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2008.05.09

戸坂潤の道徳論を読む

愚樵さんが科学は陰謀説から生まれたなんて挑発的なタイトル(ご本人曰く)でエントリーを挙げられました。
あまりの面白さに何回も読み込んでしまったのですが、
やっぱり書こう「道徳」について、まずは。
(この忙しいときに、こんなワクワクするエントリーを挙げるな、と愚樵さんに毒づきながら、、、ブツブツ)

「キリスト教世界観から【神】が抜け落ちたことには、近代科学を生むと同時にもうひとつの副作用があった。それが科学と道徳の分離である。

【現象】が【神】と関連付けられているときには、【現象】の解釈には道徳性が付随した。【神】は世界を創造したものであると同時に道徳の根源であるのだから、これは当然のことである。しかし近代科学で【神】が抜け落ちると、【現象】の解釈への道徳性もまた抜け落ちた。道徳性が抜け落ちた解釈、論理実証主義の特徴はここにあるといってもよいかもしれない。
(愚樵さんのエントリーから)」

科学と道徳かぁ???
この二つの言葉が並ぶと私が思い出すのは、やはり戸坂潤。
「科学的認識のうえでの論理の欠乏は、道徳的意識のうえでの節操の欠乏に対応する」

と、言うことで愚樵さんのテーマからはずれることになるのですが、本棚から引っ張り出してきた戸坂。
ここからは戸坂潤の道徳論をみていきます。殆どが戸坂の文の引用ですので、
お時間がある方は直接本をご覧ください。格調高いです。
また、すごく長いので、まずは感想だけちょっと先に書いておきます。

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に。
そして道徳は生活意識というそのものに還されなければならないのだと、改めて思いました。
それは決して、
階級支配の道具であってはいけない、、、

戸坂が伝えたかったこと、伝えようと願ったことは何か?

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

第一章 道徳に関する通俗常識的観念
「道徳の問題を持ち出す際、いつも邪魔になるものは、道徳に関する世間の通俗常識である。」と戸坂はまず初めに世間の通常常識が道徳の問題を考える際、ある障害になると述べる。
そして、
「道徳の理論的な観念はいつも道徳の常識的観念を縁とすることによって、その検討が始められねばならず、そして終局に於て、常識的道徳観念からの絶縁としてではなくて却ってそれの深化又は変貌として、道徳に関する理論的概念を取り出さねばならぬ。だがそのためにも、道徳に就いての常識的な観念が、殆んど迷信に近いまでに頑なで有害なものだということを知らねばならぬ。」と纏める。
その後、常識の分野について言及。
そして、以下のように述べる。
「道徳なるものは、だから生活の一切の領域に、或る仕方に於て着き得るのだ。どういう権利でどういう仕方で着くかは、後に見ようと思うが、とに角その意味に於て、道徳とは生活意識そのものを意味するのだと、仮に云っておくこととしよう。念のため断わっておくが、道徳は確かに一応、常識がそう想定している通り、生活の一領域のことなのだ。にも拘らず、それに尽きることなく、根本的には生活意識そのものを意味するという含蓄を有つものだ、と云うのである。

次に戸坂は道徳の人間性に言及。
「 常識による道徳の考え方の第二の特色は、道徳を善価値だと考えて片づけることだ。という意味は、道徳とは道徳的なことであり善であることだ、というのである。」
そして、戸坂は徳目、修身などおよそ人が道徳と聞いたとき連想する数々の項目について述べる。
この徳目主義から道徳の普遍性を要請する観念が芽生えること。そしてその意味を次のように分析する。
「だから道徳の不変性という観念は、単なる不変性の観念ではなくて、神聖な絶対者、批判すべからざる不可侵物、という観念なのである。事物の不変性は価値評価の世界では事物の神聖味となって現われる。道徳はそれ自身価値ではなく、却って道徳的価値対立(普通之を善悪と呼んでいる)を強調によって成り立たせる或る領域か或いは領域以上のものであることを述べたが、にも拘らず之は道徳が要するに価値的なものであることを云い表わしているのであった。この価値の世界に横たわる処の道徳の不変性を主張するということが、その神聖な絶対性を主張するということになるのは、当然なことだ。」
「常識によって想定される道徳の不変性とは、常識の立場にとっては、凡そ道徳なるものは神聖にして侵すべからざるもので、断じて批判の対象になってはならぬ、という想定なのである。常識にとっては道徳そのものを批評批判することは、云わば第一に言葉の上でさえ矛盾したことなのだ。吾々は不道徳をこそ批判すべきであって、道徳そのものを批判することは、原則的に不可能だと考え得べきだろう。と云うのは批評批判する場合の尺度そのものが、他ならぬこの道徳なのであるから、布地で物指を測ることが無意味なように、道徳を批判することは意味がないのだ、とも考えられる。」
しかし、戸坂は道徳は不変ではないし、あろうはずがないことをその後、引き続いて書く。
「科学は、理論は、事物の探究を生命としている。之は科学自身の批判を通して行なわれる。この点常識にぞくする。処が道徳に関しては常識はそうは考えない。道徳は事物の探究ではない、寧ろ事物を(勝手に常識的に)決める武器だ。道徳自身を批判した処で、道徳なるものが探究でない限り、何の役にも立たぬ。そして道徳そのものを探究すること、之は道徳自身の仕事ではなくて、道徳学とか倫理学とかいう専門的学問の仕事だ、と常識は考えているのである。——だが以上は、道徳を絶対神聖物と考える常識から云って、完全に首尾一貫した観念の展開に他ならない。」
「世間では道徳意識を良心とか法への服従とか習俗の尊重とか考えるが、之は人間の社会生活意識の夫々の内容でなくて何であるか。——俗間の所謂常識による道徳の観念が所謂常識なる観念と相蔽うということをすでに見た。真の道徳と真の常識とも亦、その内容が略々同一のものだと云うのである。」


