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2005.06.30

風来疎竹

今日、ブログを開いてビックリ。
いやぁ〜〜〜なかなか騒々しいと言うか賑やかになっていますねぇ。
目と口をパクパク(?)開けて大笑いしました。
まぁ、笑ってばかりいても、と言う事で、
今日は改めて、
トラックバック、コメントへの対応、
ブログ上での討論、議論の私なりの考えを述べます。
(併せてコメントについての考え方もご覧ください)


まずトラックバックやコメントの削除について。
(コメントについての考え方に書いてありますが)
基本的には、頂いたトラックバックやコメントは削除致しません。
(ただ、あまりに愚かなものは、本人の名誉のために削除する事はありますが、その場合も本人には通知させて頂きます。)

ブログ上での討論、議論。
私自身は、ブログ上での討論、議論は行わない方針です。
討論、議論する場としてはこのブログは開放はしていません。
何故か?
文は記号です。
自分の考えや思いを、文字という媒介を通して表現していきます。
また、逆に文字という媒介を通して、自分の考えを構築します。
しかし、自分自身の考えを100%文字で表すことが出来ているかと言うと、
努力しようと思いながらも、完璧でない自分という者をいつも見ています。
具体的な事象を一端、文字という抽象に置き換える。
その過程で、当然捨て去られたものがある。
抽象化された文字から読み手は自分に必要なものを大きくフィードバックして、具体的事象を組み立てる。
文を書く、読むということは、そう言う事なのではと考えます。
さて、私の書いた文が独立して「一つの表現」が一人歩き。
そこから類推されて「あれこれ」と述べられると、
「あらあら、私そんなこと書いたっけ?」と思って驚き、反省することも度々。
指摘して下さった方々にはいつも感謝しています。
そして、
誤解を解く、あるいはお互いに理解するための鋭意努力はできる限り致します。
しかし、「言葉のもつ限界」「言葉の二重性(辞書的解釈と個別具体的なその人だけの表現)」から逃れることは容易ではありません。
これは、話し言葉にも言えます。
自分自身でさえ、「今ただいまの自分」と「先ほどの自分」が違う事を考えていることはよくあるのですから、意見の違う方が(多分、100%同じ人はいないでしょう)いても、全然不思議ではありません。
それはジャンルが政治であれ、芸術であれ、なんであっても言えることです。
客観的な数字を述べるのではなく「思い、考え」を表現するのだから、、、
書き手である私の表現と、その読み手の受け取り方に違いが出ることは仕方がありません。

そういうわけで、私自身は当ブログにて「私の意見」を書きます。
また、それに対して、同意や批判は受け取ります。
しかし、その一つひとつにコメントをお返ししない場合もあります。
そもそも私が考える議論とは、
一つの命題(議題)があって、それに対して、
賛成の立場の人は客観的事実(できるだけ新しいもの)を述べ、そこから導かれる合理的な結論を述べる。
次に反対の立場の人は、同じように反対の客観的事実をのべ、そこから導かれる結論を述べる。
そして、次の段階は、お互いの「命題」に対して認識の違いを検討する中で、
「命題」が正しいか、そうでないかを考えていくものと私は思っています。
共通の認識、理解をブログ上で持つことができなくても、それは「むべなるかな」と、私は考えています。
まず、議論するための最低限の条件がそろわない相手と私自身は、意見を闘わせません。
ましてや、相手への批判や析伏させるような不毛な議論は致しません。

このような理由から、
頂いたコメントや、その方の書いてある内容(本人のブログなど)から、
自ずと分かる「書き手の力量」を見極め、
その上で、コメントするに値するかどうかは私自身の判断で決めます。

以上が私のブログに対して
コメント、トラックバック、議論に対する当面の考え方です。
(考え方が変更した場合はまたお知らせします)

なお、最後に、今日のタイトル「風来疎竹」は菜根譚から頂きました。
〜〜〜〜〜〜〜〜
風来疎竹、風過而竹不留声、雁度寒潭、雁去而潭不留影

風、疎竹に来たる、風過ぎて竹に声を留(とど)めず、
雁、寒潭(かんたん)を度(わた)る、雁去りて潭(ふち)に影を留めず

竹の葉はそよ風に鳴り、風過ぎて竹に声なし。
飛ぶ雁は淵をわたれど、去りし後、影をのこさず。
〜〜〜〜〜〜

ザワザワと風が吹いても、心騒ぐことはない。
過ぎれば、静かさは戻る。
飛んでいく雁は、一時は影を落とすが、飛び去れば、また元の静けさに戻る。
後々まで、執着、粘着はしない潔い毎日を過ごしたいと言う思いをこめて。

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2005.06.29

イラクへの主権移譲1年

米大統領演説:
「米国民は揺るがない」イラク民主化へ決意
ということで、
〜〜〜〜〜〜〜
28日夜(日本時間29日朝)、イラクへの主権移譲1年(6月30日)に合わせ、ノースカロライナ州フォートブラッグ基地で演説。
「イラクでの作業は困難で危険だ」と認めた上で、「米国の決意が試される困難な時期もあるだろうが、米国民は揺るがない」と語り、イラク民主化に向けた強い決意を表明。「敵が勝利する唯一の道は、我々が9・11の教訓を忘れたときだ」と訴えた。
中略
ーーブッシュ米大統領の演説要旨は次の通り。

 イラクでの任務は明確だ。テロリストを倒し、イラクの民主化を助け、中東に自由を拡大し、子孫の平和のために暴力の根を断ち切ることだ。イラクでの作業は困難で危険だが、犠牲を払う価値はある。米国の将来の安全にとって死活的だ。
 テロリストは、無実の人々を殺すことはできるが、自由の進展を止めることはできない。彼らに勝ち目があるとすれば、それは、我々が9・11テロの教訓を忘れてしまった時だ。
 イラクの経済と社会基盤を再建しようとするイラク人たちへの支援を続けていく。イラク人が、自国の治安と安定に、より大きな責任を担えるようにする。
 我々は多くの進展を成し遂げたが、まだ多くの課題が残っている。イラク治安部隊の育成をできるだけ早く進める。治安部隊育成のため、新たな3段階の措置を取る。
(1)多国籍軍との共同作戦を通じた技術指導
(2)イラク部隊内に米軍との連絡役となる「移行チーム」の設置
(3)対テロ戦闘能力を高めるための移行政府内務省、国防省との協力だ。

 米軍の撤退日程を明確にすることは、イラク人や敵に誤ったメッセージを送る。我々は、必要とされる間、イラクに残る。イラク人主導による戦闘に導くのが米国の戦略だ。米軍増派は、この戦略を損ない、駐留長期化を招く。
 (中東という)死活的に重要な地域での自由の台頭は、原理主義が育つ条件を取り除き、我が国をより安全にする。
 我々は、勝利を収めるまで、世界中でのテロリストとの戦いを続ける。

(毎日新聞 2005年6月29日 11時43分より抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜
だ、そうです。
さて、ではイラクの現状はどうでしょうか?
イラク戦争 に、刻一刻と変わるイラクのニュースが伝わってきます。
日本の自衛隊が駐留しているサマワでも、デモや爆発やら、物騒な情報が届いてきます。
また、
イラクに駐留している外国軍の数は減少の一方です。
 これまで「多国籍軍」という名のもとの有志連合に加わったのは米英を含めて38カ国。
すでに16カ国が撤退を完了するか撤退を開始しています。撤退を予定・計画している国がさらに4カ国あります。
 派兵継続国は米英や日本、韓国など18カ国です。
〜〜〜〜〜
 ・撤退または撤退を開始 16カ国
 ニカラグア、ドミニカ共和国、スペイン、ホンジュラス、ノルウェー、フィリピン、ニュージーランド、タイ、ハンガリー、ポルトガル、モルドバ、トンガ、シンガポール、オランダ(2月撤退開始)ポーランド(2月撤退開始) ウクライナ(3月撤退開始)

・ 撤退を予定・計画 4カ国
 エルサルバドル、チェコ、イタリア、ブルガリア

・ 派兵継続 18カ国
 アメリカ、イギリス、ルーマニア、デンマーク、アゼルバイジャン、スロバキア、ラトビア、リトアニア、アルバニア、グルジア、エストニア、マケドニア、カザフスタン、韓国、日本、オーストラリア、モンゴル、アルメニア
〜〜〜〜〜〜〜

ブッシュさぁ〜〜〜〜ん。
「我々は、勝利を収めるまで、世界中でのテロリストとの戦いを続ける。」
それでは、いつまでたっても「憎しみの連鎖」は絶ち消えない。
戦いのロンドを舞っているうちに、
やがて、舞台は廃墟と化している。
そっ、そんな世界はSFか映画だけにして下さい。

「うでが落ちたな、ブッシュ」
スーハー  スーハー
「そういうお前も、フセイン」
スーハー  スーハー
(二人ともダークサイドに堕ちています)
(^^;

もう、これ以上、尊い命が犠牲になることがないように、
憎しみが増幅することのないように、
どうか、どうか、考え直してください。
グジャグジャになったイラクは、もうアメリカでは復興しないくらい反米感情が高まっています。
その一つひとつを「掃討作戦」なんて、無理な話です。
国連というか国際社会の良識に頼るしか、もう方法はないのです。
アメリカだけで、アメリカの言うところの「正義」を、いや力を振りかざすことは、もうやめにしませんか?
すでにダウニング街メモなどで、その大義は破綻しています。
貴方の言う「正義」の何を信じればいいのでしょうか?
ブッシュさん。

 

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イラク世界民衆法廷

6月23日からトルコのイスタンブールで開かれていた「イラク世界民衆法廷」は27日終了しました。
(米国のリチャード・フォーク教授(国際法)、国連人権高等弁務官事務所顧問のクリスチン・チンキン氏(英国際法学者)ら世界の著名な法律家や人権活動家54氏が参加)
この法廷は、
2003年3月のイラク戦争開始とほぼ同時に戦争に反対する知識人や市民が始めたもので、この2年間、日本でも「イラク国際戦犯民衆法廷」として、東京や大阪、広島など各地で開催。また世界13カ国でイラク戦争の戦争犯罪を裁く「公判」や「公聴会」が行われています。

さてさて、今回の世界民衆法廷は、
米英両国政府が大義ないまま引き起こしたイラク戦争を糾弾。
ブッシュ米大統領とブレア英首相の戦争犯罪を断罪しました。
そして、多国籍軍のイラクからの即時撤退とイラクが受けた損害に対する賠償を求めました。
声明では「イラクへの攻撃は正義と自由、われわれの安全、われわれの未来、われわれすべてに対する攻撃だ」と、イラク戦争を糾弾。
この戦争を「歴史上最も不正義で不道徳な戦争」の一つとした上で、「米英による27カ月に及ぶ(イラク)占領はイラクの国家と社会の破壊と荒廃に導いた」としています。
さらに、 法廷は米英の侵略戦争と占領に協力した「有志連合」諸国や、軍事基地・領空の使用、その他の後方支援で協力した諸国の政府、戦争をめぐる虚偽の報道を広めたメディアも告発しています。 
この戦争によって利益を得たハリバートン(石油関連)ベクテル(土木・建設)CACIインターナショナル(軍事請負会社)なども告発。
そして、その罪状の中味は以下の通りです。

 —国連憲章とニュルンベルク諸原則に違反して侵略戦争の最高の犯罪を計画、準備、実行した
 —イラクの民間人と民間施設を攻撃目標にした
 —不均衡な(大量の)兵力と無差別の兵器を使用した
 —軍事行動中とその後の占領中、民間人の生命を守る基準を守らなかった
 —平和的手段で訴えた抗議者に暴力をふるい、死に至らしめた
 —容疑や裁判なしに、集団的・個別的制裁を加えた
 —イラク兵や民間人に拷問や非人道的虐待を加えた
 —不法に侵略し、占領した国の法律を書き換えた
 —意図的に環境を破壊した
 —イラクの女性の地位を極端なほどまでに低める条件をつくりだした
 —イラクに存在する人類の豊かな考古学的・文化遺産を守らなかった
 —イラクのメディアの検閲を含め、情報の権利の行使を妨害した
 —拷問や不法拘束を認めさせるため、国際法に違反して拷問の定義を変えた

次に アメリカ国民の世論を見てみましょう。
6月27日発表のUSAトゥデー紙・ギャラップ共同世論調査によると、
ブッシュ大統領のイラク戦争遂行を支持すると答えた人は40%、不支持は58%。
同大統領の不支持率も過去最高の53%。
(13日発表のギャラップ社の世論調査結果では、米軍のイラク撤退支持は59%。)
さらに 議会でも変化が明らかに見えてきました。
今年1月に民主党議員25人が、米軍の「即時撤退」を求める決議案を提出。
そして6月16日には、共和党の議員もその中に加わりました。
与野党の議員が、この様な決議案を出す背景は、国内の高まる世論を反映しているからにほかなりません。
 混迷するイラク情勢は、イラク本土も勿論ですが、米軍兵士の犠牲も日に日に数を増しています。
主権移譲後の04年7月から05年6月26日までに死亡した米兵は892人です。
国際的にも国内からも批判が相次ぐ中で、
この24日、ブッシュ大統領は、イラク首相との会談後の記者会見。
「タイムテーブルを示す道理はない」として、撤退時期の明確化を求める要求をはねつけました。
 ブッシュ大統領の言う「われわれの目標は明確だ。すべてのイラク人を代表する民主的で平和なイラクだ」とはなんなのでしょうか?
彼の頭の中には、どんな設計図が描かれているのだろうか?

