ディベート
ディベートという言葉が一般化したのは、
学校教育でも、取り上げられるようになったことが大きいのではと思います。
ディベートに関しては、ディベート入門講座に詳しく書いてありますので、参考にしてください。
さて、私も作文教室でディベートを取り扱ったことがあります。
一応ルールにしたがって、
グループに分けて、
事前に、与えたテーマ(このテーマについても
子どもたちに決めさせました。)
を、家で調べさせて、発表の手順などをまとめさせておきました。
そして、
いよいよ当日。
二つのグループは、
責任者を決め、じゃんけんで順番を決めて、
さぁ、始まりです。
それ以外のグループは判定者です。
この時は、
「言葉は、世界共通語がいいか」「それぞれの国で違う言葉がいいか」
というテーマで行いました。
共通語が先に
次に「それぞれ」が後に、自分たちの
調べてきたことを元に主張をします。
そのあと、
相手のグループへの反論、質問を行って、
最後に
責任者がまとめます。
この論戦後に、
判定グループが、
「どちらの説に賛成するか?」
ということで挙手をして、勝敗を決めたのです。
・・・・・・
そこまでは、良かったのですが、
ふと、見ると、
負けた方のリーダーが泣いているのです。
「どうしたの?」
と、私は彼の肩に手をおいて尋ねました。
「、、、、、」
しゃくりあげているだけ。
周りの子たちも、困った顔をして見ているだけ、、、
「う〜〜〜〜ん。どうしたん???」
と、私は前の質問よりさらに元気に聞きました。
すると、
絞り出すような声で、
「くやしい〜〜〜〜〜」
と、言うのです。
彼は、家でこの難しいテーマをこなすために、
随分調べてきたのです。
「言葉の歴史」から「役割」まで。
勿論、小学生の調べたことだから、脇は甘いのですが、、、
それでも、真剣に調べてきて、
かなり自信をもって、この場に臨んだのです。
しかし、
判定結果は「負け」
だったので、
彼は相当ショックをうけて、ついポロポロ。
(子どもはすぐ泣くので、珍しいことではありませんが、、、)
「そうか、、、
それは、悔しいね。でも私は、君の主張、すごく筋が通っていて、
分かりやすかったよ。
みんなも、きっと同じだよ。
ただ、テーマが難しすぎて、ちょっと分かりにくい部分もあったかな???
まぁ、今後の課題だね。
これぇ!!!!もう、泣くな!!!!
うちのティシュが減るじゃんか、、、」
と、ハッパをかけて、涙を止まらせました。
が、
が、
私は、この問題はかなり深刻と思って、
その後はディベートを子どもたちにやらせなくなりました。
本来のディベートは、ディベート入門にもあるように、
論理的思考力や理解力、表現力をつけるために、
考えられた方法です。
しかし、
現実には「競技」としての性質もあって、
(実際、大会まであります)
「勝ち、負け」の判定が付いてきます。
すると、
子どもたちは、
その過程、そこから学んだことよりも、
結果としての勝敗だけにこだわるのです。
こちらが、どんなに「そうじゃない」といっても、
やっている子にとっては、
「相手を負かす」ことに最大の目的を持っていきます。
そもそもの目的が薄らいできたような感がしたので、
私個人は、自分の作文教室では、
もうこのやり方は採用しませんでした。
しかし、
「自分を相手に伝える」
しかも要領よく伝えることや、
相手に不快感を感じさせないことは、大事なことです。
そこで、
「勝敗」の決まらないやり方を行いました。
予め、
カードに、いろんな食べ物の名前を書いておきます。
そして、子どもたちに、カードを選ばせます。
(どの食べ物かは分からないように裏側に伏せて)
ある子は「ラーメン」
またある子は「おすし」
などなどです。
そして、
「みんな、その書いてある食べ物のお店やさんになったつもりで、
町を歩いている人への呼び込み、宣伝をしてごらん」
と、言います。
子ども達には、その食べ物を調べる時間や、
看板を書く時間(コピー用紙に簡単に)
を与えて、
、、、、しばらくして、
さぁ、始まりはじまり、、、
子どもたちは、
イキイキとお店やさんになりきって、
「さぁ、いらっしゃい、いらっしゃい、、、
うちのおすしはいいよ。ヘルシーだよ、、、」
と、やっていました。
なかなか上手に。
判定はないのですが、
手を抜くこともなく、
むしろノビノビとやっていました。
その後は、
動物園シリーズにしたり、
外国人ごっこにしたりと、
このやり方でず〜〜〜と行っています。
さてさて、
この問題、
なかなか示唆に富んでいるとは思われませんか???
