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2008.01.14

他山の石

これは備忘録です。
勝手に書いていますのであしからず。

さて、一連の水伝騒動もようやく終息にむかい、ホッと致しました。
と、言うことで今回の騒動に関しては、そうですね、M殻辺りの軌道をグルグル回っていた私(双方の当事者と馴染みがないから)としたら、中心の原子核の方で何が衝突していたのか杳と掴めなかったのですが、、、
ここへきて当事者の方々から次第に明らかになってくる背景を知り、
まさにミッシングリングを見つけた思いです。
つまり「このもやもや感が何か分かった」ということです。
水伝はたんに道具だったということが分かったのです。
とても残念です。
実際、私はこの騒動を知って以来、ずっとモヤモヤともどかしさと悲しさで一杯だったのです。(そして、その様な方が実は多かったのではとも思うのですが)
モヤモヤの原因は双方が論理的でないことからくる気持ち悪さ。
もどかしさは、いつまでも推論から離れず同じ軌道を回り続けている批判者たち。
悲しさは、当事者(とくに批判者達)が何も生み出そうとしなかったこと。
です。

と、言うことで私は個人的にこの騒動をブログでの議論、討論に対して他山の石として学び、今後の指針にしようと思っています。
それは
「批判者は対象に対して敬意をもって接する」
と言うことです。

その手始めとして、批判者は対象に対して、いきなり批判を展開しない、
あるいは批判を加えた場合は相手に知らせる。

とくにブログでは顔も知らない相手から、いきなり批判されたらまるで後ろからゲンコツをくらうようなものです。動揺して冷静な判断をしにくいという当たり前の事実を再確認しました。
批判する側は前もって相手を調べているんですが、される側にとっては晴天の霹靂なのだから、その後の行動が些か冷静をかいたとしても許す。むしろ経時的に変わっていくことを楽しむくらいの余裕が批判者には必要。
批判者自身が感情のうずに巻き込まれないことが肝要です。

次に正論なら何を言っても正しいか、というと否というこれまた当然のことを確認しました。
まず正論とは何か???
今回は水伝という誰もが納得するテーマだったから如何にも批判者側に理があるように捉えられました。
しかし、今回の騒動を論理というメガネでもういちど見るならば批判者側の論理が必ずしも正しくルールに沿ってはいませんでした。
つまり、
正論を主張することで相手をただ批判したいのか、
或いは、正論で相手に警鐘をならそうと考えたのか、
批判者のそもそもの出発の見解がその後の論理展開の責任力になるわけです。

先に戻るように相手に知らせず記事にしたことから分かるように、批判者は「物申す」だけだったのですね(一般のより多くの方に知らせたいのなら、もっと的確なブログを引用すればよい)
と、言うことで、
時には正論は相手を貶める武器にもなるということでしょうか。
正論なら全て許されるということはあり得ません。
正論なら誰でも納得するなんてことはもっとあり得ません。

ここで閑話休題。
正論なら何を言ってもいいか、という討論が脇道でなされていました。
あるブログ主が「そうだ」と主張。
ご自分の経験からそう言われたのですが、私は必ずしもそうは思いません。
論理と相手の言動の不合理を指摘する場合も、不用意に指摘すれば感情的なイザコザがおきるだけです。そもそも不合理と合理も人によって違うのだから、、、
本当に論理的でありたい人は、相手を咎めるまえに「何故、相手はまちがえたのか」と考えます。
正論を通すためには、
討論の場と共通の言葉の認識が必要だということでしょうか。

平和がよくて戦争がいけない、と言われて表から反論はできないが、
やっぱり武器は作られ、どこかで無辜の民が犠牲になる。
正論が通るのではなくて、
正論を訴えるための準備と場と言葉の重要性を改めて考えました。

また、本当に論理的に考察を加えたいと望むなら、
絶えず自身の論理展開を検証することも必要です。
討論が紛糾した場合、それは発議者の理論武装が脆弱だということも学びました。


