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2008.02.05

可哀想な阿修羅

こんな話を思い出しました。
阿修羅について、、、

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
阿修羅は正義を司る神といわれ、帝釈天は力を司る神といわれる。
阿修羅の一族は、帝釈天が主である忉利天(とうりてん、三十三天ともいう)に住んでいた。また阿修羅にはシャチー(仏教では「舎脂」)という娘がおり、いずれ帝釈天に嫁がせたいと思っていた。しかし、その帝釈天は舎脂を力ずくで奪った(誘拐して凌辱したともいわれる)。それを怒った阿修羅が帝釈天に戦いを挑むことになった。帝釈天は配下の四天王などや三十三天の軍勢も遣わせて応戦した。戦いは常に帝釈天側が優勢であったが、ある時、阿修羅の軍が優勢となり、帝釈天が後退していたところへ蟻の行列にさしかかり、蟻を踏み殺してしまわないようにという帝釈天の慈悲心から軍を止めた。それを見た阿修羅は驚いて、帝釈天の計略があるかもしれないという疑念を抱き、撤退したという。
一説では、この話が天部で広まって阿修羅が追われることになったといわれる。また一説では、阿修羅は正義ではあるが、舎脂が帝釈天の正式な夫人となっていたのに、戦いを挑むうちに赦す心を失ってしまった。つまり、たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる。このことから仏教では天界を追われ人間界と餓鬼界の間に修羅界が加えられたともいわれる。
阿修羅を意訳すると「非天」というが、これは阿修羅の果報が優れて天部の神にも似ているが天には非ざるという意義から名づけられた。
wikipediaよりママ
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私はこの話を思い出す度に、
可哀想な阿修羅とソッとつぶやきます。
阿修羅、その人の愚かさと、帝釈天の大らかさがイッタリキタリ。
二つにタイプを分けることはできないが、
どちらかと言えば阿修羅に近い私。

随分前の話。
家族と話をしていて、「どんな人になりたいか、、、」という話題になりました。
それぞれがそれぞれの願いとか思いを述べて、
私の番になりました。
「いい人になりたい。」と一言。
みんな
「あっ、そう〜〜〜〜」。
「うん、私、いい人になりたいの」と続ける私に家族は「まぁ、頑張って!!!」と揶揄(多分)
「うううう〜〜〜ん。まじめにきけぇええええ」と私。
「おいおい、いい人じゃなかったの?」と逆襲されます。

一事が万事なんだよね。私って。
「良い嫁」でいようと夫の両親の前では張りきるんだが、すぐにボロが出て、
張りきらない方がよっぽど自然体でいい。
「良い隣人」になろうと頑張るんだけれど、すぐにメッキがはがれる私。
えええ???
良い妻?
良い母???
あっ、それはそれで、はっはっは。

と、いうわけで、
「正義」とは言わないが「かくあるべし」と自分で自分ルールを作って、
息苦しくしているような気がします。

「ばっかじゃないの」と笑い飛ばして、
笑い飛ばして、
手から放とう、、、というのが夢。
可哀想な阿修羅、
でも愛すべき阿修羅を思いだしながら。

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コメント

ともやん様

私にとっての阿修羅は、「百億の昼と千億の夜」にいる阿修羅。それも三瀬龍ではなく萩尾望都の。
阿修羅は存在そのものに問いを抱き続けながら戦い続ける。可哀想な阿修羅が私は大好きです。内なる阿修羅は怠惰な私を叱りはしないけど、私は阿修羅の存在を見失っては生きていけないかもしれない。
不器用は個性。人の世の敵味方もすれ違いも泡沫の夢幻。可哀想な阿修羅だけが身果つるまでの友。

子どもたちに、勉強ばっかりしてはいかんぞ遊ばないと友だちとケンカしたりいろいろしないと、お父さんの小中学生のころは…と話しても、笑ってくれた後に憐れみの戸惑いはありあり。相方にいつも、シャキシャキしないでダラダラしようぜと提案すると蹴りを入れられます(笑)。

我が内なる可哀想な阿修羅よ。えっ、阿修羅が私を叱っている?えらい勘違いをしているかもしれない。

それじゃまた、SEE YOU AGAIN :)

投稿: nagonagu | 2008.02.05 21:18

 阿修羅はゾロアスター教(でしたか?)の主神アフラ・マズダのことだという説を聞いたことがあります.アシュラとアフラは音声学的に近いのだとか.
 だとするとアシュラは隣国の神様であって,インドのメジャーな神々から見ると亜流,反逆者ということにもなります.いずれにしても興味深い神様ですね.

