2006年8月24日 (木)

地蔵盆

京都では八月も20日が過ぎると各町内で地蔵盆が行われます。
22〜23日は六地蔵巡り
23〜24日は化野念仏寺千灯火供養などが有名です。
あるいは雲ケ畑や広河原では松上げが行われいよいよ季節は秋になります。

さて今日は夏の京の風物詩と京都人について「あの世とこの世」の考え方を書いて見たいと思います。
なお、この記事は入江敦彦さんの京都人だけが知っているを参考にしました。
入江さんは著書の中で次のように書いています。
「京都に散在するあの世の多さに気がついたのはいつごろだっただろう。それらはあまりにあたりまえに私たちの周囲に散在していたため忘れられた極楽であり、見過ごされていた地獄である。」と。
京都は歴史上、かずかずの為政者たちの思いが深く絡まっている所です。
当然、奸計や無実の罪で非業の死をとげた者。
名もない多くの民衆の思いがあちこちにそれこそ散在しています。
したがって為政者は、非業の死をとげた者達の霊を慰めなければならない。
どうぞ怨霊となって祟らないでください、と祈らなければならなかったのです。
鎮魂の儀式はやがて民衆にも広がっていきます。
誰がいつ始めたかも定かではないがお盆の最後の日の送り火。
それは京都の人にとっては、祖先の霊を思いながら霊を冥界に送ると言うような生易しいものではありません。
五山送り火。京の人は「地獄のかまが開いた」と言い表し霊を冥界に送る。
祟らないで、と祈りながら。
五山送り火のような壮大な装置を使ってまで霊を送り返す必要があると言うのです。
それだけでは足りなくて、精霊流しに除夜の鐘。
そして著者はさらに言う。
どうしてこうも京の霊は祟るのか?
それは仏教と神道の考え方の違いだとみています。
仏教は死ねば極楽に行けます。ところが神道には極楽という考え方はありません。
あるのは黄泉です。
なにしろイザナギさえ黄泉の国に落ちたのだから。
しかし、永遠に黄泉の国の住人かというとそうではなくてこの世の人間が祭りで慰めることにより、次第に個性がなくなり常世と呼ばれる混沌に還る、と言うのが神道的な「死生観」であり、それがえいえいと京都人に受け継がれているというのです。
平安末期、仏教の布衍とともに神道的な考え方は仏教的考えと混合していき、
それは民衆は地蔵信仰とともにあの世とこの世が地続きになっていったそうです。
京の人は霊に対して畏敬と親しみを持つことで、
長いながい戦乱をくぐり抜けてきたのでしょうか???

そんな歴史を背負ったお盆最後の行事が今、京の町のあちこちで取り行われています。

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2006年8月22日 (火)

京の六地蔵巡り

京都では、夏も終わりに近づいた8月22日、23日の両日は「六地蔵巡り」と言う行事が800年以上に渡り続いています。
都の出入り口(旧街道沿い)六ヶ所に祀られた地蔵菩薩を巡拝 して、罰障消滅、家内安全、無病息災、家運繁栄を祈願するのです。
さて、京の六ヶ所の出入り口(街道沿い)とは、以下のとおりです。
1.奈良街道・六地蔵の大善寺(伏見六地蔵)
2.西国街道・上鳥羽の浄禅寺(鳥羽地蔵)
3.丹波街道・桂の地蔵寺(桂地蔵)
4.周山街道・常盤の源光寺(常盤地蔵)
5.若狭街道・鞍馬口の上善寺(鞍馬口地蔵)
6.東海道・四ノ宮の徳林庵(山科地蔵)

