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2008.01.28

科学の共有

PSJ渋谷研究所Xと言うユニークなブログを書いている亀さん。
「神の手」やニセ科学批判で鋭い洞察を加え、また教育問題でも学ぶことの多いブログです。
私も訪問するたびに目からウロコをあっちこっちに置いて帰ってきます。
さて、そんな亀さんの〜〜〜「科学」なんだから共有しようよ〜〜と言うエントリー、
読みながら考え込んでしまいました。
いえね、いっぱい、いっぱい考えることが山積なんですが、、、
私はこのエントリーを読んでから実はずっと、ずっと考え続けていたのです。
それで、つい本棚の森毅「数学的思考」なんかを手にとり、何度も同じ箇所を読み、
さらに「わかるとはなにか」とか、ついには菜根譚まで何故か読んで、
結局、「わかっていない自分」というものを目の当たりにしただけです。
が、
とりあえず、一番気になったテーマの
●学問=科学でもない。共有可能かどうかが鍵という提起について考えてみました。
(亀さんの思いの深さには到底及ばないが、、、)

森毅は先の本の中で、
「アカデミズムの分化はアカデミズムの孤立化でもあった」と述べています。
19世紀の時代にあって公教育が果たした役割、果たさざるをえなかった役割が今なお残っているというのです。
森はまず導入で「迷信はどうして生まれたか」として、数学神話の7つの迷信について述べます。
例えば、数学が出来る者は頭がいい、
数学は道具である、、、、
とかとか、
について語り、次に数学史を繙きます。
そして、この章のまとめとして、上にあげた結論へと至ります。
日本においては明治政府は国力増強をなによりの目的として、
それは教育も例外ではなく、というより教育こそ積極的にその役割を担った、
それゆえ、小学校では良い国民になるため身の回りの処し方などが中心に据えられ、
数学は雲の上からの一握りの雫であり、その雫は一部の者にだけ注がれていく。
このような図式はやがて固定観念となるまで広がっていく。
科学は共有するという選択よりは心情主義・スローガンに吸収されていき、
それは今に至る、、、、

と、言うのです。

亀さんは「科学なんだから共有しよう」と提起なさいます。
私もそう思います。
みんなの財産なのだから。
人類の叡智の結晶なのだから、
あるいはこれからだって続くであろう解析や解明の一歩を、皆で共有する必要を感じます。

そして、
その前に立ちはだかっているものは何か???
改めて考えれば考えるほど、
アカデミズムの分化ではなく、総合的な力やバランスを養う教育のあり方を今一度問うべきなのではと思うのです。
特に、今、子どもたちが抱えている教育環境を思えば思うほど。
偏差値でズバズバと輪切りにされていく現状。
「わからなくてもいいんだよ、いずれわかるときがくるかも、、、」と置いてけぼりしていく現状。
でもさぁ、いいんだよ。素直なら。
と、教育が徳育に変りつつある現状。
やっぱり変です。
みんなのものにしていきたい、、、と私も亀さん同様喘ぎます。

これはまだまだ考慮中ゆえ、
考えがかわることもありますが、
いずれにしても亀さん、ありがとうございました。

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コメント

せとさん、こんにちは。
トラックバックありがとうございます。
でも、いま、ウチが使っているブログサービスは、更新もコメントもトラックバックも「できるんだけど表示されない」というヘンテコリンなトラブルに大々的になってまして(汗
復旧次第、表示させますのでご容赦を。

おっしゃるように、原理的には共有できるはずの仕組みでも、実際に共有するのは難しいという事態になっているとは思います。多分、ぼくが「小学校からやってきたこと」と言っちゃった部分だって、どうしてもピンと来ない人(あるいは共有できない人)もいるはずで。
そう考えると「現代の科学技術の複雑化に伴って」とか言いたくなったりもするんだけど、実はそれこそソクラテスの昔から、共有できてこなかった部分っていうのはあって。

おそらくそれは能力の問題とかではなくて、「他者(の言説や思考)に対する信頼」みたいなものを幼いときに身につけられるかどうかが大きく関わっているんじゃないか、そして、それこそが「論理に対する素朴な信頼」の正体なんじゃないかとは思うのですが。

別々の人間なので、脳みそ同士を結線でもしない限りはどうしても理解できない部分もある。特に感情に根ざすような部分は、似たような体験をしていれば容易に共感できる場合もあるけれども、逆に誤解も生じれば想像さえできない場合もある(精緻に言語化しづらい分だけよけいにあるのかも)。だけど、話し合ったりすれば、なにもしないよりは、ある程度は互いに理解し合える部分があって、そこを頼りに人間は結びついていける……と信じられる。そんな感じ。

森毅さん、「勉強できなくてもいいじゃないか」「いっぱい失敗すればいいじゃないか」みたいな本があって、とっても好きでした(図書館に返してしまったので、タイトルもうろ覚えですけど・汗)。

投稿: 亀@渋研X | 2008.01.28 14:13

瀬戸さん、こんにちは。

ご紹介のモリキの本、面白そうですね。私も読んでみようと思います。それから、渋研のご紹介もありがとうございます。こちらは早速読みに行ってきました。

「科学の共有」、面白い切り口だと思いました。そうですね、共有したいものです。

ここで少し、僭越ながらワタクシの科学観を。思うに科学とは、言語の上に立つ言語ではなかろうか、と。
科学は基本的に言語(母国語)を通じて修得します。母国語の修得は“自然に”行われますが、これは地域によって異なった体系を持つ。この理由はいろいろと考えられるでしょうが、ひとつには風土が異なるという理由もあるでしょう。