「討論」に慣れていない人が多いのは、
討論の中で「決着」をつけたがるからでしょうか?
すぐに感情に走って、あからさま、むきだしの言葉で、
相手を追い詰めていくと、たとえその主張が正しくても、
人は聞いてくれない。
冷静に、感じよく伝えるには、
まず自分が勝ち負けから解放されることではないでしょうか?
討論の第一歩にも
その人の人となりが浮かび上がります。
そんなことを思い出しながら、
今日は、ディベートのことを紹介しました。
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コメント
いつも楽しく拝見しています。
ディベートは、情報の整理・論理的な思考・筋道の通った発表・相手の意見に対する適切な反論、といった日本人に欠ける表現を鍛えるためには、必要なことだと思っていました。
ところが揚げ足を取る反論とか、相手の土俵には乗らないとか、でかい声で勝つとか、どこかにいる政治家みたいな要素で勝敗がつくのだと、これは不毛な議論になりそうです。
それ以来、掲示板での議論は極力「意見交換」と言い換えることにしました。
お店屋さんごっこ、いいですね。
僕のお店も子供たちにアピールポイントを理解してもらって、「呼び込み」をやってもらおうかしら?
投稿: 聞きかじり | 2004.07.19 10:08
僕は、ディベートというのは、論理的な能力を育てないと思っています。ディベートのルールというのが、論理的に正しい方が常に勝つということになっていないからです。だから、ディベートで育つ能力は、論理的な能力ではなく、相手をやりこめる能力になるのではないかと思います。プラトンが軽蔑的な意味で語った「ソフィスト」たちが持っているような能力というイメージでしょうか。
勝ち負けを争うスポーツには確固たるルールがありますが、いつでも誤審というものがつきまといます。誤審が勝敗を左右することもしばしばです。だから、スポーツを本当によく知っている人間は、勝敗だけが大事なものではないということをよく知っています。
スポーツの勝敗は、その後に後を引かないからいいのだと思います。ディベートに関しても、それが遊びに過ぎないのだという感覚を持てれば害は少なくなると思います。これが教育だなどと思うことが間違いではないかと僕は思います。
だいたい、どっちの考えであってもかまわないようなものをどちらか一方に決めて争うなんてのは、言葉遊びの一種だと思います。本来の論理というのは、どっちでもかまわないと言うようなものを対象に思考をするのではなく、どちらが真理かを決めがたいけれども、どちらかが真理であるに違いないという対象を考えることで論理能力が発揮されるわけです。
こういう対象はどこにでも転がっているものではありません。だから、簡単に教材として取り上げることが出来ないでしょう。本当に考えるに値することに出会わなければ、論理能力などは伸びないのだと思います。本当に考えるに値するものは何かという、仮説実験授業が基本的に持っていた発想こそが教育において大事なのではないかと思います。
ディベートが育てる能力などは、どんな手段を用いてもいいから、相手をやりこめることが出来ればいいという能力に過ぎないと僕は感じています。
投稿: 秀 | 2004.07.19 11:54
私のサイトの「ディベート入門講座」にリンクして頂きまして、また掲示板にもご挨拶頂きまして、ありがとうございます!瀬戸さんの記事読ませていただきました。
高校生や大学生の競技ディベートになってくると、証拠資料主義が採用され、裁判のようにコツコツと証拠を積み上げて根拠を形成し、論点を立証していくかたちになってくるのですが(また審査もその立証過程を評価するようなルールになるのですが)、小学校や中学校の段階で子供たちにその発想を理解させるのは難しいところがありますよね。
また子供たちも議論に勝ち負けがつくとなると、それで傷ついたり、あるいは議論をして何かを決定していくことについて「勝ちさえすればいい」という誤解が生じる危険性もありますよね。
