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2007.03.29

さようなら数学屋さん

書こうか書くまいか随分悩んでいました、、、
しかし、やはり書くことにします。
数学屋の秀さんのこのところの論理の破綻についてです。
今までも何回かフェミニズムおむつ問題で意見を交換していた秀さんです。
秀さんと意見交換することは私にとっても改めて「論理学」の勉強になる事だったので、大いに刺激になりました。
こんな秀さんが今、迷走しています。
その迷走を見ることはかなり心苦しいものがあります。
が、
やはり秀さんの論理の破綻を指摘する事が大切では、と考えてここに書いています。

彼のブログで話題になっているエントリーは「南京虐殺」問題についてです。
私は従軍慰安婦や南京問題、あるいは靖国などに関してはキッチリと勉強をした事がないので、これらの問題が浮上するたびにいろんな方の考えを読ませていただく立場で、この件に関してはなんらコメントや意見を述べる事は出来ません。
蛇足ながらApemanさんのブログで随分勉強させていただきました。そこには秀さんの論理の脆弱さが書かれています。
理由は簡単です。
事実よりも言葉に拘っているからではと考えます。
事実の裏付けがない論理が如何に脆い物かと見せつけられます。
勿論、何を事実とするかは南京などの歴史問題ではデリケートだと思います。
デリケートであるからこそ、丁寧に見ていく必要があります。

と言うことで、ここしばらくの彼のエントリーを拝見して、
私は秀さんの
「論理学」
に対しての基本的な考え方に対して大きな疑問を抱き始めました。
以前は秀さんのエントリーに対して、私は批判や意見を述べる時は知りうる限りの論理に基づいて書こうと努力を致しました。
しかし、今日は感想という極めて主観的な意見を述べます。
何故なら相手の秀さんが既に論理として破綻しているからです。

では、まず初めに
「論理的」とはどういうことかと言うエントリーを見てみましょう。
秀さんは以下のように論理を説明しています。
============
結論が間違っていても論理的には正しいということはいくらでもありうるし、結論が正しくても論理的に間違っているということはいくらでもある。結論の正しさは論理の正しさに直結しない。だから、結論に対して賛成できなくても、その結論の導き方が、論理的ではないと決して言えないのである。

論理にとって大事なのは、ある前提を置いたときに、その前提のみから結論が導かれるかという整合性のほうであって、前提に何を置くかというのは、論理の問題ではないのである。それこそ前提に置かれる命題が党派性の強いものであれば、誰も賛成しないような結論ではあるが、その党派のものであれば賛成するというような結論が、論理的には正しいという場合がありうる。

(中略)

「論理的」というのは、結論に何を言おうと関係がないのだ。関係があるのは、その結論を導いた推論に整合性があるかということだけなのだ。例えば、ある村に逃げ込んだゲリラを追っていた部隊が、誰がゲリラかを特定できないとき、一人のゲリラを逃がさないために、村人全員を処刑したとする。この処刑は、軍事的に正当性があるかどうか、つまり虐殺にあたるかどうかということを考えるとき、論理的には正反対の結論がともに正しいということがありうる。
(秀さんのブログより)
==============
私はこの文を読みながら、第一番目の感想は
「秀さんはなんのために今まで論理学を勉強していたのだろう」です。
〜〜「論理的」というのは、結論に何を言おうと関係がないのだ。関係があるのは、その結論を導いた推論に整合性があるかということだけなのだ。〜〜と言う秀さん。

では、秀さんが秀さん流に推論をして出した結論は正しくない場合もありうるのですね。
間違った結論に対してのその後の検証はどの様に行うのですか?
また推論の正しさは何を持って検証するのですか?
まさか「宮台が言った、内田が言った」ではありませんよね。
さて結論が正しくても間違っていても結論に責任を持たず「推論」を考えることだけが論理学だとしたら、
論理学という学問は世の中にはなんの役にも立たない学問という事なのですね。
何しろ、そこから導かれる物が正しいか間違いか分からないのだから。
こうして見ると、なんだか論理学そのものが秀さんにかかっては価値のない物になったようで悲しくなります。論理学に対して失礼とは思われませんか?

次に、
コメントを反映させないことについてと言う現時点で最新のエントリーでは、
秀さんの考え方に対して批判や意見を述べたコメントに対して「反発」と言う極めて感情的な捕らまえ方をしています。
反発?
秀さん。
そりゃないよ。
数理論理を謳い、論理学や真理や科学をそのブログに鏤めているのに、ご自分への意見を感情的な反発と取るならそこからは何も産まれない。
アナタは冷静に客観的にそのお得意の論理で人間を、社会を見ようとなさっていたのではなかったでしょうか?
感情を超えて多くの人々を説得・納得させることが「論理学」ではなかったのですか?

さらにその中で次のように書いています。

〜〜事実というのは、末梢的な事実を知りすぎていると、かえって本質が見えなくなって判断を誤るものです。〜〜

うわっ====
おいおい、秀さん。そりゃないだろう。

以前アナタは「誤読」に関して祭りの戦士さんと意見交換をなさっていました。
本を読むことにも熱心に誤読のないように説いていらしゃいました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
正しい読み方の判断には、現実を正しく捉えたという基礎があるような気がする。例えばマルクスの『資本論』を読む時に、自分自身に「資本」というものの正しいイメージがあって、そのイメージと現実から、正しい筋道で論理的展開を捉えていれば、マルクスが書いている内容が正しいものであるかどうかの判断が出来るだろう。そういう時に、マルクスの『資本論』が正しく読めるのではないかと思う。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
そのアナタが今は、
現実を正しく捉えるということは末梢的な事実を捨象すると言う。
何を抹消とするか、何を本質とするか検証することもなくバサバサと捨て去り、
捨てない人間に対して「誤読」だとか「論理を知らない」と言い放つ秀さん。
しかもその論理さえ「トリックをみやぶるために必要な道具」ぐらいにしか評価していない秀さん。
つくづく論理がかわいそう。

アナタはどうしてここまで変節したのか?
推論の根拠が「宮台真治がこう言った。内田樹がこう述べた」から一歩も出ていないところにアナタの限界があります。
まるでそれはローレンツの刷り込み現象か?
最初に読んだ宮台センセと内田センセがとにもかくにも正しいとア・プリオリに信じているのでしょうか?

アナタはついに最新記事で、
「反発だけを感じる人は、精神衛生上のためにもここには訪れないほうがいいのではないかと思います。」と宣言。
この言葉がご自分をどんなに貶めているかお気づきにならないのだろうか。
アナタが掲げる数理論理への冒涜であるとどうしてお気づきにならないのだろうか?
感情にまかせて開き直りを語る人の論理を誰が信用するというのか???

最後に秀さんへのお願い。
もう一度初心に戻って謙虚になって下さい。
以前のように「間違いは間違い」と受け止め、では何故間違ったかと検証して次に進んでいった秀さんに戻ってください。
以前の柔軟な思考をなさる秀さんがすぐそこにいると信じて、、、
秀さんご自身が今の「数学屋」さんと訣別なさることを願ってやみません。
さようなら、、、、数学屋さん。

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