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2006.05.31

米軍再編、政府方針を閣議決定

こう言うのを日本語では「暴挙」と言うのでしょうか?
米軍再編、政府方針を閣議決定 と言うニュース。
ため息ですね、、、
ふっ〜〜〜〜
=======
小泉内閣は30日、在日米軍再編の最終合意を実施する政府方針を閣議決定した。沖縄県の普天間飛行場の移設先は「日米安全保障協議委員会(2プラス2)で承認された案を基本」にするとし、県側が暫定ヘリポート設置を主張していることに配慮して「辺野古崎」などの地名の明記は見送った。辺野古沖計画の策定に伴う99年の閣議決定は廃止し、地元が継続を求めていた北部地域振興事業は「06年度は実施」と言及するにとどめた。

(上記ニュースより)
========

基本方針では、
日米が合意した在日米軍再編「最終報告」について、関連法の制定や予算措置を含め「的確かつ迅速」な実施を表明。
普天間基地(沖縄県)に代わる新基地も、「最終報告」に盛りこんだ案を「基本」にすると明記。

小泉さんは閣議後、額賀福志郎防衛庁長官に「しっかり(再編計画の)実現を図ってほしい」と指示。
6月29日のブッシュさんへのおみやげが出来たというもの。
そりゃ、ブッシュさんは大喜びでしょう。
なにしろ、この基本方針によれば、
「在日米軍の駐留は日米安全保障体制の中核」であり、「今後とも(米軍の)施設・区域の安定的な使用を確保する」と、米軍駐留の恒久化を宣言したようなもの。
もう一度書きます。
・在日米軍の駐留は日米安全保障体制の中核
・今後とも(米軍の)施設・区域の安定的な使用を確保する
です。
おいおい誰が保障するの?
地元住民の根強い反対を押し切って、、、
閣議決定は以下のとおり。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 一、5月1日の日米安保協議委(2プラス2)の「最終報告」に示された在日米軍再編関連措置を着実に実施

 一、新たな負担を担う自治体に地域振興策を実施

 一、沖縄・海兵隊のグアム移転は所要の経費を分担し、早期に実現

 一、法制面・経費面を含め再編関連措置を的確かつ迅速に実施する措置を講ずる。中期防衛力整備計画を見直し

 一、普天間基地に代わる新基地は2プラス2で承認された案を基本に早急に建設計画を策定。県などと協議機関を設置

 一、普天間基地「移設」にかかわる一九九九年の閣議決定は廃止
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

んんん
う〜〜〜〜〜ん。

日米安全保障協議委員会(2プラス2)で合意した「最終報告」の内容を列挙確認、強調したということかぁ。
そして姑息にも、
「地域振興策」の実施も盛り込んでいるところが、なかなか老獪です。
地元住民の分断か?
あるいは朝三暮四なんて住民をバカにしたやり方ではないと思うのですが、、、
閣議決定では、
「安全保障体制の確保」が「政府の最も重要な施策の一つ」であり、
「政府が責任をもって取り組む」と言います。
つまり関係する地方自治体や住民が国の「専管事項」に口をはさむなと言うことです。
さすがに小池沖縄・北方担当相も「沖縄県も名護市も合意しているとは聞いていない」と指摘。

周辺住民に騒音被害、
墜落の危険、
環境汚染をひきおこすことが明白であり、地元自治体が受け入れることができないのは理の当然です。

また、マスコミでも取り沙汰された「在沖縄米海兵隊のグアム移転費」。
私も書きました
日本が「所要の経費を分担」すると特記するとともに、
「法制面及び経費面を含め、再編関連措置を的確かつ迅速に実施するための措置を講ずる」とし、関連法の制定や総額3兆円にのぼるとされる経費負担を表明。
軍事費総額などを定めた「中期防衛力整備計画」(2005年度〜09年度)の見直しさえ検討ということ。
ふっ〜〜〜〜〜
総額3兆円ですよ。
3兆円ねぇーーーー

そして、いよいよ議論の俎上に上ってきたのが、
日米同盟を米英関係のような軍事同盟に変えようとする議論です。

このブログでも何度でも書いていますが、
2000年の「アーミテージ・リポート」がそもそもの発端です。
「米国と英国のような特別な関係は米日同盟のモデル」と明記してあります。

これを受けて、それからの小泉さん。
自衛隊のイラク派兵。
ミサイル防衛協力の拡大。
日米軍事一体化。
米軍再編など次々と具体化しました。
世界の情勢はイラク多国籍軍から撤退する国が相次いでいます。
しかし、日本は自衛隊を撤退させるどころか、航空自衛隊の軍事輸送地拡大さえ表明しています。

この米軍再編の「最終報告」は、
日米同盟を「より深く、より幅広く、発展」させると強調。
オリンピックのキャッチフレーズではないのだから、、、
と思いますが、この内容はアメリカにのみ有利な「より深く、より幅広く、発展」であることは言うまでもありません。
以前もこのブログで書きましたが、
米国防総省が2月公表したQDR(四年ごとの国防計画見直し)にそった米国の対日要求にそっていることは明白です。
つまり、アメリカ軍のための「軍隊」になるということです。

実際、米国大使館のメア政治部安全保障部長は、
防衛庁主催「米軍再編シンポジウム」で、
「同盟能力を向上させる」「米軍と自衛隊をもっと融合して、ある意味で統合する必要がある」と主張。
さて、ここで私たちはしっかり認識する必要があるのですが、
アメリカは日本をアメリカ軍の延長として使おうとしていることです。
例えばイラク派兵とか、あるいはイランもありかなぁ????
決して、日本のためにとか日本を「とある国」の脅威から守ってやろうなんて殊勝なことは思っていません。

集団的自衛権の行使を認める攻守同盟にまで日米同盟の性格を変質させ、
日本を堂々と戦争できる国にしたてようとアメリカが画策しています。
勿論、
憲法違反です。
日本国憲法は政府見解でも集団的自衛権の行使を禁止しています。

改憲派と言われる人たちにはいろんな主張があります。
純粋に「日本を愛している」方々も大勢いらっしゃいます。
日本を愛していることは、改憲、護憲を問わず同じではと思います。
改憲論者は、日本人の手で憲法を作りたいと仰る。
しかし、その背景にアメリカがチラホラしていることを見逃してはなりません。
また、日本に「敵」が襲ってきたらどうする?
という声もよく耳にします。
しかし、アメリカと共に戦争する国になる方が、更に危険であることを思うと容易にアメリカについていくことは「ちょっと待った」と自制するべきではと思います。
では、自国はどう守る?
そうですね。
私個人は自衛隊は災害救助も含めお世話になっていることを考えると、必要な機関とも考えますが、
今、私たちの国の自衛隊は、米軍に継ぐ戦力を保持している現状には疑問を持ちます。
そして改憲の方、曰くに
「憲法を変えても戦争とは結びつかない」と言います。
確かに、憲法だけを見れば、希望的観測として、その様かもしれません。
しかし、憲法以外のところで私たちを取り巻いている状況が、
実に
きなくさい。
この事実をしっかりと見ていくことは大切です。

今、憲法を変えることは、何を意味するか、
納得いくまで考えたいものです。

私は、
日本が誇る憲法九条を守り、
実行し、
そして国連憲章下での平和のルールづくりに貢献することこそが今、求められているものと思います。

国民の「理解を得る」「誠心誠意説明する」と言い続けてきた政府の今回のやり様は、
やはり暴挙という以外ありません。

もう一度、国民の「理解を得る」「誠心誠意説明する」という立場に戻ることを願ってやみません。

米軍再編には拘って書いています。
以前の記事の一部を掲載しておきます。
お時間がございましたらご覧ください。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
在日米軍再編合意
普天間合意の嘘
普天間移設待ったなし?
ともに血を流す同盟

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ドイツ戦2−2

駒野、頑張ったようですね。
ヨシヨシ。
サッカー日本代表、ドイツと2—2の引き分け
試合は観ていないので、テレビのニュースと、ネット情報だけなので、
全体の感想は書けません。
ここへ来て、けが人が出たりと少々心配でもありますが、
なんとか善戦してほしいものです。
「アテネ世代」は駒野一人でしたが、今回の茂庭の招集で、二人になります。
この世代の底力を見せて欲しいものです。
応援しています!!!

ところで、これまでの課題は解決したのだろうか???

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2006.05.30

人の厚み

昨日、与謝野晶子について書いた記事で、
先日、知り合った素敵なわどさんから頂いたコメント、実に考えこみました。
わどさんは、ご自分のブログの最初に
〜〜言葉の仕組みを暴きだす。ふるい言葉を葬り去り、あたらしい言 葉を発見し、構成する。生涯の願いだ。〜〜
と、書いていらして、「言葉」に並々ならぬ思いと感性をお持ちです。
私も先日、拝見して、エントリーの中にほんのちょっと書かれた言葉が凄く光っていたり、
行間に溢れる思いがあったりと、なかなか唸らせる表現をなさいます。
さて、そんなわどさんから頂いた宿題。
「やっぱり「書く」とは生きることなのかな? 」
うううう?????
今日はずっと考え込んでしまいました。
と、言ってもこれは凄く楽しい思いで一杯だったのですが、、、
そもそもは与謝野晶子の情感溢れる思いに、私としたら瑞々しい感性と、たゆたいながらしたたかな晶子の「性」を書きたいと思ったのですが、、、
さらにわどさんから「書くことと生きること」についてのテーゼとも言うべきコメントを頂いたなら、やっぱりこれは飛びつくしかありません。
書くとは何か?
生きるとは何か??

ううううう?????
結論。
分かりませんでした。


考えながらのアレコレでは、
いろんな作家が出てきて、
多くの哲学者が語ってくれて、
その時々で「なるほど」とポンと手を打ったりしました。
しかし、結局、一番納得いった答えは、
「謎だ」でした。

エッシャーは自分の絵に意味はないと言う。
意味のないところが、人をして不安にさせ、謎を突き止めたいと思い、
その絵に埋没していく。
アメリカン・ゴシックの絵のあの奇妙さが、なんとも不安でどうにかして落ち着きたいと、人はさらにあの絵にかぶりつく。
古典は、読めば読むほどに違った面を見せてくれ、その都度の解釈に人は戦く。
その時々に優れて新しい。
結局、謎を解きたい、
自分で解きたい。
その思いが、人をして書かせ、描かせ、作らせるものかと思うのです。
作者からは解答はいらないのかもしれないと思うのです、、、

論理と感性と、
そして理性と、、、
人はそんな中を右往左往しながら生きているのかも、、、
居心地の良さを求めて。
そしてそれが「人の厚み」「心のまちの広さ」を作るのか???
と、思ったりします。
だからこそ、楽しい!!!

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ヨーロッパ経済について考える

第二次世界大戦後のヨーロッパ経済はどのような道を歩み、何を目指しているのか?
ちょっと調べてみました。
1951年ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)設立。
この背景は、ヨーロッパ資本主義は世界大戦後、深刻な事態に陥ります。
二つの大戦に明け暮れ、植民地争奪戦を繰り広げている間に、かつての帝国主義列強は次々と没落。
気がつけば世界はアメリカとソ連という大国が台頭。
その狭間で右往左往しているのがヨーロッパの立場でした。
「没落するヨーロッパに対する危機意識」が原動力となり、「統合による新しいヨーロッパ」へと導いていくものです。
こうした背景を受けて出来たECSCは戦後ヨーロッパの資本主義の出発点となっていきます。
一般に資本主義は次の過程で発展します。

1ブルジョア的国民国家で世界市場の形成→グローバライゼーション→諸矛盾の発現)
(世界市場恐慌)

2植民地への資本輸出→諸矛盾の発現(帝国主義戦争)

3新植民地主義の形成などで対開発途上国、先進国間相互浸透による資本輸出→諸矛盾の発現(インフレーション、スタグフレーション)

4国際的貨幣資本の自由移動と新たな国際経済ブロック形成→諸矛盾の発現(バブル崩壊、21世紀型危機)
さてECSCは2から3の段階で設立されました。
その後EEC,ECとさらなる発展をしていきます。
「ヨーロッパの平和による経済的繁栄」を求めて大きな成果を上げた組織は、
さらにEUへと進みます。
1989年のベルリンの壁崩壊によるヨーロッパの政治経済諸条件に大きな変動が押し寄せた時期でもありました。
そもそもヨーロッパ統合の目的であった米ソへの対抗も今や終焉を迎え、変わって
「統一ドイツ」の誕生がヨーロッパにどのような道を開発するかという大きな問題が浮上しました。
「強いドイツ」への警戒でした。
しかし現実にはドイツは統合ヨーロッパの中で自国の発展活路を見いだす政策を取りました。通貨主権の放棄と単一通貨ユーローの導入などにその姿勢が見られます。
こうして、ドイツ、フランスを中心としたヨーロッパ資本主義とアメリカ、日本の資本主義がそれぞれの道を歩んでいきます。
アメリカのユニラテリズムにもとづく軍事戦略には一線を画しています。
しかし、その内部はそれぞれが独占資本主義国でなり立っているEUゆえ矛盾も多く、その行く先も不透明でもあります。
イギリスは今回のイラク戦争では帝国主義的行動をとったことはもう議論の余地はありません。
フランスでは移民暴動や若者のデモなどが表したように、その強権的な支配の矛盾が出て来ています。
またEU憲法条約批准において噴出した軋轢や矛盾を見ても、ある意味危機に直面しています。さらに当然加盟分担金の問題もあります。
さらに加えるなら税制統一などもあり、一筋縄ではいきません。
しかし、
一番大切なことは、
誰のためのEUなのかということを、今一度改めて問い直すことでは、と思います。
国境を越えて利潤を追求する金融資本、
アメリカに対抗するための多国籍企業、
これらのためのEUであってはならないと考えます。
この問題、今後も勉強していきたいと思っています。

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2006.05.29

やっぱり晶子と言えば

白桃忌の今日は、もうこれしかないでしょう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ああおとうとよ 君を泣く
君死にたもうことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺(さかい)の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたもうことなかれ
旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも
ほろびずとても 何事ぞ
君は知らじな あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたもうことなかれ
すめらみことは 戦いに
おおみずからは出でまさね
かたみに人の血を流し
獣(けもの)の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されん

ああおとうとよ 戦いに
君死にたもうことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまえる母ぎみは
なげきの中に いたましく
わが子を召され 家を守(も)り
安しと聞ける大御代(おおみよ)も
母のしら髪(が)はまさりぬる

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にいづま)を
君わするるや 思えるや
十月(とつき)も添(そ)わでわかれたる
少女(おとめ)ごころを思いみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたもうことなかれ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
毎年、5月29日は書いていますね。
君 死にたまふことなかれを。
晶子にはいろんな顔があって、
一人称へと言う記事では、有名な「山動く日来る」の詩を載せました。
女性の権利を、一人称と称して高らかに歌い上げた晶子。
「すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる。
一人称(いちにんしょう)にてのみ物書かばや。
われは女(おなご)ぞ。
一人称にてのみ物書かばや」と。
しかし、晶子と言えば、その情感溢れる「みだれ髪」が一番素敵では、と私は思います。
ああ皐月でも書きましたが、
鉄幹を追ってフランスにまで行った晶子の情念。
==ああ皐月仏蘭西の野は火の色す
 君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟(コクリコ)==
です。
〜〜春みじかし何に不滅の命ぞと
 ちからある乳を手にさぐらせぬ
「みだれ髪」より〜〜

とは言え、
やはり今は、「君 死にたまふことなかれ」が実感として感じられる、きな臭いこの頃です。
あああ〜〜〜〜早く、晶子のあの情感を書きたいのに、、、なぁ〜〜〜
私としては。

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背番号3

日本代表レプリカユニフォームが昨日、届きました!!!
勿論、背番号は3
KOMANO
です。
早速 封を切って開きました。
ウォ〜〜〜ツ。
これがあの日本刀の波紋かぁ、、、
わっ。KOMANOって字がかわいい〜〜〜
とかとか、そりゃ贔屓のひきだおしです。
侍ブルーのスーツに身を包んだ駒野が凛々しい。
こ・ま・の====
コマノ〜〜〜〜
こまちゃん。
あっあ、どんな呼び方をしようと楽しい。
応援しているよ====

W杯まであと僅か。
高鳴る胸を押さえながら、その日を待っています!!!

ニッポン チャチャチャ。

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2006.05.28

さとうきび畑

♪ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
 ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ
 今日も 見わたすかぎりに 緑の波が うねる
 夏の ひざしの中で

 ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
 ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ
 むかし 海の向こうから いくさが やってきた
 夏の ひざしの中で

 ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
 ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ
 あの日 鉄の雨にうたれ 父は 死んでいった
 夏の ひざしの中で

 ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
 ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ
 そして 私の生れた日に いくさの 終わりがきた
 夏の ひざしの中で

 ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は
 ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ
 風の音にとぎれて消える 母の子守(こもり)の歌
 夏のひざしのなかで

 ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は
 ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ
 知らないはずの父の手に だかれた夢を見た
 夏のひざしのなかで

 ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は
 ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ
 父の声をさがしながら たどる畑の道
 夏のひざしのなかで

 ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は
 ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ
 お父さんて呼んでみたい お父さんどこにいるの
 このままみどりの波に おぼれてしまいそう
 夏のひざしのなかで

 ざわわ ざわわ ざわわ けれど さとうきび畑は
 ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ
 今日も 見わたすかぎりに 緑の波が うねる
 夏の ひざしの中で


 ざわわ ざわわ ざわわ 忘れられない 悲しみが
 ざわわ ざわわ ざわわ 波のように 押し寄せる
 風よ 悲しみの歌を 海に返してほしい
 夏の ひざしの中で

 ざわわ ざわわ ざわわ 風に涙はかわいても
 ざわわ ざわわ ざわわ この悲しみは消えない

 寺島尚彦作詞・作曲

===========

これからの時期は、この歌が胸に浸みてきます。

〜〜ざわわ ざわわ ざわわ〜〜とさとうきび畑に吹く風は、
何もいわず、何も語らず、微笑みもせず通りすぎるだけ。
戦で死んだ父と、戦争の終わった日に生まれた父の顔を知らない子ども。
どんなに叫んでも、泣いても、風は通りすぎるだけ。
地平線にまで続くさとうきび畑の海は黙して何も語らない。
そこにいるのは悲しみを残した”わたし”だけ。

なんともやるせない歌です。
この「ざわわ ざわわ ざわわ」は。
最後の歌詞を歌う頃は涙なしでは歌えない私なのですが、、、
ふとこの歌、反戦歌としても捉えられていますが、
「真理」を求めて、求めて、求めてやまない学びの徒への訴えかもしれないと勝手に解釈しています。

ざわわざわわは、心が波立ち焦りはやるざわつきの音か。
真理を求めて、己のざわつく心に向かって、呼びかける。
光を与えてくれ、道を示してくれ、、、、と。
しかし、答えはざわわだけである。
と、そんな気がしたりして。

禅にこんな言葉があります。
「風に非ず 鈴に非ず わが心の鳴るのみ」。
風鈴がなった。
一体、鈴が鳴っているのか、風が鳴っているのか。
問うた僧にもう一人が応えたのが、上の言葉です。

偏見や差別。
それは何も実態があるわけではない。
ただ自分の心が作り出したものです。
単に自分の心が作り出したものであるというその事を胸にズド===ンと落として、
そう言う動く自分の心さえ捉えて生きていけたらなんと素敵かと思う私です。

