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2004.09.30

心象風景

子どもは、
今、「マグリット」に凝っています。
マグリットの雲
というサイトに、詳しくルネ・マグリットの生涯や作品が載っていて、
彼は、毎日、そこへ行って巨匠に触れているようです。
私にとって、
マグリットは、エッシャーと同時期にその作品を見た(多分、錯覚とかなんとかのジャンルで、、、)
関係で、この二人は並んで頭に入っています。
エッシャーは、立体的、空間的な「錯覚」を取り扱った作品が多いように思います。
一方、マグリットは、
平面的で、日常のどってことのない風景を、
切り取っています。
空とか、鏡とか、、、
良く見ると、
鏡を見ている人の後ろ姿が描かれている。
その先の鏡の中も、また男の後ろ姿である。
とか、とか。
なんとなく「ゾッ」とします。
さりげなく、しのびよる恐怖。
心象風景とでもいうのでしょうか???
懐かしい空に雲。
安心して眺めていたら、
途中で切られている。
その先は闇。
しかし、闇の先には、
また、何もなかったように空が続く、、、
これは、やはり怖い。
そして、怖さ故に、人を惹き付けます。
潜在的に私たちが持っている不安を、
明るく、衛生的に、しかし容赦なく描き出していると、
私は、彼の作品については思うのですが、、、

日常の中には、
「ポッカリ」あいた空間があって、
普段は、そこには落ち込まないのですが、
ある時、
なにかのきっかけで、
そこに入り込んでしまう。
必死にもがきながら、
闇を抜け出すと、
そこは、自分の世界とは、
何かが一つだけ違う世界。
音だったり、
光だったり、
時間だったり、、、
そんなパラレルワールド、
ワンダーワールドとも言うのでしょうか、
そんな、世界があるかもしれない、
と、心に秘めて、
毎日を送っている私にとっては、
なかなかインパクトがあります。
懐かしくて、
こわい
心象風景。

さて、
アナタなら、
どんな風景を心に描いていますか???

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2004.09.29

月は東に日は西に

昨日9月28日は、中秋の名月でした。
私はあいにくの曇りで、
月をみることはできませんでした。
(今日は台風です、、、)
さて、
ここでも何回も書いているように、
今の子どもたちは、「天動説」を4割の子が信じていると、報道されて、
大人たちはビックリ、慌てたわけですが、
そんな天動説、地動説なんて難しいことだけが分からないのではありません。
なんと、
今の子は、
「太陽がどちらから出てくるか???」
知りません。
以前、
子どもたちと、「天体」の勉強をしたときの様子を、
私のホームページに載せたことがあります。
ちょっと、以下に抜粋。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
小学生の子どもたちに「天体」を教えることにしました。
まず、「恒星、惑星、衛星」「自転、公転」という言葉の意味を教えました。
「今は分からなくてもいいから、聞いていなさいね、」
と言いながら、言葉の説明をします。
次に、
「一日に昼と夜があること、一年に季節があること、季節によって昼と夜の長さが違うこと」
を、模型を使って説明します。
実際にボールを使った模型を手でさわりながら、
「月の満ち欠け」を調べることはかなり楽しかったようです。
何回もぐるぐる模型を回していました。
その後
「ねえ、ところでお日様ってどっちから出て、どっちに沈むの?」
と、私が質問すると、
小学校五年生の男子が、
「西から東」
と、張り切って答えます。
後の子たちは
「ああ、、、そうだっけ?」
「そうだよね。西から東だよ、、、ね?」
と、モジモジ。
なにしろ初めの答えがあまりに勢いがあったので、
みんなそっちにつられていきました。
しばらくして一人の女子が自信なさげに、
「東から西?」
と、言います。
私はちょっとじらした後、
「そう。東から南を通って西だよね。」
と、答えると、
みんな俄然元気に
「東から西。おまえ、バカだな、」
と、さっきの男の子に言いながら元気になります。
さらに、こんな質問をしてみます。
「もし、お昼に知らない町で方向が分からなくなったどうすればよい?」
「太陽をみる!!」
さっきの男子が勢いよく言います。
「おお、できるじゃない。」
するとみんな。
「おおお〜〜〜やるじゃん!!!」
とかワイワイガヤガヤ、てんでに月と星を持ちながら勉強。

最後に「冬の星座」を教えましたが、こちらはさっぱり。
「オリオン座」を見たことがない、
「火星を見ていない」と言う子ばかり。
なんと勿体ない。
夜と言えば星しかきらめかない田舎に住んでいるのに。
「なんで空を見上げないの、、、」
と、言いたいのをグッーと押さえて、
「じゃ、今度は星空観察してあげるね。」
と、言うところに落ち着きました。
中学生も、
「天体は嫌い。苦手」
と、言っていますが、
嫌いとか苦手という前に「触れる」事をしていないような気がします。
空を見上げるという経験をしていなければ、教科書で学んだ事なんて所詮は「絵に描いた餅」です。
子ども達にいろんな経験をさせて欲しいと願っている私ですが、それは何も特別のことではありません。
夕焼けをみる、星空を見る、朝の靄をみる、そんな日常の中にある自然をもう一度見つけてください。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
と、いうわけで、
もう一度。
どうぞ、
空を見上げてみてください!!!

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権威と権力と情報

「権威」という言葉から、あなたは何を思い浮かべますか?
また、「権力」という言葉から何を想像しますか?
まず、国語辞書の解釈を、述べるならば、
===「権威」===
他を追随させるに足る、その方面でのずば抜けた知識、判断力、実力。
その方面での知識、技術について他から範とされる人物。
===「権力」===
その組織に属する他人すべてを、自分の意思通りに動かす事の出来る力。
だ、そうです。

一芸に秀でたある人を「○○の権威」とか言って、尊敬、信頼のまなざしを贈ります。
本来、権威は「人」に付いてきたものでした。
しかし、
あるところから、「権威」は立場に、肩書きに変わるようになりました。
たとえば、学校の先生、
たとえば、政治家、
たとえば、官僚。
などなど。
もともと、権威がないところに、立場、肩書きの(権威)を押しつけたため、
それを守るために、「権力」すなわち力をもってして、
人を制圧しなければならなくなりました。
失墜した権威が権力と結びつくことはたやすいことです。
こんな構図、あるていど大人になった私たちには、
受け入れることもできるし、
流すこともできます。
しかし、
人生観、世界観が未だ確立していない子どもたちが、
こんな洗礼を受けるのは、とても心苦しく、大人の責任を痛切に感じます。

FAIRNESSさんの9月29日付けのブログには、
「どうせ政治家なんか皆悪い事しかしないんだから」という小学生の姪ごさんとの会話から、
話は始まり、
〜〜〜考察の結論ではなく「政治家」ときたら「悪い」という条件反射のようなやり取り、小学生ぐらいでは子どもは目や耳に入るものをそのまま受け取って覚えていくのだろうから不思議だなどと思ったわけではないのだが、その覚えた内容が面食らう。〜〜〜と書かれ、
そして、
〜〜〜いつ、どんな風にして姪は「政治家」=「皆悪い事をしている」というルーチンが頭の中に作り上げられたのか?
また、こうした
条件反射は、
「学校の先生」や「警察官」にも同様ではないか?〜〜〜
という疑問が投げかけられています。
そして、最後に
〜〜〜「信頼」とか「不信」とか言う物は、必ずしも「実態」によってのみ生じるわけでもないようだ。〜〜〜
と、結ばれています。
これは、
なかなか「重い提案」だと私は思いました。
この「実態」の責任は、
取りも直さず、
私たち大人だから、、、

今の子どもたち100人に「政治家についてのイメージ」を問えば、おそらく100人が、同じような答えに辿り着くのでは?と思います。
なにしろ、
テレビ、新聞では、「真面目」な部分は取り上げられず、
ダーティな部分ばかりが、何回も茶の間に届けられるのだから、、、
(実際、そういう部分があまりに多いという実情が問題なのだけれど)
今の子は、
「末は博士か大臣か」
なんて誰も思わない。
むしろ
「嘘付いたら政治家になるよ、、、」
なんて言っているのだから。

私たちの子どもの頃、学校の先生は絶対だった。
それが、成長するにつけ、先生の拡大倍率が縮まり、やがて等尺になってくるわけです。
そして、そんな私たちが、いずれ親になったとき、
子どもの先生は、「自分と同じ」環境を共に歩んで来た友人になることが多い。つまり、
以前の親より、今の親は学校教育を受けて来ているから、、、
親自身が、
「教育の専門家」然としているから。
教師も今、いろんな意味で「受難の時代」であるのかも、と思います。

また、
警察だって、
私たちの日常の中では、
「あてになる」存在ではもうない。

私は、ここで
「情報」というものの「怖さ」を改めて思うわけです。
情報は「実態」を作っていくのでしょうか???
私たちは、
自分で考えているような気がしているけれど、
実は、「情報」に躍らされ、
情報に煽られているのではないでしょうか???

失墜した権威は、
権力という力と、情報という力を今、持ち、
私たちの日常に、あたりまえのように侵入して来ているのでしょうか???
今、
子どもも、大人も
「実態」のない何かに衝き動かされているのかもしれません。

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2004.09.28

中秋の名月

今日、9月28日は,「中秋の名月」です。
あいにく、曇り空の地域が多そうですが、
もしご覧になれたら、空を見上げて下さい。
こよみのページというサイトに、
時々の行事が詳しく書いてあり、中秋についても、丁寧に書いてあります。
このサイトによれば、
「中秋の名月」の日は「仏滅」だそうです。
六曜の計算によると、そうなるとか。
私は、今日が仏滅か、どうかは知りませんが、、、
また、その歴史やら、行事など
なかなか蘊蓄深く、面白いです。
また、このサイトによれば、
中秋の名月は台風などで、
10年に9年は、見ることが出来ないとか(^^;

現代の私たちは、
月を見ること、
夜空を見上げることって、
本当に少なくなりました。
しかし、
昔の人にとって、
「夜空」は生活の一部でもあったのでしょうね。
またたく星を眺め、
リンと冴え渡る月を愛で、
かまびすく鳴く秋の虫の音に耳を傾けたのでしょうか、、、
そして、
ひとりで、
あるいは恋人と、
語り合ったのでしょうか。
時は、
ゆっくりと、
たゆたうように流れたのでしょうね。
何をか思い、
何をか応えてくれたのでしょうか?
昔の人の思いに迫ろうとすると、
なんだか切なくさえなります。
きっと、
あの月には、ウサギが住んでいるに違いない、
とか、
かぐや姫を迎えに月の使者が舞い降りてくるとか、、、
他愛もないけれど、
なぜか透きとっていて、
ロマンチックで、それでいて、なかなかしたたかであったりと、
いろんな意味で、
素敵です。
月を詠んだ歌が百人一首の中にはいっぱいあります。
今日の天気を考えて、
その一つ。
〜〜〜
秋風に たなびく雲の 絶え間より  もれ出づる月の 影のさやけさ
〜〜〜
雲の絶え間から、のぞいてくれるといいなぁ〜〜

また、
明日9月29日は小惑星トータチスが地球に最接近するそうです。
しばらく夜空の天体ショウーが、続きます。
尚、あすは十六夜です。
いつまでも、
月に名残を惜しんでいたのでしょうね。
昔の日本人の自然を愛する心に、
ちょっと触れてみたいと、思った私です。

ところで、余談ながら、
芭蕉の有名な俳句。
「名月や池をめぐりてよもすがら」
この俳句、
池を一晩中めぐったのは、
作者でしょうか?
はたまた月でしょうか???
あなたは、
どちらだと思いますか???
美しい月を眺めて、
池を一晩中何回となく回っていたのか、
あるいは、月がゆっくりと一晩をかけて
池の周りを回ったのか???

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郵政民営化

昨日、小泉さんが、内閣人事を発表。
例の武部さんやら、山拓さんやら、まぁ、いろいろあるのですが、
が、
が、
やはり、「郵政民営化」が表に立ってしまいます。
そんなわけで、今朝のテレビ番組でも、
郵政民営化についての特集を、放送。
私が見た番組では、特集の構成は、
「郵便局特定局の無駄」
に、ついてでした。
確かに、
特定局のいまの実態は無駄が多い。
問題は山積。
例えば、
特定局長の給料、身分。
世襲制も可能なこと。
などなど、、、
また、番組は民間宅配業者と郵政事業との違いなど、
いかに、いまの郵政事業が、
制度の上に、あぐらをかいているかを暴き出していました。
こうした流れを見ていると、
「あ〜〜〜やっぱり民間に委託させてサービスを向上した方がいいかな???」
なんて、私は一瞬。思うのです。
しかし、
テレビを消して、自分の頭で、考えると、
「はたして、そうだろうか???」
と、疑問がフツフツと湧き出てきます。
「民間が、はたして、公共事業より、よりサービスがいいだろうか???」と。
確かに、初めはいいかもしれない。
しかし、恒常的にサービスが保障されるのだろうか?
民間は「利益優先」が最大にして唯一の目的なのだから、
まず、「もうからない」ような過疎地帯は、一番にはずされるのではないだろうか???
競争に勝つためには、
まず、労働者の賃金が削られ、
次に来るのは、サービスが劣悪になることは、
目に見えています。
例えば、私事ながら、
先日、郵便局のATMのカードが、どうも様子がおかしい、
そこで、再発行してもらおうと、局に行ったら、
「何とか、これで頑張ってください。
今月から銀行さんと同じように、再発行に1000円いるのです。」
と、窓口の人に言われました。
「あ〜〜〜やっぱり、銀行と同じようにサービス悪くなるんだ〜〜〜」
という率直な私の感想。
政府が言うには、
郵便やさんは、公務員だったから、
給料は高かった。
そして、働かなかった、
ということらしいのですが、
(私、個人は、公務員は一生懸命働いていると思うのですが、、、)
民間に委託されると、
身分の保障はなくなり、
賃金は、いまより更に、安くなるのでは???
とかとか、思ったわけです。
そんな風に考えていくと、
なんだか、
「問題がすり替えられているのでは?」
と、不安になってきました。
もし、本当に小泉さんが善意で、
「構造改革」をするのなら、
やるべきことは、
制度の無駄を見直すことではないでしょうか???
各省庁の無駄なお金の使い方や、
公共施設。
使途不明なお金の行方。
天下り先の問題。
そして何よりも、
議員の年金やら、
あるいは、黒い霧。
(個人的には、此方の方が問題だと思うけれど、、、)
やるべきことは、いっぱいあるではないですか???
郵便局が、無駄使いの権化というなら、
その無駄使いの元凶を断てばいい。
それをせずに、
すべて、民間に委託。
という論理では、
やはり「はぐらかされている」
と、私は思うのです。
本当の無駄は、
もっと別の所にないのでしょうか???
しかも、
この民営化。
言葉はひたすら踊っているが、中味は伝わってこない。
2017年、という枠組みはある。
この中に入るのは、一体何か???
明らかにされない今の時点では、
私個人は、
「民営化反対」の立場に立ちます。

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2004.09.27

小泉さんの国作り

ディウ”ィッド・ブリン作「ポストマン」。
ケウ”ィン・コスナー主演、監督の映画にもなったので、ご覧になった方も多いと思います。
本の内容は、タイトル通り、郵便配達人の話です。
核戦後の地球。
全て荒廃して、人類は、なにもかも失った。
それは、心とて同じであった。
人々は、憂え、哀しみ、恐れ、嘆き、呪いながら、
日々を暮らしていく。
そんな中で、主人公であるひとりの男が、
単なる偶然から、郵便配達人の衣装と、配らずに取り残された手紙を、
手に入れることになる。
そして、男は、
「この手紙を、受取人に渡そう」と決意したことから、
ポストマンは、始まるのです、、、、、
ひょっとしたら、この手紙を待っている人がいるかもしれない。
その思いから、始まった一歩は、
やがて、人々に
「新しい国がまたできたのか」
という希望を与えることになります。
なにしろ、
郵便が、届いたのだから。
郵便事業がある、ということは、
国家がある、
ということだからです。
どんなに、山奥でも、小島でも、
届けてくれる郵便やさんがいるということは、
国が健全に機能していることの証なのです。
希望を失い、恐怖におびえる人々にとって、
「国が自分たちを忘れていない」という事実が、
どんなにか、光であり、力であるかを語ってくれます。
郵便は、
どこでも、いつでも、だれにでも、
届くやさしい心使いなのです。

さて、
小泉さんは、
今日27日、第二次小泉内閣を発足させます。
「一内閣一閣僚」は、とうの昔に破綻した小泉さんですが、
今回の人事は、
「郵政民営化など改革に使命感と情熱を持って邁進する人」と表明しています。
自衛隊派遣や、九条改悪論議など
「たたかう国作り」へ歩を進めた小泉内閣。
年金改悪や消費税増税など、
「取ります国作り」に前進させた小泉内閣。
国立大学法人化、教育基本法改悪など、
「考えません国作り」へステップアップした小泉内閣。
さて、
この後に待っているのは???
どんな国作りでしょうか?????
「郵政民営化」という構造改革。
国民が、爪の灯をともすように溜めた貯金を、
小泉さんは、壊そうとしています。
もう、国は国民の貯金を保障してくれません。
手紙やはがきも配達してくれません。
学校での勉強も教えてくれません。
国は、
ひたすら、みんなのお金を集めて使う所になります。
なんだか、
住みにくい国になりそうです、、、
本当に、こんな国が出来上がっていいのだろうか???

