フェミニズム運動が目指すものは
いつも意見を交換しあっている数学屋の秀さんが、
今日のエントリーでもフェミニズムのうさんくささと言う私にとっては、なかなか考えさせられるタイトルの記事を書いていらっしゃいました。
そこで私も、もう一度二年前のフェミニズム運動についてと言う記事を思い出したりしてずっと考え続けていました。
「フェミニズム運動」。
18世紀欧米で活発に論議された近代自由主義思想の申し子として、産声を上げた「フェミニズム運動」。
「女性の自由・平等・人権を求める」ことから端を発し、
その枠内にとどまらず近代自由主義パラダイムそれ自体のもつ構造的矛盾さえ明らかにしていった歴史と実績を持っているフェミニズム運動。
そして近代/反近代の枠を超えたポストモダンと共通の問題意識を持ちながら、
それさえ乗り超えようとしているのだが、、、
しかし現実には、男女に関わらず一人ひとりが体験し、一つひとつの例があまりに違いすぎるため、
未だ体系化出来ない恨みを感じ続けるフェミニズム。
フェミニズム文化批判としてよく言われるのは、
「差別肯定の言説や制度においてよりも、差別を否定したり、他の意味に読み変えうる様な言説・制度の中に根深く潜んでいる」と大越愛子さんはフェミニズム入門で言う。
そして、その時限って言われることは極端な逆差別が例に挙がるのでは、と私は思います。
それについては秀さんが例に挙げられているようなものが主です。
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「・クラス名簿を男女混合にする。
・男女の呼称を「さん」に統一する。
・「男女」の名詞を「女男」に変える。
・スカートは最も「女らしい」服装なので、制服からスカートを廃止しようとした
・女子の体操着のブルマー廃止と同時に、男子の短パンも廃止し、男女兼用のハーフパンツとする。
・運動会の競技を男女混合にする。
・ロッカーや下駄箱の男女別の禁止。
・小学校教科書の記述を「点検」。「男の子はズボンに女の子はスカートに髪かざり」、「おじいさんは反物売り、おばあさんは家で」、「およめに来て・・・・およめに行く」、「小さなお母さんになってお昼を作る」などの表現をジェンダーフリーに反するものとする。
・男女別学の公立高校を共学にする。
・高校入試の合格者数を、男女同数にするよう要求する。
・黒や赤などのランドセルの色を家庭が選択することを禁止し、「女男ともに黄色いランドセル」といった、統一色を要求する。」
(秀さんの記事より)
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これらの主張と平行して「性教育バッシング」も行われていることを見ていく必要があります。
2002年、山谷えりこさんの「思春期のためのラブ&ボディBOOK」攻撃に始まり、
「いきすぎた性教育」と言う言葉が歩き出します。
現実には中学生の性行動調査では中学三年卒業までに約二割が性交経験者という状況の中で、中学生に正しい避妊、病気予防を教えることは必要不可欠です。
それは何も中学生に性体験を薦めることではなくて、
「自分を守る知識」として教えることと「人」として尊厳を教えることです。
この「性教育バッシング」の背景が何かについては、今回の私のテーマではないので次に譲ります。
そして宇野賀津子さん(免疫学、性科学)は、
「更衣室男女同室」「騎馬戦」「身体検査」など言われているようなジェンダーフリー教育攻撃の事実関係を辿っていくと、その出所が、どうもあやしくなると述べています。
いきすぎた男女平等を形づくることで、(私も以前はテレビを観ていて、ビックリしたのです)
何が攻撃されているのかを見ることは、その仕掛人の本意が明らかになると思います。
攻撃はフェミニズム運動に対してです。
確かに産声をあげて間がない(とは言え200年かぁ)フェミニズム運動。
未だ黎明期ではと考えます。
私はフェミニズムはたんに女たちのルサンチマンではない、
と
以前から書き続けています。
女性が差別される現状は、男性にとってもはなはだ息苦しいものであると言うこと。