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コンスタンティノープルの陥落

明日5月29日は白桃忌です。
ここでも毎年書いていますが、与謝野晶子の逞しく、しなやかで、迸しる思いと氷のようにヒヤリとさせられる洞察力に毎年翻弄されながら、晶子を偲ぶのがこの時期の私です。
しかし、今年はコンスタンティノープルの陥落について思いを馳せています。
1453年5月29日。コンスタンティノープルの陥落の日です。
5月に入ってからは本棚の隅で隠れていた塩野さんの本を、また取り出して読み始めています。
「あの町がほしい」と言って、
オスマン帝国の若きスルタンがコンスタンティノープルを攻め入るまでの歴史を物語風に描いている塩野さんの作品はいつもの塩野ワールドと同じく精緻に調査をし、事実と研究から練り上げた先に「人間」が描かれている素晴らしい作品です。
読み進むにつれ、いつのまにか全ての登場人物に感情移入している私がいます。
ある時は気高き最後の皇帝であったり、またある時は野望に燃える若きスルタンであったり、あるいは歴史の証言者達であったりと、その都度ハラハラ、どきどきしながら読んでいました。
そしてそれらの人物の声を通して、歴史の表舞台には登場しなかった多くの名もなき人々の思いまで手に通るように伝わってきます。
作家の筆力もさることながら、
「歴史とは何か」とこの頃とみに考えているからでしょうか?
高校までの世界史では、
「1453年、東ローマ帝国、オスマントルコに敗れる」の一行で書かれるその歴史の中にうずくまっている多くの民衆の声が聞こえるような気がします。
今、生きている時代がそうさせるのかもしれません。
栄華を誇ったオスマントルコもいずれ衰退滅亡の運命を辿るのは必然です。
同じく塩野さんは「レパントの開戦」冒頭で以下のように言う。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
戦争は血を流す政治で、政治は血を流さない戦争であると言ったのは、誰であったろう。毛沢東であったかクラウゼヴィッツであったか、それともこの二人ともであったか。
もしもこの説が正しければ、私も、血を流す政治を描く前に、血を流さない戦争を描く必要があるように思われる。
レパントの海戦は、まずはじめに、血を流さない戦争があり、
次いで、血を流す政治とつづき、
最後に再び血を流さない戦争になって終わった、歴史上の一事件であった。
おそらく、他の戦争がそうであったのと同じに。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
と。

戦争は血を流す政治で、政治は血を流さない戦争である、、、かぁ。
そして、
〜〜まずはじめに、血を流さない戦争があり、
次いで、血を流す政治とつづき、
最後に再び血を流さない戦争になって終わった、歴史上の一事件であった。
おそらく、他の戦争がそうであったのと同じに。〜〜
まさに今に通じます。
よくよく心しなければと改めて思ったものです。

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2006.05.26

水上勉を思い出す

昨日、FAIRNESSさんから「偏見」と言うタイトルのトラックバックを頂きました。
今日は愚樵さんからビラミッド型・サークル型と言うエントリーのトラックバックを頂きました。
お二人のブログを拝見しながら、
何故か水上勉を思い出しました。
なぜですかね???
以前、と言っても水上が亡くなった直後の9月に書いた記事を読み返しています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
のたうち回り、自らを「愚かだ」、おろかだと、言い、
這いずり回って、その生を生き抜いた水上勉。
この本を読みながら、
私は「安心」をしました。
人間の極限に追い詰められた「愚かさ」は、まさに自分のものであり、
自分こそが、「この のたうち回っている水上勉である」。
「生きる」ということが、どんなに凄まじいものであるかを、教えてくれます。
そして、
「不浄である」人間に一縷の光を、確かに指し示してくれる本であると、私は思います。
人間が、間違いを犯す者であることは、古今東西、多くの哲学、文学で語られています。
間違いをおかす 故、
神(仏)は無謬である、と思いたい。
しかし、その神(仏)とて、人間が愚かな知恵で生み出したものである。
神(仏)もまた然り。
人は、神(仏)と共に、
愚かさを共有して、生きていかなければならないのでしょうか???
ひたすら、
愚かに、生きまくった水上勉。
そして、
真実を探し求めた水上勉。
その壮絶で迫力ある「生」は、
今、土に帰った。
本当に、
ほんとうに、
冥福を祈り、
そして感謝を捧げたいと思います。
ありがとうございました。
(以前の記事より)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

この世の一切が全て「空」であると思えば、
瑣事ばかりの人の日常などは愚かなものである。
しかし、この愚かさが人間である。
「自分こそ愚かな人間はいない」と言い続け、書き続けた水上勉。
般若心経をひたすら、ひたすら読み、誦し、己の煩悩から逃れたい、救われたいとのたうち回りながら、
それでも、水上は言う。
「悩み多いこの世に、悩みのタネを撒いている私は、その種子の芽立ちによって、それぞれの業の花をひらかせて暮らしたい。妻子とともにのたうちまわっていきるしかないではないか。どこに安心立命などあるものか。
そんなものがあったらみせてくれ。
、、、、、」
そして、そして最後にこう結ぶ。
「正眼国師は、この私をどう思われるか。禅師は今は故人ゆえ、いくら赤穂の龍門寺にその木造を拝んで訊ねても、ご返事は帰ってこないのである。」
と。

壮絶な生き方で、人生を駆け巡り、波をくぐり抜けた作家、水上勉の本人曰く愚かな人生は、
愚かな人生で右往左往する私にとって、どんなにか心強いものだったろうか、、、
水上はやさしい。
愚かさを愚かさとして認め、受け入れ、そして一緒に流してくれる。

愚かであるが故にひたすらであった水上勉、その人をまた思い出しました。

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ニッポン チャチャチャ

W杯日本代表、成田からドイツへ出発
うわっ〜〜〜〜〜〜
いよいよだぁ!!!
いよいよだよ。W杯。

広島では、今日は駒野選手の壮行会が朝の8時過ぎにあったとか。
行きたかった、、、
フレーフレー。
コ・マ・ノ。
フレフレーコ・マ・ノ。

いよいよかぁ。
楽しみです。
今、「ぼくのプレミア・ライフ」を再び手にしながらサポーター・ファン魂の真骨頂に触れています。
さぁ!!!
応援だ。
やるぞ。

ニッポン。チャチャチャ。
しばらくはサンフレッチェはお休み。
(本当は監督のこととか、カズのこととか書きたいが、、、ナビスコで勝った事とかも忘れたくはないが)
今日から代表サポだぁ〜〜〜
もう一度。
ニッポン。チャチャチャ。

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朝の電話から考えたこと

今日は「これ」を書こうと思ってパソコンに向かったのですが、
その後、電話が何本か入ってきて、その応対をしながら、
今の心境は「怖い世の中だぁ〜〜〜」と言うまるで正反対の印象を持って、ブログを書いています。
当初の「これ」については、
警察権力による監視社会ってイヤダナァです。
「奈良県少年補導に関する条例(案)」に反対する会長声明なんかを参考にして、本来、教育がすべきことを警察権力の介入できるか?を考えていきたいと思っていました。
或いは、つい先日、出会った素敵なブログの一つ*minx* の管理人のmacskaさんの関わっている性暴力情報センターに、つい先日届いたと言うメールの紹介を兼ね、いよいよ来るべき時代の到来を思わせるのかと危惧に似た思いを述べたいと予定していました。
さらに、元日テレアナ・藪本雅子さんが日テレアナ盗撮事件にふれてブログが炎上!と言うことですが、その内容のあまりのひどさに唖然・呆然とした事を書こうと思っていました。
個人的には炎上もありかぁと言う噴飯物でした。
これについては機会をとらえてまた書きたいと思いますが、もう閉鎖されたようです。
いずれにしても、つまるところ、「個人の自由が強権的に支配・指導・管理」されていくことの怖さを書こうと思っていました(電話を受ける前までは、、、)
ところが、今朝の一番目の電話は、
「○○さんの扉のガラスが割れたのは実は泥棒に入られたものだったのです」
と、言う不動産会社からのものでした。
実は私たちは、すっごい田舎に小さな家を持っていて、その家を○○さんに貸しているのです。
昨夜、件の不動産会社(家の管理をお願いしている)から電話があり、扉のガラスが割れたから修理してほしいという旨の連絡があったのです。
ところが、実はプロの泥棒の仕業だったのです。
うううう〜〜〜〜〜〜んんん。
です。
そう言えば以前の事ですが、夜10時過ぎ電話がかかりました。
「は〜〜〜い」と私が出ると、
電話の相手は、
「△△の警察のものですが□□さんですか、、、」
と名乗り、まず私のことを誰何しました。
私は思わず、家族がみんな家にいるか確認。
(うんOK。これでオレオレにはひっかからないぞ)と。
今から思えば申し訳ないことを思ってしまいましたが、警察と名乗る電話にすぐには信じなかった私。
ゴメンサナサイ。おまわりさん。
さて、用件はと言えば、
駐車場に停めてあった車が車上狙いにあったというものでした。
夫は慌てて洋服を着替え駐車場に走りました。
やられていました。みごとに。
ガラスはグチャグチャ。
被害は小銭がちょっとだけ盗られて大して損害はなかったのですが、
車を直す(考えてみればこれもガラスかぁ〜〜〜)手続きやら被害届やらで慌ただしい日が続きました。おまわりさんも、気の毒そうに事情調査をして下さいました。「車上狙い」は多いとも言っていました。
確かに、近所の方々もガソリンを抜かれたり、自転車の盗難やらいろいろ被害に遭われているみたいです。
ふっ〜〜〜〜〜〜。
ため息がでます。

ふと自分を振り返ると、この頃他人に警戒している自分がここにいます。
以前は鍵なんか掛けた事がなかったなぁ、、、
ゴミだしに出たら、そこで会った近所の顔見知りと、喋りまくっていました。家は当然、開けっ放し。
ピンポ〜〜〜〜ンと誰かが訪ねてきても、必ず顔を出して応対。
一度ならず宗教の勧誘に手間取ったものです。
ところがこの頃、ゴミ出しは当然、鍵を掛ける。
家にいても絶対、鍵は掛けている。
ピンポンでもインターホーンでしか応対しない。
電話は、相手が誰か確認しない限り出ない。
我が家の男性陣には、満員電車では男の周りに行け(これは以前の女性専用車両の記事でも書きましたが)と言い、
、、

あああ====気がつくと本当に他人に警戒している自分がいます。
以前は、どんな時でも、どんな所でも、多くの人に親切にされて、親切にされて、親切にされて、
イヤな思いをしたことなんてなかったのに、、、
いつも一人旅(その頃は私も十分若い娘だった)をしながら、旅先ではなんと多くの方々にお世話になったか。楽しい思い出ばかりです。
海外ではそれこそ言葉も通じないのに、本当にいろんな方から大切にされたのに、、、
私は、「人っていいなぁ」と思いながら人を信じて過していたはずなのに、、、
知らずしらずのうちに、
他人へのハードルをウンと高くしている自分がいることに驚いています。
そんな自分に
もう一度、ため息。
ふつーーーーーー。

だがしかし、
だから警察に任せようとか、監視カメラで他人をバッチリ監視しようとは思わない。
「自分を守るのは自分で、自己責任」であることは重々承知しているから。
やはり、考えうる最大の防犯は、地域社会ではお互いが顔見知りであるという連帯感を持つことが、何より有効ではと思うのです。
声をかけたり、チョット会釈したりが信じられるそんな社会こそが、一番有効な対策と考えます。
人を見たら不審人物と思う社会は、やはり淋しい。
そして、それが、やがて偏見や差別につながればもっと悲しい。

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2006.05.25

肉用牛経済

<米産牛肉>来月中の日本輸入を熱望 米農務長官と言うニュースが出て「食の安全」に対して更なる不安が出ています。
ここでもBSE問題と関連して輸入肉の危険が完全に取り去られていない事実を書いてきました。

さて、今日は「肉用牛経営」について少々調べたので報告して、アメリカ産輸入肉が意味することを考えていきたいと思います。
まず、日本の肉用牛経営について述べます。
国産牛には一般に黒毛和種など和牛と言われる肉用種と、
ホルスタイン種」の去勢雄牛や老廃牛などの乳用種があります。
消費の半分は肉用種出、あとは乳用牛と輸入牛肉です。

「繁殖経営」→産地市場→「肥育経営」→家畜市場→流通業者→消費者と言う流れが一般的です。
経営は土地や種類によって多少の違いはあります。
繁殖経営では零細が多いのが現状です。
放牧用の草地が少ないため、日本では和牛子牛は舎飼が多く、そのため素牛の価格は280kgで30〜40万円です。一方アメリカでは大牧場ということで5〜10万円です。

肥育経営は、飼料との関係が大きく左右します。
ホルスタイン去勢牛雄では10ヶ月。和牛では2年くらい肥育する期間が必要なのです。
その時使われる飼料の多くはアメリカ輸入とうもろこしや大豆です。
日本人はすき焼きやしゃぶしゃぶなど「煮る」料理が好みと言うこともあって、
以前は霜降りの肉が高級とされました。
霜降り肉を作るには実は可成長期に渡り飼育が必要なのです。
と言うのも、牛は各組織の成長期間が違います。
骨、筋肉、脂肪の順で成熟するのです。
脂肪組織が形成される頃に筋肉組織が入り込んでできるのが霜降肉です。
従って期間は長くなるため飼料・諸経費もかかります。
諸々の経費を考えると最終的に一頭100万円くらい。高級和牛では数百万円に上ります。
しかし、この頃は日本でも高級志向よりも焼き肉などで食べることが多くなり赤肉が多く流通するようになってきました。

さてこうして一頭の牛が市場に流れます。
牛は鳴き声以外は全て食べることが出来ると言われていますが、
確かに無駄なく全てを加工、食料となり私たち消費者に届きます。
そこで、つい肉食は効率のよい食べ物と思いがちですが、
実は肉食は資源利用の不経済ではないかと言う指摘もあります。
1ヘクタールの土地でそれぞれの農畜産物を生産した場合、どれだけの人数を一年間養えるかという試算やタンパク質の生物学的効率などの視点からみても、
畜産物の生産性は低いのです。
世界の年間トウモロコシの生産量は約6億トン。
うち4トンが家畜用の飼料です。(世界の飢餓問題を考えると、家畜用飼料の生産ではなく、人間の食料生産の方が必要ではとも思うのですが、、、)
こうした中で世界規模の巨大アグリビジネスは、
迂回生産であるため畜産のコストを低くするため、
飼料の安全性や牛そのもの生理を無視して、利益追求にのみ走っています。

日本の食料供給率は4割。
その土地にはその土地の風土に合った「食」の材料があり、
その土地の人間もそのような体の仕組みになっています(日本人なら胃が長いとか、、、、)
それを無視して、食料の殆どを輸入に頼ることは、健康の上でも問題があります。
輸入肉再開を急いでいる政府に対して、
BSE問題も課題として突きつける必要はありますが、
日本の食を、もう一度取り戻す視点で声を上げる時期でもあろうかと思います。

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2006.05.24

たのしみは、、、

たのしみは朝おきいでて昨日まで
 無かりし花の咲けるを見るとき

(橘曙覧「独楽吟」より)

いつも意見交換させていただいている数学屋のメガネの秀さん。
数理論理学を勉強なさり、「論理」について深い考察を加えたブログを管理なさっています。
私は、子どもたちに作文を教えています。
それで受験の折には「論文術」を授けますが、
普通は書き手の「感性」がそこそこに鏤められた文を讃えます。
従って、自分自身も感性の戦きのまま書き綴ることが好きなのですが、
当然のことながら、ある時「ツッコミ」が来ました。
うううう〜〜〜〜〜んんん。
なるほど。
唸りながら、自己批判。
そうしたとき、秀さんのブログと出会い、
論理的に書くことの大切さを教えて頂きました。
そして折につけ、意見交換させて頂くようになったのです。
そんな秀さん。
つい先日、書かれたエントリーは、私にとっても興味、関心のテーマだったので、私も意見を書きました。
また、秀さんの周りの方々も、ご意見を書かれました。
そんなアレコレのやり取りの中で、秀さんはご自分の偏見や誤謬と自らが対峙。
そして偏見が芽生えた原因や、あるいはその誤謬から学ぶことなどを一連のエントリーとして書いてくださいました。

およそ人が誰でも持つであろう色々な「差別や偏見」。
私自身は現実の生活の中では、自分自身の心の中を見ると、ビックリする事ばかり。
心の揺さぶられるままに、いつも立ち往生している自分を見ています。
さて、秀さんらしい誠実さと冷静さで分析なさっているのを拝見しながら、
秀さんだけしか入りきれない立ち入り禁止の部分については、
秀さんにお任せするしかありません。
ただ傍で見守らせていただいているだけの私です。
それは敬意をもって見させて頂いています。
そして、そんな秀さんを見ながら、ふと先ほどの歌を思いました。
〜〜たのしみは朝おきいでて昨日まで
 無かりし花の咲けるを見るとき〜〜

昨日までは蕾で静かにひた隠れていた花が、
今日は楚々と咲き、風に揺れている。
そんな発見が何より嬉しいということでしょうか?
秀さんの中で、大きな花が「はにかみながら咲いている」、、、そんな気が致します。


さて私と言えば、この間の論争(?)の中で本当に学ぶことばかりでした。
自分自身もある意味「差別や偏見」と無縁でない者であるということの改めての認識。
自己を見つめると言う意味でも学ばせて頂きました。
また、それこそ昨日までは存知あげていなかった素敵な方々を知り、
これはこれで本当に嬉しく思っています。
私の中でいつか咲く花を、楽しみにしています。

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衆議院教基法特別委員会

首相「小学校で愛国心評価は不要」 教育基本法改正審議と言うニュースが先ほど出ました。
ネットニュースは期間限定なので、いつものように原文ままで、まずは掲載します。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
教育基本法改正案をめぐる衆院特別委員会の質疑が24日始まった。小泉首相は、「教育の目標」に掲げられた「我が国と郷土を愛する態度」に関する児童生徒の評価について「小学生に愛国心があるかどうか評価する必要はない」と述べ、小学校教育で児童に愛国心の評価を求めない考えを示した。保坂展人氏(社民)の質問に答えた。
また、志位和夫氏(共産)が「愛国心」を3段階で評価する小学校の通知票を例示したのに対し、首相は「こういうことで評価するのは難しい。こういう項目は持たないでいいのでは」とも語った。
民主党は審議の冒頭、対案の日本国教育基本法案の趣旨説明を行った。首相は「個別の問題について(与党と民主党で)話し合って慎重に審議を進めていけば、十分今国会で成立が可能だ」と強調。さらに、「我々は第2次世界大戦の反省を踏まえて平和国家として発展し、(改正案でも)他国との協調姿勢をはっきりと打ち出している。戦争に駆り立てようという法律だというのは曲解ではないか」とも述べた。河村建夫氏(自民)の質問に答えた。
一方、公明党に配慮して政府案に「宗教的な情操教育」が盛り込まれなかった点を松本剛明氏(民主)がただしたのに対し、安倍官房長官は「主要宗教の歴史や特色、分布、地域など、教育上尊重すべきことを明確に規定した。宗教の持つ意義、重要性などをしっかりと子どもたちに教えることで、宗教的情操心の大切さについての理解を深めていく」と答えた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私は午前中は出掛けていたので、午後から衆議院特別委員会のテレビ録画を見ました。
共産党の志位さんが福岡市の通知票で以前「愛国心」を三段階に評価していたが、関係者の反対で一年で反故にされた例を示しながら、小泉さんにこの背景について説明しながら質問。
「2002年、中教審答申で愛国心が盛りこまれ結果このような通知票ができた。
今、教基法で法律として愛国心を盛り込むなら更に”愛国心”は評価の対象になるがどうか?」
これに対して、相変わらずの小泉さん。
「ええええ〜〜〜〜〜〜
私も通知票を見たのは、何年前だろう???
50年?いや60年???」
とトボケから始まる(孝太郎クンの通知票見ていたわきゃないか)
次に小泉さん。
「いや、、難しいことが書いてありますね〜〜〜〜」
と、言いようやく愛国心を通知票で評価することはおかしいと述べました。

また、社民党の保坂さんに対してはタップリのジェスチャー入りで「しつけ」について語られました。
「ご飯を食べるときはクチャクチャ音をたてない。
、、、、、こうしたことは法律では書くことが出来ないが、ちゃんとした教師がいれば教えることが出来る。」と。
そして、問題の愛国心については小学校で教える必要はない。と言われました。
小泉さん、今日も教育問題が出ると大好きなあの言葉。
そう「公私相半ば」
を連発なさり、とても気持ちよさそうでした〜〜〜〜


さてさて、それはさておき問題の愛国心。
小泉さんはこのように述べているが、
改正教基法には、(教育の目標)第二条 第5で、
〜〜伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。 〜〜と明文化されています。

結局、小泉さんの今回の国会での発言も、
教基法通過のための方便なのか、、、
とにかく、今国会でなんとしても成立を目論んでいる政府、与党。
その背景は、
ここでも、何回も、なんかいも、書いていますが憲法改正との大きな関わりがあることは論を待ちません。

愛国心表記だけでなく教育が政治によって蹂躙される時代がこないために、
今、しっかりと見ていく必要があります。

今までも教基法にはこだわり続けていますが、今日は以前の記事で、とくに新自由主義と教基法、
科学教育と教基法について考察を加えた記事を以下に掲載しておきます。
お時間がございましたらご覧ください。
新自由主義と教育基本法
新自由主義と教育基本法 その2
新自由主義と教育基本法 その3

科学教育と教育基本法
科学教育と教育基本法 その2
科学教育と教育基本法 その3

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2006.05.23

国民投票法案 国会へ?