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2004.09.26

「九条の会」講演会

「九条の会」講演会に行ってきました。
私が会場に到着したのは1時過ぎ。
2時開演にもかかわらず、もう一杯の人で、
行列が数百メートル。
いつの間にか、待っている人同士が話はじめます。
「いっぱいですね〜〜〜」
「本当に、、、」
もう、第一会場には入れず、第二会場で聞くことになりました。
「えっ〜〜〜第二?」
と思ってしぶしぶ会場入り。
すでにここも沢山の人。
やっと見つけた椅子に座り、ホッ。
その後からも、來は、くるは。大勢の人が。
椅子に座れない方は、前方スクリーンのまえに、敷いてあるシートの上に座ったり、
あるいは、床にじかに座る方も。
また、立っている方と。
文字どおり、立錐の余地もないくらい大勢の方が集まりました。
後で知ったのですが、会場に入ることの出来ない方もいたとか、、、

さて、いよいよ講演開始。
講師は、
大江健三郎さん。
鶴見俊輔さん。
奥平康弘さん。
大江さんは、作家らしく「想像力と創造力」の話を中心に、
ゆっくりと、感情豊かに話してくださいました。
映画ビューティフル・マインドで知られるジョン・ナッシュさんと、ニューヨークの地下鉄で友人になった話や、ご子息光さんとの会話などを、話して下さいました。
映画でも描かれているように、ジョン・ナッシュは、「心の病」に苦しんでいました。
「彼を一個の人間として扱うことを諦めようとしなかった人たち、制度が彼を病から救った」
(奥平康弘さんの著から)
どんな人にも生きる権利がある、そんな社会が、ひとりの、多くの天才を生むのだ、、、という話でした。
次の鶴見さんは、哲学者。
何と、小学校を出るとすぐにアメリカに渡られたそうで、日本語より英語の方が、よく話すことが出来る。
日本に帰るにあたり、彼の日本語の講師が、なんとライシャワー元駐日大使だったそうです。
戦争にあたり、
母として、どの様な立場をとるか、という事に関して
三人の母の話を、盛り込みながら、戦争のもたらす非人間性を暴いてくれました。
鶴見さんは、いま82才。
「82才でも、まだやることはいっぱいある。」と元気に話されて、
平和を訴えられました。
最後の奥平さんは、憲法学者。
「憲法が古い」という人がいるけれど、とんでもないことだ。
憲法の精神は、いまだ新しい。
と、話して、
いまの「権力」の中枢がいかに、
ひとりひとりの人間、国民を大切にしていないかのエピソードを、
プライバシーと関連させて話してくださいました。
国連常任理事国入りと、憲法改正とは、全く違う次元なのに、
それを、いっしょくたに土俵に乗せてくる、その論理の矛盾について、
力いっぱい話されました。

三人の講師の方は、それぞれに、
それぞれの話し方、雰囲気で話してくださいました。
会場全体が、一体になってまたたく間に時間が過ぎ、
講演会は、無事終了。
そして、三人の講師は、第二会場にまで足を運んでくださり、
再び、挨拶を交えて、
いろんな話をしてくださいました。
(なんだか得した気分)

「憲法を守らなければ」
と、思っている方が、実はこんなにもいるんだと、
改めて思い、力になりました。
充実の一日。
これからも、
「日本国憲法」について勉強をして、
もっと、もっとみんなに伝えていきたいものです。

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2004.09.25

愛だよ。愛

サンフレッチェ広島のサポーターである私には、
このところの試合結果は、かなり辛く厳しいものがあります。
まず、清水戦。
前半の早い時期から、相手は10人になって、
広島は数的に優位になりました。
ところが、不思議なことに、相手チームには、
「座敷わらし」がいるのかと思うほど、
こちら側は攻められまくり。
そして、ついに3−0で負け。
次に迎えたマリノス戦。
この試合も、やはり相手の選手退場で広島は、
ひとり多いはず、、、
だったのに、
終わってみれば引き分け。
そうして、
先日の新潟戦。
試合開始2分で茂木選手のスバラシイ、ゴ〜〜〜〜ル。
やった!!!!!!
今日はいけるぞ(^.^)
テレビ観戦しながら、
相手スポンサーの亀田のおかきをパリパリ食べながら、
「新潟を食べる」。
し・か・し
し・か・し
なんだか、
変。
いつの間にか、
おかしい???
あらあら
気がついてみれば2−3で、
新潟が勝っている。
アナウンサーが、相変わらず叫んでいる。
「新潟、J1に入って、初めての地元での勝利を目前にしています。
4万人のサポーターのまえで、
今日、勝利の報告が出来ます。
今日の、、、、」
おいおい、
まだ、試合は終わっていない。
と、思うまもなく、
終わりました。
2−3で負けました。ガクッ。
こっ、こんなはずでは、、、
なかった、
はずなのに、、、

あ〜〜〜〜〜
なんだか、力が出ない。
声が出ない。
頭が回らない。
クラクラ〜〜〜〜〜
ウッウッウッ。
新潟サポ4万人が、もみじ饅頭食べたか???
マケタ(^^;

う〜〜〜〜ん。
困った。
コマッタ。

さて、そんなわけで、
その日を含め、広島の掲示板やら、応援サイトは、
かなりネガティブな風が吹きまくります。
そんな、ひとつひとつの書き込みを読みながら、
「うん、うん」
「なるほど」
「いや〜〜〜そこまでは。」
とかとか、私は思うのですが、
ただ一つだけ、寂しいと思ったのは、
「こんなチーム、もう応援しない」
という内容のものです。
応援する、しないは、その人の考え方だから、
それは、それでいいのですが、
ただ、
「負けているから、腑甲斐ないから、応援しない」
というのは、サポーターとしての本来の在り方ではないと思うのですが如何でしょうか?
勿論、
その言い分の一つひとつは、まとを得ているし、分かるのです。
気持ちも分かるのです。
本当は、広島が好きだということも、文から脈々と伝わってくるのです。
しかし、
しかし、
私たちは、
選手のことを、どこまで分かっているのでしょうか???
一番、苦しんでいるのは、
当事者です。
絶対に。
それは、間違いなく。
彼等は、逃げることは出来ないのだから。
一番、悔しいと思っている、
悩んでいる、
苦しんでいる、
のは、選手や監督やチームの関係者です。
人は、
苦境に立ったとき、その人の真価が出る、
と、私は思います。
だから、
選手も、この苦境を乗りきるために、精一杯の努力をしなければなりません。
監督も、戦い方の工夫をして欲しいものです。
見ている私たちに、
充実感、達成感が感じられっるような、
素敵な試合を、して欲しい。
そして、
私たち、サポーターも、
華麗なプレーには感嘆の声を。
負けが込んで、選手の気持ちが後ろ向きになったら、
励ましの声援を、、、
なによりも、
暖かく見守っていかなければならないのではないでしょうか???
何回、裏切られても、
どんなに、惨めな試合を見せられても、
その直後は、猛烈に怒りながらも、
それは、それとして、
ド〜〜〜ンと受け止めて、
ハッハッハッと笑いとばす。
そして、次の試合に期待する。
そんな、肝っ玉サポーターに、
私はなりたいです。
ビールのみながら、
相手チームスポンサーの商品を食べながら、、、(^^;

「愛だよ。愛」と言って、
ハラハラ、ドキドキ。
私は、これからも広島を、ズッ〜〜〜〜と応援します。

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2004.09.24

教育基本法

教育基本法の改訂への動きが、
ますます明らかになってきました。
教育基本法改正問題 については、一連のニュースが、まとまっていますので、
お時間がおありでしたら、ご覧ください。

文科省は、来年の通常国会で提出の予定。
かなり急いでいます。
自民党や公明党の議員の中でも、意見は分かれているようですが、
いずれも
「愛国心」
が、盛り込まれることは必至。
また、民主党の議員もこれには積極的に関わっています。

「愛国心」
そもそもは、誰だって(大多数は、)
祖国を愛していると思うのです。
文字通り「愛国心」を持っています。
それなのに、
この言葉、
どうして、こんなに
きな臭い
のでしょうか???
人をして、不安にさせるのでしょうか????
言葉には、
国語辞典の解釈、以上のイメージというものがあります。
「愛国心」という言葉からは、
残念ながら、
ほのかで、優しくて、豊かで、美しいものは想像できません。
やはり、
歴史が、そうさせるのでしょうか???
過去の歴史で、愛国心が歌われたときは、
いつも「いくさ」があったから。
愛国心は、戦争と共に歩いてきたから。
だから、
私たちは、この言葉に警戒をするのでしょうね。
本能的に、「危機」を感じるのでしょうか???
いえいえ、
本能ではありません。
実際、今回の「愛国心」も、
同じです。
「お国のためには命を投げ出してもかまわない若者を作る」
(民主党、西村真悟議員、今年2月26日、朝日新聞)
なんて、言われたりしたら、、、
そして、
現実に、国の内外を見ると、
ザワザワと胸の痛むことばかり。
中東。
ロシア。
北朝鮮。
沖縄のヘリ墜落。
、、、、、、
しっかりと、
見て、
声を上げるべきときに、上げないと
とんでもないことになりかねない気がします。

どうか、
どうか、
私たちの次の子どもたちの世の中が、
平和で豊かなものでありますように、、、

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ゆとり教育 その2

その1より

実際に学校現場で取り入れた教育の果てが、
「分数のできない大学生」であったり「天動説」の子どもであったりしたら、
それはそれで、文科省も悩む。
仕方がないので、場当たりてきに新しい方針を、通達する。
こんなやり取り、流れを見たいたら、
教育関係者や保護者は、ますます不安になります。
私は、「新学力感」
が提唱されたときの勉強会に行きました。
その時は、現場の先生方と主催者しか集まりませんでした。
しかし、「ゆとり教育導入」の時は、
広島大学で公開講座を開催されたときは(2001年)は、会場が一杯になりました。
確かに、これまでにない
「完全5日制」への不安や、興味があったからですが、
背景には、宣伝マスコミの煽りの力を思わずにはいられません。

ゆとり教育実施後は、子どもたちも変わったのですが、
現場の教師にとっても、同じような変化がありました。
「以前は、教師が集まれば子どもにどう、わからせるか、、、ということで、
話が弾んだのに、
ここ2〜3年はリストラされたらどうしよう、、、なんて自分の将来が話題になる、、、」と言ってました。
先生方にも過労死や自殺、ノイローゼの数が圧倒的に多くなっているそうです。
教科書は薄くなったにも関わらず、
(薄くなったということは、丁寧に教えられないということに直結するからです。)
先生の仕事は、増えました。
総合教育の準備やら、
また、
子どもの成績の付け方が煩雑になって、
「関心、やる気、態度」をチェックしなければいけなくなったりと、、、
先生自身が、悩み、疲れています。
気持ちでは、
「子どもたち」のことは十分考えていても、
時間がない。
保護者はどうしても、
「我が子に成績をつける先生」に厳しい評価を下しがちですが、
教育の現場こそ「おきざり」にされ、
なおかつ「つけ」だけが回って来ています。
先生方の声が届かない
「教育改革」。
ゆとりのない「ゆとり教育」が、
今なお続いています。

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ゆとり教育 その1

今日は「ゆとり教育」について見ていくことにします。
ゆとりーこんなに耳障りがよくて素敵な言葉なのに、
「ゆとり教育」となると、
「学力低下」
と、容易に結びついてしまうのは何故でしょうか?
ここで、「ゆとり教育」が出てきた歴史をサラッとおさらいします。

教育の現場に「ゆとりある教育」という言葉で登場をしたのは、
1976年の教育審議会の答申からです。
その背景には、
詰め込み教育の弊害、
学歴偏重教育への疑問などがあります。
(この間、共通一次導入や、新学力感など次々に文部省の方針がありました。)
そして、本格的に審議されだしたのは、
2002年の、
学校完全5日制にむけてです。
土曜日をどの様に過ごすかという不安と共に、
「生きる力」
「ゆとり」
などおなじみの言葉や
「学力低下」
「教科書三割減」
などがマスコミで大々的にとりあげられ一大キャンペーンがとりなされたのもこの頃です。
そうして私たちは
「ゆとり教育」の本質を全て学ぶ機会もないまま、
「学力低下」の荒らしに巻き込まれ、
それは文科省も例外でなかったのです。
2002年、1月17日、
文部科学省は
「学びのすすめ」
というアピールを出しました。
「総合学習よりも確かな学力を」
と、いうちょっと乱暴な解釈で、教育の現場はさらに混迷を深めていきました。
 〜〜  「学力低下」をどうみるかー尾木直樹(NHKブックス)参照〜〜

こうした流れの中に(背景はもっといっぱいあります)今、私たち、私たちの子どもはいるわけです。
その2に続く

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2004.09.23

学歴神話

学歴というのは、
○○小学校卒業に始まり、
最終の出身校までの「履歴」のことです。
そもそも、この言葉が出てきた背景は、
高度経済成長期、多くの労働力を必要とした企業の論理があったのです。
そして、
「よい学校を出て一流企業に勤めることが人生の幸せにつながる」という「学歴神話」が、
いつの間にか(あるいは意図的に)広まりました。
60年代になると、
農家の子どもたちは、「勤め人」になるために、
そして「幸福路線」に乗るために、
学歴を求めるようになります。
しかし、この時代でも、
「学歴と実力は必ずしも一致しない」という批判もありました。
能力はあるのに経済的理由で上級の学校に進めなかった人々が、
今よりさらに多かったからです。
その後、日本は、
まずます経済が伸び、
貧困は目の前からは消え、(潜在的な貧困は残存したままですが)
多くの日本人は、自分のことを、
「中流」と思い、生活は平均化してきました。
この過程
の中で人々が学んだことは、
「高学歴は、高収入に繋がる」
と、いうことでした。
そこで、ますます我が子に対して、
幸せ切符を手渡すために、親たちは「学歴」を求めて、
「よりいい学校」へと奔走することになります。
その結果、
競争が始まり、
ますます拡大していくのです。
気がついてみたら、高度経済は凋落。
不景気の荒らしは、世間を吹きまくっている。
頼りとしていた大学も、卒業してみれば、
なんの役にも立たない。
就職がない。
(そうりゃ、そうです。
そもそもの学歴云々の仕掛人は企業の論理なのだから、、、)
田舎に帰ろうにも、そこにはもう田んぼはない。(減反政策で)
都会にしがみついて生きていくしかない。
再び、日があたるまで。
ほんの一握りの「生き残り組」になるには、
やはり学歴だ〜〜〜資格だ〜〜〜〜
と、ますます学歴信仰は高まり、
学校間格差も広がり、
学力の二極化も顕著になります。
今年4月から国立大学が消えました。
法人化されたのです。
多くの関係者の反対を押し切って強行。
これからの子どもたち、親たちは不安を隠せません。
しかし、
それでも、
学歴を付けないわけにはいかない。
なにしろ「信仰」なのだから。
みんな、
本当はわかっているのです。
「学歴」がその人の能力と直結していないことを。
社会に出れば、
「その人」だけが武器であることを。
たとえ、資格を持っていても、
その知識を使うのは、その人の知恵であることを。
次第しだいに、
学歴信仰は崩壊しつつあり、
神話になってきているのも確かです。
私は、個人的には
学歴はなんの役にも立たないと思っています。
しかし、
学力は、必要です。
勉強することは大切です。
子どもたちには、
「勉強しろ。」とは口うるさく言っています。
学ぶことは、謙虚になることだと思うからです。
自然の摂理の中で、
ちっぽけな自分が生かされている、その不思議さや素晴らしさに戦くことは、
学びの中で、かちとることです。
「学問に王道なし」
人は、いつでも学ばなければなりません。
それは、学歴とは無縁です。
(なにしろ学歴とは、何回もいいますが、企業の論理です。)
学ぶため、
勉強するために、
「学校えらび」をして欲しいというのが、
私の考えです。

