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2006.06.28

錯覚の心理学

〜〜はちすの露をみてよめる〜〜
はちす葉の濁りに染まぬ心もて なにかは露を玉とあざむく
 僧正遍照

意味は、「蓮は、沼や泥に染まることなく美しい花を咲かせるのに、どうしてその葉の上にある露を玉のように見せかけて、人を騙すのだろうか。」と言うものです。
この歌では、
蓮の清らかな美しさが、環境に左右されることなく、損なわれることなくその本性を余すことなく表現しているように思います。そして、後半では、そんな美しい蓮の花が、葉っぱの露をまるで人を幻惑させるように玉のように光らせている所が、お茶目とも言えて実にいい、、、、と謳っているのです。

さて、今日は「枕」に僧正遍照さんをお呼びしました。
この方の有名な歌はなんと言っても百人一首にでてくる「天つ風 」でしょう。
「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ 」
ううう====ん。
実にいい。
なかなか想像力の豊かな方です。
意味は、
天を吹く風よ。乙女が通る雲の中にある通路を吹き閉ざしてくれよ。舞が終わってもすぐには天上に帰れなくして、天女のように美しい舞姫の姿をここにもうしばらくとどめておこうとおもうから。

今も昔も吹く風や、ちぎれる雲、そして光る月は変わらない。
しかし、それを見る人の心は変わったのだろうか?
いや、変わってはいないのだろうか???
と、言うところで、漸く今日の本題に辿り着きました。

遍照さん、お疲れさまでした。
また、改めて登場していただく日もあろうかと思いますが、その折は宜しくお願いいたします。

では、これからが本題。
「人は変わるか」。
この問題を考えるにあたり、私ときたら「錯覚の心理学」という本をもう一度、本棚から手繰り寄せていました。
本書は初めに、次のように書いています。
「錯覚は人をひきつけてやまない。第一に驚くと共に不思議を感じる。目だましを食らうのは自分であるのに、なんとも楽しくてしかたがない。」
そして、本題として私たちが良く知っている錯覚のアレコレを紹介。
錯覚・錯視の歴史・博物館などが数々挙げられていて、それだけでも十分楽しめます。
では、この錯覚や錯視が何故おこるか?
また、それを楽しもうという心理が何故働くか、、、という事も縷々述べられています。
感覚と心。
感覚は変わりやすく不正確である。そこで心の働きが外界の正確な写しを作り出し、ゆがみを正すという考え方。
その一方出、感覚は本来正確で環境の真実の姿を捉える様にできている。限界があるのは心であり間違うのも判断能力であると言う考え方。
その二つの考え方の「橋渡し」となるのが錯覚の研究であると本書は言う。

「目はだまされるものである」
と、いうのが錯視の正体なのかもしれません。
私たちは、自分たちの感覚を信じて日常を送っています。
空を見上がれば月が輝いている。
しかし、同じ月なのに、天頂の月と地平のそれとは大きさが違って見える。
何故?
あるべきところにあるものが見えない。
またあるにもかかわらず見えない。
何故?
そんな、あんなこんなを分析して、更には3Dにまで話は及びます。
しかし、今にいたっても錯視の本態が何か分かっていないという。
そして最後に著者は言う。
錯覚は時代により、その範囲と形を変えていく。

つまり、
つまり、
昔の人が見た月と現代の我々が見る月は微妙に違うのだろうか???

