知・情・意の統合
「情」が分離された時代と言うエントリー名でブログ仲間(私が勝手に思っているんですが)の愚樵さんからトラックバックを頂きました。
音楽、とりわけクラシックに造詣深い愚樵さんゆえ内容もゲーテのベートーヴェンから始まり、憲法9条で結ぶという手際の良いエントリーの縦糸を紡いでいるのはベートーヴェン。横糸は「知・情・意」と「時代の精神」と言うとても深い洞察に富だ内容に、身から湧き出るエネルギーを感じた私です。
改めて愚樵さんありがとうございます。
さて、記事を読みながら彷彿と真下信一の「青年と読書」を思い出して早速本棚を漁りにいきました。
「教養は知識の量に関わることではなく、精神の質の問題である」と真下は言う。
マスコミによる細切れの知識の氾濫が受け手の精神を蝕み、次第に主体性がそがれ、受け身に慣らされていく。まさに過剰な情報の社会は教養を奪う時代であるとも言う。
そして、真の教養とは自分で考えることである。
そのために本に親しむことを作者は若者たちに奨めています。
愚樵さんのエントリーに立ち返るなら、以下のように書かれています。
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狂気といえば、普通は「知・情・意」の「情」が暴走した状態を考える。だから理性を保てなどというのだが、ここでの狂気はそれとは違う。暴走しているのは「知」の方である。「知」と「意」の相乗効果による暴走が生み出す狂気。これが第五交響曲の終末であり、現代の「時代の精神」のありようではなかろうか。
(愚樵さんのエントリーより)
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なるほど、暴走しているのは「知」であるからこそ、そこから生まれる狂気の凄まじさがしのびよるように感じられます。
「知」の暴走。
知、そのものが放つエネルギー、真理を探求しようというなみなみならぬ底からの力を暴走という方向ではなく正の軸に放つには何をもってすればいいのか???
それは芸術だろうか?
宗教だろうか?文学か???
私にはいまだわからない。
わからないが、わかることができれば、なんと幸せかと思うのです、、、
私自身は私の中での統合を探っていきたいと願いながら、、、
世界中では、現実に「知・情・意」の統合があるいは憲法九条であり、あるいはラッセル・アインシュタイン宣言であり、
あるいはパグウォッシュ会議でありと、様々な形で具現化していることはとても嬉しくもあり未来に繋がるものでもあります。
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コメント
せとさん。今晩は。
興味深く読ませていただきました。現実の政治、経済等を見つめ、民主政治をより充実したものに発展させるためには、この問題は、避けては通れない大変重要なものと認識しております。
私も考えてみたのですが。 いわゆる「知」、と【理性】は異なるものと考え(関連はあるが)、そして理性の役割を捉えなければ、現実において「知・情・意」の統合は困難ではないだろうかとも思っております。
>私にはいまだわからない。
わからないが、わかることができれば、なんと幸せかと思うのです、、、
私自身は私の中での統合を探っていきたいと願いながら、、、
私は、せとさんのこの叫びに触発されていわゆる「知」、ではなく【理性】への血路を開くヒントを与えられたとの思いでおります。
投稿: hamham | 2007.08.05 22:34
拙ブログのエントリーに対して勿体ないほどのお褒めのお言葉ありがとうございます。
お褒めいただいた勢いに乗って言ってしまいますが、あのエントリーは単に「お話」として書いたつもりではないのです(瀬戸さんはわかってくださってますよね、きっと)。「情」を分離し「知」が暴走する時代とは「近代」です。21世紀になった現在も、私たちは「近代」から脱し切れていません。
「近代」を脱しきれずこのまま進めば、グローバル化してしまった私たち人類の文明は行き詰ってしまうのはもはや明らかです。なのに、まだ私たちは脱「近代」の処方箋を見つけられずにいます。この理由は、「知」が暴走しているのにそれをいまだ「知」で理解しようとしている、私たちの時代への姿勢そのものにあるのではないか。そんな思いをもとに書いたエントリーでした。
投稿: 愚樵 | 2007.08.11 23:56