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2006.07.22

言葉とイメージ

「言葉とイメージ」と書けば、マグリットのあのなんとも不思議な絵を思い出します。
が、今日は方向オンチの科学 と言う本から考えたことについて書きます。
実は私、方向オンチどころか左右も苦手。
東西南北なんて絶対わかりません。
辛うじて、かろうじて脊髄反射でいけるのは「押す、引く」ぐらい。
道に迷うなんてデフォです。
新しい所では絶対、道に迷う。
運転手は道に迷わない、なんて嘘です。
自分が運転していても迷うものは迷う。
大体、地図は読めない。
夫が運転している隣でお気楽にペチャクチャ喋っているだけの私に、
地図を見ろと夫は言う。
見ても分からない。
仕方がないので自分で赤信号の時、調べている夫の傍らで、ひたすら感心。
「こんな難しいものがよく分かる」と。
地図が読めない女なのかと思っていたのです。
が、
「方向オンチの科学」によれば、方向感覚それ自体には性差はないが、女性の方が「自分を方向オンチと思いたがる」という傾向があるそうです。
そしてこの本は第2章で「方向オンチとは何か」と解説しています。
いろいろ科学的実験なども試みて書いてあるのですが、
私が一番興味を持って読んだのは「右と左のない文化」です。
普通、私たちが空間認知をする場合、自己中心的な参照系から抽象的な参照系に移動すると思われがちですが、
実はツェルタル語やグウグ・イミディール語と言う言語を使っている人々には左右がないそうです。
例えばA・Bと言う二つのものの位置関係を表すとき、私たちなら「Aの右にBがある」と言います。
しかし、ツェルタル語やグウグ・イミディール語を使っている人々は東西南北で二つの位置関係を表します。
Aの南にBがある。と言うように。
これは面白い。
実に面白い。
左右の違いを言語に持っている人々は当然、反対向きになれば左右は逆転します。
しかし、左右の違いを文化・言語として持たない人々には、位置はいつでも同じ表現で語られます。
研究によれば、これらの人々は直接目に見えない方向指示が非常に正確にできるそうです。
この様な使用言語の違いは、場所の位置に対する人間の記憶、さらにはそこから構築される認知地図にも影響を与えるだろうと著者は述べています。

私たちは言葉からイメージを持ち、イメージを頭の中で構築して、次への段階へと進みます。
したがって、それは芸術でもあるわけです。
言葉から沸き上がるイメージが同じである場合、人は共感できますが、
そうでない場合は分かり合えません。
しかし、人は分かり合うために、共通の言葉を探し求めます。
勿論、お互いが理解できるためには言葉だけが手段ではありません。

ただ、私自身は、いつもスッキリしたイメージと優しい自分を持ちたいと希望しているので、
言葉もスッキリ、優しいものでありたいと願っているのですが、これがなかなかに難しい。
試練です、、、

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コメント

 「方向音痴」については、あなたのように科学に強い女性は関係ないと思っていましたが、そうでもないと知り、矢張り女性の方が比較的多いようです。
 うちでも家内と娘の方が方向に弱いようです。車に乗りながら地図を見ると酔ったり、電車の中で地図を見ても頭が痛くなるようです。
 大体「東西南北」がきっちり頭に入ってないといけません。家内は電車の駅を降りたらもうどっちへ歩いたらいいのか、ちんぷんかんぷんですから始末に負えませんよ。

投稿: hitoriyogari | 2006.07.22 16:34

瀬戸さん こんにちは

方向、位置のイメージや地図を見る感覚というのは面白いですね。

私は小さい頃から地図を見るのが大好きでした。
何か写真を見たりすると地図を取り出して調べたりしていたので、いろんな場所のイメージを勝手に想像して頭の中では「想像の絵地図」のようなものが出来てしまいました。
ツーリングしたり旅行したりすると方向感覚の役には立ちますが、実際に行ってみると「想像の絵地図」とは違う事が多くて、「想像の絵地図」はその度に更新されることになってしまいます。
それが面白いと言う事もあるのですが、時々その「想像の絵地図」が余計な先入観となって方向感覚の邪魔をする事なんかもよくあります。

実は、私も山や海の無い建物群の中に入ると途端に方向音痴になります。
都心などに出る時は電車に乗っているときの地図と運転しているときの地図が別の地図のようになっていたりします。