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2005.06.28

バンザイクリフ

天皇、皇后両陛下:バンザイクリフなどで黙礼、平和へ祈りというニュースを、今朝はテレビや新聞で見ました。
昨日からサイパンへ慰霊の旅に出かけられたお二人の姿を見て、なんだか胸がジーンとしました。
同時に流された当時の映像を見て、こみ上げてくるものがありました。

太平洋戦争さなかの1944年6月。サイパン島に上陸した米軍に7月に占領される直前。
投降を拒んだ兵士らがバンザイと叫んで身を投じた崖。
米軍に蹂躙されるなら死を選ぶと海に身をなげうっていく若い女性たち。
その名もバンザイクリフ.
紺碧の海、帚ではいたような薄く白い雲。
ゆっくりと静かに流れていく時間。
当時もそうであったのか、、、
生きているより死を選ぶことに何の逡巡もない。
ためらうことなく海に吸い込まれていく女性たちの、その思いはなんであったろうか、、、
国を守るために、いちずな思いで青春を捧げた若い兵士たちの、その思いは如何ばかりであったろうか、、、
どこまでも、どこまでも青いあの空と海は、そんな儚い人々の思いと命を飲み込んでいったのでしょうか。
60年の月日とは、残された人にとって、どのようなものなのでしょうか。
明るい日差しのように底抜けに陽気な人々の笑いが嬉しい。
恩讐の彼方にあるものは、
岩に打ち寄せ、砕ける波ばかり、、、なのかもしれません。

天皇、皇后のお二人が、サイパンの地へ慰霊に行かれ、当時の方々の生々しい話や、
あるいは遺族の方との対話をなさっている姿を拝見しながら、
その、おやさしいお顔と誠意と熱意を感じました。
「二度とこのような悲劇が起こらないように。
平和であるように」
という、思いの深さが伝わってきました。
戦後60年。
皇室が歩んで来た道は、一般のそれとは違い大変なものであったことは想像に難くありません。
天皇という立場に立ち、そして立場を超えて、人として「平和」への熱い思いを語られるお二人には、尊敬の念を抱きました。

さて、そんなお二人と、比較するのは、いささか無理があるのかもしれませんが、
小泉さんの「靖国参拝」。
どうして、こんなに私の受け取る印象が違うのだろう。
勿論、靖国が抱える問題を考量しても、、、
何故か、小泉さんの参拝は胡散臭い。
そして、その理由が今日、わかったのです。
天皇、皇后、お二人の姿から。
お二人は、人々の話を真剣にお聞きになり、気持ちを一つになさろうと努力していらっしゃいました。
歴史の中で生き抜いてきた昭和天皇についての、思いは、それぞれの立場でそれぞれであろうとは思います。
そして、今上天皇は、戦争を知り、平和とともに歩んで見えました。
その思いの深さは、到底はかることは出来ません。
が、
私はなさっている行動や、言葉から、
天皇、皇后のお二人は尊敬しています。

しかし、
しかし、
小泉さんは「口」だけなのです。
彼がどんなに「戦没者の方への慰霊」とか「不戦の誓い」と言っても、
彼の目が、そうでないことを物語っています。
沖縄でも、ヒロシマ・ナガサキでも、そうです。
犠牲者の遺族の方々、被爆なさった方々に耳を傾けて聞き入っている姿を私は、いまだ見たことが無い。
心が入っていないのです。おざなりなのです。
彼が口酸っぱくして言うところの「戦没者の方々」への慰霊。
体は、そこにあっても心はそこにはない。
その薄っぺらさが、人をして疑わせ、さらにさらに問題が大きくなっていくのでしょうか?
外交上の問題とか、一筋縄ではいかない事もいっぱいあることを承知しています。
優しい顔や、思いやりばかりじゃ政治が動かないことも分かります。
だからこそ小泉さん。
靖国は勿論、
いろんなこと、いろんなことに、
(拉致被害の方々、郵政のこと、税金のこと、などなど)
納得のいく説明をお願い致します。

そして、最後に、
サイパンに思いを寄せ、
再びこのような悲劇が起こりませんように、祈りをこめて

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2005.06.27

バトン トラックバック

ブログ仲間の隅田さんから、今、ブログ界隈で賑わっている Musical Baton をトラックバックして頂きました。
頭をかすめたのは、「チェンメール」や「○○のハガキ」。
トラバ下さった隅田さんも、
私が以前書いた、なんと『ジャンクメール」という記事へのトラックバック。
そのユーモアに思わず笑ってしまいました。
内容を読み、さらに皆さんの反応はどうかと、あちこちブログ仲間を訪問。
これが、また来ているんですね、、、
そして、多くの方が戸惑い、迷いながら
『まぁ、面白いから乗ってみます」という感じで回答。
そして、次にバトンタッチ。
そうそう、その折、必ずと言っていいほど、次の言葉が添えられています。
「どうぞ、お気になさらず。無視してくださっても結構です」と。
と、書かれていてもねぇ〜〜〜

私も質問の中味について、あれこれの回答をそれなりに考えました。
しかし、いざ記事に、と思ったらなかなか書くことができません。
と、いうわけで、今回のバトントラックバックは
皆さんの記事を楽しませていただく「見る阿呆」に徹したいと思います。
そんなわけで、隅田さん。
折角、声をかけてくださったにも拘わらず、ゴメンナサイ。

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2005.06.26

上野千鶴子著「家父長制と資本制」

今日は、上野千鶴子さんの「家父長制と資本制」を読んでいこうと思います。
要約のみを、私がまとめましたので、興味のある方は読まれることをお奨めします。
なお、私自身の感想はいずれ「ナショナリズムとジェンダー」とともに書きます。
今回は私自身の覚え書きとして、内容のみの まとめです。
最初に目次の紹介。
1 理論篇
マルクス主義フェミニズムの問題構制
フェミニストのマルクス主義批判
家事労働論争
家父長制の物質的基礎
再生産様式の理論
再生産の政治
家父長制と資本制の二元論
批判に応えて
2 分折篇(家父長制と資本制
家族の再編
結び—フェミニスト・オルターナティヴを求めて)
付論 脱工業化とジェンダーの再編成—90年代の家父長制的資本制

上のように本書は読者を案内していきます。

では、まず理論編から。
マルクス主義フェミニズムの問題構制
〜マルクス主義と女性解放〜
解放の思想は解放の理論を必要とする。
誰が、何から、如何に解放されたいのかをしらなければ、現状に対する不満や怒りのエネルギーは方向を見失う。
女性解放の理論は三つがあり、三つしかなかった。
1社会主義婦人解放
2ラディカル・フェミニズム
3マルクス主義フェミニズム

社会主義婦人解放は抑圧の解明の変数に「階級闘争」を持った。
しかし、現実にはこの変数だけでは到底女性の解放はあり得なかった。
ラディカル・フェミニズムはフロイト学説に依拠した。
フロイトの女児の男根崇拝から自分の劣等、内面化して「性支配」やがて「家父長制」に組み込まれていく女たちの解放を心理学の面から探求していった。
フロイトは抑圧からの適応、マルクスは抑圧からの解放を目指した。
社会主義婦人解放は女性の解放を社会主義革命に還元。
ラディカル・フェミニズムは性革命を尊重。
そこで登場したのが、どちらにも偏らないマルクス主義フェミニズムである。
今、ここに生きている中で要求されるものは「おのおのの理論の射程と限界を見極め、その限で理論構築の可能性を追求することである」

〜フェミニストのマルクス主義批判〜
「家族は階級の外にある」という言葉でフェミニストのマルクス主義批判がはじまる。
しかし、家族という領域が階級支配、したがって資本制の抑圧の外部にあり、それから自由であることを意味しない。
女性が労働市場に参入しても、過程にとどまっていても資本の間接的な支配を受けている。
女性にとっては市場のうちも外も解放ではない。この限においてはマルクスにも限界がある。
マルクス主義フェミニズムはマルクス主義に忠誠を誓うことでなく
限界を認め、そこから出発することである。
マルクス主義フェミニズムは女マルクス主義者でもなければ、フェミニストマルクス主義者でもない。性支配に物質基盤があると考え、解明しようとする「唯物論的フェミニストである」

〜家事労働論争〜
マルクス主義フェミニズムの最大の理論的貢献は、
「家事労働」という概念の発見である。
「家事労働」は「市場」と「家族」の相互依存関係をつなぐミッシングリングであった。
「市場」と「家族」への分離が生じた近代産業社会の要の位置に「家事労働」はある。
そして、ここから主婦論争へと発展していく。
「愛という名の労働」をどの様に考え、位置づけていくか。
世界各国、日本における一連の主婦論争のはてに、マルクス主義フェミニズムは三つの概念を発展させる。
1家父長制
2再生産
3イデオロギー

〜 家父長制の物質的基礎〜
家父長制とは何か。
以下に定義する。
〜〜家父長制の物質的基盤は男性による女性の労働力の支配のことである。この支配は女性が経済的に必要な生産資源日かずくのを排除することによって、また女性の性的機能を統制することによって維持される〜〜〜

〜再生産様式の理論〜
女性はその性ゆえ、いつでも再生産に関わる。
では再生産とは何か。
生産システムそのもの、労働者、そして人間という生物学的なもの。この3つが次々と生み出されることを再生産という。
どうすれば唯物論てきな分析方法を、生産と再生産とを単一の過程の部分として十分に統合できるような、また性差が階級構造の組織形態と分離できないことが明らかになるようなやり方で用いることが出来るか?

〜 再生産の政治〜
中絶、子どもの数、子どもの教育費、世代間支配などを分析。
再生産費用の均等。世代間支配の終了などを提唱。

〜 家父長制と資本制の二元論〜
統一理論(1,2,3)か二元論(4,5)か。
1性支配は理論的に無意味である。
2性支配は資本制的生産関係から帰結する
3性支配は独立した家父長制から帰結する
4性支配は資本的生産関係と分かちがたく結びつき、資本制的家父長制という単一のシステムを形成
5性支配はそれぞれ相互の独立した家父長制と資本制という二つのシステムの相互作用の結果。
しかし、今日の女性はさらに多面的な分野での考察を加えなければならない。
〜批判にこたえて〜

2 分折篇
〜家父長制と資本制〜
・第一期
工業の発達によってドムス(家内奴隷から家畜まで含む単位)が解体。単婚家族の芽生え。
・第二期
戦争によって「銃後」の女性たちの意識革命と未婚女性の労働市場進出。
・高度経済期
男にとって「一億総サラリーマン時代」であり女にとって「サラリーマンの妻時代」
近代的な家父長制の成立(封建的なそれとは違う)
主婦の大衆化と女性階級の登場
・第三期
主婦労働者、パートタイマの出現
その中での女のニ重労働。

〜家族の再編〜
人口問題。
女性の晩婚化と少子化。
再生産の自由などが論議される。

〜 結び—フェミニスト・オルターナティヴを求めて〜
「過去300年間にわたるフェミニズムの歴史をふりかえって、
その始動や高揚、ガタガタした発展ぶりを見れば、その開花の時期が特定の社会経済的な変動期に一致していないだろうか?その移行期には女性は生産への新たな参入、もしくは新たに認知された参入を通じて、一時的にももっとも先駆的な位置を占める」
(ミッチェル)

「女の経験を男の言葉で語る」ことではなく「男のやっていることを女の言葉で相対化できたとき、はじめて資本制と家父長制のもとに置かれていた女性は、それから脱してオルターナティヴを見つけるであろう。

〜付論 脱工業化とジェンダーの再編成—90年代の家父長制的資本制〜
略。

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2005.06.24

ダウニング街メモ

イギリス政府の機密文書が証明するイラク侵略という巨大な犯罪別名ダウニング街メモが5月1日、英サンデータイムズ紙で報道されて約一ヶ月半が経ちました。
この間、)天木直人さんのホームページや、あちこちのブログでも 静かに情報は流れています。
(「ダウニング街(ストリート)メモ」あるいは「イラク戦争は仕組まれていた」などの言葉で検索して下さい。)

