シャロット姫からノーラまで
川の中州にシャロット姫は住んでいた。
シャロット姫は、
外の世界を直接見ると、死ぬ、という呪いをかけられていた。
川岸には、凛々しいランスロット卿の住む、キャメロット城がある。
シャロット姫の部屋には、鏡があり、
それを通してしか、外の世界を知ることができない。
シャロット姫は、来る日も、来る日も、織物(タペストリ)を織りつづけている。
恋愛を楽しむ恋人たちの姿を鏡を通して見るにつけ、
シャロット姫は、鏡に映る影の世界に退屈し始める。
ある日、
ランスロット卿が、川のほとりで歌う。
その歌声に惹かれ、
シャロット姫は、織物の手をとめ、外の世界を覗いてしまう。
とたんに、呪いが現実となってしまう。
織物は飛び散り、
その糸はシャロット姫に巻きつき、
鏡には端から端まで、ひびが入る。
ランスロット卿を追い、
舟に乗り、岸まで行こうとしたシャロット姫だが、
キャメロットの岸に舟が着いたときには、息絶えていた。
(19世紀 詩人 アルフレッド・テニスン(1809?1892)の作品より)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
イギリスの詩人、テニスンが詠ったシャロット姫は、
まさに古い家族制度の呪縛にからめとられた、
女性の話です。
この中で、
「女は、家の仕事をモクモクとすること」
の是が教えられています。
一方、同じ頃、フランスではイプセンが、
「人形の家」という戯曲で
人妻ノーラが自我に目覚めていく様を
描きました。
婦人問題、フェミニズム運動は、
本当に難しい。
以前、このブログでも書いたように、
社会的問題でありながら、
極めて個人的、私的な問題であるため、
一つひとつのケースが違うから、
そこから、
普遍妥当な答えを導くことが難しいのでしょう。
私も、できればこのテーマは、
難しくて書きたくないのだけれど、
先日、
酒井順子さんの著書が示すことに触れた際、
一人の方から、頂いたコメントが、
かなり「問題の本質」を突いているように思ったのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
結婚しない、子供を生まないという消極方法で、
「女の仕事」を捨てるということが行われている。
そうやって「楽をする女」への、
いまだに女の仕事を重荷としてしょっている女たちからの
ルサンチマンをかわすために、
先に「ああ、どーせ私たちは負け犬ですよ」といってしまおう、ということだよね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ウ〜〜〜〜ン。
なるほど、
「負け犬発言」は
彼女の言う
「楽をする女への
いまだに女の仕事の重荷をしょっているルサンチマンをかわすために、」
だったのか。
仕掛人の酒井さん本人が、
そこまで認識しているかどうかは、
ここでは、考えないことにして、
既婚女性の「怨念」に似たものというのは、
あるのだろうか???
あっ、
その前に、
「ルサンチマン」という言葉は、
ここでは、
「恨みや憎しみが心の中にこもって鬱屈した状態」
という意味で使っていこうと思います。
ニーチェはさらに
哲学用語として、
「被支配者あるいは弱者が、
支配者や強者への憎悪やねたみを内心にため込んでいること。怨恨。」
と、定義しているようですが、、、
さて、話を本題に戻すなら、
この極めてデリケートな問題が、
社会問題の俎上に上ってきたのは、
一連のフェミニズム運動、
ラディカルな「性差別反対」運動。
等、時々の運動の成果ではあると思うのです。
しかし、
こうした先輩たちの運動の歴史を経ても、
いまなお厳然と
「女同士の恨み、つらみ」があるとしたら、
これは、
「未成熟な近代市民」という範疇に入ってしまうのではないだろうか???
「成熟」という言葉が持つ意味は、
「自分の立場と相手の立場の違いを、
想像、理解し、
お互いに、相手の立場を尊敬すること」
だと、私は思うのです。
ところが、現実には、
コメントしてくださった方の指摘のように、
「ルサンチマン」をお互いが、
相手に対して、持っているとしたら、
そして、お互いに、
「相手の立場より、自分の立場がより大変」
と、思っているとしたら、
やはり、
それは、
過去の遺物を自分の中に抱えていることなのでしょう。
「正義」とか、
「真理」とか、
そんな言葉では表されない
「魂」の部分で、
私たちは、まだ
近代市民としての成熟をみていない、、、
そんな気がしてなりません。
こうしたことは、
広く世の中を見ると、
いろんなところで見られます。
今、
イラクで行われている憎しみの連鎖も、
渦巻いている「欲」が巻き起こしたにしては、
あまりに弱い一般の人たちの犠牲が、
いずれ、「ルサンチマン」として表れ、
果てなき破壊への輪舞となるのでしょうか???