ところで、自然科学で扱う自然は、誰にも共通なものです。この自然を言語(母国語)によって言語化したものが科学。数学も同じ。自然科学が共有可能なのは、そもそも自然が共有されているから。対して人間に対する科学は、その対象の全てがすべての人間に共有されているわけではない。これが文系の曖昧さに繋がっていくのでしょう。

科学も言語の一種だとすれば、科学教育のための環境も母国語修得の環境に準じたものにすればよいことになりますね。で、子供に言葉を教えるのに「論理的に教える」なんてことをする親などいません。子供が言語を取得するのは共感の場の中なのだと私は思っているのですが。

子供の言語修得に関して、例えば虐待を受けた子供とそうでない子供との間では、差異が見られるのではないでしょうか?

投稿: 愚樵 | 2008.01.29 07:52

亀さん。
愚樵さん。
おはようございます。
とても考えさせられるコメントありがとうございます。
お二人のコメント拝見しながら、またまた裾野の広がりを感じている私です。
ワクワクします!!!
お二人の共通項は「他者への信頼」なのかな、、、と思ったりしています。
デカルトは「だれにも自分自身の代わりに理解してもらうわけにはいかない」と述べたと、森毅さんの先の本には書かれていました。
確かにそうなんですよね。
時々、私が今、見ている赤色はみんなも同じように赤色なのだろうか???
物理では波長の長さとかで色が決まるが、でも私が見ているこの赤と同じか????
とかとか悩んでいる私です。
だがしかし、
自分自身の理性以上の教義を認めない、その時代を人は乗り超え、さらに発展していく過程で、
他人との共有を獲得していったのではないかと森さんは語り、私もそう思います。
亀さんがいわれるように、
脳を結んだり(*^_^*)
愚樵さんがいわれるような「共感の場」の大切さを改めて思います。
そして声を大にする必要も感じています。
また考えてみます、、、

亀さん。
コメント、トラックバックの障害、はやく修復するといいですね、、、

愚樵さん。
華氏さんも森さんがお好きみたいですよ(*^_^*)

投稿: せとともこ | 2008.01.29 12:16

はじめまして、こんにちは~^^

面白そうな話をしていますね。私はこういう話は大好きです(笑)

ま、でも、瀬戸さんには迷惑かけたとの思いがありますので、遠慮気味に「足跡残し」の感じでの訪問ですw

その節は本当にご迷惑かけました。ここにお詫び申し上げます。

記事に関係したこともひとつ^^

科学的思考には「数学脳」が基本的に必要だと思っています。論理的に物事が考えられる人間になりたいのですが、これがなかなか難しいのです。「数学脳」が無いからなのでしょうね(爆)
いろんなことに対する態度で、「感情」が支配することがやはり多いです。

いまさら変えられないけど、こういう話題の記事を読んで勉強していきます。
では~~~^^

投稿: ニケ | 2008.01.29 13:38

瀬戸さん、こんにちは。

なんとなく関係がありそうな気がするのでトラックバックを送ったのですが通らないので(FC2ブログのせいかも)コメント欄に書いておきます。

「科学とは何か」
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-entry-179.html

投稿: シカゴ | 2008.01.30 01:12

こんにちは。ブログの方はなんとか復旧したもようです。でも、避難所も作っちゃいました(^^;;

愚樵さん、こんにちは。
>言語の上に立つ言語
メタ言語ってことですね。そうかあ、そういうことはありそうです……と思ったら、あるんですね、そういう説明も。

科学と信仰−知恵の木の実と命の木の実−
http://www.kingdomfellowship.com/Treatises/sciandfaith.html

これを書いておいでなのはお医者さんか医学者。実は「反進化論」の人たちの論考集ということですが、「進化論は間違っている」という話は最後の注釈に初めて出てきて、それまでは別になんとも思わずふむふむと読めます。注釈でびっくりしたけど(^^;;

枠組み(フレーム)の話なんかは、ああ、なるほどなあ、とも思います。

>人間に対する科学は、その対象の全てがすべての人間に共有されているわけではない

そうだよなあ、と思いつつも、このご指摘でボクは「肩こり」と「痔」を思いだしてしまいました。どっちも英語にはないんだそうです。うろ覚えですが、肩こりに至っては、医者同士でも症状をうまく伝えられないなんて話もあったんじゃなかったかな。おもしろいのが、日本に来て「肩こり」を知った英語圏の人たちは、ちゃんと肩こりにもなるんだそうで(^^;;
もうひとつは「虹の色はいくつ?」という話もあります。7色だけでなく、国によって6色とか、いろいろのようです。お国柄や文化の話とも言えますが、光のスペクトルはいくつに分けられるか、という話だと考えると人間の知覚や認識の話、自然科学の問題にもなりますよね。
自然科学でも対象が人間になると、おっしゃるような曖昧さの問題からは逃れられないのかもしれませんね。

ニケさん、こんにちは。
>「数学脳」
おお、また新しい脳が!(^^)

