教育荒廃の真犯人はだれ?
ブログ仲間のお玉さんから日教組の何がいけないのだろう? と言うトラックバックを頂きました。
早速訪問。
お玉さんらしい「けれんみのない」実に良いエントリーでした。
「日教組の何がいけないのだろう? 」と素直な疑問。
それに対して私自身は明確に答えを出すことは甚だ難しいと思いました。
コメントしようと思ったのですが、
チョット長くなりそうなので此方でエントリーを挙げますね、お玉さん。
さて、私の場合、言われているような「日教祖が教育を壊した」感は実感としてはありません。
と、言うか私が義務教育を受けた時代は組合の先生方が華々しく活躍なさっていた時代なのかもしれませんが、小学校時代の記憶に「組合の先生」なんて言葉は一つもないのです。
子どもであった私はともかく親の口からも「組合の先生はストとデモばかりしていて困ったものだ」と言う言葉がないと言うことは、あの時代の教師が世間でとかく言われているようなデモ・ストばかりしていたのではないのでは、と思うのですが。
尤も私は田舎育ちだからなのか???
さて、長じて自分自身が親になり子どもの学校や先生方、PTAの方々とつき合うようになった頃は、
組合の組織率は2〜3割。
組合の先生方が言われているような、如何に「ていたらくで教育を破壊したか」なぁんて、これまた実感していないのです。
ゆえに、
私もお玉さんと同じく「ねぇねぇ〜〜〜日教組ってそんなに悪いの?」と疑問に思うクチです。
実際、内部では組合・政党の押し付けなどはあったのかもしれませんが、
しかし「教育そのものを荒廃させたのは日教組」だろうか?
私は否と思います。
「国は教育に介入すべきではない。」と言うのが私の一貫した願いです。
したがって組合の先生方が教育への不当介入に対して声を挙げたことが、顰蹙をかうようなことなのだろうか?
私は個人的には、
公教育を破壊した真犯人は中央教育審議会ではないかと思います。
これに関しては日本の公教育
ゆとり教育 その1・その2などかなり拘って書きましたので、お時間がおありでしたらご覧ください。
私が教育の荒廃を実感したのは、自分自身の子どもの時よりも、
我が子の義務教育時代の方です。
そして、この時期は日教組や全教など組合の組織率が低い時代であることは言うまでもありません。
さて、この問題を論理的に考えるとき、
「では組合がなければ、教育は荒廃しないのか」と言う対偶の視点からも考察を深めることが肝要かと考えます。
1980年以降の教育の流れを見ると、中教審の台頭に揺れ動く教育現場と言う感は否めません。
中教審関係でも過去に記事を書きましたが、いずれも新自由主義との絡みが多かったのです。
いろいろ調べる中で、教育組合の存在がなければ公教育はもっと荒廃していただろう、と言うのが私の実感です。
以前大学法人化のその後と言うエントリーを挙げたことがあります。
「今日の大学の現状」について考えることは、
教育の荒廃の真犯人捜しに一つのヒントをあたえてくれそうです。
独立法人化された国立大学と国立試験研究機関は独立行政法人通則法に起因する共通の状況にがんじがらめにされています。
その共通の状況とは、以下のとおり。
・中期目標。
・理事長を頂点にするトップダウン方式。
・教員や研究者の任期制。
・研究費の競争性。
・成果主義。
・行政や管理業務が研究や教育より上位。
などなど。
こうして大学間格差は広がり、
大学人は学生の教育や研究よりも「いきのこり」に奔走される日々を迎えることになりました。
独法化導入の前には多くの大学人が反対の声明をあげ、こうした事態を危惧しました。
しかし、政府は反対を押しきり強行。
新自由主義の考え方が今や大学を闊歩しています。
真の改革とは何か?
常に知的で倫理的・道義的であらねばならない大学の現場でなされた改革はむき出しの資本主義にもとづくものでした。すでに西欧や北欧では破綻しているにも関わらず、未だアメリカにこびを売り、信奉する新自由主義。
二年が過ぎて、矛盾続出の国立大学の現状を見ると、
教育の荒廃の真犯人は「組合の教師」ではなさそうです。
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