永劫回帰
ブログ仲間の、龍3さんから
先日頂いたコメントについて、ずっと考え込んでしまいました。
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亡くなった人はどこにいくのでしょうね。魂は死後も存在するのだろうか、安らかに眠るってどういうことだろう・・・
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古今東西、多くの、じつに多くの人々を悩ましていた問題。
人はどこから生まれ、どこへ行くのか?
肉体は滅びても魂は永遠か?
ここから宗教が生まれ芸術が育まれ哲学が、文学が、躍動していったのでしょうか?
一般に日本人は、仏教の影響から「輪廻転生」の考えは抵抗無く思いつくことでしょう。
前世と今生と来世。
生まれ、死にそしてまた生まれる。
その繰り返しの中で次第に霊性と仏性を高めなければならない。
今生は修行の場とする仏教の教え。
そして、釈迦は説く。
「考えても結論の出ないことは考えるな、今、生きることに精一杯であれ」と(瀬戸が、いささか乱暴に意訳しました)。
また、ニーチェはこのように言う。
「永劫回帰」と。
彼の言う永劫回帰とは、仏教の言うような弁証法的な高み・止揚が、「来世」にあるのではなく、
ただひたすら「繰り返される」。
永遠に。
ちょうどテープの巻き戻しのように、「今」が繰り返される、いつまでも、いつまでも永遠に。
だからこそ、「今」を精一杯に生きる事を、天才は伝えたかったのだろうか?
ニーチェ最後の書 「この人を見よ」の中で、
彼は、
”ツァラトゥストラの高みの前にはゲーテやシェクスピアでさえ一瞬たりとも呼吸はできないだろう”
と述べ、その作品への思いと気迫を語っています。
この作品は、しのびよる狂気と正気の狭間で書かれた本と言われていますが、
私は、おかしくて涙を流しながら読みました。
と、言うのも天才の狂気があまりに繊細でたおやかで不遜だから、想像力の乏しい私には、笑うしか出来なかったのです。
「私は人間でない、私はダイナマイトだ、(中略)
私は決して大衆相手に語らない。いつの日か人から聖人と呼ばれることがあるのではないかと、ひどく恐れている。」
ニーチェは、自分自身をイエスキリストに投影したとも言われています。
イエスの生き方、つまり
「いっさいの報復感情に無関心で、ルサンチマンをことごとく超えたイエスの自由感、超越感に憧れ」
その後ろを、前を歩こうとしたニーチェ。
そして出てきたのが「永劫回帰」なのでしょうか????
私は、
人が生まれ死ぬことの意義をいまだ知らない。
どこからやってきて、どこへ行くのか?
その魂の拠り所を未だ知らない。
しかし、
「今」生きているという事実の重みはなぜかよくわかる。
龍3さんから頂いたコメントで、もう一度本棚からニーチェを取り出して、こんな事を、つらつら思いました。
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コメント
わしごときのコメントから、深遠なる思索へと向かわれたせとともこさんに、敬意と感謝の意を表します。
言うてもせん無い問いかもしれませんが、亡くなった人はどこにいて、わしはどのようにこの世を生きるべきか、なおも考え続けます。
投稿: 龍3 | 2005.06.04 01:48
龍3さん。
こんにちは。
コメント有り難うございます。
こちらこそ、素敵なコメント有り難うございました。
思わずイシさんのことを思い出しました。
あれから時間が流れ、日常の中に埋没しながら、心の中にイシさんがいらっしゃるものと思います。
龍3さんのブログのお写真は透明ですね、、、
魂の叫びが透けてきます。
心打たれながら、読ませていただいています。
なお、坊ちゃんはお元気ですか???
これから食中毒の季節、お大切に。
では、またお話の出来ることを楽しみに。
投稿: せとともこ | 2005.06.04 13:03