僕も大学時代に塾講師として、小学生や中学生に国語を教えたりしていました。その中で色々な難しさを痛感した次第です。僕が取り入れた作文の勉強法は、漢字プリントが終わったら、その裏紙に先生へのメッセージを(イラスト入りでもいいから)書いてもらって、翌週に僕が全員に返事を書いて返すというものでした。20人全員に1対1で返事を書いて「文通」を継続していくのは大変だったけれど、子供たちの色々な考え方やその変化に接することができて嬉しい経験でした。
僕としては、「日本語がまだ形成途上の段階で早期英語教育に時間を割くと、子供たちの言葉への深い理解の形成に失敗しやすくなるのではないか」という早期英語教育の慎重論と同様、「早期ディベート教育」には慎重な考えです。
まずはディベート教育の前提として基礎となる部分の形成が必要で、それは「世の中には色々な考え方があること」「そのどれか一つが絶対に正しいとはいえないこと」を知ること。それは子供たちが色々なグループの中で体験を通じて自ら学び取っていくものだと思うし、小学校や中学校はそういう基礎を形成していく過渡期だと思います。
そしてそのような理解が広まれば、「色々な意見がある中で集団の中で何かを決定しなければならないことがあること」「その時に周りの状況や雰囲気に負けずに、また自分や相手の考えの長所や欠点も意識しながら、自説を展開する必要があること」などの発想についても理解が深まりやすいのではないかと思います。それはディベートを「勝ちにこだわる」とするのではなく、「自分を伸ばす訓練と捉える」手がかりともなりますよね。
何事も基礎固め、初めの一歩が大事。その基礎固めを手助けしていくためにも、瀬戸さんの実践されているような「お店やさんごっこ」は大事だと思うし、その過程に関心があるところです。
投稿: さいとう | 2004.07.19 20:15
聞きかじり さん。
秀さん。
さいとうさん。
コメント有り難うございます。
聞きかじり さん。
本当に私もそう思います。
日本人は討論下手です。
すぐに感情が入ってしまいますよね、、、
「言っている内容(揚げ足取りの場合が多い)よりも、言われたこと」に腹を立てることって一杯ありますよね。そうである現実を踏まえて、より高度の討論、議論に持っていく技術のような物って必要かな?と思っている今日この頃。
聞きかじりさんは、議会でも良く見ていらっしゃるから、とりわけ感じていらっしゃるかも、、、
まだまだ課題は多いですね、、、
これからも、ご意見おきかせ下さい。
では。また。
秀さん。
私も板倉先生の「仮説実験授業」を取り入れて、子どもたちに理科実験を教えていました。
自分でよく考えて、なかなか楽しい実験教室になりました。他だ、それでも基礎としての知識をしっかり教えていかなければ、仮説も構築できないので、
今の文科省のような、どっちにしても中途半端なやり方では、子どもが気の毒と思っています、、、
まだまだ考邸か案蹴ればならないことだらけ。
また、いろいろ教えてくださいね。
では、お元気で。
さいとうさん。
いつも参考にさせていただいています。
ありがとうございます。
さて、
ほんとうに仰るとおりと思います。
「発達段階」ってありますよね、、、
その時々の到達度の違いで、子どもたちへの対応も違ってきますよね。
ところが、いまの文科省みたいに、ステレオタイプで、
右向け右向け、てきに子どもたちに「いいもの」を押しつけていくやり方って、疑問を持ちますよね。
本当に、ほんとうに「基礎固め」の大切さを痛感しています。
また、これからもよろしくお願いいたします。
投稿: せとともこ | 2004.07.21 08:57
ディベートについての実践記録を、興味深く読ませていただきました。知的トレーニングに役立つのは確かですが、子供が勝負にだけこだわったら、負けた場合の弊害がありそうですね。
最近、進度別の組み分けをしても思ったほど効果がなかったという実践結果を、新聞記事で読みました。学ぶ動機付けに、競争が万能ではなさそうですね。最も好ましいのは、やはり「学んだこと自体の楽しさ」ではないでしょうか。
