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2008.06.23

「hitoriyogari さんのひとりよがり人生」

いつもコメントを下さるokachinの辛口エッセーの管理人のhitoriyogari さん。
経済に詳しく、音楽を愛し、そしてご家族をとても大切に思われているhitoriyogari さん。
そんなhitoriyogari さんが、ご自分の辿ってきた経験の数々を、コメント蘭にて御教えくださっています。
多くの方にも読んで頂けたら素敵だな、、、と思い、hitoriyogari さんにお願いしたところ、快くお返事を頂きました。
と、言うことで、このエントリーは「hitoriyogari さんのひとりよがり人生」と銘うって、
貴重な体験や経験をコメント形式で頂くコーナーと致します。
最初の書き出しは、
先ず、「はじめに」があり、目次をつけて、第一章 我が愛しの故郷、第二章 青春時代、第三章 転職癖、引っ越し癖、第四章 家庭生活と苦難、第五章 独立独歩、第六章 第三の人生、「おわりに」という構成だそうです。

既に以前に次のようなコメントを頂いていますので紹介します。
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私は1936年(昭和11年)に大阪の此花区(現在は福島区)で生まれ、三歳のとき、父が結核の病で倒れ、出身地の網野町へ帰り、養生している間、京都の親戚で母親と過ごしました。
 親元は典型的な小作農家で、父は長男でありながら祖父の反対を押し切って、尋常小学校を卒業するやいなや、京都の東山中学へ進学、今のアルバイトと奨学金を貰い、同志社商業(現、同志社大学商学部)へ進み、苦学の上肺結核になってしまいました。卒業と同時に大阪の和光証券へ就職、そして京都の女学校にいた母と結婚、二児をもうけましたが弟は死産に終わり、私が四歳の時に亡くなりました。
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続きが楽しみです。

と、言うことでこのエントリーのコメントは、「hitoriyogari さんのひとりよがり人生」を続けていきたいと考えていますので、
hitoriyogari さんだけにコメントを絞らせていただきます。
ご感想など頂けることがありましたら、直近のエントリーでお願いいたします。

では、、、

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コメント

 では瀬戸サンのご厚意に甘えまして、エッセー形式で自分史「独りよがりの人生」を語らせて頂きます。

  「はじめに」の要約は、{人は誰でも一生に一つは小説が書ける}と何かの本で読んだことがある。そこで私にも当然小説の一つや二つは書けるものと思いこんでいた節がある。
 このたび、仕事人生からドロップアウトしたのを機会に、我が70年あまり歩んできた人生を振り返り、自分では波瀾万丈の人生だったと思うので、未熟なパソコンではなく、ペンを取った次第です。
 原稿用紙が350枚になってしまいましたが、吉田兼好ではないが、つれづれなるままに、よしなし事を書き殴って見た次第です。
 なお、途中で持病の「自律神経失調症」が再発すれば、何ヶ月かのお休みを頂くことがあるやも知れませんが、その時は、私のブログもこのエントリーも休止とさせて頂きますので、予めご了承下さるようお願いしておきます。

 第一章 我が愛しの故郷
 私の生い立ちを簡単にご紹介しています。父に四歳の時、死に別れをしたものですから、貧農の家に長男の長男として所謂、昔で言う「総領孫」という運命に生まれたのです。従って、当然の如く家を守らねばならず、母親は同じ町の実家へ戻されてしまいました。私が6歳の幼稚園児の時です。(つづく)

投稿: hitoriyogari | 2008.06.23 17:21

 故郷の風景
「ふるさとは遠くにありて想うもの」と誰かが詠んだが、私の場合も然りで、大阪で生まれたものの、4歳位から19歳の春まで過ごした故郷は、矢張り愛しいもので、歳を重ねるにつれてその思い出を追う心情は深くなっていくものであります。
 そこは京都府の北部に位置し、日本海に面した人口は約18000人の町で、現在は北部6町が合併して、京丹後市となっている。東に前方後円墳の「銚子山」があり、西には海抜150メートルの「高天山」がそびえ、南の山から北の海へ流れる「福田川」は川魚釣りにはもってこいの清流で、昔は堤防に桜の木が数メートル間隔で大きく枝を広げて並んでいた。
 もう一本の小川は田園の真ん中を流れ、農業用水としての役目を充分果たし、子供の頃は川遊びをしながら水泳の練習をしたものであります。そんな小さな古川でも戦時中は、近くの峰山町に所謂「予科練の赤とんぼ」の飛行場があり、B29が飛んできて、機銃掃射を受けたことがあり、驚いて川の中に潜って難をのがれたこともありました。(つづく)