頂いたコメントから、
いろんな事を考えました、、、
まだ、まだ、
問題は山積。
この問題、
本当にむずかし〜〜〜〜い。
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コメント
>>「魂」の部分で、
私たちは、まだ
近代市民としての成熟をみていない、、、
そんな気がしてなりません。
うーん、そういうことかなあ。
私は、兼業主婦なので、「負け犬」でもないし、「専業主婦」でもない。でも、どちらに対しても、「ちょっとずるいな」という気持ちを持ってしまうことがあります。
それは、「結局はこどもたちが将来を支えるのにそれに関与していない」ということであったり、「年金、健康保険料、税金、なんにも払わなくていいなあ」とかそういうことです。
つまり、「魂」の問題というよりは、「損得」の問題であったり、「行政のやりかたのまずさ」だったりするわけです。
結局は、自分の生き方は自分で選んだものだし、「一粒で二度おいしい」人生なのだし、自分なりに納得しているのですが、やはりついこういう「うらみ」「つらみ」が出てしまうのも正直なところです。
特に、違和感を感じるのは専業主婦をしている人たちが言う「自分たちは直接働いていなくても家の中で外で働く夫を支えている」とか、「地域や学校の活動を背負っているのは専業主婦だ」とか、「自分たちはなんといっても子供を育てているのだ」とか、いう言葉です。そんなことは、「兼業主婦」だってやっているし、さらにそのうえで「兼業主婦」は働いていて、各種の金を払っているのです。
「たくさん働ける力を持ったものがたくさんの負担をする」というのは、仕方がないことだと思っています。でも、一方で「専業主婦だからといって、いばることもないだろう」と専業主婦の人には言いたい。
投稿: みずのようこ | 2004.06.26 14:26
TBありがとうございます。
私の場合、エントリーと直接関係なくても何ら問題ありませんのでいつでも何処にでもTBしてください。
女性同士の立場の違いによる「恨み,つらみは」想像するしかないのですが...
「ジェンダーフリー」は本来、その障害になっている社会通念やシステムに向けたもので、ただ、その過程で社会通念やシステムを変えるには女性自身が共通の認識を持つ必要性が生じるのでしょう。
たとえ専業主婦であろうと女性である以上、社会通念やシステムを女性にとって正当な物にすることには反対する理由は本来無いわけで。
(何をもって正当とするかは議論の余地はあるとは思いますが、大多数が正当と感じる事は少なからずあると思います。)
そんな中で「家事」「育児」「出産」の大事さと「仕事」の大事さを競い合ったり、「勝ち」「負け」をつける事は「ジェンダーフリー」とはあまり関係がないような気がします。
「ジェンダーフリー」が「家事」「育児」「出産」を大事に思うことと対立するわけでも、「ジェンダーフリー」が「仕事」を大事に思うことと対立するわけでもないですし。
「女性にとって正当なもの」の必要性の温度差が「立場の違い」を生んで、その立場の違いが(例えば年金)「既得権」争いを生むのかもしれないけど、これと「ジェンダーフリー」を一緒に考えるとなんだか判らない物になりそうな気がします。
「ジェンダーフリー」と離れた別の問題として、単に「互いの理解」について議論したほうがいいような気がします。
ふと、「もともとそのような問題定義だったのかもしれない」と頭をよぎりました。
もしそうならピンとはずれのコメントですね。
不得意なフィールドでの問題ですが、TBいただき考える機会を戴いたので無い頭を絞ってコメントしてみました。
もしかすると「ジェンダーフリー」に対する認識が全く違っていたりして・・・
私自身は「ジェンダーフリー」において、何が「正当」で、何に対して「正当」かの結論が出ていないので、あまり今の段階でこの問題自体に踏み込む事には躊躇があります。やはり男であるということに左右されているのかもしれませんね。
投稿: FAIRNESS | 2004.06.27 05:39
みずのようこさん。
FAIRNESSさん。
書き込みどうも有り難うございます。
お二人からの頂いたコメントの内容、随分考えました。
みずのようこさん。
私が今回、問題にしたのは、
「既婚か未婚か」であって、
「専業主婦か、兼業主婦か」
では、ないので、
しばらく、あなたの書き込み考えてしまいました、、、
どうしようか、悩みましたが、
お返事するには長くなりすぎる予感がしますので、
申し訳ありませんが、
別に「テーマ」を設定いたしますので、
その時、またご意見いただけたらと思います。
FAIRNESSさん。
おっしゃることを、
すごく詳らかに、理解いたしました。
有り難うございます。
まさに、私が今回は、
「お互いが、相手の立場をわかりあえる」ことが困難である社会の仕組みについて、考えたいと思ったのです。
この問題、何回も書いたように、極めて私的な問題でもあるため、「ケース」がいっぱいあるのですが、
しかし、そこから、何かしら、共通の解決が見いだせないか、と私は願っています。
まだまだ、、考え中。
また、ご意見お聞かせ下さいね、、、
どうも有り難うございました(*^_^*)
投稿: せとともこ | 2004.06.27 17:58
>>「既婚か未婚か」であって、
「専業主婦か、兼業主婦か」
では、ないので、
しばらく、あなたの書き込み考えてしまいました
もう少し話させてください。
この著者は、「結婚もしない、子供も生まない」30代女性のことを「負け犬」だ、と言っているのですよね。