今までも内部からの告発や証言はあったそうですが、いつの間にか闇に葬られていたそうです。
ところが、今回のメモはすでに本物であることは英政府が確認しています。

〜〜〜イラクをめぐる世界の情勢に関心を持ち、信頼できる資料や論説・証言を調べた人ならだれでも、イラク侵略が不法行為であることを「知っていた」けれど、どれほど説得力ある論証を重ねても犯罪を証明することはできなかった。しかし、今回リークされた秘密メモは、イラク侵略という巨大な犯罪をアメリカとイギリスが共謀して犯したことの確かな証拠となる。〜〜〜〜
と、上記のサイト管理者の安濃一樹氏は述べ、そのメモの中味を書き連ねていきます。
以下引用。
ーーーーーー
メモは、2002年7月23日に首相官邸で開かれた会議の内容を要約したものだ。会議に招かれたのは首相の側近と外交・情報・軍事・法律を担当する閣僚だけで、他の大臣たちは会議があることも知らされていなかった。
メモの核心となるのは、MI6(アメリカのCIAに相当する)のディアラブ長官による次の発言である。

──アメリカ政権の態度が明らかに変わってきた。武力行使はもはや当然だと見なされている。攻撃を正当化するために、テロリズムと大量破壊兵器を同時に[サダム政権と]結びつける。しかし、政策に合わせて情報を作り上げ、事実をねじまげているだけだ──

ブッシュ政権がイラク侵略を正当化するために、サダム政権とアルカイダの関係や大量破壊兵器の脅威を利用すること、そしてそれがすべてウソであることをイギリス政府は(そして、おそらく世界の数多くの政府も)知っていた。ストロー外相は、イラクを侵略する「理由が薄弱だ」として、次のように説明している。

──サダムは近隣諸国の脅威とはなっていないし、大量破壊兵器を開発するイラクの能力はリビア・北朝鮮・イランよりも劣る──

その上でストローは、武器査察団を受け入れるかどうか、サダムに最後通告を出すよう国連に働きかけるべきだと対策を提案し、サダムが拒絶すれば攻撃する理由となることを示唆した。つまり、国連のイラクに対する通告は、戦争を回避するためではなく、イラク侵略を正当化するために仕組まれたものだった。

それで法的な根拠がえられるのだろうか。ゴールドスミス法務長官の次の証言に注目しよう。

──イラクの政権交代がいかに望ましく思えても、それだけでは軍事攻撃の法的な根拠とはならない──

イギリス人が好む乾いたユーモアだが、長官が意味したことは、ブレア首相も会議に顔をそろえた面々もよく承知していたに違いない。侵略戦争は国際法に反する。もっとも厳しく裁かれる大罪である。ニュルンベルク裁判の判決文には次のように記されている。

──戦争は本質的に邪悪なものである。その影響は、交戦国の間にだけに留まらず全世界に及ぶ。よって、侵略戦争を遂行することは、単なる国際犯罪ではなく、究極の国際犯罪となる。あらゆる犯罪を引き起こす侵略戦争は、すべての悪を内包するという点で、他の戦争犯罪と隔絶している──

これを「平和に対する犯罪」と呼び、「人道に対する犯罪」と並ぶ大罪と規定している。ニュルンベルク裁判と東京裁判で、「平和に対する犯罪」を問われた戦犯は全員が絞首刑を宣告された。

アメリカは、自国の利益のために国際法の精神を踏みにじり、国際刑事裁判所(02年4月に効力発生)の権威も認めていない。しかし、ヨーロッパの諸国は国際法を尊重している。イギリスも例外ではなかった。だがゴールドスミス卿は、不法行為を憂慮しながらも、攻撃を正当化するために何らかの法的根拠を用意する役目を引き受けている。

会議の前に参加者に渡された報告書(これも秘密メモと同時にリークされた)によると、会議に先立つ4月にクロフォードへ招かれたブレアは、ブッシュとの会談でアメリカの計画に協力することを約束していた。イラクを侵略して占領する正当な理由がないことを心配する前に、外務省やMI6の報告を聞く前に、参戦することを約束していた。もちろん、この約束は内閣に計って決めたものではない。労働党の議員たちも知らなかった。イギリス市民に対しては、「イラク攻撃については何も決まっていない」と繰り返していた。

会議はイギリスが軍事攻撃に加わることを前提としている。だから、ブレアは次のように言い切った。

──政治状況が整えば、国民はイラクの政権交代を支持するだろう。そこで、重大な問題がふたつある。まず、この軍事作戦が成功するかどうか。そして、作戦を支障なく進めるために、政府がどのような政治戦略を立てるべきか──

「政治状況が整えば」とは曖昧な表現だが、リークされた別の文書を見ると、イギリス首相はアメリカ大統領に戦争の条件をもっとわかりやすく説明している。

──諸国の協力をえて連合軍を組織すること。そして、世論を作り上げること──
ーーーーーーー

英文は 
http://japana.org/peace/japana/secret_documents.html
でご覧ください。

また天木さんは、日本外交が、こうもアメリカべったりで、いいのか。そのうちハシゴを外されるのでは?と危惧され、使い捨てられるのではと述べています。
まさに、、、(^^;


<陸自車両通行中、道路脇で爆発 イラク・サマワというニュースが昨日流れました。
幸いにして自衛隊の皆さんは無事でした。ご家族の方もさぞやご心配なさったことと思います。
イラク戦争の現実については日々新たな被害の報告がなされています。
今も多くの普通の人々が戦火の中で命をかけて生活をしています。
流さなくてもよかった血が流れ、
失わなくてもよかった尊い命が奪われていったのか、、、

今、私たちに出来ることは何か???
一刻も早いイラクの安寧を保障するためには、
「武力は必要ない」ということの確認と実行ではないかと思います。
アメリカ国内でも兵士帰還を望む声が、日々大きくなっています。
日本でも自衛隊の皆さんが無事で、一刻も早く帰ってこられる事を祈っています。
そして、イラクの国の再建には、国連がしっかりと指導していくしか方法はないと思うのですが。
いずれにしても、
いずれにしても、
これ以上、犠牲者が増えることのないことを願ってやみません。

なお、この記事と同時に、以前書いた何故 私がイラク戦争は間違いだったのでは、と思うかも、ご覧ください。

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2005.06.23

今日は何の日

今日は、終戦60年、沖縄慰霊の日 です。
「沖縄全戦没者追悼式」には小泉さんも出席。
〜〜〜〜
沖縄で基地削減への期待感が高まっている在日米軍の再編協議に関しても触れるが、具体的な軽減策や見通しには触れず、靖国神社参拝問題への言及もしない見通しだ。
上記 記事より
〜〜〜〜
沖縄の人にとって基地とは何か?
職と反基地 ジレンマ もうひとつの沖縄1という記事にも見られるように、戦後60年、沖縄は基地と共に歴史を刻んできました。
米軍は生活の糧であったり、友人でもありますが、
しかし基地のない沖縄を求める自分の中の揺れ動きで生活してきた沖縄の人々。
そもそも沖縄に米軍の基地が出来た歴史について、ちょっと考えてみます。
1945年4月1日。米軍が沖縄本島へ上陸。
沖縄戦では県民の三分の一に近い十数万人が死亡。
米軍は本島のほぼ東半分を海軍、西半分を陸軍が管轄。
北部の東海岸に「軍政府」が設置されました。
こうして米軍はいったんは沖縄全島を基地化しました。
その後、終戦を迎えても米軍は、沖縄を足場とするための基地を押しつけて、今に至っています。
大騒音と犯罪、さらに米軍ヘリ墜落など県民の日常が脅かされている中で、
 日米両政府は、95年に、沖縄の米軍基地について検討するSACO(沖縄にかんする特別行動委員会)を設置。翌96年、普天間基地を返還するかわりに、辺野古沖に新しい基地をつくることで合意しました。
新基地建設反対の運動が広がり、多くの住民が、昨年来座り込みを続けています。
辺野古沖の基地建設は、海を汚し、サンゴの破壊、ジュゴンの生息場所を奪います。
基地のたらい回しが今、沖縄でなされようとしています。
もっとも、基地に関しては沖縄だけではありません。
当該関係者は負担のたらい回しという感覚を持っているようです。
戦後60年。
日米の新たな関係を見直す時期に来ているようです。

その関係の最たる新安保条約の締結が45年前の今日されました。
日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約参照。
岸内閣・自民党は、国民の反対を押しきって衆院で単独採決(5月20日)、
6月23日に批准書交換・発効しました。
私たちにとって、最も注意を払うべき条約は、
日米経済協力(第二条)、
有事のさいに自衛隊が米軍と共同してたたかう日米共同作戦(第五条)、
基地提供(第六条)です。

とくに今般見るべき必要があるのは、
「有事のさいに自衛隊が米軍と共同してたたかう日米共同作戦」の解釈です。
実際、これまでにも、日本をベトナム侵略戦争などの足場とするとともに、アメリカの戦争に自衛隊を参加させる仕組みをつくってきました。
日米ガイドライン(日米防衛協力の指針)で、アジア・太平洋を範囲とする「日本周辺」でのアメリカの戦争に自衛隊を組み込む仕組みもつくりました。
さらにイラク戦争への自衛隊派兵。
後方支援を行い、多国籍軍に加わり、アメリカの戦争への参加にふみだしました。
これは、憲法に反するのはもちろんですが、現安保条約によっても説明のつかない海外派兵です。
なぜなら、安保条約第五条の日米共同作戦条項は、
「日本防衛」が目的です。
イラク派兵のどこが、日本本国の防衛になるのか?
これに関しては、政府も当時、きっちりと説明は出来ませんでした。

イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法を急ごしらえで作りましたが、本音は小泉首相自身は「日米同盟、この関係を重要視」(2004年1月21日)してのイラク派兵だと説明。安保条約の枠組み、規定さえ無視し、無制限に拡大したことは記憶に新しいところです。

こうしてみると6月23日、今日という日は、
「平和」を考える日ではないかと思います。
私にとっての平和とは、何か。
あなたにとっての平和とは何でしょうか?
考えてみたいと思います。
幸いに今日は梅雨空。
雨読といきましょうか、、、

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「戦争と有事法制」という本

戦争と有事法制という本があります。
著者はお馴染みの小池政行さんです。
今日は、この本を紹介していきます。
法案の制定までの歴史や、国際情勢。さらにこの法案の問題点、最後に私たち国民が、今真剣に考える時期に来ているというメッセージが述べられています。
とても詳しく、またわかりやすく書かれていますので、是非お読みください。
まず、本書は次の構成からなっています。
序章 「有事法制」は成立した
第1章 「有事法制」の歩み
第2章 戦争のルール
第3章 「有事法制」審議を読み解く
第4章 日本国憲法と「イラク派兵」
終章 シミュレーション「有事法制、発動す」

序章 「有事法制」は成立した
2003年6月6日日本に戦後初めての「有事法制」が成立。
制定に先立ち2002年2月4日の小泉純一郎総理の施政方針演説で、「備えあれば憂いなし」という言葉と共に、国会における本格的な審議が始まった。
総理の演説の中味について、「独立」「主権」「安全を平素から確保する体制」の具体的な考察を加えることがこの本の目的である。

第1章 「有事法制」の歩み
「即ち兵強し」という考えが日本には昔からある。
有事という言葉は遡れば「幹非子」に辿ることが出来る。
「無事なれば即ち国富み、有事なれば即ち兵強し」と。
次に時系列で時々の政府が行ってきた「法制成立」までの歩みを見る。
1955年 アイゼンハワー大統領の対日政策発表
「米国と強く結ばれ、共産中国への対抗勢力として役立ち、極東の自由世界の力に貢献できる日本が、最も米国の国益にかなう」
「より健全で積極的なナショナリズムが日本に発展することは、日本が大国として再生する上で緊要なことである。このようなナショナリズムを日米提携の文脈に取り込むことが、米国の対日政策の基本である」と。
そして、1960年新日米安保条約の締結
こうした中、三矢図上作戦計画
とくにこの三矢研究については、岡田春夫議員の国会で暴露したことにより世間に明るみにされた経緯が書いてある。
旧ガイドライン
      ↓
日米共同作戦の範囲をシーレーン防衛」に拡大
こうして、1978年福田内閣の時「有事法制」が本格的に研究されるに至る。
83年、中曽根内閣の「運命共同体発言」
「不沈空母」発言(ワシントンポスト紙)
 1995年 ナイ・リポート発表 
「日米関係ほど重要な二国間関係は存在しない。日米関係は米国の太平洋安全保障政策と 地球規模の戦略目的の基盤となっている。」と定義。
これにより、よりいっそうの防衛強化へと日本は突き進む。       
そして、1997年新ガイドライン制定。
旧ガイドラインと質的、量的に格段の差がある内容。
2000年10月 アーミテージレポート発表。
「両国の同盟関係は”負担の分かち合い”にとどまらず”力の共有する”時がきた。
そのためには”集団自衛権の行使””有事法制の成立””国連平和維持本体業務への参加凍結解除””情報面での協力の強化”を主張。
このような背景のもとついに2003年有事法制が成立。

