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2006.12.04

仮言命題の限界

ある事象が生じたことを説明する場合、演繹モデルでは、
1,あるいくつかの事象、または状態がある
2,あるいくつかの法則、推論規則がある
3,それらを組み合わせて論理的帰結とする道筋を発見する
この典型的な例として幾何学の定理の証明があります。
この推論規則が先験的に与えられた絶対不変のとき、決定論規則とよばれ演繹論的説明は成立します。
しかし、推論規則が経験則であり確率的なものである場合は帰納的推論になります。
多くの事実の中に共通の性質が認められ、知る限りにおいて例外はない。
この性質を、それらの事実において一般的な概念、あるいは真理と帰結する推論を帰納と言います。
帰納的推論から帰結される真理は、あくまで、この観測に当たって事実に矛盾しないということです。つまり「ある結果が生じることは、ある程度において通常期待できる」と言う枠を超えるものではありません。
一例でも反例があれば成立はしません。
これは物理学や化学などの法則で主に見ることができます。
帰納的な天才の直感に頼る物が多かったのです。
次ぎに哲学的に深く考察した人はヒュームが初めと言われています。
Aが起きたときBも引き続き起きる、すなわち「接近」という概念で捉えました。
原因は結果よりも先に起き、これを「継起」と言い、接近と継起で因果関係があることを説明しました。
ここでしっかりと見ておくべきことは、原因が必然的に結果を引き起こすという関係は存在しないということです。
あくまで人間の経験からくる因果関係です。
さらに科学はヒュームからK・ポパーの反証理論へと移ります。

こうした帰納的推論に、より確かさを与えるのは実験・観察であることは言うまでもありません。
ある条件を整え、推論に基づき実験を行う。
そこから出た結果を推論に照らし、次の段階へと進む。
このようなステップを踏みながら科学は発展しました。
今、真理と考えられている事も、後世には誤りである事が判明する可能性は全てに言えます。
さらに学問の方法として分割と言う考え方があります。
代表としては分類学や法律などがあります。
ある課題に対して、それを構成要素に分割。
その部分世界での物事の説明を繰り返し、分割をより細かくすることで単純化。
そして最後に全体に還元していく方法で、「分割と征服」の方法とも呼ばれています。
ここでは分割がどの様な観点でなされているか、他のカテゴリーに入ることはないか等々、綿密な検証が必要とされます。


こうした中で、いつでも私たちが確認していかなければならないことは「推論の不完全性」についてです。
A→B(AならばBである)と言う推論規則は先験的に与えられているものではありません。
実験や仮定から得られる確率であることを認識して、より詳細に条件を決め、
より綿密に実験をすることが肝要です。
そうした折には厳しく条件が設定される中で成立していく規則も当然出てきます。
A→B(AならばBである)と言う推論規則を現実の世界に当てはめることが出来ると考えるためには、
Bの現象が前件のAに何らかの対応をすると認めることが出来る場合です。
後件が現実にあわないときは前件の当てはめに誤りがあります。
あるいは前件に対応するとして事実ではないと無視していくことが、これまでの科学の歴史でした。
どうしても無視したくない場合はさらに前件・後件の考慮と実験を積み重ねます。
さて、こうして推論に信頼を持たせる努力をしていくのですが、
その大前提として「推論の場の前提」があります。
幾何学のように推論の場が容易に一致する場合は(それでも条件は厳しいとは思いますが)一般的に推論を取り入れて議論をするときは条件に対しては厳しくしなくてはなりません。
議論している物がお互いに明確であること、これをデフォールトの場と言いますが、この場を確認しながら論理を構築していく必要があります。
このためには言葉の定義を明確にすることが最大条件です。
こうして、
こうして積み重ねの上に推論は時と人の試練を受けて、やがて法則へとなっていくのです。


さてさて、先日来のおむつ論争
これでオシマイにしたいのだが、、、

「子どものシグナルが読める」→「(二歳まで)おむつをする必要はない」は仮言命題と秀さんは言う。
私は変項を同じにする必要があると考える。
「子どものシグナルが読める」→「(二歳まで)おむつをさせる必要はない」ではないかと提案。
すると秀さんは、これは述語論理であると言う。
さらに述語論理では、
「F(a)ならばG(a)
という仮言命題しか、論理学では扱えないということになってしまう。」とも言う。
(私は個人的にはそうだと思います。それが形式論理の限界だから)
さらにさらに秀さんは、論理上の例として誰でも知っている「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺で仮言命題の連鎖を説明する。
しかし、そのおかしさをご自身も認識しているにも関わらず捨象を持ち出す。
(何を捨て、何を残すかの厳密な検証なしに、論理を展開していく危険を秀さんは抜きにして)