投稿: hitoriyogari | 2008.06.24 15:59

  別離
 弟に死なれ、父とも死別し、実家の跡取りは旧民法によれば、当然の事ながら長男の長男である私になることとなった。 
 祖父母には三人の男子と三人の女子が儲けられていた。次男の叔父は成人して結婚し、分家をして地元の山裾に居を与えられていた。更に三男の叔父は14歳であり、尋常高等学校を卒業して家の百姓を手伝っていた。
 長女の叔母は実家の南の方へ嫁いでいたが、何故か子供には恵まれていなかった。従って、私を養子として望んでおり、祖父に申し込んでいたそうです。次女の叔母は私の母の紹介により、母の実家の親戚回りになる叔父と結婚、後に三男を儲けた。
 三女の叔母は後に飯野造船所(現日立造船)に勤務していた網野町出身の叔父と結婚、一男三女を儲けた。現在生存しているのは三男の叔父のみとなっている。
 従って、母は父の死により実家へ帰されることとなり、私も一時、一年余りの間、親子で居候となり、京都の人との再婚が決まったので、いよいよ親子の別離と相成ったのです。
 母からこのときの事を聴いたところに寄れば、一時は親子で福田川へ身を投げて死んでしまいたいと考えたそうです。しかし、生きてさえいれば又、逢える日もあろうかと思い直し、記念写真を撮って京都へ旅立ったのです。私は子供ながらも別れを察して、寂しそうな顔で写真に写っているアルバムを見る度に、涙したのを今でも鮮明に覚えています。
 網野の母の実家は、祖父と祖母との間に三男四女をもうけ、○○式管巻製作所を祖父が経営し、商売は順調のようでありました。長男の叔父は製作所の跡取りとして、峰山中学の機械科(現府立峰山高等学校機械科)を卒業し、家業を継いでいたが、後に兵隊となって南方方面で負傷、野戦病院から帰還、網野の青年学校の教師をしていたが、終戦により家業に専念、木津温泉の近くの人と結婚し、一男一女をもうけたが、後に心臓弁膜症にて比較的早く逝去した。
 次男の叔父は戦死し、三男の叔父は私より四歳年上で、実家ではまるで兄弟のようにして過ごした。後に浜詰温泉の叔母と結婚するが、これには面白い訳があります。(つづく)

投稿: hitoriyogari | 2008.06.25 17:11

 叔父は大変な子煩悩で長女、次女、三女と続けて生まれた時にも、どうしても男子が欲しいと念じて長男をもうけ、次いでもうひとりと頑張ったところ、四女の誕生と相成ったというエピソードの持ち主であります。彼も峰山中学から学制改革によって、網野高校へ編入し、網校卒第一期生となり、母方の伯父の紹介で京都府警に入り、立命館大学の夜間部を卒業したが、当時、京都市の出町柳の私の母宅へ下宿、京都駅前の旅館の娘との縁談に悩み、ノイローゼとなって苦しんでいた。そんな折り、私がたまたま訪れた際、私としては励ましの積もりで言った言葉が、後に大変失礼だったと反省している。それは当時、宮城まり子の「ガード下の靴磨き」という歌謡曲が流行していて、その一節に「ああ、夜になっても帰れない」というくだりがあり、それをもじって「ああ、夜になっても眠れない」と唄ってしまったのです。ところがその罰が当たったのであろう、後に私も自律神経失調症(のいろーぜ)になってしまったのです。
 その叔父には私が18歳(高校3年生)の時、新聞の株式欄を読むことを教わったり、ロンドンデリーの歌を美声で教わったりして、大変お世話になったのですが、先年(平成12年)肺ガンにて68歳の早逝でした。翌年、彼の長男が、京大を卒業後、建設省(現国土交通省)の役人となり、一周忌を済ませた後、親戚の紹介で結婚したのは大変良かったとおもいます。彼の今後のご活躍を心から願わずには居られません。(つづく)

