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2008.04.08

自灯明

今日はお釈迦様の誕生日と言う事で、
花祭り。
過去の記事を見たら、灌仏会
花祭りと言うエントリーを挙げていました。
淡いピンクの花と霞につつまれ、なんと時間がゆったりと流れるような春八日の今日。
釈迦と言えば私が思い出すのはやはり「自灯明 法灯明」です。
この言葉、釈迦入滅の最後の言葉と言う事で、誕生日の今日には似つかわしくないのですが、
そこはお釈迦様に勘弁していただいて、
「自灯明 法灯明」についてつらつらと今日は書きます。

意味は字の如くです。
「ただみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすること」。

読めば読むほど心にしみ入る言葉です。
〜〜〜ただみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず〜〜〜〜
ううう===ん。
何か大きな壁にぶつかるとオロオロになって、自分の判断に自信がなくなり、
人に相談したり、人の言う事に無条件に従う。
そんな人間の当たり前の弱さを釈迦は弟子たちに戒め、
自分を信じろ、自分の思いや理性や感性を信じろと励ましたのです。
そして、
それが些か思い込みにならないように理法とともにありなさい、と教える事も忘れませんでした。

私は今、この言葉の持つ意味が大きい時代になっていると思います。
いろんな意味で、価値観が揺れ動き、
何を判断の基準にすればいいのか見えにくくなり、
ともすればしゃがみ込んでしまいそうな時代。
簡単で手軽で甘い言葉がすぐそこにあったら、迷わず身を投げ入れてしまいそうな時代。
自分で考えるより、誰かに考えてもらって、インスタントコーヒーのようにお手軽においしいところだけ頂こう、、、
とかとか。
そんな時代でも、やっぱり最後は自分。
自分の頭で考えて、自分の心で感じて、自分の足で立つ。
拠り所は自分です。
最後はそれしかない!
自分なんだよ。
決して霊や占いや、そんな何かではなくて、自分の人生を支配するのは自分だということを釈迦は教えているのでしょうね。

生きて行くという事は、そう単純ではなく、正しいかそうでないか、
今は分からない保留のことって山ほどあります。
だから、自分の思いや感性だけにしがみつく事は、これはこれで危険であることは言うまでもありません。
釈迦はそこで法灯明を教えています。
理に適うということを、理に従うという事を大切にしなさいと。
今なら、「科学」という言葉に収斂される学問のあれこれでしょうか。
そこには偽物のはいる余地はありません。
偽物????
そうですね。
人が人であるという前提を失わせるものが偽物だと私は思います。
水にありがとう、、、もそうです。
血液型性格判断もそうです。
水や血液や、霊に判断を仰ぐという考えは、
人間から考える事を失わせるものと私は思います。

人は人であるために、
己の判断を自分以外の物に譲り渡してはならない。
と、釈迦は言われたのではないでしょうか?


ともあれ、
今日は花祭り。

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コメント

こんにちは、せとさん。

 kikulogに「研究者=変人論」みたいな事を書いてしまいました。こんな内容です。

昔、研究所の建築・設計に携わった頃に、「どうして研究者というのは、ああも話がまとまらないんですかね」と建築の人に言われ、「人に従わない性格の人を集めているからですよ」なんて答えたんです。「10人のうち9人までが『そんなことあるもんか』『そんなことできるもんか』という時に1人だけ『いや、ある(できる)かも知れない』と逆らう者がいるから、新規な事が世の中にでるんですよ。そういう性格の人を集めているのが研究所ですから、話は簡単にまとまりません」なんて言ったら「なるほど」感心されてしまったりしたんですけどね。

結構笑えるんじゃないかな。実際、研究者集団と常識のある建築業者の間に入るってのは大変なんですよ(笑)。私があまりに「研究者は困りもの」みたいな言い方をするもんだから、ある建築関係の人はてっきり私を事務管理系の人と思っていましてね。研究所の移転先の近隣住民への説明なんかで「私が行って説明で良いですか?部長とかでも出せますよ」なんて言ったら「部長さんって研究者上がりですよね。研究者とか研究者あがりが説明すると、返って誤解を招くことも多いので、あなたが来てください」なんてね(私だって研究者だ:笑)。

我々は周りに従っていたら仕事にならない面は確かにあるんです。だからこそ、過去の蓄積である科学法則にはしっかりと軸足を置かないと「どこに飛んでいくかわからない」危うさはあると思っています。

投稿: 技術開発者 | 2008.04.09 12:50

技術開発者 さん。
こんにちは。
私がいつも拝見させていただいているブログで技術開発者 さんのコメントを読ませていただくたびに、
ある種の親近感を感じていましたよ。
お元気でいらっしゃいましたか???