第2章 戦争のルール
戦争はいかなる時代、いかなる場所でも起こってきた。戦争の現実は暴力による殺戮である。戦争となればあらゆる残虐非道なことが行われるのかと問われれば、その答えはイエスであ屡。あらゆる残虐非道なお子ないが許されているのかと問われればノーである。
と、して国際法の考え方へと導かれる。
その後、日本が組み込まれていく戦争へのシナリオに触れる。
現在の国際社会では、大国同士が、その正規軍を展開させて正面激突の可能性は極めて低い。日本の環境を考えると大規模テロの対象になる、北朝鮮などの日本を以前敵対視する国からの攻撃などがあるが、最も可能性の高いのは、米国の軍事行動を支援する形で戦争に巻き込まれていくシナリオである。
周辺事態に対応して、自衛隊が米軍との共同軍事行動をとる中で日本が有事体制になっていく。この現実に起こりうるシナリオの対応出来ない「有事法制」ならば無用の長物である。

第3章 「有事法制」審議を読み解く
国会での質疑を披露しながら、「有事法制」の欠陥を「国民保護法制」の不備を中心に紹介。
ごく単純に考えてみよう。
有事法制とは、その善し悪しはどうであれ、命の値段付という側面を持っている。その本質的な目的は、有事の際に「国家の安全と独立」を守ることである。
そのさいの国が果たすことは制定されている。また国民の義務についても決められている。
しかし、「国民保護法制」はいまだ具体的に制定されいない。
国民にとってまず何よりも大切な有事下の保護が曖昧な形で成立した現法案は、欠陥法案であると主張。
今後の成り行きに注目する必要がある。

第4章 日本国憲法と「イラク派兵」
まずアメリカ、ドイツなどの有事法制の比較。
次に有事のさいの基本的人権について。
第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
 
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

人間社会は権力と秩序を有し、またこれを絶対的に必要とする。
権力が肥大化し濫用されるとき、個人は人間として処遇ないし尊重されない事態に陥いる。この権力の濫用や逸脱に対して、個人が人間としての尊厳を保つ為に行う利益の主張が人権の主張である。
しかし、この権利にも様々な限界がある。
それは「公共の福祉」との比較衡量の場合が多い。
「精神的自由」と「経済的自由」との関連など明らかにしなければならない問題が山積である。
次に自衛隊がイラク派兵を行った法的な根拠について述べてある。
ここでは、国際紛争についてや、何故イラクだったのかなどを詳細に述べる。
そして、今の有事法制が本当に日本を守るためのものか、あるいは米軍の兵站活動の一方の担い手でしかないのかと疑問を投げる。

終章 シミュレーション「有事法制、発動す」
では、現実に有事になった場合はどうなるかということをこの法案にそってシュミレーションを試みる。
そこで明らかになったことは、この法案は決して国民をまもってくれはしない、という現実であった。
結語
このようにして、我々は有事法制を持った。
それは端的にいえば、自衛隊の活動を円滑にするための法律を持ったことである。国民の生命や財産を守るのが自衛隊の役目である。ならば、自衛隊の活動が円滑になることは、
我々の生命・財産が確実に守られることになるのか。答えは否である。
ならば有事を広く捉えて緊急事態に十分備えるものになるのか、例えば災害やテロ。それも否である。
これらの対策は「今後十分検討して作っていく」という程度の認識である。
また。肝心の「国民保護法制」は後回しである。
そもそも有事とは何かも曖昧なまま出来上がった有事法制。
もう一度、深く考えていかなければならない。

参考
日本国憲法
有事法制関連法

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2005.06.22

ワールドユース モロッコ戦

おお〜〜〜くまった、こまった。
なぁんて阿呆な駄じゃれから始めたい気分のワールドユース、モロッコ戦の観戦記。
結果は後半ロスタイムに失点して0-1で敗れ、2大会連続のベスト8進出を惜しくも逃しました。
(と、言っても勝ち上がった事の方が不思議だったのか?)
今朝から、この試合観戦記のブログや掲示板を見て、
思ったことは、「みんなの思いは同じだぁああああ」です。
では何が???
う〜〜〜んん。
言いたくない。書きたくない。
でも書かなければ。

「監督」ですよ。
監督。
あああ〜〜〜
なんか思い出しても脱力感。
結果に拘るわけではないが(いえ、本当は十分拘っています)監督の采配というか戦術が分からなかった。
素人の私だから分からないのか、と自分を責めながら、いろんなブログを拝見して、やや安心。
なぁんだ。みんな同じ気持ちだったのか。
監督の戦術が読めない。
どんな試合をしたいのか?
いつもは大声で指揮している大熊監督も、今朝はモロッコの大応援団の前には声をかき消されていました。
だからますます分からない。
もっとも聞こえても分からないのが常ですが(^^;
「つなげ、、、つなげ」と大声で騒いでいても、選手はだれも繋がずに平山の頭めがけてズド〜〜〜ン。
その平山がねっぇええええええ。
やっぱり、素質はあっても現役Jリーガとは差がついていたように思います。
それから、カレン。
頑張っていましたが、今大会は精度が悪かったようです。
しかし、
しかし、
平山君にしてもカレンにしても、それから後の選手たちも、今日は皆頑張っていたと思います。
特に、水本、水野コンビはOK.輝いていました。
梶山や小林もイキイキと走っていました。
みんな一生懸命やっていました。
途中出場の選手。
そりゃ、我らが広島の前田ですよ。
マエシュンも力を出していたと思います。自信が漲っていました。

と、いうことで選手は頑張っていました。
が、
が、
やっぱり、監督の采配、(ここで言う采配とは選手のメンバーや攻守のバランスなどです。)が見えてこなかったように思います。
実況のアナウンサーや解説の方も、多分見えないから、言いようがなくて苦労なさっていたようです。
お察しします(^^;
〜〜〜〜〜
前回大会でも指揮を執った大熊監督にとっては4点取られたコロンビア戦、5失点だったブラジル戦が「トラウマ」になっていて守備重視の戦い方を選択したのかもしれませんが、その戦術が逆に日本の良さを消してしまったように思えてなりません。リスクを避けることによってチャレンジする気持ちも忘れてしまった。それが、今回の低調な内容とパッとしない結果に繋がってしまったのではないか、と思います。
SANFRECCE Diaryより
〜〜〜〜〜〜
本当のところは分かりませんが、、、
知るのは本人のみ、です。
まぁ、監督の仕事は大変だと思います。勝って当たり前の勝負の世界だから。
捲土重来を目指して、また頑張ってください。

選手の皆さん。
お疲れさまでした。
今大会の経験を活かして、さらに大きく強くご活躍下さい。
楽しませていただき、有り難うございました。

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2005.06.21

夏至

今日は夏至です。
そう、一年で一番太陽の高い日。
昼の長い日です。この時期は梅雨で雨になることが多いのですが、
今年は日本列島、かなりの地域で「夏至」を感じることが出来るのではないでしょうか?
さて、ついでに今日はそれ以外になんの日?ということで調べてみたら、
・大伴家持が越中国使に(746年)
・正倉院建立記念日(756年)
・ガリレオに有罪判決(1633年)
・武家諸法度改定(1635年)
・「アメリカ合衆国憲法」が発効(1788年)
・日本がユネスコ、ILOに加盟(1951年)
などなど。

面白いと言っていいのか、どうか「ガリレオ有罪判決の日」。
ガリレオ裁判については、ガリレオ・ガリレイをご覧ください。

と、いうわけで今日はなかなか面白い日です。
さて、こんな面白い一日、あなたはどの様に過ごされますか?
私は、夏至という事もあって、本棚からまた「ゲド戦記」でも出して読み直しましょうか。
どうぞ、時間を大切に有意義にお過ごしください。

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もしかして第2の地球が

最小の太陽系外惑星を発見 「地球型」の可能性ということで、今天文ファンが熱い。
〜〜〜〜〜〜
見つかったのは、地球から約15光年離れた小さな恒星(太陽の3分の1の質量)のそば。この星の周囲では、巨大な「木星型」の惑星2個がすでに見つかっており、それについて詳しく調べる過程で、もう一つ小さな惑星が存在する可能性が強まった。
 中心の恒星が周りの惑星の重力で揺らぐ様子を、ハワイのケック大型望遠鏡で詳しく解析。質量が地球の5.9〜7.5倍の未知の惑星が、中心星から0.021天文単位(1天文単位は太陽と地球の距離)の軌道を、1.94日の周期で回っていると突き止めた。直径は地球の2倍ほどだとみられている。
(中略)
 カリフォルニア大のジョフリー・マーシー教授は「今回の惑星の成分は観測できていないが、大きさから考え、岩石でできた『地球型』である可能性が高い」と話す。
〜〜〜〜〜〜〜
地球以外に知的生物がいるかもしれない という事は随分前から言われていますが、
科学の進歩と共に、次第に他の星ぼしのことが明らかになってきます。
もしかしたら、
もしかしたら、
地球以外にも生命を育んでいる星がいて、その星の仲間達は宇宙に友人を求めているかもしれない。
形は人類のようではなくて、その星の環境に会せて一番合理的な形で進化したに違いないから、
イルカみたいだったり、タコみたいだったり、、、
まるでSFの世界だぁと、嬉しくなります。
なんだかワクワクしてきます。
地球は独りぼっちじゃないんだぁ〜〜〜〜と、力が湧いてきたりして。

丁度一年前くらいにこのブログに載せた谷川俊太郎の詩をもう一度。

〜〜〜〜〜〜〜〜
人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする

火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或はネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ

万有引力とは
ひき合う孤独の力である

宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う

宇宙はどんどん膨んでゆく
それ故みんなは不安である

二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした

(二十億光年の孤独より)

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2005.06.20

名もなきアフリカの地で

名もなきアフリカの地でという映画を午後見てきました。
難しい映画でした。
帰る道すがらもずっと考えていました。帰ってからもなお、、、
忘れてはいけないので、新鮮なうちに感想などつらつらと書きます。

あらすじは、
ドイツで権力を握ったヒトラーのユダヤ人に対する圧迫から逃れ、アフリカへ脱出する3人家族の、およそ10年におよぶケニアでの暮らしと、こころの移り変わりを描いた映画です。
その中で、子どもが成長をし、初めはアフリカの生活を嫌がっていた妻が逞しく成長をし、夫もまた悩みながら戦争と家族を抱え込んでいく苦悩から成長していきます。
戦争への批難やユダヤ人という特殊な立場の人間が背負っていく運命については、淡々と描かれています。
悲しいのだけれど、なぜか涙がない。
アフリカの人々の逞しさが、大地と共に描かれていますが、不毛な土地から命を生み出す喜びが何故かない。
出会い、別れ、そして決別するその哀しみが描かれているけれど、その理由がなぜかわからない。

とにかく、とにかく全体が曖昧なのです。
何故?
どうして?
と、言う理由がずっと、ずっとぼやっとしたまま描かれていました。
なんとなく、なんとなく映画の時間がゆったりと過ぎていきます。
終わった後、この映画のテーマはなんだったのだろうと、本当に悩んでしまいました。
では、面白くなかったか・と言われれば、
いや、面白かった。と答えます。
では、感動しなかったのかと聞かれれば、
感動したと言います。
では、何が面白くて、何に感動したの?と聞かれたら困る。
そんな映画でした。
ずっと考えていて分かったこと。
まさに、これがこの映画のテーマである。
と、いうことです。
人は好むと好まざるとに関わらず大きな、おおきな運命に翻弄されて生きていく。
抗うことのできない宿命から、如何に人は適応していくか、それはなにもドラマや劇的な出来事ではなく、
日常なのである。
そこにこそ、人は生きていく価値を見つけるものである。
と、いうことが全体に淡々とながれているテーマなのでは、と私は思いました。
出会いと別れ。
それは、何もこの映画だけのテーマではありません。
成長していく主人公。
何もこの映画だけが訴えているものではありません。
タンタンとした日常。
これこそが、この映画のテーマです。
戦時下という非日常にあって、そのことが日常としていかなければならない人々の成長と哀しみの物語だったのでは、、そんなことを思いながら今、備忘録として書き留めておきます。

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原爆60年 オークリッジでは

原爆60年 米テネシー州で記念行事 日本人との間に溝というニュースを見ました。
〜〜〜〜〜〜〜
米テネシー州オークリッジで16日、原爆開発60周年記念イベントが開かれ、マンハッタン・プロジェクトと呼ばれた原爆開発製造計画に関与した研究者らと家族約70人が参加した。参加者のほとんどが「原爆投下は戦争終結のため必要だった」と話し、「原爆」に対する日本人との溝の深さを感じさせた。
 オークリッジは広島に落とされた原爆に使用されたウランを分離・濃縮した工場があり、プルトニウムを生産したワシントン州ハンフォードや、原爆の設計製造を担ったニューメキシコ州のロスアラモスなどと共に、マンハッタン計画の中核となった。
(中略)
  原爆開発計画は極秘だったため、オークリッジは49年までは地図にも存在しない「秘密」の町だった。郵便物の住所は別の町になっていた。「口が軽ければ、船が沈む」。町に住む7万5000人の研究者たちはウランという言葉を使うことも、勤務地を話題にすることも禁じられた。マンハッタン・プロジェクト歴史保存会のマイケル・ビッキオ代表は、「原爆開発の重要な歴史を保存したい」と話した。この町に、キノコ雲の下の惨状への思いは感じられなかった。
(毎日新聞) - 6月18日10時18分更新より
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