昨年、何人か中学生を教えている塾の先生とお話をする機会があったのですが、口を揃えて「女子生徒は、一般に数学が苦手だ」と言うんですよ。ぼくの学校時代の印象では、女子って数学だろうが何だろうが、まじめに勉強してちゃんとこなしてた、って感じだったのでとてもびっくりしました。
よく「女性は論理的思考が苦手」なんて話を聞くのですが、ぼくは疑ってたんですよね。そんなの関係ないよ、男性にも女性にもどっちのタイプもいるよ、って。しかし、何人もの塾の先生が言うので、ちょっとたじろいでいます。

せとさん&みなさま
うちの記事のコメント欄で「技術開発者」さん(ていうハンドルなんです)が、東洋哲学での共有について、おもしろいことを書いておいでですよ。オススメです(^^)

ではでは、長々とお邪魔しました。また今度(^^)

投稿: 亀@渋研X | 2008.01.30 02:28

ニケさん。
シカゴさん。
亀さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。


ニケさん。
初めまして。
水伝の折りは終息しているものを、またゴタゴタとかき混ぜて申し訳ありませんでした。
擬似科学ときくと、つい検体の鮮度や検証について考えてしまうので、当該のエントリーについても差し出口を利いて、当事者の方々にご迷惑をおかけしました。
慙愧にたえません。
ただ、今回の件は私にとっては新たな問題提起になったと喜んでおります。
こんな私ですが、これからも宜しくお願いいたします。

さて、数学脳ですか。
私は例の件を通して、お腹でド〜〜〜ンと分かったことは、結局は「ひと」であるということでした。
感情って大切ですよね。
論理がどんなに素晴らしくても、それが借り物ならはがれてしまいます。
自分の中で血に肉にする過程は、ある意味見苦しくのたうち回るものかもしれないと思うのです。
ニケさん、お互いに楽しく修行しましょうね!
また、お付き合いくださいね(^.^)


シカゴさん。
エントリー、拝見しました。
考え込みましたよ!!!
「僭越が誤謬の本質である。ガラス玉は真珠であると僭称するときはじめて贋物となる。」
なるほど。
本当に。
ガラス玉がガラス玉であるとき、それはその物性のあるがまま、そのものであり、ガラス玉としての真理なんですよね。ところが、これが真珠と自らを述べるとき、ここに贋物が出来上がる、、、

ううう〜〜〜ん。
疑似科学やあるいは捏造など気がつかないうちに曝露されている私たちにとって、
本物を見極める事の大切さを改めて考えました。
この問題、また考えてみますね!!!
(^.^)


亀さん。
お忙しいところ、ありがとうございます。
私も東洋哲学には興味を持っています。
禅の思想やテーラーワーダの教えるところは、私にとって、学ぶことが大きい思想です。
技術屋さんからも、またいろいろ教えていただきたいものです。

「分かる」とは何か?
平易に伝えていくことを今の私の課題としていきたいものです。
これからもウロコを置かせてくださいね(^.^)

投稿: せとともこ | 2008.01.30 18:08

亀さん、そして管理人の瀬戸さんと皆さんへ
突然、挨拶とお詫びに名を借りて乱入?しましたことをお詫びいたします。
何というか、人間的な扱いで迎えてくれたことに感謝いたしております。ありがとうございました。

で、やはり少し書いておきたい思いもあったので、ついでといっては何ですが、書きます。(笑)

実は「数学脳」などという言葉が元々あったのかどうかを確かめもせず、使用してしまいました。
本の宣伝になったとしたなら不本意ですが、私は単に物理や科学一般の世界では「感情」が入りにくい数学的思考法が重要だと思っていましたし、論理の構築には、数学的思考が無ければ矛盾無く説明が出来ないのだろうなと、日ごろから思っていたので、つい無意識に使ってしまいました。

私は人間社会の発展に科学が寄与した功績の大きさには、感謝と感動が言い尽くせないほどあります。主として観念が支配してきた人間の思考が、唯物思考に大きく変化してきたこの流れはおそらく変わることは無く、いずれは唯物思考が人間の思考の大部分を占めることになるとの予感を感じています。
そのときは感情のみで動く人間は、ひょっとしたら劣等種扱いになるのかな?との馬鹿な空想さえしてしまいます。(笑)

ここで、ついでのついでで私がブログを続けていった場合の、エントリーの「ネタ」を書いてしまいます。

私の妹の長男が、小さなうちから計算が得意で「これは、わが家系にも大人物が現れたか?^^」などと期待したものです。そして、他の学業は平均点以下だったのだけれど数学的な学力評価から特待生の形だったのか大学に入れました。
彼は近くには住んでいなかったので、高校生ぐらいのときに会ったとき疑問点をぶつけてみました。

「数学はどんなところが良くて、好きなんだい?」と

答えを聞いて驚きました。
彼は数字の「文字」に対して感情が高揚するというのです。とにかく数字の文字です。
「1.2.3.4…」の文字に極めて反応して「うれしくてしかたが無い!」
漢数字は駄目です。ローマ数字も駄目。アラビア数字だけに喜びを感じるというのです。
0(ゼロ)をみて喜び、1(イチ)を見て感動し、すべてのアラビア数字に恍惚となるというのです。
計算が速いとか、数学が理解できるなんてのは、おまけに過ぎないのでした。

そういえば、日本画家の方と話したことを思い出しました。やはり、「なぜ絵画の世界にあなたは住もうと決めたのですか?」と聞いたときもそうでした。その方も、「一本の真っ直ぐな直線、見事な三角や四角形、丸や点、そして、さまざまな色、赤、青、黄、黒、すべてが感動をもたらし、幸せを感じて、たまらない」からです。と・・・
そしてこんな話も・・・、声楽家には「車の運転中に発声練習を禁止してるって話があると聞いたよ」というのです。思いっきり声を出して練習しているうちに前方のことなど全然意識に無くなるらしいのです。