さて、「過去の蓄積である科学法則にはしっかりと軸足を置かないと「どこに飛んでいくかわからない」危うさはあると思っています。」
と言う最後の結び、とてもよくわかります。
そうなんですよね、、、

自分の感覚とか感性も大切に、一方でいままでの過去の蘊蓄の重み。
そのバランスの中で私たちって、おっとと〜〜と生きているんでしょうか???
きくちさんちでも想像力さんなんかが真剣に悩まれている姿を拝見しながら、
人の成長していく姿だと思ったりもしました。
あなたの多様な経験、その重みがズシンと心に響いたのでしょうね。
私も教えられる事ばかりです。
また、いろいろご教示くださいね。
楽しみにしています!!!

では、、、またね。

投稿: せとともこ | 2008.04.10 14:25

はじめまして~!!

「プロクルステスのベッド」を検索していて…偶然お邪魔いたしました。

子どもたちと素敵な関わりをなさっていらっしゃる方と伺って・・・
思わずコメントをさせていただきました。

私は、いわゆる「フツウという枠」には収まらないタイプの10歳の息子との
珍道中の真っ最中の主婦です!

ブログも、ようやく2年目に入って
まだまだ思いをウマク伝えられないもどかしさを抱えておりますが
皆様から、もっといろいろなことを教えていただきたいと想っております。
どうぞ、よろしくお願いいたします。

ちょうど「ダライ・ラマ  科学への旅」を借りてきて読んでいるところです。

よろしかったら、TBさせてください!!

投稿: 風待人 | 2008.04.11 08:46

せとともこさん、こんにちは。

自分を信じる、最後は自分、っていう考え方って、実は私はあんまり得意じゃないのです。人間とはとても弱いものです。人間に限りませんが、生き物は互いを騙すし、忘れっぽいし、間違いを犯すし、感覚も不完全です。そもそも、とても小さい。宇宙はそれにくらべるととても大きいし、はっきり言って私の自己判断にどれほどの価値があるでしょう。私たちは徹底して非力な存在だと思うのです。過信してはいけません。

過去に人間が作り上げてきた科学だって、不完全な感覚と不完全な記憶と不完全な判断力と不完全な器材と、、、不完全の集積が私たちの科学です。明日にでも「真実」がくつがえされるかもしれません。実験室で再現できないものはすべてエセ科学、という態度は危険ではないかと私は思います。私たちの感覚には大きな個人差がありますし、多くの現象は現存の科学や器材では認識できないものです。

虫の知らせや正夢をはじめ、いわゆる科学で証明できないものはいくらでもあります。それを現存の科学で証明できないから科学ではないと決め付ける姿勢は、科学の基本を逸脱していると私には思えるのです。はじめに理論ありき、では迷路にはまり込みますよ。何事にせよ、ない、と証明するのはあると証明するのより難しいのです。人はおごってはいけません。偉そうな意見を述べまして申し訳ありません。

投稿: 葉子 | 2008.04.11 11:25

こんにちは、葉子さん。

 まあ、人様のブログで議論する気もないんですけど、私なんかが「ニセ科学批判」とかしていて、スピリッチュアルとかが流行ることにもそれなりの批判を加えている事の意味を少し説明させてください。

 上で書いている様に私は研究所の建築・設計の担当者をやったんですが、きちんと「起工式」といいますか、いわゆる「鍬入れ儀式」はやったんですよね。神主を呼んで神おろしをしてもらい、私も鍬入れをしました。心から「安全に建ってくれ」と祈りながらね。