この記事を読みながら、静かなオークリッジの町を思い出しました。
このブログでもオークリッジについては何回も書きましたが、
普段はこの町は本当に閑静な清潔な町です。
アメリカにあって鍵をかけずに夜眠ることができると言われているくらい安全な町です。
町の新聞は、ニュースと言えば「○○さんの結婚」とか「□□さんが足を滑らして怪我をした」とかとか、、、
本当に長閑なこの町。
しかし、この長閑さは なんによって保障されているかは、この町に住んでいる人は皆知っています。
「研究所があるから」です。
そう、今でもこの町には、核兵器を製造保管するY−12施設があります(8/6には日本からも数名の反核団体?の人がやってきてシュプレヒコールをあげています)。
小さな町には原子力の研究施設が沢山あって、世界中から研究者がやってきて原子力の平和利用をしています。そのため警備が厳しいのでしょうか。普段は犯罪とは程遠い町です。
しかし、
しかし、
ここには先の記事で述べられているように、マンハッタン計画の拠点になった足跡が資料館には満載しています。
展示には一つひとつ説明があって、アメリカの原爆に対する考え方が書かれています。
以前も書きましたが、日本人である私とは、深い溝がありました。
とりわけ、広島から来た私には、多くの被爆なさった方を直に知っているから、
アメリカの「戦争終結のため必要であった」という意見には、賛成することは出来ませんでした。
(ワシントン・スミソニアン博物館でも同様の考えを現場の説明官から聞かされました)
ただ、何回も書いていますが、これが全てのアメリカ人の意見かと言えばそうではありません。
ヒロシマの悲惨な当時の様に心痛め、今なお引きずっている人々への思いを持っている方も大勢います。
戦後60年。
それぞれの人がそれぞれの思いで過ごした60年。
そして、今戦争を知らない私たちの世代が、その経験を引き継ごうとしています。
どのように、引き継ぎ次代に渡すべきか、、、
問われています。
過去からも、未来からも。

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2005.06.17

介護保険と混合診療

郵政民営化もひどい法案で、その矛盾は討論、議論するほどに噴出、明るみになってきます。
しかし、その影で秘かに進んでいる「介護保険」と「混合診療」の行方も見逃してはなりません。
介護保険法改正案が参院厚労委で可決、今国会で成立というニュースは小さく取り上がられています。
しかし、その中味はかなり辛い。
自己負担が軒並み続きます。
・経度者を対象に筋力トレーニングなど「新予防給付」導入で訪問介護抑制。
・施設利用者の居住費、食費を全額自己負担。
・保険料の年金天引きを障害年金、遺族年金にも拡大。
・保険料徴収年齢の引き下げ(2009年度より)
などなど、、、
「過剰介護の抑制」とか「財政維持でやむなし」という理由です。
なぁ〜〜んとなく涙が出てきました。
そう言えば、
昔話「姨捨山」を思い出したりして、、、
小泉さ〜〜〜ん。
殿様を救ったのは、年寄りの知恵ですよぉおおお

さて、もう一つ見逃せないのは「混合診療」
昨年末、担当大臣間(昨年十二月十五日に尾辻厚生労働大臣と村上行革担当相)の基本合意で、その対象医療が増えることになり、この夏具体化される見通しです。
 混合診療は、公的健康保険と保険のきかない診療(自費診療)を併用するものです。
現在行われているのは医療で一番思い出しやすいのは歯科医療です。
「保険のきく治療にしますか?」と必ず聞かれます。
私は悩まず「はい、保険のきく範囲で精一杯治してください」といいます。
さてこの解禁。
公的保険を縮小することで、保険財源の国庫負担を減らし、その分、民間医療保険の市場を増やすのが狙いです。
[混合診療]についての見解に詳しく書かれていますが、現場の医療チームにとっても、今回の動きは「医療の原則」から外れることとして反対の声が多いようです。
では基本合意の中味を見ると、、、
これまでも例外的に混合診療を認めてきた「特定療養費制度」を拡充するというものです。(同制度は1984年に導入されました。)
つまり「差額ベッド」や「高度先進医療」などを別途料金で患者から徴収できるようにするものです。
このときの合意で、がん患者らから要望の強い新技術や薬を自費とし、保険診療との併用の枠が拡大しました。
新技術ごとに一定水準の要件を満たす医療機関が届出により実施できます。
(新技術は約100。実施医療機関は約2000所)
さらに今回の合意で、新しい技術や薬を導入する際に、国が科学的に評価した後、まず特定療養費の対象として、自費診療部分に留め置くルールをつくりました。
つまり、お金持ちだけが先進、高度の医療技術を受けることが出来るようになります。
私のように「あっちが痛い」「ここが痛い」と言っているものは辛い(^^;
今度からは、歯医者さん以外も「保険の範囲にしますか?」とまず聞かれるようになるのでしょうか?
はい、と答えたら入り口が違っていたりして(^^;
「はい、あなたは保険組です。こちらから勝手に入って、、、」
「はい、あなたは自費診療の方ですね。どうぞ、どうぞ、こちらからお入りください。」
なぁ〜〜〜んて事が、すぐそこの近未来にはなっていたりして、、、

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2005.06.16

あすなろ村の未来

昨日15日の衆議院郵政民営化特別委員会で民主党の議員の紙芝居。
話題になっているようです。
私も見ながら笑ってしまいました。
ついに国会もここまできたか、、、という感もしましたが。
さて、紙芝居が終わってチャンチャン、
「おもしろかった」で終わり、幕引きというわけにはいきません。
私たちの今後のことなのだから。
そこで、今日はじっくりとこの問題を考えていきます。

「公社であるかぎりリスクのある資産運用ができないが、民間になればそういう点で経済的に活性化する」と公然と述べる小泉さん。
「もうかる時は大きいが失敗すれば大損することもある投機的性格の強い金融商品も含まれ、例示した事業(貸付、シンジケートローン、私募債、株式、クレジット・スワップ、債権買収など)のなかで、元本割れしないものはない」と、認める竹中さん。
実際、今の郵政公社でなんの不都合もないというのは、多くの議員が国会で答弁しています。
郵政公社が続いた場合は、納付金を納めた後でも、692億円の黒字となります。
分割・民営化会社の一つである郵便貯金銀行の経営の見通しについては、2016年度の収支が6百億円の赤字になり、以降も赤字続きになることが、政府の試算でも明らかなことは、この間、何度も言われています。
そして政府が出してきたのは「新規事業で収益があがる」ということで上に述べた金融商品になるわけです。
「私が総理大臣だから郵政民営化が国会の俎上に上った」と胸をはる小泉さん。
郵政民営化を、「資金の流れを『官から民へ』」変える「改革」だと強調。
「民営化によって、「官」(特殊法人)のムダ遣いに流れる資金を絶つ」ということです。
しかし、01年度の財投「改革」で特殊法人と郵貯・簡保の資金は切り離されていることは、もうすでに国民は知っています。
すると、小泉さんは次にはこう言います。
郵貯・簡保の資金を「民に流す」と。
しかし、私たちのどれほどが 国にそのようなお願いをしたのでしょうか?
ここで、ちょっと堅い話。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
1日の経済財政諮問会議に、郵政民営化による「資金の流れ」の変化を試算した資料が提出されました。
 それによると郵貯・簡保の資金は03年度末の350兆から17年度末には210兆円に縮小。
縮小分の140兆円と経済拡大による預金・保険の増加分の440兆円、計580兆円はどこへ???
全部 民間金融会社(先に上げた投資先)が吸い上げることになります。(本来は私たちの個人資産であったものが、、、)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
これについては、昨日の国会でも野党の議員に追求されていましたが、小泉さんも竹中さんも、わかりやすい返事は下さいませんでした。


こうして考えていくとあすなろ村の未来は、ひたすら暗い。
さらに、この紙芝居に付け加える必要があるのではと思いますが、、、

「あすなろ村には廃墟になった郵便局だけが残った、、、
そして、隣の ひのき町には大きく英語で”POST OFFICE"と書かれた建物と,
そばにもっと大きい銀行の建物以外は何もなかった、、、
ジャンクフードのゴミ袋が風に舞うばかり。
おしまい」と。

一体誰が最後に笑うのでしょうか???

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しこふんじゃった

このところの若貴騒動。
ワイドショーのかっこうのネタなのか連日、どの局も、どの時間も長々と放送。
やや食傷気味の私ですが、、、
今日は、意欲的(?)に貴乃花親方がテレビ各局に登場して発言をなさっていました。
見るともなく見ていたのですが、、、
個人的には兄弟の確執は「まぁ、お好きにどうぞ」という感じであまり興味はありません。
しかし、相撲界の今後の展望と言うか、未来に対しては気になります。
親方は、伝統的、古い体質をいまだ抱える相撲界に新しい流れを作ろうと、今までにない形で相撲界に単身のりこんでいるような印象がありました。
今日の親方の話を伺いながら真剣に角界のことを考えているその誠実な姿には、清々しいものを感じました。(兄についての話は聞いていませんでした)
古き良き伝統ではあるが、その上にドップリ座り込む時代はすでに今はない。
たえず新しいものを探り、次なるものを育てていかなければならない立場にある人の、悲愴なまでの
決意がありました。
「今、相撲をしている子どもたちがいない」
「学校に土俵が無い」
「日本人の横綱がいない」
などなど、相撲人気が低迷している原因を探りながら、ならばどの様にしていくか?
どうすればいいか?
真剣に考え、行動する人の姿がそこにはありました。
ややもすれば孤軍奮闘の感も否めませんが、若い親方ゆえの勇み足かもしれません。
テレビを見ながら私も考えました。
どうすれば大相撲人気が戻るかな???と。
前にも書きましたが私は幼い頃は大相撲は大好きでした。
「ひ〜〜〜がーーーしぃーーー」
「にぃ〜〜〜〜〜〜〜〜しぃ」
なんていうのは、日本の音だったように思います。
しかし、いつの頃からか相撲が自分の生活から消えました。
この春、実家に帰って久々に母と大相撲を見たのですが、
見ると なかなか面白いのですよね。
朝青龍も笑うと可愛い。
なんといっても国際的になっているのにはビックリ。
じっくり、ゆっくり見ると面白い。
と、いうことは自分自身が慌ただしくなったのかな????
あの「間合いの長さ」が自分の生活ペースに合わなくなったのでしょうか。
とか、とか、考えこみました。
それにしても、なんとか相撲人気、戻らないものでしょうか?
親方を見ていると、映画「しこふんじゃった」をふと思い出しました。
待っていても来る時代とは違います。
あの映画のように「相撲って楽しい」ということを、もう一度多くの人たちに伝える必要があるのでしょうね。
貴乃花親方。
大変だとは思いますが、どうぞ頑張ってください。
応援しています。

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2005.06.15

ナショナリズムとジェンダーを読む

 〜〜国民国家を超える思想は論理必然的にこの結論へとわたしたちを導く。「女」という位置は、「女性国民」という背理を示すことで国民国家の亀裂をあらわにするが、そのためには「女=平和主義者」という本質主義的な前提を受け容れる必要はない。「国民国家」も「女」もともに脱自然化・脱本質化すること——それが、国民国家をジェンダー化した上で、それを脱構築するジェンダー史の到達点なのである。〜〜

上野千鶴子さんは「ナショナリズムとジェンダー」の最後をこの様にして締めくくります。
彼女の一貫した主張は、今までの歴史の数々が語る正史とは、
それが民族の解放であれ、階級闘争であれ、いずれも女性解放が高らかに謳われ、勝ち取られたことはかってない。というものです。
ちょっと長いですが、さらに引用。
 「フェミニズムは国家を超えたことがないという歴史にもとづいて、フェミニズムは国家を超えられない、と宣告すれば、わたしたちはふたたびさまざまな国籍のもとに分断されることになる。もはや「シスターフッド・イズ・グローバル」という楽天的な普遍主義に立つことは誰にも不可能だが、ジェンダーという変数を歴史に持ち込んだのは、そのもとで階級、人種、民族、国籍の差異を隠蔽するためではなく、さらなる差異——しかもあまりに自然化されていたために認識されていなかった差異、いわば最終的かつ決定的な差異——をつけ加えるためではなかったか。
 ポストモダンのフェミニズムのもとでは、ジェンダーのほかに 人種や階級という変数が加わった、と言われるが、むしろ人種や 階級という変数がジェンダーという変数を隠蔽してきたことを、 フェミニズムは告発したはずだった。人種や階級という変数は、 新たに発見されたのではなく、ジェンダー変数を契機として、よ り複合的なカテゴリーとして「再発見」されたのである。」

