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2006.04.21

母子殺人事件について考えたこと

母子殺人事件の上告審が結審、弁論続行の主張退ける 山口・光市
この事件についてテレビ・新聞の報道を見ながら、随分〜〜ずいぶん考え続けました。
今も考えています。
あまりの重さに「どうしたらいいのかわからない」というのが本音です。
亡くなったお二人に今もなお心からご冥福を祈り、遺されたご遺族にはお悔やみ申し上げます。
そして祈りながらこの記事を書いています。
ご遺族の無念、本当にわかります。
悔しいその胸の内、いたたまれません。
そして犯人への憎き思いも共感できます。
さらに今後、この様なことが再び起きないことを祈らざる負えません。

さて、そんな私の感情とは別のところで今日はこの問題を考えていこうと思っています。
(まさにこの問題こそがずっと考えていたことです)

被害者の本村さんにも弁護士の方にもテレビ番組出演者にも実は共感できませんでした。

本村さん、ご本人を知らないし、テレビでの切り取られた場面からは本当のところはわかりません。
ただ、ある番組にご本人が出られて次のような発言をなさいました。
「もし、ほかの人が被害にあっても私は悲しまない。なぜなら分からないから。
しかし、今、私は私の家族を失った。それはすごく悲しい、、、」
「犯人には謝ってもらいたい。妻と子どもに。
しかし、妻と子どもはここにはいない。だから妻と子どものいるところへ犯人も行って、そこで謝ってもらいたい、、、、」
私はこの発言を聞いてビックリしたと同時にとても淋しく悲しい思いで一杯になりました。
確かに、他人のことだとしたら、自分はこんなに悲しまない。しかし自分のことだから戦う、、、
と言うのは正論のようでありながら、果たしてそうだろうか???
極めて個人の問題と矮小化しながら、「刑」「裁判」に関しては社会に問う。
極刑でなければ納得しないという。
妻に謝れ、子に謝れと言う。
命という等価をもってして謝れ、償えと言う。
しかし妻の命、子の命が犯人の命と等価であろおうはずがない。
本村さんにとっては、「こんなに苦しんでいる自分がいるのに、犯人はいずれヌケヌケと社会で生きていく」という仕組みが許せないのだと思います。
どうしても制裁を加えたい。
それは分かるのですが、「赦しがたい」罪を罰することは犯人を極刑にすることだけか?
それだけが亡くなった人への手向けか??
私は考え込みました、、、

次にマスコミ。
今回の報道は大半が本村さんへのエールと共感を示すものでした。
本村さんの説を正論とまで言う識者がいました。
そうだろうか???
正論だろうか???
余談ながら私は今回の事件を見ながら9/11事件を彷彿と思い出していました。
あの時、アメリカ人はテロへの恐怖から「やられる前にやれ!!」と言う雰囲気で犯人が匿われている国への攻撃に出ました。
〜〜やられる前にやれ〜〜
これは一種の煽りです。
人がもつ恐怖に対して必要以上に煽る。
あの時も被害者は限りなく美しく、加害者は無条件に憎い存在でした。
今回も、私たちは報道を見ながら、
「他人事ではない」と言う恐怖が本村さんへのシンパシーとなっているような気がしてならないのです。
犯罪が身近なのです。
いつ私たちが被害者になるかわからない恐怖に暴露されている日常。
「もし、あなたが同じ目に会ったら犯人を許せるか?」と言う問いには、グッグ〜〜と詰まってしまうのです。
許すことなんて出来るわけがない。
と、言う当然の答えが返ってくる。
「あなた方に被害者の気持ちが分かるか、、、」と詰め寄られたら、その前には引っ込むしかなくなる。
そんな反応を見通した報道の在り方が私には気になり、かつ共感できないのです。

さて、次に弁護士。
人権弁護士。死刑反対論者という弁護士。
人権や死刑反対については私も共感できるのですが、今回の記者会見だけを見た感想では、
疑問を持ちました。
裁判欠席に始まり、その後の会見内容。
「犯人は殺意がなかった」と言う事で裁判を進めようとしているようですが、一般的な弁護士ならそれもアリと思うのです。何故なら弁護士は依頼人を守ることが仕事だから。
しかし、今回「人権」「死刑」を掲げている弁護士です。
そこで私は聞きたい。
「では殺意があったら死刑にしてもいいのか?」と。
それは死刑反対論者としてはあり得ないことでしょう。
なんだかこの弁護の根拠を聞くと、人権や死刑反対は色あせてくる。
殺意うんぬんではなくて、「どんな犯罪者も死刑は反対」と言うのが死刑反対論者の持論と思っていたのに、、、
なお一般的な問題として「死刑廃絶」についての考察はいずれ書きたいと思います。