この行事の起源は色々ありますが、一般には平安時代の初め小野篁(おのたかむら)が一度息絶え冥土へ行き、そこで生身の地蔵菩薩を拝して甦った後に、木幡山(こばたやま)の一本の桜の大木から六体の地蔵尊像を刻み、木幡の里(大善寺)に祀ったものと言う謂れが一般的であります。
さてこの縁起には、ふたつの説話がうまく取り入れられたものだと言われています。すなわち、小野篁の冥官説話と、西光法師の六地蔵造仏説話です。
六地蔵を造ったとされる小野篁は、『江談抄』『今昔物語集』の説話集の中で閻魔庁に仕える冥官として働き、この世とあの世を往復したとされています。そのため篁の造仏の伝承を持つ地蔵菩薩や閻魔像が多く、それらの像と並んで篁自身の像が並ぶことがあります。
また西光法師は七道の辻ごとに六体の地蔵菩薩を安置し、自己の滅罪と後世安楽を祈願したという話が『源平盛衰記』に出てきます。
この『源平盛衰記』の記事は、少なくとも鎌倉時代には、六道救済の六地蔵が、境を守護するものとして安置されていたことを示しています。
他の資料によれば、
中世の日記類には「明日六地蔵詣事」(『看聞御記』応永27年〈1420〉7月23日)などと出てきます。
また『資益王記』 (文明14年〈1482〉7月24日条)には、「参六地蔵 所謂西院 壬生 八田 屋禰葺 清和院 正親町西洞院」と、全く異なる巡拝地がでてきます。
平安後期、都では疫病が流行。
後白河天皇はこの地蔵尊像を深く信仰され皇位長久、王城守護を祈願。
また、都を往来する旅人たちの路上安全・健康、さらに広く庶民に疫病退散、福徳招来をも願われて、保元2年(1157)都の出入り口に祀るよう平清盛に勅命。清盛は西光法師に命じ、街道の入口に六角堂を建て、一体づつ分置し「廻り地蔵」と名付けました。
これにより庶民に地蔵信仰が広まり、六地蔵巡りの風習 が室町時代に始まったとされています。 近世になると、地誌類には「廻地蔵」の名前が散見し、「六地蔵縁起」とほぼ同じ内容が載せられています(『京羽二重』『日次記事』『都名所図絵』『拾遺 都名所図絵』『莵芸泥赴(つぎねふ)』『山州名勝志』『山州名跡志』など)。
その巡拝地は現在と同じ場所になっています。
江戸時代に現行の「六地蔵めぐり」が定形化する以前の様子は詳しくはわかりませんでしたが、六体の地蔵を六道にまつり、衆生の救済を願う六地蔵信仰は、貴賎をを問わず民衆にひろく流布したのではないかと考えられています。
いずれにしても、庶民の願いを込めた行事です。

今でも8月22日、23日の両日、町内の地蔵さま近くに集まり「地蔵盆」が催され、子供の無事成長を願います。
地蔵巡りは、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)に迷い苦しむ全ての人々を救済するように願って祀られた六体の地蔵菩薩を巡拝すること。
六ヶ所の地蔵寺を巡り、それぞれのお寺でいただく(買い求める)幡をお守りとして玄関先に吊るすことで、疫病退散、福徳招来などのご利益があるとされ、家運繁栄など祈願 し参拝します。
また、新しい精霊の初盆には水塔婆供養を3年間すれば 、その新しい仏様は六道の苦から免れるとされています。


平安京探偵団と言うサイトやうろちょろ京都散策というサイトを参考にして勉強しました。

 

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2006年8月16日 (水)