その後、道徳と現実・社会生活への検討をして、第二章 道徳に関する倫理学的観念へと続きます。
ここは殆ど歴史ですので割愛。
第三章 道徳に関する社会科学的観念
戸坂は道徳は原始の形は日常生活の中での欲望の形態であるとまず言う。
しかし、道徳が社会の中で如何に進化・発展の形をとげるかを以下のように説明する。
「この原始的な道徳観念は実はやがて、現代人が道徳に就いてもつ最も原始的な観念でもあったのである。処でここに注意しておかなくてはならぬ点は、この道徳がこの際(夫が原始宗教の形をとる場合でもよい)、他ならぬ社会的[#「社会的」に傍点]強制だったという点である。道徳はここでは全く社会的[#「社会的」に傍点]なものと考えられているのである。処が道徳に就いての観念がもう少し進歩すると(そしてこの進歩は実に社会そのものの進歩の結果に相応するものだが)、道徳は単なる社会的強制ではなくて、更に強制される自分の主観自身がその強制を是認する、という点にまで到着する。この時初めて、道徳に就いて本当の価値感が成り立つのである。そしてこうして道徳の観念が構成される際の一つの方向は、道徳を主観の道徳感情・道徳意識に伴う価値感そのものだと考えることに存するようになる。こうして良心とか善性とかいう主観的な道徳観念が発生する。所謂「倫理学」は、こうした主観的な道徳観念を建前とする段階の常識に応ずる処の、道徳理論だったのだ。」
そして道徳がイデオロギーとなる道筋を分析していく。
「さて道徳を社会の自然史の立場から科学的に説明しようとすると、之は一つのイデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]に他ならぬものとなる。社会に於ける生産関係をその物質的基底として、その上に築かれた文化的・精神的・意識的・上部構築が一般にこの場合のイデオロギーという言葉の意味だが(尤もイデオロギーとは社会の現実の推移から取り残されたやがて亡びねばならぬ意識形態をも意味するが、道徳に就いてのこの意味でのイデオロギー性質も後になって意義を見出すだろう)、社会のこの上部構築としてのイデオロギーの一つが道徳現象だということになるのである。政治・法律・科学・芸術・宗教・それから社会意識、こうした文化乃至意識が夫々イデオロギー形態であるが、道徳はこの諸形態と並ぶ処の一イデオロギーだというのである。」
「道徳は併し権威[#「権威」に傍点]を有っていると云うだろう。処がその権威は実は単に権力[#「権力」に傍点]が神秘化されたものに過ぎぬ。道徳の権威とは、権力としての社会規範に過ぎぬ。而もその権力自身が生産関係から生じることは又、見易い道理だ。」

最後に第四章 道徳に関する文学的観念へと読者は導かれます。
ここでは主に文学作品を検討しつつモラルについて考察。
そして格調高く最後は以下のように締められます。
「だから道徳とは、丁度科学的真理がそうであるように、常に探究される処のものなのだ。その点から見れば、道徳は与えられた道徳律や善悪のことや一定の限定された領域などのことではない。特に、科学が決して、真理と虚偽との対立を決めるというような妙な形の興味を有つものではないと同じに、何が善で何が悪かというような設問の内を堂々巡りしていることは、道徳の探究の道ではなく、従って又道徳の本義ではないのである。
 道徳が自分一身上の鏡に反映された科学的真理であるという意味に於て、道徳は吾々の生活意識そのものでもなければならぬ。そういう生活意識こそ偉大な真の常識というものだろう。そしてこの道徳を探究するものこそ、本当のそして云わば含蓄的な意味に於ける文学の仕事なのだ。モラル乃至道徳は、「自分」が無かったように、無だ。それは領域的には無だ。それは恰も鏡が凡ての物体を自分の上にあらしめるように、みずからは無で而も一切の領域をその内に成り立たせる。」
と。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

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コメント

せとさん。なんですか、このエントリーは(笑)。
アクセスして、読み始めて、頭だけちょっと読んで、ざーっと下にスクロールすると、あるわあるわ、文字、文字、文字。

私も他人のことは言えないけど、せとさんが、ねぇ。

戸坂潤ですか。恥ずかしながら知りませんでした。

「科学的認識のうえでの論理の欠乏は、道徳的意識のうえでの節操の欠乏に対応する」

いや、びっくり。ほんとに格調高い。私が考えていたことを端的に言い表してる。脱帽です。

【観察者】→【現象】→【現象】→・・・と続く流れをアルバイシンの丘さんが健全といい、私はそれを誠実と呼びたいといい、追究し続ける姿勢は科学でも宗教や道徳でも同じとした。次、それを書きたいと思ってたんですが...。まず、せとさんのエントリーをじっくり読んでから。

ごめんなさい、まだ最後までちゃんと読んでません。これから気合を入れて読ませていただきます。

投稿: 愚樵 | 2008.05.09 19:55

「科学的認識の上での…」
愚樵さんに続いて、わたしも全面的に同意です。
昨日、それを特に強く感じてました…。
‘自然科学’同様に、‘道徳’もまた、永遠の探究の対象なのだと思います。

ところで、‘道徳の探究’の基本は何でしょう?