ま、いろいろ誇張はあるでしょうが、人間というものが本当に千差万別だということを知ったことでした。

瀬戸さんにはうれしいお言葉を頂戴しました。
>ただ、今回の件は私にとっては新たな問題提起になったと喜んでおります。
>こんな私ですが、これからも宜しくお願いいたします。
もったいない、感じ入っております。こちらこそよろしくお願いいたします。

亀さんにも
「最近変なのが読みにきてるな?」と警戒せず、見過ごしてくださいね^^

あ、ここはコメント欄でした。長文になったことをお許しいただきたい。

これからはあなた方のエントリーを私の楽しみに加えて勉強させていただきます。

ありがとうございました。では~~~^^

投稿: ニケ | 2008.01.30 22:14

ニケさん。
こんにちは。
コメントありがとうございました。
何回も拝見いたしました、、、
素敵な話ですね。
甥子さんの感性って本当に素晴らしい。
天才ってそうなんでしょうね!
何故か分からないが出来る、
たのしい、
そして数学が芸術のようにイキイキと動き出す、、、
本当に読んでいても、こちらまでワクワクしました。
私も幸せのおすそ分けを頂いた気分になりました(^.^)
ありがとうございます。
ここでもコメントをいつも下さる愚樵さんは、私とは言葉を超えた知、本来なら邪魔な知、切り捨てて後に出てくる知に対して、いつも論がはずみます。
捨てるものと拾うものがテーマです。
ニケさんも、また蘊蓄あふれるお話お聞かせくださいね。
楽しみです。
なお、ニケさんのブログ、息子さんとのお話のエントリー、よかった!!!
映画の一場面が切り取られたようなシーンでした。
ごく普通のなにげない親子の対話から、みえてくるものがいっぱいありました。
縦糸は情愛、横糸は世代のずれ、、、
もつれ、からまり、そして人生を紡ぐのでしょうか???
また、お聞かせくださいね。
では、、、

投稿: せとともこ | 2008.01.31 14:47

こんにちは、せとともこさん。

>禅の思想やテーラーワーダの教えるところは、私にとって、学ぶことが大きい思想です。
>技術屋さんからも、またいろいろ教えていただきたいものです。

東洋思想の専門家という訳ではなくて、私が自分勝手に陽明学にかぶれているだけなんですけどね。なんていうか、ニケさんが書かれた様に、「人間の動機付け」というのは、必ずしも合理的なものでは無いと思うわけです。それを、合理的な理由に押し込むのではなくて、「うん、不合理でもあるんだよ」とまず見据えて、それを、活かすという考え方が大事なんじゃないかなと思うんです。

 陽明学では、人の心にもともと善も悪もなくて、人の心か動くときに善悪が発生すると考えます。その善悪というのは「動き足りない、動きすぎる」時に悪となり「ちょうど良く動いた」時に善になるという考え方なんですね。でもって、その「ちょうど良さ」と言うことも実は人の性質の中にきちんと感知能力があるのだけど、人はなかなかその「ちょうど良さ」を感知する事ができないのだと考えます。その感知能力の事を「良知」と言い、良知を磨くことで常に心がちょうど良く動くことができるとするわけです。

 或る意味で儒学というのは、非常に実利的な哲学なんです。人の持つ不合理については「あるよ」と簡単に認めてしまい、その上で「どう生きるか」を追求している様な面があるんですね。

投稿: 技術開発者 | 2008.02.01 17:59

技術開発者さん。
こんばんは。
コメントありがとうございます。
お名前はTAKESANさんや亀さん、apjさんのブログでいつも拝見しています。
冷静で深い洞察に教えられています。

さて、陽明学。
私は陽明学に出会う事無く今までやってきたのですが、
お話を伺って、さらに教えていただきたいと思いました。
私自身は、いつも己の無力さに喘ぎながら、
それでも、なんとか打開策はないか、折角生まれてきたのだから、何か自分自身で納得したいと、這いつくばるように本を読み漁りました。
座禅をしたり、気功もしたり、とかとか、、、
未だに無明はあけない自分がここにいます。
ただ、ひたすらでありたいと願いながら、
ともすれば中途半端な知に邪魔されながら、
喘いでいます。
「どう、生きるか」おっしゃる意味、本当によくわかります。
不条理であるゆえ、その不条理さえ飲み込む大きさ、
まだまだです、、、

こんな私ですが、これからもお教えいただけると、とても嬉しく思います。
よろしくお願い致します。

投稿: せとともこ | 2008.02.01 22:06

こんにちは、せとともこさん。

>私は陽明学に出会う事無く今までやってきたのですが、
>お話を伺って、さらに教えていただきたいと思いました。

最初にお断りしておかなくてはならないこととして、陽明学は危険な考え方とみなされている面があります。「知行合一」「事上磨練」などの行動主義とみなされる考え方があるために、時として「謀反人」を生みだしてきましたからね(笑)。

陽明学における一つの理想に「色を好み、臭を悪むごとく」というのがあります。美しいものを見たときに自然と目が惹きつけられる様に善に対して自然にその行動がとれ、嫌な匂いに自然と息を詰めるように悪に対して自然に忌避する状態です。これは、そうなるように自らを矯正するということではなくて、自らの中にある善悪の感知能力を磨けば自然になされると考えるわけですね(なかなかそうは成れませんけどね)。