ところで、言葉があってイメージが有るのか、イメージがあるから言葉があるのか考えると卵が先か鶏が先かみたいなところがありますね。

投稿: FAIRNESS | 2006.07.22 19:07

瀬戸さん、はじめまして。

「ツェルタル語やグウグ・イミディール語」がどのような地域でどのような人々によって話されているのか、この人たちは右手と左手、右目と左目、……といった区別をする必要があるときに一体どんな表現をするのだろうか、等々興味はつきませんが、そのこととは別に「研究によれば、これらの人々は直接目に見えない方向指示が非常に正確にできるそうです」という記述にも興味を惹かれました。

「これらの人々」の中には当然女性も男性も含まれているわけですよね。私が推測するに「これらの人々」の方向認知においてはおそらく男女の間に有為差が見られないのではないかと。そして女性の方が「自分を方向オンチと思いたがる」という傾向がこれらの人々の社会では存在しないのではないかと。

というのは、私は「方向オンチ」というのは空間認知能力の一つであってそれは学習によって克服できると思っているからです。そして日本は(特に都会は)「自分を方向オンチと思いたがる」あるいは「方向オンチでも構わないと思っている」女性がごく普通に暮らしていける、もっといえばそういう女性が男性に歓迎される社会なのではないか、とも思っています。

ちなみに私は地図さえあれば見知らぬ土地でもかならず目的地に到達できます。で、日常生活での空間認知について。広い空間を考えるときは地図的な認識(空の上で頭を北にして地上を見下ろす視点)をしていますが、自宅周辺とか商店街とかといった限られた空間を認識しているときは道がどっちからどっちの方角に伸びているかということを押えた上で「あの店の手前は~で」という風にとらえているようです。それよりもやや広い空間の場合は顔を南の方向に向けた位置で自分の目の前(南)・背後(北)・左・右(つまり東・西)の光景を脳裏に描いています。

で、最後の空間認識については一つ困ったことがあって、もう何十年も前に初めて東京に出て住んだ場所で私は北と南とを逆に認識してしまって、そこに住んでいた二年の間ずっと非科学的な固定観念に支配され続けていました。つまり、その住まいの周辺を思い浮かべるときに本来の私のやり方なら南に顔を向けて前後左右(南北東西)を認識していたのが、北を向いて前後左右を脳裏に描いていたために、その限られた空間の東西南北を全部逆に認識していたのです(今でもその住まいのことを思い浮かべるときはそのまま変わらずです)。ただし、もう少し広い視点からその住まいのあたりを思い浮かべるときは地図的な把握をしていたので、日常生活に支障の出ることはありませんでした。

投稿: シカゴ・ブルース | 2006.07.23 01:27

また来た、と思われそうですが。。。

せとともこさんのサイトには私にとって興味のある事柄が取り上げられていることが多いので、いつも楽しみです。難しくて分からないことも多いけど。

ついこの間、日記に右と左のことを書いていたのでした。子供のころから、いかに理解困難な事柄であったことか。例えば、私の前に誰かいます。その人がこっちを向いていれば、その人の右手は私から見て左に見えます。そうすると私にはそれが左手に思える、と思っていたのか、今はよく分かりません。でも、とにかく難しいことに思えました。

今も覚えているのは、右回り左回りです。右に回れば左に至るのに、なぜ左回りではないのか、と考えて苦悩していました。右と左に限らず、どっちかがどっちで、もう一方がどっち、というのが全体的に苦手です。

私は今もそれほどの苦もなく鏡文字を書きます。ガラス絵を描くのも、ずっと物の重なり方を考えていて、それが一番納得のいく方法だったからです。自分の見ている空間をどう認識するか、そういうことを考えるのは真剣な作業で楽しいです。自分というのも空間の一部ですね。

地図で思い出しましたが、かつて山登りをしていたころ、今どこにいるかと考えるとき、いつも日本地図が頭に浮かびました。それから地図をみると分かりやすくなります。山登りに日本地図を持っていったわけじゃないです、念のため。

投稿: 葉子 | 2006.07.23 02:07

hitoriyogariさん。
FAIRNESSさん。
シカゴ・ブルースさん。
葉子 さん。
おはようございます。
コメントありがとうございます。


hitoriyogariさん。
そうですか、、、奥様もお嬢様もですか。
親しみを持ちます(^.^)
私も電車から降りたら、右・左とキョロキョロ。
京都のように分かりやすい街でもダメです^^;
困ったものだ。
でも道に迷ったら、思いがけない何かを見つけたり、それはそれで楽しいものです。
が、急ぎの時は自分が恨しいぃいいい。
人より時間がかかるから。
と、言うことでまだまだ迷い続ける私です、、、