何故彼女がこの様な結論を導き、さらに目指すものは何かを、この本を読み解きながら考えていきたいと思います。
=========

第1章 国民国家とジェンダー
まず、序で
 歴史とは「現在における過去の絶えざる再構築」である。と定義。
歴史に「事実」も「真実」もなくあるのは特定の視覚からの問題化による再構成された「現実」だけであるという。
そして、戦後史のパラダイムチェンジへと続く。
「国民国家」を変数に、産業革命→市民革命→国家化という流れで歴史を見直し、さらに、ジェンダーという変数を加えるとどうなるか?
そこで著者は女性史のパラダイムチェンジを述べ、被害者としての女性から近代総力戦による「加害者」としての女性へと言及。
メタヒストリーで追うフェミニストの反応を、
明治初期の男性思想家たちによる一夫一婦論から、大正デモクラシーを越え、
市川房枝(1893?1981) 
母性保護論争として平塚らいてう(1886?1971)と与謝野晶子。
さらに高村逸枝(1894?1964) 
山川菊栄(1890?1980)
などを例に上げ、戦時下の女性の運動の制限と限界に言及。

第2章「従軍慰安婦問題をめぐって」
よく知られていた事実の問題化・犯罪化 を「三重の犯罪」と定義する。
戦時強姦の罪、忘却の罪、否認の罪を述べる中で、日本のフェミニズムの人種差別性を浮き彫りにしたと言及。
家父長制パラダイムとして「女性のセクシュアリティは男性の最も基本的な権利と財産」として、日本・韓国に共通の意識であることからくる犯罪の温存を訴える。
被害女性の告発=性的被害の自己認知=セクシュアリティの自己決定者としての女性のアイデンティティの確立をすることで、戦う相手は日韓両国の家父長制であると強調。
(「本人が悪い」→「醜業」意識→性の二重規範 「聖母」母・妻・娘⇔「娼婦」公娼・「慰安婦」などは、家父長制の変形であると述べる)
「慰安婦」問題は様々な当事者によって経験された多元的なリアリティであるという。

第3章記憶の政治学
文書資料至上主義に対しての批判を試みることから始まる第3章は、
歴史教科書問題や自由主義史観について考察を加える。
オーラルヒストリーの価値を認めることで、さらに第1章で述べていた筆者の主張を重複。
「誰のための歴史か」を見ることが大切と強調。
最後に著者の主題「フェミニズムはナショナリズムを越えられるか。」に至る。
 (瀬戸がいささか大急ぎで要約しましたので、詳しくは本書をご覧下さい)
========

上野千鶴子さんはこのほかに「家父長制と資本主義」や「女は世界を変えられるか」など意欲的にフェミニズム、ジェンダーについて書かれています(これらの本についても書いていきたいと思っています)

さて、私自身の感想は第1章の母性保護論争が衝撃的でした。
それまで、私にとって平塚雷鳥は憧れの人だったのですが、著者の説によると、
平塚雷鳥をはじめとして市川房枝、高群逸枝、山川菊枝など軒並み、大政翼賛会に組み込まれていったとして「反省の女性史」となるわけです。
ううううう〜〜〜〜〜〜んんん。
これは、ちょっと???
これに関しては、もうちょっと勉強しなければ何とも言えないのですが、、、
当時の環境の中で、私たち女性の先輩たちが到達点として勝ち取ったものは、
たんに国家に巻き込まれていっただけなのだろうか???
「時代」という制限の中で、女性の権利を勝ち取ることと、時代に呼応していくことのバランスの中で先輩たちが悩み、苦しんだ足跡への評価はしつつも、なお先輩の運動に信頼をおかず、やや懐疑的であることがいささか私は感情として淋しい(こんな感情は上野さんの前では一笑にふされるとは承知しながらも、、、もっとも鈴木裕子さんは,
上野さんに対して批判を理論的に行っているようですが。)
わからない。
ただ大きな視点に立ったとき、上野さんの主張や目指すべきものには同意します。
本当に意味での女性解放について考がえていかなければならない提案の書です。
複雑で多種多様な価値の中で、一般化するにはいささか問題が大きく、ともすれば本質が見えにくくなるjフェミニズム問題。まだまだ課題は山積です。
さて、最後に、著者の上野さん。
これからもドンドン活躍なさり、オピニオンリーダーとしてフェミニズムの旗頭になってください。

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2005.06.13

従軍慰安婦

官房長官、従軍慰安婦問題「反省変わらず」ということで、今問題になっている
従軍慰安婦。
以前は私も随分、この問題に関しては小説を読んだりいろんな論評を読んで考えていました。
しかし、次第に別のことに関心がいき、遠ざかっていったのです。
NHKと安倍さんの時も、いろんな方のご意見を聞きながらも身近に考えるることは無かったのです。
が、
が、
今回の中山さんの発言はちょっと見過ごせません。
内容と立場と、両方を考えて、、、
「従軍慰安婦という言葉が無かったから、そんな存在はありえない」という旨。
そんなすぐに論破されることを言わない下さい。
あなたは文部科学省の大臣なのだから、、、
言葉があったかどうかではなく、事実はなんであったか、、ではないでしょうか?
言葉の定義は、あとからついてくることは歴史では当たり前です。
「初めに言葉ありき」の方が問題だぁ〜〜〜

と、いうわけで今日は「従軍慰安婦」についてちょっと書きます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
いわゆる従軍慰安婦問題について
という外務省の文章からもあきらかなように、
この問題が表面化したのは、1990年。
そして、1991年、韓国女性3人が日本政府にたいして、謝罪と個人補償を求める訴訟をおこしたことで、決定的な問題となり、今に続いています。

上野千鶴子さんは、「ナショナリズムとジェンダー」の中で慰安婦問題を次のように述べています。
〜〜〜〜〜
従軍慰安婦は歴史的事実として知られていた。
しかも多くの兵士たちがその経験を少しの恥の意識も無く記録に残していた。
だが、ほんの最近になるまで、それを「犯罪」として問題化する人がいなかった。
事実はそこにあったが目に見えなかったのである。
つまり歴史にとって存在しなかったも同然である。
(第2章、従軍慰安婦問題をめぐって  p100より)
〜〜〜〜〜〜
そして、なぜこの問題が明らかにされなかったかということを、「性」の問題は恥であり公然と明かすものではないという被害者たちの沈黙の上に加害者たちの犯罪意識の希薄があると述べています。
また、この問題に関しては、なにも日本だけが抱えるものではない。
(古代から世界中の女性は戦争によって、一番大きな性の被害を蒙ってきた)
「慰安婦問題」が突きつける問いは、たんに戦争犯罪ではない。
戦争そのものが犯罪である。
そして罪であることを認識することを強調しています。

一方、自由主義史観の人達が、どの様に言っているかは永井和先生のホームページに詳しく述べられていますので参考にしてください。
上坂冬子さんは、
「何も慰安婦だけが戦争被害者ではなく、もっと悲惨な人は大勢いる。
元慰安婦と名乗る彼女たちが、本当にその後の人生を幸せでいければいいが、そうでない現実を考えると、たんに恥だけが残ったのではないか」という趣旨で慰安婦問題を述べています。

では、私自身の意見はどうか?
と、聞かれるならば、以下のように通一遍のことしか言えない歯がゆさを感じながら、、、
======
「民族や階級を超えて横たわる性の問題は、何も慰安婦だけではない。
現在でも形を変えて、多くの場面で性暴力に晒されている多くの女性がいる。
また、古来より歴史の正史としては登らなかった数多くの事実がある。
ここに、慰安婦と言う言葉がなかった、とか、そんな実証が無いというのは、ごまかしで、(当の本人が本気で、そのような実態が無かったと信じているとは到底思えないが、、、)
それは現実にあった事実であると思う。
そして、過去の問題でなく現在や未来に引き継がれている問題でもある。
いずれが加害者、被害者とか、
どちらが悲惨かと定量化することに問題を限局しないでほしい。
女性にとっても、男性にとってもかかる関係が存在しない社会とはどんなものか?
お互いが敬意と愛情に満ちた社会を後世に贈るためには何を為すべきか?
歴史を語る場合、事実を述べる場合、誰が、どの立場で語るものなのか?
そこを出発点にして、考えていくことが大切ではと、とみに思う。」と。
==========

歴史は語るものによっていろんな事実や正義があると思います。
性、民族、階級を超えて普遍ということは過去にはありませんでした。
未来はどうかは未だわかりませんが、、、
しかし大切なことは、そこから何を学び、未来にどのように活かすかではと考えます。

これに関しては、またいろいろ書いていきたいと思いますが、まずはここまで。

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入試問題作成って難しいなぁ

ずっと、ずっと考えていました。
入試問題で「ひめゆり学徒体験談は退屈」 青学高等部と、いうニュースが出てから、、、
そして、今なお考えています。
実際に問題や設問を何度も読みました。
また、この問題に関しては、皆さんがいろんなご意見を述べていらっしゃいます。
ちょっと参考に、ということでネットサーフィン。
みなさんのブログを拝見しながら、「フンフン」「なるほど」と首を縦に振りながら納得。
では、私の意見は?
と、聞かれたら
「そんなに大騒ぎするほど問題あるかな?
むしろ、いい問題だよ、、、、」
です。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
戦後60年が過ぎ、唯一の被爆国である日本も次第に語り部が少なくなって来ている。
その実態は風化させてはならないとは思うが現実の自分を見ると、戦争体験を見たり聞いたりすることは、なるべく避けたい。
先日もテレビでドキュメンタリーをしていたが、すぐにチャンネルを変えた。
しかし、ある戦争体験者は、「言葉では言い尽くさないものをテレビは伝えてくれた」と感謝の投書をしていた。
たしかに、「言葉では語り尽くせないものが、ある」
そして、それは何か。
どうしたらいいかが、今後の自分たちの課題である
(瀬戸が、少々乱暴に意訳しましたのであしからず)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
このようにテーマの設定を持ってきた上で、
問題の”ひめゆり”が出てきます。
そこに書いてあることは、
まず防空壕の印象を述べています。
言葉ではなく、感じたもの、見たものの迫力を伝えた後で、
その対極として語り部の「話し上手」な戦争体験からは「なにも感じてこなかった」という感想がかかれています。
そして、最後に、
昨年のアジアカップでの中国サポーターのの反日的な行動を例にあげて、
「言葉とは、真実を伝える道具ではあるが、その限界もある。」
だから、私たちは偏見なく過去を見、未来へ伝えるためにはあらゆる手段を講じなければならない」
ということで締めくくっていると思います。

出題者の意図には、ひめゆり関係者が今回のような抗議をする事はないように私は思います。
ーーーーーー
 沖縄では、ひめゆり学徒隊の生存者が戦争の記憶を風化させないため、体験を語り継ぐ活動をしている。ひめゆり同窓会東京支部の常任委員で、関東一円の小中学校などで語り部をしている上江田千代さん(75)は「亡くなった同窓生たちに大変失礼だと思う。そういう感想を持った人がいたとしても、それを入試の問題にする感覚は理解できない」と残念がった。
(参照)
ーーーーーーー
何回読んでも、文中のIさんは、
話し手のスキルのことは問題にしていますが、
戦争体験を否定しているとは、私は思わないのですが、、、

また、この問題を解いた受験生も、
「4択の中から、どれにしようか」と悩みはしただろうが、
ことさらに「I got tired of her story.」に執着はしていなかったと思います。

そもそも、私の経験上、「なんだ、この問題?????」なぁんていう出題はいっぱいあります。
どれだけ読んでも、出題者の意図がわからない(受験生は賢いから出題者の意図を考える)
四択の差がない、ことはしゅっちゅです。
解答を見ても容易に同意できないものが、いっぱい、いっぱいあります。
まぁ、どうしても今回のことで難を言うなら、
先のようなデリケートな問題は、「母国語」で出題する方が微妙なニュアンスが、もっと確かに伝わったかもしれません。
なにしろ、テーマは「言葉の限界」と「他の伝達手段」だったのだから。
「言葉の限界」を伝えようとした出題者の意図は皮肉にも、この様な形で伝わったのでしょうか?
いずれにしても、入試問題の作成って難しい、、、と、改めて私個人は思いました。

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2005.06.11

政府税制調査会

給与所得控除の縮小を提言するという概要が明らかになりました。
中身は以下の通りです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会社員の給与控除のうち、配偶者控除の縮小・廃止。(38万円)
16歳以上〜22歳以下の子一人についていた特別扶養控除(63万円)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
また、住民税税率10%に一本化、所得税最低税率5%にするという考えも明らかにされました。
低所得の世帯に考慮して。個人住民税の税率を5%から10%に引き上げ、その代わりに調整として所得税率を5%にするということです。
が、
が、
石弘光政府税制会長は「5%の所得税率がいつまで続くかはわからない。」とも言っています。

給与所得控除は、ほとんどのサラリーマンに、有無をいわさず増税を敷いていく仕組みです。
それも、低所得に負担が大きくなるようになっています。
さらに自営業者いじめも忘れません。
自営業者の記帳義務を徹底していくことで、徴税をさらに強化していく方針です。
さらに、これにとどまらず、定率減税の全廃や消費税増税も同時進行で行う予定です。