ついに与党は国民投票法案を26日に国会に提出する模様。
昨日の西日本新聞のニュースを原文ままで掲載します。(ネットニュースは期間が来ると消えるので)
与党はなぜそんなに急ぐ 国民投票法案
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
自民、公明両党は、憲法改正手続きを定める国民投票法案を、与党だけで月内にも国会に提出する。
当初は、民主党との共同提案を目指して協議を進めていたが、同党が共同提案に応じない方針を決めたため、見切り発車を決断した格好だ。
民主党の共同提案拒否の背景には、与党との「対立軸」を重視する小沢一郎代表の意向がある。
小沢氏は与党案と民主党案の違いを強調し、与党との妥協に否定的見解を示している。与党案に対案をぶつけて独自色をアピールする構えだ。
与党が法案の単独提出という強行策に転じたのは、攻勢を強める「小沢民主党」への対抗策の意味もあるようだ。
だが、このまま数の力で押し切るほど無謀ではあるまい。憲法改正は、国のあり方を左右する重大問題だ。その可否を問う国民投票の手続きには、異論が少ないほうがいいに決まっている。
実際に与党内には、法案提出後も民主党と修正協議を続け、同党の賛同を得た上で成立を図るべきだとの声が強い。
ならば、あえて単独で提出する必要がどこにあるのか。それでも提出するというのなら、早期成立はあきらめて、じっくり問題点を詰め直すべきだろう。
与党案が最終的に、言論界などの批判が強かったメディア規制条項を全面削除したのは評価するが、民主党案と比べると、なおいくつか疑問点が浮かぶ。
例えば、国民投票の対象だ。与党案は憲法改正問題に限っているが、民主党案はそれ以外の重要な国政問題も加えるとしている。
国民投票などの直接民主主義的手法は、個別政策に関する民意を探るには極めて有効だ。乱用すれば議会制民主主義が形骸(けいがい)化する懸念があるにしても、対象を憲法に限る必然性はあるのか。
投票権者の年齢に関しては、与党案が選挙権と同様に20歳以上なのに対し、民主党案は18歳以上としている。将来的な参政権年齢引き下げの是非に絡む問題でもある。今後の世論の動向も参考にもっと議論を深めるべきだ。
さらに、憲法改正成立の要件となる「過半数」の定義でも、与党案は有効投票の過半数、民主党案は投票総数の過半数と、内容を異にしている。
民主党案では無効票も反対票と同じになり、憲法改正へのハードルは与党案より高い。私たちは、憲法改正という重大事には、ある程度厳しい条件を設定すべきだと考える。
過去の与党と民主党の協議では、投票権者総数の過半数の賛成を条件とする案も示された。日弁連は、一定以上の投票率に達しない場合は国民投票を不成立とする規定を設けるよう提言している。
与党には、こうした考え方も黙殺せずに議論を続けるよう求めたい。急がなければならない状況ではないはずだ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
自民党の武部勤幹事長は先週火曜日(16日)午前の記者会見で、改憲のための国民投票法案について「与党として法案を提出するという選択はやむを得ない」と述べました。
自民・公明の与党単独で今国会に提出し、成立をめざす方針を明確にしたのですが、いよいよ国会に提出というスケジュールが本格的になりました。
民主党も同日の役員会で、与党が法案提出に踏み切った場合は「対案」を提出する方針を了承。自公民三党で国会審議を通じて修正合意をめざす動きが浮上している今何故ここまで急ぐという上の新聞の社説の問いかけが迫ってきます。

何故、急ぐ。

ここでも何回も指摘しましたが国民投票法案は中身が十分審議されていない法案です。
西日本新聞の社説を待つまでもなく、問題、疑問山積の法案です。
=======
・国民投票の対象。与党案は憲法改正問題に限っているが、民主党案はそれ以外の重要な国政問題も加えるとしている。
・国民投票などの直接民主主義的手法は、個別政策に関する民意を探るには極めて有効だ。乱用すれば議会制民主主義が形骸(けいがい)化する懸念があるにしても、対象を憲法に限る必然性はあるのか。
・投票権者の年齢に関しては、与党案が選挙権と同様に20歳以上なのに対し、民主党案は18歳以上としている。将来的な参政権年齢引き下げの是非に絡む問題でもある。今後の世論の動向も参考にもっと議論を深めるべきだ。
・憲法改正成立の要件となる「過半数」の定義でも、与党案は有効投票の過半数、民主党案は投票総数の過半数と、内容を異にしている。
・民主党案では無効票も反対票と同じになり、憲法改正へのハードルは与党案より高い。私たちは、憲法改正という重大事には、ある程度厳しい条件を設定すべきだと考える。

またメディアを通して広報活動との関係など色々あるのですが、
何よりも、
なによりも、
ナニヨリモ、
この法案は「日本の未来」に関わる重大な法案であることをきっちりと認識すべきです。

以前の記事を掲載しておきます。

「憲法改正国民投票法案」その1〜4
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
SOS日本国憲法
シビリアンコントロール
宗教
憲法の理念
NPT会議
今日は何の日
国家と憲法
日本国憲法
標榜するもの
原爆60年 オークリッジでは
「戦争と有事法制」という本
自衛隊法改正の中味を見る
笑う者は誰か
日本国憲法 公布

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再修正案なければ共謀罪「採決を」?

再修正案なければ共謀罪「採決を」 杉浦法相というニュースがつい20分前に出ました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
2006年05月23日11時36分
 共謀罪を創設する組織的犯罪処罰法改正案をめぐり、衆院法務委員会での強行採決が河野衆院議長の要請を受けて見送られた問題で、杉浦法相は23日、閣議後の記者会見で「すでに40時間以上審議しており、一つの法案としては破格に長い。採決する機は熟している」と述べた。民主党から再修正案が示されなければ、法務委での法案審議はこれ以上せず、採決に踏み切るべきだとの考えを示した。

 杉浦法相は19日の河野議長の裁定について「できるだけ円滑にという趣旨であり、さらに審議してほしいということではないようだ」と述べた。

 また、「先週末に、民主側から再修正の提案がされるはずだったのに出なかった」と述べ、民主党の対応を促した。
(原文まま)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

まだまだ、まだまだ楽観できません。
まずはニュースのみ。
続報はまた書きますが、しっかし法相も粘りますねぇ。

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2006.05.22

共謀罪法案の採決先送りの実態

喜八さんからのトラックバック記事です。
とても大切なことなので、ここでも早速紹介します。

以下、海渡(かいど)弁護士から、転送です (21日受信分)

共謀罪の行方に関心を寄せるすべての方へ (転送歓迎)

「共謀罪・5月19日に起きた出来事の意味と来週の予測される展開」

                       弁護士 海渡 雄一
・18日法務委員会理事会

 18日午後3時からの法務委員会理事会は休憩を挟んで夕方まで継続された。ここで、与党は19日の委員会採決を提案し、これに対し、野党側は強く反発し、実質的な修正協議に入れなかった。石原伸晃委員長が職権で、19日午前の理事会と同日午後の委員会開会を決定した。

・法務委員会は強行採決モード

 19日午前11時から開催された法務委員会の理事会の場では、修正協議が決裂し、質疑終局・採決という提案がなされていた。そして、この時間帯に自民党の武部幹事長は「審議には終局がなければならない。採決する」と明言した。
 午後1時から委員会が開会された時点では、すくなくとも委員会室の中は強行採決モードとなっていた。
 午後3時に採決なしで審議が終わった時点で、杉浦法務大臣は「何が起こったのかわからない」と首を傾げていたという(朝日 20日)。

・この動きが止まったのはなぜか。

 当初の報道では、河野洋平衆議院議長が河野議長は19日の昼前に自民党の細田博之、民主党の渡部恒三、公明党の東順治の3国対委員長と会談し、「共謀罪は国民の一大関心事となっている。強行採決は好ましくない」として、採決の見送りを求めたこととなっている。

・河野洋平衆議院議長は一体誰の意向で動いたのか。

 衆議院議長が強行採決後に国会が空転しているときに、調整に乗り出すのはよくあることである。しかし、強行採決前にこれを止めると言うのは珍しい。今朝の朝日新聞の報道がこのような異例なことが起きた謎を解き明かしてくれている。小泉首相が細田国対委員長に密かに採決をするなと指示をし、細田氏の斡旋依頼で河野議長は動いたという。「共謀罪成立を強行した首相」と言われることが、「国民の人気」を何よりも気にする小泉氏には耐え難かったと言うことだろう。だとすれば、我々市民の声が、首相までを動かしたといえる。

・来週の考えられる展開

 新聞は、与党が議長を担ぎ出して強行採決を回避した以上、強行採決は不可能となったと見ており、共謀罪の会期内成立は困難となったと書き始めている。そうなれば、本当にすばらしいことである。しかし、最後の大逆転の可能性が浮上してきている。
 与党が、民主党案を丸飲みする可能性があると言うことである。
 民主党案と与党案の間のハードルは高い。
1)対象犯罪を600から300に半減する。
2)犯罪の越境性を要件に盛り込む。
3)密告奨励の自首減免制度を原則として削除する。

 これまで、与党は1)2)は条約の一部を留保しても不可能と説明してきた。そういう意味では、与党がこの民主党案を丸飲みすることはできないと見られてきたし、いまも普通の見方ではそうなるだろう。そうなると、大幅延長がない限り、今国会の会期中の成立は困難で、継続審議にしても成立のメドはないこととなる。この展開では、我々の大勝利となるのだが、そうならない展開も残されている。

 それが、与党側がこれまでの説明を突然反故にして、民主党案を丸飲みするというウルトラCが示される可能性である。そうなると、一気に国会が正常化され、修正案が成立するという事態もありうるのである。
 
・やはり、共謀罪の本質的な危険性を訴えることが大切

 これまで民主党が対案を示して論戦を仕掛けてきたことは、大いに意味のあることであった。対案がなければとっくに採決されていた可能性が高いからである。しかし、昨日平岡議員は私に「国会で審議をすればするほど共謀罪というのは訳がわからなくなる」「こんな制度を持つとされるアメリカやイギリスで実際どんな使われ方をしているのか、人権侵害が起きているのではないか、十分勉強する必要がある。」と語ってくれた。

  本当にその通りだ。アメリカとイギリスはイラクに軍隊を送っている中心だ。小選挙区制度の下で、議会内での思想の多元性が失われている国でもある。戦争に向かう政府を止められないのは、共謀罪的な監視社会の中で表現の自由が抑圧されていることと関連があるのではないのか。どんなに適用対象を限定しても、犯罪の合意だけで人を処罰できるという共謀罪の本質的な問題は解消できない。このことをもう一度訴えていくことが必要だ。

・国連条約の起草過程の民主制の有無を争点化していく必要性がある

 もし、万が一にも与党側が民主党案を丸のみにしてきても、共謀罪に反対する思想と論理を構築する必要がある。そのためには、国連による条約の起草過程にかかわったのが外務、法務、警察官僚の代表だけであり、市民の代表がいなかったということを問題にし、民主的正当性を持っているのかという問題も提起していく必要があるだろう。

・国民世論の大勢は明らかに共謀罪法案の修正可決ではなく、廃案を求めている。

 いま、国民世論の大勢は明らかに共謀罪法案の修正可決ではなく、廃案を求めている。民主党が対案を示して闘ってきたことは反対の声を強める上で役に立ったし、その努力には深く敬意を表するものである。

 しかし、民主党内でも十分討論して、仮に与党側が民主党案を丸のみにしてきても、たとえば、時間を掛けて、アメリカやイギリスの共謀罪の適用の実態を議員の海外調査を実施して徹底した調査をしたり、条約締約国が条約5条の実施のためにどのような制度を創設しているのか、包括的な調査を行うことなどを求め、将来の禍根を残さないような慎重なうえにも慎重な審議を求め続ける姿勢を貫いて欲しい。

***************
〒160-0022
  東京都新宿区新宿1-15-9
      さわだビル5階
      東京共同法律事務所
       TEL 03-3341-3133
       FAX 03-3355-0445
mail:ay1y-kid@asahi-net.or.jp
      弁護士 海渡 雄一
***************

(★引用終了★)


まだまだ目が離せません。
教基法にも注目です!!!

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論理学の勉強

相対主義という考え方があります。
一般的な解釈は、
「主義主張や思想哲学には絶対的 なものはなく、その正しさは時代や地域などによって異なる相対的なものとする考え」というものです。
そして相対主義命題として、
「すべての命題は相対的である。」
となります。
これはクレタ人命題と同じ矛盾を抱えています。
つまり、
「クレタ人はみな嘘つきだ」とクレタ人が言った。
そこから引き出されるパラドックスです。
述べたクレタ人が正直なら、「クレタ人はみな嘘つきだ」は本当になる。
それは、命題と矛盾する。
では件のクレタ人が嘘つきなら「クレタ人はみな嘘つきだ」とは言わない、
と言うことです。
では相対命題ではどうか。
「全ての命題が相対的」を真としたら自らの命題も相対的になります。
偽ならば「ある命題は相対的でない。」つまり相対的でない命題もあるということです。
これはありえます。
つまり偽とした場合、矛盾がない。
ここから導かれる結論は論理構造上、真ではありえないという命題なのです。
この方法でクレタ人命題を見ると同様の結論に達します。
つまり命題の方で考えてます。
「クレタ人は皆嘘つき」は矛盾します。
しかしこの命題を偽とした場合「あるクレタ人は嘘つきでない」となり矛盾しません。
これらは全て形式論理学の世界で事実とは異なります。
ところで相対主義は古代ギリシアからの系譜、歴史があり、その時代じだいの牽引力となったことも事実ですが、今、言われている相対主義は人類普遍の真理探求への道を閉ざす役割もあります。
つまり、真理探求と言っても相対ではないか、、、と言う真理への敗北宣言でしょうか?

さてここで本題。
いつも意見交換している数学屋の秀さんがフェミニズムのうさんくささと言うエントリーを出されて、
私もフェミニズム運動が目指すものはと言う記事でフェミニズム運動へのバッシングの背景にあるものを考えていきたいと思いました。
また、秀さんが管理なさっている「はてな」の方にも、それこそ内容の濃いトラックバックがありました。
私はそのトラックバックや周辺記事、そして秀さんご本人の記事を何度も読みました。
(パソコンでは読めないのでプリントアウトしました)
秀さんご自身の感情は「感」。どなたかの引用は「引」、と印を付けながら秀さんの論理の展開を見失わないようにしようと必死でした。
なにしろ私は論理学は専門ではないので、どんなに頑張っても秀さんの域に今は到達できない。
胸を借りるつもりです。
そして分かったことは、
秀さんが「論理的にフェミニズムを考察しよう」とあくまでも願っている事と、
私を含め多くのトラックバック先の方々が言われているように〜〜秀さんの例が「事実」の一面化への危惧を述べた〜〜という立ち位置の違いだったのかもしれません。
そこで私は秀さんの言われるようにあくまで、あくまで論理的に、
事実は横においてこの問題を考えていこうと無謀にも試みました。
何回も読み、読み、読み、
道に迷わないようにして論理と言う一点のフィルターで漂白しました。
なおここで言う論理とは秀さんご自身が言われているように事実は関係ありません。
実際「論理」と「理論」の違いもここにあります。
論理は事実とは関係なく命題と仮定、結論の関係です。
理論は事実に裏打ちされています。
さてそうして出てきたものは次の二点です。(私の意訳ですが)
「フェミニズムという考え方の暴走性であって、フェミニズムそのものが間違っているという議論ではない。」
「真理は度が過ぎれば誤謬になる。真理と誤謬の弁証法的関係だ」
と、言うことで私も秀さんにならって論理的にこの命題を考えていきます。
「フェミニズムという考え方の暴走性であって、フェミニズムそのものが間違っているという議論ではない。」
これは命題としてはそもそも成り立ちません。
なぜなら一義的でないものは命題ではないから。
そこで一義的にするために、前半だけを考えると
「フェミニズムという考え方の暴走性」という言葉を命題に置き換える事ができます。
「フェミニズムは暴走する」と言うことか?
しかし、これは全称命題ではないことは秀さんの後半が語っています。
「全てのフェミニズムは暴走する」とは出来ないのです。
それは真でない。
しかし、秀さんは「フェミニズムのうさんくささ」と言うタイトルにしました。
特殊命題でもあるにも拘わらず全称命題におきかえたタイトルではないでしょうか。
つまり、このタイトルを命題として考えた場合、
「フェミニズムはうさんくさい」になります。
これは明らかに「偽」であることは先に見ました。

いえね、普通はタイトルは十分感情的・情緒的でいいのですが、秀さんはこの問題をあくまでも、あくまでも論理で処理したいと思われ、主張していたのだから、タイトルも吟味する必要があったのです。
誤解を招いてはいけなかったのではないでしょうか?

