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2006年8月22日 (火)

上賀茂神社

賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)別名を上賀茂神社と言います。
式内社、山城国一宮、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。
賀茂御祖神社(別名下鴨神社)とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称されます。
賀茂氏の祖神である賀茂別雷命(かもわけみかづちのみこと)を祀る。「別雷」は「若雷」の意味で、若々しい力に満ちた雷(神鳴り)の神という意味です。
雷(いかづち)の御神威により、厄を祓いあらゆる災難を除き給う厄除(やくよけ)明神・落雷除・電気産業の守護神として広く信仰されています。
神社社務所に寄れば、
方除は、以下のとおりです。
桓武天皇の御代に都が京都に遷されて以来、皇城鎮護の神、鬼門の守り神、総地主の神として崇められ、今日も建築関係等の方除祈願が多くあるそうです。

さて、由緒は古い。
創建については諸説ありますが、社伝では、神武天皇の御代にまで遡ります。
賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝えられています。『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよ りひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀 茂県主の一族がこれを奉斎したとのこと。丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社に祀られています。
国史では、文武天皇2年(698年)3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出。昔から皇室との関係が深かったようで、天平17年(745年)に天皇の病気治癒祈願が行われたのが関係の始まりとされている。以後、国家の重大時には必ず、奉幣・祈願が行われ、大同2年(807年)には伊勢神宮に次ぐ地位が与えられたといわれている。
794年の平安遷都の後は王城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年(807年)には最高位 である正一位の神階を受け、祭祀の主体は賀茂氏から朝廷に移りました。
そして、ついに賀茂祭は勅祭となりました。
『延喜式』では名神大社に列し、名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年 (810年)伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕。
嵯峨天皇は御杖代(みつえしろ)として皇女有智子(うちこ)内親王を初代斎王(さいおう)と定め、その制度は以来三十五代、約四百年続きました。
神社は中世になって一時衰退したらしいが、徳川幕府の庇護、信心により隆盛し、第二次大戦の終戦までは官幣大社の首位に位置していたといいます。

見所は、
・鳥居
・立砂と細殿
 二番目の鳥居をくぐると、正面に、白砂で作られたきれいな円錐形の「立砂」(盛砂)とその奥の建物「細殿(拝殿)」。
なおこの「立砂」は、ご神体である神山(後述)を形どったもので、神様が降りられる依代(よりしろ)を表しているといわれています。
鬼門などにまく清めのお砂の起源はここにあるらしい。また、料亭などに見られる盛り塩の起源もここにあるのではなかろうか。

・「細殿(拝殿)」は重要文化財。
・楼門は重要文化財に指定。
 楼門の手前に見えている朱塗りの橋は、境内を流れる「奈良(楢)の小川」の支流である小さな谷川「御物忌川(みものいみがわ)」にかかっている「玉橋」は、重要文化財に指定。この「玉橋」を渡ることは禁止されている。
・本殿、権殿 共に国宝に指定されている。
・舞殿、土屋 共に重要文化財
 「舞殿」の下を流れているのが「奈良(楢)の小川」(後述)であり、澄んだきれいな水が流れている。
なお、百人一首で有名藤原家隆の歌、『風そよぐならの小川の夕ぐれは みそぎぞ夏のしるしなりける』は、祈願者の一切の罪が祓い清められるという上賀茂神社の祭祀、夏越祓の情景を詠んだものとされています。

・その他の主な社殿
「北神饌所」。重要文化財に指定されている。
・二の鳥居の近くにある「楽屋」。
一の鳥居と二の鳥居の間にある「外幣殿」など目につく社殿。
これらは何れも重要文化財に指定。上記以外にも、上賀茂神社には多くの建築物はあるが、その殆どは重要文化財であり、楼門などと同様、寛永5年(1628年)前後に造り替えられたものであるといわれている。

葵祭については「まつり」としてまた別に書きます。


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