 私は、そういう儀式を否定しないです。でもね、「そういう儀式をやったから安全に建つ」とも思わないのです。事故には事故の起こる要因があり、それをつみ取る努力はするべきなんですね。実際、工事している2年くらいの間、工事の連絡会では「ここの柵がいい加減だったので直しました。」とか「重器の周りの立ち入り禁止がきちんとされていなかったので直させました」という安全巡視報告を聞き続けた訳ですらね。幸い、大きな事故一つ無く研究所は建ち、今、私はその中で研究をしています。

 なんていうか、私は「弓矢の工夫と狩りの祈り」なんてたとえ話をするんですね。原始時代に始めて弓矢を使い始めたときには、真っ直ぐ飛ばない矢とか、当たっても上手く刺さらない矢とかもあったんだろうなと思うんです。でもって、狩りの前に一所懸命にためし撃ちをして、弓矢の工夫をしてから、狩りに出かける前に「狩りの神様、どうか獲物をお授けください」とやはり一所懸命に祈って出かけた者たちの子孫が自分たちなんだろうと思うんです。中には、「そんな試し撃ちする時間があったら、狩りの神様に祈るべきだ」と工夫をせずに祈り続けた部族もあったのかも知れないなんて思うんですね。でもね、そういう部族はたぶん獲物が上手く捕れなくて消えて行ってしまったのかも知れないなんて思うんですよ。

 私なんかが、なぜスピリッチュアルみたいなものの流行を怖がるかというと、そこには「やれることを精一杯やってから祈る」というのとは違う、「なんだか楽に良いことが起こりそうだから祈る」みたいな感じを受けるからなんです。ちなみに、私は実験しながらも祈りますよ、「どうか、良い結果かが出てください」ってね(笑)。

投稿: 技術開発者 | 2008.04.11 13:16

風待人 さん。
葉子さん。
技術開発者 さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。

風待人 さん。
初めまして。
コメント、ならびにトラックバックありがとうございます。
早速拝見いたしました。
柔らかな感性と清新な思いのあふれた素敵なブログですね、(^.^)
お子さんとの悪戦苦闘(?)微笑ましく拝見させていただきました。
これから、もっと、もっと、もっと、いろいろ遣ってくれると思います。
頑張って!!!とエールを贈ります。
さて、ダライラマの本、またいろいろお教えくださいね。
楽しみにしてます。
これからも宜しくお願いいたします。

葉子さん。
お久しぶり。
お元気ですか?
実は、この記事書きながら、貴女と技術開発者 さん、そして愚樵さんを想像していました(^.^)
早速お二人からコメントを頂き、嬉しく思っています。
ちょっと、愚樵さんもさそうっと〜〜〜

技術開発者 さんからも葉子さんにコメントがありますので、
私は、もうちょっと、成り行きを見させてくださいね。
葉子さんのご意見、もっともっとお聞きしたい(^.^)


ではまたね!!!

投稿: せとともこ | 2008.04.11 16:26

お呼びのようなので参上つかまつりました。

いえ、このエントリーがアップされたときに拝見していたんですよ。コメントも差し上げようかと思ったんだけど、あのときは“原始、女性は太陽だった”みたいなことで頭がいっぱいで、それが「自灯明」とあまりにピッタリ合いすぎるので、かえって遠慮したんです。

そういえばお釈迦さんは“女性に悟りは開けない”といったとか? そんなことはないと思うけど...。

>釈迦はそこで法灯明を教えています。
>理に適うということを、理に従うという事を大切にしなさいと。

さて、この「理」なんですが。お釈迦さんのいう「理」が果たして科学の根拠となる「理」と全く同じなのか? 私はそこに常々疑問を持っています。

「理」は「ことわり」とも読みますね。で、「ことわり」とは“コトを割る”? “コトを割る”「理」は、科学の「理」でしょう。でも、お釈迦さんの「理」の中には“コトを割らない”“コトを統合する”「理」もあったんじゃないか、と思うんですよね。

もちろん科学の中にだって、“コトを統合する”「理」はあります。でも、それは“コトを割る”ことをして、余計なものは棄ててしまって、その上での統合でしょう。割らずに統合するのではないんですね。