さて次の命題。
「真理は度が過ぎれば誤謬になる。真理と誤謬の弁証法的関係だ」
これこそが私が言いたかったことです。
つまりこの考えは総じて相対主義への道を開くものです。
〜〜真理が誤謬になったときもう真理とは呼ばない。
絶対真理は誤謬は含まない。〜〜
さて、秀さんは弁証法と言うが、
弁証法は「両極端は一致する」とは言っていません。
「対立物の統一」とは言っていますが、、、
ここでは真理と誤謬という対立物になります。
そこで弁証法と言うなら、
「真理は誤謬につながるという事を認識して、さらに真理を追求しろ」と言うのが弁証法的な態度ではと思います。
そうでなければ「真理」には到達しない。
それに関しては秀さんも主張なさっています。
秀さんが主張すべきは、
「だからこそフェミニズムは、もっともっと「真理」を探求しろ」と言う事ではないでしょうか?
そして、その時、初めて論理は科学になる。

なお、ここではフェミニズムの一切の事実やフィールド調査、歴史については述べませんでした。
ひらすら秀さんの言われる「論理」についてだけ考えていきました。
私は論理学には通じていないので、師匠にあたるとも思っている秀さんです。
こんな感じで論理的反証になっているでしょうか?
また、論理的にお教え頂けたら幸いです。
とても勉強になります。
宜しくお願いいたします。

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2006.05.21

草の根運動

草の根運動は本当に素晴らしいと思う事しきりのこの頃です。
生活者であるアナタや私が活動の主体で、息づかいが聞えるその運動は、
決して派手ではない。
しかし、生きること、よりよく生きることに根ざした運動は文字通り「草の根」です。
あちこちに種が飛び、地面に根を張り、
風にも嵐にも負けない。
そんな粘り強い「草の根運動」を肌で感じています。
ズバリ
九条の会です。
この会が立ち上がった早々に、私も講演会に顔を出しました。
開演前から長蛇の列。
やっと会場に入れたもの第二会場でビデオで流される映像を観るという盛況。
その後、一人ひとりが地域に帰り、それぞれの場で「会」を作ろうと意気込んでみたものの、
現実にはなかなか人集めが大変でした。
みんな目の前のたちまちの生活には「憲法」を感じない。
そんな状況でした。
しかし、一つ出来、二つ目が生まれ、さらに次に、、、、と、
あちこち、そこかしこで「九条の会」が産声を上げました。
その一つひとつには、ドラマがあるんだと、
今日も愚樵空論の愚樵さんの記事を感動を覚えながら読みました。
ちょっと前からネット界隈でも「草の根メディア」運動が活動をしています。
Under the Sunがハブになって、多くのブログが集まり、それぞれの方の知恵と熱意を見せていただき、周辺にいる私にも大きな力になります。
お玉さんの誠実な呼びかけやとくらさんの「まだ間に会うかもしれない」と八面六臂の活躍は運動への確信になります。
また共謀罪で数多くのブログマスターが連帯されて大きなオオキナ動きを作られているのを見るのは、
まさに「歴史」の証言者である私たち自身を感じ身震いいたします。

以前、ユリウス・フーチクの「嵐は木を鍛える」と言う本について書きました。
2004年1月20日の記事です。
その日、午前三時前、日本の自衛隊先遣隊イラク・サマワ地区に足を踏み入れたのです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「すべての人類よ、警戒を怠るな!」
レジスタンス運動の指導者、チェコのユリウス・フーチクがナチの絞首台の上から民衆に叫んだ言葉です。
フーチクの有名な本は獄中で書かれた「絞首台からのレポート」と、あまり知られてはいませんが「嵐は木を鍛える」という本もあります。
フーチクは著書の中でこのような内容のことを書いています。
「私は風が好きだ、光が好きだ、自然が好きだ。いま、自分は捕らわれの身でこのような物は手には入らない。しかし、光が風が、自然が子孫の物であるために戦う。
私はなにも根性が据わった指導者ではない。
しかし、私を支えてくれている多くの民衆がいることを知っている。
自分のやっていることを信じることができる。
例えば、平和のために次に伝言してくれる老婆、電話をかける若者。
こうした民衆の小さな活動に支えられて私はいま、獄中にいる、、、」
(要約した訳なので正しくは実際に本を読んでくださいね。)

私はこの文に触れた時のことを今でも覚えています。
「私はフーチクにはなれない。捕まって牢屋に入れられたらすぐにゴメンナサイと言って許してもらいそうな根性なし。
でもこんな私でも支える側にはなれる。
ほんの小さな事、戦争の悲惨さ、平和の大切さ、そして光と風と自然を守るために戦った人がいたことを伝えることはできる。」と。

(やじろべえ日記より)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
まさに一粒の麦から、
多くの種が生まれてきたのでしょうか?

歴史を動かすのは名もなき人々の熱い思いである、、、と今更ながら思っています。
草の根運動は、本当にスバラシイ!!!

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PTA活動雑感

とりあえずのluxemburgさんが、少し勇気を--民主主義再論と言う記事と教育基本法--私たちの宝がまたひとつ・・・・と言うエントリーの中でPTAについて書かれています。
PTAかぁ。
PTA活動から離れて久しくなるなぁ〜〜〜なんて懐かしく思いながら読ませていただきました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 地域と、先生たちと、生徒たちに教育を任せてくれたら、今よりはるかにうまくいくんじゃないか、と確信した。これが「国民の教育権」というものか、と実感した。もちろんいきなりパラダイスにはならないだろうし、不都合が出てくることもあるだろう。しかし、学校の職員会議を完全に民主的にし、地域の意見を聞く機会や話し合う機会を設け、それを参考にその学校で教科書を選び、ゆとりの時間はお父さんたちと遊ぶ(結構これは、その会合でも真剣に検討され、実現一歩手前までいった)、ということをやる。子供たちは親たちに、地域に包まれて成長する。
(とりあえずより抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
原点に帰った思いです。
そうなんですね。
そもそものPTAは「かくあるべき」だったのですが、いつの間にか形骸化して、
保護者の方も教師もアリバイ的に行事を済ませる「集まり」になりました。
luxemburgさんが父親学級のイキイキとした様子を紹介下さいました。
そこで私は、私の経験をちょっとだけ書きます。
まず、年度初めの学級懇談会はクラス役員選出と決まっています。
働いている方は当然出席されない。
家にいらっしゃる母親が主には出席。
担任の一通りのクラス紹介と、保護者の自己紹介。
次に役員選出となると、多くの方は下を向く。
なるべく先生と目を会わさないように、、、と。
そのうち、誰かが手を挙げて「どうしても出来ない人はいますか?」と言う。
するとみんなハイハイと手を挙げて「小さな子がいる」「年寄りがいる」と俄然生活の忙しさを主張。
埒が明かないので、ついに籖。
そこで次に、出席者だけか欠席の方も入れるかと言うことになり、一応委任状をとりつけているので、
全員が対象になる。
そしてようやくクラス役員選出。
ならなかった人は安心か、、、と言うとそうではなくて来年、再来年と待っている。
そう、全員がやらなければならないPTA役員。
そうでなければ誰もやらないのです、、、
「PTA不要論」まで出るところもあるそうです。

さて私はと言えば執行部も含め、何回もやりました。
大変でしたが面白かった記憶しかありません。
自分が終わり、次の方を決める時って、大抵「一年はアッと言う間に終わります。やれば面白いですよ」と言います。すると返ってくる反応は「じゃ、あなたもう一年やって、、、」です。

luxemburgさんの記事を見ながら「なぜPTAが嫌われるか」とまた考えてみました。
まず一番は時間的拘束。
次に煩雑な人間関係。
です。
PTAは教師とともに会議をするので、夜開かれることが多いのです。
夜の会議は、主婦にはなかなか出にくいという事があります。
煩雑な人間関係については、私はどこでもお気楽に肩ひじ張らず、そして自分の言いたいこといいながら楽しくやっていました。が、人にはいろいろ価値観や世界観があるので「気」に病む方も多いのかもしれません。また学校って子どもが「人質」のような感じがした時代がありました(今はどうなんでしょう?)従って結局教師の下働きのようなPTA活動で面白くないということも残念ながらあったようです。

「議論と議論が火花を散らし、それに照らされておのずと真理は明らかになる(ベンサム)」
とluxemburgさんの書かれた高邁な会議運営はなかなか難しいのでしょうか?


初心に戻りながら、
本来の「子どもたち」を健やかに育てるという目標のために、
保護者と教師が共に語り、分かり合うことの大切さを考えさせられました。

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2006.05.20

科学と宗教と未来

昨年の7月ディープ・インパクト計画について記事を書きました。
私は人類の新たな挑戦にワクワクしながら期待を込めて書いたのです。
その折、この計画への疑問と警告を発したコメントを頂きました。
それが今でもブログでお付き合いさせていただいている葉子さんです。
葉子さんは継続的にこの計画について注視され、
彗星攻撃に関する資料と言うブログの中で、NASAについても言及なさっています。
自然に対して畏怖を忘れた人類への警告を発し続けている葉子さんは、
地道にじみちにしかしかなり大胆にも活動なさっていて実に頼しい。
先日はダライ・ラマの忠告を書いていらっしゃいました。
「もちろん機械科学は人間に非常に裕福な生活や楽な環境を与えてくれたのですが、それと同時に今言ったような人間の本性が変わってくる。人間性のところから狂ってきます。テクノロジーと科学というものがあれば、人間はなんでもできると思うようになる。われわれが働きかければ自然をどうにでもできるという間違った方向に進んでしまう恐れがあります。」

私は先のエントリー「ラプラスの魔」で科学と未来について書いたのですが、
同時に科学と宗教との不可分な関係についても考えさせられました。
奥の深いこの問題。
これからも多くの方と共に語り合いながら考えていきたいと思ったものです。


追記。
彗星攻撃に関する資料ということで紹介させていただいたブログの葉子さんからコメントを頂きました。
サイトのURLについてです。
http://ip.tosp.co.jp/i.asp?i=ammolite2に変更なさったそうです。
しかし、上のサイトでもガラス絵の展示はされておくそうです。
〜〜〜〜〜
ガラス絵の展示場として残しておくつもりです。家で一人でこういうものを描いているのです。あんまり上手に撮れてないけど、新しい写真をたくさん載せたので、眺めてみてください。

〜〜〜〜〜
とのこと。
本当に素敵なガラス絵の作品が掲載されています!!!
葉子さんらしい、繊細でかつシャープで大柄な作品です。
是非ご覧くださいね。

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ラプラスの魔

愚樵空論の愚樵さんは、[空論]命は尊い?と言うエントリーで、他者の命が大切か否かという問いかけに端を発し、
それは実はフィクションであり他者の命を大切と感じることはできない。しかし考えることはできる。従って理念である。と言う考えから更に「時代の理念」にまで考察を深めていらっしゃいます。
また、FAIRNESSさんは「我々が決める事」というタイトルで自発的に決める事と実は意図的に決めされられている事の偶然と必然について書かれています。
そしてHPO:個人的な意見 ココログ版のひできさんは以前のエントリー「人は変われないのか?」の中で「社会というネットワークの形はノードである人の形に確実に依拠している。そして、現代という常に新しいテクノロジーが生み出されている社会において、これまで学習してきたことを白紙にすることがとても大事なのだろうが、人はなかなか忘れることができない生き物なのだ。」と言われています。
数学屋の秀さんは科学的考察を加えながら、さらに「地獄への道は善意によって敷き詰められている」と言う格言を用いて、人の思いと予想できない結果について語られます。

蘊蓄深い記事(寡聞にして未だ知らないサイト、ネットがあると思うとワクワクします)に遭遇すると、身の内が震えるような思いにかられます。

アシモフはファンデーションシリーズと言う本で「心理歴史学」という学問体系を作ったのだが、
その学問とは、
〜〜ある刺激に対して少数の人間の反応を予測することは難しいが、対象が何億という集団であれば、その反応は、関数によって確率的に計算することができ、結果として未来を予測できる〜〜
というものです。
夢中になって何度でも読みました。

多様な価値観と因果関係が複雑に絡み合っている今、
混迷のこの時期にあって、時々思い出すのがハリ・セルダンその人です。
「あああ、、、ハリ・セルダンは、今の状況を看破していたのかな?
人類が誤らないためにはどうすればいいのか予言してくれるのだろうかなぁ???」なぁんて
先の見えなさに嘆息しながら思っていたりして。

松岡正剛さんは、
ピエール・シモン・ラプラスの『確率の哲学的試論』の書評の中で、
ラプラスの確率としての確からしさについて説明をしています。
〜〜〜〜〜〜〜〜
「われわれは、宇宙の現在の状態はそれに先立つ状態の結果であり、それ以降の状態の原因であると考えなければならない。ある知性が、与えられた時点において、自然を動かしているすべての力と自然を構成しているすべての存在物の各々の状況を知っているとし、さらにこれらを分析する能力をもっているとしたならば、この知性は同一の方程式のもとにすべての不確かなことを取り除くであろう」。
この知性が「ラプラスの魔」にあたる。「ラプラスの魔」がいてくれさえすれば、未来もまた過去と同様にすべからく決定されることになる。
〜〜〜〜〜〜〜
なるほど。
「ラプラスの魔」はまさに「心理歴史学」かぁと思ったりするのですが如何でしょうか?
そして次のように結んでいます。
チョット長くなりますが引用。
〜〜〜〜〜〜〜〜
ラプラスが「完全なる知性」としての魔物を想定したことは、科学技術革命の根本を動かす画期的な拍車を発明したということになる。それはニュートンの時代においてはなお仮想されていた「神」に代わる知的魔物となり、科学と技術の代行神となり、その後はたとえば人工知能という代名詞にすりかわっていったものでもあった。
 しかしながら、このような「ラプラスの魔」の想定から多くの科学や技術が発展してきたということは、現代のシステムを成立させている根本基盤はちょっとした計算ミスで狂ってしまうということでもある。また、地震や津波の初期条件が確定できない以上、むしろ庶民の「恐れ」や「警戒心」のほうが現状の科学技術より重要だということになる。もっと重要なことは、そもそも科学ははたして初期条件の決定から構築されていいものかどうかということなのだ。
 こうしたことを考えていくと、いまだ「ラプラスの魔」の正体はほとんど解明されていないというべきだった。問題は、ライブドアにもフジテレビにも、「世界というシステム」につながるラプラスの魔すら見えなくなってしまったということなのである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
そうか、、、
ライブドアにもフジテレビにも、「世界というシステム」につながるラプラスの魔すら見えなくなってしまったということなのかぁ。
今、ここに在ることの必然や合目的性を考えたとき、
「ラプラスの魔」が実に魅惑的に迫ってきます。
知らないこと、知りたいことの多さに圧倒されそうです。
物理を研究している夫は、いつも私に言います。
「人類はまだまだ知らないことだらけだ。
人類最後の日でも解き明かされていない謎に包まれているかもしれない。
学ぶこと、調べること、謎を解くことで忙しい。
人は、戦争なんてしている暇はない」と。

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2006.05.19

フェミニズム運動が目指すものは

いつも意見を交換しあっている数学屋の秀さんが、
今日のエントリーでもフェミニズムのうさんくささと言う私にとっては、なかなか考えさせられるタイトルの記事を書いていらっしゃいました。
そこで私も、もう一度二年前のフェミニズム運動についてと言う記事を思い出したりしてずっと考え続けていました。

「フェミニズム運動」。
18世紀欧米で活発に論議された近代自由主義思想の申し子として、産声を上げた「フェミニズム運動」。
「女性の自由・平等・人権を求める」ことから端を発し、
その枠内にとどまらず近代自由主義パラダイムそれ自体のもつ構造的矛盾さえ明らかにしていった歴史と実績を持っているフェミニズム運動。
そして近代/反近代の枠を超えたポストモダンと共通の問題意識を持ちながら、
それさえ乗り超えようとしているのだが、、、
しかし現実には、男女に関わらず一人ひとりが体験し、一つひとつの例があまりに違いすぎるため、
未だ体系化出来ない恨みを感じ続けるフェミニズム。

フェミニズム文化批判としてよく言われるのは、
「差別肯定の言説や制度においてよりも、差別を否定したり、他の意味に読み変えうる様な言説・制度の中に根深く潜んでいる」と大越愛子さんはフェミニズム入門で言う。
そして、その時限って言われることは極端な逆差別が例に挙がるのでは、と私は思います。
それについては秀さんが例に挙げられているようなものが主です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「・クラス名簿を男女混合にする。
 ・男女の呼称を「さん」に統一する。
 ・「男女」の名詞を「女男」に変える。
 ・スカートは最も「女らしい」服装なので、制服からスカートを廃止しようとした
 ・女子の体操着のブルマー廃止と同時に、男子の短パンも廃止し、男女兼用のハーフパンツとする。
 ・運動会の競技を男女混合にする。
 ・ロッカーや下駄箱の男女別の禁止。
 ・小学校教科書の記述を「点検」。「男の子はズボンに女の子はスカートに髪かざり」、「おじいさんは反物売り、おばあさんは家で」、「およめに来て・・・・およめに行く」、「小さなお母さんになってお昼を作る」などの表現をジェンダーフリーに反するものとする。
 ・男女別学の公立高校を共学にする。
 ・高校入試の合格者数を、男女同数にするよう要求する。
 ・黒や赤などのランドセルの色を家庭が選択することを禁止し、「女男ともに黄色いランドセル」といった、統一色を要求する。」
(秀さんの記事より)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
これらの主張と平行して「性教育バッシング」も行われていることを見ていく必要があります。
2002年、山谷えりこさんの「思春期のためのラブ&ボディBOOK」攻撃に始まり、
「いきすぎた性教育」と言う言葉が歩き出します。
現実には中学生の性行動調査では中学三年卒業までに約二割が性交経験者という状況の中で、中学生に正しい避妊、病気予防を教えることは必要不可欠です。
それは何も中学生に性体験を薦めることではなくて、
「自分を守る知識」として教えることと「人」として尊厳を教えることです。
この「性教育バッシング」の背景が何かについては、今回の私のテーマではないので次に譲ります。
そして宇野賀津子さん(免疫学、性科学)は、
「更衣室男女同室」「騎馬戦」「身体検査」など言われているようなジェンダーフリー教育攻撃の事実関係を辿っていくと、その出所が、どうもあやしくなると述べています。
いきすぎた男女平等を形づくることで、(私も以前はテレビを観ていて、ビックリしたのです)
が攻撃されているのかを見ることは、その仕掛人の本意が明らかになると思います。
攻撃はフェミニズム運動に対してです。
確かに産声をあげて間がない(とは言え200年かぁ)フェミニズム運動。
未だ黎明期ではと考えます。
私はフェミニズムはたんに女たちのルサンチマンではない、

以前から書き続けています。
女性が差別される現状は、男性にとってもはなはだ息苦しいものであると言うこと。
女性も男性もともに作られた「性」からの開放を目指すために、
フェミニズム運動はますます意気軒昂である必要を感じます。

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共謀罪法案の採決先送り

与党、共謀罪法案の採決先送り 河野議長が要請と言うニュースがでました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
河野洋平衆院議長は19日午後、自民党の細田博之、公明党の東順治の両国会対策委員長らと衆院議長室で会談し、与党が同日に予定していた「共謀罪」創設を盛り込んだ組織的犯罪処罰法改正案の採決を先送りするよう求めた。与党の採決方針に対し民主党が審議拒否を辞さない強い姿勢を示していることを受け、国会の混乱を懸念したためで、与党は議長の要請を受け入れる方針だ。

 河野議長は会談の冒頭、同法案について「国民の一大関心事になっている。私も事態を心配している」と語った。

 与党側は当初、同法案を修正した上で19日中に採決する方針だったが、修正協議を続けてきた民主党が同日午前の臨時役員会で与党の修正案は受け入れず、採決にも反対する方針を決めた。小沢代表は「与党案は極めて弊害が多い。強行採決を与党が図るなら、我々としては強い態度で臨むべきだ」と語った。

 こうした情勢を受け、与党側は善後策を協議。河野議長は自民党国対幹部に「国際条約に関係する法案を政争の具にするのはよくない」として、採決の見送りを求めたという。別の国対幹部は同日午後、国会内で「議長裁定が出る」と述べた。

 与党の修正案では、共謀罪の対象となる「組織的犯罪集団」を「共同の目的が5年以上の懲役・禁固となる罪を実行することにある団体」と定義。民主党の要求に応じる形で団体の定義を狭め、共同修正を求めた。だが、対象の罪が政府案の約620から13減るだけで、民主党側は「該当する罪の数があまりにも大きすぎる」(鳩山由紀夫幹事長)として与党修正案に反対している。
(原文まま)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
今後の動きから目が離せません。
これについては引き続き、見ていきます。

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何故 急ぐ共謀罪。

共謀罪法案、与党が強行採決へ
と、言うニュースがでました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
自民、公明の与党は19日午後の衆院法務委員会で、「共謀罪」創設を盛り込んだ組織的犯罪処罰法改正案を修正したうえで採決する方針を固めた。両党による賛成多数で可決する見通しだ。修正協議を続けてきた民主党は同日午前、臨時役員会を開き、与党の修正案は受け入れず、採決にも反対する方針を最終的に確認する。
(上記ニュースより)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

何故そこまで急ぐ共謀罪。
刑減免より犯罪組織が怖いと言う東京新聞のニュースが良く纏められています。
時間の都合などで、まだご覧になっていない方は是非、読まれてください。
刑事の反対理由が挙げられているのですが、
これはなかなかシンドイ法律であることが更に浮かび上がってきました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 「警察は『あんなに苦労して法案を通したのに、全然、共謀罪の摘発件数が上がらないじゃないか』との非難を恐れて、数字を上げるのに必死になる。そのために、住民団体を犯罪者集団に仕立て上げていくだろう。刑事警察は、プライドにかけて共謀罪を使わないと思うが、公安は別件逮捕に使うだろう」
<デスクメモ> 「ハム(公安)は法律なら軽犯(罪法)から始まって何でも使うから、共謀罪は使い勝手のいい道具になるんじゃないの」。生活安全部畑が長かった元刑事の言だ。問題は道具の使い方だ。ビラ配りで逮捕、長期留置なんて乱暴な摘発も目立つが、“ノルマ”のために逮捕されたらたまらない。まさかねぇ…。
(上記ニュースより)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
と、記事の最後は括られています。
ふっ〜〜〜〜
ため息がでました。
法律のために、新たな犯罪が作られるという、、、ことか???