FAIRNESSさん。
実はあなたの文と数学屋の秀さんの文を読みながら、以前、読了したこの本を思い出したのです。
私はソシュールについては知らないのですが、
言葉とイメージについては「地図」があったなぁ、、、そうだ
あの本だ。
と言うことでもう一度本棚から取り出しました。
FAIRNESSさんは以前、「色」について書かれていたことがありますよね。
自分が見ている赤と人が見ている赤は本当に同じ色なのか、、、、とかとか。
私の中では、今でも魚の骨のようにひっかかっています。
私も知りたい、、、と。
いずれにしても言葉が先か、イメージが先か。
面白い問題です。
またご意見やお考えをお聞かせください。


シカゴ・ブルースさん。
初めまして。
秀さんのところで、いつもお二人のやりとりを拝見しています。
さて、南に顔を向けるのはいいですね、、、
息子は方向を右手に感じながら移動すると言っています。
確かに無意識に体の器官を使いながら方向を確認していくことは人間が自分を守るために身につけて機能の一つではと思います。
この本では、最終的には人には方向を知る能力と知恵(ランドマークとか)がある。もし街で、道に迷ったらそれは街の構造の方が分かりにくいのだと結論づけています。
確かに道路の道案内自体がわかりにくいと思います。
と、言うことで自信を持ちながら、道に迷います^^;
なお、これからも宜しくお願いいたします。


葉子さん。
実にあなたらしいコメントを頂きありがとうございます。
右・左のことを書きながらあなたの鏡絵のことも思っていました。
以前も鏡で書きましたが、実に左右対称の作り出す空間の妙とも言える鏡は神秘的です。
なお、あの折は何故上下は反対にならないかということで記事にしたのですが、、、
自分というものも空間の一部ですが、その把握の仕方が文化によって違うとしたら、なかなか面白いですね、、、
言葉に行動は規定され、また言葉は行動に規定されと、深い相関を感じます。
この問題、これからも考えていきたいです。
また新鮮なご意見、待っています(^.^)
なお、ガラス絵、すっごく素敵でした。
またここで紹介いたしますね(^.^)
じゃ、、、

投稿: せとともこ | 2006.07.23 10:30

こんばんは。

色ですけど、私が見ている色と他の人が見ている色は異なっています。同じものを見ていても、感覚器官を通して個人に認識されるものは違います。これは色に限りません。ある事象をどう受け取るかは人によって違います。一つの対象が存在するのは、それを認識しない者にとっては非現実なことです。

色覚障害のある人の例を考えてもいいし、人間とは違う風に色を認識している他の生き物のことを考えてもいいと思います。

ちょっと違うけど、聞く者が誰もいなかったら音は存在するでしょうか。これは、物質が振動するという面から見ると存在しますが、知覚する生物がいないという面から見ると存在しないも同然です。色を「私の見る色と他の人の見る色」という感覚的な観点から見た場合は、どんなに似ていても違うと思います。

なんでこう自信たっぷりに断言するのかというと、私の右目と左目の感じる色が同じじゃないからだと思います。ずっと前から、ほんの少し違うのです。

投稿: 葉子 | 2006.07.23 14:36

葉子さん、こんにちは。

ネットでよく目にする言葉ですね。ポストモダン、ソシュールをその源流とする。
年取ったせいでしょうか、こういう文章を見てももはや反発はあまり感じなくなりました。
ただ、悲しくなるだけです。人間てそんなに分かりあえない生物なんだろうか。

私の右目と左目も色合いや明暗が微妙に違いますよ。子供のころに気がつきました。なぜか不思議な気がしました。今はそれも物を立体的につかめるようにするために人間の肉体がわざとそうしているのではないかと思うようになりました。本当にそうかどうかは分かりませんが。