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2004.09.22

日本の公教育

明治十年、東京に唯一の帝国大学が創設された事が、
近代日本の公教育の始まりでした。
その後、遅れること二十年、京都に帝国大学が作られ、
この二つの大学が事実上、その後の日本の教育の上に君臨する時代が続きました。

第二次世界大戦後、
教育基本法が制定され
、今の私たちの学校教育の柱となる法律が作られました。
(ここでは、教育の歴史を綴る事が目的ではないのでイロイロの事実を省略)

今、現在の学校教育は、
文部科学省が責任官庁です。
そして、文科省にもっとも影響力がある発言力を持っているのは、
「中央教育審議会」です。
文部科学省、中央教育審議会の時々の答申によって、
学校教育の現場は揺れ動きます。
「期待される人間像」に始まり、
現「ゆとり教育」まで、
実に多くの答申、方向性が出されました。
戦後の復興日本から、高度成長期、バブル崩壊、そして現在の出口の見つからない不況。
社会の動きと不可分であったことはいうまでもありません。
学歴偏重の悪弊からくる校内暴力、
それに対応するために『ゆとり教育」。
しかし、少年犯罪はますます低年齢化するという実際。
教科書は薄くなり、
反比例して教師の負担は大きくなり、
その狭間で子どもたちはつぶれていくという実態。
何か、問題があると、
「学校はなにをしていた?」
「家庭はどうなっている?」
学校、家庭、地域がお互いに責任をなすりつけていく。
その隙間をついて、文科省はますます教育を荒らしていく。
じつは、
教育の流れを長い目で変えていこうとする強烈な意思の持ち主がいることを忘れてはいけません。
公教育に隠然と力をかけるものがいるのです。
それは、
戦後、間もない頃からすでに
「教育基本法はいずれ変える」
「三割のエリートと後は兵隊を作ればいい」
と、いう勢力がありました。
この勢力の存在を私たちは、つい忘れて、
学校と保護者が時として敵対することもあります。
本来、学校と保護者は共に手を取り合う仲です。
今、
新たに浮上している「教育基本法改訂」の動き。
来年1月にも通常国会に提出される模様。
この動きには、
しっかりと注目していかなければと思います。

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学力とは何か? その3

学力とは何か?その2より

本来は、
子どもたちや親、そして教師からも歓迎で迎えられるはずの、
「ゆとり教育」が眉唾物の代表みたいに考えられる原因は、
現場から遠く離れた人たちが、前の失敗を分析、総括しないことにあります。
そこで、
詰め込みからゆとりへの変換時に何があったかを、
見てみます。
「詰め込み教育」は確かに当時かなりの問題を抱えていました。
スプートニクショックで、
世界中が「理数教育」の重要性を訴え、
日本もそれに負けじと、教育に力を入れた結果、
知育偏重のゆがみが出てきたのが、1970年代後半からです。
そして180度の転換を図り、
「ゆとり教育」が提唱され、
「新学力感」が出ました。
「できないのも、個性」と一時期ブームになったこの新学力感。
「算数はできなくてもいいんだよ。いい子なら」
「理科がわからなくても問題ないよ。元気なら」
「何も考えなくていいんだよ。素直なら」
こうして登場した
「新しい学力感」。
「できないのも個性」と堂々と言われたときは、教育界周辺では動揺が走りました。
しかし、その実態は、
あまりに現実からかけ離れていたため、
当然、保護者、教師、識者からの猛反対をうけて、
「新学力感」は定着することなく、葬られました。
ただ、その後の「ゆとり教育」として引き継がれたことは言うまでもありません。
「関心、意欲、態度」として残りました。
そして、今にいたって問題なのは
「できないのも個性」として、
学校現場から「教えること」を撤退させたことも未だ残っているということです。
新学力感以後は、
「授業中で分らない者はハイそれまでよ。」と切り捨てられていきました。
最悪なのは、そうした子どもたちのことを
「落ちこぼれ」
と、評したことです。
落ちこぼれではありません。
「落ちこぼして」いったのです。
そして、真犯人は、もちろん、文部省(今の文科省).
「わからせよう」とする努力を放棄した学校。
規律、統制だけが残った学校。
こんな学校に子どもたちが信頼を寄せるはずはありません。
学校の転落がここから始まります。
つづく

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学力は何か その2

昨日は、学力とは何か
で、主に「定義」を中心に書きました。
今日は、それを受けて、
「教育から期待されるもの」は何か、
を中心に考えていきます。
教育から期待されるものは
「人間形成」であるといえば、
誰からも、
どの立場の人からも反論は返りません。
では、「どのような人間形成か?」という問いになると、
様々な答えが返ってきます。
教師、保護者からの声は、
「バランス感覚のある人間」
「感性豊かな人間」
「思いやりのある人間」などなど
「精神面」に「人間形成」を期待する回答が多く寄せられます。
また、経済界は露骨に「人材養成」を教育に求めてきます。
文部科学省は今頃は「愛国心」を教育に打ち出してきました。
それぞれの立場の人が目指す
「人間形成」は違って当たり前なのですが、
ここで不思議なことに、
「学校の勉強がよくできる人間」を求めるということを、
口にする立場の人がいません。
それは、おおうにして、
「ガツガツしている」
「冷たいがり勉」
「頭でっかちのヘンチクリンな人」というマイナスのイメージを、
「勉強好き」に対して持つ人が多いことの反映のような気がします。
これは、「詰め込み教育」の負の遺産です。
何もできなくてもいい。
頭さえよければ、
成績さえよければ、という時代の失敗を、
なんの総括もせずに、
「詰め込み教育」はいかん。と結論を出し、
「ガツガツ勉強することは恥しい」というような風潮を作ってきました。
その中で出てきたのが、
「ゆとり教育」であり、
「新しい学力感」であるわけです。
つづく

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2004.09.21

学力とは何か?

学歴論争、あるいは学歴神話を考える前に、
「学力とは何か」というかなり、突っ込んだテーマに挑戦します。

「学力」は日本語です。
つまり他の語にはこの概念に匹敵する語はない、ということです。
学力と私たちがひとまとめにする言葉のなかに、
実は二つの意味があるからです。
まず、誰でもが思う
「読み、書き、そろばん」という基礎的な力です。
次に、それだけでは、ちょっと落ち着かないということで、
「自ら考え、行動し、表現する」力、
つまり実践的な能力にまで拡大して定義されます。
この二つは、はっきりと区別されることなく論議され、考えられてきたことに、
今日の混迷の原因の一つがあると思います。
「分数ができない大学生」で一躍有名になった西村和雄さんのグループのデータから「計算力の低さ」=「学力低下」に結びついたのです。
時あたかも1999年、三年後には「完全5日制」が導入され、
ゆとり教育、総合学習が学校の中を大手を振って歩いていく、というその危機感、不安感があった時でした。
この本は爆発的に売れ、読んでないまでも、
「今どきの大学生って分数できないんだって」という言葉は世間に流布しました。
ここでいう学力は英語のarchivementに近いものです。
一方、この対局にいて、
「実践的な力」を伸ばす方向にこそ教育はあるとして、
学習内容削減を叫び、なおかつ実行した(個人的には悪名高いと、冠をつけたいんだけれど、、、)文部科学省の寺脇研さんが代表です。
この、中間にいるのは、「学力があぶない」などの著書で、これまたブームを作った大野晋、上野健爾さんなどです。尾木直人さんもこのグループに入ります。
一連の学力論争の構図はこうして、
お互いが「学力とは何か」という出発点を異にして始まりました。
論争は論争で大いにやればよいのですが、
ここで一番困ったことは、関係省庁である、文部科学省が時々で揺れたことです。
つまり、
ゆとり教育に代表されるところの「実践」を重じる方向から、
「基礎への転換」をはかり、さらに2003年に文部科学大臣は「メッセジー」として実践重視に再転換しました。
こうした流れの中で保護者や教員が戸惑いを隠せなかったのは言うまでもありません。
「学力とはなにか?」は宙に浮いたまま、不安と焦りだけが一人歩きをしました。
つまり、
「学力低下論争」として。

学力低下不安現象が何故起きたかについて、
尾木直樹さんの本によれば(「学力低下」をどうみるかーNHKブックス)
「学力論争」は戦後五回あり、
いずれも経済不況と不可分の関係にあるというのです。
一回目は1948年。(47年に教育基本法と、学校教育法が公布)
二回目は1961年。(岩戸景気の終り)
三回目は1975年(完全失業者100万人突破)
四回目は1992年(バブル崩壊)
そして、2002年、本格的な金融危機を迎え、今に至っている。
学力論争と、社会情勢は密接な関係にあると言っています。(興味のある方は読んでみてください)
そして、尾木さんはこうも言っています。
そのいずれもが「現場を無視して論争だけが一人歩きしている」と。
ここでいう現場の声とはとりもなおさず「子どもの声」と思ってください。

「天動説」を信じている子どもたちが4割、
ということで、今、話題になっていますが、
始めに書いた学力の二つの意味、
つまり基礎的な力も、応用する力も低下してきているのでしょうか???
しかし、
これは、子どもの能力とは別の所の問題があるのは明らかです。
つまり、
学習指導要項の貧弱さに起因しています。
こののまま、進めば、確かに子どもたちの本来の能力は摩滅していくような気がします。
時代を担う子どもたちの教育を保障していくのは、私たち大人の責任です。
この問題、しっかりと取り組んでいきたいと思います。

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今の子どもたちは  塾について その2

昨日に引き続き,
今日も、子どもたちをとりまく状況を、
塾を中心に考えていきたいと思います。
なお、塾の歴史については、瀬戸智子の実験教室、あすなろ通信に書いてありますので、
興味、お時間があればご覧ください。
〜〜〜〜〜〜〜〜
塾にいかなければ成績は上がらないか?

確かに塾に行くと成績が上がる、
志望校に合格する、合格しやすい、という利点はあります。
特に難関校といわれる学校を目指している受験生にとっては、
「受験塾」はもはや必至。
生活の一部です。
なにしろ、
難関校の受験問題は、学校教育の範囲をこえている難問です。
これは、そうした勉強のやり方をしないと対応できません。
また、塾の先生は、
「楽しく教えてくれる」
「分りやすく教えてくれる」
という評価も、学校の先生より上だったというアンケート結果もあります。
(学校の先生も実は、もっと教えたいけれど、文科省の方針に乗ってやらなければならない、という矛盾を抱えています。)
環境が人を作ると言うことは確かにあるので、
周りがバンバン勉強をしている中にいると、
ひっぱられる事もあるし、モチベーションが高まることもあります。
「たちまちの成績は上がる子」の方が多いのでは、と私は思います。
塾には塾の良さや意義があることも事実です。
また、近年、入試の在り方などが論議されているので、
塾も、「ひたすら、勉強」という方針は少なくなってきました。
一方、良くない点として考えられるのは
「子どもの健康を阻害する」
ということが一番のように私は思うのです。
(健康という点に着目をしての論議は、かなり少ないように思うのですが。)
本来、
人間は朝起きて、
しっかりご飯を食べてトイレを済ませ、、
日中の活動を行って、
その後、リラックスして眠りにつく、、
というリズムで体が作られています。
ところが、この生体リズムが大幅に崩れているのが現代社会です。
大人もそうですが、
成長期の子どもの方がもっと事態は深刻です。
子どもたちの生体リズムの崩壊の一部を担っているのは、まちがいなく「塾」です。
(勿論、その他要因は一杯ありますが、今回はあえて塾にのみ言及)
子どもたちは、
クラブを終え、
クタクタになって帰ってきて、食べるものをかき込み、シャワーを浴びて、
一気に塾へ、、、
塾では、夜遅くまで、座りっぱなしで机に向かいます。
普通は9時までですが、補修なんかもあって、
12時近くまで頑張る塾もあります。
そして、帰ってから、
遅い夕飯に、お風呂。
このまま眠ることが出来ないので、ちょっとリラックスタイム。
時計は、もう次の日になって、ずいぶんになる、、、
やがて、朝。
当然起きることは大変。
また朝御飯もなかなかのどを通らない、、、
そして慌てて学校へ。
学校では、「授業中」は安らかな睡眠タイムZZZZ
毎月、実力試験があるので、
休みの日も「塾」。
そんな繰り返しが続きます。

健全な体の活動をしていないので、
精神的にも不健康になる子が多いのも事実です。
「いじめ」「不登校」など、極端な場合もありますが、
何よりも不自然な事は
「考えない子」が出来ることです。
悩む、考える、ということはかなりエネルギーのいることです。
こんな面倒くさいことは嫌がります。
塾では、与えられた問題を、教えられたように解く。
自由時間は、ひたすらリラックスタイムとして使う。
こうして、
点数はとれるけれど、悩まない子どもたちが輩出されていきます。
健康にしろ、人格にしろ、表れるのには時間がかかります。
成長期の大切なときに、
不自然な食生活と睡眠時間、思考を停止してしまう生活様式を強いられながら、
志望校の受験手形を手に入れます。

そこまでして「学歴」というものは手に入れなければならないのでしょうか??
またそうしなければならない「学歴」とはなんなのでしょうか???
次回に続く

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2004.09.20

今の子どもたちは  塾について

今、子どもたちは、「生きにくい世の中」であることは、
大方の人が納得することだと思います。
(実際は、大人たちもですが(^^;)
ここで、
学校に行っている子どもたちが、抱えている問題、取り巻く環境について、
ちょっと考えてみたいと思います。
特に、
塾、内申書、偏差値などについて、
以前、瀬戸智子の実験教室のあすなろ通信で、ずっ〜〜〜とシリーズで考えたことがあります。
その内容を。
ここに転載して、さらに深めていきたいです。
尚、すご〜〜〜く長いので、何回かに分けて転載します。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
まず、塾。
殆どの子どもたちが塾に通っています。
受験生になれば95%以上が行っていると思われます。
塾のタイプは二つあって、
「ガンガンやります」タイプと
「苦手を克服しましょう」タイプ。
前者は「入塾試験」がある場合が多いです。
親や子どもたちも「○○塾に行っている」ということが、
一種のステータスになっている事もあります。
後者は、2〜10人未満で少人数を、うたい文句にしているところが多いです。
「とにかく学校の勉強についていってもらいたい」という親のニーズに合せています。
塾の時間も2〜3時間で、
一週間に2〜3回で、クラブもやりながら十分に行ける範囲です。
一方、前者の「がんがん」の方は、入塾試験を通り抜けた、強者のクラス。
時間も3時間以上、通う日も3日以上(毎日の塾もあります)進度も超スピード。
三年生を迎える頃は「中学レベル」の勉強は終っています。(対象は中学生の場合)
夏休み以降は、ひたすら難関校の問題を解き、パターン学習をします。
途中から入塾した場合はかなり厳しいので、
親は「早くからやろう」と決意するのが、この難関クラスです。
小学校なら四年生。中学なら一年から。
どんどん問題をこなし、全国試験をさせ、お互いに競争させるように仕向けていきます。
夏、冬休み合宿なども行い、
親は学校の行事を休ませても「なるべく塾の合宿に」参加させようとします。
そして、ひたすら暗記や難問を解きます。
(解けない子は途中の段階でやめていきます)
どんな問題がきてもOK.
(ちなみに私は解けない(>_<))
難関校を目指すなら、このやり方をしなければ受からないというのは現実です。
時間とお金をかけたものが勝ち組になるという現実。
さて、ガンガン塾とゆったり塾。
どちらがあうかは「本人次第」です。
いい、悪い、は一概には言えません。
子どもの性格や環境などを考えて、選んでください。
ただ、ここで問題なのは、「塾に行かなければ勉強は出来ないのか?」
ということです。
これについては、次回に書きます。

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2004.09.19

しつけという体罰

栃木県の幼児誘拐事件は、ついに最悪の結果となりました。
行方不明のお兄ちゃんも見つかり、
これからは、犯人の動機やその他に捜査はすすんでいくと思います。
かわいい二人の男の子。
冥福を心からお祈りします。
どうぞ、やすらかに眠ってください。

さて、
昨今の幼児虐待ニュースの多さには驚かされます。
「子どもが生きにくい世の中」になってきているということでしょうか???
子どもや、お年寄りが生きる上で、どの様な状況にあるかは、
その社会の健全さを示す一つの指標であると思います。
日本は、しだいに社会全体が蝕まれてきているのでしょうか????