女性も男性もともに作られた「性」からの開放を目指すために、
フェミニズム運動はますます意気軒昂である必要を感じます。
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コメント
「フェミニズムはたんに女たちのルサンチマンではない」と思っていても、不当に告発されることが重なれば、大部分の男たちは、「フェミニズムはたんに女たちのルサンチマンだ」と思うようになります。
かつての差別糾弾運動はそのような傾向をもっていました。言葉尻を捉えて糾弾するような差別反対運動は、大部分の人たちにとっては、自分と関係のない「差別される側の恨みの発散」にしか見えませんでした。
このような体験から生じたものは、差別反対の運動は自分とは関係ない、勝手にやってくれという気分だったと思います。このとき、不当な差別と、単なる勘違いとを区別すべきだったと思います。そうすれば、差別反対運動に対する大衆的な嫌悪感は払拭されたでしょう。
しかし、それが出来なかったので、差別反対運動は大衆的な支持を得ることはありませんでした。大衆とは関係なく、当事者が勝手にやっている運動という見られ方をしてきました。
フェミニズムも、差別糾弾運動のように、男を厳しく告発する攻撃的なものです。攻撃されても仕方がない男もいるでしょうが、それが行きすぎたときの弊害には敏感になっておかないと、男からの大衆的な支持は得られないと僕は思います。
投稿: 秀 | 2006.05.20 01:18
フェミニズムって、いいのか悪いのか、と思うことがよくあります。男と女はもともと違うし、人によっても女らしい男がいたり、どうしても自分が女と思えない女がいたり。
古い形で、外で働いて家族を養って家ではゆっくりする男と、生活の基盤を支えてもらう安心感の中で家を守って子供を育てる女、という形のほうが性に合う人もいると思います。持ちつ持たれつ、という形の平等のようにも思えるのですが。
もちろんそれでずっとやってきていろんな問題があったからフェミニズムが起こったというのは分かるのですが、もう十分に極端から極端に走ったと思うので、これからもっとそれぞれの人の本来の性分に合った形での公平さが容認されるようになっていったらいいなと思います。
投稿: 葉子 | 2006.05.20 02:39
おはようございます。
私もこれまでフェミニズムについては関心をもてなくていたのですけど、瀬戸さんのこの記事はそちらに関心を持つきっかけになりそうです。
常々思っているのですけど、フェミニズムとかつての護憲運動はどこか似ているんです。私の“感性”で云わせてもらうと、どちらも「頭でっかち」なんです。「女性であること」「武力を放棄すること」という誰もが否定できないことを砦にして、“切り離された”議論をしている、とそんな感じ。こういうのを私は「絶対化の罠」と勝手に呼んでいるのですけど。
何を云っているのかよく分からないかもしれません。実は私にもうまく言葉に乗せられる程にはわかってません。ゴメンナサイ。
ところで、拙ブログへのTBの件ですけど、他の方からも届かないという指摘を受けます。何故だかわかりませんけど、私としても大変に残念です。はてなから乗り換えようかとも思ってますが...。
とりあえずの対策として〈逆TB〉をすることにしました。単にこちらからリンクを貼るだけのことですが。TBが届かない場合、コメント等で連絡いただきましたら、こちらから逆TBさせてもらいますので、よろしくお願いします。
投稿: 愚樵 | 2006.05.20 04:43
秀さん。
葉子さん。
愚樵 さん。
こんにちは。
コメントありがとうございました。
何回も読ませていただきながら考えました。
これからもこの問題、考え続けてい来たいと思っています。
またご意見、頂けたら嬉しく思います。
秀さん。
秀さんのブログを皮切りに周辺のブログも拝見いたしました。
秀さんはフェミニズム問題の本質について疑問を持たれているのではないと私は思います。
多分、その運動論、実態、経験について考察され