私は、この説明を拝見しながら「仮言命題の限界」がまさにここにあると感じました。
秀さん曰くの捨象を認め、認め、認め、、、て最後に残った物を真理とするのだろか???
結局、仮言命題は推論の域を出ないのではないでしょうか?
推論を事実に置き換え、さらにそこから展開して論理を構築していく危うさを感じてはいないのだろうか???
なお秀さんは前件が正しければ後件も正しいのが論理学であると言う。
そうだろうか???
私の知るところでは仮言命題の検証は、
前件・後件が真なら結論も真。
前件・後件が偽なら結論は偽。
前件が偽でも後件が真なら結論は真。
前件が真でも後件が偽なら結論は偽。
つまり後件に左右されるものと思っていました。
でないと、前件がとんでもないものであっても真になるからです。

最後に秀さんの内田さんへの思いは認めるとしても、今回のおむつ批判への私たちへの回答としては些か不適切ではと考えます。
witigさんや私は内田さんに対してなんの思いもありません。
ただ内容についてのみ疑問を呈したのです。
ところが秀さんは、ご自分が内田さんを信頼していると言うその一点で、
「内田さんが、その様な誤りを犯すはずはない」といい、さらに内田さんの書いていない部分まで補っていらっしゃいます(推測で)。
ご自分が信頼している、と書かれると、その前では私たちは立ちすくむしか方法がありません。
そして、私たちに対して誤読では、文脈を理解していないのでは、と言われる。
これは「真理」を求めようとする秀さんの態度としては不穏当です。
秀さんはことし8月、ご自分の記事で以下のように書かれている。
〜〜〜〜〜〜〜〜
仲正さんの批判が、批判として論理的な正当性を持っていると感じるのは、抽象的な部分に関しては深い吟味を語っていると感じるし、具体的に語る部分は、事実を元にして事実の中に不当性を見つけているからだと感じる。真っ当な批判というのはこのような構造を持っていなければならないのではないかと思う。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
これこそが、まさに数学屋の秀さんです!!!
真っ当な批判とは何か?????
秀さんはよく知っていらっしゃるのに、、、

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コメント

先生、ひとつだけ注文。

>1あるいくつかの事象、または状態がある

の1の後に点を打ってくれません?
「ひとつある…」「ふたつある…」
と読んじゃったもので(笑)。

しかし、こんなにふかく「形式論理」にもお考えになれるなんて、
瀬戸先生って一体何者でしょう? ブログやってて、おれ幸せです。

投稿: わど | 2006.12.04 14:54

先日から宿題になっていた内田流を巡る秀さんと瀬戸さんの論争、やっと読み通せました。こうした議論を詳細に負っていくのはシンドイです。ふうっ。

で、読んでみての感想を。
議論を勝ち負けでいうと、明らかに瀬戸さんの勝ち。瀬戸さんが常々指摘されている通り、内田氏は“文学的”な表現をしますから、こうした形式論理上の勝負となったのでは明らかに不利。秀さんが最後に「自分の好み」を持ち出さざるを得なかったのが、なんとも不憫に思います。それを持ち出した時点で勝負は負けですから、ね。

まあ、しかし、別の見方もあるわけです。それが秀さんがやって、私もやったことですけど、好みということで自らの懐に入れてしまって、足らないところを補うという読み方ですよね。もちろん、これは文学的な読み方です。

瀬戸さんも文学的な読み方そのものを批判はなさらないと思います。ただ、文学者が経済やら政治やらを批判するな、という議論ですよね。それはわかります。
こうした批判をなさる瀬戸さんの根拠も、私のところへのコメントで示されていました。下部構造が経済で、宗教哲学は上部構造であるというマルクス流の認識がそれですよね。
ですが、私はそれと違った認識を持っています。これは「わたしの哲学」というエントリーで示したことですが、哲学を水面下を表現するものとみる見方です。

どちらの見方が正しいのかという議論は不毛だと思います。ただ、どちらの見方が、他ならぬ「私」自身を豊かにするのかと問われれば、私は迷わず後者だと答えたい。
そのあたりはきっと、瀬戸さんとも了解を得られそうに思うのですが。

投稿: 愚樵 | 2007.09.09 10:14

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