ところで、今回は「体罰」について考えてみたいと思います。
私自身は、子どもを育てるにあたって、
体罰というか、手をあげたことは二度あります。
一つはトイレトレーニングの時。
もう一つは、部屋を散らかした時。
いずれも3才前の頃です。
あまりに言うことを聞かないので、遂にぶったのですが、
その時の子どもの怯えながら私を見た目を、今でも忘れることはできません。
私は、ぶった後、子どもを抱き寄せて、しっかりと目を見て謝りました。
「ごめん。かあさんが悪かったね、、、」と。
それ以来、子どもには、ひたすら口で叱っています。
なかなか言うことを聞かないので、イライラします。
そんな時は、子どもの見ている前で、
座布団を床に叩きつけたりして、
母の怒りの大きさを知らせているのですが、
当の本人には、あんまりわかってもらえません(^^;
ひたすら、子どもとの「闘い」
知恵比べです。
ある時は、泣く真似をしたり、
またあるときは、一言も口をきかなかったり、、、と。
そうこうしているうちに、
子どもは、親をそこにおいて成長しました。
おかげで、
「人は自分の思うようには動かない」
「待つ」
と言う事を学びました。
子育ては,親育てとは、よく言ったものです。
さて、ある日、
子どもに、以前の体罰のことを聞いてみました。
まだ3才前の出来事なのに、彼はしっかりと覚えていました。
そのことを。

あ〜〜〜
やっぱり、子どもは見ているのだ、
覚えているのだ、
と改めて思ったものです。

「躾」という名で、体罰が許されていることがあります。
しかし、それは単に躾ける方の怠慢なのでしょうか???
口で言って諭して、納得させる作業は、本当にエネルギーがいります。
ポンポン叩いて、黙らせて、自分の思い通りに、やらせることは、
確かにその場では効果があります。
楽です。やる方は。
では、やられた方の心理はどうか?というと、
暴力で屈服させられたと言う経験は、
本人にとって耐え難い屈辱であると思います。
人は、自分を守るために、自己防衛能力が備わっているわけですが、
暴力に晒された人間は、
その時 脳は活動しない、そうです。
「何も考えない」
ひたすら通りすぎるのを待つだけ。
そして、この経験は記憶の深い部分に沈んで、
本人は普段その部分には触れないように、
自分で自分を規制していく。
しかし、潜在意識にはしっかりと植え込まれていくわけです。
マイナスのエネルギーとして。
そして、
成人した暁には、
また同じことを繰り返すことが多いようです。
しかもより増幅して、、、
相手が友人である場合や、親や、我が子や、
(あるいは極端になると社会全体かもしれないが、、、)
つまり、
体罰では、人は変えられないのです。
体罰はやはり相手を析服させる暴力なのだから。

もし、真剣に我が子のことを思い、(親ならみんなそうですが)
その子を、よりよくしていきたいと思うなら、
粘り強く、子どもと向き合うことが、実は一番の近道です。
子どもは、
育てたように育ちます。
子どもを育てると言うことは、
人間を育てるということだから大事業だと思いますが、
楽しんで、ゆっくりと、
そして、全てに感性豊かに育てていけるように、
社会全体でもフォローアップしていきたいものです。
孤独な親を作らない。
寂しい子どもを作らない。
子どもを、みんなで暖かく育てていけるような世の中になってもらいたいと、
願わずにはいられません。

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2004.09.18

有事関連2法案、施行

昨日17日、
有事関連2法案が施行されました。
特定公共施設利用法と「国民保護法」です。

特定公共施設利用法は、
有事の際に、
民間空港や港湾、道路、電波などが、
米軍や自衛隊に優先的に使用することを保障する法律です。

「国民保護」法は、
米軍や自衛隊が、軍事活動を自由に行えるように、
国民が統制、管理、動員される法律です。
そして、この2法とも、
日本が攻撃を受けていない段階で発動できる仕掛けになっています。

いつのまにか、
知らない間に、
ドンドン、戦争への道に組み込まれていっているようです。
なにしろ。
今、国会では
自民党、公明党、民主党の議員が、
憲法改正を声高に唱え、
教育基本法を見直そうと躍起になり、
税金を上げようと必死になっているのだから、、、
それは、
始めは、
なんの関係もないような法案から出発するのです。
たとえば、
「男女平等機会均等法」とか。
本来ならば、歓迎されるはずのこの法律。
しかし、どうしたことか
いずれ有事立法に繋がり仕掛けがあるとしたら。
なにしろ銃後を守るのは女性だから。
とか、とか。
なんだか「見えにくい」ようにしているのです。
なんとなくであるが「きなくさい」
と言うことは、
音もなく、静かに、そして少しずつやってくるのでしょうか???
そして、
気がついたら、
火はもう目前にまで迫っている。

以前も取り上げたマルチン。ニーメラの詩。
今日はもう一回載せようと思います。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
共産党が弾圧された。
私は共産党員ではないので黙っていた。
社会党が弾圧された。
私は社会党員ではないので黙っていた。
組合や学校が閉鎖された。
私は不安だったが、関係ないので黙っていた。
教会が弾圧された。
私は牧師なので立ち上がった。
そのときはもう遅かった。

マルチン・ニーメラ

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静止画面はゴメンです。

昨夜、多くの人の耳目をさらったのは、何といっても「プロ野球スト突入」のニュースでした。
私も、5時、6時、7時、と、ニュースの時間にテレビをつけて、行方に注目。
そして、9時に「いよいよ、発表」という事で、緊張して見ていました。
結果は、「ストライキ決行」。
今日、と明日の2日間のストが、正式に決まりました。
その後、経営側と選手側の会見が放映されて、
双方の言い分を聞きました。
プロ野球に詳しくない私ですが、
ここへ至る経過や「例のあの人」の発言やらで、
予め経営者側には不信を持って聞いていたのですが、
会見の内容は、私の不信を裏切らないのに十分なものでした。
経営者側の不遜で横柄な態度に比べて、
選手会代表の古田さんの、トツトツと感情を押し殺しながら、
話す態度。またその内容。
全てにわたって、
この勝負。選手会側に理あり。
(先週、求められた握手を断った映像が何回もテレビに写し出されていましたが、
分かるような気がしました。)

さて、
私は、この会見を見ながら思ったことは、
やはり「テレビに写し出される」ことって大切だと思いました。
双方の表情の一つ、ひとつから見えてくるものってあるじゃないですか、、、
言葉でなく伝わってくるものを、しっかりと私たち視聴者は見ているのではないでしょうか???
そういう意味で、
昨夜の双方の会見は、良かったと思うのです。
これは、
国民の関心の高いプロ野球についてでしたが、
関心が高いという意味では、
私たちは、
このところの税金の使い道やらNHK受信料やら、
あまたの問題についても関心があるわけです。
参考人を招致した各委員会の模様が、
テレビ放映されないで静止画像とか、
あるいは、それさえないこともありますが、
私たち国民は、顔の表情一つひとつさえ見過ごさないぞ、、、
という意味でも、
「国民の知る権利」として、
きっちりと放送されるべきだと、あらためて思いました。
「静止画面はゴメンです」

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2004.09.17

不安と恐怖

不安と恐怖は、似て非なるものと思います。
多くの人は未来に対して、希望より、不安を持っていることの方が多いように思います。
病気、死といったものから、受験の失敗、仕事の有無、、、、また、この頃は犯罪、、、とにかく考えたら切りが無いくらい不安材料はあります。
私の場合は、ここで何回か書いているように、
最大の関心事は「健康」です。
どこかが痛いと、もう大変。
すぐに、「癌だ〜〜〜」と騒ぐので、
家族からは、もう相手にされていません(^^;
「そんなに病気になりたいの?」と、逆に質問されて、ショボン。
昨夜も、夕飯の片付けをしている時のこと。
洗った天ぷらマットを、シンクの上の棚に片付けるつもりで、
冷蔵庫を開けているんです。
あまりの阿呆さに、自分で笑いこけて、
くつろいでいる家族のところに、それを持って直行。
「ねぇ、聞いて。かあさん。これを冷蔵庫に入れようとしてんの。バカみたい。」
と、ひとしきり笑った後、台所に戻って、また冷蔵庫に、その天ぷらマットを入れようとしました。
さすがに、不安がよぎる〜〜〜
大丈夫???
今朝は、けさでみんなのお弁当の支度で、大わらわ。
先に作っていた煮物と、お漬物を間違えて、
なんとお漬物をレンジでチン(^^;
みんな唖然・呆然
あ〜〜〜〜
不安だ。
さすがに深刻。
頭に手をやって、
「おい、大丈夫???」と聞いてみたけれど、
頭は知らん顔。
ショボン。
ちょっと、みのさんのテレビ、良く見ておかなければ(^^; (^^;(^^;
と、いうわけで、ちょっと心配な私。
落ち込んでいると、夫が本を持ってきてくれました。
「この本、読むと元気でるよ〜〜〜」
本の名前は、
「ただマイヨ・ジョーヌのためでなく」
そういうわけで、今ランス・アームストロングさんの本を読んでいます。
読了後、感想を書くつもりです。
もし、よろしければ、またお付き合いください。

さて、この不安。
「不安がっている人は自分の権限にない物を欲している」という
ローマの思想家エピクテトスの言葉があります。
いかがでしょうか?
確かに、
不安というのは「自分の努力で解決出来ないこと」を、
あれこれ考えていることから発しているよう気がします。
「下手の考え、休むに似たり」でしょうか、、、
不安に関しては、自分で作っている妄想の部分がかなりあるようです少なくとも私は(^^;
したがって自分の気持ちで処理できます。
私も、頑張らなきゃ、マケナイぞっと。(^.^)

しかし、恐怖。
しかも社会的、病理的な恐怖は、
何やらどこかに「仕掛人」が
いるのかもしれない。
「テロだ」「詐欺だ」「、、、だ」「、、、だ」
とにかく、身の回りに目に見えない恐怖がいっぱいあります。
そして、この恐怖の
行き着く先が「自己防衛」であったとしたら。
ひょっとしたら、自己防衛の名の下にさらにとんでもない事態が発生するかもしれないと思います。
FAIRNESSさんは、ブログで、恐怖心の囚われ人と言うタイトルで、
恐怖が、引き起こす心理について書いていらっしゃいます。
そもそも武器とは、
人が生きていくための道具でした。
狩のため、あるいは野獣から身を守るため。
しかし、
今、武器は人をあやめる、殺すための道具になりました。
そして、他人から身を守るための道具になりました。
悲しいことです、、、
日本は、そんな武器を海外に輸出解禁する方向で動き出したようです。
石破防衛庁長官は、
16日午後アメリカの国防次官代行のウィン氏と会談。
「武器輸出三原則の解禁について見直しの議論が進んでいる」と述べました。
さらに一歩踏み出したのでしょうか???
こうしてみると、
不安と恐怖は明らかに違うと思います。
恐怖は、
どこかにばらまいている者がいるような気がします。
この者に対するこちら側の防衛は、
「人間を信じること」
「愛すること」ではないかと私は思います。
けっして、自己防衛とは「力」ではありません。
武器で、身を覆うことではないと思います。
限りない愛情であるということを、私は信じています。

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百人一首

先日、トラックバックいただきました。jackyhkさんのブログです。
jackyhkさんは、全体が百人一首の歌で構成。
そもそもタイトルが「憂しと見し世ぞ」。
私が以前、その歌を記事のタイトルにしたことから、
「縁」で、訪問してくださいました。
ブログを拝見するうちに、
高校生の頃を思い出しました。
実は、
私は高校時代、カルタ部でした。
百人一首を使って競技カルタをしていたのです。
普通、百人一首と言えば、お正月。
私も、名人とかクイーンが袴姿でパシッーと札を飛ばしている姿をテレビで見て、
憧れ入部したのです。
が、
実際に入ってみてビックリ。
想像とあまりに違う。
まず、クラブの時は運動服(袴は???)に着替えて、
腹筋やらストレッチやら、とにかく一通りの体操をします。
次に素振りの練習。
利き手を決め(競技カルタでは利き手じゃない反対の手で取るとお手つきになる)
カルタの前に座り、
膝に体重をかけて、
いろんな場所にある札を素早く取る練習をします。
そのあとは、
下の句を見て、上の句をすぐに言える練習。
まだまだ、練習は続きます。
決まり字の暗記。
(上の句が読まれたら、すぐに反応する事が大切です。
たとえば
「村雨の、、、」とか
「住之江の、、、」などは、
「む」と「す」は一つしかないから一字決まりといいます。
一字決まりは、「む・す・め・ふ・さ・ほ・せ」の七枚の札です。
更に、
二字決まり、三字決まり、、、、と覚えます。
決まり字は競技中に変わってきます。
「朝ぼらけ、、、」という歌は二つあるので、
次の音が出ないと取れないから、六字決まり。
しかし、一枚が出てしまうと、
今度は「あさじふの、、、」と区別する必要が出てきて、三字決まりになる、、、
競技中はずっ〜〜〜と頭に入れておかなければなりません。
そして、このような地道な地味な練習を一年中行っています。
土曜日は、近くのお寺に行って「同好の士」と競技をしたりと、
なかなか楽しいのですが、
やはり練習は、つまらなくて嫌いでした。
練習しないから、試合の時はいつも負け。
私は、年間D級。
一方、真剣に練習している同級生は、どんどん勝ち進んでB級、A級までいきました(^^;
今思えば
「やっぱり真剣に練習していればよかったな〜」と思います。
後悔、先にたたず。
私は、選手としてはなんにもならなかったけれど、
百人一首を、ひたすらやっていたことは、
楽しい思い出です。

jackyhkさんのブログで、楽しかった高校生の思い出に浸ることができました。
これも、
ブログのおかげかなぁ!!!
これからも、
こんな楽しい出会いができるようなネット生活をしていきたいと、改めて思いました。
〜〜〜〜〜〜
 これやこの
行くも帰るも別れつつ
しるもしらぬもあふさかの関
〜〜〜〜〜〜〜〜

