愚樵さんが科学は陰謀説から生まれたなんて挑発的なタイトル(ご本人曰く)でエントリーを挙げられました。
あまりの面白さに何回も読み込んでしまったのですが、
やっぱり書こう「道徳」について、まずは。
(この忙しいときに、こんなワクワクするエントリーを挙げるな、と愚樵さんに毒づきながら、、、ブツブツ)
「キリスト教世界観から【神】が抜け落ちたことには、近代科学を生むと同時にもうひとつの副作用があった。それが科学と道徳の分離である。
【現象】が【神】と関連付けられているときには、【現象】の解釈には道徳性が付随した。【神】は世界を創造したものであると同時に道徳の根源であるのだから、これは当然のことである。しかし近代科学で【神】が抜け落ちると、【現象】の解釈への道徳性もまた抜け落ちた。道徳性が抜け落ちた解釈、論理実証主義の特徴はここにあるといってもよいかもしれない。
(愚樵さんのエントリーから)」
科学と道徳かぁ???
この二つの言葉が並ぶと私が思い出すのは、やはり戸坂潤。
「科学的認識のうえでの論理の欠乏は、道徳的意識のうえでの節操の欠乏に対応する」
と、言うことで愚樵さんのテーマからはずれることになるのですが、本棚から引っ張り出してきた戸坂。
ここからは戸坂潤の道徳論をみていきます。殆どが戸坂の文の引用ですので、
お時間がある方は直接本をご覧ください。格調高いです。
また、すごく長いので、まずは感想だけちょっと先に書いておきます。
カエサルのものはカエサルに、神のものは神に。
そして道徳は生活意識というそのものに還されなければならないのだと、改めて思いました。
それは決して、
階級支配の道具であってはいけない、、、
戸坂が伝えたかったこと、伝えようと願ったことは何か?
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第一章 道徳に関する通俗常識的観念
「道徳の問題を持ち出す際、いつも邪魔になるものは、道徳に関する世間の通俗常識である。」と戸坂はまず初めに世間の通常常識が道徳の問題を考える際、ある障害になると述べる。
そして、
「道徳の理論的な観念はいつも道徳の常識的観念を縁とすることによって、その検討が始められねばならず、そして終局に於て、常識的道徳観念からの絶縁としてではなくて却ってそれの深化又は変貌として、道徳に関する理論的概念を取り出さねばならぬ。だがそのためにも、道徳に就いての常識的な観念が、殆んど迷信に近いまでに頑なで有害なものだということを知らねばならぬ。」と纏める。
その後、常識の分野について言及。
そして、以下のように述べる。
「道徳なるものは、だから生活の一切の領域に、或る仕方に於て着き得るのだ。どういう権利でどういう仕方で着くかは、後に見ようと思うが、とに角その意味に於て、道徳とは生活意識そのものを意味するのだと、仮に云っておくこととしよう。念のため断わっておくが、道徳は確かに一応、常識がそう想定している通り、生活の一領域のことなのだ。にも拘らず、それに尽きることなく、根本的には生活意識そのものを意味するという含蓄を有つものだ、と云うのである。
次に戸坂は道徳の人間性に言及。
「 常識による道徳の考え方の第二の特色は、道徳を善価値だと考えて片づけることだ。という意味は、道徳とは道徳的なことであり善であることだ、というのである。」
そして、戸坂は徳目、修身などおよそ人が道徳と聞いたとき連想する数々の項目について述べる。
この徳目主義から道徳の普遍性を要請する観念が芽生えること。そしてその意味を次のように分析する。
「だから道徳の不変性という観念は、単なる不変性の観念ではなくて、神聖な絶対者、批判すべからざる不可侵物、という観念なのである。事物の不変性は価値評価の世界では事物の神聖味となって現われる。道徳はそれ自身価値ではなく、却って道徳的価値対立(普通之を善悪と呼んでいる)を強調によって成り立たせる或る領域か或いは領域以上のものであることを述べたが、にも拘らず之は道徳が要するに価値的なものであることを云い表わしているのであった。この価値の世界に横たわる処の道徳の不変性を主張するということが、その神聖な絶対性を主張するということになるのは、当然なことだ。」
「常識によって想定される道徳の不変性とは、常識の立場にとっては、凡そ道徳なるものは神聖にして侵すべからざるもので、断じて批判の対象になってはならぬ、という想定なのである。常識にとっては道徳そのものを批評批判することは、云わば第一に言葉の上でさえ矛盾したことなのだ。吾々は不道徳をこそ批判すべきであって、道徳そのものを批判することは、原則的に不可能だと考え得べきだろう。と云うのは批評批判する場合の尺度そのものが、他ならぬこの道徳なのであるから、布地で物指を測ることが無意味なように、道徳を批判することは意味がないのだ、とも考えられる。」
しかし、戸坂は道徳は不変ではないし、あろうはずがないことをその後、引き続いて書く。