この善悪の判断すら自律応答すると考える部分が「危険思想」とされる原因なのです。

投稿: 技術開発者 | 2008.02.02 06:02

技術開発者さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
お返事遅くなり失礼いたしました。
週末はなにやら慌ただしく過しています。

さて、頂いたコメントを拝見して私も学校で習った程度の言葉「知行合一」とかを思い出しました。
ネットでちょっといろんなところに行ってROMしてきたりと、、、おかげさまで、ほんのちょっとですが陽明学が近くなった気がします。
その奥義の深さには、到底及びもしませんが、
技術開発者さんが言われた、「色を好み、臭を悪むごとく」、なるほど、確かに人はその性として心地よいもの、それが善で、悪しきものは忌避するというのは備わっていると思います。
本能と言うか、生存の法則と言うか、、、
そして、その「色」と「臭」とが社会環境で変化していき、価値がつけられることで、自然に備わっていた感性が損なわれてくる、、、ということでしょうか。
己の感受性をたえず磨き、
色は色として、臭は臭として受け止めるように在りたいと私も思います。
そして、それはいずれの場合でも己にのみ向けられるものでないといけないんでしょうね。
他は他。自にあらず。
人への物差しであってはならないということでしょうか。
技術開発者さん。
ありがとうございました。
なんだか、とても清々しい気持です。
また、いろいろお教えくださいね。
楽しみです!!!
では、、、また。
お風邪などひかれませんように。

投稿: せとともこ | 2008.02.02 17:22

こんにちは、せとともこさん。

>色は色として、臭は臭として受け止めるように在りたいと私も思います。
>そして、それはいずれの場合でも己にのみ向けられるものでないといけないんでしょうね。

この、「色を好み、臭を悪むごとく」、とその前に述べた

>善悪というのは「動き足りない、動きすぎる」時に悪となり「ちょうど良く動いた」時に善になる

は、一緒に考えて欲しいわけです。ニセ科学批判などしていますと、「君たちのやっているニセ科学批判が行きすぎて、健全な科学に発達すべき未科学を阻害するのではないか」という論旨にあたったり、「ちょっと気が迷ってニセ科学言説を口にしてしまった有名人を人格まで否定する様なバッシングに晒すことになるのではないか」という論旨にあたったりするわけです。

人は「正義ゆえに誤りを犯す」というのはありえる事です。それを私などは「心が動きすぎる事による悪」と捉える訳ですね。でもって、その「心が動きすぎる事による悪」もまた悪として心が指導的に臭を感じてセーブするようにならないといけない訳です。

なんていうか、「世の中に誤りを出す」という悪を、きちんと自分の心が悪として感知するから、「そういうのはおかしい」と行動を起こすわけです。その行動を行きすぎない範囲でしている限り、自分の心は平静である訳ですね。でもね、そういう悪を嫌悪する行動が行きすぎそうになると自分の心がそうそう平静ではなくなるものなんですね。単純に言うなら「やりすぎているかな」という「行きすぎを嫌悪する嫌悪感」というのが出るものだと考えている和気ですね。

なんて言いますか、こういう内面的な制御というのが無視されている社会になっている気がするわけです。非常に他律的になっていて「あれは悪だ嫌悪せよ」でワッと嫌悪しなくてはならなくなり、「それはやりすぎだ、手控えろ」でワッと手控えるみたいな感じですかね。そういう中で振り回されたら、どっちの行動を取るにしろ心は波騒ぐだけになると思うわけです。

投稿: 技術開発者 | 2008.02.04 09:37

技術開発者さん。
こんにちは。
頂いたコメント拝見して、考えました。
何回もなんかいも読みました、、、

そうなんですよね。

人は「正義ゆえに誤りを犯す」というのはありえる事です。

本当に。
その通りだと思います。

例に出された疑似科学批判も、まさにそうだと考えます。
擬似科学は明らかに誤りだし、それは正さなければならない、だがしかし、それは人格批判であってはならない、、、
はずと言うことは分かっている。
が、
批判と言うからには、「批判」された者は、つい正す前に防御の態勢に入り、
それからが、ゴチャゴチャになっていく。
気がつけば、疑似科学を信じている方が「穏やか」な人格であるような印象さえ与えてしまう、という昨今のアレコレを見ていると、
問題の本質が削られ、見えにくくなっていると感じます。
私にとっての課題でもありますが、
「言葉」ですねぇ、、、
他律ではなく、とことん自分を見極め、そしてスコンと抜けていきたい、、、
そんなものを目指したいものです。

何か、お奨めの本などありましたらお教えください。
読んでみたいと思います。

では、、、またね(^.^)

投稿: せとともこ | 2008.02.04 13:59

せとさん、こんばんは~^^

おかげさまで、この三日間は亀さんをはじめリンクを辿って読みまくりました。(笑)
技術開発者さんのお名前もあちこちでお目にかかりました。

そういえば、まだ亀さんにもきっちりと挨拶していなかったかな?と反省しています。そして、技術開発者さんにもこの場を借りてご挨拶させていただきます。お二方、これからもよろしくお願いいたします。

さて、「水伝」についてのさまざまなご意見を読ませていただきましたが、この場で何かを申し上げることは控えます。と、同時に、正直まだ結論には至っていません(^^;
といいながら、少し触れるというアサハカさ!w