それは、‘いかに耳を澄ますか’ではないでしょうか。
外界とのふれあいの中で、
他者の奏でる音楽に耳を澄ませ、
その音楽に感動する自己の内面の鼓動に耳を澄ます…。
そのとき、自己の内面が、‘普遍’へと解き放たれる。
自分の内で、
未だ形になっていなかったものに、
新しいかたちが与えられる。
喜びと興奮の旋律と共に…。
誰かの胸のうちで、生まれた、この新しい‘旋律’に、
また、ほかの誰かが耳を澄ましている。
そうして…。
連綿と、人類の文化創造の営みは続けられていく。
古い道徳が、今を生きる人々の心の中で、
新鮮な感動と共に、生まれ変わっていく。

『すべては音楽から生まれる』-脳とシューベルト-茂木健一郎
を読んでいて、今、そんなことを感じています。

愚樵さんの旋律、せとさんの旋律、Lightさんの旋律に、
周囲のさまざまな存在が奏でる旋律に、
これからも、耳を済ませていたいと…。

投稿: naoko | 2008.05.10 02:17

愚樵さん。
naoko さん。
おはようございます。
コメントありがとうございます。

このエントリー、愚樵さんからインスパイアされたのですが、推敲していないので、これからの課題にさせてください。

愚樵さん。
私はうちゃさんの思いと似ていると感じながら、次のエントリーを楽しみにしています。

naoko さん。
このところ、いろいろお名前を拝見しています。
感性豊かでやさしくて真摯なコメントを読みながらお人柄を彷彿とさせていただいています。
なかなかもどかしい思いもあるでしょうが、皆さんの粘り強く書かれている姿には敬意を感じているんですよ。
偽科学、これはそれとなく、どことなく生活に入り込んできます。
水伝そのものはニセ科学ですが、形を変えてさりげなく入り込む怖さがあります。
誰だって被害者になりうると思います。
だからこそ、徹底して追求していかねばならないと思います。
ROMしながら、教えられることばかりです。
これからも、いろいろご意見お聞かせくださいね。
では、、、また。

投稿: せとともこ | 2008.05.11 10:25

こんにちは、せとさん。

 いわゆる一般生活における「道徳観・倫理観」というのは、私は数学における公式の様な面があると思っています。例えば生活の中で「円の面積を出したい」というシーンで「半径の2乗に3.14を掛ける」として、「いくらだね」と出てくる訳ですが、その時、たいていは公式を使うだけであって、その公式の証明をその場でやり始める人はいないだろうと思います。

 もともと公式にはきちんとした証明があるわけですが、一度証明し納得した後は、その証明にさかのぼる事はせず、単に記憶している公式に現実的な半径を当てはめて面積を出すのが実利というものでしょう。

 実のところ様々な「道徳観」にも「もともとの証明」にあたるものは存在します。その証明の切り口は「相互利害」と言われるものです。私は「八百屋の大将が『傷んだ野菜を見抜けない客が悪い』と傷んだ野菜を売るのなら、八百屋の女将さんは魚を買うときに『傷んでいないか良く見極め』なくてはならなくなる」なんて言ったりしますが、社会秩序が保たれる方がその社会で暮らす際に「楽に生きられる」訳でして、それを考えるなら、社会秩序を乱す行為は道徳的に悪であり、それを保つための行為は善となるという証明ができるわけです。

 ただ、同時に公式が証明にさかのぼる事無く使われる様に「道徳観・倫理観」もまた、「相互利害」にさかのぼらなくても使用される面があるわけです。使う度に証明にさかのぼるのなら、公式として記憶し利用する実利性は失われる訳ですね。いちいち証明にさかのぼらなくても「それは道徳的に良くないことだ」とか「それは道徳的に正しい事だ」とか使われてこそ道徳観というものの実利はあるわけですね。

 日常で道徳的価値判断をする際に、いちいち「社会の相互利害」にさかのぼる必要は無い訳ですが、「円の面積ってこの公式でよかったのだっけ」と怪しくなったときに証明をきちんと覚えていると確認出来ますよね。それと同じで「なんとなく道徳的にはこうだけど、本当に良いのかな」と思ったときなんかに「社会の相互利害」から考え直してみるという事ができると道徳の判断を過つ可能性はずいぶんと減ります。

投稿: 技術開発者 | 2008.05.12 11:25

技術開発者さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
実はこのエントリーを挙げながら技術開発者さんのことを思い出していました。
そもそもの、もとになった愚樵さんというのが、なかなかユニークで面白い人で「言葉」を大切にする人です。
方向はちょっと違うかな、と思いますが技術開発者さんに相通じる鋭い感性の持ち主です。

と、言うことで話は道徳へ。
以前、教えていただいた「狩の原理」(私が勝手に名をつけました)や「間違った時に相手を窘めるやり方」(つまり、バッカじゃないのと笑い飛ばすことで、自制・規制がかかる云々)
を彷彿として、戸坂の本を読んでいたのですよ。
まさに生活原理というか、道徳のそもそもを思いました。
こうした自然のルールがいつの間にか支配の道具になった運命を辿ると、やはり、ここはしっかりと告発する必要を感じます。

公式の譬えも分かりやすく、平易に繙いていただくので、
私の理解もすすみます。
また、いろいろお教えくださいね(^.^)
楽しみにしています。

投稿: せとともこ | 2008.05.12 13:48

こんにちは、せとさん。
私は「リアリティ」という事を最近は良く説明に使います。

>まさに生活原理というか、道徳のそもそもを思いました。

 なんていうか「社会規範」というものの成立はもともと「生き延び易さ」という生物にとってとても重要なリアリティのあるものだったのだろうと思っています。「人の物を盗んでは成らない」という規範の成立についてこんなたとえ話を作ったことがあります。