心を縛る法律をこんなにもヤスヤスと作っていいのだろうか???
政策立案者は、いずれ自分自身がガンジガラメに絡め取られるとは思わないのだろうか?
ゴリゴリに通そうとする議員は、そのうち自らが監視社会の中に放り込まれる不自由さを感じないのだろうか?

心を縛る法律は、縛る者の胸三寸で正義が決められるという。
しかし、縛る者はいつまでも「縛る側」に立っていると楽観しているのだろうか?
縛る側に立つために、ますます国民を欺くのだろうか???

共謀罪は、その体内に悪魔の子を宿している法律です。
私たちは、決して、
共謀罪を世にはばからせてはいけない。

この記事は、とりあえずここまでにして、
続報は後から書きます。

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2006.05.18

分岐点

今、日本は分岐点に立っています。
「戦争か平和か」の二つの道しるべの真ん中に迷いながら足踏みしています。
戦後、日本はナショナリズムを警戒し「国家全般」に対しての根強い不信感がありました。
「再びあやまちはおかしません」という強い反省の思いの前には、復古主義的保守層も、
退却を余儀なくされていました。
そして戦後の国民意識は「企業」への帰属意識に吸収されていったのです。
ナショナリズム不在で日本は大きく経済成長を遂げていきました。
ところが、90年代に新しい転機が訪れました。
背景にはアメリカの冷戦終結と世界市場拡大を目指す「新自由主義」があることは論を待ちません.
ここでも何回も書きました)
(アメリカは自国の新戦略の為に日本に軍事の分担増を露骨に求めてきました.
当初は軍国主義復活を懸念する日本人の意識は未だ根強いため,それを回避する政策として,グローバリズムの論理が展開されました.
つまり[国際貢献][国際責任]です.
しかし,21世紀に入ると,
新自由主義経済と軍事大国化が目に見えて顕著になってきました.
その理由の一つに社会の不安があります。
戦後,日本を支えてきた企業社会は企業経営の変化に伴い[日本型]は崩壊.
後には企業から追われた中高年と若い非正規社員.
また農産物自由化により農村の破壊,大店法廃止により地場産業の衰退等,日本社会を支えていた柱が揺らぎ始めました.
一方,国外の状況は北朝鮮のミサイルに拉致問題,中国の経済成長と軍事力の増大などナショナリズムを煽るに十分な材料がそろい出たと言うことです.
この中で次第にナショナリズムのイデオロギーが戦後社会の個人主義,自由主義の結果であるという批判を主張する説がでてきます.
[私民社会]や[大衆社会][文明病]などの言葉が飛び交い,アメリカ型のグローバリゼーションが批判の矢面に立ちます.
そして日本の伝統と家族や共同体の紐帯再建,公への献身が叫ばれます.
日本の衰退と反「戦後]が結びつけられている点が今の日本型ナショナリズムと言えます.
しかし,現在にあって台頭してきたナショナリズムもその矛盾を抱え込んでいます.
新自由主義改革路線により社会を解体,再編を試みたものの,ナショナリズムの基盤になる中間層が最早,新自由主義により破壊され,担い手がいないと言うこと.
またイデオロギーとしてもグローバル化を目指している経済界,支配層と相容れないなどです.
現に靖国参拝はアメリカ高官からも批判され,経済界からも苦言を呈されています.

ナショナリズム自体も揺れ動き,矛盾を抱えながら一点突破、全面展開を図ろうとしていることが分かります.
では,私たちは何を見るべきか.
それは、日本社会が直面している問題の原因は何かを明らかにすることです。
決して戦後個人主義ではないと言うこと、
新自由主義による日本社会(経済)の破壊であった事をもう一度確認する必要があるのではないでしょうか.
階層間格差,貧困化の真犯人は[新自由主義]である.
と考えます.
昨日の小泉さんと小沢さんの党首討論。
小沢さんは「ホリエモン、オジャマモンを生み出したのは教育」だと言われましたが、
それは違うと私は思います。
彼らは「規制緩和」の申し子です。
さらに、そこから導かれる結論は,決して[憲法改悪]でも[教基法改正]でもありません.
日本が再び戦禍にまみえることのないように,
私たちは分岐点に立って,歩むべき道を間違えることのないようにと強く思いながら、願いながら書いています.
多くの人々と連帯をはかりながら、、、
「分岐点、みんなで通れば怖くない」!!!

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2006.05.17

セクハラ問題

米企業はセクハラに厳格 お茶くみも不愉快と米紙と言うニュースがつい一昨日出ました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
米紙ウォールストリート・ジャーナル(電子版)は15日、北米トヨタ自動車などが被告となったセクハラ(性的嫌がらせ)訴訟を例に、米国の法律・慣習は日本などに比べセクハラに厳格だと指摘した。同紙はまた、女性社員にお茶くみをさせれば、米国人スタッフは不愉快に感じるだろう、とも指摘している。
(上記ニュースより)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
これは勿論北米トヨタ社長が辞任を受けての調査です。
このニュースが出たとき、私も気になり書かなきゃ、書かなきゃ、、、と思いつつ、
終盤国会に追われていました。
そんな矢先、数学屋のメガネの秀さんが「セクハラについて考える」と言うエントリーを出されました。
そこで私もセクハラについて考えることにしようと、昨日からずっと頭の中を駆け巡らせていました。
(昨日は、教基法に国民投票法案、そして共謀罪も同時に頭の中を暴れ回っていて、おかげで今日は頭頂部が痛い。知恵熱かぁ、、、)

セクハラとはセクシャルハラスメント(Sexual harassment)とのことで、日本語で「性的嫌がらせ」という意味で用いられる言葉で、今では市民権を得た言葉です。
これは広義では「差別」とともに評されることの多い言葉でもあります。
およそ女性なら生涯のうち一度ならず何回となく何回となく「おんな」であることを差別、卑下、揶揄するような言葉を浴びせられた経験はあるものと思います。
ひどい場合は、両親からその誕生にあたり投げかけれる言葉だって差別と言えば差別だったこともあるかもしれません。
さて今日は、ここで問題にしていきたいのは「対価型セクハラ」についてです。
職場や学校などにおける立場・同調圧力・階級の上下関係を利用し、下位にある者に対する性的な言動や行為を行う(強要する)ことです。
北米トヨタ事件はこれにあたります。
この事件は今後どのような展開を見せていくか気になるところです。
対価型セクハラの特徴は力による性の強要であることは見逃させません。
言わば「性暴力」です。
性暴力を話題、問題にするのはなかなか困難な作業です。
「差別」と言う概念を伴う場合もありますが「性的自由、快楽、表現の自由」と一体化する場合もあります。
キャサリン・マッキノンによれば、
「主として男性による支配と女性による服従は、セックスの快楽を経験するための決定的な記号となる。
性差別は性的に楽しめる、少なくとも不平等に楽しめる政治的な不平等である。この取り決めを作だし、それを維持する恐怖の一形態として機能するのが性暴力である。、、、、この取り決めは持続する限り、いかなる全体主義の不滅性をも保証するだろう」と、かなり厳しく告発しています。
性の問題が太陽の下で快活に伸びやかにあからさまに語られるた太古の時代は今はもう遠い。
ひたすら淫靡で、ひたすら悩しい問題にすりかわる事で、
女性からの告発が退けられてきた歴史があります。
つまり、「男性支配の権力」と「性の不平等」が女性をして社会に目を向けさせる事より、
自己への撞着を導かせることで性支配を自然に受け入れていくような社会構造が作られてきた、というのがキャサリン・マッキノンの説です。
とかく性被害は加害者よりも被害者への世間の目は冷たく、被害者は泣き寝入りという実態がありました。

そう言う意味からも、
セクハラ問題を単に個人の問題に帰着することなく、
今日的な社会問題として考えるようになった事は、とても大きな意味があると思います。
それはいずれ男性にとっても肩の荷が下り、晴れ晴れとした時代の到来でもあると考えるのですが如何でしょうか?
女性の性は「第二の性」として作られたものであるとした時代は、もう錯誤であると女性自身が
語る未来を想定しながら、この動きを今後も見ていきたいと思っています。

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何度でも教基法改正反対を

教育基本法改正案 衆院本会議でいよいよ審議入り。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
首相は「我が国と郷土を愛する(態度を養う)」とした「愛国心」をめぐる表現について「児童・生徒の内心に立ち入って強制する趣旨ではなく、内心の自由を侵害するものではない」と、教育現場で強制しないことを強調し改正に理解を求めた。
 政府案は、教育の目標で「我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」と規定している。自民党内で保守色の強い議員を中心に「『態度』ではなく『心』を明記すべきだ」との批判が出ているのを踏まえ、民主党の鳩山由紀夫幹事長が「なぜ愛する『心』としなかったのか」と追及。首相は「我が国を愛し、その発展を願い、それに寄与する態度は、心と一体として養われる」と説明した。
 また、宗教教育について政府案が「宗教に関する一般的な教養」の尊重を盛り込んだことを、社民党の保坂展人氏が「過去の国家神道を復活させる意図では」と追及したが、首相は「主要宗教の歴史や特色などの教養を尊重することを規定したものだ」と否定した。
 与党は、19日に首相らが出席して衆院の「教育基本法に関する特別委員会」を開き、実質審議入りを目指すが、国会会期(6月18日)内の成立は困難な情勢で、会期延長をにらみながら与野党の綱引きが激化しそうだ。
(上記ニュースより)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
小泉さんが何を言ってその場を誤魔化そうと、
教基法改正の本質は、ズバリ
「戦争する国づくり」
です。
 
私はこのブログで何回も何回も、何回もしつこく書きましたが、
密室協議でその全容が明らかにされないままの審議入りという事実は何を意味しているのでしょう。
問題点や法案提出の根拠が何一つ明示されていません。
法案は、
新たに「教育の目標」を定め、「国を愛する態度」など20もの「徳目」が書き込まれました。
20もの徳目で縛られる子どもたち。
国民は共謀罪で700近い項目で縛られる。
とにかく国民全てが縛られます。
国に。

小泉さんは大好きな「内心の自由」を楯にとります。
「内心に立ち入って強制しようとする趣旨ではなく内心の自由を侵害しない」と。
この場合、小泉さんの右手はご自分を守る「内心の自由」と言う楯が、
左手には、国民を縛る法律がワンサカ、ワンサカと握られています。
ねぇ、、、小泉さん。

昨年の2005年は自民党にとって結成50周年と言う事でいきあがりました。
自民党は教育基本法と憲法をなんとかしようと、、、それは長い間の夢であったのですが、
その夢の実現に向けて本格的に動き出したのがこの2005年です。
それには、モチロンアメリカの後押しと容認があったことは言うまでもありません。

1999年 「周辺事態法」と「日の丸君が代」法制化。
2001年 「テロ対策特措法」と「教育改正3法案」

我が国の自衛隊は世界第二位の軍事力を持っています。
日本の技術は今はまだ先進だから高い。
技術、法体制と整えていきながら、
あとは「戦争」の最前線に赴く兵隊さんづくりです。
教育が国によって叫ばれるときは、いつでもきな臭い。
何故なら教育こそが「人」の最後の砦であることを知っているからです。
教育は人を作ります。
人は政治を司り、経済を動かし国の行く先を決めます。
つまり、
何を成すにも「人」なのです。
それゆえ、
権力は教育を掌中に収めることをすっと、ずっと望んでいます。
教育が権力によって蹂躙されるとき、
そこには破壊しかない。
と私は思います。

教育を守ることは、人を守ることです!!!
断じて時計を逆戻りさせてはいけないと願いながら、
この記事を書いています。

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改正入管法

改正入管法が成立へ 入国外国人の指紋採取と言うことで、
今日にも参議院本会議で与党などの賛成多数で可決、成立する模様です。
“テロの水際対策”と言うことが名目です。
日本に入国する外国人に指紋などの生体情報提供を一律に義務付ける出入国管理・難民認定法「改正」案です。
これだけを見れば何も問題はありません。
しかし、ここには隠された「人権侵害」があるのです。
 
法案の中身は以下のとおりです。

(1)外国人(十六歳未満と戦前から在住する特別永住者は除く)が入国、再入国するさい、指紋や顔写真の情報提供を義務付ける
(2)収集した情報をデータベース化し保管する
(3)法相が「テロリスト」と認定した者の国外退去を可能にする—が主な柱です。

年間に入国する外国人は約700万人。
まずは外国人全てをすべてを犯罪者扱いして、指紋、顔写真を強制的に提供させるというのです。
そして、この指紋、顔写真は、1万4000件の国際指名手配情報、過去の強制退去者70万人分の資料と照合(因みに、照合の精度は低く、約1割で誤認が起こることが政府の実証実験で明らかになっている)。
指紋、顔写真をとられることは、心情的にも気持ちよいものではありませんが、
その指紋、顔写真で「国際指名手配情報」と照合。
しかも精度はよくないと言う。
仮に冤罪で捕まったら、言葉は通じない外国でのこと。
これは、国際的に見てかなり問題のある法律です。
実際、、国際自由権規約七条が定める「品位を傷つける取り扱いの禁止」にも反する過剰な対応と指摘されています。

かつて日本には、外国人登録法による指紋押捺(おうなつ)制度がありました。しかし、在日外国人や人権団体の粘り強い訴えが通り、2000年に完全に廃止されたという歴史があります。
この時、
最高裁も「国家機関が正当な理由もなく指紋の押捺を強制することは、同(憲法一三)条の趣旨に反して許されず、また、右の自由の保障は我が国に在留する外国人にも等しく及ぶ」という明確な判断を示しました。
杉浦正健法相は「テロがなければこのような法制の必要はまったく無い」という答弁を繰り返すだけ。
「テロ」と名がつけばなにをやってもいいのか?
と思います。
テロがなければこのような法制は必要ない、と言うが、この様な法制があってもテロは起きるかもしれない。
テロを無くすと言うために本当にすべきことは、何か?
それは「人を疑う」ことからではありません。
何故、世界からテロが絶えないのか、、、根本的な問題を見ずして、目先の法案で「縛る」ことは、
いずれ、自らに返ってくるものと思います。
このままでは日本は国際社会の中で本当に孤立してしまうのではないだろうか???

なにやら心配です。

なお、今回の改正入管法についてはある国際人権派の雑食系ブログのまことさんの記事が詳しいです。

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2006.05.16

終盤国会

与党、国民投票法案提出へ 民主は独自案提出の方針と言うニュース。
教育基本法、16日から審議 民主党案に与党動揺と言うニュース。
そして共謀罪。

終盤国会はなにやら慌ただしく、そしてきな臭い。
どれを見ても、将来に禍根を残すものばかり。
その危険性については次第に人の知るところとなり、
少しづつ連帯の輪は広がり、
あちこちで「反対声明」が上がり始めています。

私は2年前、モルガンの人間のしるしについて以下のように書いています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ナチスの占領下にあって、
パリで非合法の文学新聞「フランス文学」を発行しつづけた
クロード・モルガンの本「人間のしるし」。
この本は
彼がドイツの収容所で捕虜となった1941年から、
その体験をつづった手記です。
モルガンはこの中で、
人間に対しての深い洞察を加えながら、
「人間というものは、愛すべきものである、、、」
と淡々と、しかも熱く
書き綴っています。
フランス・レジスタンスの特徴の一つは、
ファシズムに対しての抵抗も
もちろんですが、「文化のため、文学のため、小説のため、詩
のため」に多くの知識人が結集したというところです。
まさに「言論の自由」を求めて生命さえかけたのです。
モルガンは自らの体験を通して
「戦争とは人間の尊厳を奪うものである」
と言っています。
本来は自由で闊達で、
楽天的で陽気な人間たちをして、
その尊厳を奪い、
貶めていく「戦争」というもの本質をズバリ書いています。
訳者の石川湧さんは後書きで次のように書かれています。
「ユマニテ共通の敵ナチ主義の亡霊が、
衣装を着替えて再現する気配のただならぬ今、
モルガンの果たす役割はますます大きいものがあるばかりでなく、
われわれの日本においても、
かれらの態度に学ぶべきところがすくなくはあるまい。」と。
この文を書いたのはなんと1951年、今から50年以上前のことです。

だが、しかし、
いま、私たちがむきあっている現実はさらに深刻で深い。
2004年の世界にはいろんな亡霊が跳梁跋扈している。
ある時はやさしく、みみもとで囁き、
またある時はむき出しにした欲望を振り回して、
「戦争」という亡霊が私たち人間の尊厳を少しづつ蝕んでいる、、、

そんな気がしてなりません。
(二年前の記事より)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
そして同じ日、仁義なき国会が幕開けと言うタイトルで今では誰も言わなくなった「年金未納問題」について書いています。
仁義なき国会かぁ、、、
ならば、2006年の終盤国会は、なんとしよう?
とりあえず のluxemburgさんは「シロアリ国家」とこの国を言う。
ならば、国会は「積み木国会」かぁ、、、
こうして過去の記事を見ると、この二年間で、日本は深刻な事態がヒタヒタと押し寄せてきていることを感じます。
積み木のように積まれ、いつガタガタになってもおかしくない国会の一部がきな臭く燃えている。
そして
国はシロアリに蝕ばまれ始めている、、、


今、本当に大きな声を出す時期がやってきました。

今です。
声を出すのは!!!

私は日本を愛している。
豊かな瑞穂のこの国を。
そして未来に続く者たちを!!!

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2006.05.15

葵祭

今日、夫と葵祭を見てきました。
夫が仕事をしている間、私は大学の生協の本屋さんでブラリ、ブラリと本を見ていました。
一杯、読みたい本があったのですが、結局立ち読みしていたのは「呼吸法」の本。
この頃、書店へ行くと一番先に「健康コーナー」に行く癖がついている。
そうこうするうちに、お昼。
夫と待ち合わせて、
百万遍から今出川通りを歩いて下鴨神社まで行くと、もう沢山の人が待っていました。
人の間をくぐり抜け、くぐりぬけて、神社の参道の隅で待つこと20分。
ようやく、第一陣がパトカー先導でやって来る頃は、おなかもすいてクタクタ。
前の人の合間から、葵をつけ、それぞれの衣装をまとった行列が通りすぎていくのが見えます。
注目の牛車もゆっくり、ゆっくりと目の前を通り過ぎました。
牛が可愛い。
その歴史は古く古墳時代に遡るそうです。
本当は行列だけでなく前儀として行われる「流鏑馬」なども見るともっと迫力があるのでしょう。

行列は無事、下鴨神社まで行き、午後は2時過ぎに上賀茂神社に向かいます。
私たちは、午前の行列だけ見ました。
お昼を食べようと、近所を探したのですが、どこも一杯。
探しながら、さがしながら、
足を棒にして、結局百万遍まで行きました。
ここも葵祭の観光客でいっぱい。
普段は学生の町に、ガイドブックを持った団体客が溢れていました。
こりゃ、生協の食堂かと思っていたのですが、なんとかお店を見つけてお昼を食べることができました。

京都では「祭り」と言えば葵祭。
枕草子や源氏物語、徒然草にも、その心踊る様が描かれている風流な祭り。

の、はずですが、
私は祭りそのものより、お昼の食べるところ探しの方が記憶に新鮮で面白かったのです。
無粋なことだ、、、我ながら。

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代表決定

日本代表が発表されました。
サプライズ、ありましたねぇ〜〜〜
律儀(?)なジーコさんゆえシード席優先かと思ったのですが。
久保が落ちて、巻が選ばれました。
会場は発表と同時にどよめきました。
私も一瞬、我が耳を疑って、
「えっ?????」
久保を聞き落としたっけと思いましたが、
残念ながら久保は選ばれませんでした。
尤も、体調が今イチだったから、「もしや」とは思っていたのですが、、、
と、言う事で4年前ほど残念ではありません。
それよりヒサちゃん。
残念です。
巻が選ばれたから、一緒に選んで欲しかったなぁ、、、ジーコさん。
佐藤は小柄だから体格のいい外国人選手の中で、久保と巻を考えての判断なのでしょうか???
個人的には佐藤〜〜巻のペアが見たかった。
かくなるうえは、玉田選手。
頑張ってください!!!

