映画が描くヒトラー
ナチス親衛隊所属の過去告白、ドイツのノーベル賞作家と言うニュース。
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ドイツのノーベル文学賞の受賞作家、ギュンター・グラス氏(78)は11日、地元紙の会見に応じ、戦中にヒトラーを支える組織としても知られた、ナチス・ドイツの親衛隊(SS)の武装部隊の一員だった過去を自ら明かした。「この過去が重荷になっていた。明るみにする時が来た」などの心境を語っている。
(上記ニュースより)
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さぞかし重いだろうと、その心中をはかるに難くありません。
彼が世に生み出した作品の数々はナチス告発である背景はこうした事情によるものだったのでしょうか。
ナチスについての作品は、文学、映画と多いのですが、
ヨーロッパの人々においては、ヒトラーが行った罪と、その購うべき罰に対しての思いは、
歴史をひっさげて「今」に息づいているのでしょう。
ヒトラーの映画と言えば、先日、
ヒトラー最後の12日間と真実のマレーネ・ディートリッヒと二本を立て続けに観ました。
「ヒトラー最後の12日間」の方はご覧になった方も多いと思いますが、
映画の語り手のトラウゲル・ユンゲが書いた『私はヒトラーの秘書だった』は、その原作の一つであるということは既に知るところです。
独裁者ヒトラーの人間としての部分を目の当たりに見てきたユンゲ。
そこには、一人の偏狭な独裁者が迷い堕ちていく様と、
その周りにいる者たちが、それぞれの思いを独裁者に重ねながら、ひた走りに走る狂気を止める事が出来なかった必然が克明に描かれています。
ゲッベルスは言う。
「ヒトラーを選んだのは国民なのだ。
国民が望んだのだ。」と。
そう。秘書ユンゲの告発は、「独裁者は一人にしてならず」と言う事なのでしょう。
ヒトラーは悪い。
しかし、彼の狂気を止める事が出来なかった周りも悪い。
さらに言えば、結局ヒトラーを認めた国民の非も同じ罪であると言う事を明らかにする必要性を感じたのではと思います。
ヒトラー一人に「悪」をおいかぶせることなく、潔く「悪」を受け入れることで、
次に続く人々が同じ過ちを再びすることがないようにという祈りが伝わってくるのです。
ゆえに彼女はヒトラーの秘書であった事を生涯にわたり恥て静かに暮らし、暮らしながらも自らの経歴を明らかにしました。
自分自身の罪の重さも同様であると判断したのでしょう。
そして、彼女の見た真実は、今に新しい。
独裁者は何も一人で生まれるものではないと。
一方、対局に生きたのはマレーネ・ディートリッヒ。
彼女はナチスを憎み、アメリカへと亡命。
そして戦場で戦う兵士たちを慰問することで、戦争終結を訴え平和を願い歌い続けます。
戦場での彼女の歌声は敵も味方も区別する事なく兵士たちの心の深いところに滲みわたります。
「ドイツの人々は決して戦争を望んでいない」とマレーネは語る。
誰にも真似する事の出来ない激しくも気高いマレーネの生き方は死んでなお人々の心に揺さぶりかけ語りかけてきます。
ヒトラー。
その人を巡るあまりに多くの光(?)と影。
今を生きる私たちが次代に何を伝えるべきか、
真剣に考える時の到来を感じています。
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