いずれにしても、結論はもうすぐ出る。
どの様な結論になっても、本村さんがこれからの人生を心安らかに、心安らかに過されることばかりを祈るしかない私です。

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コメント

こんにちは。

生き物にとっての基本的な要求は行き続けることだから、生きることは良いことで、死ぬことは悪いことだと感じるのでしょうか。私は小さい頃から「命は大切です」とか言われるのが納得できませんでした。全然大切でないように扱われているのに、なぜ大切と言うのか、と思っていました。大人たちがするように、子供もすると思います。死ななくていい動物がいつも殺されているし、人が殺される小説とかドラマとかに人がたかるし、戦争は終わらないし、たくさんの人が貧しくて死んでいます。命なんか全然大切ではないじゃないか、と結論するしかなかったのです。だからといって非行に走ったとかいうわけではないですが、理解に苦しんでいました。

観念的なことですが、因果応報というのがあると思います。殺す人と殺される人はご縁があり、殺された人と残された人にもご縁がある、というか、そういう感じです。もちろん悲しくて理不尽で許せないけど、人間の限られた知覚では認識できない歯車が回っていて、清算されるべきものがされているような気がします。

とても理不尽な事故や病気で死んだり苦しんだりするのも同じようなことであるように思うのですが、私の生まれて初めての友達がとても幼くして難病で死んでしまったので、なぜだろうと考え始めたのかもしれません。人間が殺したのなら怒りや無念さをぶつける相手があるけど、そうでない場合は理不尽さを受け入れるしかない。

人間には理性が与えられているので、できれば無駄な殺生は止めるようにするのがいいのだと思います。屠殺とか殺処理とかを繰り返している限り、動物の魂は人間を殺すだろうし、殺人事件のミステリーを喜んで読む心があふれているうちは、そういう事件は消えないと思います。

あんまり記事と関係なくてすみません。

投稿: 葉子 | 2006.04.21 14:36

葉子さん。
こんにちは。
とても考え深いコメントありがとうございました。
実は、、、
私も貴女と同じような考えの時があります。
人が直面するであろうあらゆること、それは偶然なのか必然なのか。
実は人間の計り知れないところで決められた約束があるのでは、、、
と、思うことしばしばです。
人は不幸に直面したとき「どうして私が、、、」と言い「なぜ私だけが、、、」と嘆く。
しかし、それは貴方だから、私だからだったのか、
と、それが与えられた試練、修行なのかと思うことはままあります。
「因果応報」。
本当にそうかもしれない。
そうかもしれない。
ただ、そうであっても人は同じ過ちや同じ悲しい思いをする人が再び出ることのないように、一つ一つの事柄を精査していかなければとも思うのです。
その精査するのは「社会」であり「司法」です。
人が負っているあまりに大きな課題、責任、罪、に戦きながらも、私たちは「よりよい」ものを目指すために訴えていかなければならないのでしょか???
貴女の拘りの「彗星」にしても、人類への警告ですよね、、、
色々考えることばかり。
ゆっくり、しかし丁寧に考えていきたいと思います。
ご意見、アドバイス楽しみにしています。
どうぞ、これからもよろしくね!!!