ただ私は大部分を読み終えて、一言で言うなら「怖いな」という感じでした。
私は、何か他のほうでも騒々しいことになっているらしいとの感覚でしかなく、今まで見ようともしなかった。

読んでいたらどうだったのだろうか?と考えたとき、自分が後先考えず進んだかもしれないなと思っています。
「あ~、よかった!」といったらいいのかもしれませんね^^

この件は、非常に危険なにおいが感じられます。相当な科学的な基礎知識と思考が無いままに簡単に飛び込むと大火傷をする話題だといっておきましょう。

ま、これぐらいにしておきます。また発言することがあるかもしれませんが、今日はこれまでとしておきます。

せとさん、亀さん、技術開発者さん、本当に良い勉強になりました。ありがとうとお礼を言わせていただきます。

これからも皆さんよろしくお願いいたします。では~~~^^

投稿: ニケ | 2008.02.04 20:35

こんにちは、せとともこさん。ニケさん、よろしくお願いします。

なんて言いますか、「行きすぎ」という視点は、「行きすぎを止めるのは正義」という部分にも成り立つ訳です。

変なたとえ話になりますが「そんなこと信じているなんてバッカじゃないの~」なんて言い方とかそう言われるような社会風潮とかについてもあるわけです。人が何か気の迷いで不合理な話を信じた時に、こういう言われ方というのは、まあ、楽しくは無いわけですね。だから、「どこが違うのかをきちんと言ってあげなさい、馬鹿なんて人格否定をするような言い方はやめなさい」なんて事に正義があるみたいに感じてしまうわけです。でもね、人間という不合理な存在は、「バッカじゃないの~」と言われる方が、理路整然と否定されるよりも「馬鹿にされるのは嫌だから、もう少し慎重になろう」という意識を起こしやすいものなんですね。なんていうか、「麻原なにがしは座禅したまま宙に浮く」なんて話を「バッカじゃないの~」とする風潮が薄れることで、最終的に地下鉄サリン事件にまでつながっている面があるわけですよ。

もちろん、人が何かを信じたからと言って人格まで否定すべきではないのだけど、それが行きすぎ無い範囲で「バッカじゃないの~」という「人を嗤う、人に嗤われる」という風潮を持つことは社会にとって必ずしも悪くはないのではないかと考えたりしているわけです。

投稿: 技術開発者 | 2008.02.05 08:42

こんにちは~^^

せとさん、技術開発者さん、お世話になります。
もう少しこの場を借りて、引きずってきたものを書くことになるのかもしれませんね。
せとさんからの了解が得られるかどうかのお返事をお待ちしています

ま、お返事待ちする前に、なんと言うか、折角書き始めたので少しだけ!(いつも“少しだけ”といいながら・・笑)

実のところ今回の水伝騒動においては、技術開発者さんの意見と同じような結論ではあります。

>なんて言いますか、「行きすぎ」という視点は、「行きすぎを止めるのは正義」という部分にも成り立つ訳です。

まさにそのとおりでして、その視点からの発言が無ければ、加熱しっぱなしで魔女狩りにも似たようなことになりかねませんでした。ですからその「正義」については私も認識しています。もちろんその「正義」は批判される側の「行きすぎ」に対しても共通に存在しているものだとの認識も持っています。それだけに皆さんが各自軸足をどちらに置くかで対立の構図になったように思います。
でも私は、皆さんが大人なので、「今は一方のひとつの視点から対立する片側にいる人」も、いずれは相手の主張にも歩み寄って自然に落ち着くところに落ち着くだろうとの予想をしていました。で、結局は皆さんのおかげで、正月から始まった「政治ブログでの水伝騒動」はほぼ終わりを告げたと思っています。
しかし私には残念なことが残っていますがこれは言わないほうが良いのでしょうね^^

技術開発者さんの、ひとつ前の投稿で
>「心が動きすぎる事による悪」
にもそのとおりだと思います。私にも結局はそれがあったと思います。ただ残念なのは・・・(まだ言ってるwww)^^

>もちろん、人が何かを信じたからと言って人格まで否定すべきではな
>いのだけど、それが行きすぎ無い範囲で「バッカじゃないの~」という
>「人を嗤う、人に嗤われる」という風潮を持つことは社会にとって必ずし
>も悪くはないのではないかと考えたりしているわけです。

そのとおりだと思います。「必ずしも悪くはない」のです。むしろ健全ということでしょうね^^
人格否定については、「人は論に詰まると人格否定に走りやすい」とは見ていて、人格否定を始めた方がいると、「あ、この人は追い詰められたな?」と見ています。
ただ、小人はこのことに気付かないでしょうね。(と、人格否定をしてしまう、私。)w
いずれにせよ「水伝批判」の難しさは、批判する側が「批判対象をしっかり見極められる人物かどうか?」なのであって、ただ闇雲に「こいつもだ!こいつもだ!」と子供のようにはしゃぎまわっているようでは、今回のように「私も半ば当事者」で無かったならなかなか参戦しなかったでしょう。
その点において、技術開発者さんには敬意を表明するしだいです。

人格否定をしないで、筋道を立てて問題の解決を図る能力が私には無いことを自覚していますので、そちらまで出向くことが無かったのを幸いと感じています。
ちなみに「嘲り笑う」ことはどちらかというと好きなほうですが、それは出来る限り「権力者・支配者」に対して行いたいと思っています。