知るも、知らぬも友人なんですね、、、

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2004.09.16

ストレスを受け止める仕事

連日、テレビで放送されている、栃木の幼児誘拐・殺害事件。
本当に、痛ましい。
胸がつかえます。
何回見ても、涙が出ます。
爽やかな、聡明そうな顔をした二人の兄弟の写真が出る度に、
「どうして、、、」と悔やまれます。
テレビで見ている私でさえ、そうだから、
親、親戚、関係者の方の無念は如何ばかりかと、思います。
いまだ見つからないお兄ちゃん。
どこかに、生きていて、、、
という願いを捨てきれません。
また、すでに亡くなった弟君。
冥福を祈ります。
安らかに、眠ってください。


さて、
この事件、いろんな局で特集、解説がなされています。
全ての意見は、
大人の犠牲になった幼い命
と、言うことでした。
私も、全くそうだと思います。
今回の事件、
子どもたちを取り巻く全ての大人たちに問題がありました。
識者は、
「どこかで、この事態を止められなかったものか、、、」
と、言います。
止められず、全てのハードルを越えて、事件に至ったわけですから、
「止められなかった」のです。
残念です。
では、なぜ止められなかったか、、、という話になると、
親や、警察や、児童相談所の責任の有無を検証することになります。
私は、
全部に責任があると思います。
今までにない、児童虐待の数に、
行政は、10月1日から法律を作り、
虐待防止に、力を注ぐということです。
この、法律が、少しでも、未然の防止、ハードルになってくれることを願うばかりです。

さて、
私は、今日は「人の悩みを聞く仕事」について、ちょっと書こうと思います。
いわゆるカウンセラーという範疇に属する人たちのことです。
職場としては、
学校や、職場、病院、また今回のような児童相談所、
あるいは家庭裁判所の調停官などです。
カウンセラーになるには、
専門の勉強、つまり心理学を勉強するわけですが、
しかし、現実の複雑で、多様な問題の一つひとつを解決するには、
机上の論理では追いつかないのも現状でしょう。
人のストレスを受け止めるということは、
相当のエネルギーがいる作業です。
私は、仕事柄、子どもの親、とくにお母さんと接することが多いですのですが、
「子を思う親の気持ち」というのは、共通です。
「這えば立て、立てば歩めの親心」です。
親って、本当に「欲」なのです。
我が子が、こんなことが出来た!!!
じゃ、次は、あんなことに挑戦。
と、限りなく続く親たちの欲。
「せんせい、うちの子。
勉強出来なくてもいいんです。元気でさえいれば、、、」
私の所に、初めて来られるお母さんは大抵、そういいます。
嘘です。
ガンガン、勉強をさせたいのです(^^;
そして、当然、なにかあると私の所にとんで来ます。
ほとんどは、「もっと成績をあげろ」ですが、、、
そこで、
私は、お母さんや、子どもと面談なんかして、
双方の話を聞き、
二人を励ましたり、諭したりとするのですが、
これは、もう凄いエネルギーがいります。
親子が帰ったらクタクタ。
部屋には、親子が残していったストレスが、あっちにもこっちにも、、、
みんな、私の方に向かってやってきます〜〜〜

タ・ス・ケ・テ〜〜〜〜〜〜〜

人の悩みを聞くということは、
相手の悩み、ストレスを背負う、受け取るということです。
専門の教育を受けていない私には、とても無理。
そこで専門の友人たちに聞いてみました。
「どうするの?」と、私
「うん、流すの。」と、友人。
そうか、、、流すのか。
「本当はジレンマ感じるけれど、次から次だもん。
流さなきゃ、やっていられない。」
とのこと。
そうだよなぁ〜〜〜
いくら専門の勉強をしたカウンセラーでも生身の人間。
私のように、ポツリ、ポツリと悩みがやってくるわけでなく、
毎日、まいにち、山ほどの相談。
しかも、経済的理由も含めた深刻な相談。
その一つひとつを、丁寧に解決したいと思っても、
後からあとからの相談に埋没していくのが実際では、ないでしょうか???
児相の友人も、
家裁の友人も、言います。
「離婚」が増え、
「児童虐待」が年々増えているということ。
本意ではなくても、
アフターケアが出来ないと。
また、この事件が起きる前から、
児相は、
「もっと職員の数を増やしてくれ、、、」
「専門のカウンセラーをもっと増員して」
と、訴えてもいたようですが、、、

今回の事件も、
大人のきめ細かい対応がなかったことへの批難は、数々あります。
また、法律もできるという。
しかし、
人を監視、縛る法律の前に、
子どもたちを守る「受け皿」の充実。
つまり保育所、託児所、学童保育等。
また児相の職員増員。
さらに、こうした大人たちの悩みを聞き、解決の道筋を示す手だてがあったら、
と、思うのです。
こうして見てくると、
つい書きたくなるんですよね、、、
アメリカへの思いやり予算の前に、
自国のこどもたちへの思いやり予算をつけてくれ〜〜〜〜と。

栃木の痛ましい事件は、
犯人の異常性はともかくとして、
特殊なことではないような気がします。
子どもも、そして大人も、
社会全体で守りあっていきたいものです、、、

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2004.09.15

水上勉と般若心経

作家、水上勉が亡くなりました。
9月8日、享年85才。
心からご冥福をお祈りいたします。

水上勉といえば、代表作は「飢餓海峡」。
あるいは、「雁の寺」や「越前竹人形」などが有名です。
しかし、
私は水上さんの作品では「般若心経を読む」が一番好きです。
これは、小説ではなくて、水上さんがご自分の一生を、般若心経の教えに鏤められている「色即是空」と、
照らし合わせて書かれているエッセィーです。
私は、それまで多くの「般若心経」の解釈や解説を読みましたが、
水上さんの本ほど、頭をガ〜〜〜ンと打たれ、
胸にズキンズキンと血が沸き上がる解説(?)はありませんでした。
一言で言えば、
「壮絶」
なのです。
本の帯には、こう書いてあります。
〜〜〜〜〜〜
人間はなぜ瑣事に悩み、色に惑うのか。
悩み、惑い続けながら、なぜ「生」に執着し「色」に執着するのか。
自ら煩悩の熱い炎に焼かれ身悶えしながら、なお人間の真実に迫ろうとする水上勉が、一筋の光明を求め、「心経」を一休和尚に問い、正眼国師に質す。
その苦悩の果ての悟りとは、、、、、
〜〜〜〜〜〜
のたうち回り、自らを「愚かだ」、おろかだと、言い、
這いずり回って、その生を生き抜いた水上勉。
この本を読みながら、
私は「安心」をしました。
人間の極限に追い詰められた「愚かさ」は、まさに自分のものであり、
自分こそが、「この のたうち回っている水上勉である」。
「生きる」ということが、どんなに凄まじいものであるかを、教えてくれます。
そして、
「不浄である」人間に一縷の光を、確かに指し示してくれる本であると、私は思います。
人間が、間違いを犯す者であることは、古今東西、多くの哲学、文学で語られています。
間違いをおかす 故、
神(仏)は無謬である、と思いたい。
しかし、その神(仏)とて、人間が愚かな知恵で生み出したものである。
神(仏)もまた然り。
人は、神(仏)と共に、
愚かさを共有して、生きていかなければならないのでしょうか???
ひたすら、
愚かに、生きまくった水上勉。
そして、
真実を探し求めた水上勉。
その壮絶で迫力ある「生」は、
今、土に帰った。
本当に、
ほんとうに、
冥福を祈り、
そして感謝を捧げたいと思います。
ありがとうございました。

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2004.09.14

シナリオはできた

増税シナリオが出来上がりました。
脚本は、日本財団連(前田頌ホウデン自動車会長)。
監督、スポンサーは未定。
出演は、国民です。
大雑把ながら、あらすじは以下の通りです。

第一場面。
場所、日本
時、   20XX年。
一台のヘリコプターが東京の空の上を、旋回。
中にはレポータらしき男がマイクを持って話している。
マイクには、「みなさまの、天下のNNK」と、書いてある。
男にクローズアップ。
「皆様、こんばんは。みなさまの、天下のNNKがお送りする、
オープン・アッププ現代です。
今日は、日本が抱える深刻な問題、少子・高齢化の実態を探るために、
東京都内を空から見てみます。
あ〜〜〜子どもがいますね。
めずらしい〜〜〜
あの子が成人するときは、我々6人分くらいの老後を背負ってくれるという有り難い存在です。
あの子に足を向けて寝ては罰があたります。
おや、
あれは、お年寄りがゲートボールで楽しんでいる姿です。
おじぃちゃん、おばぁちゃん、楽しそう、、、
頑張ってください。
もっと、回ってみましょう。
あっ、なにやら学校のようです。
運動会をしているのでしょうか。
ちょっと、カメラズ====ム、アップ。
やっやっ、、
老人ホームの運動会でした。
元気なおじぃちゃん、おばぁちゃんたちです。
さて、前方に大きな病院が見えてきました。
どうやら、有名人も入院を良くするという、寅蔵門病院です。
チョット、受付をクローズアップ。
あっ、カメラさん。
後ろからのアングルにしてね。
個人情報に抵触するから。
それにしても多いですね===お年寄りが。
若い方は一人もいません。
では、病院をあとにして、
子どもたちを探しましょう。
、、、、、
、、、、、、
行けども、いけども
子どもはいません。
いるのは、年寄りばかり。
あ====
この国はどうなるんでしょう。
これが、今の日本の現実の姿です。
皆様の天下のNNKがお送りしました。」

第二場面。
場所  NNKのスタジオ
数人の賢そうな子どもと先生。
先生「みんな、今のビデオ見てどう思った。」
A 「はい。子どもがいなくなったら淋なぁと思いました。」
B 「僕も同じです。お年寄りが一杯なのは嬉しいです。」
C 「でも、私たちが6人ものお年寄りの面倒を見るのは大変」
D 「そうよね、大変よ。自信ないは。」
先生「そうね。本当にそうだね。どうしたらいい?」
E 「今のうちから蓄えておくとか」
みんな「なるほど、、、、」
先生「E君、いいところに気がついたね。」
A君「今のうちから、少しずつ集めて、 準備しておく。」
みんな「うん。それがいい。」

第三場面
場所、老人ホーム
お年寄りの方、みんながイキイキと輝いている顔を大写し。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
昨日13日、日本経団連(奥田碩豊田自動車会長)は、
税財政と社会保障「改革」についての試案を発表。
それによると、来るべき少子高齢化に向けて、増税をするしかないと考え、
いくつかの類型を打ち出した。
例えば、ケース1では、
税率を07年度、10%,
         10年度、  13%,
          13年度、18%にまで引き上げる。
ケース2では、
          07年度に10%、
         その後、毎年1%ずつ段階的に引き上げ
         最終的に12年度に15%にする。
また、同時に、小泉首相が「任期中には消費税はひきあげない」といったことに対して、不満を表明。

さてさて、この国は本当にどうなるんでしょう。
このままいって、一体誰が、この通りに消費税を払えるほど体力が残っていることか???

〜そして、だれもいなくなった〜〜〜

なんてことになりかねないくらい、
庶民には辛いシナリオが待っています。
しかし、
今ならまだ、大丈夫。
それこそ大声を上げて反対しなければ。
問題は、私たちの生活のことなんだから。
これからの国会の審議の行方にご注意を!!!

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2004.09.13

女の人生すごろく

とにかくスゴイ本なのです。
「女の人生すごろく」という本です。
小倉千加子さんという心理学者で、主には、女性論、フェミニズム運動などが専門です。同じ社会学者の上野千鶴子さんとの共著もたくさんあって、
元気な(?)学者です。
以前、ここでも書いた酒井順子さんの「負け犬の遠吠え」論争は、
未婚の30代以上の女性が描かれていましたが、「女の人生すごろく」は、さらに結婚した女性たちの凄まじくも健気な(?)生き方が書かれています。
〜〜〜〜〜〜〜
女の人生は、結婚が「あがり」である。
生まれたときから、この「あがり」を目指して、母と共に歩む。
小・中学校までは、勉強をする傍らピアノや習字などのお稽古事を、母の送り迎えで一緒にする。
高校になったら、そこそこの大学を目指して、それまでのように勉強にはいそしまない。
大学では、「楽しいこと」を一杯覚えるが、就職する頃から、髪の毛を伸ばし始める。
つまり、私は「興味は髪の毛を伸ばす事で、余計な事にはいっさい興味がないのですよ。」
と、純真さを試験官にアピール。勿論母の強力なアドバイス有。
そして、就職をしたら、後はひたすら「あがり」に向かって一直線。
すぐに良い賽の目が出て上がる人もいれば、一歩手前で、どうにも上がりの目が出なくて、
何回か賽を転がす人、いろいろあるが、とにかく母子共に壮絶な闘い(?)のもと、晴れて、「あがり」になる。
さて、あがっては見たものの、これですごろくは終わってしまった。
ゲームは済んだ。
では、では、
その後の人生はどうするの???
と、悩む。
しかし、お任せください。
次は娘がいるではないですか。
さぁ、娘と一緒に「人生すごろく」の始まり、はじまり、、、

こうして、際限なく女のすごろくは、続いていく。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
と、いう話を、社会学者らしく、分析しながら書いています。
女性の社会進出にともない、晩婚化や少子化などで多少の上方修正は、あるものの基本的には、女性の人生とは、このようなものである。
そして、女性は何よりも、「自分」が好きなのである。
たとえ愛している夫といえども、生活のあれこれの中では、胸がときめくような出来事は、とうの昔にすり減った。
たとえ愛している子どもといえども、年々シワが増える我が身に比べ、ツルツル肌の娘に嫉妬する、、、
その最たる者が、
シンデレラの母であり、白雪姫の母である、というのです。
実は、シンデレラも白雪姫も、その母は実母だそうです。
美しい我が子に嫉妬するいじましい母なのです。
そして、「あ〜〜〜私も若い頃は、貴女なんかに負けなかったのに、、、」
という思いが「鏡よ鏡、、、」なのだそうです。
女性は、自分が一番好きなのである。
なにしろ、幼い頃から、「自分の容姿」をのみ見て育つように期待されて育ってきたのだから。
決して、時事問題なんかに興味をもってはいけない、、、、
そして、男性社会で生きていくには、おしゃべりでは駄目なのです。
静かに微笑んでいる。
ほら、なにしろ白雪姫の王子様は、眠っていた白雪姫に恋をしたという強者です。
寝ている姫から、王子様は、どのような姫の人格を見て取って恋に落ちたというのか、、、
ひたすら小人たちのために働き、寝ているように静かな姫がお好みだったのです。
シンデレラの王子様も然り。
美しい姫に、もっと踊ろうと,わがままを言う。
しかし姫は12時に慌て帰る。
そう、帰らなければならないのです。
従順に、従う内気な姫に王子は恋をしたのです。
ここで,一緒に遊んでいてはいけないのです。シンデレラは。
そうして、めでたくお妃になった,その後のシンデレラは、どうなったか???
もちろん、シンデレラの母になったのです。
(やれやれ,,,)
と、話はドンドン進んでいくのです。
小倉さんが、書いているのは、正しいとか、間違いとか、
そういうことでなくて、淡々と現実を描いているのです。
「いや〜〜〜それはねぇ、ちょっと問題在り」とか、
「そんな失礼な!!!」
など異論はいっぱいあると思うのです。
しかし、酒井さんの本がベストセラーになり、多くの既婚、未婚の女性から共感を得たということも現実です。
小倉さんは、あとがきで「女のあがき」を収めた、と書いていますが、
私も同感です。
私は、この本を読みながら、共感と反感を持ちました。
「ムムムッッッ」
とか、くるんですよ。
一方、
「うんうん」
と、肯くところもあります。
そして、小倉さんは、私が反感を覚えるようなところは、
勿論、「反感」が殺到するということを心得ながら、分かっていながら、書いています。
「実態」という名前で、、、
そう出てこられと、私は考えるのです。
「自分では気がつかない潜在的意識の中に、そういうことって在るのかもしれない、、、」
と、一歩も二歩も譲ってしまいます。
普段は、とくに気にしていないことでも、
文字で「人生すごろく」なんて書かれて、縷々述べられると、かなりショックです。
しかし、
小倉さんは、「だからよし」とはしていません。
当然、その解決策として、
男女の真の意味での平等をうたっています。
つまり、本当の意味での平等が実現しない限り、
女たちの人生すごろくはつづき、
その中に「男」はいない、ということです。
これが、女性の最大の報復なのでしょうか???
著者は、男女にとって、不幸なことである、と述べています。
私も同感。
是非、女性、そして男性も読まれることをお薦めします。