野生の動物であった人間が「蓄え」や「分け合い」を始めたときにはまだ「人の物を盗って(奪って)はならない」という規範は成立していなかったのではないだろうか。それゆえ、「蓄え」はつねに持ち歩かねばならず、我が子に「分け与え」れば食べ終わるまで他の個体に奪われない様に見張らなければならなかった。そのため蓄えは常に少なく、また我が子に分け与える時間は次の餌を探すことも難しかった。ある時、二人の個体が良い工夫をした。一人が二人分の蓄えや子の食事を見張りをし、その間にもう一人が次の餌を探すのである。このとき、この二人の間には約束が生まれた「互いの物、互いの子の餌は盗ったり奪ったりしない」という約束である。やがて、二人でなく三人、三人でなく四人とこの約束に加わる者が増え、その者たちの間では「互いの物、互いの子の餌は盗ったり奪ったりしない」という約束が共通のものとなった。その約束をした者たちは、他の個体よりも蓄えも多くなり、子にも充分に餌を分け与えられたので、遙かに生き延びやすくなり、約束に参加する個体も増え、子も成長するとその約束に従ったので、だんだんとその数を増して集落となった。こうして「集落の中では互いに盗ったり奪ったりしない」という社会規範を持った群れが生まれたのである。なんて話です。

 なんていうか、我々は社会の様々な規範というのを「当然のこと」として捉え、その成立に「生き延びやすさ」が関係していると言うことには思いが至らないのだろうと思います。でも「互いを殺さず、傷つけず、盗らない」という原則的規範ができるのにも、こんな「生き延びたい」といった強い欲求があったのだろうと思うんですね。

>こうした自然のルールがいつの間にか支配の道具になった運命を辿ると、やはり、ここはしっかりと告発する必要を感じます。

その「生き延びやすさのリアリティ」に立ち返っていろんな規範を眺めるなら、支配の道具と成ったルールには、なにやら生き延びやすさとは違う臭いがするのかも知れません。

投稿: 技術開発者 | 2008.05.12 17:28

せとさんがおっしゃる、そして技術開発者さんがおっしゃっていたという『間違った時に、相手をたしなめるやり方』に‘ばっかじゃないの’と笑い飛ばす、つまり‘嘲笑’を用いるという場合、それがたとえば、相手の命に関わるような深刻な事態を引き起こさないため、と理解してよろしいのでしょうか?
あるいは、より軽い問題についてだとしても、強い信頼関係に結ばれた人間関係の中で、愛情を持って行われると考えてよろしいでしょうか?

そうではない場合には、逆効果になる可能性が多いのではないか、という気がします。
つまり、不特定多数の、あまり親しくない人もいる、いわゆる公衆の面前で嘲笑されると、羞恥心から一時的に精神のバランスが崩れるわけで、その時点では正常な判断は逆に難しくなります。
おっしゃるように、自己防衛の意識から、二度とこのような醜態はさらすまいと、当人が決意することはあると思います。
しかし、嘲笑された内容が、自己の存在の本質に関わる場合には、むしろ当人の内面に、反抗心や被虐の感情を強く刻んでしまうという結果になりかねないのではないでしょうか?
わたしとしては、‘たしなめる’手段としては、Lightさんのように「相手の感情を尊重する」姿勢や、Newsolさんのように「愛情を持って真摯に接する」姿勢がありがたいと感じています。
そのほうが、たしなめられた方も、自己の内面を‘進化・深化’させ得ると思うからです。

これは性善説に立つか、性悪説に立つかという問題なのかなとも思いますが…。
もしも、ひどい誤解があるようでしたら、すみません。なにぶんここのコメント欄しか読まずに、書いておりますので。
唐突に話に割り込んで申し訳ありませんでした。

投稿: naoko | 2008.05.13 14:30

技術開発者さん。
naokoさん。
コメントありがとうございます。

技術開発者さん>
naokoさんから頂いたご意見に対して、またお考えをききたく存じますのでお時間が許せば宜しくお願い致します。

さてnaokoさん。
お尋ねの文言は以前、私が書いた科学の共有と言うエントリーで、技術開発者さんとニケさんがコメントを躱されたときに出てきたものです。http://ts.way-nifty.com/makura/2008/01/post_13ee.html

ちょっと長くなりますが引用。
「変なたとえ話になりますが「そんなこと信じているなんてバッカじゃないの~」なんて言い方とかそう言われるような社会風潮とかについてもあるわけです。人が何か気の迷いで不合理な話を信じた時に、こういう言われ方というのは、まあ、楽しくは無いわけですね。だから、「どこが違うのかをきちんと言ってあげなさい、馬鹿なんて人格否定をするような言い方はやめなさい」なんて事に正義があるみたいに感じてしまうわけです。でもね、人間という不合理な存在は、「バッカじゃないの~」と言われる方が、理路整然と否定されるよりも「馬鹿にされるのは嫌だから、もう少し慎重になろう」という意識を起こしやすいものなんですね。なんていうか、「麻原なにがしは座禅したまま宙に浮く」なんて話を「バッカじゃないの~」とする風潮が薄れることで、最終的に地下鉄サリン事件にまでつながっている面があるわけですよ。
もちろん、人が何かを信じたからと言って人格まで否定すべきではないのだけど、それが行きすぎ無い範囲で「バッカじゃないの~」という「人を嗤う、人に嗤われる」という風潮を持つことは社会にとって必ずしも悪くはないのではないかと考えたりしているわけです。
(技術開発者さん)」