「水伝」の危険性とは、同じように生活する大衆に対して「互いに傷つけ合う道具」となるものだと認識しました。もしまた私の近くに騒動が起きたときは、技術開発者さんの姿勢を思い出し、それに沿った意見を述べることとします。

本当にありがとうございました。ではこれにて~^^

投稿: ニケ | 2008.02.05 13:42

ニケさん、
技術開発者さん。
こんばんは。
コメントありがとうございました。
お二人のコメントを拝見して、またまた考え込みました。
それで、思い出したのが「阿修羅と帝釈天」。
今日は、それを、それとなくエントリーにしました。
さて、アレコレと悩ましい水伝。
この問題が起きたときは「正論という感情」という言葉が頭をよぎりました。
実は私の中で、私の問題として未だ整理できていません。
あっ、それは当事者の方々の取り巻くいろんな事とか感情ではないのですよ。あの事例はもうすっかり手から離していますので、その後の展開は「勝手にどうぞ」という感じ。(ニケさんも、離していらっしゃると思いますよ)
そうではなくて、
一般論としての有り様です。
擬似科学を、あるいはそれに類するものって、なかなか魅力的に私たちの生活に入り込んできますよね。
TAKESANさんが今日も「華麗なる威力」なんてエントリーを挙げていらっしゃいましたが、
実に多くのこうした情報に暴露されている中で暮らしている私たち。
その陥穽にいつはまるかもしれないという意味ではみんな等しく同じだと思うのです。
身近な誰かが(私の周りには山ほどいるんだが、、、、)それにはまっているって分かったら、
私はどんな風に言うか???
(擬似科学ではないが新興宗教とかもあったりして)
どんな対応が一番いいか、つまり相手に伝える事ができるという意味で、、、
とかとかいっぱい考えたわけです。
「ばっかじゃないの」って言いたいのですが、
これがそうもいかないんだよねぇ。
そもそも正しいとは何か???
まで考えだしたら、もう私の頭はパンクです。

それで、さらに思うことは、
やはり理科教育というか科学教育の充実なんですねぇ〜〜〜
この辺りの貧困が、擬似科学の温床になっている気がしてなりません。
ううう〜〜〜ん。
考える事ばかり。
だから楽しい!!!

まだまだ見えないのですが、
どうぞ、これからもいろんなご意見やアドバイス、お聞かせください。
楽しみにしています。
では、、、ね。

そうそう、追記というか、、、
ニケさんも先ほどブログを拝見してのですが、お忙しかったのですね。
いろいろおありだったのですね。
どうぞ、ご自愛下さいね。

投稿: せとともこ | 2008.02.05 18:31

ニセ科学批判とは何か?あるいは、何であるべきか?
http://slashdot.jp/science/comments.pl?sid=393093&cid=1312684

投稿: 室井健亮 | 2008.03.13 23:29

せとさん、こんにちは。

トラックバックが通らないのでコメントで失礼します。(FC2ブログの不具合かどうかは不明ですが……)

『認識と言語の理論 I』を読む 1(5)――真理から誤謬への転化
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-entry-192.html

投稿: シカゴ | 2008.04.05 14:08

シカゴさん。
こんにちは。
トラックバック通りませんか????

どうしたんでしょうか?

いずれにしても、シカゴさんのエントリー、
拝見させていただきます。
また感想など書かせていただきますね(^.^)
じゃまたね。

投稿: せとともこ | 2008.04.05 17:28

ご無沙汰してます。

このエントリーを利用させていただきました。
といっても、自分の会話の部分だけですが・・・

TBの形を取らずこちらに貼らせていただきます。
水伝でご活躍の方々には心からエールを贈らせていただきます。
ではこれにて~^^

http://nikemild.exblog.jp/7786343/

投稿: ニケ | 2008.04.27 17:20

こんにちは、ニケさん。

>このエントリーを利用させていただきました。
>といっても、自分の会話の部分だけですが・・・

私の発言を沢山引用していただき、また好意的な感想を付けていただいてありがとうございます。

 最近はニセ科学批判に関して「リアリティの喪失」という事を考え始めています。原始時代に「弓矢の工夫をする暇があったら神に祈れ」という部族もあり、「弓矢の工夫の間は神様のことを忘れて工夫して、狩りの前に祈って出かけよう」という部族もあって、我々は生き残った後者の末裔ではないかなんて話もこさえたりするんですよね。でもね、もし原始の村で「祈りだ」「いや工夫だ」という論争があつたとしたとしても、たぶんどちらも「今の蓄えが無くなる前に獲物が捕れないと飢える」というリアリティを持っての論争だっただろうと思うんです。

 でもって、ニセ科学批判の言い出しっぺであるきくちさんたちは、「獲物が捕れないと飢える」に近いリアリティを持って批判を始めたんだと思うんですね。「水伝が教育に取り入れられている。そんなのが増えてしまえば明日はどうなるのだろう」「血液型と性格が関係するという話が一般の人の常識になり始めている。韓国ではそれが伝わってB型バッシングも起こっている。このまま放っておいたら明日はどうなるのだろう」なんてリアリティです。私は「マイナスイオン批判」からニセ科学批判に入りましたが、「マイナスイオンという正体不明な付加機能付きの家電が売れている。こんなことに味を占めたら日本の将来の産業はどうなるのだろう」「マイナスイオン付加機能付きの製品は国外にも輸出されている。将来どういう反動が来るのだろう」なんてリアリティは私の中にもあります。