ある意味いろんな「差別闘争」の陥穽について危惧を表明されているのだと理解いたしました。
確かに、その潮流は頭がクラクラするようなラディカルなものもあるのですが、本質はあくまで階級闘争としての女性解放であったことは承知して頂けると嬉しく思います。
あれこれの事象に関してというより、私たちが今、考えているフェミニズムは例えば憲法24条であったり、
エイズであったり、均等法であったり、またアフリカで未だ行われている割礼や児童売春などについてです。
これらの問題については男性と共に考えていきたいという立場です。
決してルサンチマンをぶつけ合うことではない、と言うことを分かっていただきたいと願っています。
では、、、また。
葉子さん。
仰るとおりです。
過去のフェミニズムでは、極端な権利のふり回し・ふりかざしは、同性からも距離をおかれた時もあったようです。
しかし、私たちが標榜しているのは「人間らしさ」なのです。
女性にとって、いわゆる「おんな」の時期は初潮に始まり閉経までおよそ40年。その後の人生は「人間」として如何に生きていくかなのです。(男性も同じです)
変わりゆくライフサイクルを考えながらフェミニズム運動は今進もうとしています。
なお、彗星のサイトアドレスの件、OKです。
では、、、また。
愚樵 さん。
「絶対化の罠」ですかぁ。
それは差別、被差別の問題が必ず直面する事柄だと思います。
逆差別と言う言葉があったりします。
あるいは当事者の権利の主張が度を越す場合もあったりと、なかなか一筋縄ではいきません(ふと渦中の本村さんを思い出したりもします)。
しかし、私たちが標榜しているフェミニズムは、
愚樵 さんのエントリーで書かれていた理念にちかいものと思って頂けたらより正確なように思うのです。
現実のアレコレに右往左往しながらも、
本流である「男女平等」を見失いたくない、と言う女性たちの切なる願いは決して男を敵とも、あるいは何回も書くようにルサンチマンを投げているのでもありません。
女性は男性と同伴者でいたいと常に思っているのです。
では、、、また。
投稿: せとともこ | 2006.05.20 17:01
フェミニズムにしろ差別反対の運動にしろ、大衆的な支持が欲しいのかどうか疑問に感じるような運動に僕は疑問を抱いています。差別反対運動では、「差別される人間の気持ちは、差別される人間にしか分からないのだ」という言葉がよく言われました。
そう言う言葉を吐く人間には、それなら、「誰にも分からないような気持ちを何故訴えるのか?」という疑問を感じていました。分かって欲しいから訴えるのではないでしょうか。おまえには分からないだろう、というような気持ちで語りかけてくる人間に対して、誰が共感するでしょうか。そんな運動なら、おまえらで勝手にやれよと言うのが僕の率直な気持ちでした。
分かってもらうのは難しいけれど、分かってもらうために努力するというのが運動だと僕は思っています。分からないのは、分からない方が悪いのだと言ったら、勉強が出来ないのは生徒が努力しないからだという教員の言いぐさを認めることになります。教え方が悪いのだという批判は出来ないことになります。
フェミニズムの運動に、そう言う側面がなかったかどうかを反省してもらいたいと僕は思います。フェミニズムを理解しないのは、男優位の思想に毒されているせいだと短絡的に考えているようなフェミニストは、僕は信用しません。
男優位の社会で、男の圧力に押さえつけられていた女性を解放する運動であるフェミニズムが、逆に、フェミニズムの威光を笠に着て女が優位に立つことを主張するのは自己矛盾ではないかということを反省して欲しいと思っています。フェミニズムにそう言う側面が何もなかったと主張する人には、僕は語る言葉はありません。しかし、フェミニズム運動には、そう言う側面があったことは確かだと思っています。
僕は行き過ぎた反動としてのフェミニズムを批判しているのであり、そう言う側面があることを反省して欲しいと語っています。それはフェミニズムではないという主張は、僕はおかしいのではないかと思っています。
投稿: 秀 | 2006.05.20 22:57