心も感覚も「絶対」ではありえない。
変わるものである。
と、するなら人は変わることができるし、変わらなければならない。

「そこにある」
「今、ここにある」
それは絶対ではあるが、しかし同時に不確かなものであるとしたなら、
私たちが、生きる上で何をもって糧・指針とするかと言えば、
「空=くう」なのかもしれません。
多分、これとて錯覚かぁ、、、
と、思えば実に深みがあり極みが見え、
蒼穹に吸われていく気がして面白い。
深みにはまります。

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コメント

はじめまして。ココログ新着記事からたどってきました。
楽しく読ませて頂きました。

感覚とこころ。
データのインプットから情報の整理、解釈へ。

絶対的な客観がないのと同じように、
絶対的な主観もない。

関連あるかどうかわかりませんが、トラックバックしますので良かったらご覧になってください。

投稿: まき | 2006.06.28 19:49

僧正遍照さんのお墓が、うちの近所にあります。
彼は皇孫なので、宮内庁管轄と立て札があります。住宅地の中で、忘れ去られたような空間に眠る彼、どんなお人やったんやろ・・・

投稿: 龍3 | 2006.06.29 01:33

こんにちは。
錯覚のお話、面白かったです。私は時々自分がほんとにいるのかどうか確信がもてないような気がすることがあります。誰かが自分に気づいているのが分かると、あれっ、という驚きがちょっとだけあるのが分かります。

頭ではちゃんと他の人に自分が見えることは分かっているのですが。見える、というか、自分が他の人を覚えているように、他の人が自分のことを覚えていて考えたりしていてもおかしくないので、驚くには当たらないことは分かっているのですが。こういうのも錯覚でしょうね。

だから、自分の実在が絶対であることに確信がもてないように、他の人や物の実在にも同じような不信の感覚が少しだけあります。現実なんて人によって違うんだな、ということは、精神に異常のある人と話していると感じます。私にとって突拍子もないことでも、彼らにとっては絶対だったりするからです。

人間はそれぞれの脳で知覚できることしか現実として認識できません。脳の機能も人によって様々なので、私にとっては錯覚でもそれが確たる現実に見える人がいると思うし、宇宙には多分、どんな人間にも知覚できない現実もたくさんあるのでしょう。そういうのが真夏の夜などにたまに紛れ込んでくるのかな、と思いました。

投稿: 葉子 | 2006.06.29 09:21

瀬戸先生、こんにちは。
この記事、とても興味をもって拝読しました。「錯覚」ですかァ!
なのでこちらも、錯覚に満ちあふれたコメントをお送りいたします。提供は怪盗ルパン's、東京の真下に広がる地下都市の住民たちです。 (^^)

錯覚といえば、ビル街の角を曲がって思わず立ち止まったことがあります。目に入った光景が理解できなくて混乱して、コンマ何秒かですけど、パニクったのです。林立するビルとビルの向こうに青空が切り取られていて、その空間を銀色に光る飛行船が占有していたからです。

空に浮ぶものは雲かドハト、カラス、ときどきは飛行機雲をひきずった機影が遠方にみえるときもあります。みえるはずの「普通」とは大きく違うものが目に飛び込んできて、視覚的な情報の処理にとまどったのでしょうか。でも、同時にとらえた「不気味さ」は、ただの情報処理の混乱だけでは説明できそうにありません。

たぶん、ですけど。そこにないはずの銀色に光る飛行船は大量の爆弾を抱えていて、いまから東京を爆撃するところだ、とでも想像したのではなかったでしょうか。当時、毎日のように報道されるイラクへの攻撃と、閃光の下に叫び声をあげる余裕もなくもみ消されていく生命たちへの哀悼。そんなものが無意識のなかに情報のパターンとして収納されていて、飛行船の銀色の輝きがそれを引き出したのだと思います。この考えられもしない非日常的な恐怖体験(錯覚)に、足がすくんだのではなかったでしょうか。

錯覚も理解のひとつ、人間の情報処理のひとつだと考えます。そして理解とは、直面した事実、現実、問題から引き出された無意識をふくむ「自分」じゃないかとも考えます。自分のなかにないものは、人には理解できない、ともいえそうです。

ではまた!

