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2006.07.18

文を書く

夏休み前の7月14日。国立教育政策研究所が『特定の課題に関する調査(国語,算数・数学)』を発表。
調査は全国の小学4〜6年生と中学1〜3年生を無作為に選んで計3万7千人を対象に昨年1〜2月実施。
興味のある方は上のサイトをご覧ください。
詳しく内容分析がされています。
今回浮き彫りになった課題で特に目をひくのは、
「文章を書くこと」が嫌いという子どもが高学年になるほどに多くなることです。

文章を書く。
しかも自分の考えを相手に伝えるような文を書くことは、確かに難しい。

話し言葉ならどれだけでも話すことが出来ても、
いざそれを文に書き起こすとなると、大人でもすぐには書けません。
自分の思いや考えや感情の行ったり、来たりの中で右往左往しながら自分の意見を纏めていく作業は大変です。

思いつくままに、音が発するままに書いていくことは気ままで楽しい。
伸びやかにストレートに文字が原稿用紙を埋めていく。

空は青いよ。
いや、雨の日は鉛色だよ。
えええ????
鉛筆で落書きしたみたいだね。

とかとか勝手に無責任に書き綴ることは子どもたちにとっても、ちっとも苦ではない。
だがしかし、
こんな気ままな勝手な文さえも今、子どもたちからは消えていっている気がします。
「表現力」というモノサシが学校教育に入り込んでから、
子どもたちの表現・感性は評価の対象になったから、子どもたちは縮こまってしまいました。
さらに、
国語能力という項目で、子どもたちの論理構築の力が試されるようになってからは、
子どもは本当に書けなくなりました。
書いたって、ちっとも面白くないから。

今回の調査結果のまとめで、
なお一段と国語学習で多様な機会に文章を書かせる「指導」を指摘していますが。
「指導」
ねぇ?????

子どもたちが書くことに、
指導なんていらない。
まずはとにかく書く、書く、書く。
その中で、
いずれ子ども自身が「よりよく書く」「明確に相手に伝える」ことに気がつき
学んでいくものと思います。
焦らず、じっくり、ゆっくりと子どもたちの感性につき合ってほしいと思ったものです。

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コメント

>なお一段と国語学習で多様な機会に文章を書かせる「指導」

そうなんですか。とすると、また
『文章の書き方』、『正しい書き方、悪い書き方』、『点のとれる文章力』・・・
みたいなのが本屋に平積みされそうですね。

おれ自身だと、書く楽しさに気がついたのは、いつごろだったでしょう。「書け」と誰もいわなくなって、さまざまなことが頭に浮んで、使わない手帳を持ち歩くようになって、めもった断片をパソコンに書き溜めだして、文に組み立ててみると驚きを発見し・・・。

書くというのはお喋りと同じで、ある意味で自由な喜びなんですよね。深く考えるといろいろになりますが、こう書けと命令する者がいない砂場遊びのようなものでしょうか。山に入って、カブト虫を探すようなもの。そしてこれが、考える基礎になっていくらしい・・・。

それを点数がつく競技にする? しかも教師が採点すれば、生徒も親も自分たちの将来を拘束する「選別儀式」の一種と受け取ります。生き残るための貨幣と受け取り、また暗黙の「拒否」にもつながります。

政治家にもマスコミ関係者にも、大会社の社長・社員にも、いまでさえ外国に恥ずかしいようなインテリジェンスの欠如を感じています。
とすると・・・。
なんでこんなに日本という国家は遅れているんでしょう。おれもその一員ですから、ときどきは瀬戸先生が読むに耐えないような下品なことも書きますが(汗)。上に立って国家の政策を立案する官僚のインテリジェンスが、とっても低いんでしょうね。このままじゃ文化的にも政治的にも、田舎者の国になります。いっそ、それもいいかな・・・。

投稿: わど | 2006.07.18 19:26

こんにちは。小学生のころの国語のテストで、あるお話の主人公に関するものがありました。彼女のお母さんが亡くなり、それを慰める子供がいます。そのときにどういう気持ちでどうなぐさめますか、とか、そういう問題だったのですが、「ふむふむ、そうねえ」と考えて「私のお母さんもいずれ死ぬよ。悲しいだろうけど、皆いずれ同じ目にあうから一人じゃないよ」という内容のことを書いたらバツでした。子供ながらに理不尽だと思ったのを覚えていますが、こういうことはこのときだけではありません。どう思うか、どう感じるか、どう表現するかということを、評価の対象にするのはとても危険だと思います。

