憲法に於ける安全と安心
世の中、いろんなことがあって、アレも書こうコレも思っていたのですが、慌ただしくしていて、これらの鮮度が落ち、落ちてしまえばパトスが湧かない、したがってなかなかパソコンに向かえない、ということで今日にいたりました。
本当は一番書きたいことは、いう間でもなく「参議院選挙」です。
皆さん、棄権なんか絶対してはなりません!
棄権は危険。
先に何がまっているかを考えたら絶対、絶対、ぜったい棄権はしないでください。
(どこかの候補者は、誰とは言いませんが、、、ここ三年間
選挙に行っていないし、今回も投票権が無いそうですが、、、)
さてさて、そんな中で今日は少々気合いを入れて今回の参議院選挙の争点の一つについて見てみます。
ズバリ。
憲法です。
憲法9条を変えるか、守るかと言う争点がこのところ曖昧になって来ているようなので、もう一度見ていきます。
今日は、安全と安心について。
「安心」と言う文言は憲法にはありません。
「安全」は一か所、前文第二段にでてきます。
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日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
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今、私たちの周りには安全や安心と言う言葉が溢れかえっています。
卑近な例では言えば「食の安全・安心」、あるいは「住の安全・安心」、、、、と。
同列にとらまえられている安全と安心ですがこの両者の意味は明らかに違います。安全は客観的であり安心は主観的です。
私たちの生活の保障をしてくれるようなこれらの耳触りの良い言葉を憲法と警察法というフィルターを通して今日は見ていきます。
そもそも近代憲法の成り立ちは、権力が暴走したかつての封建社会の総括と反省から「国家権力を規制する」ために生み出されたものです。近代国家は夜警国家と言われたように国家の役割は防衛と治安でした。しかし20世紀意向の現代国家は社会保障や教育、労働など国家の役割を大きく拡張しました。
こうした背景の中生まれた日本国憲法は近代憲法と現代憲法の両方の性格をもっています。
そして平和や治安については誇るべき9条によりあえて安全や安心はことさら憲法に文言としては書いていません。
そして治安については警察に委ねるという形で安全を保障しています。
では警察は治安について今まではどの様な対策を行ってきたのでしょうか?
1996年から2002年までは検挙率が戦後最悪の記録を更新し続けました。しかし2003年からはかなり改善されて来ました。
が、警察当局は新しい概念を導入、つまり「体感治安」という客観的概念を使うことで、より国民を監視する方向へと進んでいったのです。具体的には監視カメラやコミュニティポリシング(警察が地域社会に入りこみ住民と協力しながら警察活動を行うこと)や迷惑犯罪も重大犯罪も同列に取り締まる「ゼロトレランス」などがそれです。
これらは一見、なんの問題もなさそうですが、実は大ありなのです。
何が問題か、と問われれば答えは「警察は安全・安心」を守ることを謳っているからです。そもそも警察法
第2条には以下のように警察の責務を規定します。
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第2条 警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもつてその責務とする。
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安全とは客観的な事実です。安心とは主観であり人それぞれ違います。
しかし警察が治安という名目で「安全・安心」を謳うことは、
活動としては安全が第一義であり人々の安心までは立ち入らないが、一方で安心を掲げ民事介入を積極的に果たしていくということです。
それは自民党改憲案にも見ることができます。
現憲法では安全という文言は憲法が規定するものというよりは保障する物としてとらまえていたため控えめであったのですが、自民党案は堂々とでてきました。しかも「国」「国民」「国際社会」の「安全」ということです。現実には社会福祉や教育は切り詰められるだけ切り詰められ、軍事と国民を監視する治安だけが「安全・安心」のスローガンのもと拡大していくということです。
「安全や安心な町作り」は大切です。
必要です。
国が最大の努力をして国民に保障すべきものです。
しかし、これらの安全安心が逆手にとられ、国民相互が監視しあい、権力がズカズカと私たちの生活に入ってくることがないように、しっかりと見ていく必要があります。
こうした意味からも現日本国憲法を守ることは、私たちの自由と権利を守ることであると改めて認識しました。
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