広島関連で言えば駒野選手が選ばれて、嬉しく思っています。
いずれにしても、
いずれにしても、
W杯はすぐそこに。

これからワクワク、ドキドキの眠れぬ(十分寝ていますが)夜が続きそうです。
ニッポン、チャチャチャ

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2006.05.14

サプライズはあるか?

明日はいよいよW杯の代表が決定される日。
誰が選ばれるのだろうか???
ジーコさんの胸の内は、もう決まっているのだろうが、、、
果たしてサプライズはあるか?


4年前のW杯を思い出します。
あの時、広島ファンの私は久保竜彦が選ばれなくて、
残念で残念で残念で、、、、、
仕方がありませんでした。
今回は久保は選ばれるだろうか?


そして一番興味あるのは、そりゃ、
佐藤寿人。
選ばれるだろうか???
ジーコさんはサプライズするだろうか。
少なくとも昨日のスコットランド戦の使われ方を見た限りでは、
少々キツイかな、、、と思うのですが。
(個人的には、佐藤ー巻の若手ピチピチラインが頼しいと思うのですがね、、、)
それにしても、昨日の試合。
何と言っていいのか、、、
ちょっと厳しいものがありますね。
ジーコさん。
ううううう〜〜〜〜〜んんん
でした。

まぁ、いずれにしても明日発表。
誰が選ばれても日本代表。
力いっぱいプレーしてください。
応援しています!!!

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2006.05.13

医療の沙汰も金次第

このところ「命の重み」について考えてきました。
移植医療や延命治療。
脳死に尊厳死。
考えるほどに命の尊さを思います。
♪生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ今あることの不思議〜〜

でしょうか。
さてさてそんな中、我らが小泉さん。
最後の最後まで、やってくれそうです、、、
今度は「医療制度改革」法案。

的はズバリ、高齢者と混合医療。
高齢者の窓口負担の引き上げについて、政府・与党の説明は
「現役並みの所得のある高齢者には現役並みの三割の自己負担を」と言うことです。
しかし、よく考えてください。
何故これまで高齢者の窓口負担が現役世代と比べて軽減していたか。
それは現役並みの所得があるかどうかではなく、高齢者が病気にかかりやすく、治りにくいという理由からです。
とにかく、ある日突然、からだの不調がやってきます。
私の場合は「更○期」と言うあんまり有り難くない言葉でやってきました。
めまい、息切れ、動悸、、、
肩こり、しびれ、、、、
ホットフラッシュ。
とにかくいろんなものが次々とやってくるのです。
家族は「更○期」」だからと一つも心配してくれない。
そこが、また悔しい。
そこでいかにも自分を重病人扱いするように医者通いをしていた私。
「センセイ、ここと、ここと、ここが悪いのですが、、、」
と、歯医者にまで全ての症状を説明する私。
もっと若い頃はちょっとした体の不調でも気にならないくらい気持が元気でした。
しかし、ある時点から、やたら「体調」が気になり出すのです。
それは、「普通」のことで、誰でもが経験することです。
つまり、歳をとると体は衰え医者にかようのは当たり前ということです。
人間はロボットではないのだから(ロボットも摩耗するか?)
もっと年齢を重ねると更に病気になるのは目に見えています。
今は笑い事で済んでいる「重病人」の私も、自然の摂理としてあちこちが病んで来ると思います。
その時、支えになるのは公的医療の充実です。

ところが小泉内閣。
このまま医療費が増大すれば医療保険制度が破たんするといって脅かしています。
しかし、
日本の医療費はGDP(国内総生産)比で7・9%です。
これは先進国30カ国中17位です。
今でさえ充実した医療制度を国民に開放しているとは誇れない貧しい医療状況。
その上、医療費抑制のための「混合診療」導入を図ろうとしています。
「国民皆保険制度が実質的に崩れることになる」という懸念が医療スタッフからも出ています。
保険による診療と保険がきかない診療を併用する「混合診療」は、
これまで「高度先進医療」や「差額ベッド」など、「特定療養費」制度として例外的に扱われてきました。
今回の法案では、これを「保険外併用療養費」につくりかえ、「必ずしも高度でない先進医療」や、欧米諸国で承認されていても日本では承認されていない「国内未承認薬」、「(保険による)制限回数を超える診療行為」にまで拡大する内容となっています。
小泉さんは、「全部保険でみるといったらどれだけのお金がかかるのか」と述べ、
“必要な医療はすべて保険でおこなう”という公的保険の原則を崩そうとも企てています。
つまり「医療の沙汰も金次第」です。

この法案が通れば、
日本はいずれ高齢者は減り、
高齢者が減ることは働き盛りに今まで以上に負担が強いられていくものと思います。
本当に、この国はどうなるのでしょうか?

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教基法 特別委員会

教育基本法を審議する特別委員会の設置が11日の衆院本会議で自民、公明両党の賛成多数で議決されました。
野党は反対しました。
衆院教育基本法に関する特別委員会は45人で構成され、委員長には自民党の森山真弓元文相が就任し、森喜朗、町村信孝(自民)、保利耕輔(無所属)各議員などの文相経験者らが所属します。

ここでも何回も書いたように、その中身は明らかにされていない教基法改正問題。
「密室協議」です。
しかし、与党は協議会などで71回も議論したと強調しているのですが、
私たちに知らされていないまま協議され、その上、国会審議、採決と言うのはあまりに乱暴です。
しかも国会会期は6月18日まで残り1カ月余り。
そもそも教育基本法の内容が明らかになったのは、先月のこと、
そして政府法案が明らかになったのは閣議決定の4月28日です。
衆院文部科学委員会で審議せずに特別委員会を今回設置したことで、
いよいよ今国会成立を図ろうということです。
特別委員会なら定例日にかかわりなく連日でも審議ができるというメリットがあります。
未だ、世論として盛り上がっていないこの時期に速攻で採決しようというのでしょうか?
何回何回何回も書きましたが、
教育は「国の未来」に関わる大きな問題です。
速攻で通過させるようなことではありません。
しっかり、ゆっくり、丁寧に国民の中討論、議論することが大切です。
中身も教育への政治介入というとんでもない代物ですが、
なによりも姑息なこのやり方にまずは「反対」です。

教基法についてはかなり拘って書いています。
その一部ですが以下に掲載しておきます。
お時間がございましたらご覧ください。
新自由主義と教育基本法
新自由主義と教育基本法 その2
新自由主義と教育基本法 その3

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2006.05.12

いよいよ華やぐいのちなりけり

年々にわがかなしみ深くして
いよいよ華やぐいのちなりけり(岡本かの子)

岡本かの子の駆け抜けた人生を思えば,
「年々にわがかなしみ深くして 」という表現は、
私がこれから話題にしようと考えているテーマからはずれているような気がします。
さらに、「いよいよ華やぐいのちなりけり」に至っては、
180度回転しているのではないかとさえ思うのですが、
しかし、今日の話題、「老いること」「死に逝くこと」の初めに書きたいと思い、さらには題名にもしました。

年を経ることは、人としての経験を積み重ね、
その多くは悲しいことや辛いことの思い出であります。
また、「老いた我が身」には初夏の木漏れ日さえ徒に物哀しい。
そんな「年々」を越えるごとに、
その悲しみさえ、やがて美しく艶やかに、香りたかく華やいでくる、スキップしたくなるような「命」の弾みを感じるところに歌人かの子の豊かでしなやかで、そして激しい感性を感じます。
普通は「老い」への積極的な讃歌として捉えられていますが、
私は逆説としての「寂しさ」を感ぜずにはおれません。

「老いること」は確かに辛い。
ここでも何回も書いていますが、体の節々が故障して、毎月あちこち医者通い。
引っ越しが多くて、いつも新しい環境で一から始める私にとっては、
唯一の友人であり心の支えは夫です。
しかし、夫は仕事で忙しくて帰りが遅い。
以前は子どもを通して出来た友達も、今は大きくなった我が子は地域の学校へは行っていない。
友達がいない。
誰もいない。
ふと気がつくと毎日、体のことばかり気にしている。
あっちが痛い。ここがきしめいている、、、と。
老いを通り越して「死」ばかりを考えていた時があります。
「あああ、、、癌だろうか。死ぬのだろうか?
死ぬときは痛いのか????」と。
そんな私にも新しい土地でやがて一人、二人、、、と友人が出来ました。
友人と話をしているうちに、
「あれ、、、私、どこも痛くない」と気がつきました。
もちろん、積ねた年齢分の「痛み」はあるのです。
が、その痛みを気にしない自分がそこにいました。
痛みは痛みとして、感じることが出来たとき、
良寛の言葉が実に心に染みわたりました。
〜〜〜災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。 是はこれ災難を逃がるる妙法にて候〜〜〜

実際、良寛はその死の間際まで病の床で苦しみのたうち回りました。
「言(こと)に出て言えばやすけし瀉(くだ)り腹 まことその身はいや耐えがたし」と。
まことその身はいや耐えがたしだったのでしょう。
死に臨み達観などする必要はない。
喘ぎ、うめきのたうちまわればいいんだ。
そして受け入れていく、、、ということでしょうか。

脳死、尊厳死。
今、この問題を考えながら先輩たちの死生観をちょっと覗いてみました。
そして思ったことは、
それが延命であろうと尊厳死であろうといずれにしても、
誰かがそばにいてくれたら、それは幸せなのか、と言うことです。
苦しむ私のそばにあなたがいてくれたらいい。
(夫は、その”あなた”を私にと言います。私も同様なので、これはどちらが先か、、、ですね。)
たとえ医療スタッフであってもソバにいてくれたらいい。
仮に誰もいない事態だったら、
同伴者である「私」とともに、、、
ということでしょうか。

「死」を考えることは辛い。
しかし死を考えるときこそ「華やぐいのち」を知ることが出来るという事でしょうか?
なかなかに奥は深い。
この問題、これからも考えていきたいと思います。
以前は、ニーチェの「永劫回帰」について書きましたが、次は「ツァラトゥストラ 」を書こうと、またぞろ本棚を漁って昔読んだ本を探しています。

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2006.05.11

移植医療

晴耕雨読の早雲さんからトラックバックを頂きました。
タイトルは「死ぬ権利、死なす権利、死ぬ義務」。
重いテーマです。
早速、拝見。
読んだ後、さらに重みがド===ンと伝わってきました。
話題は「脳死」を中心とした移植医療。さらに問題の核心は立法へと広がります。
脳死が「人の死か否か」論争は臓器移植の問題と不可分です。
医学的見地、法律の見解、そして宗教、哲学、倫理、道徳とあらゆる観点から考えられ、討論されているこの問題。
実に難しい問題です。
それぞれの立場での賛成、反対の意見があるものと思われます。
「助かる命を助ける」ために医学は人類に貢献してきました。
普遍妥当な法律を作るために法曹界では「死の基準」を考えてきました。
そして宗教家は、「生きることと死ぬこと」について説いてきました。
どの意見、主張もみな「そうだな〜〜〜」と思ってしまう私なのです。
が、
が、
移植医療と聞くと涙が出てくるのです。

この冬、夫の先輩が亡くなりました。
生体肝移植というテーマで昨年の11月に記事を書きました。
先輩は奥様の肝臓を移植なさり、手術は成功しました。
奥様も術後は順調に回復。
先輩も徐々に回復ということを聞いていたのです。
しかし、今年に入って「院内感染」をしたのです。
大病院ゆえそこで生き残る菌はかなり強力らしく、結局先輩は帰らぬ人になりました。
最期のさいごまで「生きるために」戦い抜いた方でした。
さて、この話。
実は、これから少々不思議な話をします。
亡くなった当日のこと。
夫は夕方、ふと先輩を思い出して、病院へ見舞いに行こうと思ったそうです。本当に「ふと」。
そして病院へ行ったら「集中治療室にいる」と看護士さんに言われ、帰ろうとしたのですが、
それでも、ふと「やっぱり行ってみよう」と思い、集中治療棟へいきました。
そこで出てこられた看護士さんが「連絡がいったのですか?」と言ったそうです。
「?」と不思議な顔をすると看護士さんが「先ほど亡くなられました」と言われたそうです。
奥様は最期をみとっていたのですが、その他のご家族はまだみえていません。

私は夫からその話を聞いて、先輩の奥様への感謝というか深い思いを感じました。
家族が来るまで心細いだろうから、しばらく傍にいてくれ、、、と言う先輩からのメッセージだと私は思いました。

死後の世界や魂のことは私にはわかりません。
また仏教は「分からないことは考えるな」と教えます。
つまり考えても分からないことは、いずれ執着になるということです。
私も死後のことは考えていません。
また魂のことも分かりません。
しかし、
今は亡き先輩の冥福を祈りながらも、いつもこの時の夫の経験を思い出すのです。
人は死ぬ瞬間まで「思い」を発するものである。
それは強烈な生への願望であったり、
豊かな思いであったり、、、
とにかく「生きてきた証」を残しながら自分の生を閉じていくものと思います。
それがたとえ「意識不明」の状態であっても。
なにしろ先輩は2〜3日前から意識は不明だったそうです。
意識不明とは外からの観察で、本当は深いふかいところでは「覚醒」しているものと思います。
この経験は私に以下のことを教えてくれたようです。
亡くなった方へはひたすら感謝を。
生きている私たちにはひたすら優しさを。
そんな人間関係を育んでいけ。
と。

早雲さんのテーマ。
これからも考えていきたいと思っています。
今後、医療がどの様に発達するとしても、「人の強烈な思い」に対しては
真摯であらねばならないものと考えます。

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2006.05.10

体感治安

体感治安が悪くなってきているのは現実です。
実際、テレビをつければ、ニュースは毎日が「殺人事件」。
どこかで、誰かが殺されている、、、
そんな不安な世の中になったのか、とため息の一つ、二つ、三つと出てきます。

今朝、朝の番組でみのさんが珍しく共謀罪を取り上げていました。
昨日の参考人質疑の模様をパラッと紹介。
そして、最後の締めは以下の内容でした。
「連日、我々は凶悪な事件を報道している。
本当に日本では安全に生活できなくなった気がする。
昔は壁に耳あり、障子に目あり、だったが、今はトナリハナニヲスルヒトゾになっている。
それではいけない。」
と、言うことでした。
それを補完するように岸井さん。
「本当に、そうです。
はやく国際的基準を作り、国内に関してはそれからでも、、、」

????????
私は首をかしげたまま、しばらくは元に戻りません。
まず、みのさん。
お仕事柄、凶悪事件報道の連日で確かに「日本は治安が悪くなった」と思われているかもしれませんが、実は「犯罪白書」によれば近年犯罪、しかも殺人などは減っていることは、本当は御存知なのだと思います、少なくとも岸井さんは知っているはずでしょう?
あなたの輝しい論説委員としての履歴をしてすれば。

「安全神話崩壊のパラドックス—治安の法社会学 」によれば、
〜〜“近年、凶悪犯罪が急増し、日本の治安は急激に悪化している”と、多くの日本人が思い込んでいる。実際、刑法犯の認知件数は戦後の最多記録を7年連続で更新している。
一方、警察による検挙率はここ数年低下が著しい(平成15年度版『犯罪白書』による)。
しかし、これは「統計のトリック」による見かけ上のものにすぎず、日本の治安は悪化していない。
統計資料の徹底分析から、
「最近五年での認知件数の急増は、実は統計の取り方の変化などが原因で実数の急増ではない」こと、検挙率の急落も、余罪追及を減らしたことなどによる見かけ上のものにすぎないのだ。〜〜
と言うのです。
これは平成15年版の白書でしたが、17年版も実は同じことが言えます。

では何故?
何故、国民を不安に陥れるような統計分析を流布するのでしょうか?
この疑問に対して、著者は、
かつての日本社会では、夜間の外出、危険な場所への外出を控えれば、基本的に安全だった。
しかし、一般人が深夜も気軽に出歩く生活が定着し、危険な場所などなくなったいま、犯罪が起きる非日常世界と起きない日常世界の「境界」は崩壊し、「至る所、いつでも、薄く広く危険がある」状況が生まれた。それが不安につながっているのだと……。
言います。
つまり一般市民の私たちの生活の場の拡大が「犯罪」に出くわす確立を高くしている、あるいは不安が高まっているというのです。
そう言えば、渋谷の女子高校生監禁と言う事件が何年前かに起きたとき、低年齢の子どもたちの歓楽街遊びと言うことがマスコミで随分とり上がられました。
著者は、結論として、
「安全神話崩壊」後の日本社会と司法制度のあるべき姿について、真摯な考察を重ねていく。治安維持を警察にのみ頼るのではなく、かつての地域社会が豊かにもっていた“住民を守る力”の再生こそが肝要、と言うのです。
つまり、このところ書いている「刑事立法」強化の路線ではなく、地域社会の健全な底力の発揮こそが大切と言うことです。
そう言う意味ではみのさんの「お互いが知り合い」と言うことは必要なのですが、
そこから「共謀罪」を無批判に誘導していくような方法は私には首肯できません。

また、岸井さんの主張。
うううう====んん。
本当にあなたは「論説委員」?
この発言に関しては後日書きます。

いずれにしても、
私たちは作られた「体感治安」をそのまま信じてはいけない、ということでしょうか。
マスコミによる不安扇情が、共謀罪の道を開くことへの懸念を感じた朝の番組でした。

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宇宙基本法

肉眼彗星となる73P/シュワスマン・ワハマン彗星に注目と言うことで、いよいよ今週金曜日、5月12日。
シュワスマン・ワハマン彗星がやって来ます!!
夏の大三角の中にすっぽりとはまる位置で観測できるとのこと。
楽しみです。
是非、ご覧ください。

さてさて、そんな宇宙への思いを寄せ、
ロマンを羽ばたかせるのは素敵なのです。
が、
が、
宇宙が軍事利用されるのでは?と言う懸念が出ています。
情報収集衛星の事です。2003年3月28日にH-IIAロケット第5号機で最初の2機が同時に打ち上げられました。
今後の予定は、
光学衛星(IGS-1Bと同型機)2006年7月H-IIAロケットにて打ち上げ予定
レーダー衛星(IGS-1Aと同型機)2007年1~2月H-IIAロケットにて打ち上げ予定
次期光学衛星 2009年打ち上げ予定
次期レーダー衛星 2011年打ち上げ予定
とのこと。

宇宙の謎に挑み、
宇宙を解明していくことは、人類が遠くとおく祖先に遡った時期からの願望でした。
夜空の星を仰ぎながら、
遠い涯になにがあるか?
そのまた彼方に待っているものは何か?
想像と夢は膨らみます。