人間が社会を作り共同でものを作ったり狩りをしたり、互いに力を合わせて自然の脅威から身を守ろうとし始めてから大分たちます。ものを考え、互いに物質的・精神的な交流をするためにつくりだしたのがことばです。ことばを通して人はお互いの認識の違いを克服しようとしてきた。ことばがなかったら人間の社会の発展はなかったでしょう。同じものを見ても見え方が違う。確かに個体差はあります。それどころか同じ人間が同じものを見ても時と場合によっては違うように見えることがあります。しかし、人間の脳には多少の違いを補正して似たようなものを同じであると知覚する恒常性という能力もあります。かなり断片的な知覚からでも過去の経験によって足りないものを補ってある程度完全なものとして把握する能力もあります。ときにそれが災いして錯覚という過誤を犯すこともあります、しかし人間には学習能力があり、錯誤を錯誤として認識することもできるようになります。

さて何がいいたいんでしたっけ。
そうそう、人間はことばやその他の表現を用いることによって互いの認識の差異をできるだけなくそうとしたり、互いに同じものに感動したりして共感を覚えることにより、差異よりも同質の部分に目を向けて互いに共感しあうという知慧も文化という仕組を通じて遺伝させてきた。

「言語」という共同意志に支配される側面だけを見るのではなく、自分の主体性・自由意志によってこうしてお互いの認識を述べあい、互いに他者の立場にたって理解しあうために工夫してことばを使うように努力する、ことばや人間の意識の持つそういう積極的な面に目を向けるなら、さしたる障害にはなりそうにない差異などにとらわれる必要はないのではないだろうか。

そして、自分に見えないもの知覚できないものは存在しないに等しいなんて、悲しいことをいわないでください。私が死んでしまっても世界は続く。私には子供はいないが、子供たちは世界中にたくさんいる。私の知らない子供たちがたくさんいる。でも、私にとってかれらは存在しないとはいえない。私が死んだ後にも世界が今よりもより暮らしやすいものになって欲しいと思っています。

暇があったら、私のブログも覗いて見てください。非力をかえりみずソシュール批判なんぞをやっています。

投稿: シカゴ・ブルース | 2006.07.23 16:34

シカゴ・ブルースさん、こんにちは。

たしかに、ずいぶん冷たいことを書いてしまいましたね。これは何となく、「誰も呼ぶ人がいなかったら名前に意味はあるだろうか」というような、普段感じている疑問と重ね合わせてしまったからではないかと思います。聞く者のない音や思いは、ちゃんと存在することはするけどそれを実感しにくいのです。

私はあんまり、というかほとんど全く本を読まないし、ネットをそれほど活用しているわけでもないので、ポストモダンとかソシュールとか知りませんでした。虚無的な思想なんでしょうね。

人間が差異を超えて共感する能力を持っていることは確かだと思います。でも、それに気づくか気づかないかは個体差があると思います。生まれつきもあるだろうけど、環境の影響も大きい。見渡すとたくさん子供がいますが、彼らが感じた痛みや喜びを受け止める人が回りにいなかったら、子供は自分の実在に確信を持てずに育ったりはしないでしょうか。よく、大人は「人の痛みを分かる人になれ」とか言いました。でも、周囲の大人に自分の痛みをないものとして処理されて育てば、自分や他人の痛みに鈍感な大人が出来上がるでしょう。人間にはそうした連鎖を続ける傾向があるような気がします。自分の感覚を無視せず、そこにちゃんとあることを自分で認めて受け止める作業は、ずいぶんぎこちないですけど私にとっては必要不可欠です。他者という鏡のかわりに自分を使うわけです。

人間のそういう共感の能力は、現状ではほとんどさび付いているのではないでしょうか。生きているのは人間だけじゃないのに、「命を大切にしなさい」とか言いながら平気で動物を殺して食べるし、人間だけ見てもあんまり互いに共感しあっているとは思えません。この調子でいくと世界がこれからどんどん暮らしよいものになっていくとはあんまり思えませんが、それを変えていくにはやっぱり教育が大切なんじゃないかなと思います。

前に「学校は技術的な訓練だけすればいい」というようなことを書きましたが、これは「知識だけ一方的に与えて後はほったらかし」という意味ではありません。子供に「自分のいろんな思いはちゃんと実在しているんだ、誰かが気づいているんだ」と実感させることと、自分で考えるために必要な材料を与えること、その子の伸びたい方向に必要な技術を与えることと、まあ、理想論ですけど、学校がそういうところだったらもうちょっとは苦痛ではなかったかもしれないと思います。

私はもう子供の年齢ではありませんが、どうも精神的に大人になりきれてないなと感じます。シカゴ・ブルースさんの論点とは全然違う、単なる感覚器官による認識で返してしまって申し訳なかったなと思っています。