一方で、ある事柄を伝えるために分かりやすい文章を書くとか、そういう訓練は大切だと思います。言葉というのは、本来自分の思考を知るための手段であり、同時にそれを他者に伝えるための手段でもあると思うからです。私は以前機械類の取り扱い説明書などを書いていたのですが、エンジニアでもない私がそういう仕事をしていたのは、伝えるべき対象は誰か、要点は、優先順位は、とか、そういうことを自前で考えて表現する文章力を持たないエンジニアが多かったからです。

そういう、一定のものさしで測れる分だけ学校は大いに訓練すればいいと思います。書くことの喜びは子供であっても個人的なものです。日記を書くことも宿題になっていましたが、それを先生に見せなければならないことが嫌でたまらない子もいました。家での出来事など、思い出したくもない子は山ほどいるのです。そういう子供は嘘をつくようになるか、書くことを嫌うようになります。評価を恐れて嘘をつき続けると、自分の考えが自分でも分からなくなります。見せたければ見せる、見せたくなければ見せない、という柔軟性があればよかったのに、と思います。

投稿: 葉子 | 2006.07.19 01:36

 ワタシの一番嫌いなのは「読書感想文」。
 あれって、読書をした感想を書いてはいけないんですよね。「おもしろくなかった」や「つまらなかった」、「作者は何を言いたいのかわからない」って思っても、そう書いたら怒られますからね。
 そうではなく、大人(先生とか)が子供達に期待する内容を子供達が察知して、それをあたかも自分の感想であるかのように書く。そんなものです、「読書感想文」というのは。
 文部科学省が期待する文章力とか表現力というのは、しょせんそんなもんじゃないの?なんてワタシは思ってます。
 そら文章を書くのは嫌いになるわ。

 せとさんがおっしゃるように、「まずはとにかく書く、書く、書く。」というのはワタシも大事だとは思います。さらに言うと、時間や内容や文字数に制限なんていらないと思うんですよね。一行でも、ひとことでもいいから、とにかく何かを毎日書く。それがベストのトレーニング方法ではないかと思いますね。
 それと、今は知りませんが、僕の時代とかは作文とかも書いたら書きっぱなしでした。そうではなく、翌日でもいいから、書いた内容を自分でチェックして自分で書き直す。推敲ですね。その作業は必要だと思いますね。
 自分の発言が相手に届くのは、楽しいことです。だから文章を書くというのも、本来は楽しいことのはずなんですよね。その楽しさを大事にして欲しいなぁ・・・と思いますね。

投稿: 評論評論家 | 2006.07.19 06:19

こんにちは。またノコノコ顔をだします。といっても眠くて眠くて、半分は夢のコメントです・・・。

葉子さんがおしゃる「一定のものさしで測れる分だけ学校は大いに訓練すればいい」、
また評論評論家さんがおっしゃる「推敲ですね。その作業は必要だ」、
を拝読して、昔の経験を思い出しました。
用事があってデパートに行ったんです。子どもの展覧会が開かれていました。それこそ保育園、幼稚園から小学校、中学校くらいまで幅広い年令の生徒の絵が集まっていました。年令の低いほうから順番に見たんですが。「パパ」「ママ」「運動会」「七夕」「お遊戯」などがテーマのほとんどで、色使いも形の捉え方も、よく見るありきたりの作品ばかりでした。中にはあきらかに大人の手を借りたと思われるものも。まあしかし、こちらも暇つぶしに見てるだけ。そうしてグルッとまわりを見渡したとき、一枚の絵が目に突き刺さったのです。アレ、なんだろう?

長くなっては失礼ですので、端的に書きます。画面一杯に黒の水彩絵の具が投げつけられたように見えました。一匹の象なんです。丸い大きな体でした。絵の具が弾けたように輪郭はギザギザで、近くに寄ってみると、左端と右端に小さな尻尾と頭が付け加えられていました。足は、記憶にないんです。幼稚園児が描いたものでした。見れば見るほど笑みがこぼれてきます。自分も体験したはずの愉快な衝撃を引き出してきます。見上げるその子の姿さえ目に浮ぶじゃないですか。絵の前に立ちすくんでいました。

この子は絵描きになれるだろうか、と考えました。。答えは否定的です。なぜか。成長するにつれ、この才能が潰れるからです。もっと象らしく描く方法を周囲が教え、興味があれば自分でも描き方を勉強する。絵はカラフルにもなるでしょう。その子は賢くなっていく。いかざるをえない。
とすると、目の前にある才能がふたたび開花する道はひとつ? もっともっと賢くなって、今度は意識的に自分の原初的な感動を掘り起こし、つかみとること? そして気がついたんです。ピカソやダリ、ムンクや岡本太郎たちがやったのは、忘れ去った原始を奪い返そうとする試みだったんじゃないかと。

端折ります。徹底した教育は必要です。インテリジェンスなくして近代以降の社会が成り立つはずがない。しかし壊すものもある。だったら、どうする? 自由に描く楽しさは自由放任からは生まれない。自由放任は破壊の放任じゃないか。現代的ではない。批評が育ちにくい。自由に描く楽しさも教育しなければいけない。自由と楽しさを教える、この矛盾の中に「いま」という時代があるんじゃないかと考えたのでした。ではまた!