したがって、宇宙開発、それ自体は問題がありません。
では、何が問題?
情報収集衛星は情報を公開していないことが、問題なのです。 
衛星の軌道や解像度は極秘。
公表しなければ意味のない防災目的の衛星写真でさえ非公開です。
秘密保全は重要度の順に「機密」「極秘」「秘」に分けて管理。
秘密を漏らせば懲役をふくむ罰則があります。

さらに予算の問題があります。
情報衛星関係予算はこれまでに約5000億円。
しかも使途の細目は国会議員にさえ非公開です。
打ち上げで完了するわけではなく、衛星の寿命に対応した衛星の開発や打ち上げ費用が毎年数百億円にもなります。

そして、遂に「宇宙基本法」(仮称)を議員立法で成立させようという動きが出てきています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
中間報告では、これまで重点が置かれてきた研究開発だけでなく、宇宙を利用して外交、防衛など広い意味での安全保障を実現するために、宇宙開発を国家戦略として位置づけるべきだとした。また、宇宙技術を使って紛争を監視し、未然に防ぐためにも防衛庁も含めた宇宙開発を議論できる場が必要で、平和利用原則の解釈を見直すことが急務だと強調している。
(上記ニュースより)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「平和利用」という文言はなく、
「外交防衛、国家戦略」など、きな臭い言葉で彩られている中間報告。

このままいけば、宇宙はもはや戦闘地域になるのかもしれません。
「スターウォーズ」なんて映画だけで十分です。
連休明けの国会の動きが気になります。

 

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2006.05.09

廃案へ

共謀罪で参考人質疑
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
犯罪を実行していなくても、事前の話し合いに参加しただけで処罰可能な「共謀罪」新設について、衆院法務委員会は九日午前、参考人質疑を行った。
参考人として招かれた三人のうち、中央大法学部の藤本哲也教授は「組織犯罪は共謀の段階で処罰するのが世界標準」と賛成の立場で断言。一方、ジャーナリストの櫻井よしこさんは、個人情報保護法の拡大解釈による混乱を例に挙げ「安易に導入したらどこまで拡大するのか、この会場にいる誰も責任を持てない」と警告した。
同罪新設をめぐっては与野党の攻防が大詰めを迎えており、今週中にも強行採決される可能性もある。
最初に意見陳述に立った藤本教授は、同罪が国際組織犯罪防止条約締結に必要な国内法であることを強調。「世界が組織犯罪に立ち向かうための共通の枠組みをつくろうと努力している中、早急に法整備を終え、条約締結をしなければわが国の国際的威信にかかわる」と述べた。
次に反対の立場から連合の高橋均副事務局長が発言。交渉に応じない社長の家に押しかけることなどの相談も罪に問われる可能性を指摘した上で「普通の団体には適用されないというが、それは一体だれが認定するのか。捜査当局の恣意(しい)的判断が優先される恐れがある」と話した。
最後に意見陳述した櫻井さんは、卒業生名簿が作れないなどの混乱が起きている個人情報保護法について「どう考えても行き過ぎじゃないかという今の事態は、法を作るときに想像していなかった」と指摘。
質疑の中でも櫻井さんは「(同じ法律を施行しても)他の国では起きえないことが日本では起きる。こうですよと決めると、ダーッと走る癖がこの国にはある」と話した。その理由について「官僚が情報を与えず、よらしむべきとしてきたなれ合い体質が残っているからだ」と続けた。
(上記ニュース原文まま)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
いよいよ行われた参考人質疑。
賛成側の中央大法学部の藤本哲也教授は「組織犯罪は共謀の段階で処罰するのが世界標準」と断言されたそうです。

?????
仮に藤本教授の説の一歩譲って組織犯罪を事前に予測するための法案としても、
その中身が619もの犯罪を共謀段階で取り締まるとなっているが、
それに対して教授はどの様に言われるのだろうか???
全てを「共謀予測」と言うことで取り締り対象にするのだろうか?

自由法曹団のホームページでは、
「共謀罪が成立すると、相互監視社会になる」と警告を発しています。
既に盗聴法、有事法制(国民保護法制)、住基ネット、生活安全条例、監視カメラなど生活のあらゆるところで私たちは監視されています。
確かにそれは「安心」「便利」というプラスもあるかもしれません。
しかし、そのプラスの面が新しい犯罪を切り開くことだってあります。
例えば監視カメラがあれば、犯罪は監視カメラのないところで大胆に行われる。
例えば盗聴法。
知り得た情報が逆に犯罪を招いたこともある、、、
つまり、
つまり、
法律や罰則がどんなに強固になっても「犯罪」は起きるときは起きる。
今国会で採決、通過を狙っている共謀罪は、
上の法律以上に怖い。
何が怖いと言えば、「私たち自身が法案の中身を619全てに渡り把握していない」ことです。
知らされていないことです。
実際、今日の参考人質疑の模様もテレビ中継もなければワイドショーでも取り上げない。
殆どの国民が知らされていない、、、ということが実に怖い。
その事実自体が法案の中身を如実に物語っていると私は思います。
未だ行われない犯罪のために、新しい犯罪を喚起するような現共謀罪の中身には到底納得することはできません。

自民・公明の「修正」案は、
(1)取り締まる団体は「その共同の目的がこれらの罪を実行することにある団体である場合に限る」
(2)「共謀に係る犯罪の実行に資する行為が行われた場合において」はじめて処罰する。
と言う内容で審議を図ろうとしています。
共謀罪の対象を犯罪組織に限った、といいますが、
団体の「共同の目的」が正当かどうかは、誰が判断するのでしょう?
正当とは何を基準にするのでしょう?
そこが明らかにされてはいません。
と言うことは捜査当局の判断と言うことでしょうか?
また、
「共謀罪」で処罰するさい、共謀だけでなく「犯罪の実行に資する行為」を要件にしたというのもまったくのごまかしです。犯罪の実行に「資する行為」とはどう言うことでしょうか?
これも捜査当局の恣意的判断に委ねるものです。
昨日、私は刑事立法という記事を書きました。
そこでも書きましたが、
警察・国家権力が力を拡大することは、いずれ市民を拘束する力になりうるとこを見て行く必要があります。
罪刑法定 主義の祖として知られるチェーザレ・ベッカリーアは「犯罪と刑罰」の中で、
処罰より教育、美徳の重視こそが求めるべきものであることを述べています。

いずれにしても、
いずれにしても、
この共謀罪。
再び、三度「廃案」への道を進んでもらいたいものです。
廃案しかありえません。

なお、以前の関連記事です。
またまた共謀罪
共謀罪

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2006.05.08

刑事立法

数学屋の秀さんが国家権力の暴走に対する「恐れ」の感覚というエントリーを上げられました。
この間、秀さんは「死刑廃止か否か」と言う問題を実に多彩に色々な角度から切り取られています。
私も同じ記事を、何回も読ませていただきました。
さて、その中でも今日の記事はまさに私の思うところと同じでありました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
民主主義にも欠陥はあるし、平和と繁栄を求めるのも難しい。しかし、それは今のところ、他のどの道よりも健全な方向を向いているのではないかと思う。他にもっといいものが見つかるまでは、この方向を向いて努力するしかないのではないだろうか。だからこそ、今のところは死刑廃止が正しいと思うし、国家に対する「恐れ」の感覚を鋭く持ちたいと思うものだ。
(上記ブログより抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

今、時代は「立法動乱の時代」を迎えています。
1945年、天皇制治安立法廃止。
1947年、不敬罪、姦通罪廃止。地方分権的警察法制定。
1948年、現行刑事訴訟法制定。

その後、90年代に至まで、刑事立法の大がかりな動きはありませんでした。
しかし、90年代に入ると、激震が法曹界にも走っているということです。
1999年、通信傍受法。
2000年、少年法改正。
2004年、裁判員制。
そして今、問題になっている共謀罪。

一連の動きの中で、犯罪が凶悪かつ増大したという理由が一番大きいものでありました。
被害者の状況は極めて悲惨で、同情に値するもであることは言うまでもありません。
犯罪者への憎しみは人として当然の感情であります。
これ自体にはなんら問題はありません。
また、犯罪により乱された秩序を取り戻すべく、犯罪者への刑罰を必要とすることも当然です。
しかし、刑罰が重くなり厳しくなるということが、即犯罪を無くすことには繋がらない現実の前に、
人は動揺します。
そして、次第に徐々に刑事立法化が一つ、二つと増えてくるという一方の現実があります。
いつの間にか、処罰や警察への権限拡大について鈍感とも言えるような状態が作り出されたのかもしれません。
権力の濫用・弊害への警鐘があまりになされなかったのでしょうか。
市民の安全を守るために信託した権力は、決して市民を侵害してはなりません。
自由・独立・平等の理性人として本来あるべき権力の担い手となり、
市民生活を自らの手で守ることこそが近代民主主義が標榜してやまない「国家と市民との関係」だと思います。
刑罰は重くなるほど一方に権力が集中するという事実に対して、
私たちは必要性と危険性、双方を視野に入れて考える事の大切さを改めて思いました。
この問題、さらに考えていきたいものです。

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お知らせ

ブログ仲間のとほほさんからトラックバックを頂きました。
内容は以下のとおりです。
〜〜〜〜〜〜〜〜
「南京への道」・史実を守る会(以下、守る会)では、このほど南京事件の加害側証言として幕府山捕虜大量虐殺に関する貴重な証言を行った栗原利一氏の当時の戦闘記録やスケッチなどのマイクロフィル化およびCD化を記念し発表会を兼ねた【歴史問題ネットワーカーと反小泉・護憲運動ブロガーの集い。】を「南京への道、朝日文庫」の著者本多勝一氏を交えて行います。

守る会は、日中戦争史に関する大変重要な情報と資料を収集し発信し続けてきたジャーナリスト本多勝一氏が、百人斬り競争と称する南京大虐殺の際に行われた事件を、その著書「南京への道」の中で日本社会に紹介し衝撃を与えたことはご周知のとおりですが、それをあろう事か南京虐殺をなかったことにしようとする右派勢力の卑猥な攻撃にあい名誉既存で訴えられたのを機に支援組織として発足した会です。
http://jijitu.com/

今回新たに発表される資料も「南京への道」で紹介された証言を裏付けるものとして公開を支援します。
(抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「南京」問題。
つい先頃の歴史ながら、未だに双方の決着をみていない歴史問題。
私もとても興味あるテーマです。
個人的には参加したいと思いつつ、時間的、物理的には今回は無理です。
東京近辺にお住まいの方、あるいは遠方でも可能な方は是非、参加下さい。
討論を深める中で、新しい発見があるものと思います。
その折は是非、私にもお教え頂けたら嬉しく思います。

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アメリカ経済の進むべき道

1980年代 アメリカ経済は行き詰まっていました。
70年代のスタグフレーションがますます深刻になり、世に言う「双子の赤字」です。
この問題解決に対してアメリカはサプライサイドの市場メカニズムを重視。
その理論は供給力を強化することで経済成長を達成できるというもので、この後「強いアメリカ」、いわゆるレーガノミックスと言われる一連の政策です。
つまり「新自由主義」に基づく経済政策です。

アメリカが再生するためには貿易に勝ち、海外に市場を求めていくことです。
その目的のためにアメリカは各国の経済改革と国際経済体制再編を優位に進めようと今まで以上に積極的に関与していきます。
二国間交渉、多国間交渉というお馴染みの言葉です。
経済自由化とグローバル化。
アメリカに富が集中するために4つの政策を柱におきます。
1アメリカが優位になる特許制。
これによりアメリカ企業に知的所有権の独占が保障される。
2輸出拡大政策
貿易の自由化と投資の自由化をセットにして貿易相手国の市場開放を要求。
3金融制度の自由化と金融市場のグローバル化。
国際通貨のドルの地位を強化。
4軍事技術の開発。
その技術的蓄積を民間に開放、また民間の先端技術を軍事目的で利用。

こうしてアメリカン・グロバリゼーションは1995年の世界貿易機関WTOを発足させる成果を生み、国際的にも大きな権限を集めることになりました。
WTOについてはその前身のGATTとともにいずれ考察していきたいと思いますが、
今回は紹介にとどまります。
90年代の飛躍的な成長発展は「ニュー・エコノミー」と呼ばれた好景気を長期にわたり実現させるなど一定の評価を得たのも事実でした。
しかし、この繁栄の裏には巨額の貿易赤字があり、その状況は年々深刻化しています。
そして、何よりも大きな問題はアメリカン・グロバリゼーションに対する批判が世界中で広まっていると言う現実です。
昨日閉会を迎えた欧州社会フォーラムでも「新自由主義反対」のスローガンの下に10万人が主催地のアテネでデモ行進をしたというニュースを今朝、見ました。
さて、順風満帆に見えた経済も行き詰まりを見せる中、アメリカが次にでたのは「政治」でした。
それは勿論「ネオコン」と称される新保守主義の考え方を持つ勢力の台頭です。
圧倒的な軍事力を背景に、経済的な新自由主義と政治的な介入主義の結合により、
アメリカは今や「帝国主義」と言っても過言ではない道へと歩み始めています。
ついてくる者と反抗する者、
敵か味方か、
アメリカはもはや世界を自分中心の見方で二分化しつつあります。
「修正」的方向を画策する穏健派も国内にはいるのですが、
残念ながら2001年の9/11はブッシュ政権を更に「帝国主義」化する方向へと導きました。

アメリカは今、混迷しています。
イラク戦争の事態の収拾。
アメリカ経済の脆弱。
グロバリゼーションの弱体化。
アメリカの金融不安。
これらの問題を抱えたまま、更にその突破を図るために80年代に行ったような政策は、もはや意味をなしません。
アメリカが生き残る道は、
自国の繁栄だけを突き進むことではなく、国際社会の中で、強調、宥和、対話路線を推し進めていくことしか選択の道はないと、私は思います。

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2006.05.07

新自由主義と教育基本法 その3

その2より続く

教育基本法前文をもう一度見てみましょう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
戦後教育の原点がここにあります。
戦前の国家主義と軍国主義を克服して、平和で文化的な国家や社会を形成するための第一歩として教育の力、役割が高らかに謳われています。
教育は全ての人々のものであること、、、
これは今では当たり前のようですが、当時では画期的なことであり、
またすべての人に公平に開放されていない現状が進みつつあることは先に見ました。
新自由主義は不公平、二極化を作りながら、その矛盾を教育現場に押しつけ、
「子ども・若者バッシング」を煽り、改革のエネルギーとしています。
では、現実にはどの様な進みで動いているか見てみましょう。

・臨教審(1984年〜87年)
臨時教育審議会は,
(1)21世紀に向けての教育の基本的な在り方,
(2)生涯学習の組織化・体系化と学歴社会の弊害の是正,
(3)高等教育の高度化・個性化,
(4)初等中等教育の充実・多様化,
(5)教員の資質向上,
(6)国際化への対応,
(7)情報化への対応,
(8)教育行財政の見直し,以上8つの主要課題を掲げて調査審議を行い、
その最終答申において今次教育改革の基本的な考え方として,
「個性重視」,「生涯学習体系への移行」,「国際化・情報化など変化への対応」の3つの原則を示したのです。
この臨教審以降、教育政策が大きく変わりはじめたのです。
まず、教育政策の基調が従来の保守主義から新保守主義に変わったことであると言われています。
一般に「新保守主義は、ナショナリズム、経済自由主義、技術オプティミズムの三者を武器とする現状変革の試みとして要約できる」とされています。
そして臨教審における教育の自由化路線が推進されました。

さらに臨教審を受けて、その後教育界は益々「教育」からかけ離れたになりました。
・第14・15期中央教育審議会
「新しい学力観」導入(1991年)
・第16期中央教育審議会(1998年)
・教育改革国民会議(2000年)
・「21世紀教育新生プラン」(2001年)
などがその後登場してきます。
勿論財界との関係が深いことは言うまでもありません。
・1995年の経済同友会から出された「公教育スリム化論」
などがあります。
90年代教育改革は露骨に「人材」「労働能力」と言う市場原理を教育に組み込みました。
次第に私たち自身が教育権、生存権を買い求める社会原理に巻き込まれる生活を余儀なくされてきていることに、
今の「危険なリアリティー」があると言われています。
昨年の12月のOECDによる学習到達度調査で日本の子どもたちの学力低下が問題になりました。
本来、学校で学ぶことは子どもたちにとって未知との遭遇、知る喜びに満ち溢れているものだったはずが、次第に子どもたちの興味は「点数、偏差値」に振り回されるようになり、勉強嫌いにさせられました。
この原因は文科省自らの改革の結果であるにも拘わらず、
責任は「勉強しない子ども」にあるとして、更に子どもバッシングを強めました。
そしてその解決策として「教基法」見直しをせまるというやり方が今の新自由主義の論理です。
とかく「愛国心」で問題を語られる教基法ですが、
ここでも何回も述べましたが、
教基法改正は新自由主義の憲法改正と共に総仕上げであることをしっかり見ていく必要があります。
この問題、これからも見ていきたいと思っています。

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新自由主義と教育基本法 その2

子どもたちにとって自分の将来や人生にイメージを持ちにくい時代になっています。
社会的問題でもあり、ごく私的な個人の問題でもあるこの現状を考えるにあたり、
今日は「教育」の果たした役割という面から見ていきます。
(この4月13日に書いた新自由主義と教育基本法をさらに深めて書きました。)

1960年代、教育の大衆化が始まりました。
戦争、戦後体験を持たず、「高度成長期」に学齢期を過した世代にとっていわゆる「学歴」信奉こそが幸せ路線であると考えるに至ったことはなんら不思議ではありません。
その世代はやがて親になり次世代が学校に行く90年代は「バブル崩壊」の時と重なります。
階層秩序の再編下は子育て、教育を直撃しました。
それまでは「学校での競争に勝つことが、その後の人生の序列」を決定するということが当たり前に受け止められ、勉強は目的ではなく手段でした。
しかし、バブル崩壊は日本型の雇用形態を覆しました。
終身雇用は崩れ新規学卒一括採用の方式は少なくなり、「一応大学は出たけれど、、、」
就職はない、という若者が溢れるようになりました。
この背景には世界的なメガ・コンペティション(大競争)があります。
国として生き残るために企業は国際競争に勝ち抜く必要がある。
そのためには「日本型雇用」の解体、取替可能な「労働力」を求め、
「自由化」と『自己責任」を基調に新しい競争システムが理論イデオロギーとして採用されました。
「新自由主義」です。
学校教育でも積極的にこの思想は取り入れられました。
公教育削減、競争に参加できる能力と金力のある者だけに与えられた「勝ち組枠」。
単純な学歴志向は減少しました。が相対的に更に激しい競争時代の到来でもありました。
一般には学力の二極化と言われます。
ひたすら学力信奉する側とそうでない側との矛盾をはらみながら社会は
「いじめ」「不登校」「犯罪の低年齢化」と種々の問題を抱えていきます。
的確に指導する力を持たないまま予防的に「少年法」の改正などを試みましたが、効果が期待できるハズもありませんでした。
そもそも教育を商品の一つのように扱ってきた新自由主義の論理こそが問題であるにも拘わらず、目先の罰則を重くすることは、なんの解決にもなりません。
社会それ自体も「劣悪な教育環境への疑問と極端な二極化への警鐘」を鳴らし始めている今、新自由主義論者は時代の流れに逆行するがごとく教育基本法を書き換えようとしています。

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2006.05.06

後半42分

後半42分。
駒野が入れました!!!
ゴ====ル。
サンフレッチェ広島、やった!!!!!
やったよ。
勝ったよ。
1−0で福岡に勝ちました。
第11節、12節と連勝した広島は勝ち点10として、15位で中断を迎えました。

