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2006.05.30

人の厚み

昨日、与謝野晶子について書いた記事で、
先日、知り合った素敵なわどさんから頂いたコメント、実に考えこみました。
わどさんは、ご自分のブログの最初に
〜〜言葉の仕組みを暴きだす。ふるい言葉を葬り去り、あたらしい言 葉を発見し、構成する。生涯の願いだ。〜〜
と、書いていらして、「言葉」に並々ならぬ思いと感性をお持ちです。
私も先日、拝見して、エントリーの中にほんのちょっと書かれた言葉が凄く光っていたり、
行間に溢れる思いがあったりと、なかなか唸らせる表現をなさいます。
さて、そんなわどさんから頂いた宿題。
「やっぱり「書く」とは生きることなのかな? 」
うううう?????
今日はずっと考え込んでしまいました。
と、言ってもこれは凄く楽しい思いで一杯だったのですが、、、
そもそもは与謝野晶子の情感溢れる思いに、私としたら瑞々しい感性と、たゆたいながらしたたかな晶子の「性」を書きたいと思ったのですが、、、
さらにわどさんから「書くことと生きること」についてのテーゼとも言うべきコメントを頂いたなら、やっぱりこれは飛びつくしかありません。
書くとは何か?
生きるとは何か??

ううううう?????
結論。
分かりませんでした。


考えながらのアレコレでは、
いろんな作家が出てきて、
多くの哲学者が語ってくれて、
その時々で「なるほど」とポンと手を打ったりしました。
しかし、結局、一番納得いった答えは、
「謎だ」でした。

エッシャーは自分の絵に意味はないと言う。
意味のないところが、人をして不安にさせ、謎を突き止めたいと思い、
その絵に埋没していく。
アメリカン・ゴシックの絵のあの奇妙さが、なんとも不安でどうにかして落ち着きたいと、人はさらにあの絵にかぶりつく。
古典は、読めば読むほどに違った面を見せてくれ、その都度の解釈に人は戦く。
その時々に優れて新しい。
結局、謎を解きたい、
自分で解きたい。
その思いが、人をして書かせ、描かせ、作らせるものかと思うのです。
作者からは解答はいらないのかもしれないと思うのです、、、

論理と感性と、
そして理性と、、、
人はそんな中を右往左往しながら生きているのかも、、、
居心地の良さを求めて。
そしてそれが「人の厚み」「心のまちの広さ」を作るのか???
と、思ったりします。
だからこそ、楽しい!!!

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コメント

せとともこさん、こんにちは。

修正のきかない動きを重ねていくというガラス絵の性質にもよると思いますが、私は自分で描いている絵がどういうふうに出来上がるか全然分かりません。初めの一応の予定とは似ても似付かぬものになっていきます。書くことが生きることであるか、とか、そういうことは分かりませんが、少なくとも私の場合、描いているときは「誰かが生きて動いている」というのを感じることができます。自分でも知らないものが目の前に現れてくるからです。

私は絵と不安感には大きな関係があるような気がします。絵を見る人の不安感は分からないけど、描くほうとしては、しばらく描かないでいると精神的に不安定な気分になり、逆に、訳もなく不安な気もちのときは何かせずにはいられません。でも、同時に何をするのも怖いような、自分には何もできない、というような気持ちも出てきて、そっちの気持ちに従うとずるずると暗い深みにはまっていきます。そういうときはずっと何も描かなかったりするけど、怠惰と臆病の見極めが難しいときもあります。自分に鞭打って、というか、なんでもいいから創作的なことを始めるとそこから気持ちが上向くことが多いです。私の場合は絵を描くことが精神安定剤の役目を果たしてくれているようです。

その一方で、気分が明るくて元気があるときも、あれもこれも描きたいと感じることが多いです。自分でも、絵の意味とかはよく分からないし、別にないような気がします。でも、描く過程で絵が私に果たしてくれた役割はあると思います。

なんだか筋道の通らない文章になってすみません。心の中の様子を観察して言葉であらわすのは難しいなと思います。

投稿: 葉子 | 2006.05.31 14:25

瀬戸先生、こんばんは。怪盗ルパンとは、都会の下水に棲んでいるドブネズミの名前です。深夜の新宿公園の近くで見かけたのです。この記事もずいぶん過去にうずもれてきましたので、そろそろコメントしてみるときでしょうか。
はじめてこの記事を目にしたとき、体にボッと火がついて、燃え上がる焔のなかで蛸のように身もだえしてました。なんでおれなんかの名前を記事に、というのと、なんて曖昧な言葉を使ったんだろうという自責の気持ちが焔の燃料だったみたいです。
「なんで」の連発になりますけど、なんでこんなに言葉にこだわるのかな、と考えるときもあります。言葉には、敵であり友だちであり、また敵であるといったかなり激しい愛憎が交差しているようなのです。言葉に囚われ、言葉に傷つき、また育まれれて生きてきた実感でもあるのでしょうか。そうかもしれない。体の奥深くに突き刺さって動かされ、ときには快感を、ときには激痛を与えられてきましたから。
こんな書き方をすると、言葉に受動的な人間像が浮びます。ウイです。まずおれは、言葉に受動的なんだろうと思います。コメントが何だか長くなりそうで恐縮しますが、現実にはこれほどおしゃべりなやつじゃないです。むしろ、おしゃべりは嫌いなほうかもしれないな、と思うときもあります(笑)。
何を書いてるのはわからなくなりそうですけど、ふたたび「ウイ」です。こうやって、うだうだ書いてるのが、おれの「書くこと」なのだろうと。
下に「葉子」さんといわれる方がお書きになってます。

>私は自分で描いている絵がどういうふうに出来上がるか全然分かりません。

また、こうも。

>描いているときは「誰かが生きて動いている」というのを感じることができます。自分でも知らないものが目の前に現れてくるからです。

瀬戸先生なら「謎解き」、ミステリアスなお考えをされてます。この感じはものすごくよくわかるんです。今ちょっと流行ってる内田樹先生(神戸女学院)は、書くことは考えることだとおっしゃってます。このお考えは比較的に新しいものではないかと。言葉が書かれる以前に、「自分」「考え」「思想」があるのか。言葉とは「自分」「考え」「思想」を表す道具なのか、という問でもあります。
言葉は道具にすぎない。この考え方が、どれほど人を苦しめてきたでしょう? また、どれほど人の間に不信のベールを張りめぐらしてきたでしょう。言葉が、裏に隠された欲望の道具にすぎないのであれば、そんな言葉をいったい誰がまともに受け取るでしょうか。文学の衰退の一因でもあったかと。この言語観は、最近でも総選挙に用いられたと聞きますけど、すでにドイツ・ナチスの壊滅とともに破産していたものと考えられませんか? 言葉は、宣伝・煽動の道具じゃない。言葉の以前に「自分」や「考え」「思想」があるという考えは、いまではパロディーとでも受け取られるものでしょうか。そういう言語観で書かれた言葉は、何かの2次加工、パロディーじゃないですか。
やっぱりコメントが長くなりました。端折ります。最後に加藤典洋氏が、こんな絵
(自分)→|大河|→(自分)
をお書きになって、自分という細流から出発した「書くこと」は、一度、言説の大河(社会一般)をくぐり抜けて、また自分という細い流れに帰ることだとおっしゃっていました。これも参考になってます。/ではまた。

投稿: わど | 2006.06.01 20:15

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