« 火星探査機・フェニックス | トップページ | 故郷に帰ること、なんといいますか?と言う記事 »

2008.05.27

言葉と辞書

書こう、書こうと思いつつバタバタしていて書きそびれたのですが、
先日の25日(つまり5月25日)は「広辞苑」の日でした。
wikipediaを読みながら、辞書にもその歴史、時代背景があるんだと改めて感心していました。
「言葉」は時代の鏡でもあります。

さてさて、それにしても辞書と言えば、私にとってはもう「アレ」しかありません。
「アレ」。
そう、
その名は「新解」さん
以前新解さんの謎と言うエントリーを挙げたことがあります。
4年前の私は以下のように「言葉」について書いていました。
=================
いつも、何気なく使っている言葉にしても、
実はお互いが、共通の認識なしに、しゃべっていることって
あります。
家族や、面と向かって話している人。
また、仲良しや、よく会う人たちなら、
時間という手段を介して、お互いの誤解を解くことも
できますが、
「文字のみ」「声のみ」の相手では、誤解をしたまんまってこともありそうです。
ネットでの、議論もそうです。
そもそも、お互いが共通の認識、理解のうえで、
その問題を話す(書く?)のなら、議論は建設的にすすみますが、
そうでない場合は、
まず、自分の立場(その問題に関して)を理解してもらうことに、
相当のエネルギーがいると思います。
「言葉」というものが持つ限界をしっかり見極めて、
その上で、
相手に敬意を表しつつ、
お互いの理解を深めるようなネット場の討論、議論をしているサイトやブログを見る機会にめぐまれると、とても勉強になります。
(以前の記事より)
==================

昨今、私の周囲のブログ界隈で、
言葉の解釈をめぐってアレコレの意見が飛び交ったのですが、
言葉って、ほんに難しい。

なるほど、新解さんの初版で編者の言葉を再現すれば、
真にその難解さが分かろうというものです。
ちょっとだけ抜粋して掲載します。
===========
新たなるものを目指して

 人も知るごとく、本書の前身は「小辞林」の語釈を口語文に書き替えることから出発した。今を去る三十二年前の事である。

中略

ローマは一日にして成らざるのたとえのごとく、一日にして成るは辞書ではない。
 思えば、辞書界の低迷は、編者の前近代的な体質と方法論の無自覚に在るのではないか。先行書数冊を机上にひろげ、適宜に取捨選択して一書を成すは、いわゆる パッチワーク の最たるもの、所詮 芋 辞書の域を出ない。その語の指す所のものを実際の用例について、よく知り、よく考え、本義を弁えた上に、広義・狭義にわたって語釈を施す以外に 王道 は無い。辞書は、 引き写し の結果ではなく、用例蒐集と思索の産物でなくてはならぬ。尊厳な人間が一個の人格として扱われるごとく、須らく、一冊の辞書には編者独特の持ち味が、なんらかの意味で滲み出なければならぬものと思う。かような主張のもとに本書は成った。今後の国語辞書すべて、本書の創めた形式、体裁と思索の結果を盲目的に踏襲することを、断じて拒否する。辞書発達のために、あらゆる模倣をお断りする。
 しかしながら、一面から言えば、思索の結果は主観に堕しやすい。今回吾人の施した語釈は、それなりに沈潜の結果成ったものではあるが、シャープならんと欲する余り、限定が大に過ぎるという批評を感受すべき面が或は皆無ではないかも知れない。公器である辞書の語釈として普遍妥当的なものに成長するためには、今後万人の実験を期待する。吾人は歓迎する ─そのような意味における読者・利用者の声を。それは辞書を育てる上には必要欠くべからざる要素であると思う。

昭和四十六年十月

==============
ふむふむ。

ローマは一日にしてならず。


単に言葉を字面どおりに解釈しても、それは「芋辞書」なのである。
「その語の指す所のものを実際の用例について、よく知り、よく考え、本義を弁えた上に、広義・狭義にわたって語釈を施す以外に 王道 は無い。」と編者は言う。
そして、最後に、
辞書を成長させるのは読者・利用者であるとも言う。
未だ発展の途、という事でしょうか。

そして、、、
言葉は発した者から離れ、成長して、また還ってくるものなのかもしれません。

言葉の専門家と言えども、
その解釈に対しては慎重であるし、
また言葉は世に連れ変遷するものであることを認めています。

ならば素人である私は於いておや、、、です。
「生きている」ものを扱うように丁寧に、そして敬意を払うべきものなのでしょうね。
ゆめゆめ疎かにはできません。

それにしても、「新解」さん。
あなたは面白すぎます!!!


|

« 火星探査機・フェニックス | トップページ | 故郷に帰ること、なんといいますか?と言う記事 »

コメント

ローマは一日にしてならず。
EUは一日にしてならず。

投稿: あゆ | 2008.05.27 22:27

あゆさん(^.^)
この頃、「なかのひと」変った???
と、思うくらいお茶目。
以前は、どちらかというと真剣あゆちゃんだったイメージ。
でも両方ともあゆちゃんだね(^.^)

投稿: せとともこ | 2008.05.28 16:37

これマジですよ。うちの日記にありますよ。
ローマもEUも吸収していく巨大化したけど・・・ていうものです。

投稿: あゆ | 2008.05.28 21:18

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/15797/41343272

この記事へのトラックバック一覧です: 言葉と辞書:

» 「家族と国家社会」そしてフェミニズム [晴耕雨読]
● 家族と国家社会 【律さん】 「もちろん家族が開いた状態になるということは、他からの無尽蔵な介入を引き入れてしまう危険性が大いにあるわけです。そして、確かに国家や社会は個々人が生きていくための補助システムとして存在しているにすぎず、本体は家族・個人にあるのが本筋でしょう。 しかし、社会・国家が成立してしまい、存続し続ける以上、家族・個人はその制度上に取り込まれてしまっているというのも確かで、それを否定することはできないという意味です。これを無視して個別で解決するのは困難ですから、いかに監視社会的... [続きを読む]

受信: 2008.05.28 13:48

« 火星探査機・フェニックス | トップページ | 故郷に帰ること、なんといいますか?と言う記事 »