投稿: hitoriyogari | 2008.06.26 17:46

 美声で思い出したのですが、二男の叔父は、太平洋戦争の犠牲となって戦死しました。まだ徴兵検査を受けて直ぐの出征でしたが、弱冠20歳位ではなかったでしょうか。母と網野で過ごした一年間に、叔父の美声で唄うギターの演奏は、誠に圧巻でした。後に中学校で私が「音楽のバアチャン」こと○○先生に褒められる程、音楽の成績が良かったことに大いに影響しています。
 他の叔父叔母に関する事項は、割愛させて頂くとして、以上が母との別れる経緯です。現在のように子ずれで再婚することは比較的無かった時代のことで、私は祖父母にとっては総領孫で、家を継ぐのが当たり前であったのです。因みに私は長男と長女の間に出来た子供でしたので、伯父、伯母は一人も存在しない。(つづく)

投稿: hitoriyogari | 2008.06.27 15:11

  夜尿症
 子供のとき(殊に男子)に多い夜尿症(おねしょ)が私も小学校5年生頃まで続いたと記憶しています。何故かと後に調べてみると、精神的に不安定な子供に多いそうで、私の場合は4歳で父と死別し、5歳で母と離別したことによる寂しさが、情緒不安定となっておねしょが長く続いたものと思われます。
 これにはこんなエピソードがあります。先ず、実家で祖父母に育てられ、殊に祖母には大変可愛がられたのですが、行儀作法に関しては祖父が厳しく叱責しました。祖母は毎日敷き布団を外へ干さねばならず、相当お世話を掛けたものです。
 ある日、三女の叔母が嫁ぎ先から遊びに来ていたとき、おねしょにはヤイト(お灸)がよく効くと言って、祖父母と三人がかりで私を裸にして押し倒し、背中にモグサの大きな奴をを乗せ、線香の火を付けたのです。私は比較的我慢強い方だと思っていたのですが、その熱さには閉口し、からだ全体を思い切り動かして足をばたつかせ、一挙に三人を押しのけて立ち上がり、モグサを振り払ったものです。
 また、網野へ遊びに行ったとき、母方の祖父と一緒に寝たことがあったが、朝起きたときには祖父の寝間着が私のおねしょでずぶ濡れです。さあ大変と私は身構えて逃げる体勢を取ったのですが、その時の祖父の言ったことが今でも、私の脳裏に焼き付いています。
 「○○(名前)や、ええんだ、ええんだよ。男の子にはよくあることだ。そのうち治るから安心せい」と優しく諭されたのです。私は祖父の心の広さを全身に受け止め、その場から逃げるのを忘れていました。
 昔から「良い人は神様が早くお迎えに来る」と言われていますが、その祖父も60台前半で亡くなりました。ついでに、確か「ハシカ」も網野に滞在している時に患かり、大いに祖父母を心配させたものです。(つづき)

投稿: hitoriyogari | 2008.06.28 17:26

今回より「です」「ます」調を止めて、書きやすいようにします。

  幼稚園時代
 先に述べたように、5歳の一年間は網野の母の実家で過ごしたのであるが、それは幼稚園時代でもあった。その幼稚園は確か神社の近辺だったと記憶しているが、網野から一緒に通園していた仲間が3名ほど坊主頭を並べていた。何組あって何名くらいであったかも全く覚えていないが、女の子も同数くらいいたと思う。先生も女の子の顔も殆ど記憶の外と言うところで、先の仲間達と思い切り遊んだことだけを鮮明に覚えている。
 そして、一年が経過し、6歳の春未だ寒い正月過ぎに、地元の幼稚園(と言ってもお寺の託児所)へ行くことになり、三男の叔父に連れられて、松泉寺を訪れたのだが、全く馴染めずに通うのを断念したまま、小学校へ入学と相成ったのである。ただ、何故かお寺の梵鐘台に釣り鐘が無かったのだけは覚えている。
 時は昭和十八年(1943年)正月である。一昨年の12月8日には「大日本帝国は亜米利加と戦闘状態に入れり」で有名な真珠湾攻撃があり、大東亜戦争(太平洋戦争)に突入していたのである。(つづく)