前節の大宮戦もハラハラで観ていましたが、
今日の福岡は、凄い雨の中の死闘。
観ている方は、ハラハラ、ドキドキの胸の高なりを通り越して、
ひたすら時間が過ぎることを待っていました。
それも、そのはず、
ガチガチにガチガチに守って、守って、守っての試合。
雨の日に似つかわしい「泥臭い」試合でした。
前半は福岡に攻められ、
後半も可成の時間は攻められました。
が、
が、
ひたすら辛抱の広島に勝利の女神が微笑んでくれたのは後半42分。
FKのチャンス。
広島の選手はGK以外全員がボールの周りに集まり、気合いを入れます。
誰が蹴る?
浩司はもういない。
ベット?駒野?
ベットがやる気まんまんのポーズで、走る。
あっ、ベットが蹴るのかと思いきや、ボールを超えて、
その隙に駒野が強烈なシュート。
低く、低くボールは唸りながらGKの横を通り抜けて、ゴ〜〜〜〜〜ル。
広島、先制。
その後、1点を守り勝ちました。
本当に良かった!
良かった。
この後、ナビスコもありますが、チーム一丸になって、頑張ってください。
応援しています。

なお、今日土砂降りの中、スタジアムに足を運ばれた両チームのサポーター、ファンの皆さん。
お疲れさまでした。

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立夏

今日は立夏。
太陽黄経が45度のときで(時刻:00:31 )これから立秋までが暦の上では「夏」です。
青葉、若葉のこの季節。
色艶やかに花達が粧います。
〜〜たんぽゝの黄が目に残り障子に黄 高濱虚子〜〜
春の若く初々しい佐保姫と分かれを告げ、
いよいよ季節は夏の女神、美しい筒姫の季節です。
夏というにはまだ肌寒い日があったり、春を惜しみながらも夏の走りを感じながら自然を愛でる時でもあります。
一年中で一番しのぎやすい初夏。
蛙が鳴き始める頃でもあります。
〜〜雨戸立てゝ遠くなりたる蛙かな 高濱虚子〜〜

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2006.05.04

出かけますので、、、

昨日は憲法記念日と言うことで各地で催しがありました。
近年、憲法改正の声が高まる中、
全国で「憲法を守ろう」の輪が広がっていくのはうれしい限りです。
私の住む地域でもあちこちで「9条の会」が立ち上がりました。
参加者、集う人の思いは一つ。
「戦争する国づくり ノー」
です。

憲法改正がすぐには戦争に繋がらない、と言う方がいます。
「押しつけ憲法論」も今では学者間では廃れましたが、
それに変わり「制度疲労」と「自主憲法論」を理論の核として憲法改正の動きを高めようとしています。

この一つひとつに考察を加えていきたいのですが、
今日はこれから出掛けるので、
今度時間が出来ましたら
「戦後日本資本主義」や「脱戦後」について書きたいと思っています。
コメント、トラックバック頂いている方、
帰ってきてからお返事します。

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2006.05.03

憲法記念日

今日5月3日は「憲法記念日」。
高邁な精神を高く謳い上げた憲法。
公布60周年、59回目の誕生日。
ハッピバースディ!!!日本国憲法!!!
ようこそ、生まれてきたね、、、という喜びで一杯です。
もう一度「ハッピバースディ!!!日本国憲法!!!」
さてさて、こんな憲法を変えようと言う動きがかつてなく大きくうねっている今、
もう一度、憲法を繙いてみませんか!
そして前文を噛みしめてみませんか!
憲法が生まれた歴史を改めて学んでみませんか!

何故、「5月3日」が施行開始日であったか?
それは
そのちょうど1年前の1946年5月3日に、日本の戦争犯罪を裁く東京裁判が始まったことに因んでいます。
つまり「5月3日」を忘れるな、ということです。
東京裁判を忘れるな!
では、何を忘れてはならなくて、何を教訓とすべきか?
と、問われたら、答えはまさに「日本国憲法」にあることは言うまでもありません。
憲法前文では如何に書いてあるか。
「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」としています。
そして私たちが決して譲ってはならない憲法九条。
「国権の発動としての戦争を一切拒否し、武力は持たず、交戦権は認めないこと」を明言しています。す。
戦争をくぐり抜けてきた私たちの先輩たちの知恵の結晶なのです。
戦争を知らない世代の私たちには到底計り知れない貴重な経験と深い思慮に裏打ちされた現日本国憲法。
私たちの誇りです!!!

今、何やらきな臭い動きが蠢動しています。
しかし、憲法改革と唱える真の狙いはアメリカの要求に応えるためであることは論を待ちません。
ここでも何回も書きましたが、
アーミテージ前米国務副長官は「地球規模の役割を果たすために憲法九条を変えよ」と求めた事は既に知るところです。
ジェームズ・アワー元米国防総省日本部長は、「米軍再編」に関連して「現在の日本政府の集団的自衛権に関する政策を変えざるをえない。合意を履行できないとなると、日米安保は危機を迎える」と脅しています。
そして実質的に動き出しているのが「米軍再編」です。
独立国とは認めがたい米軍基地の強化。
他国ではあり得ません、こんなことは。
さらにアメリカが狙う先制攻撃の戦争を、米軍と一体になって自衛隊が担うというのです。
「9条が邪魔で仕方がない」アメリカと共に、何故日本国民までがアメリカのために憲法を破壊しようとするのか、、、
「私は不思議でたまりません」
9条が果たした役割の大きさを、もう一度、もう一度、
もう一度、
しっかりと見てい来たいと思います。
9条こそが日本を守っていたのです!!!

 
なお、以前に書いた記事ですが、
日本国憲法では、
憲法について
1、近代民主主義の歴史と、法治国家
2,そもそも憲法とは何か
3,現憲法制定の歴史
4,討論、議論のあゆみ
5,今、世界の情勢は。
6,憲法を変えるとどのようになるか
と言う視点で論点整理を試みてあります。

さらに、
国家と憲法では憲法24条を中心に書いてありますので、お時間がありましたらご覧ください。

これからも憲法に拘り、書き綴って行く予定です。

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2006.05.02

在日米軍再編合意

野党、国会で負担追及へ・在日米軍再編合意と言うニュース。
今更驚かないとは言え、
即生活に跳ね返ってくる重みを考えたら言わずには、書かずにはおれない。
さてさて、何から、どこから書こうか、、、
まずはズバリ3000000000000円負担。
日米両政府の外務・軍事担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス2)よると、
在日米軍再編の最終報告=「再編実施のための日米のロードマップ」(行程表)が決定され、再編計画の完了は2014年を目標と言うこと。
「これらの案の実施における施設整備に要する建設費その他の費用は、明示されない限り日本国政府が負担する」と明記。
いいですか、
もう一度おさらい。
「これらの案の実施における施設整備に要する建設費その他の費用は、明示されない限り日本国政府が負担する」
その額、三兆円。
一方、米側の負担は、相模総合補給廠への戦闘指揮訓練センターの建設など、ごくごく一部。
このお金、どこから捻出するの?
もちろん、私たちの税金、サイフからです。
今朝の報道番組を見ていて、驚いたことに評論家(?)のお一人が次のように言われた。
「長い間、沖縄に負担をかけていたのだから、
米軍が出て行くために、国民がこれくらい(一人当たり2万5千円ぐらい)負担するのは当然だ」と。
私はビックリしました。
大写しになったこの方の顔をマジマジと見ましたよ。
この方は先のイラク戦争の折には「フセインは大量破壊兵器を持っているからイラク攻撃は正しい。
アメリカはすぐに片をつける」と言われました。
その後、長引く戦争には一切語られませんでした。
フセインが大量破壊兵器を持っていないことが分かったときも何も言われませんでした。
評論家とは自分の言葉に責任を持たない人種なのか、、、と疑わせるには十分な履歴をお持ちの方です。
まぁ、それはともかく私は秘かに彼を「御用評論家」と称しているのですが、
彼の言い分、二重の意味で矛盾に満ちています。
数学屋の秀さんを見習って論理的に書きたいとは思っているのですが)
まず、「米軍は沖縄県民にとって負担であった」ことを認めています。
では聞きたい。
基地があることは住民にとって負担であるなら、何故、全ての基地を撤去しようとは言わないのか???

現実には、「再編実施のための日米のロードマップ」では以下のことが明記。
========
沖縄県では、キャンプ・シュワブ(名護市)沿岸部への海兵隊新基地建設など機能強化が進められる一方、嘉手納基地以南の六基地「返還」はいずれも、(1)グアム移転とシュワブ新基地建設の完了(2)県内移転—という条件付き。

岩国基地(山口県)については、厚木基地(神奈川県)の米艦載機部隊に加え、沖縄の空中給油機部隊の移転が明記。

キャンプ座間(神奈川県)には、米陸軍新司令部の創設と陸自中央即応集団司令部の移転が明記され、大幅な機能強化が計画。

在日米軍再編の主な実施計画

2006年 (夏まで) 空自車力基地にXバンドレーダー配備
    沖縄のキャンプ・ハンセンでの陸自の訓練が可能に
  07年 (4月以降) 嘉手納、三沢、岩国の米軍戦闘機の訓練を千歳、三沢、百里、小松、築城、新田原各自衛隊基地に本格移転
  08年 (9月まで) キャンプ座間に米陸軍新司令部を創設
    相模総合補給廠に戦闘指揮訓練センターを建設
    (9月まで) 横田空域の一部返還
  09年 (7月ごろ) 米空母艦載機の離着陸訓練の恒久施設を選定
  11年 (3月まで) 空自航空総隊司令部を横田基地に移転
  13年 (3月まで) 陸自中央即応集団司令部をキャンプ座間に移転
  14年 沖縄の海兵隊をグアムに移転
    沖縄のキャンプ・シュワブ沿岸部の新基地建設を完了
    厚木基地の米空母艦載機部隊の岩国基地移転を完了
===========
彼(件の評論家)はこれらの負担にはどの様に理屈(?)をつけるのだろうか、、、

次にグアム移転の本質は、
何も沖縄県民の負担を軽減することではないことは、ここでも何回も書きました。
アメリカの都合で、移転するだけです。
別に恩に着せられる筋合いはない。
沖縄の方々のこれまでの苦しみを逆手にとって、
「お前らのために移ってやる」はないでしょう??? も○もとさん。
私が最も「愚劣」と評価する手法で米軍再編成に手を貸そうとするこの評論家には辟易しながらテレビを見ていました。

さてさて、それは向こうにおいといて、
今回の報告でもう一つ見逃せないことは、「日本」もいよいよアメリカと共に世界に殴り込みをかけたということです。

日本が果たす具体的役割は以下のとおり。
司令部機能の統合として、キャンプ座間に米陸軍の新戦闘司令部を創設。
陸上自衛隊の海外派兵の計画・訓練・指揮を一元的に実施する中央即応集団司令部を13年3月までに設置。
在日米軍司令部や在日米空軍司令部のある横田基地(東京都)には、航空自衛隊の戦闘部隊を統括する航空総隊司令部を11年3月までに移転。
「共同統合作戦センター(運用調整所)」を設置し、日米両軍の統合運用を進める。

嘉手納(沖縄県)、岩国、三沢(青森県)の各基地に配備されている米軍機の訓練を日本本土の空自基地に07年4月から本格移転。
共同訓練のための空自による嘉手納基地の使用なども、日米両軍の一体化を推し進める。

この国はいずれ「アメリカの州」になるのだろうか???
日本のため、
アメリカに守ってもらっている、と言う方がいらっしゃる。
また、コメンテーターからもその様な発言を聞く。
しかし、
本当にアメリカは日本を守ってくれるだろうか?
そもそも一体どこから守ってくれるのだろう???

この問題、将来にかかわる大きな問題ゆえ、今後の動きをしっかり見ていく必要があります。

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時代はバイオマスかぁ

ここ近年叫ばれている温暖化、環境破壊。
その原因の一つが石炭、石油などの化石エネルギーです。
また注目されている原子力エネルギーも数々の問題が山積。
放射能汚染が心配されている青森県六ケ所村では先日も、使用済み核燃料再処理工場でプルトニウムなどの放射性物質を含む水約40リットルが建屋内に漏れたと言う発表がありました。
いよいよ時代はバイオマスか、、、と思います。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
化石資源ではない、現生生物体構成物質起源の産業資源をバイオマスと呼ぶ。国が定めたバイオマス・ニッポン総合戦略では「再生可能な、生物由来の有機性資源で化石資源を除いたもの」と定義されている。

1990年代以降、バイオマスは二酸化炭素削減(地球温暖化対策)、循環型社会の構築などの取り組みを通じて脚光を浴びている。世界的に見ればスウェーデンが木質バイオマスの利用に熱心に取り組んでおり、日本の地方自治体や環境保護団体などに注目されている。そもそも高度成長期以前の日本では、落葉や糞尿を肥料として利用していたほか、里山から得られる薪炭をエネルギーとして利用するなどバイオマスを活用した社会であったと言える。石油起源の資材、燃料などへの置換により、顧みられることが少なくなったバイオマスであるが、近年、廃棄物処理コストの高騰などから高度利用を模索する自治体が増えている。しかし、バイオマスの欠点である「資源の分散性」、「低カロリー」、「高含水比」といった欠点を克服できず、実験的な利用にとどまっている事例がほとんどである。
(wikipediaより)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
まだ研究も途上にあり、
代替エネルギーとしては未だ嘱望されていないバイオマスですが、
今後の研究や地域の取り組みで、もっともっと有効なエネルギー供給の担い手になるのではと、
私は期待しています。
「危険ではあっても効率がよく利潤も大きい」という理由で化石燃料や原子力を選択、許容している社会も、いずれ深刻なエネルギー問題に対峙した時「クリーン」なエネルギーを求めざるを得ないと私は思います。
つまりは、エネルギー問題も社会問題と不可分です。
時代の要求に合わせて進歩するものの、
いずれ突き当たる壁を見通した時、
バイオマスに関わっている地道な研究者、地域の方々のたゆまぬ努力に支えられる日は案外近いのではないかと考えます。

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第3のビールよ お前もか

第3のビール増税
原油高、ガソリン価格上昇、フェリーや銭湯もと言うことで大型連休はかなり憂鬱な気分になりそう。

第3のビール。
気に入っていってるのですがねぇ。
我が家で先日、利き酒ならぬ利きビール。
私はビール党なので、「絶対大丈夫!わかるよ、、、そりゃ」と胸を張って利きビールに挑みました。
後ろで夫がビールと第3のビールをコップに注ぎ、
私は二つを飲み比べました。
初めはわからない。
何回か飲んで、「これだ!間違いない」と一つのコップを選びました。
そして見事、
第3のビールを選びました。
「えっ????ホント。
コレ美味しいよーーー」
夫も二つを飲み比べて「うん、確かにこっち美味しいね。」
結局、違いが分からないということかぁ、、、
ならば、これからは第3のビールで行こうと言っていた矢先の値上げ。
うわっ====
や・め・てぇ。
庶民のささやかな幸せを奪わないで!

ガソリンも値上げ。
これはビールどころではない。
生活の至る所に関わっている石油製品。
いろんなものがドンドン値段が上がってくるのだろうなぁ、、、
あああ〜〜〜〜
出るのはため息ばかり

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2006.05.01

再び「平和は眠りを許さない」を

平和は眠りを許さないという宮本百合子の一節から記事を書いたのは2004年4月。
当時イラクで日本人三人が人質として捕まった時期です。
日本はイラクに自衛隊を派遣したときでもあります。
記事の中で私は次のように書いています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「いま」まさに
平和は眠りを許さない
この言葉が実感として迫ってきます。
連日、イラクでの死傷者の報道がされています。
その数は日ごとに増してきます。
日本は自衛隊を派遣しました。
そして「いま」イラクでは日本人の方3人が人質になっています。
「自衛隊を撤退してほしい」というイラク人の願いが乱暴な形で表れたのです。
他の国の人々も同様に誘拐されているそうです。
しかし、日本政府は「自衛隊は撤退しない」といいました。
理由は「テロに屈しない」というものです。
テロ?
では他国に土足であがり、他国の人々を蹂躙しているアメリカは何なのだろう?

私たちは「平和」の名の下に眠っていてはいけません。
平和なときこそ、その平和を守るために、声を上げ続けなければならないとヒシヒシと感じます。
先輩たちが、命をかけて綴ってきたものは
「再び、あやまちはしない」
ということではなかったか、、、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
あれから二年。
ここでも何回も書いているようにアメリカはイラク戦争が誤りであったことは認めています。
NYで大規模反戦デモ・35万人がイラク政策に「ノー」と言うことで29日、ブッシュ大統領のいつまでも続く占領政策への批判の声が結集しました。
一方、イランの動きも何やらきな臭くて目が離せません。
ブッシュさん。
横田さんと対面していた貴方の顔はとても素敵でした。
(勿論政治的駆け引きはいっぱいあるのだろうが、、、)
あの素敵な笑顔をシンディー・シーハンさんにも、全ての反戦の母達にも、
イラクの母たちにも、贈って欲しい。
と、私は思いました。

さて、我が国も、なにやら騒々しい。
教基法。
共謀罪。
国民投票法案。
憲法。
目白押しです。

平和は眠りを許さない。
と、改めて思います。
==========
「平和も、戦争挑発に対する実際的で聡明なたたかいとその克服なしには確保されないものであることを知らなければならない。
平和は眠りを許さない。
地球の全ての男女の運命がそれにかかわっている。最もまめな骨惜しみをしない人類的事業の一つである。」

「平和」はジェスチャではない。
生きること、そのことである。    
宮本百合子

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ああ皐月

今日から五月。
皐月です。
この時期は田植えの季節。
「早苗を植える月」と言う意味で早苗月といっていたのを略したサツキとなったと一般には言われています。
また,サツキのサの字は,神に捧(ささ)げる稲(神稲)を意味し,そこから稲を植える月の意味になったともいわれています.

他の言い方では、
 仲夏,早苗月,暑月,雨月,梅月,梅の色月,皐月(こうげつ),さくも月,五月雨月,田草月,橘月,月見ず月,吹雪月
などがあります。
季語では、
メーデー、憲法記念日、子供の日、母の日など行事に因んだものや、
自然を愛でる青葉、若葉、新緑などがあります。
穴子、鱚、鯖、蚕豆(そらまめ)、豌豆(えんどう)、豆飯、筍、篠の子、筍飯、蕗は食べ物です。
真っ青な雲一つない空を「五月晴れ」とは言うけれど、
太陽の力がますます強くなり、
自然が勢いづくこの季節は、人にとっても何やら慌ただしく落ち着かない時期でもあります。
「これでいいのだろうか?」
「自分は何か?」
秋の気配を感じながら思うことは何やらしんみりと心に静かに沈んでいくのですが、
惜春の今、同じことを思うのは実に落ちつきなく騒々しく、そして焦ります。
木々が緑を増すエネルギッシュな季節は、滔々と流れていく時を感じるにあまりに似つかわしい。
そんな気がします。

そう言えば五月の季語に雛罌粟(ひなげし)があります。
英語ではポピー、フランス語ではコクリコ。
コクリコと言えば、やはりあの人でしょうか?
そう与謝野晶子です。
〜〜〜ああ皐月仏蘭西の野は火の色す
 君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟(コクリコ)
『夏より秋へ』〜〜〜〜
鉄幹を追ってフランスの地に立った晶子。
ひなげしが今を盛りに真っ赤に咲き乱れる中、歌人の魂の揺さぶられる思いがストレートに伝わってきます。
晶子は熱い。
〜〜春みじかし何に不滅の命ぞと
 ちからある乳を手にさぐらせぬ
「みだれ髪」より〜〜

生きると言うことへの積極的な姿勢が伝わります。
春みじかし何に不滅の命ぞと、、、
そうは言いつつ、ちからある乳を手にさぐらせぬとなお余りある情念が晶子らしい。
晶子にとって、五月はどんな季節だったのだろうか?

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