投稿: Ladybird | 2008.02.06 04:46

 僕は最近、『正義』ってヤツを考えることが多いのです。正義って場合によっては怖いですよね。ひとを阿修羅にもするし、帝釈天にもするように思います。
 とくに『正義』の好きな某大国なんかを見てるとね。選挙で「いったれー!! 俺たちゃ正義じゃ!!」と言っててちょっと行き詰まると「平和が一番うんうん」と言ったりね。それを毎選挙ごとにくりかえしてますからね。よく飽きないもんだ。
 あと十字軍。あれもご本人たちは「神の正義」でしたからね。

 かくいう僕も一昔前は『絶対の正義サマ』の狂信者でした。
(;^_^A
 そりゃあもうすごかったですよ。自分で必死に考えて答えが出る。出るとその答えが十字軍の言う「神の正義」みたいになっちゃってましたね。「文句があるなら理由を言ってみな」みたいなね。若気の至りです。たくさんのひとを傷つけたと思うと……あぁ、お恥ずかしい。

 でも歳とともに丸くなったようで、最近は落ち着きました。僕の中で二三の絶対に許せないこと(子どもや猫など小さな命が抵抗不能に失われる)以外は、「ま、いっか。世界が変わるわけじゃなし」と思うようにしています。でもあきらめた……というには少し違うし、許す……というともうちょっとハードなような……?? ことばに表すのがむつかしいですが、なんというかこだわりが無くなりました(ひとはそれを「老化」という(自爆!))

投稿: ろぷ | 2008.02.06 06:57

こんにちは、せとさん。

もともと、人は皆修羅界に生きる阿修羅なのだろうと思っています。私は悪徳商法批判から引退する時にハンドルネームも変えているのですが、ずいぶんと長い間、悪徳商法批判を行ってきたのですよ。長い間、人を騙して悲しませる悪徳商法を憎み、その悪徳商法を肥え太らせる被害者の心の弱さを哀しんで、毎日のように被害者や被害者の家族のために、悪徳商法啓発系の掲示板で何かコメントしていたわけです。少しそんな話を書いてみますね。

ある時、悪徳商法啓発系の掲示板に内職商法の資料は取り寄せたけど、契約前に気づいて契約しなかったという人の書き込みがありました、「皆さんも気を付けてください」という論調でね。これはこれで、別に問題のある書き込みでは無いのだけど、私みたいに長い間悪徳商法を見ていると別な見方をしてしまうわけですよ。つまり資料を取り寄せると、その人の情報は悪徳商法の業者の間で売り買いされるんですね。その結果として、普通の人よりも何倍も電話とかでの勧誘が増えるんです。中には口の上手いのもいますし、ご本人も気を張っている時ばかりではないですからね。こうやって一度は断った経験のある人が半年後くらいに「契約してしまいました」となんて書かれることも珍しくないのが悪徳商法の世界なんですね。

私は、「この人の意識では今後の勧誘攻勢で契約してしまうおそれがある」という気がして仕方なくて、かなり厳しい書き方で「まだ、あなたは危険な状態ですよ」なんて事を書いた訳ですね。そうするとかなり感情的なお返事が書き込まれた訳です、「人のために警告しようとしているだけなのに、そんなに厳しいこと書かなくても良いじゃないか」なんてね(笑)。私のことですから、「まだ強い風が吹けば崖に落ちるかも知れない所にたって、周りの人に警告している人をみたら、『馬鹿!もう少し崖から離れてやれ!』くらいの厳しい事は言いますよ」なんてたとえ話をしたりしたんですね。でも、その人のお怒りというのは、なかなか納まらないので「私に対して怒られるのは構わないから、今後勧誘がきたら私の事を思い出して『こんな勧誘に騙されたらあいつに嗤われる』と思って、しっかりと断ってください。それなら私も怒られがいがあるから」なんて書いたんですね。同じように悪徳商法のコメントをしている人からは「あんたは鬼だね」なんて言われましたけどね(笑)。

私は、或る意味でその時期は「鬼」そのものでなんですよ。使えるものなら、私への怒りだろうがなんだろうが全て利用してでも悪徳商法を押さえ込もうとする鬼だったんです。まあ、泣いてばかり居る被害者をなだめすかして消センとか弁護士の元に行かせた後では「仏」扱いもされることは有ったんですけどね(笑)。私自身はやはり鬼だったと思っている訳です。仏教の守護神たちは、憤怒の形相をして邪鬼を踏みつけているわけですよ。そして、私はそれらの守護神は自分で自分のことを仏とは思っていないだろうなんて考えています、「今自分もまた鬼である」と認識しながら邪鬼を踏みつけているのだろうなんてね。

投稿: 技術開発者 | 2008.02.06 13:59

nagonagu さん。
Ladybird さん。
ろぷさん。
技術開発者さん。
こんにちは。
コメントありがとうございました。
今朝はコーラスに行ってきました。
今、歌っている歌の一つが「よかった」という歌です。
♪微笑んでいてよかった
優しく言ってよかった
黙っていてよかった
悪口を言わないでよかった
怒らないでよかった