 なんていうか、ニセ科学の蔓延を憂える言説が伝搬の中で、言い出した我々の持つ「リアリティ」を急速に失っているという事を感じる訳です。原始の村の「祈りと工夫」の論争があったとすると、それは生やさしいものでは無かっただろうと思います。殴り合ったり、時には傷つけ合ったりしたのでは無いかと思うんですね。なぜなら「明日の飢え」というリアリティの上での言い争いだったからです。多少言葉で相手を不快な思いにしたって、その社会の中で生きて行かなくては成らないのが我々なんです。そういうスゴミの中に本来「社会的な論争」というのがあるんだろうと思っています。

投稿: 技術開発者 | 2008.04.28 14:53

技術開発者さん、こんばんは~^^
自分の都合で無断で引用させていただき済みませんでした。
あの時話していただいたことでその後の私の考え方に非常なプラスとなっています。ありがとうございました。

ここでちょっと、せとさんにご挨拶。(笑)
場所を借りています。よろしく~^^

話を戻して続けますが、今日書いて今は下書きのままですが、それをアップしたら私のブログは閉じます。役割が済んだように思うので悔いは残りません。が、「水からの伝言」は難しい話ですね。
以前お会いしたときからあちこち回ってみました。おそらくは3分の一どころか一割も回りきってないのでしょうね。ですから視点は偏ったままです(笑)
どうしても自分の人生観を無視してまでは同調できないことも多くありました。自分は唯物論者の端くれと思っていましたが、どうやらそれも怪しいかなと思い始めています。(^^;

「水伝」は教育で使われるものではないとの考え方も頷いたり、「でもなあ~」と思ったりする自分がいます。結局は「水伝」を擁護する側に分類されてしまうのでしょうね。残念ながら仕方ありません。

「リアリティの喪失」のお話は、運動を続けていくうちに時間とともに出てくるものでしょうか?私は共産主義思想に対しても変質してきています。当初大事で譲れないものがそれほど大事ではないと考えるようになる。でも基本は譲れない。そして原理主義と普遍化された考え方のグループが巨大になって一般的に受け入れられるまでの過渡期なのでしょうか?

技術開発者さんが「マイナスイオン」の件でお働きなのはどこかで読ませていただいてますが、

>将来どういう反動が来るのだろう」なんてリアリティは私の中にもあります。

そうですか、実際に運動に関わっていないと技術開発者さんが感じるものは共有できないかもしれません。ですが、外部の無責任な発言が許されるならという条件付で「そのように頑張っていただいているお陰で私たちは守られているのだ」と感じました。

>言い出した我々の持つ「リアリティ」を急速に失っているという事を感じる訳です。

論争を行い理論が確立されていくのと別なところで、現実が変化していってしまうことから乖離が出てくるということでしょうか?
私の「水伝」への理解などは入り口にさえ入っていないと自覚してますが、対立無しに啓蒙というか広めることが難しい話が「水伝」なのかなと感じています。
やっぱりあの「ばかやろう」と言うと、と言うものが本当に曲者と思いますが如何でしょうね?実に厄介な「水伝」です。ただ信じるな!だけでは私のように反発が出ると思うのですが・・・。

ちなみに私はトンデモ叩きを掲示板でやってた割には、結構トンデモなことを考えたりして自分はいったい何者なのだ!と自問自答しています。(笑)
たとえば~。ま、これは言わないで置きます。(爆)

下書きをアップしたところで終わりにしますが
技術開発者さん、本当にいろいろありがとうございました。心よりお礼申し上げます。

せとさん、また何食わぬ顔をして現れたりしますがよろしくです。

最後の記事は、消えてしまうので貼っても仕方が無いのでアドレスから見に行ってください。では~~~^^


投稿: ニケ | 2008.04.28 22:47

ニケさん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。

実は、一度コメントを書いたのですが、
この間のめまぐるしい展開についていけないというのが正直な所。ゆえに静観させていただいていました。
と、言う事でしばらく様子を見ようと、考えなおしていたので、お返事遅くなり申し訳ありません。

さて、個人的にはニケさんの鋭い洞察力と豊かな感性、メチャメチャなチャメッケ溢れるブログ、とても好きでした。
出来る事なら続けていただきたいというのが本音です。
「継続は力」。
です。

以前、嵐は木を鍛えるというエントリーを挙げた事があります。
もしお時間がおありでしたらご覧下さい。
http://ts.way-nifty.com/makura/2004/04/post_25.html
http://ts.way-nifty.com/makura/2006/05/post_72eb.html

さてさて、ニセ科学批判に関しては、
技術開発屋さんご指摘の通りと思いますので、
付言はいたしませんが、
きくちさんの渋滞論文は、まだ詳しくは読んではいないのですが、渋滞解消に「感謝」が効くとの内容だそうです。(技術開発屋さん>これでいいでしょうか?)
最終的には「人への思いやり」なのだということでしょうか?????
それこそが、批判のリアリティと私は思っています。
未だ、黎明期なのでしょうね、、、


いずれにしても、私はニケさんのファンでした!
ご家族とのやさしい語らいの記事がなによりも好きでした。またお顔を見せてください。お待ちしています。

投稿: せとともこ | 2008.04.29 16:41

この記事へのコメントは終了しました。

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