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2004.11.19

自己を習うとは

道元禅師は、
「仏道を習うとは自己を習うなり。自己を習うとは自己を忘るるなり」という有名な言葉を残しています。
意味、解釈は多くの仏教研究者や哲学者がなさっています。
また、とくにそんな解釈がなくても、
「そのまま」とってもわかりやすい言葉です。

「自己を忘れるか」、、、かぁ。
一言で言われて、その通りと思っても実際に自分の中でド〜〜〜ンと収まり、行動が伴うのは容易ではありません。
どんなときでも、自分から離れることはできない。
いつだって自分の考えから脱けきれない。
じゃ、どんな自分から???
と、突き詰めてみれば、
「ひとから見た自分」であることに気がついて愕然としてしまいます。
人が私をどの様に見ている?
私が話した事を人はどの様に受け取る?
人は私は評価してくれるだろうか????
あ===
気がついてみれば、
私は、自身を人の目から見ていたような気がする。
「他人の目」で生きていたような気がします。
人との対応、関係の中で、ギチギチになり緊張して、自分の心を縛っていたのでは?と思うのです。
人からみて美しい?
賢い?
やさしい?
そう、そんなもの全ては、いつだってボロボロに崩れ去っていくもなのに、、、
もっと大切なものがあることを知っていながら、それでもなお捕らわれている、
「自己をわすれられない私」
そして、道元禅師が教えてくださったのとは全く違う意味で「自己を忘れていた」私。

そうではない。
そうではない。
と、本来の私が私に語ってくれます。
時々の場面、局面で、
人の評価やウワサで本来の自分を見失ってはいけない。
「自分は自分」だよ。
自分を愛して、いとしく思って、信じていくことが、
「自己を忘れる」ことに繋がるのかもしれない、と思うのです。
そして、そこからさらに繋がるもは、
人への素直な愛情なのでしょうか???
どんなに頑張っても
人は自分以外の誰にもなれないのだから、、、
ならば、自分をいとおしみながら、相手もいとおしんで生きていきたい。


雨のしずくにゆれるモミジを見ながら、そんなことを思いました。

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コメント

瀬戸さん、こんばんわ、

なんと電車の中からのコメントです。

あのお気づきだと思いますが、トラックバックいただいた私のブログののサブタイトルはまさに「自己をならふといふは、自己を忘るるなり」です。私も(?)自己を忘れるというより、いつも自分を見失っております。

瀬戸さんのおやさしさを感じます。

投稿: ひでき | 2004.11.19 20:44

すみません。さきほどののURLが違っておりました。もし修正いただければ幸甚です。l

投稿: ひでき | 2004.11.19 20:50

 たとえば自分の顔は、鏡などの道具を使わないことには自分からは直接見えないように、自分の行動の評価も、自分からは直接見えないものだと思うんです。
 だから、他人の評価や意見を聞いた上で、自分なりの方向修正をしていかなくちゃいけないだろう、と思いますね。
 自分や周囲を、人の目で見るのではなく、かといって自分の目だけで見るのではなく、マクロでもなく、ミクロでもなく、自分自身も他人と同等に扱う、そういう視点。第三者的、神様の目的な視点。
 ついつい忘れがちになっちゃいますよね。
 けどそれがなかなかできないからこそ、人は迷い、苦しむのでしょうけどね。

投稿: さいと~ | 2004.11.19 23:51

ひできさん。
さいと〜さん。
おはようございます。
コメント有り難うございます。

ひできさん。
いつも、ひできさんの真剣な「といかけ」には共感もし、頭もさがります。
以前書いていらした、「子どもの頃の刷り込み」(乱暴な要約でゴメンナサイ)、あの文、すごく気になっています。
そのうち書きたいです。
いつも刺激受けていますよ。
また、いろいろ教えてください。
なお、リンク先は了解です。
では。寒くなりますお体ご自愛くださいね。

さいと〜さん。
そうですよね。
本当に、ほんとうにそうなんですよね。
頭ではわかっている。
しかし、できない。
そこで、ジレンマに苦しむ自分がいる。
と、いうなかなか抜け出せない構図ですよ〜〜〜
まぁ、しかし、あなたじゃないけれど(以前の書き込みから)「楽しむこと」の追求、延長上にあるのかと、思い、本来お気楽な私は、楽しみながら「修行」????(^^;をしています。

では、、、
またね。

投稿: せとともこ | 2004.11.20 06:46

こんにちは。いい言葉ですね。私は「正法眼蔵随聞記」を7年かかってまだ読みきれていません。
小学校高学年の頃でしょうか、曾祖父が手土産に持って帰る寿司の海老をいつも弟と取り合いしていたのが、ある日突然、自分は本当に好きかどうかに思い当たり、以後取り合いしなくなったことがあります。こちらが云い立てないと向こうもその気にならないか、海老がわっぱに長く残るようになりました。
心が軽くなるというのでしょうか、凝り固まった自分にふと気づくことがあります。
この言葉は、普通の人は座右の銘とするより、ただ、”我執”という言葉をどこかに書いておいて、たまに目にするくらいでいいんじゃないかと思いますが如何でしょう。

投稿: 隅田清次郎 | 2004.11.21 13:00

隅田さん。
コメントありがとうございます。
とても素敵なコメントで、何回も読みました。
そうなんでしょうね。
相手と自分って鏡のようなところがあるんでしょね。
こちらが笑えば、向こうも笑う。
こちらが怒れば向こうも然り。
そこをスコッと抜けて、もうひとつ殻を破ったとき、
心がかるくなり、我からも解放されるのでしょうか?
いろいろ考え、思いました。
これからも、道元の事などいろいろ教えてください。
とても楽しみにしています。
では、また。

投稿: せとともこ | 2004.11.22 13:04

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山口浩さんの記事が非常にこころにつきささっている。 ・「生命の重さと自分探し」  [続きを読む]

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