り火の原型ではないかと研究者は考えています。
「万灯」が送り火へと巨大化した背景に、度重なる戦乱で生まれた怨霊(おんりょう)への恐怖があったとみるのも一理あります。
特に応仁の乱が終わった1477(文明7)年には、地震、暴風雨、洪水、火災が続発した。「都の人々にとっては怨霊のたたり以外には考えられず、急速に高まった危機感が『万灯』を巨大化させ、送り火に発展したのでは」と言うことです。
祖先の霊を冥府へ送る小さな灯火(ともしび)が送り火の原型だったとすれば、それはなぜ「大」の形をとるようになったのか。
諸説はいろりろありますが、定説には至りません。
一般的には、次のような説が有力です。
(1)もともと大という字は、星をかたどったものであり、仏教でいう悪魔退治の五芳星の意味があったのではないか。
(2)一年を通して位置の変わらぬ北極星(北辰)は神の化身とみなされており、その北極星を象った大の字を、同じく動かぬ山に灯したのが、そもそもの大文字送り火の起源ではないか。
(3)弘法大師は、大の字型に護摩壇を組んでいたところから、大の字にしたのではないか。などがあります。
萬燈会の始まりは963(応和3)年夏。
「大」は地、水、火、風の四元素に空を加えて大自然を表した「五大」を意味し、自然への畏敬(いけい)と祖先をうやまう気持ちを象徴しているという。研究者には、この「大」の意味が次第に民衆の間に浸透し、送り火の「大」のヒントになったとする向きもある。なお京都では、男の子が生まれると、その子の額に大の字を書き、宮参りをするという風習が残っております。
なお大文字焼きの謎ということで、
現在では点火されなくなってしまった五つの送り火があります。
その場所は「い」は市原、「一」は鳴滝、「蛇」は北嵯峨、「長刀」は観空寺村にあったとされています。しかし「竿に鈴」は大正初期まで点火されていたにもかかわらず、その場所が一乗寺だったのか、静原だったのか、西山(松尾山)だったのか、もうすでに明確でなくなってきています。

古都の夏を焦がす五山送り火。
謎に包まれながらも、明々と夜空に浮かぶ火の文字は、
亡くなった方々への思いと、今生きている事の意味を交錯させながら燃え続けるのでしょうか???


なお京都検定で五山送り火に関しては、
以下の問題があります。

1五山送り火とは何か?

2五山送り火はいつ行われるか?

3五山送り火で松ヶ崎西山にともされる字は?

4五山送り火で鳥居形がともされる山は?

5五山送り火の大の字の第一画は何メートルか?

6五山送り火で最後に点火されるのは?

答えは順に

・盂蘭盆会の魂送り
・八月十六日
・妙
・曼荼羅山
・80メートル
・鳥居形

「京都新聞」、京都府のホームページなどを参考に致しました。

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松上げ

昨日、8月15日は花背の松上げの日でした。
松明を上げるという意味の松上げは文字通り「火の祭り」です。

松上げは、火の守護神として知られる、京の都・洛西の愛宕神社信仰の祈りが込められた行事です。
福井の小浜を起点として、南川を遡上して名田庄村に入り、周山街道の京都府京北町、美山町を経て、愛宕神社へと「松上げの道」と呼ばれる「火の道」があります。さらにこの道は、奈良東大寺に至ると言うことです。
松上げの神事がいつから、どのようにして始められたかは定説がないそうです。
花背の松上げ(八桝町)を皮切りに、久多の松上げ(毎年8月23日、24日は美山町の松上げ、小塩の上げ松(京北町)、広河原の松上げ、雲ケ畑の松上げがあります。

「火」への畏敬の念と自然との融合。
そして恵みを願い、祈った先祖達の思いに心を寄せながら、
古都は次第に秋へと粧いを変えていくのでしょうか?

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2006年8月15日 (火)

古都周囲物語のはじまり

京都は面白い。
実に面白い。
古い物と新しい物がこの町には混在していて、
バランス良く調和されています。
勿論、ミスマッチなところもいっぱいあるのですが、、、
それがまた楽しい。

と、言うことで、
しばらく京都検定の問題を中心に、
古都周囲のあれこれを拾い集めてみようか、と思い
ブログを立ち上げました。

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