投稿: わど | 2006.06.29 13:52

まきさん。
龍3さん。
葉子さん。
わどさん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。

まきさん。
はじめまして。
コメント嬉しく拝見をいたしました。
トラックバックは届かなかったようです。残念。この頃、パソコンの調子が悪いのです。
しかし、まきさんのブログ、拝見いたしました。
アカデミックで上品で、とても香しい素敵なブログを拝見して、私も刺激になりました。
これを機会に、これからも宜しくお願いいたします。


龍3さん。
お元気でいらっしゃいましたか?
坊ちゃん、お元気そうで何より。私も微笑ましいお写真を拝見してエネルギーを頂いています(^.^)
京都検定。
如何ですか?
実は私もあなたに刺激されて今度挑戦してみようかと無謀にも思っています。
これからも、いろいろお教えくださいね。
楽しみにしています。
では、季節柄、夏冷えなどに注意。
坊ちゃんの「おなか」大切にね。


葉子さん。
そうですか。
なんだかわかります。
その乾いた雰囲気が。
私は、あなたのコメントを読みながら「鏡」を連想していました。
鏡って怖くないですか?
映っている自分も不思議ですが、仮に隣に誰かがいて、鏡のそこに誰かが一緒に映る。当然ながらコワイ。
右・左の感覚もそうですが、空間を共有しているにもかかわらずクウキが違うのですよね。鏡って。
なんだかまとまらない文になりましたが、もうちょっと考えてみます。
またユニークで深いコメント待っています(^.^)


わどさん。
北朝鮮の方にもありがとうございました。
そうですよね。あなたも先日、ご自分のブログで書かれていましたものね。お詳しいはずだ。
私は今まであまり知らなかったのです。
これを機会に勉強と思っていますので、また教えてくださいね(^.^)

さて、錯覚。
実はこの記事。秀さんの「唯物論と観念論」がきっかけなのです。
あの記事を読みながら、そう言えば錯覚の本に書いてあったな、、、と思って読んでいたのです。
秀さんの記事と離れてしまったところで、
なんとなく思いつくままに文にしてしまったのですが、この問題、皆さんのコメントを拝見して、もっと考えようと今更ながら思っています。
ゆっくりじっくり考えて、また書きたいと思っていますので、その折はご意見、お聞かせくださいね。楽しみにしています(^.^)
では、、、、また。

投稿: せとともこ | 2006.06.30 13:10

鏡ですか。。。私はガラス絵を描きますが、これは対象が鏡に映ったような絵ですね。実は私は小さい頃から時々水面を見ている夢を見ます。鏡文字も書くし。。。私の脳みそはどこかでまちがって左右反対に入っているのかもしれませんね。

鏡の怖さは、そこに自分がいないかもしれない怖さであるような気がします。人が誰かを見るとき、瞳は鏡です。私を見ている人の目玉には私の姿が映っていても、その人の心の中の目にも映っているとは限りません。

でも、よく考えたら鏡じゃないものってないんですよね。映っているのが普通の状態では見えないだけで、つるつるになったらどこにでも何でも映ってます。肌も、床も、衣類も何でも同じ。なんで自分がこういうことが気になるのか分かりませんが。

ガラス絵のサイトの絵がだいぶ増えました。日英のコメントもつけたので、よかったらまたご覧ください。ほんとはもっともっとたくさんあるのですが、なんとかフィルムをデジタル化できたら載せる予定です。

投稿: 葉子 | 2006.06.30 14:14

葉子さん。
こんにちは。
早速、ガラス絵、拝見に行きました(^.^)
素敵です!!!
私としたら「ひょうたんのようなもの A gourd-like object」が好きです。
なんとも言えぬ優しさ、気恥ずかしさ、真剣さが出ていて、そして可笑しい。
「鏡」。
映っているのは誰でしょう???
気になりますね(^.^)
しかし、作品を作られる喜びのようなものが伝わってきます。ウラヤマシイ。
これからも、見せてくださいね。
楽しみです(^.^)
では、、、

投稿: せとともこ | 2006.07.01 17:08

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受信: 2006.06.29 22:42

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