負け犬、勝ち犬論争について思うこと
「勝ち犬、負け犬」
この言葉から、あなたは、何を連想しますか?
言葉本来の意味はともかく、
「負け犬の遠吠え」酒井順子著(講談社)
という一冊のエッセー集が「時の話題」を作りました。
仕掛人の酒井さんは、軽妙なエッセーで、女性の心理をたくみに
描くコラムニストです。
すぐに読めるので、本屋さんの立ち読みで済ましている私。
酒井さん。ゴメンナサイ。
今度、機会とお金があるときは「買います」ねぇ。
さて、酒井さんは
「未婚、子なし、30代以上の女性」を負け犬と称して、
自らの体験から、その「生き辛さ」をユーモア(ある意味ペーソス)
を交えて書きあげました。
その本がくだんの
「負け犬の遠吠え」
どんなに仕事では一流でも、
独身の場合は、女性は生きにくい現実を、
どの様に、自分自身が納得して、付き合っていくか、、、
彼女は自らを「負け犬」と称すること、
肩ひじを張らないことによって、生きていく気安さを見つけました。
とは言え、ソレは処世術であって、彼女の本意ではないのでしょうが、、、
この本は負け犬のグループ
(?)からも勝ち犬の側(?)からも
共感を持って迎え入れられ、
一つの社会現象を生む言葉にまでなりました。
この論争(?)の行き着く先が、
どこにあるかは、さておき、
「主婦、母性保護」論争は今に始まったことではありません。
以前、このブログではジェンダーフリーについて書いたことがあります。
酒井さんが、投げかけたようなショッキングな表現ではないにしろ、
女性はどんなときでも、この二つの選択を余儀なくされながら
生きているのです。
「仕事か、結婚か」
「自分の生きがいをどこに見いだすか」
「家庭か自立か」
、、、、、、
とにかく、とにかく
女の人は未婚であろうと、既婚であろうと、
人生の生きがい、仕事、幸せと結婚との天秤を測らなければならない
状況におかれているのです。
男性なら、
「この女性と結婚するか」
ということでは、その岐路に立った時考えます。
「この人と結婚して仕事をやめるかどうか、、、」
と、考える男性は少ないでしょう。
しかし、女性は、
その人が、どんなにそれまでの人生で、
スバラシイ才能と仕事に恵まれていても、
結婚という選択のなかで、失うものもまた多い、
ということを、知っています。
(雅子妃はまさにその一番の例かな???)
こうした、分かれ道の一つひとつの中で、
女性は、
自分自身を、
また同性の女性を敵にして、
生きていかなければならない時代が長く続きました、、、
また、自分の内なる者を封印して、ひたすら耐えなければならない時代を
固唾を飲んで、過ごしてきた私たちの先輩たち。
人はどんなときでも
自分の「幸せものさし」が欲しいのだから、、、
(そして、この多くは人との比較の「幸せものさし」であることが問題なのですが。)
こうして、女性どうしが、
お互いを「勝ち」「負け」と決めることで、
両方の側にとって、気楽になる解決策を見つけてきました。
しかし、両方の立場でも、
自分の足元がおぼつかないことは認めながら。
楽に生きていく「生き方の知恵」が、
本来「間違っているもの」であることを、
「生き方上手」ではないことを、
両方の立場の女性が、実は知っている。
そして、この一番大きな罪は、
女性たちがお互いを認め、手を結ばない社会現象の中では
男性もまた、
被害者であることを、
男性は知らなければならない。
と、私は思います。
なぜなら、
女性はどちらの立場に立っていても、
「人間として生きたい!!」という内心の秘めたる叫びを、
持ち続けているのだから、、、
たんに女性を「性の対象」としてのみ、
「わが子」をうむ者としてのみ、考えていた時代。
ソレは、本当の意味、男性にとっても不幸でした。
「人」としての尊厳を、敬意を相手に払うことによってのみ、
相手からも、同様に尊敬、敬意、愛情を受けるものであるから。
そうした意味では、
今、女性も男性も、
多様な価値観の中で、もまれながら、
相手にのみ、「忠誠」を誓わせる愛を求めすぎているのだろうか?
両性にとって生きることが
楽しくて、豊かな時代は、
まだ、しばらく待たねばならないような気がします。
しかし、しかし、
来るべき、そういう時代のために、
いま、私たちは、
鍛えられているのでは、、、と思うのです。
そもそも、
人の生き方に「勝ち」「負け」が本来は無いことは
みんなだれでも知っているのだから、、、
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