投稿: せとともこ | 2006.04.21 17:16

最初、顔立ちも発言も幼かった本村氏が、昨日は少し男らしい顔立ちに見えました。
哀しみをどう昇華させるか、それが彼の一生の課題だと思います。
今のままでは幼すぎて、刑の確定後に生きる気力をなくさないか心配です
どこまでも苦しみ抜いて、その先にあるものをみよ!
心安らかにとは私は祈れません。

投稿: 隅田 | 2006.04.21 22:16

こんにちは。

私もこの事件のことはずっと気になっていました。「はたして犯人は更正の可能性があるのだろうか?」という視点で見ると、報道関係に流れた資料から判断する限り、とても更正できるとは思えなくなってしまいました。
無期懲役がその名の通り、本当に無期ならば、何も死刑にこだわる必要はないと思います。無期が実は無期ではない、そんな仕組みにも疑問が残ります。

投稿: mathedu | 2006.04.22 08:20

僕は、被害者の「感情」は、「感情」としては良く理解出来ます。それは「感情」だから、全然論理的ではなくても、ある意味では仕方がないとも思います。また、「感情」だからこそ、他人については分からないと言うのは、逆に極めて論理的なので、ある意味「感情」的に語っていないことに驚いています。

被害者が「感情」的に語るのはどうしようもないと言う気が僕にはします。だからこそ、社会的な言説に関しては、被害者の「感情」に流されるような情緒的な人間には語らせてはいけないのだと思います。テレビのコメンテーターが、被害者感情に流されておもねるようなら、僕はそのような言説は二流の低俗なものだと思います。

被害者の「感情」は「感情」として受け止め、それをいったんは肯定した後に、社会全体としてその感情にまかせて判断してもいいかを考えなければならないと思います。

その考察は短いコメントではとても語り切れませんが、単純に結論するようなものは、たぶん二流の言説になってしまうだろうと思います。

投稿: | 2006.04.22 11:08

弁護士が、「殺意」の有無によって争うのは、法律という性格においては、ある意味では仕方がないのではないかという感じもします。それが現実の法律というもので、弁護士の仕事としては、むしろ常識的なものではないでしょうか。

「殺意」があれば許されないと考えるのか、というイデオロギーの問題ではなく、「殺意」の有無によって刑罰の重さが違うと言うことがあるので、弁護する側にすれば、これで争う方が有効だという判断があったのだろうと思います。これは、イデオロギーの問題ではなく、極めて機械的技術的な問題ではないかと思います。

これにイデオロギーの問題を絡ませると、かえって問題の本質を見誤るのではないかとも感じます。イデオロギーの問題は、あくまでも観念の世界のことなので、死刑という刑罰そのもの問題と、具体的な裁判での死刑判決とは、関連があるけれども別のものだと理解した方がいいのではないかと思います。

投稿: | 2006.04.22 11:15

智子先生、ご無沙汰しておりました。
こちらのエントリーを拝読して、コメントしようかどうしようか迷いましたが、思い切ってコメントさせて頂きます。
正直、先生のお考えは私にはさっぱり理解できません。

>どの様な結論になっても、本村さんがこれからの人生を心安らかに、心安らかに過されることばかりを祈るしかない私です。
私も上記コメントにある隅田さんと同じく、とても「心安らかに」などと祈れる心境にありません。

我々が事件のことを思い出すのは、テレビや新聞で取り上げられた時だけですが、彼はこの7年間毎日事件のことを考えて生きてきたと思うと、それがどんな日々なのかと想像すると……
先生が彼の発言を聞いて『ビックリしたと同時にとても淋しく悲しい思いで一杯になりました』と仰る気持ちはさっぱり分かりません。私は7年前の彼の発言──曰く、司法の力で犯人に死をもたらせないのならば自分が殺すまで──を、現在も支持します。

投稿: fumi_o | 2006.04.22 12:00

 犯罪被害者の遺族が助命嘆願しても執行されてしまうのが日本の死刑制度です。
 では誰のための制度なのか。よく考える必要があるでしょうね。

 犯罪抑止目的なら、重罰化より景気対策の方がよほど効果的だと私は思いますが。

投稿: 八比 | 2006.04.22 14:55

隅田さん。
matheduさん。
秀さん。
fumi_oさん。
八比さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
皆さんの貴重なご意見、何回も読ませていただきました。
そして自分の中で何回も自問いたしました。
この問題、本当に難しい。
と、言ってしまえばオシマイですが、
やはり難しい。
さて、本来ならお一人おひとりに返事をさしあげるのが筋と思いますが、
内容が重複いたしますので、纏めてさせていただきます。
それに先立ちこの問題を感情と法律・社会的な問題との二つの側面を分けて述べます事を前もってご理解下さい。

