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2008.05.14

戸坂潤の道徳と倫理

「古代に於ける倫理思想がそうだったように、近代に於ける倫理思想の自覚も亦、一般思想の激しい動揺、即ち社会機構の著しい変革によって促された。」
これは戸坂潤の「道徳の観念」の第二章にある言葉です。
先のエントリーでも挙げたように、戸坂は「道徳は社会秩序の分泌物のようなもので、従ってその反映である道徳意識乃至倫理観念は、社会秩序の上部構造的な表現に他ならない。」
と述べ、道徳が「初めにありき」ではない、と主張。
道徳とて社会の産物であることを縷々述べています。
故に「社会秩序が比較的安定を得ている場合には、その道徳乃至道徳意識は、自分の内に何等の抵抗も矛盾も感じないので、倫理思想は殊更自覚される縁もなければその必要もない。」と説く。
そして、この倫理が問題として自覚され、倫理学などが発生するのは、一般に社会変動と夫に基く思想的動揺とに照応してのことであり、歴史を学ぶことで近代ブルジョア倫理学の発生もその例外では無いという。

確かに、このところとみに注目されて来ている「道徳」。しかも愛国心をお供に堂々と学校教育に入り込もうとしている「道徳」。

「一体道徳なるものが、一般に一つの領域だ(その限界は機械的に与えるべからざるものでその内容も固定不変なものではないとして)と云って片づけられ得るかどうかなのだ。と云うのは、道徳は社会関係・政治関係・法律体系・其の他其の他と並列する一領域であると考えられるにも拘らず、他方之等一切の諸領域の一つ一つに接着していることをも見落すことが出来ないのである。そういう関係があればこそ、社会そのものが道徳的本質に還元されたり、政治や法律が単なる道徳に帰着されたりするということも初めて可能だったわけで、社会主義が倫理学に包括されて了うという誤りも、決して理由なしには発生しなかったのである。でもしそうだとすると、道徳はもはや単なる一領域であるに止まらず、恐らく一領域であるにも拘らず他領域をも蔽うか又は之に付随するかする処の、或るものだと云わねばならぬ。」
と、戸坂は逸脱していく「道徳観」に危惧を表明していきます。
そして、その隙間に滑りこむ「倫理」。
そこで冒頭の「倫理」について戸坂の考察は進む。
「 その意味に於て倫理学は、その煩瑣な分析にも拘らず、要するに常識的な道徳観念の多少理論的な釈明に過ぎないのであって、決して道徳現象の科学的説明を企て得るものではない。道徳なるものはすでに常識によって与えられている、倫理学は単に之を明快にして秩序立てさえしたならばよい、というのが、道徳に関する倫理学的観念の役割なのだ。だから、倫理学的道徳観念は、根本に於ては、常識的な道徳観念を批判克服しようとするものではあり得ない。まして新しい道徳観念の創造、そして又新しい道徳の創造、などについては殆んど全く無力なのだ。之は寧ろ初めから当然だと云わねばならぬ。なぜと云うに、今日の通俗常識はつまりはブルジョア社会に於て支配的な常識でしかないので、このブルジョア的の観念にぞくする常識的道徳観念が、同じくブルジョア社会の観念に立脚する所謂倫理学によって、批判され克服されるというようなことは根本的には、到底あり得ないことだからだ。」
と述べながら、だがしかし倫理学が宗教に結びついていく過程を
アウグスティヌスの神に基く神聖倫理について分析していくことで、道徳と倫理、そして「神」について言及。
「つまり世俗のカエサルの帝国に於ける常識的な階級道徳そのものと、少しも実質を異にするものではない。倫理学に於ける神学的観念論はここに始まる。」
として考察を重ねます。
「アウグスティヌスによって道徳の観念は宗教倫理的なものとなった。ここに含まれる特有な道徳問題は、単に善(或いは悪)や幸福(乃至浄福)の問題ではなくて、恩寵であり永生であり、そしてもっと大事なのは、之に直接関係のある悪(根本悪)と自由意志との問題なのである。之はギリシア倫理学では殆んど全く存在しなかったものであると共に、之なくしては近代ブルジョア倫理学を考えることの出来ないような、根本問題なのだ。こうした根本問題がアウグスティヌス(広くキリスト教倫理学)から発生したのである。」

ここで、愚樵さんやnaokoさんの関心へと結びついていきます。
またいつもコメントを下さる技術開発者さんの守備範囲でもあります。
カントに話を戻せば、
こうしてカントの倫理学は、認識理論や芸術理論から殆んど全く独立な領域として現われ、その結果、倫理学は「社会・国家・政治・法律からさえ、独立した一つの封鎖領域なのである。」と戸坂は言う。
そのもたらすことは、二つの結果を必然にする。と断言。
それは「一つは倫理学の形式化であり、一つは倫理学の固有問題の設定である。」
そして、この形式化こそが、倫理学は極めて貧弱なものとなるように見えそうで、この弱さこそが、実は却って之によって、倫理学という特殊領域が、いつでもどこにでも口を容れることが出来るような特権を獲得するのである、と言う。
「場所・歴史的時代・社会階級などとは全く無関係に、この倫理理論は通用出来るわけだし、又如何なる社会現象の根柢としても、この形式的な倫理学は、形式的であるが故に必ず想定されて構わぬものとなる。社会が倫理的に見られるためには、即ち、社会が観念論的に特徴づけられるためには、倫理学は形式主義を取らねばならぬわけであり、そのためその形式にとらわれることも必然であった、ということです。
また、以下の様に述べる。
「極めて最近では、倫理学を人間学乃至「人間の学」と見做すことも行なわれるが(例えば和辻哲郎博士)、こうした人間学は要するに社会を倫理に解消する代りに、之を人間に解消するためのもので、明らかにこの点で従来のブルジョア観念論倫理学の代用物としての機能を有つ、夫が改めて今時、倫理学と見立てられるのは尤もだと云わねばなるまい。——倫理思想を歴史的に導いて来なければならぬと云って、東洋倫理や日本倫理学を説く者が、今日の国粋反動復古時代に多かりそうなことは、誰しも思い付くことだ。西晋一郎博士によれば、「東洋倫理」は科学や学問ではなくて教えであり教学であるという。この教学主義の体系が今日の日本に於ける典型的な半封建的ファシズム・イデオロギーの帰着点であり、特色ある観念論組織の尤なるものであることは論外としても、この種の歴史的(?)な倫理学が、実は何等の歴史学的認識に立つものでもないことは、一目瞭然たるものであろう。」
戸坂の時代と今は色々な意味で違う。
のだが、
読めば読むほどすぐれて新しいと感嘆することばかりの私です。

さて戸坂は言う。
「——道徳は倫理学によって、全く卑俗な矮小な憐むべき無力なガラクタとなる。」と。

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 この記事はまたしても愚樵さんの記事のコメントに端を発している.その記事で愚樵さんが本来仰りたかったこととズレて行った可能性があるのだが,コメントしているうちに東西南北さんや愚樵さんとの話がかみ合って,こちらの方へ話がなびいてきた. 別に東西南北さんと論争したわけではない.互いの疑問点を考えるうちに,私の不十分な考察をより高いステージに立って考える必要に迫られることになったのである.ということで『科学と道徳』というテーマで簡単に書いてみる.  まず,『道徳』とは何か,ということを書いておかねば... [続きを読む]

受信: 2008.05.15 09:17

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