今の世の中は、なんでもかんでも、とにかく“割る”ことが先決のような気がします。そして、今の世の中に暮らす人間が自分を見失いがちなのは、そうした傾向があるためではないか、なんて思うんですね。コトをどんどん割って行ったって、自分なんか見つからないんです。ニヒリズムに陥るのが関の山。また、一旦割ったものを統合しても、ダメ。必ず何かを取りこぼす。もし、科学が何も取りこぼさないのなら、今頃生命だって科学で生み出せているはずなんです。生命はある種の自明灯ですが、割ることからはじめてしまうと自明灯は出来上がらない。

スピリッチュアルなんかが流行する背景にあるのは、こうした“割る風潮”への反作用ではないか? そんな風に思えたりもするんです。自明灯を求めての。

いつものことながら、わけのわからないことを長々と申し述べてしまいましたが...。どうせ、せとさんも私にまともなコメントを期待されてはいなかったでしょうし(笑)。

投稿: 愚樵 | 2008.04.11 21:24

こんにちは。

技術開発者さん、せとともこさん、お返事ありがとうございます。日本ではそんなに安直なスピリチュアルというのが流行っているんですか。スピリチュアルって、文字通り霊魂の学問のはずですが、そのわりに日本では宗教への風当たりは強いみたいですね。宗教ではありません、というのが大儀名分みたいに謳われたスピリチュアルの本を一冊貸してもらって読んだことがありますが(日本語の本です)、霊魂の話が宗教でないというのは、私にはよく分かりませんでした。

私ははっきりした宗教をもっていますが、お祈りは別に何かがこの世でうまくいくようにというものではありません。この世はどうせ一寸先は闇だし、私たちには昨日も明日も見えません。徹底した他力本願です。ただ、誰に依り頼むか、頼まないかというのを決めるための判断基準は自分の感覚です。せとともこさんがおっしゃるように、自分の感覚を拠り所とせよ、というのはそういうふうに考えると同じことなのかもしれませんね。

理にかなうということが大切だというのは、私も同感です。ただ、その理というのが私の場合自分の中の感覚なのです。後味のようなもので、自分の中の奥深くにうっすらとある感覚が、これで良し、といえば信用するし、そうでなければ他を当たるのです。

1足す1は2である、というのも理でしょうが、宇宙はとても大きいのでそうじゃない場合だってありうるかもしれません。偽科学って言っても、ほんとにでまかせかもしれないし、実は偽じゃないかもしれない。ごく狭くて不完全な人間の知覚範囲での理には叶わなくても、もっと他の理にはちゃんとかなっているかもしれない。

前にこちらで話題になっていた水の伝言というのは、水に音楽とか言葉とか聞かせて凍らせたら結晶がいろいろ変わるっていうあれですよね。結晶ってきれいですね。個人的には、水っていろんな意識を運ぶと思います。海って心臓に似てますね。流れ込んでは雲や雨になって、というのを繰り返しています。空は肺かな。海に流れ込んだ水が世界中に降り注ぎ、血液や樹液になって循環を繰り返すことで、集合的な無意識などが形成されていったりはしないのでしょうか。お祈りをしたら水の味が変わりますし、聖水で病気が治ったとかいう話だっていろいろあるし、結晶の形をたくさん撮った方もいろいろ変化してるのを見ていることだし、そういう現象があるということは否定しないほうがいいのではないでしょうか。ただ、それが今の私たちの理屈では説明できないというだけで。たとえそれが全部思い込みだと結論するにしても、暗示で病気が治ったりするという現象もまた、科学の対象ですよね。自然界は不思議なことだらけですね。

投稿: 葉子 | 2008.04.13 12:25

こんにちは、葉子さん。別に言葉尻を捕まえてどうこうとかは言いたくないんですけどね。世の中には宗教的な事柄に関しては、私などよりも、もっと厳しく問いつめてくる人もいるからね。

>私ははっきりした宗教をもっていますが、お祈りは別に何かがこの世でうまくいくようにというものではありません。この世はどうせ一寸先は闇だし、私たちには昨日も明日も見えません。徹底した他力本願です。