このコメントに至るにはニケさんとの真摯なやり取りがあります。
「>善悪というのは「動き足りない、動きすぎる」時に悪となり「ちょうど良く動いた」時に善になる
は、一緒に考えて欲しいわけです。ニセ科学批判などしていますと、「君たちのやっているニセ科学批判が行きすぎて、健全な科学に発達すべき未科学を阻害するのではないか」という論旨にあたったり、「ちょっと気が迷ってニセ科学言説を口にしてしまった有名人を人格まで否定する様なバッシングに晒すことになるのではないか」という論旨にあたったりするわけです。
人は「正義ゆえに誤りを犯す」というのはありえる事です。それを私などは「心が動きすぎる事による悪」と捉える訳ですね。でもって、その「心が動きすぎる事による悪」もまた悪として心が指導的に臭を感じてセーブするようにならないといけない訳です。
なんていうか、「世の中に誤りを出す」という悪を、きちんと自分の心が悪として感知するから、「そういうのはおかしい」と行動を起こすわけです。その行動を行きすぎない範囲でしている限り、自分の心は平静である訳ですね。でもね、そういう悪を嫌悪する行動が行きすぎそうになると自分の心がそうそう平静ではなくなるものなんですね。単純に言うなら「やりすぎているかな」という「行きすぎを嫌悪する嫌悪感」というのが出るものだと考えている和気ですね。
なんて言いますか、こういう内面的な制御というのが無視されている社会になっている気がするわけです。非常に他律的になっていて「あれは悪だ嫌悪せよ」でワッと嫌悪しなくてはならなくなり、「それはやりすぎだ、手控えろ」でワッと手控えるみたいな感じですかね。そういう中で振り回されたら、どっちの行動を取るにしろ心は波騒ぐだけになると思うわけです。(技術開発者さん)」

と、言うことでnaokoさん。
技術開発者さんとニケさん、そして私は何も嘲笑について語っているのではないのです。
社会が正常、あるいはそこまでいかなくてもバランスがとれるために、その一つの方法として「ばっかじゃないの」と笑い飛ばし、飛ばされるユーモアも人には必要ということを語っていたのです。

また、技術開発者さんからもコメントを頂けると嬉しく思います。
取り急ぎこれにて。

投稿: せとともこ | 2008.05.13 15:11

自嘲はユーモアになりやすいとは思います。しかも、ペーソスを加えた優れたユーモアになり、人々の共感を呼ぶことも多いでしょう。
しかし…。
自他ともに「笑い飛ばす」ということになると、噺家の漫才のように、まず自分の方が道化になる姿勢がないと共感は呼びにくいのでは?
たとえばピエロもそうですが、これはかなりの芸術的センスを必要とするように思えます。

おっしゃるように、そんな文化が広まれば、もっと世の中住みやすくなるでしょうね。
了解です!
お手間を取らせました。

投稿: naoko | 2008.05.13 16:09

こんにちは、naokoさん。

 せとさんがいろいろと前に書いたことを示されているので、少し別な形で書いてみますね。例えば、速度違反の取り締まりなんかの話をすることも有るんですね。

 狭い見通しの良くない生活道路で速度を出すと、事故の危険性が高まりますね。事故なんて誰も起こしたくはないのだろうと思います。でもって、みんなが「事故は嫌だ。この道で速度を出すと事故に成りやすい」と思ってくれて、速度を落とすなら、速度規制もいらないし、白バイが時々張って「ここは30キロだから50キロなんて出しちゃ駄目ですよ」と反則金切符を切ることも無いのね。

 でね、この速度規制と白バイに関しては「本質を失わせる」という議論があるんですね。つまり、速度規制をかけ、時々白バイが取り締まるということによって、人に「白バイに捕まって反則金を取られるから速度を出すべきでない」という意識が強く喚起される事で、「事故になりやすいから速度を出しちゃ駄目」という意識が返って阻害されるのじゃないかという議論ね。実際、私も粗菓い゛されると思います。でも、実際の所でいうと「事故になるぞ、速度を出すな」という意識喚起をやるよりも速度規制を掛けて時々は取り締まる方が事故そのものは減ったりするんですね。それが現実だったりするわけですよ。

 なんていうかな、こういう「本質的な意識喚起の方が大事で、その意識を阻害するような事はやるべきではない」と云われる皆さんの想定される人間は「とても理性的で合理的」なんだろうと思うわけです。私もできればそう思っていたい面はあるんですけどね。でも私が認識している人間というのは私も含めて「大きな不合理性の上に薄皮のような理性が乗っている」存在にすぎないんですね。そういう人間が「現実に事故をへらそう」とするときには、なんていうか、不確定ななかなか思いに浮かばない事故という困り事よりも、目の前に比較的起こりそうな事として「白バイに捕まって反則金を取られる」という嫌なことを置いて上げる方が親切だったりする面があるんですね。もちろんそれでも事故は起きるんだけどね。

 なんていうかな、私はずいぶん長い間ネットで悪徳商法の被害者の相談相手なんかしてきたこともあって、「人間って弱いんだなぁ~」なんて意識がとても強いのですよ。なんていうかその弱さとしっかり共感する部分を自分の中にも作らないと相談相手なんてできなかったんですよ。そして、その弱さをカバーし合うのが人間の社会の役割だろうと思うんですね。そのカバーの仕方というのも理論的な合理性のみではうまく機能しない面があると思うんですね。それが、「事故の意識喚起」と同時に「白バイに捕まる」も必要とされる部分のように感じる訳です。

 なんていうかな、不合理な話を「不合理ですよ」ときちんと理解して貰うのは、危険な道で「事故に成りやすいから」と思い起こして速度をゆるめて貰うのと同じ面があると思うんです。それで、全てうまくいくならそれだけで良いんだけど、人間という弱い生き物はなかなかそこまでたどり着けなくて、「白バイに捕まるから」みたいな目先の嫌なこともぶら下げてあげる必要があるのだろうと私は思うんですね。それが、不合理な話を信じかけた時に「バッカじゃないの」と馬鹿にされるような雰囲気というものの必要性だったりするんです。もちろん、「どっちにする」じゃなくて「どっちも」という話だけどね。

