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2005.04.20

標榜するもの

私たちが憧れ、標榜するものは「近代国家」ではないかと思います。
このところの教科書問題や憲法問題、国際情勢を考えながらそのように思いました。
そこで、今日は簡単にフランス、ドイツ、アメリカの近代国家の成り立ちと、私の知っている彼等の国民性について、ザツーと書いてみます。
==フランス==
近代国家と言えば、誰でもが一番目に思いつく国です。
フランス革命によって近代国家の礎は誕生しました。
「自由、平等、博愛」を謳い中央政府は、残存する地方勢力を打破。身分制から解放された近代的個人によって普遍的理念が国家の下に結集。国の代表は、個人の代表である形態が残存。
「自分たちの文化は、外国にも受け入れられ理解される」と思っている普遍原理に基づいています。
彼等は、いつでも自信に満ちていて明るくて開放的。自分中心。
フランス人であることに誇りを持っています。
(イタリア人も、イタリア人である事に誇りを持っています。
彼等の場合は文明の発祥という意味でしょうか?)
伝統も大切ですが、科学技術や芸術への関心も深く、未来指向。
(ストリートパーフォマンスも、あちこちのメトロの中や広場で見られ、それがなかなか垢抜けていて玄人はだし。外国人の私たちにも声をかけてくれたのはフランス人が一番でした。フランス語を話せない私のボディランゲージを一番理解してくれました。)

==ドイツ==
「民族」と一体化しながら発達してきた国家。
地方分権が発達しながら連邦国家と言う形態をとったドイツは、「民族」「純血」を紐帯にしながら国を形成。
ドイツ人から連想されるものは、厳格、堅実、合法です。
彼等は「法を破らない」。
以前いたドイツのアパートでは、夜8時以降洗濯機や掃除機をかけると、警察に訴えられます。なぜなら法で決まっているから。
ドイツ人と「ナチス」について話す機会があった人なら誰でも思うでしょうが、彼等は、しっかりと自己批判し、羞じています。しかし、決して卑屈ではありません。
特にお年寄りの方は、私たちが日本人だというと、それはそれは喜んでくれました。
この国もベルリンの壁が崩壊してから、東ベルリンから多くの人たちが流れてきました。
ストリートパーフォマンスも、随分増えたそうですが、どこか垢抜けないと私は思いました。
(ゴメンナサイ)

==アメリカ==
日本人でもこの国の国家形成の歴史は知っています。
メイフラワー号に乗って、イギリスから移住してきたピューリタンの人たちの独立と開拓の歴史です。
個人が自発的に集まって共同体を作り、そこには矛盾無く「自由」「平等」「個人」
「共同体」が入り込みました。彼らにパトリオティズム(郷土愛)が自発的に生まれたのは言うまでもありません。
その大きな国家は、あれこれの歴史を超え、やがて多民族も受け入れ自由国家の名乗りを欲しいままにしています。
開拓精神は今に健在。
人なつこくて、エネルギッシュ。
しかし、私の知っている町は南部で封建的でした。
人々の口は重く、警戒心さえ感じたのですが、それはアメリカ社会が抱える問題であることを後になってからわかりました。
それ以外は、快適な人間関係を持つことができました。
アメリカ人は「歴史」の浅さに負い目を持っています。
日本の京都や奈良に憧れています。(また口にこそ出さないがきっとヨーロッパにも)
実際、イタリア人、フランス人、ドイツ人とホームパーティをする機会には何度となく恵まれましたが、アメリカ人とは一度もそうした機会はありませんでした。
彼等はホームパーティよりプールのそばでジャンジャン音楽をかけてバーベキューする方がお好みか?
西武開拓の時代の教会が、彼等にとっては歴史であり、大草原の小さな家が彼等のルーツです。
フロンティアが高じて、世界の冠たるものなろうとする動きが一部ではありますが(^^;
しかし、アメリカはナショナリズムの国ではなくパトリオティズムの国であることは実感します。


