竹の声 桃の花
社会的存在が意識を規定すると言うタイトルの記事をかつさんからトラックバック頂いたので早速訪問。
内容については私がここで書くよりご本人のエントリーが素晴らしいので是非ご覧ください。
さて私はと言えば、最後の結びが印象に残りました。
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マルクスが使用している理論的概念は、つねに具体的な現実と照応している。それは、現実の一面だけを抜き取ってこねあげたようなものではない。また、概念それ自体を抽象的に実体化するようなことも、彼はけっしてやっていない。
マルクスが社会と歴史についての自分の理論を唯物論的と読んだのは、それが抽象的な理念などではなく、なによりも具体的で現実的な諸個人の生活に基づいているということであり、それ以上でもそれ以下でもない。そこが、頭の中だけにしか存在しない概念や他人の本から学んだことだけを組み合わせて、「体系」だの「一般理論」だのといった空疎な理論をでっちあげたがる、「マルクス主義者」を自称してきた不肖の弟子どもや、その他の者らとの本質的な違いだと思う。
(かつさんのブログより)
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かつさん。引用が不都合ならばお申し出ください。
私はこの部分を読んだとき、
「人間をね、ドンドン抽象していったら最後は骸骨になるんだよ。それでおしまいさ。抽象とはそう言うことだ」と言った言葉を思い出しました。以前、論理学の勉強をしていて、どなたかが書いていらっっしゃったのですが記憶が曖昧で詳しく書けないのですが、、、
まず骨格があって、そこに血が流れ、神経が行き渡り、筋肉が保護して、全ての臓器が速やかに動き、生命は維持されています。
そうした体の相互作用に加え、脳や心の働きもあります。
人間って、その全てなのです。
ところが「人間とは何か」という問いに極端に抽象し尽くして「いきつくところは骸骨」とするのは、甚だ問題の本質から外れているということを笑ったものです。
(尤も一休は人間を骸骨に譬えることにはばかることはありませんでしたが、これについてはいずれ時間があったとき書きます)
私はマルクスはいつも途中下車で読みきっていないので、かつさんのブログから教わることが多いのですが、
なるほど「マルクスはマルクス主義者じゃない」ということでしょうか。
机上の理論や教条主義に陥ることの鋭い批判だと感じました。
ふとマルクスと道元って実は似ているのではないかと思いました。
道元は正法眼蔵で次のように言う。
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見ずや、竹の声に道を悟り、桃の花に心を明らめし。竹、豈 利鈍有り、迷悟有らんや。花、何ぞ浅深有り、賢愚有らん。花は年々に開くれども、皆得悟するに非ず。竹は時々に響けども、聴く物ことごとく証道するにあらず。ただ、久参修持の功にこたへ、弁道勤労の縁を得て、悟道明心するなり。是れ、竹の声の独り利なるおのずかにあらず。また花の色のことに深きにあらず。竹の響き妙なりと云へども、自らの縁を待って声をなす。花の色美なりと云へども、独り開くるにあらず。春の時を得て光を見る。
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借り物の知識ではなく本当の知恵とは、こうした「カツン」と心に響くものだと改めて思ったものです。
今、季節は桃の花さく春。
さてさて、私にも悟ることができようか〜〜〜
いやいや、まだまだ。
それでヨシと。
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