うわっ〜〜〜〜
一体この国は、どうなるんだろう???
サラリーマンは普通、源泉徴収されるので、あまり税金の控除には実感がわかないかもしれません。
しかし、確定申告の時期に、少しでも払いすぎた税金を取り戻そうと、勉強した方なら控除の有り難みを肌で感じられていらっしゃると思います。
私も、一年分の医療費のレシートをかき集めたり、生命保険やなんかをゴソゴソと探しています。
こんな庶民のささやかな楽しみであった控除の数々が片っ端からなくなって、ひたすら税金を払っていかなければならない(^^;
辛い、、、
とくに子育て中の身にはドシンと負担がかかってきます。
使い古してボロボロの雑巾。
もう絞ってもなにも出てこない。

大企業とか、国の無駄使いとか、、、
もっと見直すべきところはあるのではないでしょうか???
このままいけば、本当にこの国は

だれもいなくなる。

続きを読む "政府税制調査会"

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2005.06.10

サッカー観戦 つらつらと

W杯出場が2日前に決まり、日本中の喜びも、ようやく落ち着いてきたようです。
本当によかったなぁ、、、としみじみと思います。
私も落ち着いてきたので、ちょっと感想などを独断と偏見で書きます。
〜〜〜〜〜
無観客試合ということで、試合が始まる前からマスコミは大騒ぎ。
しかし、Jリーグが始まる前は、いつも無観客試合だったわけで、選手にとってモチベーションが下がることはなかったようです。
タイのもったりとした暑さが、テレビを通して感じることができます。
見ている方も、まとわりつく暑さを感じたのか、前半は眠かった、、、
解説の松木さんだけが元気(^^;
なんかぁ、緊張のない試合で、このままいくのか????と心配。
まぁ、面白かったのは加地がシュートを打ったこと。
外れたのですが、気合いを感じました。
今日はお友だちのサントスもいないから、頑張らなければ、と思ったのでしょうかねぇ???
ところで、北朝鮮代表のリ・ハンジェが消えている(^^;
私はサンフレッチェ広島のファンだから、個人的にはリも活躍して欲しいと思っていました。
「ハンジェがいない、、、どこじゃ???」
消えてる(^^;
怪我から復帰したばかりだから、、、か?

バーレーン戦で活躍したミッチャンや柳沢(ちょっと雰囲気が変わっていて、初めはわからなかった)も消えている。鈴木も得意の「ねっころがり」も審判には通じないし、なんとなく時間は過ぎました。
松木さん曰く。
「なんとか1点欲しいですね〜〜〜〜〜」
はい。その通り。
そして、迎えた後半。
大黒が入りました。
見違えるようにチームが活気づき、
後半の早々には、加地もいいプレーをして松木さんに褒められていました。
「加地もやればできるのですよね、、、、」と。
はい。その通り。
大黒が入って、動き周り、味方はスペースが出来るし、相手は翻弄されて、
何度も日本にチャンスが訪れました。
そして、そして、ついに柳沢の華麗なシュートで、ドラマがうまれました。
その影には大黒の、相手を引きつけていた働きがあります。
一方、ハンジェは?
はい、ハンジェは後半、頑張っていました(^.^)
「ハンジェ〜〜〜〜〜頑張れ!!!!!」
代表を応援しながらも、ハンジェも広島の大切なプレヤーです。
そして、勝利の女神は、この日大活躍の大黒に2点目をプレゼント。
2−0で日本が堂々の勝利。

さて、ここでもう一つ私が是非書きたいことは、
「スポーツは政治ではない」ということです。
今回の試合でも、後半44分、北朝鮮のFWが少々熱くなり退場になりました。
その時、興奮するチームメートをなだめ、外に出したのはリ・ハンジェでした。
日本生まれの日本育ち。
リにとって日本は第二の故郷です。
北朝鮮代表でありながら、Jリーガである名古屋グランパスのアン・ヨンハ選手とともに、微妙な立場のリは、私たちには想像も出来ない苦労があると思います。
当事者でない私には到底計り知れない。
スポーツは政治ではない、、、というものの、心情的に熱くなるのが人です。
とくに北朝鮮とはめぐみさんをはじめ多くの拉致被害者とのいまだ解決をみない問題が横たわっているからなおさらです。
悪いのは選手でなくて、独裁国家である、、、
とは、わかっていても、ハンジェの立場は微妙だったと思います。
そんな中、冷静に対応した彼の姿が、とても嬉しく、清々しく思いました。
今回はW杯出場はなりませんでしたが、北朝鮮の選手の皆さん、これからも頑張ってください。

また、日本代表のみなさん。
これからスケジュールは目白押し。
コンフェデ、東アジア選手権。
頑張ってくださいね。

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カルペ・ディエム

 Carpe Diem 
〜〜 日を摘め〜〜
古代ローマの詩人、 ホラティウスの言葉です。
ラテン語で「今を生きる」という意味です。

今日、6月10日は時の記念日

なにやかやと慌ただしい毎日。時の大切さを、ちょっと思い出す日です。
「ただ過ぎに過ぐるもの(あっという間に過ぎ去ってしまうもの)、帆かけたる舟。人の齢(よわい)。春、夏、秋、冬」と清少納言も枕草子に書いていますが、とくに現代人だけがセカセカしていたのではないかもしれません。

ちょっと宗教を覗いてみると、
釈迦は次のように述べています。
〜〜〜〜〜
過去を追うな。
未来を願うな。
過去は既に捨てられた。
そして、未来はまだやってきていない。
だから現在の事柄を、
それがあるところにおいて観察し、
揺るぐことなく、動ずることなく、
よく見極めて実践せよ。
ただきょうなすべきことを熱心になせ。
(中部経典)
ーーーーーーーー

また、イエス・キリストは以下のように言っています。
〜〜〜〜〜〜〜
明日のことは思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労はその日だけで十分である。
(新約聖書、マタイによる福音書6)
ーーーーーーー

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2005.06.08

やった!!!

W杯、出場が決まりました(^.^)
おめでとうございます。
よかった。
よかった。
日本代表を応援していたあなたと共に祝杯。
かんぱ〜〜〜い。
試合内容の感想については、またのちほど。
とりあえずカンパ〜〜〜イ。

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ズバリ 勝ちにいきます。

今夜、いよいよW杯のアジア最終予選、北朝鮮戦。
ここへ来るまで、ジーコジャパンは数々の試練を超えました。
(内容的には今もか、、、な?)
まぁ、それはともかく、
ともかく、
今日は勝ちにいきましょう、、、

うわっ〜〜〜〜
それにしても、そろそろドキドキしてきたぞ、、、

ニッポン  ちゃちゃちゃ。

テレビで応援しています。
(私はサンフレッチェ広島ファンなので、個人プレヤーとしてのリ・ハンジェ選手も応援しています(^.^)

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魔法の財布

ロシアの作家、クルイローフの寓話から。
〜〜〜〜〜〜〜
魔法使いが、ある日、男に財布を手渡した。
男が財布の口を開けると、一枚のルーブル硬貨が入っていた。
彼はそのコインを取り出し、口を閉めた。
そして再び口を開けると、なんとそこにはまた一枚のルーブル硬貨が入っていた。
何度やっても、同様であった。
そして、
魔法使いは驚いた男にこう言った。
「お前はこの財布から何枚でも硬貨を取り出せる。
だが一つ言っとくが、取り出したお金は、その財布を川に捨てなければ使えない。」
男は魔法使いに礼を言って、自分の家へ帰った。

それからというもの、男は働きもせずに、日がな一日財布からコインを取り出し続けた。
はじめのうちは蓄えておいた金でパンを購い腹を満たしていた。
しかし、その金が底をつき、食うものが無くなってしまった。
それでも男は空腹を我慢して、コインを取り出し続けるのであった。

だがある日、男は どうにも空腹に耐えられなくなった。
ようやく財布を捨てようと川へ向かった。
欄干に立ち、財布を捨てようとしたのだが、
「もう少し硬貨を取り出してからにしよう」と気が変わり、家へ戻ってしまった。

それからしばらく男は硬貨を取り出し続けた。
しかし、いよいよこれ以上は空腹に耐え切れないと思った男は、再び川へ向かった。
が・・・
彼はまた財布を捨てようとした時に、
「もう少しだけ、もう少しだけ」と思い直し、またまた家へ戻ってしまった。

まもなく彼は、何万枚ものルーブル硬貨に囲まれて、自分の部屋で餓死したのであった・・・
(あらすじのみ)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜

この話を読みながら、なんとな〜〜〜く なんとなく小泉さんの顔を思い出しました。
(本当は、この話は限りない欲への戒めということなのでしょうが、、、)

小泉さぁ〜〜〜〜ん。
国民は魔法の財布なんて持っていないよぉ〜〜〜〜
そんなに私たちの財布をアテにしないで下さい。
「あとちょっと。」と消費税を上げ、
「これくらいまで。」と年金を押さえ、
「もう一頑張り。」とお尻をたたいて、、、
国民の財布をパチパチあけて、持っていかないで、、、
もう、何も出てこない。

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2005.06.07

自己負担引き上げ?

成長率並みに医療費抑制 財政審、建議案で大筋合意ということで、昨日6日 財政審は文言や表現などを最終調整した上で、建議全文を決定し、直ちに谷垣禎一財務相に提出しました。(詳しく内容を知りたい方は”予算編成”で検索なさると基本方針がPDFで出てきます。)
社会保障の伸びを経済成長に見合う程度に抑制するという内容の意見書。
ちょっと中味を見ていきます。
具体案として出てきたのが医療費の削減です。
公的医療の保険の守備範囲の見直しということで、
入院時の食費や居住費を自己負担。
一定額以下の少額医療費を自己負担させる「免責制度」の導入。
70歳以上の高齢者の自己負担の引き上げ。
(窓口負担が増えます)
また、意見書は徹底した歳出削減のみならず歳入にも言及。
ズバリ、消費税がこの任を担うわけです。
「増税による歳入面の改革を進めないと基礎的財政収支の均衡は保たれない」と述べ、増税を促しています。
そもそも消費税導入は福祉のためと言われ、多くの国民の反対の下、押し切られたわけですが、その後も「高齢者社会のため」とか「基礎的財政収支のため」とかとか言われ、その都度国民のサイフがあてにされてきました。
一方、大企業や官僚は優遇されたまま今日まで来ている、たぶんこれからも、、、
「やらずぼったくり、、、、」
と、庶民の私は財布を見ながら、ため息をついています。
このまま医療費の窓口負担が増えれば、受診する人は減っていくだろうな、、、
年をとると、とにかくアチコチ痛い(^^;。
実感です。
先日も、夫と健康診断自己チェックをしていました。
「男性ですか?」
「◎歳以上ですか?」
「お酒をよく飲みますか?」
とかとか、、、
夫曰く、男というだけで心臓病要注意だ、、、と叫んでいました(一つでもあてはまると、生活を見直せと書いてあったから)
さらに夫曰く。
「脳卒中の危険度がすごい。
高血圧気味か?糖尿病か?突然目が見えなくなることがあるか?
ものを落とすことがあるか?言葉を喋られないときがあるか?、、、
ここまで自己チェックして◎つける人っているのかな???
こうなる前に、
はやく病院へ行け〜〜〜〜」
あの時は笑っていたけれど、もしこれからの世の中が高齢者や庶民に冷たい医療制度になったら、医者に行かないで症状を押さえに押さえている人って増えてくるのでは、と思います。
もっと、国民が安心して「年を重ねることができる」世の中にして下さい。
誰だって、いずれ年をとるのだから、、、

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2005.06.06

死んだ魚を見ないわけ

死んだ魚を見ないわけという本を再び読んでいます。
著者は河井智康さんという海洋生態学者です。
この本をはじめて手にしたときは、
「死んだ魚を見ないわけ????
えええ〜〜〜そんなの決まっているじゃない。大きな魚に食べられているんじゃないの?」
と、思いました。
そんな当たり前の事を、どうして悩むんだろうと、、、
実際、著者は魚の死因は、
環境、飢餓、他の動物に食われることが原因であろうと予測する。
しかし、ここで止まらない。
ならば、自分の目で確かめよう。魚の墓場を探して、魚達の生態にせまる。
それはとりもなおさず、動物の進化の過程を海で知り、生体の不可思議を海で調べるということである。
彼は「しんかい2000」という深海潜水調査船にのり、実験をする。
仮説をたて、実験を行い、結果を分析する。

その中で、「魚達のじつに美しい形は合目的である。」と思い、遠い5億年前に思いを馳せます。
初め、地球に登場した魚は、おそらく棘皮動物からであろう。
そのうち、脊索ができるが、どのように進化して、発達を経て真の魚になったかは今は知ることができない。
その後、「魚類時代」を経て「両生類」「爬虫類」「鳥類」「哺乳類」へと進化は続く。
魚は美しい。
泳ぎやすい流線型。空からは見えにくいように背は青色。
下からは光って見えにくいように腹は白色。
合理的、機能的な美しさは5億年の時に鍛えられた芸術である。
そしてさらに、
「死んだ魚はなぜいない」という謎解きに魅せられながら著者は言う。
〜〜〜
物事の本質や現象のメカニズムを掴むためには、単なる実証の世界だけでなく、弁証の世界へも足を踏み入れなければならない」
〜〜〜〜
彼は仮説をたて、実験を行うとき、その拠り所にしたものは、
「対極」でした。
魚は多産であるが、もしそうでない場合はどうか???
というように道筋をたて考えることで、物事の本質に迫ろうとしました。
「死んだ魚はいない」という出発はやがて「なぜ死んだ魚がいるか?」にまで行き着く。
その対極から、自然の淘汰を実証的に調べていく。
テーゼとアンチテーゼからアウフヘーベンを導き出す、弁証法的な論理の先に真理はあるのでしょうか?