なんていうか、宗教をお持ちなら、他人が信じる宗教についてももっと敬意をお持ちください。まあ、世の中の「他力本願」の使い方からすれば、こんな書き方をされても仕方ない面はあるんですけどね。私は一時期はかなり浄土宗とか浄土真宗系の仏教に傾倒していた時期もありますから、とりあえず「他力本願」の説明をしますと、他力というのは「宇宙にあまねく満ちあふれる仏の大慈悲」の事です。慈悲とは何かというと「分け隔てのない善意」です。仏は大慈悲を持つが故に、「お前は善人だから救う」「お前は悪人だから救わない」という分け隔ては無いとおき、それによって人は皆、本願であるところ救われるとするのが「他力本願」という意味です。なんていうか、私なんかは貧しい農家の子ですから、タマゴを生まなくなった鶏を肉にするなんてことも子供の頃からしてきた訳ですよ。仏教で言うなら殺生戒という戒律を犯して生きてきた訳です。皆さんもまた、自分が直接手を下すことはなくても、そういう殺生戒の結果として肉を口にされているわけです。そういう罪深さがあろうが、仏の大慈悲は全ての人を救うよと説くのが「他力本願」という言葉の意味ですからね。

投稿: 技術開発者 | 2008.04.14 14:11

なんだか、いろいろと書いてしまいたくなりました。

 なんていうかな、私なんかは「宗教的な意味」も含めてニセ科学を批判している面があるんです。仏教では僧ではない信者に対して五戒というのがあります。上で述べた「不殺生戒」なんかもその一つなんですけどね。でもって、その中に「不妄語戒」というのもあります。要は「嘘を付いては成らない」という教えです。全ての宗教を調べた訳では無いけど、多くのまっとうな宗教が「戒律」かどうかは別に「妄語」を戒める教えはあると思っています。

 でもって、嘘というのは、もちろん言うだけでも良くないことなのですが、それを人に信じさせるのはもっと悪いことなんですね。でもって、「科学を騙る」という嘘は、単に嘘を付くという事よりも、人に信じさせやすいという事でもっと悪いわけです。

 なんていうかな、私がやっていた悪徳商法の被害者へのアドバイスなんかで、「葉子さんは携帯電話で10万円の入会金がかかるサイトにアクセスされました。いついつまでに下記の口座に振り込んでください」なんてのが架空請求(振り込め詐欺)なんですが、その時に「私は取り立てを依頼された弁護士です。いついつまでにお支払いがないときは民事債権請求特別法により差し押さえ手続きをいたします。ヘッポコ法律事務所」なんてやるのは、より人に信じ込ませ易いための嘘ですよね。そういう弁護士を騙ることにより、より人が信じ込みやすい嘘をつくというのは、妄語の中でもよりたちの悪い妄語だろうと思うわけです。そういう葉書が来た相談者なんかに、私は「弁護士会のデータベースで全国の弁護士を検索しましたがそのような弁護士および弁護士事務所は登録されていません」とか、「民事債権請求特別法などという法律は在りません」とか説明して来たわけですが、そのことによって、「お前は法律絶対主義者か!」という批判を貰ったことはないんですね。

 この場合の話の構造というのは、まず「人を騙し惑わせて金を手に入れよう」とする悪人がおり、その嘘を信じさせて金を手に入れやすくするするために、「弁護士である」とか「法律がある」などの脚色がついているわけです。でもって私は悪徳商法関連の法律にやけに詳しくなっていますから、被害者の方がそれ以上不安に成らなくて済む様に、「そいつは弁護士じゃない」とか「そんな法律は無い」とかいう訳ですが、何もその部分のみを言いたいわけじゃなくて、要は妄語そのものは悪であるという意識がありますし、その妄語に法律の事とか含まれていたらその悪をハッキリさせる目的で弁護士とか法律の事も言うわけですね。多くの人は、「嘘をつくのは悪いこと」と思っていますから、私に対して「お前は法律絶対主義者か!」とかは言われない訳です。

 ところが、同じように妄語であっても「やがては科学で解明されるであろう」と、自分の言うことを「人に信じさせるために科学を騙る」いう妄語について、不妄語戒を破る批判を込めて「そんなのは科学的でも何でもありませんよ」という事を言うと、、「お前は科学絶対主義者か!」と言われてしまうわけです。別に科学絶対主義者でなくても、きちんと宗教を身につけていれば「妄語を言って人を惑わしてお金なり名声なりを手に入れてはならない」という教えは理解出来るのでは無いでしょうか?

