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2004.06.09

よだかの星と しあわせ切符

 よだかは、実にみにくい鳥です。
 顔は、ところどころ、味噌(みそ)をつけたようにまだらで、くちばしは、ひらたくて、耳までさけています。
 足は、まるでよぼよぼで、一間(いっけん)とも歩けません。
 ほかの鳥は、もう、よだかの顔を見ただけでも、いやになってしまうという工合(ぐあい)でした。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
と、始まっていく童話「よだかの星」。

私は宮沢賢治が大好きです。
彼が標榜してやまなかった「法華経」の世界。
なかなか魅惑的で、グングン引き込まれていきます。
そんな賢治は沢山の童話を残しましたが、
どれが一番好き?と聞かれたら、
迷うことなく
「よだかの星」
をあげます。

醜いよだかは、鳥たちの嫌われ者。
しかも醜いという理由だけで、、、
ある日、鷹がやってきて、名前を「市蔵」にしろ、という。
それくらいなら死んだ方がましというので、
よだかは旅たつ。
どうせなら太陽のもとに行こうと、思うが太陽からも、
あるいは次にむかった星たちからも、相手にされず、
結局、自分で空に向かって、飛んでとんで
ついに「星」になるという話です。

最後は希望の「星」になったはずのよだか、、、
なのに、なぜかなぜか
この話は「悲しい」のです。
初めて、この本を読んだときは、
「醜いアヒルの子」を思いながら、
いずれ、この意地悪な鷹はギャフンと言わされる、
とワクワクして読みました。
ところが、どこまでいっても「いじめっ子」は成敗されることなく、
むしろ「いじめられっ子」のよだかは、
どこどこまでも、
苦痛にあえぎながら、
もがいている生を作者は描写します。
読者である私は、
もう苦しくて切なくて
涙ポロポロ。
最後は「星」になってカシオペア座のそばで
青く光り続けるよだか。
そこからは、作者の
「あらゆることを感情に入れず」
という、強い 願いを感じるのですが、、、
「生きる」ということが、それ自体で
他の物への犠牲を強いることであるというその苦しみ。
さらにより高い理想で自分を生きる上で具現化したいという熱い思い。
この二つの相反した思いの
バランスから生まれた童話だとは
思うのですが、
やはり、やはり
読者である私は何回読んでも辛いのです。
(私自身が賢治の精神の高みにまで昇っていないのは勿論ですが、)
さて、ここで「何がそんなに辛いのか?」を考えたとき、
賢治と私との「しあわせ切符」の違いだなと思うのです。
賢治はその人生観、世界観に「法華経」の教えが、
厳然とあって、
それは「雨にも負けず、風にも負けず」の詩にも脈々と流れています。
だから、だから
意地悪な鷹には制裁が下らなくても平気なのです。
太陽や星たちが冷たくても恨まないのです。
最後は自力で星になる、、
そのことが賢治の「しあわせ切符」なのでしょうか?
しかし、私は
現実にいじめっ子がいたら、
「やられっぱなし」って悔しいから
認めません。
冷たい世間には恨み節の一つや二つは
出るのです。
だから、
私が よだかだったら
よだかの慟哭は慟哭として、その上で
スパッーと悪者たちをやっつけて欲しいのです。
「自分が悪い」と思って、自分を犠牲にして欲しくないのです。
ところが、童話は、
最後まで、よだかは気高くて美しいままなのです。
そうすると、
なぜか消化不良のまま、この本を読み終えて、
なおかつ、
「こんな自分の小ささ」を思って
辛いのです。
自己撞着に陥るというか、、、
結局、
よだかのことを思って辛いのではなくて、
自分の小ささを目の当たりにさせられることが
辛いのです。

じゃ、、、
こんな本、読まなきゃいい
のに、
これが読むんです。
やっぱり。

本当の心の深いところでは
よだか
の生き方が立派なことを知っているから、、、

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受信: 2004.10.19 18:14

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