と、言うことで、
私自身、学ぶべきことがあまりに多い今回の騒動(?)でした。
しかし、最後はやはりこれです。
「批判者は対象に対して敬意をもって接する」
愛だよ、愛と、月並みに。

なおこの記事は、個人の備忘録を兼ねた感想ゆえ、
今回の当事者は知己ではないのでトラックバックいたしません。
何故なら、当事者を批判の対象としているのではないからです。
ただ、論理として学ばせていただいた幾つかのブログにはトラックバックさせていただきました。

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コメント

言葉は言霊たりえるか、それとも単なる記号でしかないのか?

そんな争いのようにも思えますねぇ。

投稿: 愚樵 | 2008.01.14 20:25

はじめまして。トラバ、ありがとうございます。
dr.stoneflyさんの所で、コメント拝見させて頂きました。

私は正直此処で話されている「騒動」をリアルタイムでは見ておらず、状況も分からないことはあります。
ただ、この件について書かれたいろいろな方の関連エントリーが自分の今おかれている「騒動」と似ているなあ、学習になるなあという視点で拝読させて頂いていました。

「批判者は対象に対して敬意をもって接する」というご意見に、同感します。
批判者は「自分が正しい」と思いがちで。それは時として、「上から目線」となってしまい、「棘」を発してしまう。そして、相手も「棘」に反応してしまいがちになる。それでは、「議論」にはならない。
・・・・難しいですね。
先ず、自分を見つめること。
自分の「騒動」で感じた、私の教訓です。

拙い記事ですが、トラバさせてください。

投稿: アカリ | 2008.01.14 20:38

はじめまして、jabberwockと申します。
トラックバックありがとうございました&私からもトラックバックを送らさせていただきました(必ずしも意見が一致しなくてすみません)

>愚樵さん
>>言葉は言霊たりえるか、それとも単なる記号でしかないのか?

これが私(たち?)のことを示しているとしたら、ぜひ私のブログのこの問題以外のエントリーを見ていただけたらと思います(私がどれほど言霊を愛しているかわかっていただけると思います)

ただ、
他人のことを批判するときに「情」とか「感覚」とか「場の雰囲気」とか「言霊」とかはやっぱまずいと思います。「なんか、あなたに悪意があるような気がする」と言われたら、私もやっぱり怒ります。具体的に「あなたの発言のこの部分が不当だった」というべきでしょう。それができなかったのが、今回の「批判を受けた側」の瑕疵だったと私は考えています。

投稿: jabberwock | 2008.01.15 00:47

瀬戸さん、こんにちは。

お気持ちは理解できますし、記事に現われている瀬戸さんのお考えも分かります。しかし、私はちょっと違った考え方をしております。

日頃からリベラル左派の方たちのブログを拝見しながら、私の中にもあるその「ブサヨ」性をなんとかしなければ連帯などほど遠い夢に過ぎないのではないかと感じています。

私のココロのうちは愚樵さんのところのコメントに書きました。
「ブログって、繋がってるってことでしょ」
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-87.html

投稿: シカゴ | 2008.01.15 02:59

私は残念ながら、この件については瀬戸さんの意見に同意できません。
もともとの「水伝」の問題が深化できず、どこかへ吹っ飛んでしまった責任は、最初から批判に耳を傾けようとしなかった側にあります。
相手がすっかり頭に血が上らせていることを見た時点で、たんぽぽさんは「水伝」の件に関して説得することは諦めたのだろうと思います。
水葉さんのところで、たんぽぽさんの対応を「感情的」と評されてましたが、それも違うと思います。
あれは、別に本気なのではなく、たんに皮肉を言っているととったほうがいいのではと思います。
批判の背景うんぬんというのも、いろいろな人が絡んだために、結果としてそのように見えるということにすぎないと思います。

投稿: かつ | 2008.01.15 05:27

jabberwockさん

言霊云々を批判ととられたようですが。ま、その気持ちはわからんでもないですが、ちょっと性急過ぎやしませんか?