まあ、世の中にはいろいろな宗教がありますから、仏教のように「不妄語戒」のようにきちんと教えとしていないものもあるとは思うんですよね。でもね、まともな宗教ならかならずどこかに「嘘をついてはいけない」という教えはあると思うんです。それに照らして考えて貰えれば、私なんかがニセ科学批判をする理由は分かってもらえるだろうと思っています。

投稿: 技術開発者 | 2008.04.14 17:04

技術開発者さん、こんにちは。

敬意がないと思われたのでしたらどうもすみませんでした。丁寧なご説明ありがとうございました。また考えてみます。

投稿: 葉子 | 2008.04.15 13:43

葉子さん。
技術開発者さん。
愚樵さん。
こんにちは。
コメントありがとうございました。

桜の花も散り、いよいよ季節は若葉青葉の候となりますね。
花粉もあと一息。
折角の優れた季節にうぇ〜〜んうぇ〜んと泣いている己が恨しい。
さてさて、
頂いたコメントを拝見しながら考え込んでいました。

葉子さんと技術開発者さんは、見ているところは、そんなに大きく離れていることはないと思うのです。
大いなるものや神秘なものに戦きながら、
人類がえいえいと築きあげてきたもの、それはあるときは宗教と呼ばれ、ある場合は科学と言われ、またある人には芸術と名がつけられたり、、、
いずれにしても、私たちの「今」は過去の上に立っているのです。
先人にたいしての敬意の表わし方は人それぞれと思います。
自分がよってたつものは確かに祖先の遺したものですが、
これから歩んでいくのは自分です。
そのバランスの中で私たちは生きていると私は考えます。
葉子さんは、今、日本のごく一部(であってほしい)で霊魂やら占いやら水やらに「お伺い」をたてて他人の生き方に滑りこんでくるような人々がいることは御存知ないと思います。
でも、葉子さん、本当にあるのです。
技術開発者さんを初めとして多くの方々がこうした現象に危惧を感じられて警告を発していらっしゃいます。
葉子さんの宗教観や芸術観。
私は透明で純粋で好きですよ(^.^)
ただ、技術開発者さんや私は疑似科学に対しては、
敏感に反応しています、、、
そんなこんなですが、
また『生きる」というテーマでご意見お聞かせくださいね。
私は葉子さんでいつも私の知らない世界をみせていただいています。
では、、、楽しみにして(^.^)

愚樵さん。
こちらから声をおかけしながら、バサバサ、ガチャガチャ、そしてグッタリと大忙しの週末でお返事遅くなりごめんなさい。
相変わらず、蘊蓄のあるコメント、嬉しく拝見を致しました。
「コトをどんどん割って行ったって、自分なんか見つからないんです。ニヒリズムに陥るのが関の山。また、一旦割ったものを統合しても、ダメ。必ず何かを取りこぼす。もし、科学が何も取りこぼさないのなら、今頃生命だって科学で生み出せているはずなんです。生命はある種の自明灯ですが、割ることからはじめてしまうと自明灯は出来上がらない。」
本当に言われるとおりです。
まず学問からしてそうですよね、、、
とにかく細分化して細分化して、、、
自分の専門はバッチリ深い。がお隣の分野にはサッパリ。
で、お互いがちょっと分かり合おうと試みたりもするのですが、これがなかなか一筋縄ではいかない。
そして、こんな隙間に上手に贋物が入りこむのでしょうね。
科学信仰には陥りたくない。
が、かと言って蒙昧でも困る。
こんな駆引きの中で細々と生きています私。
そう言う意味でも、みなさんのご意見がとても参考になり学びになるのですよ、独善にならないようにと。
と、言うことでこれからもユニークで逞しくて闊達な愚樵さんのコメント楽しみにしています(^.^)
ではまたね!