感情の面としては、
ご主人の本村さんには、心からお気の毒と思う気持でいっぱいです。
そして彼の止まったままの時間、止まったままの心を思うと胸が詰まります。
それは決して私などが想像もつかない苦しく辛い日々であったろうと想像に難くありません。
だがしかし、いやそれだからこそ、
私は、本村さんにはいずれ出る結果がなんであれ、修羅であることには変わりないと思うと、その「修羅」の道を超えること、超えなければならないことを考えたとき、
私には「祈る」しかできないのです。
超えれないことでも超えなければならない、その重荷。
どうせ背負う重荷なら心安らかなお気持ちでその荷を負う日が一日でも早く来ますように、、、と願っている私です。
それしか私には出来ないのです。
なお、憎しみ、怒りからくる制裁や復讐については、
私は共感はできないのです。
不条理な形で愛する者を失った怒り、嘆き、哀しみ。
その恨みを晴らすことは犯人の死だけしかないのか???
わからない。私には。
しかし、憎しみの連鎖を断ち切る知恵を人は持っている、持たねばならないと思うのです。
自分が当事者になったらわからない、、、
しかし、第三者である場合は、復讐をおしとどめることこそが、人としてあり得るべき姿、そうあらねばならない姿ではないでしょうか?

さて次に法律問題として考えたとき、
私は死刑は反対の立場に今までは立っていました。そして多分これからも、、、
ただ、無期懲役については、終身刑があってもいいのでは、、と考えています。
なお、基本的には、「刑」の軽重よりは、
犯罪のない社会、持続可能な社会を目指すために考えていくことが、一番の近道とは思っています。

なんだか宙に浮いた返事になってしまいました。
先にも書きましたが、難しい問題です。
故にさらに考えていきたいと思っています。
またエントリーをたてたときはご意見お聞かせください。
では、、、

投稿: せとともこ | 2006.04.22 18:24

瀬戸智子さん、はじめまして。拙ブログにコメントありがとうございます。
TBも送ってくださったとのことですが、なぜ届かないのでしょうかね。他の方からも云われるんです。
本村氏の取り持つ縁と云うのもヘンですが、せっかくの機縁ですので、大切にさせてもらいたいと思います。いろいろと意見の交換をさせてもらえたら嬉しいです。

投稿: 愚樵 | 2006.05.09 04:42

愚樵 さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
愚樵 さんのブログを拝見しながら、いつも考えさせられています。
峻烈な自然との語らい、
大いなる自然の懐に抱かれるやさしさ。
そんなものが脈々と伝わってきます。
ある時は激しく、またあるときは戸惑いながら自然と向き合っている姿の中に、私は愚樵 さんを通して「空」を見させていただいています。
私も本来は「教育」について書いていきたいと思いながら、いつの間にか政治ばかりなので味気なき自分のブログを見ながら嘆息しています。
と、いうことで、
どうぞ、これからも宜しくお願いいたします。

投稿: せとともこ | 2006.05.10 13:51

はじめまして。
母子殺人事件、私なりの考えですが書かせていただきます。
おそらく本村さんはできれば他人事として事件や真実と向かい合えたら…と思われ苦しみや憎しみと心の中で闘った時期もあるのではないだろうか、と私は思います。
当事者の苦しみは当事者になってみなければわかりません。それはあまりに苦しいことでありそれでもなお裁判で闘うということはそれ以上に苦しく辛いことではないかと私は思います。
犯罪被害者という立場に立った時、その苦しみや憎しみが初めて分かるのかもしれません。
愛する人をある日突然、それも残虐に殺されてしまった時、それでも死刑論には反対だ、と言えるのか、心ならずも相手に殺意を抱いてしまったりしないのか、自分が当事者になってみないと分からないのかもしれません。私は彼にはエールを送りたいと思っています。

投稿: はなこ | 2006.06.20 17:43

はなこさん。
コメントありがとうございます。
この問題、本当に難しいですね。
今日も朝からテレビでいろいろ解説がなされていましたが、、、、、
難しい。
おっしゃるように、被害者の立場に立てば胸がかきむしられるようです。
一方、刑事立法に照らせば、重罰が犯罪を抑止できるか、と考えてしまいます。
もっともっとこの問題、考えていきたいと思っています。
またご意見お聞かせくださいね。
では。

投稿: せとともこ | 2006.06.21 17:02

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