投稿: わど | 2006.07.20 17:48

わどさん。
葉子さん。
評論評論家さん。
こんにちは。
蘊蓄深いコメントありがとうございました。
何回も読ませていただきました。

本来ならお一人おひとりにお返事差しあげるべきところですが、内容が重複いたしますので、
ご一緒にさせて頂きます。

入試に論文が取り入れられるようになって、
更にこの傾向は強まりました。
そもそもは個性を見る作文や感想文が、金太郎飴になりました。
テーマがまたツマラナイ。
「戦争と平和」
「環境問題」
「友情」
「尊敬する人」
、、、、、、、、、
こんなの書く前から相手が何を期待しているか分かっている。
だから子どもたちは美しいまとまりのある文を書きます。
しかし本人はちっとも楽しくもないということがアリアリの文を書きます。
実際、面白くないでしょうね。
自分を表現することが臆病になった子どもたちは考えることもヤスメです^^;
勿論、起承転結とか文を書くうえでの「術」は教えるべきですが、「心」は耕して欲しくないと思う昨今です。
この問題、またテーマにして書くつもりです。
その折はまたいろいろアドバイスお願いいたします。
では、、、、、また。

投稿: せとともこ | 2006.07.20 17:59

 触れるものがすべて金に変ってしまう人のお話がありましたが,文部科学省が触れるものは何もかも鉛に変ってしまうんですね.
 文部科学省は勉強嫌いの日本人を量産している.人権侵害でもあり国家の損失でもある.これは犯罪ですよ.

投稿: Ladybird | 2006.07.20 18:14

こんにちは。わどさんのコメントを読んで、自由に描くことや書くことの楽しさを教えるにはどうしたらいいのだろうか、と考えてしまいました。実は私は独学の絵描きです。空を埋めるほど大きな象を画用紙一杯に描いた子供は、小さい頃の私であったかもしれません。私は自分が描きたいと思ったものを上手に描きたいと思っていました。求めていたのは、自由に描く楽しさではなく、表現したいものを自由に描ける技術です。美術の学校に行かなかったのは、そこで「個性をはぐくむ」とか、「自由な感性を育てる」とか謳ってあると、個性的であることを強要されるような感覚があったからです。

誰にでもあてはまることではないのかもしれませんが、私にとっては画一的であることを求められるのも、逆に他と違って個性的であることを求められるのも同じく苦痛です。子供の個性を尊重し、自由に表現することの喜びを教えることは大切だと思います。でも、そのためには基礎をしっかり叩き込み、結果をコンクールなどで比較評価しないようにすればいいのではないかと思います。

今よりもずっと絵が下手だったころにちゃちな手法で描いた作品を見て、「すれてなくていい、この手法でもっと描け」と言われることがよくあります。それは、見る方にとってはそうかもしれません。素朴画の良さのようなものがあるのでしょう。でも、私にとっての描く喜びは技術的な成長なしにはありえないのです。下手でもいい、伸びやかでいい、という気にはなりません。技術の伸びに伴って失っているものがあることは、子供の絵を見ていると感じますが、忘れ去った原始は戻ってくるときには戻ってくると思います。目的地はあくまで技術的な極みであって原始的な自由ではありません。

ちょっと違うかもしれませんが、自由に泳ぐ喜びなんていうのも、子供がひざまでの浅いプールで感じるものと、どんな波の中でも泳げるようになった大人が感じるものは違うのではないでしょうか。成長する過程で原始的な自由を脇に置いても、その子の描きたい、書きたいという気持ちを「もう十分上手よ、個性的よ、そのままでいいのよ」と甘やかしたり、「他の誰かより上手だ、下手だ」と言って評価したりしないで、もっと大きな自由を得られるように教えるべきことをきちんと教えてくれれば、それでいいのではないかと思います。

少なくとも、私はいかに個性的であるかを評価される美術学校で専門的に勉強しなかったことを後悔してはいません。そういえば、今度三重県の尾鷲文化会館というところで、初めての展示会を開くことにしました。お近くでしたらいらしてください。それと、私のガラス絵のウェブサイトをURLのところに書いたので、よろしかったらご覧ください。

投稿: 葉子 | 2006.07.21 06:26

プロの教育者に教育論めいた言葉をちぎって投げた野蛮人は、あれから野いちご酒の樽を抱いて在田三羅の洞窟に身を潜め、夢の世界に遊んでいたのです。酒が切れ、そろそろ時効と顔をだしてみれば、こんどはプロの美術家さんが絵筆をぶん回してる? 身からでたサビとはいえ、これじゃ森はずれの散髪屋さんにも行けないなあ。