え~、jabberwockさんがおっしゃる「論理的でありたい」人と「共感性を重んじる」の二項対立を言霊に当てはめれば「共感性」に方になるでしょうね。それを意識しなかったとはいいませんが、それがそのまま批判だというのはいかがなものでしょう? 

私がどういったスタンスでこの騒動を眺めていたか、
シカゴさんがコメントにリンクを張ってくださっていますが、それをご覧になればおわかりいただけると思います。

>ぜひ私のブログのこの問題以外のエントリーを見ていただけたら

とおっしゃるのなら、jabberwockさんの方こそそのようになさってはどうでしょうか。

それと言霊という言葉にも前段があって、瀬戸さんの以前のエントリー「ファンタジー雑感」に言葉および言霊についてコメントしたことがあり、今回のコメントは前回のコメントを意識したあくまで瀬戸さんに向けた感想でしかありません。表現も決して断定ではないでしょう?

jabberwockさんは角をたてることを旨とされているようで、それはそれで結構ですが、あまり度が過ぎると周囲は窮屈な思いをしてしまいます。

投稿: 愚樵 | 2008.01.15 19:25

こんばんは。
考え深いコメントを頂き皆さんありがとうございます。
本来ならばお一人おひとりにお返事差し上げるところですが新しくエントリーとして書きましたのでご覧ください。
個別具体的な問題から一般論を導くことができたらと考えています。
またご意見頂けたら嬉しく思います。


おおお〜〜い、愚樵さん。
直近のコメントの最後の三行は不必要ですよ、、、
周囲は窮屈かどうかは推測です。
周囲という名を借りてご自分の意見を仰るのは「皆言っている」と同じですよ〜〜〜
皆って誰?オレなんて笑い話がありますが。
ねぇ。
それはさておき、言葉に関してはまた考察を深めていく所存です。今、時間がないので、いずれまたということで、ご勘弁を。
では、、、

投稿: せとともこ | 2008.01.15 19:57

えーと、内田樹さんのブログから「遠方よりの手紙」へ跳び、そこでなにやら騒動があるのを知って火事と喧嘩は江戸の華ならぬブログの祭り?とばかり、スワ、ご隠居、事件ですぜ、とばかりにやってまいりました。すみません。
んでもって愛で接しよというとても慎み深いケツロンにお達しになられたことは心よりお喜び申しあげますが、野次馬としては面白くない。まったくてめえ勝手なものです。他人というやつは。てめえに火の粉がかからなければ、もっとやれー、よー、玉屋~とばかりに煽り立てる。
正直いいましてわたくし、あまり愛をもてません。
たいていコメントするときは「なーにをバカなこといってやがんだ、このやろー」「よーし、いまに目にモノ見せてやる」てな具合で無理やり論理なるものをこねくりまわしてガツーんと一発食らわしてやります。
すると、まあ、たいていはどうしょうもない泥沼ですね。はい。おっしゃるとおりドロヌマです。
かといって愛で接するなんて顔も見ない相手にできそうにない。そんなのウソでしょ?て気になる。
かといってドロヌマは正直、自分も閲覧者も見苦しい。
ひとつ良い解決法がある。自分が語ることにあまり力コブを入れないことじゃないかな。六分の熱意で書き、語る。そうすると残りの四分で、どんなに嘲笑的な誹謗中傷が来ても軽く対応できる。
(なかなかうまくいきませんがね)
とくに相手に逃げ道を用意しておくことがわたしにはできない。
この辺のところが出来るようになればどんなレスがついても鷹揚に受け止めることができるんですが。
んじゃ、ま、がんばってください。いや、あんまり真面目にがんばらないでねー。
失礼しました。

投稿: イカフライ | 2008.01.15 23:58

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