投稿: せとともこ | 2008.04.15 15:40

こんにちは、せとさん。

なんていうか、私は「ニセ科学の蔓延」という事の奥底に、日本人の宗教的なことに対する「飢え」みたいなものを感じるんです。私は陽明学にかぶれています。或る意味で「宗教的」です。でもって、陽明学を興した王陽明という人は儒教一本槍の人ではないんですね。若いときに「道教」「仏教」「任侠道」「スポーツ」「物書き」などにのめり込んでは「これではない」と離れるを繰り返す「五溺」と言われる時期を過ごした人なんです。なんていうかな、人間は自分の宗教的な欲求の「飢え」を満たすのすら「努力」がいる面があるんですよ。そういう意味では子供の頃にできあいの宗教を与えられ、その宗教について悩む部分があってもそれなりにすがりついて居られる方が幸せかも知れないんですね。私もまた、精神的な意味ではいろいろと彷徨してしまった面はあるんですけどね。

 できあいで宗教を与えられない者が何か宗教的なものを求めようとすると、一番のバリアは、「信じる」ということだろうと思います。でもって、そのバリアを超えるのにはやはり「しんどさ」はあるわけです。でもって自然科学というのは、普遍性を持ちます。つまり誰がやっても条件さえ揃えば同じ事がおきるという実証性があるわけです。だからこそ、多くの怪しい言説が「科学的には」みたいな姿を装うことで、人の心に忍び寄ろうとするわけです。そうすることで、最初のバリアである「信じる」が容易になりそうなんですね。だからこそ、科学的でもないことをあたかも科学的であるように言いふらすニセ科学の蔓延がおこるのでは無いかと考える訳です。

だからこそ、「自分には信じる宗教がある」という人が「ニセ科学批判」に対して「あなたは科学主義者なのか」みたいに言われることが無性に哀しい部分があるんです。私は「ニセ科学批判」を通じて「正しい宗教のありかた」もまた守りたいという意識はありますからね。

投稿: 技術開発者 | 2008.04.16 09:12

技術開発者 さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。

確かに多くの日本人は宗教に対して無菌状態と言うか、無感覚と言うか、どちらかと言えばマイナスの意味があったりしますね、、、
「無宗教」と言えばカッコイいような気がしたり、
「宗教』と聞けば「線香臭い」と思ったり、、、
そのくせ、いろんな儀式や行事には無感覚で取り入れる。
そして、何故か自分の人生を占いやらおみくじに頼る、、、

とかとか。
私自身の場合は、不安な世の中にあって、指針が欲しいとかちょっとばかり幸せになったらいいな、、、という「欲」があるんですよね。こまったことに。
で、そんな欲が不幸怖がり症候群なんかを呼んで、
それで、いろいろ自分で自分を規制したり、自分ルールを作ったりと、なかなか忙しいことです。
「拘らない」「執着しない」に拘り執着しまくりです(^^;
私はそんな自分を見ながら、
いつも「バランス」をとっていこうと自戒しています。

科学と宗教。
やっぱりバランスではないかと考えていますが如何でしょうか?
またお時間のあるときでもご教示下さいね。
ではまたね!

投稿: せとともこ | 2008.04.16 19:01

こんにちは、せとさん。

>科学と宗教。
>やっぱりバランスではないかと考えていますが如何でしょうか?

 私は陽明学の徒ですからね(笑)。陽明学で言う「良知」というものの本質は「バランス感覚」なんですよ。陽明学では「人の本性には善も悪もない」とします。そして「心が動くときに善悪が生ずる」とするのですが、ここで「心が動く」という事を方向の概念ではなく強弱で考えるわけです。つまり、どの方向の動きでもそこには「最適な動き」の「善」の領域と「動き足りない、動きすぎる」という「悪」となる領域があると考えます。そして人の心にはその「ちょうど良く動く」善なる領域を感知出来るバランス感覚はもともと備わっているとするわけです。その感知能力こそが「良知」と呼ばれるものである訳です。孔子は「心のおもむくままに従って規を超えない境地がある」と言っている訳ですが、それは、心のバランスが完全にとれている状態をさすのだと解釈します。これが、陽明学いう「致良知」の状態ですね。

私は神のようなものも求めますし、自然法則をきちんと知りたいとも思います。この2つに矛盾を感じて悩むとすれば(私は致良知の人ではありませんから、当然悩みます)、私の心の動きがバランスを欠いているためだろうと思います。そしてそのバランスを取る能力は私の心の中に必ずあると信じています(このあたりが、陽明学が宗教的であるという事なんですけどね)から、内省を兼ねれば、必ずバランスに行き着くはずです。

投稿: 技術開発者 | 2008.04.17 08:49

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受信: 2008.04.11 09:21

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