「科学は、理論は、事物の探究を生命としている。之は科学自身の批判を通して行なわれる。この点常識にぞくする。処が道徳に関しては常識はそうは考えない。道徳は事物の探究ではない、寧ろ事物を(勝手に常識的に)決める武器だ。道徳自身を批判した処で、道徳なるものが探究でない限り、何の役にも立たぬ。そして道徳そのものを探究すること、之は道徳自身の仕事ではなくて、道徳学とか倫理学とかいう専門的学問の仕事だ、と常識は考えているのである。——だが以上は、道徳を絶対神聖物と考える常識から云って、完全に首尾一貫した観念の展開に他ならない。」
「世間では道徳意識を良心とか法への服従とか習俗の尊重とか考えるが、之は人間の社会生活意識の夫々の内容でなくて何であるか。——俗間の所謂常識による道徳の観念が所謂常識なる観念と相蔽うということをすでに見た。真の道徳と真の常識とも亦、その内容が略々同一のものだと云うのである。」
その後、道徳と現実・社会生活への検討をして、第二章 道徳に関する倫理学的観念へと続きます。
ここは殆ど歴史ですので割愛。
第三章 道徳に関する社会科学的観念
戸坂は道徳は原始の形は日常生活の中での欲望の形態であるとまず言う。
しかし、道徳が社会の中で如何に進化・発展の形をとげるかを以下のように説明する。
「この原始的な道徳観念は実はやがて、現代人が道徳に就いてもつ最も原始的な観念でもあったのである。処でここに注意しておかなくてはならぬ点は、この道徳がこの際(夫が原始宗教の形をとる場合でもよい)、他ならぬ社会的[#「社会的」に傍点]強制だったという点である。道徳はここでは全く社会的[#「社会的」に傍点]なものと考えられているのである。処が道徳に就いての観念がもう少し進歩すると(そしてこの進歩は実に社会そのものの進歩の結果に相応するものだが)、道徳は単なる社会的強制ではなくて、更に強制される自分の主観自身がその強制を是認する、という点にまで到着する。この時初めて、道徳に就いて本当の価値感が成り立つのである。そしてこうして道徳の観念が構成される際の一つの方向は、道徳を主観の道徳感情・道徳意識に伴う価値感そのものだと考えることに存するようになる。こうして良心とか善性とかいう主観的な道徳観念が発生する。所謂「倫理学」は、こうした主観的な道徳観念を建前とする段階の常識に応ずる処の、道徳理論だったのだ。」
そして道徳がイデオロギーとなる道筋を分析していく。
「さて道徳を社会の自然史の立場から科学的に説明しようとすると、之は一つのイデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]に他ならぬものとなる。社会に於ける生産関係をその物質的基底として、その上に築かれた文化的・精神的・意識的・上部構築が一般にこの場合のイデオロギーという言葉の意味だが(尤もイデオロギーとは社会の現実の推移から取り残されたやがて亡びねばならぬ意識形態をも意味するが、道徳に就いてのこの意味でのイデオロギー性質も後になって意義を見出すだろう)、社会のこの上部構築としてのイデオロギーの一つが道徳現象だということになるのである。政治・法律・科学・芸術・宗教・それから社会意識、こうした文化乃至意識が夫々イデオロギー形態であるが、道徳はこの諸形態と並ぶ処の一イデオロギーだというのである。」
「道徳は併し権威[#「権威」に傍点]を有っていると云うだろう。処がその権威は実は単に権力[#「権力」に傍点]が神秘化されたものに過ぎぬ。道徳の権威とは、権力としての社会規範に過ぎぬ。而もその権力自身が生産関係から生じることは又、見易い道理だ。」
最後に第四章 道徳に関する文学的観念へと読者は導かれます。
ここでは主に文学作品を検討しつつモラルについて考察。
そして格調高く最後は以下のように締められます。
「だから道徳とは、丁度科学的真理がそうであるように、常に探究される処のものなのだ。その点から見れば、道徳は与えられた道徳律や善悪のことや一定の限定された領域などのことではない。特に、科学が決して、真理と虚偽との対立を決めるというような妙な形の興味を有つものではないと同じに、何が善で何が悪かというような設問の内を堂々巡りしていることは、道徳の探究の道ではなく、従って又道徳の本義ではないのである。
道徳が自分一身上の鏡に反映された科学的真理であるという意味に於て、道徳は吾々の生活意識そのものでもなければならぬ。そういう生活意識こそ偉大な真の常識というものだろう。そしてこの道徳を探究するものこそ、本当のそして云わば含蓄的な意味に於ける文学の仕事なのだ。モラル乃至道徳は、「自分」が無かったように、無だ。それは領域的には無だ。それは恰も鏡が凡ての物体を自分の上にあらしめるように、みずからは無で而も一切の領域をその内に成り立たせる。」
と。
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