>「個性をはぐくむ」とか、「自由な感性を育てる」とか謳ってあると、個性的であることを強要されるような感覚があったからです。

さすが、の三文字以外に浮ぶ言葉はないです。自由と個性をうしなったステロタイプなミイラの文句に踊れる者はやっぱりミイラたちでしょう。野蛮人ですから、よくわかります。洞窟の扉を叩いて、「ほんとうの自由を教えよう」とささやく者は酒と肴を狙ってる詐欺師にちがいない。

>求めていたのは、(・・・)表現したいものを自由に描ける技術です。(…)目的地はあくまで技術的な極みであって原始的な自由ではありません。(…)もっと大きな自由を得られるように教えるべきことをきちんと教えてくれれば、それでいい(…)。

こんなふうに原始人なりに美術家・葉子さんの文脈を拾い読みしますと、次のような主張が見えてくる気がします。
1.技術抜きでは、大きな自由はありえないだろう。
2.技術的な成長に伴なってふくらんでいく自由と喜びは、「原始」的な自由や喜びと呼べないんじゃないか。

100%賛成します。といっても、原始人だからまた酒に酔ってると思われるだけ? まあいいですよ。論理も主張もメチャクチャのおれです。だけど、ガキを技術的に成長させる必要は教育に求められます。これが近代以降の社会システムなのではないかと。そこを葉子さんは、ご自分でやった。これ、一種の天才的な秘儀といえるんですね。どんなガキにでもできることじゃないです。また、

>結果をコンクールなどで比較評価しないようにすればいいのではないか

と仰ってますけど、これむずかしい。「比較評価するな」と命令しないかぎり、子どもたちが勝手に比較しあいます。そうやって、自分の作品や自分の感性そのものの相対的な位置を知ろうとするのです。単純にはヘタかうまいかですけど、子どもの持ってる評価基準はそれだけじゃない。元気いい/元気ない、本物そくり/嘘っぽい、きれいだ/きたない、好き/嫌い、どうやって描いたの?・・・etec。なかなかバカにならない。
この比較評価は、自分を知り他を知るうえで重要です。美術的な批評も、ここから育っていくはず。この批評が一番大切だと、酒のみの原始人は考えているのですが。

なお、「感動」が来る根拠はどこに? このあたりにプロとは差異があるかもです。

>どんな波の中でも泳げるようになった大人が感じるもの

とお書きです。人間の胎児ははじめエラがあり、ヒレがあり、幼児を水に放り込むと犬掻きして泳ぐといわれてます。芸術的な技術は自由を拡大して、それまで想像できなかった喜びを与えてくれるでしょう。しかしそれは、人間の「原始」に遭遇しているのかも? 大人は、思考と技術の累積(=研究)を通じてしか「原始」に到達できない? なら、それで正解だと思われます。

黒と緑の魔法使い、サリーさま。いちおう、ここまでで投稿します。瀬戸先生、場所をお借りしてすみません。ショバ代として、せめて野いちご酒の香りでもお送りいたします。

投稿: わど | 2006.07.22 18:40

こんにちは。
わどさん、お返事ありがとうございました。丁寧に考えてくださって嬉しかったです。
比較評価についてですが、理想をいえば、子供が自分自身と比較することを教えるのがいいのではないかと思います。昨日より成長したか、ということですね。よきライバルをみつけて、その子と競うことを教えるのでもいいかもしれません。

これは何も絵に限りません。私は走るのが遅いですが、どんなにがんばってももともと運動の才能のある子にはかないません。でも、毎日走っていれば多少は速くなるでしょうし、体力もつくでしょう。そうやって、どんな分野であれ昨日の自分より先を目指そうとしている子がいる、と知ることは、自分が伸びたい分野で努力する原動力にもなるのではないかと思います。

また、先に進む、と言っても、その目的地は人によって様々です。子供であっても、何をもって「上手」とあがめるかはそれぞれだと思うので、文章でも絵でも完成度の高い様々な様式に触れさせ、その子が誰(や何)を自分のゴールとするかと見極めるための手伝いとか、大人はそういうことの手伝いをすべきではないかと思います。比較の欲求というのは絶対にありますが、それを画一的なコンクールなどで比べてもどうしようもないものに向けることが無駄であり有害であるように思うのです。

こういうことは、自分が子供だったころに感じていたことです。私は勉強は好きでしたが学校が嫌いでしたので。わどさん、瀬戸智子さん、いつも楽しい議論をありがとうございます。

投稿: 葉子 | 2006.07.23 01:34

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