結婚するかしないかではなく、こどもを持つか持たないか、が勝つか負けるかの分岐線である(私のかんがえではありませんよ)とこの人は言っているわけです。
この人には、「少子」という本も書いていますが、これとあわせて読むと非常にこの人の考え方がよくわかります。
つまり、自分たちは決して負けてはいないということ。こんなしょぼい「生む性」を引き受けることによる幸せなんかいらない。ということなんです。
実質的には、自分たちのほうがまさっているけれど、一応争いをさけるために、「実」をとって、「名」は捨てましょうと。
結婚だけしても、女は弱者にはなりません。出産することによって、決定的な弱者性を背負い込むことになるのです。そして、その後、2つの選択(専業主婦と兼業主婦)のどちらになっても結局は、「苦境」に落ちてしまうわけです。(もともと人にぶら下がって生きようとする人は除外します)。
このうち、兼業主婦というのが、従来のフェミニズムが目指した道ですよね。でも、これは、かなりしんどい。それを選ばなければ、後は依存して生きることを正当化して生きていくしかない。本当に苦しいものですよ。女の人生はね。
だから、こんな面倒は最初からは逃げ出してしまったものが勝ちっていうことじゃないでしょうか。一応、それにもいろいろと不満が書かれているわけですが、実際には、著者は自分の生き方がまんざらでもない、と思っているのではないでしょうか。
だからですよ。この本が同じ「負け犬」には案外好評で、「勝ち犬」が反発しているのは。(アマゾンの書評を見てみてください)
それと、ともこさん、こういうジェンダーの話は、違う立場のものどうしの絶対衝突なしには進まないものなのですよ。
(前回の私の書き込みをみて、それをおそれたのではないですか)
だって、女の生き方を変えさせるのが、フェミニズムの目的でもあるのですから。それを恐れていたら、ジェンダーフリーについての意見交換なんてできないんじゃないですか。
投稿: みずのようこ | 2004.06.27 22:07
せとさん、こんばんわ、
横から失礼いたします。いま、「太平洋戦争」(児島襄著)を読んでいます。しばらく前に読んだ「America's Role in Nation-Building: From Germany to Iraq」以来、日本の現在に対して持つ米国の力ということについて考えつづけています。
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http://www.rand.org/publications/MR/MR1753/">http://www.rand.org/publications/MR/MR1753/
ランド研究所の上記の文章は、日本における「女性解放」が日本を弱体化させ、二度と戦争を起こせない国にするために行われたと書いてあるように理解しました。憲法をはじめ、いまの日本の形は戦争中の「挙国一致体制」の中でできた機構と、米軍が明確な意図のもとで行った政策によってみごとに運命づけられているように感じます。
これらの政策が見事にあたり、「負け犬」の方たちが非常にいごこちがよく、60年先には人口が半減してしまうような国にいまなっています。いや、これは女性だけの問題ではありません。その責任の半分以上は、あえていえば男性側にあります。
http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2004/03/post_7.html">http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2004/03/post_7.html
そして、いま感じているのは、フェミニズムの問題も、年金の問題も、過大な国の債務の問題も、すべて先の世代へ、先の世代へと問題を先送りにしているのがいまの日本の現状なのではないか、ということです。
まさに「シャロット姫」は、いまの日本人の姿なのかもしれません。
http://www15.tok2.com/home/dorian/C/Column/wate2.jpg
投稿: ひでき | 2004.06.28 01:05
みずのようこさん。
ひできさん。
コメントありがとうございました。
みずのようこさん。
フェミニズム運動というのは、
いろんな側面、
つまり、
家父長制、母性保護、主婦論争も勿論そうですが、
DV(配偶者間暴力),
セクシュアリティ、ポルノ論争
などに表れる現象としてのフェミニズム運動。
理論としては、
リベラル・フェミニズム、社会主義フェミニズム、マルクスフェミニズムがそれぞれ、対立しているわけです。
それぞれが縦横に絡み合い、ゴチャゴチャな中で、
私の頭もいまだ整理されていません。
途上にある私が、軽々に書くことのできる問題では無いのです。
あまりの山の高さに、
いつも、呆然としています。
貴女から見たら「逃げ』と言われても仕方がないくらい、私は、その山の高さに戦いています。
もっと、もっと勉強して、「知りたい!!!」。
その都度、ブログにものせていきたいと思っています。その折は、またご意見寄せ下さい。
ひできさん。
まだ、貝原益軒「女大学」の世界から、
一歩も出ていない現状はあると思います。
そして、それは「男たちにとっても不幸」なことなのでしょうねぇ。
個々の問題でありながら、
極めて社会的な、問題であると、私も思います。
来るべき時代が、豊かなものであるためには、
まず、その一歩は、
「真の男女平等」からか???
この問題、男性としての視点でお教え下さいね。
では。
投稿: せとともこ | 2004.06.28 16:17