さて、まだまだ、真の意味での平等は程遠い感がします。
憲法24条の見直しや、
あるいは、
東京都のジェンダーフリー教育撤廃など、
退行していく男女平等への道。
女の人生すごろくを書き直す日が遠からんことを、祈らずにはおれません。

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2004.09.12

哀しみが憎しみに変わることを知っている

私は、哀しみが憎しみに変わるものである事を知っています。

昨日は、あの9・11事件の3年目ということで、「テロ」に関した書き込みが沢山ありました。
それらを拝見しながら、あの事件が当時、どんなにショッキングでセンセーショナルな出来事であったか、
改めて思いました。
また、今日12日は沖縄、宜野湾市で市民大会が開催されます。
さきの沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落の抗議と、普天間飛行場の早期返還を求める大会です。
これに先立ち、昨日11日、長崎佐世保では、
陸自、特殊部隊が市内を行進。
手には機関銃、小銃を持ち完全武装で250人の陸自、特殊部隊のパレードは、
軍艦マーチと軍靴に包まれ、かなり迫力があったようです。
それは、見ている人々を、少々不安にさせるには十分なものものしさでした。
もちろん、9・11平和集会が全国各地で開催されたのは言うまでもありません。
罪なき命を奪った犯人への怒りと、亡くなった人たちへの哀悼の祈りの灯が、ともされました。
とにかく日本列島、なかなか忙しかったようです。

さて、私は冒頭の「人は哀しみから憎しみに転じる」と、いう事を、
頭で知っています。
想像として、「そうであろう」と思うわけですが。
3年前のテロ事件後、私は友人を集めて、話し合いをしました。
いつもは、ただのおしゃべり仲間ですが、その日はテーマを決め、
予め、友人たちにも、その旨を伝えておきました。
新聞を用意して、みんなでテロのことや、ビンラディンのことや、
今まで無縁の世界について、いろいろ話し合ったのです。
「戦争はイヤだ。」
「テロはいけない。」
と、言うことについては、友人(20人くらい)の意見は同じでした。
しかし、
自分を守ると言う事については、意見はかなり分かれ、
主婦には珍しく(こんな書き方したら、いけないかな?もし、いけなかったらゴメン。)きっちりとした討論がなされたのです。
〜〜〜〜〜〜〜
「私は絶対、テロの犯人は許せない。
だから、テロが起きる前に、こうした者をやっつけなきゃいけない。」
「でも、だれが犯人か分からないよ、、、」
「もし、自分の子どもが、やられたら、私は犯人を殺す。」
「沖縄の少女レイプ事件も、絶対、許せない。もし、私の子どもなら、
一生、恨む。」
「やる前にやらなきゃ、、、」
「そうしたら、やっぱり同じ罪が生まれるよ。」
「しかし、私は娘がそんな目に遭ったら、ぜったい、ぜったい許さない。」
、、、、、、
と、まぁ話は続きました。
自分の愛する者が、暴力によって奪われた場合、絶対許せない。
と、言うことでした。
話し合いの中での、「もしも」の話にも拘わらず、
私たちは、哀しみから憎しみへ移ることは容易でした。
自分の立場に置き換え、熱くなるのに時間はかかりません。
だれも、冷静に、
「まぁまぁ、相手にも事情が、、、、」
なんて、理由知り顔で言う人はいませんでした。
頭では、世の中の仕組みとか、利益とか、まぁいろんな状況で、戦争が起きるとしても、やむなしと考える人が,
もし いたとしても。
それがその人に起これば、
それを受け入れることは出来ない。
それならば、
本当に、その体験をした人たちが、どんな風にその後の人生を生きていくかを考えることは難くない事です。
沖縄の少女は、もう成人に達するという。
その心の傷と恨み、憎しみを思うと気が遠くなる。
イラクで多くの命が散った。
その後ろには何人の人たちの恨みが積もったことか。
黒い未亡人たちを生んだのは一体何か?
その慟哭が聞こえる。
考えが、こうして突き進んでくると、
行き着く先には、
一部の「どうしても戦争をしたい人間たち」のエゴのために、
私たち、普通の人たちが、犠牲を強いられることに気がついてきます。
「やられる前にやる」という発想は、
その後の、さらに増幅された恨み、憎しみに繋がり、
膨大な破滅へのエネルギーへと変換していくことに、気がつきます。
私たちは、誰だってやられたら許さないのです。
ならば、
やってはいけないのです!!!
なぜなら、
罪なき普通の人々が、戦い続けていくのだから、、、
しかも、真の敵を間違えて、恨みを増幅させていく。
どこかの、だれかは、
静かに笑っているだけである。
ちょうど、映画を見ているように、、、

いつでも、だれでも、どこでも
私たちは、
恨みの連鎖に巻き込まれるという現実が、いま横たわっています。
愛する者を奪われることは、悲しい。
そして、その哀しみが、「恨み」という負の膨大なエネルギーを発して生きていかなければならないことは、
さらに悲しい。
世界中に哀しみと恨みを持った人たちで一杯にしなければ、
人はその愚に気がつかないのでしょうか???
人間とは、そんなに愚かな者なのでしょうか????
私にはわからない。
しかし、
哀しみが憎しみに変わることはわかります。
不必要な恨みを作ることは、
人間が本来すべき仕事ではない。
私は、
声を大きくして言いたい。
心を込めて書きたい。
どうか、
どうか、
これ以上、罪なき人々の叫びを聞くことがないように、、、と。

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2004.09.11

スローカーブを、もう一球

「江夏の21球」で、一躍スポーツライターとして盤石の地位を築いた、今は亡き山際淳司さんの作品、
「スローカーブをもう一球」。
名もない高校が甲子園という晴れ舞台に出場。
そして、とくになんの技も無い地味な投手が、
「スローカーブ」を投げる、、、
と、いうそれだけの話です。
「なぜ、野球をやっているか???」
「惰性だよ。惰性。」と言い、
ラーメンのことや、ガールフレンドが何故、できないか悩んだりと、普通の高校の野球部の風景が描かれています。
とくに、「勝つこと」にこだわらない。
ノラリ、クラリとやっているうちに、勝ち進んでいく。
「かわしていれば、いつかチャンスは訪れる」
そんなチームが、全国に名乗りを上げていくという、
「地味な話」です。
しかし、
読ませるのです。
オモシロイ。
この本を読み終わった後は、
「なんて、野球ってオモシロいんだろう!!!」と、しばらくは余韻にひたります。
もちろん、山際さんの深い洞察と暖かい人間観察とがあるからでしょうが、、、
この本に関しては、松岡正剛さんが、書評で、興味深く書かれていますので、お時間があったらご覧ください。

さて、
私は、野球は、高校野球もプロ野球も好きでした。
ライオンズのファンで、
文化放送の「ライオンズナイター」が大好きでした。
〜はっきりいってライオンズ贔屓です〜〜〜
で、始まるナイター放送に、耳を押し付けて聞いていました。
それどころか、テープに録って、次の日も聞き直していました。
松戸に住んでいたので、所沢まで出かけたり、
池袋に出る折は、西武でライオンズグッズを買ったりと。
東尾さんが好きで、
石毛さんも、良かった。
清原も工藤ちゃんも。
それから、
辻初彦が好きだったのです。
そして、
広島に移って、幼い子どもを連れて市民球場に行く事もあったのですが、
なが〜〜い試合に子どもが飽きてきたり、、、
テレビ中継も、子育て中は、テレビをつけているわけにはいかない。
思うように試合を見ることがないうちに、いつのまにかサッカーファンになっていました。
別に、野球がキライになったのではなく、
サッカーがより好きななりました。
その理由は、私の場合は、
時間が短い。
入れ替え制があって、ハラハラ、ドキドキの緊張感がある。
ワールドカップなど世界との試合があって、開かれている。
などです。

さて、さて、
こんな私が、久しぶりに野球に関心を示したのは、モチロン一連の騒動です。
テレビ、新聞、ネットなどで、
この間の動きなどを私なりに知りました。

〜スポーツに取りつかれた男たちは、時として眩ばかりの光を放つ一瞬に出会う。
それは、ほんの束の間であるが故に、より純粋な硬質の
輝きに満ちている。〜
山際淳司が描いたのは、そんな一瞬の表情を見せる男たちです。
選手は、その一瞬が忘れなくて、自分を究める。
そして、私たちは、その一瞬が見たくて、
スポーツを観戦するのです。
ロマンをもとめて。
そのロマンを求めきれなかった「経営者」たちとの軋轢はいずれ顕在化するものだったのでしょうか。
これを、好機と捉えて、
よりよい方向に進むことを望みます。
しばらくは目が離せないプロ野球です。

あの、感動をもう一度!!!

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あれから僕たちは 何かを信じて来れたかな

夜空のムコウニ
(スマップ)

〜〜〜〜〜〜
あれから僕たちは 何かを信じて来れたかな
  夜空の向こうには 明日がもう待っている
  (Wow----  Wow----)

(略)
  あれから僕たちは 何かを信じて来れたかなぁ
  マドをそっと開けてみる 冬の風の匂いがした
  悲しみっていつかは 消えてしまうものなのかなぁ
  タメ息は少しだけ 白く残ってすぐ消えた
(略)
  あの頃の未来に 僕らは立っているのかなぁ
  すべてが思うほど うまくはいかないみたいだ
  このまま どこまでも 日々は続いていくのかなぁ
  雲のない星空が マドの向こうに続いている

  あれから僕たちは 何かを信じて来れたかな
  夜空の向こうには もう明日(アス)が待っている
  (Wow---- Ah Baby-- Wow----)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

もう、あれから3年が経ちます。
そう、あの日。
9月11日。
ニューヨークの世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んだ同時多発テロ。
世界を震撼させた出来事でした。
人々は、テレビの前に釘つけになり、
より新しい情報を求め、
どこでも、人が集まれば、その話になります。
そうして、今まで気にも止めていなかったテロという言葉が、
いつも聞かれ、口に出、
また「アフガニスタン」という国に大きな関心が寄せられました。

私はニューヨークには、良い思い出がいっぱいあります。
夫が会議で居ないとき、
私は子どもを連れて、メトロポリタン美術館に行こうと思いました。
そこでニューヨークの地下鉄に乗りました。
さすがにニューヨークの地下鉄は迫力がありました。
暗くて、キタナくて、すえた臭いが立ちこめ、なんとなく荒れて居る雰囲気。
そして、私は、その地下鉄で迷ってしまいました。
下る駅を間違えたのです。
地図を見ながら困っている私に、
一人の女性、そう、いかにも仕事がバリバリできるようなキャリアウーマン。
「May I help you?」
と、聞いてきました。
一瞬、私はたじろいで、ちょっと不安。
こっ、こんなところで、、、
わっ、、、このまま、どこかに連れて行かれたらどうしよう!!!
しかし、どうしようもないので、
メトロポリタンに行きたいと言ったら、
「こんな所にいても、行けない。バスに乗らなければ。」
と、教えてくれます。
バスの乗り場が分からないと言うと、
「連れていってくれる」と言うのです。
わxxxxxxxxxxっっ、どうしよう。
しかし、見ればとても知的な美人。
まぁ、ここにいても仕方がないので、連れていってもらうか、、、
と、思って、彼女に連れていってもらいました。
彼女は、バス停まで(かなり遠かった)
私たち親子を連れていってくれて、
乗るべきバスが来るまで待っていてくれました。
そして、バスが来たら、運転手に「メトロポリタンに行きたいから、下りるとき教えてやってくれ」
と、言うと
「グッ、ラック  バ〜〜〜イ。」
と私たちに手を振って元の道を戻っていきました。
さて、バスに乗った私は、ニューヨークのバスの乗り方がわかりません(^^;
立ち往生している私に乗客の一人のかたが、私たちのお金を出してくれました。
そして、美術館前にバスが来た時は、
運転手ならず、バスの乗客全員が、私たちに
「ここで下りるんだよ。」と大声で教えてくれました。
そして、私たち親子は無事メトロポリタンに行くことが出来たのです。
本当に親切にしていただいた思い出です。
あの方たちは、
今、どうしていらっしゃるだろうか???

9/11事件以来、
人の価値観が変わってきたような気がします。
貿易センターとともに、
人間としての一番、根源にある信頼が大きく崩れ去ったような気がします。
テロが世界中至る所で行われ、
いつ、どこで巻きこまれるかわからない。
「知らない人」「知らない物」に対する警戒心が、
いつの間にか潜在意識にすりこまれていく。
警戒心だけが働くなるようになってきたら、、、
こんな価値観が続いたら、
「もの」は繁栄し、科学は発達したとしても、
かなり淋しい未来社会が出来上がりそうです。
大統領は「安全」になったという。
安全とはなんなのだろうか???
たえずSPに守られ、
いつも猜疑心で人を見なければならない安全とは???
それどころか、
多くの犠牲を強いて、その上に立っている「安全」と繁栄とは、なんなのだろうか?

スマップは言う。
〜 あの頃の未来に 僕らは立っているのかなぁ〜
9/11以前には、
確かに在った、人としての最低限の倫理、道徳。
見知らない私たちに、親切にしてくださった人たち。
あたり前のように笑顔で「グッラック」って言ってくださった人たち。
あの笑顔は今もあるだろうか???
あの頃は、確かに
私たちの未来は、「安心と信頼」は存在していた。

あれから
私たちは何を信じてきたのだろうか?
何を信じていけばいいのだろうか??
少なくとも、
アメリカのやり方、ロシアのやり方、
そして日本の取ってきた道ではないような気がします。
いつまで、こんなことが続き、
そして、どうなっていくんだろう???
世界中の国と人々は、、、
夜明けはいつか???
いまだ見えない。
夜空のムコウニ、
何が待っているのだろうか?