 後はね、なんていうか白バイに捕まっている車を見ることで、「そうか、この道でうっかり速度出すと自分も捕まるかも」みたいな面もあるのね。あまり道徳的な話では無いけどね、人が何気なく不合理な話をして周りの人から「バッカじゃないの」と云われるときに、実は周りの人の中にも「自分も少しは信じていた」なんていう人もいたりするんだろうと思います。でも全体の雰囲気が「バッカじゃないの」に流れることで、「そうか、こういうのは馬鹿にされるのか」とその心の中の少しの迷いを消して、周りと一緒に「バッカじゃないの」なんてしているのかもしれませんね。道徳的じゃないけど、人間の集団というのはそうやつて色んな「弱さ」をカバーしてきたものかも知れないと思ったりするんですね。

投稿: 技術開発者 | 2008.05.13 16:47

技術開発者さんへ。
丁寧なコメントありがとうございます。
もっともなご意見だと思います。たしかに人間は弱いものですね。
スピード違反の例も、とてもわかりやすかったです。

ところで、その例を、合理的な規則への不合理の適応ではなく、「畏こきもの」への不合理の適応によって、成り立たせていたものが、かつての道徳だったのではないかと、わたしは思っています。

「神様・仏様が(ご先祖様が)見ていらっしゃる」という不合理を、「神様がいないなんて愚かなことを言うなんて、ばっかじゃないの!」で通してしまう。
合理的な主張を抑えることで、社会規範も内面規範も成り立っていたのではないでしょうか?

しかし、今はそれが通用しない。
それなのに、合理にだけには通用させるというのも…。
片手落ちの気がするのです。

それぐらいなら、きっぱりどちらも通用させない!
なんて、あまのじゃくでしょうか?

投稿: naoko | 2008.05.14 02:02

こんにちは、 naoko さん。

 「神との契約の無い個人主義は利己主義に陥る」というのは欧米と日本の対比で時々目にする言葉なんですけどね。もともと日本には一神教の神の様な強い影響力のある超越者は存在しないんですが、その代わりに「世間様」なんて感覚が合ったわけですね。「世間様に顔向けができない」なんてね。

 ただね、実は欧米の人の宗教心とかを考えていても、何か、神をダシにした「世間様」みたいな部分を感じる事も有るんですね(宗教心の厚い人には叱られそうな考察だけどね)。

 例えば聖書に手を置いて「嘘偽り無く」と誓っておいて嘘を付いたとするでしょ。もう最後の審判で地獄行きは確定なんだけど、それを恐れるかどうかはその人の宗教心次第だよね。でも、実際に欧米では、こういう宣誓をした人というのは比較的正直なのね。これを本人の宗教心のみとは考えにくい面が私なんかにはあるのね、性格悪いから(笑)。なんていうかな、神への宣誓の上での嘘は、周りの人から見たときに「人間でなくなる」くらい悪いことだという意識が周りにあって、「そういう奴とは人間的な付き合いをしたくない」という雰囲気がかなり現実的な強制力と成って居るんじゃないかみたいな気がするのね。まあ、あくまで、気がするのレベルだけどね。つまり「神をダシにした世間様」は欧米にもあるんじゃないかと思ったりする訳です。

 そういう意味で私はいわゆる世間というのの風潮というものをもう一度きちんと考え直して見るべきだろうと思ったりするんですね。飲酒運転は最近すごく減って居るんだけど、厳罰化の効果というよりも、世間の意識の変化を感じるのね「まあ、一杯くらいは良いじゃないか、乾杯くらいはつきあえ」なんて雰囲気から「車か?じゃあ乾杯もウーロン茶だな」なんてね。厳罰化によって世間の雰囲気が変わり、その雰囲気の方が遙かに大きな効果を出している感じを受けるわけです。

投稿: 技術開発者 | 2008.05.14 09:17

さっそく丁寧なコメントありがとうございます。
ふむふむ、内的規制と外的規制の問題ですね。

たしかに江戸時代は大変犯罪発生率が低かったようです。
それは、「打ち首、獄門!」といった厳罰化のせいではなく、おっしゃるように、世間様の力だったのでしょう。

しかし、この江戸時代の世間様は、夏目漱石や森鴎外をして、憧憬せしめた、人をはぐくむ‘内実’を持ちえていたのではないでしょうか?

そういう社会で、「お前、そんなことをするなんてばっかじゃないの!」と揶揄するのと、現代における状況とはまた変わってくるかな…。
などなど、またまたいろいろしつこく考えております。

すいません、お馬鹿な思索に、お付き合いいただいてありがとうございます。
呆れられましたか?
ああ、時間がない。それでは、また。

投稿: naoko | 2008.05.14 12:48

技術開発者さん。
naokoさん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
お二人のご意見、伺いながら私も刺激されています(^.^)

さて、ちょっと話がずれてきたように思いますので、
一度元に戻って、論点整理をさせていただきますね。

まず、このエントリーのテーマは「道徳」です。
戸坂潤の道徳論、
つまり「道徳は不変ではない。時々の社会は、人間の行動・ならびに精神の規範として是と非を求めている。」
というテーマをたたき台にして考察を深めていくことを縦糸にしています。
そして、
コメントを頂いた方々のご意見、考えを横糸とすることで、この問題を紡いでいこうと考えています。

現時点での最終横糸は「道徳と宗教」へと収斂していきました(5月14日2時現在)。
この横糸の「道徳と宗教」こそが、愚樵さんやnaokoさんの問題意識だと考えます。
「道徳を追求していくことの必要」、またその追求の仕方は如何にあるべきか?あるいは如何なる形が妥当か、、、