投稿: 葉子 | 2006.07.24 02:19

葉子さん、こんにちは。

いや、冷たいとは思いませんでしたよ。
でも、そういう考えの人ばかりになったら悲しいなあと思っただけです。
ネットには自己主張ばかりして他者の考え方を認めない人たちがいます。そういう人たちがポストモダンの思想を盾にしていることに関しては私はもうあきらめています。

でも、葉子さんはそういう人たちとは違うと私は感じました。だから黙っていられなかったのだと思います。だってこんなことを書いたのは初めてなんですから。

「人が知覚・認識していないものは存在していないに等しい」
その人にとってはそうでしょうね。でも、存在しているものはすべて自分以外の何かあるいは誰かと関係をもっています。だから、たとえ自分が知覚・認識していないものであっても他の何かあるいは誰かと関わりをもって存在しているもの・人がたくさんある(いる)わけです。個人が直接関わることのできるものや人はごく限られています。しかし人間には想像力があります。その想像力を正しく使えば自分の持っている限られた知覚能力を越えていわば無限の世界に心をむけることができるのではないでしょうか。それでも個人の認識できる範囲は有限でしょうが。

しかし、人間は想像力とそして言葉をもっています。言葉は想像力と同じように個人の認識能力の限界を広げてくれると思います(言葉だけでなく表現はすべてそういうものでしょう)。

>「誰も呼ぶ人がいなかったら名前に意味はあるだろうか」というような、普段感じている疑問と重ね合わせてしまったからではないかと思います。聞く者のない音や思いは、ちゃんと存在することはするけどそれを実感しにくいのです。

思いは表現しなければ他者には伝わりませんね。でも、伝えたい思いがあるなら表現によって伝えようと努力することはできます。相手に想像力があれば、共感能力があればその思いは伝わるでしょう。

風の音だって、移動する空気が何かを震わせて立てている。風は何かと関わっている。風は孤独ではない。そうではありませんか。名もない野の花も孤独ではない。

>人間が差異を超えて共感する能力を持っていることは確かだと思います。…
…人間にはそうした連鎖を続ける傾向があるような気がします。

人間は環境によって教育され周囲の精神的・物質的環境によって意識が形成されることはたしかです。しかし人間の意識や肉体はそれを変革する能力をもっています。反面教師といわれるのは人間が環境にただ支配されるだけの動物ではない証拠です。他者を鏡として自己を反省することができるのが人間の自我です。また、自分の心を鏡として自己を反省することができるのも人間の自我です。↓で葉子さんがおっしゃっている通りです。

>自分の感覚を無視せず、そこにちゃんとあることを自分で認めて受け止める作業は、ずいぶんぎこちないですけど私にとっては必要不可欠です。他者という鏡のかわりに自分を使うわけです。

>人間のそういう共感の能力は、現状ではほとんどさび付いているのではないでしょうか。生きているのは人間だけじゃないのに、「命を大切にしなさい」とか言いながら平気で動物を殺して食べるし、人間だけ見てもあんまり互いに共感しあっているとは思えません。この調子でいくと世界がこれからどんどん暮らしよいものになっていくとはあんまり思えませんが、それを変えていくにはやっぱり教育が大切なんじゃないかなと思います。

「平気で動物を殺して食べる」ことに関してはここで簡単にお話できるようなことではないと思います。それ以外のことについては自分のできる範囲で他者と関わり合っていく以外には方法はないでしょう。時に逆戻りすることはあっても長い目で見れば人間の社会は進歩していると私は思います。とりあえず私は人類を信頼して生きています。現在の日本がひどい状況になっているというのは私の認識でもありますが。

学校についてのお考えは私と共有できそうですよ。私が通っていた頃の学校は今よりもずっと自由でしたし、社会も子供の行ないについてずっと寛容だったと思います。そういう学校・社会であればいいのにと私のところに来ている子供たちを見ていつも思っています。

>私はもう子供の年齢ではありませんが、どうも精神的に大人になりきれてないなと感じます。シカゴ・ブルースさんの論点とは全然違う、単なる感覚器官による認識で返してしまって申し訳なかったなと思っています。

私も精神的にはまだ子供のままの部分がたくさんあります。でも正直なのは別段わるいことではないでしょう。というより、ありのままの自分を表現することはむずかしいことです。コミュニケーションはそこから始まり、他者の立場への移行を行なうことで続行するのだと思います。

投稿: シカゴ・ブルース | 2006.07.25 12:00

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