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2004.09.10

枕がこわい

作家、夏樹静子の「椅子がこわい」という本をご存じですか?
サスペンス作家で有名な夏樹さんが、
ある日、突然、腰痛に見舞われ、
いろんな病院を駆けずり回るも、痛みはおさまらず、
そして、最後に行き着いた病院は???
と、いう内容の「腰痛放浪記」です。

さて、
私は、「枕がこわい」。

人間の首は、7対の頚椎から出来ているそうです。
この頚椎が頭を支えたり、体のバランスを取ったり、
また、生命に重要な脊髄をはじめ、大切な器官の宝庫です。
じつは、この「首」は30代を過ぎると老化に向かってひた走りに走ります。
軟骨がすり減ったり、骨が変形したり。
これは通常、加齢とともに見られる普通の事で、そんなに心配には及びません。
私たちは普段、「首」を意識せずに生活をしていると思うのです。
しかし、この頃はパソコンの普及で、
肩こりや眼精疲労、また腱鞘炎などの不快症状を訴える方は多いと思います。
ただの肩こり、目の疲れ、手の使いすぎと思っていることが、
実は、「首」の疲労からのこともあるようです。
知らず知らずに。首に無理をさせている生活をしている現代人だから、
首の変形も昔の人より早く来ているそうです。

私は、2年くらい前から「手がしびれたり」と、なんだか気になる症状が出ました。
そこで、近所の整形外科を2軒(なるべく複数の病院に行くようにしているのです。)行きました。
そして、
「腱鞘炎」という診断を両方のお医者さんから下されました。

ところが、今回は、
首のレントゲンも取ってくれて、
「変形性頚椎症」と相成りました(^^;

「おお〜〜〜しっかり変形していますね。」
と、医者。
「ちょっと、手を握って、、、」
と、言いながら私の握力を測たり、
シビレがどうしたら起きるか、
頭や腕や、首を曲げて、
いろんなところをポンポン叩きます。
「どうです?シビレますか???」
と、聞かれます。
「あっ、あの〜〜〜分かりません。」
と、私。
本当に分からないのです。
そうしたら、医者が、
「無理にシビレなくていいですよ。」
「はぁ、(^^;」
とかとか、診断をして、
「心配はいりませんよ。
これくらいなら。
ただ、首の牽引はしましょう。」
と、なりました。

そうか、、、
首が曲がっていたんだ。
と、わかった私。

そこで、家に帰って本棚から一冊の本を探します。
「首の疲れが体をダメにする」(三井弘)
という本です。
その本を何回も読んで、読んで、
書いてある通りに、
「首の体操」をして。
背中まっすぐに、と気を付けて。
なかなか忙しいのです(^^;

ところで、
枕はどんなのがいい???
と、言う疑問にぶつかりました。
くだんの本には、
「枕はしないほうがいい」とあるのです。
しかし、枕をしないと、
なんだか、かえって疲れる。
そこでネットで調べると、
あるは、あるは。
みんな、じつは枕には悩んでいるのでしょうか???
どのサイトを見ても、
「首、背中」によい枕がいい。
と、あるのです。
そして、
「高さ、硬さは個人によって違うので、自分であう枕を探してください。」
と。
(^^;
(^^;
ええええ〜〜〜〜
じゃ、どうすりゃいいんだーーーー
と、いうことで、
私は「自分にあう枕」を探し中。
いままで使っていたのや、
あるいは、塩枕を試したり、
バスタオルで硬さや高さを調節したりと、、、
ああああ===
気になって眠れな〜〜〜い、
(と、思っているのは私だけで、実はしっかり寝ているそうです。)
枕はニッチな商品だから、
多くの人は、それなりに気を遣っているのですが、
しかし、「定説」というものがないのでしょうねぇ。

そんなわけで、
いま、私は、
「枕がこ・わ・い」

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2004.09.09

4点目はツネさんだった、、、

昨日、9月8日、サッカーW杯ドイツ大会のアジア1次予選、第3組。
日本ーインド戦が、コルタカ(インド)で行われました。
結果は4−0でインドに快勝。
10月13日に行われるオマーン戦で引き分け以上なら最終予選選出となります。
ハラハラ。ドキドキ。ワクワク、、、

さて、
昨日の試合。
なんというのか(^^;
試合内容以前に、ハプニング?があったりと,
なかなかオモシロイ(?)試合でした。
前半、いつものようにジーコジャパンらしく、まったり〜〜〜タラタラの試合。
アナウンサーと解説者だけが、やたら騒いでいる。
「この試合で、なんとしても勝ち点3を取りたいですね、、、
先日、オマーンはインドと対戦して5−1で大勝。日本もドンドン点が欲しいです、、、
しかし、まずは勝ち点3を狙っていきましょう!!!
今のジーコジャパンならできる!!!」
と、大声で叫んでいる矢先。
アレックスがボオッ〜〜〜と突っ立ていて、インドに切り込まれ、ゴール危うし。ピンチ。
「ああ〜〜〜いけませんね。
先日のアジアカップの反省で、中澤選手が、
自陣に切り込まれることが多かったので、気を付けなければ、、、と言っていましたが、こういう事でしょうね。」
と、アナウンサー。
「アレックスが悪いと言いたいんだろう???」
これは、私のテレビを見ながらの声。
なにしろ、左サイドにボールが入るとみんなに緊張が走る。
右の加地選手をのぞいて、みんなが走ってくる、、、
川口さんも、頭から足先までピッピッ〜〜〜と神経を研ぎ澄ます。
なにしろ、なにしろアレックスが、DFだから、、、
「もう、いい加減にしろ」と罵ろうとした途端、
当のアレックスが、宮本〜本山からのボールをシュート。
GKにはじかれたボールを、鈴木が押し込んでゴ〜〜〜〜ル!!!!
「大きな一点が入りました!!!」
アナウンサーが絶叫。
「大きな得点です!!!」
まだ騒いでいるアナウンサー。
自分の部屋で「ハリーポッター」を読んでいた息子が飛んで来て、
「大きなゴールって言っても1点しか入らないんだろう。」
と、突っ込みを入れる。
何回も写し出される得点シーンに、
「大きな1点ねぇ、、、」
と、言いながら自室へ引き上げるのです。
まぁまぁ。
アナウンサーは、これが仕事だから。

いやはや、なんとも、と思っているうちに前半終了。
そして、
そして、
もう、信じられないようなハプニング。
それは、
「停電」
スタジアムが真っ暗になって、いつまでたっても電気がつく気配がない。
私は連日の地震騒ぎで、若干寝不足。
暗いスタジアムを見ていると、、、こっちもムニャムニャ眠くなるよーーー
しばらくすると、
またアナウンサーが騒ぐ。
「○○分以上、試合が中断されたら、ノーゲームになり、
あと○分続けると、、、、」
試合の規定を言い出します。
「えっ〜〜〜〜〜〜」
どうなるんだ???
せっかくの「サントスがらみの鈴木のゴールが」

30分遅れでようやく照明がつき、
無事後半が始まり試合成立。
小野伸二選手のすばらしいFKからのゴール。
この頃から目が覚めてきた、、、
そして、我らが久保選手の登場。
と、試合は俄然オモシロクなってきた。
直接ゴールは、なかったものの久保らしいシャープな動きが目立ち、
体調が戻ったかな、、、と安心。
(左サイドは相変わらず眠気が吹っ飛ぶくらい緊張ものでしたが(^^;)
そして、
福西選手がヘッドで3点目。
彼らしい素敵なゴール。
不思議なことになぜか(?)この得点にも、わがアレックスが、からんでいます。
憎めない選手です(^^;
途中交代で入った藤田選手のプレーに、
審判は最初、イエローカード。
そのあと、すぐにレッドカードが出て、
「なに?なに????今の????」
と、思っているうちに、
あっ、もちろんアナウンサーも絶叫。
審判が選手を間違えて(多分田中選手と。
あの二人似てるかね?)のこと。
またイエローにカードは戻りました。
「いやぁ===いろんな事があるゲームですね。」
と、アナウンサー。
まったく。
そして最後は、
ツネさんが、
すご〜〜〜くカッコヨク、ボレーシュートで4点目をあげて、
終わってみれば、
4−0で快勝。
よかった〜〜〜〜

それにしても、
アジアカップ以来、
宮本選手は、スゴ〜〜〜〜ク格好良くなったなぁ。
2年前のW杯の時はマスク仮面とか言われて、
それはそれで、女性ファンなんかが、キャッキャッ言っていました。
W杯直後のリーグ戦で、サンフレッチェとガンバ戦を観戦するため、
スタジアムに足を運んだときは、
女性ファンが多いことにビックリ。
しかも、その大半が「マスク仮面=ツネ様」の応援。
オイオイ、ホームはサンフレッチェだぞ〜〜〜
そんな、宮本選手でしたが、
あの頃から見ると、
なんだか選手としての格、あるいは人としての格が、
一回り、二回りも大きくなったように思うのです。
いまや、押しも、押されもしない、キャプテンのツネさん。

それにしても、
ジーコさん。
あなたは、本当に神ですか!!!
「良いニュース」が聞かれないこの頃。
久しぶりに明るい話題。
有り難う。
これからも、応援しています。
あっ、一つお願いがあるとしたら、
三浦(アツ)選手も使ってくださ〜〜〜い。
そうそう、もう一つお願い。
ちょっと、サイドの人。見直してみませんか?
それから、欲を言えば、
サンフレッチェの服部選手を使ってみませんか????
なぁんて〜〜〜

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2004.09.08

憂しと見し世ぞ 今は恋しき

「ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき」
これは、百人一首84番、藤原清輔朝臣が詠んだ歌です。
「もし、長生きしたなら、今の辛い時も懐かしく思い出すだろう。
なぜなら、昔のとても辛い時期も今、振り返ると懐かしい思い出であるから、、、」
と、いう解釈を勝手にしている私ですが。
どんなに辛い時でも、悲しいことでも、
いずれ時間が解決をしてくれるのだろうか???

さて、このところの立て続けの出来事、社会情勢。
加えて、天の神の怒りに触れたか、相次ぐ天変地異。
誰だって、
「何かが起きるのでは?」
と不安に駆られる今日この頃です。
歴史の流れであれ、
あるいは、降って湧いたような天災であろうが、
どちらにしても、
人をして、傍観者であることを許さないような「時代のエネルギー」を感じます。
考えてみれば、
生きていることは、
それだけで「主体者」だということなのでしょうか。
好むと好まざるとに拘わらず、、、
積極的に、
自分の人生に、
自分を取り巻く社会に、
関わっていかなければならないということでしょう。

私は、以前「8月6日」の「ヒロシマ平和祈念」に関した記事を
薄れていく記憶
というタイトルで思いを書きました。
「ヒロシマ」は、そこに生きている人たちにとっても、
少しずつ遠く、また薄れてきていま2す。
一か月くらい前には、
ブログでも多くの方が、
ヒロシマ・ナガサキについて語られ、
平和について思いを書かれていました。
そして、
「忘れてはならない。」とも書かれ、平和の尊さを述べていました。
実は、その時、
私は、
「ヒロシマは忘れてもいいのでは、、、」
と、思っていました。
過去の記憶は、
しかもそれが壮絶であればあるほど、人は、その過去にしがみつき、
手放さない。
そして、その記憶はやがて妥協、あきらめ、憎悪へと醸成されていく。
そういう意味で、
「ヒロシマ」はもう過去に流し、忘れてもいいのではないか、、、と思ったわけです。
私たちが、しなければいけないことは、
「その時々の戦争や、紛争について、
しっかりと歴史の総括を行い、再び同じ過ちを繰り返さない」ということを、
未来に語り伝えていくことです。
この操作、作業を丁寧に行わないと、
「相手への恨み、つらみ、憎悪」だけが大きくなっていくと思うのです。
「原点」に戻って、
もう一回、総括、反省をやり直すことが必要なのではないでしょうか???
ときあたかも、
原爆にあった「アオギリ」がこの台風で倒壊。
しかし、根を丁寧に処理して、もう一度植え直すという。
しっかりと、根を付けて再生をしてもらいたいと願いながら、
なんだか、
こんなことを考えました。

「ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき」
こんな時代がくることを祈りながら、、、

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2004.09.07

宗教

「インシャラ」とは、イスラム経の言葉で、
「神の思し召すままに」
というような意味です。
とても便利な言葉だそうです。
時間に遅れてもインシャラ。
仕事がなくてもインシャラ。
全てが、神の思し召すままに。
普段のイスラム経の人々は、
明るく、ゆったりしていて、したたかで、逞しい愛すべき人々と聞きます。
実際、私の知っている人も、とても優しい好青年。
困ることは、彼を家に招待するとき「食べ物」に気を遣うくらいです。
浅学非才ゆえ、
私がイスラム教で知っていることといえば、マホメットとか、コーランとかです。
そこで、
ひろさちやさんの本などを読んでちょこっと勉強。
いろいろある中で、私がオモシロイなぁと思ったのは、次のエピソードです。
〜〜〜〜〜〜〜
「山は動く」

ある日、マホメットは人々を前にして「あの山を此方に動かそう」
と言った。
人々は信じなかった。
一日目、
「お〜〜い、山よ。こっちへ来い。」
と、声をあげたマホメット。
山は動かない。
二日目、
「お〜〜〜い。山よこっちへ来い。」
と、さらに大きく呼びかけるマホメット。
やはり山は動かない。
三日目、
「お〜〜〜い。お〜〜〜い、山よこっちへ来い。」
と叫ぶが、
山は依然、動かない。
怒った人々はマホメットを罵った。
すると、マホメットは、人々に言った。
「こんなに呼んでいるのに、山は来ない。したがって、私が山の方に歩いていく。」
と、言うとスタコラと山に向かって歩き出した。
(文意のみ)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
この話の意味することは、
「人をあてにせず、願っていることは、
まずは自分がやりなさい。」
ということです。
「魁より始めよ」というところでしょうか???

さて、
私は、宗教は好きです。
と言っても、やたら怪しい「お金」にからむドロドロした宗教ではなくて、
宗教哲学は、興味深く読んでいます。
普通、人が生活していて誰でもがぶちあたるような悩み、
つまり人間関係とか、健康とか、「死」についてとか、、、
そんな、悩みや疑問には、なかなかシャープに力強く答えてくれたりするので、
いつも手元に、
いろんな本を置いています。
そして、
信心の足りない私は、
「苦しい時のみ神頼み」をしています(^^;

釈迦は、「中部経典」という中で、次のように言っておられます。
〜〜〜〜〜
過去を追うな。
未来を願うな。
過去はすでに捨てられた。
そして未来はまだやって来ない。
だから現在の事柄を、
それがあるところにおいて観察し、
揺ぐことなく動ずることなく、
よく見極めて実践せよ。
ただ今日、なすべきことを熱心になせ。
〜〜〜〜〜〜〜〜
同じようなことを、イエスキリストは、〜「新約聖書」マタイによる福音書6〜で、
次のように言っています。
〜〜〜〜〜〜
明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。
〜〜〜〜〜〜〜

なかなか味わいふかい教えです。
クヨクヨ、グチグチ、イライラの私。
自分で「悩み」を作って、ため息ばかりついているので、家族からは、
「ご苦労な性格だ」と言われています。
===そうだぁ、今を大切にしよう===
と、俄然、元気が出て、
その変わり身の早さに周囲は呆然。
そんな私ですから、
宗教哲学の本からは、教えられます。
力付けられます。

こんな、教えが鏤められ、
人々の生活と共にある宗教が、
権力になり、
やがて「刃」になっていくのはナゼなのでしょうか???
人々のさりげない日常から出発していく教え。
ほんのちょっとした「心の支え」になっていく哲学。
その宗教が政治に利用され、
為政者の道具にされ、
変質、変遷していく歴史は凄まじく、痛々しい。
権力を握ろうとする者の、
彼らが信じている宗教とは、
なんなのだろうか???

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2004.09.06

黒い未亡人

「黒い未亡人」とは???