さて、
技術開発者さんは、
道徳のそもそもは、「生きのびやすさ」の追求にほかならない(戸坂もそのように言及しています)ということを数学の公式に、交通ルールに、譬えてくださいました。
また、人間は頭では合理的であるとわかっていても行動が必ずしも伴うことがな不合理な面を兼ね備えている者である。
だからこそ、社会の契約として合理的な解決をまずは取り決めておく。
と、言われます。
それが、法律であり世間である。
と。

一方、naokoさんは、合理的な規則への不合理の適応ではなく、「畏こきもの」への不合理の適応によって、成り立たせていたものが、かつての道徳だったのではないか、と言及。

それに対して技術開発者さんは、
神、つまり「畏こきもの」も、その実、世間なのだと最後の審判を仰ぐ人間の心理を「嘘」に焦点を合せてコメントしてくださいました。
そこで、naokoさんは内的規制と外的規制の問題を江戸時代の刑法に照らしながら、
「お前、そんなことをするなんてばっかじゃないの!」と揶揄するのと、現代における状況とはまた変わってくるかな…。と言う疑問へと繋がります。
ここで論点は、元に戻って、
「道徳は不変ではない。時々の社会は、人間の行動・ならびに精神の規範として是と非を求めている。」と言う縦糸に絡んできたのではと思います。


さらに今後、縦糸に絡んで生産的な討論を試みるならば、
「道徳と宗教」「道徳と規範」ではないかと考えます。
これに関しては、私も機会を改めてエントリーを挙げたいと考えています。
その折はまたアドバイス、ご意見、ご感想、を宜しくお願いいたします。

投稿: せとともこ | 2008.05.14 15:28

ちょっと違いますね。
せとさんの要約、訂正させていただいてよろしいでしょうか。

わたしは、江戸時代の刑法が世間様を動かしていたとは、考えておりません。死刑執行を多くすれば、それだけ犯罪がへる?
そうは考えませんし、いってもおりませんよ。
犯罪の低さは、江戸人の内的規制を生み出す文化の力によったのではないかと考えております。
そのような‘守り’のある文化の中で、言われる「おまえばっかじゃないの」と、ちょっとしたことで自殺に追い込まれるような、神経症的な現代の社会とでは、同じことが通るとは思えない。
というのが、わたしの論旨ですね。まあ、ささいなことですが…。

では、せとさんの次なるエントリー、楽しみにしております。

投稿: naoko | 2008.05.15 08:32

naokoさん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。

私の捉まえかた・書き方が曖昧だったのでしょうか。
「江戸時代の刑法が世間様を動かしていたとは、考えておりません。死刑執行を多くすれば、それだけ犯罪がへる?
そうは考えませんし、いってもおりませんよ」とnaokoさんが言われますが、
私も貴女がそのように言われるようには書いた積もりはないのですが、、、
特に死刑云々については、走りすぎでは???
と考えますが(少なくとも私は書いていません)
私が書いたのは以下のとおりです。

「そこで、naokoさんは内的規制と外的規制の問題を江戸時代の刑法に照らしながら、
「お前、そんなことをするなんてばっかじゃないの!」と揶揄するのと、現代における状況とはまた変わってくるかな…。と言う疑問へと繋がります。」


うううう〜〜〜ん。
悩んでしまいます。

が、
ご自分で要約していただいた文が間違いなくご自分のご意見の反映なので採用させてくださいね。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
naokoさんの関心は、
人の内面的規制は時代の中の制約を受ける。
つまり「人は時代の子」であると、
そしてnaokoさんは言う。
「犯罪の低さは、江戸人の内的規制を生み出す文化の力によったのではないかと考えております。
そのような‘守り’のある文化の中で、言われる「おまえばっかじゃないの」と、ちょっとしたことで自殺に追い込まれるような、神経症的な現代の社会とでは、同じことが通るとは思えない。」と。

投稿: せとともこ | 2008.05.15 14:39

さて、naokoさん。
ここで笑いについて技術開発者さん、ニケさん、私が共有しているものと、naokoさんのそれとは大きく違うのではないかと存じます。
少なくとも私たちは「おまえばっかじゃないの」と言う言葉を、どこでも誰にでも、どんな場合にでも適用するなんて言ってもいませんし、思ってもいません。
また、naokoさんは「おまえばっかじゃないの」と言う言葉を嘲笑と言うように捉えられているようですが、
私たちは決して、そのような意味合いで取ってはいません。
もっと、軽く、そうですね、、、
警句のような感じです。
たまたま、それが「おまえばっかじゃないの」であっただけで、
「そんなことしてはいけませんよ」でもいいのです。
人は無謬ではありえない。
だからこそ、自戒を込めて、、、
と、言うことなのです。


ちょっとした言葉から最悪の状態が引き起こされるような事態が想定されるときに、無神経にも使うことはありません。
勿論、仰るように、
時代には時代のリアリティがありますから、
今日にあって、どのような在りようが最適かは検討・模索していく必要はあります。