五山送り火

今日は五山送り火の日です。
京都の人々にとって、大文字は夏の風物詩です。
さて、この大文字。
実はその起源や由来が謎に包まれていて定説はありません。
江戸時代初期から、いろいろと研究されはじめられましたが、まだ起源にまでは到達していないようです。
しかし、現在有力説は弘法大師と足利義正説です。
まず弘法大師説。京都人は「弘法さんがはじめはったんや」と代々、伝承しながら弘法さんと行事と双方への愛着を示していました。
平安時代初期の弘仁年間(810〜824)に弘法大師によって始められたというもの。
その理由としては、
(1)代々、大文字の送り火をおこなっている浄土村は大師ゆかりの土地である。
(2)大文字の山自体も大師の修行の地の一つであった。
(3)あの大の字の筆跡は筆の名匠、弘法大師のものである。
(4)大文字山の斜面はかなりの高低差のあるデコボコしたもので、そこに地上から綺麗に見える大の字を設置するのは大師にしか出来なかったのではないか。などがあります。なお京都の人の間では「弘法さんがはじめはったんや」と代々、伝承されています。
もうひとつの代表的なものに「室町時代中期に足利義政が始めた」というもの。
その理由は、「大文字の送り火の正面は足利将軍家の旧室町幕府跡に向いている」という場所についてのものです。つまり一番良く見ることが出来るということでしょうか?
こうした起源とは別に「あくまでも民衆による自発的な行為だったので記録されなかったのでは」とも言われています。
大文字の送り火については、公家の舟橋秀腎の日記「慶長目件録」の慶長八年(1603年)の7月16日のところに「鴨川に出て山々の送り火を見物した」と記されているのが最初です。
しかし、この日記では「火が「大」の形だったかどうかも定かではありません。1600年代後半にやっと、地誌に「浄土寺には大文字…」の記述が現れてきます。
送り火の成立を室町後期と推定している研究者によればお盆の風習と併せて考えることが重要です。
もともとお盆とは中国から伝来された仏教行事のひとつ盂蘭盆(うらぼん)の略で、日本では盂蘭盆会(うらぼんえ)とも言われています。
日本書紀には、「齋明天皇が初めて行った」と伝えています。
8月13日に迎え火を燃やし祖先の霊を我が家に迎え、
15日か16日に送り火を燃やし祖先の霊が黄泉の国(よみのくに)へと帰るのを送るのが日本でのお盆の習わしで、15日がお盆当日となります。この迎え火と送り火の事を、おもに門辺で燃やしていたところから門火と言います。大文字の送り火も、この門火のひとつとされています。
そして鎌倉期に芽生えた集落ごとの自治体制が安定し、地域ごとの力が強まります。盆踊りが生まれるなど盆行事が盛大になり、
火をたいて祖先の霊を鎮める行事「万灯(まんどう)」も、家庭から地域へと広がりました。この大規模化した「万灯」が送り火の原型ではないかと研究者は考えています。
「万灯」が送り火へと巨大化した背景に、度重なる戦乱で生まれた怨霊(おんりょう)への恐怖があったとみるのも一理あります。
特に応仁の乱が終わった1477(文明7)年には、地震、暴風雨、洪水、火災が続発した。「都の人々にとっては怨霊のたたり以外には考えられず、急速に高まった危機感が『万灯』を巨大化させ、送り火に発展したのでは」と言うことです。
祖先の霊を冥府へ送る小さな灯火(ともしび)が送り火の原型だったとすれば、それはなぜ「大」の形をとるようになったのか。
諸説はいろりろありますが、定説には至りません。
一般的には、次のような説が有力です。
(1)もともと大という字は、星をかたどったものであり、仏教でいう悪魔退治の五芳星の意味があったのではないか。
(2)一年を通して位置の変わらぬ北極星(北辰)は神の化身とみなされており、その北極星を象った大の字を、同じく動かぬ山に灯したのが、そもそもの大文字送り火の起源ではないか。
(3)弘法大師は、大の字型に護摩壇を組んでいたところから、大の字にしたのではないか。などがあります。
萬燈会の始まりは963(応和3)年夏。
「大」は地、水、火、風の四元素に空を加えて大自然を表した「五大」を意味し、自然への畏敬(いけい)と祖先をうやまう気持ちを象徴しているという。研究者には、この「大」の意味が次第に民衆の間に浸透し、送り火の「大」のヒントになったとする向きもある。なお京都では、男の子が生まれると、その子の額に大の字を書き、宮参りをするという風習が残っております。
なお大文字焼きの謎ということで、
現在では点火されなくなってしまった五つの送り火があります。
その場所は「い」は市原、「一」は鳴滝、「蛇」は北嵯峨、「長刀」は観空寺村にあったとされています。しかし「竿に鈴」は大正初期まで点火されていたにもかかわらず、その場所が一乗寺だったのか、静原だったのか、西山(松尾山)だったのか、もうすでに明確でなくなってきています。

古都の夏を焦がす五山送り火。
謎に包まれながらも、明々と夜空に浮かぶ火の文字は、
亡くなった方々への思いと、今生きている事の意味を交錯させながら燃え続けるのでしょうか???


なお京都検定で五山送り火に関しては、
以下の問題があります。

1五山送り火とは何か?

2五山送り火はいつ行われるか?

3五山送り火で松ヶ崎西山にともされる字は?

4五山送り火で鳥居形がともされる山は?

5五山送り火の大の字の第一画は何メートルか?

6五山送り火で最後に点火されるのは?

答えは順に

・盂蘭盆会の魂送り
・八月十六日
・妙
・曼荼羅山
・80メートル
・鳥居形

「京都新聞」、京都府のホームページなどを参考に致しました。

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松上げ

昨日、8月15日は花背の松上げの日でした。
松明を上げるという意味の松上げは文字通り「火の祭り」です。

松上げは、火の守護神として知られる、京の都・洛西の愛宕神社信仰の祈りが込められた行事です。
福井の小浜を起点として、南川を遡上して名田庄村に入り、周山街道の京都府京北町、美山町を経て、愛宕神社へと「松上げの道」と呼ばれる「火の道」があります。さらにこの道は、奈良東大寺に至ると言うことです。
松上げの神事がいつから、どのようにして始められたかは定説がないそうです。
花背の松上げ(八桝町)を皮切りに、久多の松上げ(毎年8月23日、24日は美山町の松上げ、小塩の上げ松(京北町)、広河原の松上げ、雲ケ畑の松上げがあります。

「火」への畏敬の念と自然との融合。
そして恵みを願い、祈った先祖達の思いに心を寄せながら、
古都は次第に秋へと粧いを変えていくのでしょうか?

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