投稿: 志村建世 | 2007.08.27 17:55
TBありがとうございます。
こちらの記事を拝見して、しばらく考えこんでいました。「早期ディベート教育」は慎重にというのは事実からしてそうでしょうが、それだけでは何か物足りないような気がしたものですから。
いろいろとバカな連想をした挙句、思い浮かんだのが「体の大きさ」です。いきなり「体の大きさ」といっても???だろうと思いますので、少し説明をしますね。
最初に連想したのは「快楽」でした。幼い子どもたちにとっては仲間と理解しあう快楽よりも、勝負に勝つ快楽の方に強く惹かれる。どうもそういう事実があると。
で、さらに連想したのが「音楽」。音楽には起伏が激しくテンポよく進む音楽もあれば、ゆったりと静かに流れる音楽もある。自分の経験からも、若いときには静かな音楽はなかなか理解できなかった。退屈としか感じなかった。静かな音楽を解するようになるには時間がかかった。
そこで「体温」です。激しい音楽に身を任せると体温は上がるように感じる。逆に静かな音楽では体温が下がるように感じる。これは音楽に限らず、スポーツでもゲームでも賭博でも、勝ち負けを争うときにはいつでもそうですよね。体温が上がって興奮する。読書でも、手に汗にぎるサスペンス小説などを読むと体温が上がる。逆に、平明な詩歌などに身を浸すと体温は下がる。
子どもたちは、大人よりも体温が高い。大人よりも体温が下がりにくい。これは体が大きい方が体温が低いという生物としての法則にも合致することですが、その法則から言うと、体温が高い動物ほど動作が俊敏で緩慢な動きが苦手です。
みんなで理解しあうときには、心は落ち着き体温は下がります。しかし、体温の高い子どもたちには、これは生理的に難しいことなのかもしれない。どうしても体温が高くなる勝負の興奮の方へ惹かれる。
そう考えてくると、ディベート教育を施す条件はある程度身体が発育してから、ということになるのです。
すみません、バカな連想を長々と書いてしまいました。
投稿: 愚樵 | 2007.08.28 08:44
志村建世 さん。
愚樵 さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
志村建世 さん。
はじめまして。
愚樵 さん経由でブログを拝見させていただいています。
大急ぎでトラックバックだけ差し上げてコメントも残さず失礼をいたしました。
実は昨日は内閣改造でテレビにかぶりついていたのです。いろいろ異名をとる安倍さんの内閣。これからが正念場と思います、いずれにしても私は改憲ノーの立場で安倍さんの戦後レジームとやらに反対の声を挙げていくだろうと今から予想しています。
ところで、「夜間学校」のエントリーを含め人間の記録など詳らかに人の生き様が描かれているブログを拝見して「さすが」と思いました。私も啓発されること大です。これからもいろいろお教え下さい。宜しくお願いいたします。
愚樵 さん。
そうですね、、、
以前、数学屋の秀さんが「ボクシング」が好きで勝負が好きでその高揚感がたまらない、、、と言うような内容のエントリーを挙げていらっしゃいました。
なんとなく思い出しました。
さて子どもの発達段階に応じて適当な教材や経験・体験の場を提供することの是はみんなわかっているのですが、、、
分かっているのですが、現実になると子ども自身の発達、適正がバラバラで結局マニュアルどおりにすませる愚を犯しがちな私です。
ディベートを子どもたちにやらせたときも、思わぬ展開でタジタジになったのですが、一方で考えもしなかった発想や質問、疑問がとんで来て、それなりの成果はあったのです。
ただ是と非のバランスで私はとりやめましたが、今から思えばもっと「良い指導」もあったかも、、、
と、言うことでいつもいつも壁にあたっています。
学問に王道なし。
教える方も「後世おそるべし」と自戒しながら、、、です。
どうぞこれからも宜しくお願いいたします。
投稿: せとともこ | 2007.08.28 14:08