寧ろ、ここで話題にしたのは、
生きやすさを求めて先人が伝えた叡智について語っているのですよ。

投稿: せとともこ | 2008.05.15 14:53

そうですね、わたしも第一回のせとさんのコメント直後には、せとさんのおっしゃるような意味で、「おまえばっかじゃないの」を捉えたつもりです。
それをわたしは、自嘲のペーソスが生み出すユーモアと考えています。
せとさんのおっしゃるように人間は無謬ではない。だからこそ、自分の失敗を笑い飛ばすこともできる。ただし、そこに冷笑的・侮蔑的に見ている他者がいないことが条件です。
また、日頃からそのような自嘲のユーモアをかもし出す人物から「ばかだね」と指摘される場合と、自分は一切そのような自省の姿勢を見せない相手から指摘されるのとでは、また受け手の感じ方も変わってくるでしょう。
こちらは軽く「わらいとばした」つもりが、相手の根深い憎悪の種になることも…。(これは自分の経験ですが、あれは痛い…)
ですから、相手のものの感じ方を熟知してからでなければ、現代社会においては、笑い飛ばすのはなかなか難しいと考えております。

やはり「個々の人間をより深く捉えること、それも思いやりを持って」という姿勢が、先人の英知を生かすコツかな?なんて思っています。

せとさん、丁寧な応対、本当にありがとう。感謝します。

投稿: naoko | 2008.05.16 18:03

naokoさん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。

naokoさんの真剣でまっすぐな思い、しっかりと受け止めたいと存じます。

>やはり「個々の人間をより深く捉えること、それも思いやりを持って」という姿勢が、先人の英知を生かすコツかな?なんて思っています。

本当に。
仰るとおりです。
私は相手に対して思いやりや優しさを十分に尽くしているかと問われると、なかなか十全じゃない自分というものを承知しています。
ただ、一つだけ胸を張って言えるかな、、、と自分で自分を認めていることがあります。
それは、相手への敬意です。
子どもたちに勉強を教えていると、
「後世おそるべし」と思うことしきりです。
本当に学ばせてもらいます。
相手が幼くても若くても、私にとって、
敬意の対象です。

と、言うことでnaokoさん。
これからもドンドン刺激を与えてくださいね、楽しみにしています(^.^)

なお、ナルニアにつけてくださったコメント、ありがとうございました。
そうした体験、本当によく分かります。
形は違っても、私も同じような轍を踏んでいるな、、、と思いながら読ませていただきました。
ありがとうございます。

では、、、またね(^.^)

投稿: せとともこ | 2008.05.17 15:53

こんにちは、せとさん、naokoさん。

 すこし、変な話をさせてください。私は悪徳商法レス屋だつたんですね。人が見れば馬鹿みたいな話に騙されて、何十万円とか何百万円と言ったローンの支払いに追われるような人の相談相手をしていたんです。

 なんていうか、私自身にスゴイ矛盾があるんですよ。私は相談相手としては「どんなに馬鹿らしい話に騙されたのであっても私はあなたを馬鹿にしたりしませんよ、だから心を開いて相談してごらんなさい」というスタンスでやっていたんですね。そして、その相談の場においては、「そんなのに騙されるなんて馬鹿じゃないの」みたいな発言に対しては「人間は弱い者だからね」噛みついたりもしてきたわけです。でもね、そういうスタンスでやりながらも、世間というか、そういうものが、「そんなのに騙されるなんて馬鹿ね」みたいな意識を持つことそのものは否定しないてきたわけです。

 なんていうかな、例えば日用品をタダやタダ同然の値段で配って人を説明会に集めて、気が付けば何十万円の健康布団とかを契約させている催眠商法なんてのがあります。私自身は被害者の方とか被害者の家族の方が「そんなものに惹かれて説明会でその気になって、馬鹿だと思われるでしょうが・・・」と言われても、「別に馬鹿じゃないですよ、人は弱い者なんだからね」とお答えするけど、世の中が「あ~あ、くだらない日用品の餌に飛びつくから、大損をして、馬鹿じゃなかろうか」と思うことそのものは、仕方のないことだし、そして無くして良い概念でもないと思うんです。なんていうか、そういう話を知った後で、どこかで日用品がタダで貰えるような説明会に誘われたときに、「もしも催眠商法だったら自分も馬鹿と思われてしまう」というのは、そういう誘いを断る動機付けとしてかなり大きい気がする訳です。だから、そういう「馬鹿じゃなかろうか」の感覚はそのまま、社会に有って貰ってかまわないという意識があるんですね。そういう意識はある中で、実際に被害に遭った人やそのご家族には「私は馬鹿にしたりしませんから、詳しく話してごらんなさい」とやってきたわけです。

投稿: 技術開発者 | 2008.05.19 09:21

技術開発者さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。

この布団商法。
先日もTAKESANさんちで書いたのですが、
私も「欲」の一つで、言った事があります。

あの時、みんな凄かったですよ。
少しでも多くの景品をもらおうと。
私も胡麻とかふりかけとか、もらってきました。
友人は別のところでバケツ一杯景品をもらったといっていました、、、
ふっ〜〜〜〜〜
結構、おばちゃんパワーってすごくて、
もらうものはもらいまっせ。
でも、布団はあきまへん。
なんてチャッカリしています。

だから、向こうは、それも見通して、
騙される方からぶんどろうとするんでしょうね。
いやはや、、、


私は、あれ以来、
新聞の勧誘からも一切景品はもらいません。
疲れたのです、あの時は、
芯から、あのお互いの欲(私もですよ)に疲れて、
私自身は、
「君子危うしに近寄らず、君子でない私はなおさら」
を教訓として得ました。

投稿: せとともこ | 2008.05.20 13:59

技術開発者さんへ
お笑いください!見事、自爆しました。
人の痛みに配慮するのは、実際難しいです。

わざわざのご返事、ありがたく読ませていただきました。
ほんとうにそうですね。
公の場での言動、プライベートな言動、公ではあっても特殊な場での言動、使い分けは難しい。知恵が要りますね。
経験者のお言葉を、ありがたく学ばせていただきます。
では。

投稿: naoko | 2008.05.22 01:44

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受信: 2008.05.10 08:59

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