今回のロシア学校襲撃事件の犯人たちは、
チェチェン武装勢力のバサエフ司令官の指揮下にあるイスラム・シャヒード(殉教者)大隊「リヤド・アスサリヒーイン」です。
とりわけ、このテロに加わった女性たちについて、「黒い未亡人」というテロリスト組織であると語りました。
 同司令官は、夫や身内をロシア軍に殺害され、恨みを持つ女性により自爆テロ志願者集団「黒い未亡人」という集団を組織。
02年のモスクワ劇場占拠事件などにも関与したようです。

なんとも言葉がありません。
ロシアの大国主義で犠牲になった多くの人たち。
そして残された家族。
恨みは募り、憎悪は増し、怨念は怨念をよび、
ついに自らの命を賭して、テロリストと化していった女たち。
もともと、チェチェンの女性は心優しいという。
優しい故に、愛するものを失ったその悲しみも深く、
さらに恨みは重くのしかかってくるのだろうか、、、
彼女たちを、殺人凶器に仕上げていったのは、
なんだったのか、想像することはたやすい。
憎むべきこの犯罪、
許されざるこの事件、
その陰で流された血と涙を思うとき、
真の敵は、何か?
おのずと明らかになってくるようです。
どこかで、
静かに微笑んでいる「真の敵」。
テロを無くすためという口実で、
新しい戦争を次々としかけていく大国の指導者たち。
人の命より権威と利益が優先される
この者たちのために、
今日もまた、「黒い未亡人たち」が生まれる。
どこかでまた「哀しみにくれる母たち」が生まれる。
考えただけでも胸が痛み、
居ても立ってもいられなくなります。

どうか、どうか、
恨みの連鎖を断って欲しい。
祈らずにはいられない、、、
それにしても、
ここへきて思うことは、
宗教の役割です。
「神はなにを望んでおられるのだろうか???
人間たちに。」

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2004.09.05

星のローカス

星のローカス(小山田いく作)という漫画があります。
宇宙を扱った漫画やアニメは沢山あると思います。
萩生望都、竹宮恵子などが有名です。
この「星のローカス」は、
星にまつわる伝説、おもにはギリシア神話ですが、
古くから伝わる星の話を中心に、
普通の男の子が抱える青春の悩みを描いた漫画です。
この漫画を読んだ後は、夜空を見上げた方も多いと思います。
私も、
この漫画をきっかけに、
ギリシア神話を読んだりしました。

もう、15〜6年前になります。
近所の中学生を持つお母さんと親しく話をすることがありました。
息子さんの高校受験で悩んでいるとのこと。
「理科が好き」
「将来どうしようか悩んでいる」
とのこと。
話がすすむうちに、
私は、
「星のローカス」を彼に貸してあげようと思いつきました。
お母さんに手渡して、幾日もしないうちに、
私の所に、お母さんが本と一緒に見えました。
「とてもいい漫画だったと息子が言っていました。
なんだかやる気が出てきたみたいです。
主人公、私は読んでいないのでわからないのですが、
その子の気持ちがよくわかる、、、と言ってるんです。
そして、
僕も天文やりたい、なんて言い出すんですよ、、、」
と、喜んで話してくれました。
その後、
彼は高校、そして大学では理学部に進んでいきました。
星のロカースが彼の人生を決めた、
と、までは言いませんが、
受験の時の、いろんな心理状態を、
等身大の主人公と共に悩むことで、さらに一歩進むきっかけにはなったように思います。

さて、
いま受験生のみなさん。
もう二学期。
周りは「もう、○月しかない、、、」
と、騒いでいるでしょ。
自分も、なんだかそんな気になってくることでしょう。
しかし、
慌てない。
とにかく基礎が大切です。
これからも、ドンドン簡単な問題を沢山やってください。
もし、お時間があれば
瀬戸智子の実験教室、あすなろ通信
に、受験体験記をずっ〜〜〜とシリーズで載せていましたので、参考にしてください。
また、
数学パズルの道のような楽しい数学で、頭と心をリフレッシュすることをお勧めします。また、現役先生の悩みなんかも伺えて参考になること請け合い。
いずれにしても、
大きな宇宙の中で、小さな人間たちがやっていることの一つひとつにギャンギャン騒がずに、
ド〜〜〜ンとした気持ちで、これからの受験最終版までを乗りきってください。
応援しています。

夜空に美しく描く星の軌跡(ローカス)。
そして、人間が歴史に描く軌跡は、どんなものなのでしょうか???

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2004.09.04

ルサンチマン対策

=ルサンチマン [仏 ressentiment]=
哲学用語です。一般的には次のように解釈されています。
〜被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみを内心にため込んでいること。〜

さて、
またしても、
胸を突くような事件が起きました。
ロシア・北オセチア共和国ベスランで、1日から学校が占拠されていた事件の
最悪の幕切れには、
しばらくは、頭が真っ白。
なんと言っていいのか、、、
言葉を失いました。
絶対に許すことが出来ない犯人たちの行動。
絶対に理解し、共感することができない思想、信条。
テレビに映し出された泣き叫ぶ子どもたちに、親たち。
そして愛する者を失った母親、、、
辛い。
許せない。
この先、
彼らが背負っていくものの大きさを思うと、さらに胸が押しつぶされるようです。
失った者たちは、その喪失感の大きさを埋めるものはないだろう。
助かった者たちは、心に空いた大きな穴をどうやったら埋めることが出来るのだろうか???
思えばおもうほど
犯人たちの罪は大きく深く許し難い。


さて、
このとても許し難い犯人たちは、
どの様な背景で「生み出された」のでしょうか?
チェチェンをめぐる絶望の三角関係の中で、田中宇さんは、チェチェン問題を詳しく解説してくださっています。
チェチェンにイスラム原理主義が根付いていった背景がよくわかります。
そして、
さらなる裏には何が隠されているか?
黒幕は誰か?
答えはもちろん
ヘゲモニーの再編を狙っているアメリカの大国主義だと思います。
アメリカは、とにかく
世界を自分の思い通りに動かしたい。
どこにでも出かけ、
力で抑圧することに、なんの躊躇もない。
したがって、そこには人々のルサンチマン、つまり支配者への憎悪や憎しみが生まれる。
反米感情が高まってくる。
そのために、さらに
アメリカは「ルサンチマン対策」をもっと強硬にしなければならない。
先日の共和党大会でブッシュ大統領は、
「テロに対して座して待つのではなく先制攻撃を行う」と演説。
これが、アメリカの「ルサンチマン対策」である。

問題の解決は、
まだまだ遠い気がしてなりません。
この先、
どれだけの犠牲者を出さねば、アメリカは、罪の大きさをわからないのでしょうか???
また、
日本が今、しなければならないことは、
そんなアメリカに「待った」をかけることであると、
日本の為政者が
分かるのはいつのことなのでしょうか????

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2004.09.03

浅間嶺にけぶり立つ見つ

落 葉 松
一     からまつの林を過ぎて、
      からまつをしみじみと見き。
      からまつはさびしかりけり。
      たびゆくはさびしかりけり。

二     からまつの林を出でて、
      からまつの林に入りぬ。
      からまつの林に入りて、
      また細く道はつづけり。

三     からまつの林の奥も、
      わが通る道はありけり。
      霧雨のかかる道なり、
      山風のかよふ道なり。

四     からまつの林の道は、
      われのみか、ひともかよひぬ。
      ほそぼそと通ふ道なり。
      さびさびといそぐ道なり。

五     からまつの林を過ぎて、
      ゆゑしらず歩みひそめつ。
      からまつはさびしかりけり。
      からまつとささやきにけり。

六     からまつの林を出でて、
      浅間嶺にけぶり立つ見つ。
      浅間嶺にけぶり立つ見つ。
      からまつのまたそのうへに。

七     からまつの林の雨は、
      さびしけどいよよしづけし。
      かんこ鳥鳴けるのみなる。
      からまつの濡るるのみなる。

八     世の中よ、あはれなりけり。
      常なれどうれしかりけり。
      山川に山がはの音、
      からまつにからまつのかぜ。
===北 原 白 秋  「水墨集」より====

おととい、9月1日、夜8時過ぎ、浅間山が噴火。
長野県、群馬県、福島県などに被害が出ています。
現在は小康状態というものの、今後の活動に不安が募ります。
テレビで映し出された、農家の被害映像には、何とも言葉がありませんでした。
自然の災害とはいえ、、、
本当に胸が痛みます。
台風被害、あるいは地震等もそうですが、
被災地の方々には、政府の厚い復興支援を心から望んでいます。
さて、
私は、浅間山と聞くと、
北原白秋と、
〜暮れ行けば 浅間も見えず
歌哀し 佐久の草笛 歌哀し〜
と詠んだ島崎鴎村を思い浮かべます。
学生時代は、よく一人旅をしました。
信州は「晩秋が一番」となぜか思い込んで、
11月の最後の休みに、信州を訪れることを、繰り返した時期があります。
青く、澄みきった信濃の空が、暮れるのは早い。
薄い青から、次第に青さを増し、ついには深い藍色に支配されていく東の空と、
ピンクから、橙色になり、そして燃えるような赤色になり、そして緑色、青色、続いて東の藍色と溶け込んでいく日の沈む空の模様が、
哀しくて、切なくて、いいのです。
遠くに浅間が見える。
どこからでも見える。
ふと、自分の足元に目をやれば、
深く、濃い秋色が周りの景色を包んでいる。
夕焼けは、晩秋の信州に限る。
と、思っていました。
どこからでも、のぞめる浅間山。
万葉の時代から、歌に詠まれ、人々に愛されているという浅間山。
有史以来、ずっ〜〜〜と、噴煙をあげ、
人々はその姿に、
畏敬と、愛着を感じ、共に生活をしてきたのでしょう。
大いなる自然の力、
ちっぽけな人間。
しかし、
ひとは、知恵を武器に自然に闘いを挑み、
自然を制し、
そして、自然に押しつぶされ、
と、いう闘いの連続だったのでしょうか、、、
そして、これからも、、、
人と自然の闘いと共生はつづく、、、
今日も、浅間は、
けぶりをあげている。
さらなる被害が出ないように祈るとともに、
万全の備えをしていかなければならないでしょう。
地域の方々、政府や関係省庁、
また研究者の方々の,熱い闘いは,まだ終わりを告げないと思いますが、
一日も早く安心できることをお祈りしています。

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2004.09.02

2015年 日本の旅

全てが美しく、調和よく出来上がった。
人々は幸せに満ち、
町は活気に溢れていた。
聡明な子どもたちは、次の世代を担うに十分な学力と体力とを兼ね備えていた。
受験戦争という言葉はもうここにはない。
若者も年配者もすべて職を持ち、家を持ち、イキイキと毎日の生活をしている。
女性は、家庭の雑用から解放され、社会での重要なポストにドンドン就いている。
次期首相は女性になる予定である。
国際的に恰好たる地位を得て今や押しも押されぬもせぬ国連常任理事国である。
自由で公正な社会が、ここに誕生した。
「2015年、国民と政治の間にしっかりとした信頼関係が出来た。」
ううう〜〜〜んん。
スバラシイ!!!
これこそが、日本のあるべき姿だ。
岡総理は、窓から市街地の様子をみて満悦していた。
自分の思い描いた復活ビジョンは、すべて上手く行った。
「総理」
後ろから声をかける者がある。
ふりむくと、そこには泉一郎が立っていた。
「おおお〜〜〜あなたか。」
岡総理は、盟友の泉一郎に明るく答えた。
「総理、あなたの言われたとおりになりましたね。この国は。」
泉はフサフサとした立派な白髪を掻き上げながら、勧められもせぬ前に椅子に座った。
岡総理も、黙って前に座った。
「いやぁ、あなたのお蔭ですよ。」
そういうと、二人はどちらからともなく、笑い始めた。
全てが順調である。

一方、此方は総理執務室のすぐ階下の部屋である。
「は〜〜〜〜い。
次は、幸せそうな親子連れを通りに歩かせて。
そうね、、、子どもには風船を持たせて、」
と、こまかく指示を与えているのは、恰幅のいい男である。
名前を夏司馬という。
夏司馬の前に一人の女性がやってきた。
「貧乏人どもが、税金が高いとギャーギャー言ってますが、、、」
それを聞いて夏司馬は、
「祈れば救われると言っておけ。」
と一言。
「あっ、あのーー。アメリカがもっと金と命を出せと、、、」
と、言いにやってきたのは、
若手のホープ、山々議員である。
「あっ、ご苦労さまです。
わかりました。すぐに調達します。」
夏司馬は、山々にもみ手をしながら答えた。
その様子を座りながら涼しい顔をして見ているのは、
眼鏡をかけた紳士たち。
「全く、総理の学芸会のようなビジョンごっこには困ったもんだ、、、」
と、いうとそこに座っているなにやら偉そうな人たちがみんなで笑いながら、てんでにしゃべり出した。
「まぁ、坊ちゃんには、好きにやらせておいて、その間に、、、」
「イヤ、みなまで言うなよ。」
「ハッハッハッッ」
「フフフ」
笑いはとまらない。

(2015年日本の旅より抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜

岡田民主党代表が公約を発表しました。
ビジョンはスバラシイ。
本当に、岡田さんの考えるようになったら、スゴイ。
ところで、岡田さん?
その素晴らしい世の中を支える財源はどうするの?
ときに岡田さん。
「国連の決議がある場合は、武力行使をする場合と同列に考える必要はないとの考え方が国民にも定着している。」(わかりにくい(^^;)
と仰ったこの意味はどういうこと?
美しい言葉で並べられた近未来。
はたして、
どんな未来が、待っているのか???

ところで、
「2001年宇宙の旅」の著者、アーサー・C・クラークは、前書きで以下のように書いています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「仮想の天国や地獄のどれだけに、いま生物が存在しているだろうか?
それはどんな形態の生物だろうか?それをいいあてる方法は、われわれにはない。
、、、、、
いつの日か、われわれは、われわれと同等の存在、もしかしたらわれわれより優れた存在と星ぼしのなかで出会うことになるだろう。この可能性に直面するまでに、人類は長い時間を要した。
、、、、、
「なぜ、そんな出会いがまだおきないのだろう?われわれが
宇宙空間にのりだそうとしているというのに」
本当になぜだろうか?
、、、、、、
しかし忘れないように、これはただのフィクションなのだ。
真実は、それが常にそうであうように、はるかに異様なものにちがいない。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜

真実は、それが常にそうであうように、はるかに異様なものにちがいない。
そうです。

 

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2004.09.01

もしも月がなかったら

ニール・F・カミンズの「もしも月がなかったなら」という本を、本棚から引っ張り出してきて、今
読んでいます。
〜ありえたかもしれない地球への10の旅〜
という副題がついているこの本は、
物理学者である著者が、
前書きで本を書くきっかけを次のように述べています。
〜〜〜〜〜〜〜
5才の息子の、
「もしも〜〜〜〜」
「もしも=======」
という素朴な質問は自然を理解する上でとても役に立つ。
また、同僚の一人が、
「人々の思考は型にはまっていて、いつでも同じ視点で地球や人生を眺めている。」と、述べたとき私(著者)は、
「もしも月がなかったなら」と思いつき、
その発想から新しい地球を作っていった。」
〜〜〜〜〜〜〜
そして、本章では、10の地球を作っています。
1,月がない地球
2,月がもっと地球に近いとき
、、、、、、、
10,オゾン層が破壊された地球
と、それぞれの場合を、物理学の観点から述べています。
この本を読みながら、
私は改めて、
宇宙の不可思議を思わざるおえません。

はるか昔、地球が宇宙の塵から形成された過程と全く同じ道を通って、
月は、地球の周りで繰り返される微惑星の衝突から生じる塵で生まれた。
第一章、もしも月がなかったなら、
自転速度は今よりずっと速く、一日は8時間である。
強風が耐えず吹き荒れ、地形も今とは違って高い山などはない。
生命の進化も遅く、知的な哺乳類はいまだ誕生していない。
などなど。
地球が、生命の誕生の可能性のある星であったことは、
いくつかの偶然の産物です。
ここに地球がある。
そして、今ここに私たち人類が在る。
そのことの不思議をまた思い、
胸が熱くなりました。
そうして、
その偶然がなせる幸運にも、思いが及びます。
そういえば、
今年の3月、「最古の銀河発見」というニュースが新聞に掲載されていました。
その時、
私は、瀬戸智子の実験教室 やじろべえ日記
で、「幸運の遺伝子」というタイトルで、次のように書きました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「運、不運というのは偶然のなせる業ではあるが、幸運を引き寄せる何か、という物はあって、その何かというのは持って生まれた物である。しかし、それを発現させるのはあくまで本人の努力である」ということです。
幸運はあるけれど、努力の方がより大切であるのでしょう。
さて、個人の運、不運はともかくとして、「人類発生」という長大なテーマでみたとき、幸運は絶対にありました。
だれだって、一度は(一度ならず)「人間はどうして生まれたか?」「宇宙はどうしてうまれたか?」興味を持ったことはあると思います。
今日の新聞で「最古の銀河発見」という記事を読みました。
宇宙誕生もロマンですが、人類誕生もそれは多くの奇跡というか幸運に見舞われて、今私たちはここにいるわけです。
地球上での生命発生の段階がそもそも偶然。
進化の過程で、多くの迷路に入りながら分岐しながら、知性を持った人類が登場したのです。興味ある方はいろんな本が出ているので是非ご覧ください。
私たちは「幸運な遺伝子」をそもそも持っているわけです。
人間として生まれたその時から。
大きな目で、長い目で見たらその偶然におののきうち震えます。
今日はそんなことを考えました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ここに、こうしていること、
それだけでも素晴らしい事だと思いました。
そして、
この幸せをいつまでも続けていくためには、
地球上のあらゆる生命を守っていかなければとも思うのです。
空で青く輝く友人の星達が、
私たち、人類に教えてくれるロマンを感じながら、、、

もしも今晩、お時間があったなら窓から月をご覧になってください。

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