とかとかの歌詞です。
「いっちゃうもん、みちゃうもん、きいちゃうもん」の私にはなかなか辛い歌詞です。

さて、
阿修羅についていろいろ考え深いコメントを頂いてありがとうございます。随分考えました。
阿修羅が、正義という名の下に自縄自縛して行く様は、
息をつめるように緊迫していて、そして物悲しく、哀れで、この話を思い出すたびに、不遜にも阿修羅に手を差しのべたいと思う私です。
執着しない、、、そんな生き方に憧れながら地べたを這いつくばっている自分でありながら、
わらっちゃいますね。


nagonagu さぁ〜〜〜ん。
お元気でしたか?
先日、nagonagu さんのブログを拝見してコメントを入れようと思ったらハテナのIDが必要とか言われて残念な思いをしていたのですよ。
いえね、エンデの道しるべについて書こうと思ったのです。
今度エントリーに挙げますね、その折はまたご意見お聞かせくださいね。ところで萩尾望都ですか。
私、ダァアアアアイスキです。
一番好きなのは「ポーの一族」。
また、これについてもお話できたらと思います。
それから素敵なご家族の楽しいご様子、彷彿といたしました。お子さんのお写真もコソッリと見ていますよ♪
では、、、またね。


Ladybird さん。
そうか、ゾロアスター教ですか、、、
友人はヒンドゥー教です。
私はあまり詳しくないのですが、こんな言い方していいのかどうかわかりませんが、インドの神様って艶やかですね。エネルギーが身内からブンブンと湧いてくるような、そんな感じ。
日本の八百万の神と雰囲気が違いますね。
なかなか人間臭い愛すべき神々と私は思います、インドの神々のことを。
ところでLadybird さん、お仕事はお忙しいですか?
また自然についてお教えください。土についても、、、
では、、、またね。

ろぷさん。
そうだね。そうだね。
「正義」と言う名で戦争するどこぞの国がありますよねぇ〜〜〜
その手下の国も、、、
困ったものだ。
しっかし、ろぷさんが「正義の信者」でコチコチだったなんて信じられない、というか人を傷つけたなんて想像できません。
今の懐の深いユーモアいっぱいのあなたから。
そうかぁ、そうかぁ、ろぷさんも授業料はらったクチですね。
うんうん、納得。
そこがろぷさんのいいところです!!
握手だね♪
と、いうことで、これからもよろしく!!!


技術開発者さん。
そうだったのですか〜〜〜
頂いたコメントを拝見しながら、ただただ「へぇ、、、」とか「そうなんだ」とかとか。
なるほど、そりゃ、いずれも『生きるために精一杯」の駆け引きですから、想像をぜっするものがあるんでしょうね。
全然関係ありませんが、家庭裁判所の調停員をしている友人が言っていましたが、
とにかく「心を鬼」にして仕事をするそうです。
人を相手と思っては駄目と言っていましたが、、、
鬼と仏。
なかなか切り捨てがたい存在です。
またいろいろお話お聞かせくださいね。
いつも新世界を教えていただいて、私はワクワクします。
では、、、またね。

投稿: せとともこ | 2008.02.06 15:15

瀬戸さん、こんにちは。

若い頃、「詩」を書きなぐっていました。そのころの私の自己認識は「私は一人の修羅である」でした。宮沢賢治の『春と修羅』に多分に影響されていたのでしょう。今思うに、詩はことばを壊しことばを創る、そういう営為の表現なのだと思います。これは言語表現全般にいえることで、言語と意識は互いにつくり合っている――つまり意識はことばによって表現され、発せられたことばが意識に変容をもたらす。そして意識の変容がまたことばの変化を促す――のですが、詩はあらゆる言語表現のなかでこの意識の変容をもっとも強烈にもっとも意図的におこなうことができるものなのだろうと。

で、多少丸くはなっていますが「私は一人の修羅である」という自己認識は今でも変わっていません。

投稿: シカゴ | 2008.02.13 19:45

シカゴさん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。

今、受験シーズンでバタバタしています。
なんとなく気ぜわしいというところです。
シカゴさんには、励まされている感がして、こうしてコメントを頂くととても嬉しく思います。

で、
で、
シカゴさんって「詩」を書かれていたのですかぁ。
あああ、、、納得。
納得です。
道理で、という感じ。
なるほど。
その感性の鋭さ、確かさ、そして熱さ、
今でもほとばしっています(^.^)
素敵です。

頂いたコメントでBIG BANさんをふと思い出しました。
あの方の感性と相通じるものがあるのでは、、、と。
私は詩は余り分からないのですが、
芥川の小説や中島敦の小説を読むといつも唸るだけ、ため息の連発です。
「無駄がない、こういう表現しかない」という究極を感じます。
無駄がない、しかし十分にためがある。
そんな表現にうなだれるばかりです。

シカゴさんの詩も、また教えてくださいね(^.^)
楽しみです!!!

では、、、またね。

投稿: せとともこ | 2008.02.14 15:16

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受信: 2008.02.05 18:32

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