===日本====
近代日本は、上からの急激な力、強力な中央集権によって成立したことは、異論のないところです。
垂直志向で形成されたナショナリズムは、自立、成熟した個人を形成する前に、
「国」と「個人」の間に「家」を入れることで、急速に作り上げられました。
そのため、国家形態において、共同性、公共心は中途半端な形で内在。
「公」と「私」が分離していません(この現象は今でも政治の実際でよく見られるところです==公金横領、税金私物化、、、)
また、日本は地理的な性質上、他国と対等な関係で対話する、共存するという歴史を過去に持っていません。
「征服か、服従か」の二者択一の選択を迫れる関係しか築くことができませんでした。
さらに、日本のナショナリズムの担い手が、旧国家の特権階級であったことも、日本人をして、「飢餓感」「敗北感」で満たすに十分なものでした。
こうした歴史の中で私たちは戦後を迎え、
アメリカによる占領支配がなされ、憲法が誕生したことは、すでに知っているとおりです。
ただ、ここで、日本人はその飢餓感から「自分たちの手で」憲法を作ったという思いを持たず、押しつけられたという印象が今もなおは残っている人々がいます。
そして、その思いとは別のところで意図する何者かの利害と一致して、
「憲法改正」論議はかつてなく盛大に今、論議されているようです。
この問題に関しては、また次に譲ることにしますが、
ただ、個人的な意見としたら、
「今、もし憲法を改正して、果たして真の意味で日本国民の自主憲法」が出来たと思えるのだろうか?
やはり、「押しつけられた」という飢餓感は拭えないような気がします。
では、、、
この飢餓感を捨て、民族の誇りを取り戻すにはどうするか???
私は存外、簡単なことではと思うのです。
長い歴史と伝統、芸能を見直し、
自らの誤りは誤りとして受け入れ、未来にわたり失敗を繰り返さなければよい。
そして、けっして卑屈にはならない。(自虐もする必要はありませんーーー自虐は新たな罪を作る)
事実を事実として受け止め、さらに未来へ志向していけばいいのでは、、、と私は思います。
標榜するものは、
近代国家と成熟した市民です。
今、その第一歩を踏み出そうとしているのです。
力ではなく、対話。
相手への理解。包容。
自らの誇りを持って、、、
そんなことを祈りながら、私は書いています。

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コメント

 日本における公はもともと大宅(おおやけ)だったそうで、英米におけるpublic概念とは異なるもののようですね。大宅とはボスの家ですから。どうもヨーロッパの人たちと話していて公共概念が違う感じがするのは、そういう事情なのかもしれません。
 もっとも強く感じるのは、彼らは「自分を超えた法則」を認識しているところです。電車の中でふざけると、「前の人に笑われる」からではなく「人に迷惑をかけるべきではない」という、自分より上位のルールが適用されなければなりませんが、そのように子供を教育している人は未だに少数です。
 日本人は、明治時代からおおらかな欲望肯定主義で、自分の欲望を上位におきがち(丸山真男)ですが、神の律法や、パブリックという法則に自分を従わせることができません。
 ですからかえって妙な主義や新興宗教、官製の神話に対する免疫がないのかもしれません(長々書いてすみません)。
 フランス革命は理性の革命といわれますが、そういうルールが意識できる社会をこれから構築していくというのが我々の本当の市民社会をつくっていく作業なのでしょう。

投稿: i-demo | 2005.04.20 20:50

i-demo さん。
こんにちは。
コメント、トラックバック有り難うございます。

アインシュタイン、、、の方にもコメントを頂きましたが、こちらで書かせていただく失礼をお詫びいたします。

アインシュタインって、多くの人々の畏敬、憧れの対象なんだと、この間頂いたコメントから改めて思いました。
彼のなし得た仕事も素晴らしいのですが、その生きざまに私たちは惹かれるのでしょうか???
これからも科学について、色々お話ししていけたら思いますので、よろしくお願いいたします。