私たちが普段、見過ごしているような事柄に、疑問を抱き、その解決にロマンを求めて地道な活動をしている一研究者の姿から見えてくるものは、
「ひたむきさ」でした。
魚が多産で、人間や動物の捕獲にも耐えられるものであるからこそ、
人間の形態は今のようなものである。
という著者は、同時に自然環境の保全を警告もしています。
生命の源、海に潜む謎に魅せられながら、
その美しい海を次にも伝えていきたいと私も思いました。
海を見ながら、
「この海はどこに繋がるのか?」
と、まだ見ぬ明日への思いを胸に抱いていたその海の底には、静かに生命誕生の謎が眠っているのですね、、、
時の試練を超えて、、、

遅くなりましたが、昨日6月5日は「環境の日」でした。

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2005.06.04

6月の星達

6月の星空は、いよいよ夏の大三角形が登場。
〜〜〜〜〜〜〜〜
春の星座たちが西に傾き、東の空からは夏の星座の、こと座のベガ、はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイルをむすんだ「夏の大三角」も見えてきている。西の空では金星がだんだんと日没後の地平高度を上げていき、月末には西空に沈みかけている土星や、水星とあいついで近づく。23日から28日ごろまでは、この3惑星が双眼鏡の視野の中で相互接近する。
(上記AstroArtsより引用)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
星達の饗宴はますます華麗に優雅に奏でられるのでしょうか、、、
私は以前、山の中に住んでいたので、それこそ手に取るように星が輝いていました。
シーンと静まった夜のしじまに、きらめく星の瞬きは、静かに深く心に揺さぶりをかけてきます。
夏はなつの華やかで派手な星達が。
冬はふゆで、冷たく突き放した星達が語りかけてきます。
都会に住んでいる今、夜空を見上げることが格段に少なくなりました。
細く、揺れるように輝く小さな星の光は、もう届かない。
ドーーンとおかれた惑星ばかりが目に入るのです。
まぁ、それもいいかぁ、、、
火星探査機スピリット、火星の流星群を発見か?というニュースがつい先日入ってきました。
悠久の宇宙で繰り広げられている壮大なドラマの一つに思いを馳せながら、
今月の夜空を楽しみたいものです。

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2005.06.03

ニッポン ちゃちゃちゃ

バーレーン戦いよいよです。サッカーの日本代表は3日午後7時35分(日本時間4日午前1時35分)から、ワールドカップ(W杯)最終予選でバーレーンと戦います。
ちょっと、中途半端な時間で、全部観戦できるか自信がありませんが、だんだんドキドキ、ハラハラしてきました。
小野が右足を骨折というニュースも伝わり、心配の種はつきません。
ううううう〜〜〜〜〜んんんん。
ジーコさぁ〜〜〜ん。
運は大丈夫です〜〜〜〜〜かぁ。
なにしろ「運」のジーコさん。(このところ?ですが(^^;)
おおお〜〜〜〜いいいいいい。
サントス、頑張れよ<<<<<
かじっぃいいいいい。気合いだぁ、気合いだぁ気合いだぁあああああ
それから、それから、そうそう坪井。ガンバレ!!!!!
まとめてみんな<<<<<ガンバレ。

日本から祈りを込めて。
ニッポン、ちゃちゃちゃ

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永劫回帰

ブログ仲間の、龍3さんから
先日頂いたコメントについて、ずっと考え込んでしまいました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
亡くなった人はどこにいくのでしょうね。魂は死後も存在するのだろうか、安らかに眠るってどういうことだろう・・・
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
古今東西、多くの、じつに多くの人々を悩ましていた問題。
人はどこから生まれ、どこへ行くのか?
肉体は滅びても魂は永遠か?
ここから宗教が生まれ芸術が育まれ哲学が、文学が、躍動していったのでしょうか?
一般に日本人は、仏教の影響から「輪廻転生」の考えは抵抗無く思いつくことでしょう。
前世と今生と来世。
生まれ、死にそしてまた生まれる。
その繰り返しの中で次第に霊性と仏性を高めなければならない。
今生は修行の場とする仏教の教え。
そして、釈迦は説く。
「考えても結論の出ないことは考えるな、今、生きることに精一杯であれ」と(瀬戸が、いささか乱暴に意訳しました)。
また、ニーチェはこのように言う。
「永劫回帰」と。
彼の言う永劫回帰とは、仏教の言うような弁証法的な高み・止揚が、「来世」にあるのではなく、
ただひたすら「繰り返される」。
永遠に。
ちょうどテープの巻き戻しのように、「今」が繰り返される、いつまでも、いつまでも永遠に。
だからこそ、「今」を精一杯に生きる事を、天才は伝えたかったのだろうか?
ニーチェ最後の書 「この人を見よ」の中で、
彼は、
”ツァラトゥストラの高みの前にはゲーテやシェクスピアでさえ一瞬たりとも呼吸はできないだろう”
と述べ、その作品への思いと気迫を語っています。
この作品は、しのびよる狂気と正気の狭間で書かれた本と言われていますが、
私は、おかしくて涙を流しながら読みました。
と、言うのも天才の狂気があまりに繊細でたおやかで不遜だから、想像力の乏しい私には、笑うしか出来なかったのです。
「私は人間でない、私はダイナマイトだ、(中略)
私は決して大衆相手に語らない。いつの日か人から聖人と呼ばれることがあるのではないかと、ひどく恐れている。」
ニーチェは、自分自身をイエスキリストに投影したとも言われています。
イエスの生き方、つまり
「いっさいの報復感情に無関心で、ルサンチマンをことごとく超えたイエスの自由感、超越感に憧れ」
その後ろを、前を歩こうとしたニーチェ。
そして出てきたのが「永劫回帰」なのでしょうか????

私は、
人が生まれ死ぬことの意義をいまだ知らない。
どこからやってきて、どこへ行くのか?
その魂の拠り所を未だ知らない。
しかし、
「今」生きているという事実の重みはなぜかよくわかる。

龍3さんから頂いたコメントで、もう一度本棚からニーチェを取り出して、こんな事を、つらつら思いました。

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2005.06.02

”もんじゅ”の知恵とは

もんじゅ・設置許可は適法−最高裁判決ということで長きにわたった「もんじゅ訴訟」に最高裁の判決がでました。
これに関しては、高速増殖炉もんじゅ 、に時系列でニュースが掲載されていますので参考にして下さい。
高速増殖炉とは何か?
また、世界の高速増殖炉開発の現状などについても、詳しいサイトから情報を得ました。
熱を得るのに、金属ナトリウムを溶かす。このナトリウムには水や空気に触れると激しく反応。
10年前の「もんじゅ」の事故は起きるべきして起きたのでしょうか?
その後、運転中止。
アメリカやイギリス、ドイツ、フランスも高速増殖炉の開発や運転を中止。
何故日本だけが???
安全神話にしがみつき、崩れ、しかしさらにしがみつき運転中止中にも維持費約1000億円。
今回の判決で、運転再開は必至。さらにさらに税金は積み込まれると思います。
確立されていない安全と、莫大な税金を使って、その先にどんな利益が私たちに約束されているというのだろう???
危険な核燃料サイクル政策ではなく、安全で安心の原子力政策を諸外国の例にならってもいいのでは、、、と思います。
その名も知恵の仏様文殊菩薩の名を冠に頂いている、原子炉。
今、本当に知恵を出す時が来ていると思います。
未来に禍根の残すことのないように、真の知恵を。

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NPT会議

核拡散条約(NPT)再検討会議が終わりました。
記者の目:失敗に終わったNPT再検討会議
を参考にして考えてみました。
(なお、NPTで検索をなさると、この問題に関して、沢山の意見を知ることができます。)

〜〜ニューヨークの国連本部で開かれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議は失敗に終わった。〜〜
と毎日新聞は言います。
そして
「唯一の被爆国・日本は、その教訓をどう生かすのか。複雑な国際社会を読み解く知恵と行動力が問われていると感じる。」
と問題を提起します。
同紙によると、アメリカの責任を強く述べています。
〜〜〜〜〜〜〜〜
 会議が失敗した最大の原因は、ブッシュ米政権が01年に発足して以来、核実験全面禁止条約(CTBT)の否定に加え新型核の研究・開発着手など核軍縮とは逆行する動きを強め、核軍縮が一向に進まないからだ。
クリントン政権最後の主要国首脳会議(G8サミット)となった00年の沖縄サミットでは、CTBTの早期発効が文書に盛り込まれていた。だが、01年のジェノバ・サミット(イタリア)以後はCTBTの文字が文書から消えた。米国の強い要請で「軍縮に関連する多国間条約」などのあいまいな表現に書き換えられたためだ。
もともと核軍縮に消極的なブッシュ政権は、01年9月の米同時多発テロ以後、核不拡散だけに焦点を絞り始めた。昨年のシーアイランド・サミット(米国)では、核軍縮がわずか数行なのに対し、核不拡散は8項目、数百行に及ぶ「G8行動計画」を採択している。
後略(本記事をご覧ください)
〜〜〜〜〜〜〜〜
つまり、アメリカ自身の核戦力には手はつけない。(現実に今会議中にも新型核兵器開発を実施、NPTに反していないと強弁)
1995年には、NPT無期限延長を主張。事実上の形骸化を図るなどは記憶に残る事実です。
しかし、非核国に対しては「拡散阻止」ということで原子力平和利用の権利さえ制約を加えようというものです。
もともとの成り立ちも不公平なら、その後の会議の動きも不透明で不公平な感がするこの会議。
しかし、実際はアメリカの大国主義、覇権主義が見え隠れします。
このようなアメリカの態度に多くの非同盟諸国、新アジェンダ連合諸国、NATO諸国からも批判が高まったようです。そういう意味では、手応えもあったと積極的に評価すべきところもあるのではと、思います。
最後にこの記事は次のように結んでいます。
〜〜〜〜〜〜〜
「ヒロシマ・ナガサキの経験を持つ日本が、なぜ米国の尻馬ばかりに乗るのか」。中東の人々と話すたびに、そんな疑問をよく投げかけられる。石油などの天然資源が無い日本が経済大国となったことに尊敬を払う彼らは、米国の傘に守られている日本が核廃絶を説くことを「いんちきだ」とまでは言わない。一日も早く核のない世界の実現を目指す日本は、中東の人々の言葉の裏にある気持ちをくみ取り、行動に移す責任と義務がある。
では、何ができるのか。米国など核保有国に、これまで以上に核軍縮を強く迫る以外に道はない。豪州やニュージーランド、カナダ、スウェーデンなど核軍縮に熱心に取り組む西側諸国だけではなく、非同盟諸国とも連携を探り、単独行動主義を強めるブッシュ米政権に物言う体制を戦略的に築き上げるしかない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
私もそうだと思います。
唯一の被爆国としての日本の責任とイニシァチブの発揮。
この地球上から核を廃絶する運動に率先垂範、規範となる態度をとってもらいたいと、私は願っています。
〜新しい世紀には「核」はいらない。〜
と、堂々と言える国こそ、世界から尊敬と敬意をかちとることができると考えています。

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2005.06.01

今日から6月

今日から6月。
旧暦の6月の異称を水無月と言います。
水無月の語源は諸説あるそうです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(1)梅雨も終わって水も枯れ尽きる。(新井白石)「東雅」
(2)田植えも済田ごとに水を張る「水張り月」「水月」。(谷川士清)「和訓栞」
(3)田植えも終わり、大きな農作業を全てし尽くした意から「皆仕尽」「皆尽月」。「奥義抄」
(4)この月は雷が多いことから「加美那利月」のカとリを略す。(加茂真淵)「語意考」
(5)「田水之月」の略転。「大言海」
(6)「水の月」で水を田に注ぎ入れる月の意。「広辞苑」「大辞林」
(7)「な」は「ない」の意で「無」の字があてられているが本来は、「の」意。
  「水の月」「田に水を引く必要のある月の意。(国語大辞典)
( 伝えておきたい伝統・季節の習慣のホームページを参考させていただきました。)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
いずれにしても自然とともにあった昔の人の思いが伝わる名前ですね。

また、きょうから衣替え
昨日のニュースでは、小泉さんも今日から「省エネ」スタイルとか、、、
洋服だけでなく、政策の中味も、風通しのよい、わかりやすいものにしてもらいたいと願っています。

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