さて、こちらで頂いたコメントも示唆に富むものです。
>もっとも強く感じるのは、彼らは「自分を超えた法則」を認識しているところです。電車の中でふざけると、「前の人に笑われる」からではなく「人に迷惑をかけるべきではない」という、自分より上位のルールが適用されなければなりませんが、そのように子供を教育している人は未だに少数です。

本当に仰るとおりだと思います。
「前の人に笑われる」から、やめなさい。というように育てられると、では気にしないでおこうとなると、今度は携帯電話や人前での化粧など平気でするようになります。「他人」に迷惑になる、、、なぜならば公共の場にはいろんな立場の人がいるから、、、というような発想がなかなか湧いてこなくなるのでしょうか?
また、この「他人の目」といういかにも日本的発想は、明確な論理を植え付けません。ラベリングすることで、思考は停止します。
自分の頭で考えることを次代の子どもたちにはなんとか身につけて欲しいものですが、、、

>フランス革命は理性の革命といわれますが、そういうルールが意識できる社会をこれから構築していくというのが我々の本当の市民社会をつくっていく作業なのでしょう。

本当にそうだと思います。
大変ですがやり甲斐もありますね(^.^)
どうぞこれからもよろしくお願いいたします。
では、、、また。

投稿: せとともこ | 2005.04.21 15:15

私は憲法改正論者です。
我々が抱える憲法が、不当に改正するのが困難な憲法ではないか?
改正すべき部分がないか?
常に考えるのも民主主義の下に生きる国民の義務と考えます。

私は例えば、労働基本権の付与の一部を在日外国人労働者にも付与すべきではないか?とか考えたりします。地方自治や参議院の意義の不明瞭さ、など憲法がもつ問題点はいくつもあるはずです。変えづらい、というのも問題点だと考えます。変えづらいことが国民の憲法に対する思考の怠惰を生むなら、改憲をもっと行いやすくするべきとも考えます。

当然9条に注目が集まるでしょうが、それに囚われることなく、憲法はどうあるべきかを常に考えるにおいては、改正の機会を常にためらうべきではないと感じます。
探せば改憲すべき項目は数多にのぼり、これを法解釈で乗り越えるか、などと常に考えていく、それが民主主義の担い手の責任です。

「押しつけ」も当然理由になりませんし説得力が無いですが、変えねばならない点を放置するのは国民の怠惰でしかないと考えます。

旧社会党や共産党が標榜した護憲論は怠惰論でしかなく(なんの意見もない反自民の思考)、憲法の問題を掘り下げる努力をすっかり置き忘れてきています。憲法は常に改憲を視野に厳しく国民が磨き上げてこそよい憲法であり、放置して腐らせる愚はあまり好ましいとは考えません。

変えない、という選択肢ももちろんありますが、それが全条項に対しての議論なのか、憲法との向き合い方として正しいのか、そこを押さえてないと憲法改正不要論は未来に恐ろしい結末を導く気がします。
解釈でどうにでも出来る憲法より、必要に応じて変えることの出来る憲法の方が未来の日本人に有益であると考えます。

ぶっちゃけ今の9条は現実に存在する自衛隊員に不当であるとも考えます。
でも改憲については9条以外にも必要性を感じずにはおれません。

投稿: GAMEしようよ | 2005.04.22 02:26

GAMEしようよ さん。
こんにちは。
コメント有り難うございました。

あなたのコメント、何回も読ませていただきました。本当に有り難う。
あなたのコメントを拝見しながら、
「そうだな、、、」
「あっ、わかる〜〜〜」と思い、そこでいろいろ私なりに勉強をしました。
歴史、経済、政治と、今私たちを取り巻いている状況を、私が思いつく限りで、資料、本、ネットで調べました。
それが、今日のエントリーです。
これは、私の思いつくままに論点整理したものなので、不備もいっぱいあると思います。その折はまた教えてください。勉強します。
GAMEしようよ さん。
お互いに意見交換しながら、良いものを次代の子どもたちに伝えていきましょうね(^.^)
これからもよろしくお願いいたします。

投稿: せとともこ | 2005.04.22 15:37

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