投稿: hitoriyogari | 2008.06.30 17:07

 後に終戦となり、お寺の鐘は戦争のお役に立ったのかどうかは定かでないが、何年かは忘れたが、ちゃんと戻ってきて(新しい物かもしれないが)梵鐘台に安置と言おうか、しかと釣られたのを目撃した。
 託児所は戦後の学制改革と共に廃止され、その時の和尚さんは今はなく、その息子さんが住職となられて久しい。因みに先代の奥さんは若くてきれいな人だったが、未だに健在である。
 後日たんであるが、この松泉寺にはお世話になり、父の五十回忌を挙げた際、夫婦で松泉寺を訪れて、父と弟の位牌を作ってもらい、実家とは別に自宅にて供養するべくお願いしたところ、先代の奥さんがお茶を運んで来られ、「○ちゃん、一番良いときにこういうことをなさるのは、大変良いことですよ。大概の人は、何か悪いことが自分の身に降り懸かった時、気が付いて先祖の供養をしようとなさるものだからね。」としみじみお褒めの言葉を頂戴したものである。わたしは唯、父と弟のことが、若い頃から気になっていたので、この機会に勤めを果たそうと考えただけのことであるが、妻が快く承諾してくれたのも幸いであった。(つづく)

投稿: hitoriyogari | 2008.07.02 17:15

  音楽との出会い
 昭和十八年(1943年)4月、網野国民学校(現小学校)の一年生として入学した。担任の先生は女性で、今から思うと可成りの美人だったと記憶している。殊に音楽の時間はその美声と相まって、「唄う天女」と言ったところであった。
 私には前述の通り母方の二男と三男叔父の美声で、その頃の流行歌を教わっていたので、音楽への興味は多分に持ち合わせていたのであるが、女先生の音楽への情熱は又、質の違ったものがあり、基礎から楽譜に添って教えられたのである。
 私は美声ではないが、音感はいい方で、先生からは何時も指名を受けて独唱したのを覚えている。クラスの面々は誰であったか殆ど記憶にないが、女子で一人○子ちゃんが、その大きな声できれいに唄ったのが印象的であった。後年、同窓会で一緒に唄ったのが、「ふるさと」であった。私は低音部のメロデイを覚えていたので、何とかハモル事が出来、一同の喝采を浴びたのである。
 小学6年頃までは、ボーイソプラノであったが、中学生になって声変わりし、殆ど歌は唄わなくなったが、中学二、三年生の時、前述の「○○バアチャン」と出会い、クラシック音楽の初歩とも言うべきものを教わり、音楽とは何と素晴らしいものであろうと思うようになった。先生は男女別に教えて下さったのであるが、初見の学譜を一小節、ピアノで繰り返し三回弾いてみせ、さあこのメロデイを正確に唄ってみせろと要求するようなところがあった。私は持ち前の音感でもってクラスで一人だけ、そのメロデイをドレミで唄ってみせたのである。そしたら後で女子のクラスを教えられたとき、一人も唄える子がいなかった事に腹を立て、「皆さんはどうしたのですか。男子の○○さんでも正確に唄えたのにダメじゃあないですか。」と女子全員を叱ったそうである。これは後で聞いた話であるが、確か副クラス委員の○○さんから恨みごとを訴えられたと記憶している。(つづく)

投稿: hitoriyogari | 2008.07.04 17:11

 流行歌にも興味を持ったが、その頃(昭和二十六、七年頃)ラジオから流れてくる連続放送劇の主題歌「鐘の鳴る丘」が大流行し、その後「君の名は」の主題歌へと繋がっていくのであるが、実家の近所に○○さんという一年先輩が居て、家に蓄音機を所持しており、レコード(SP盤)を買ってきて一緒に聞かせて貰って遊んだものである。
 岡本あつお、藤山一郎、田畑実、津村謙等々、当時の一流歌手のレコードを揃えていた。私は彼らの唄う声よりも、バイブレーションに惹かれ、自分もあのような声を震わすことが出来ないものかと、最初は喉の皮を手でつまんで動かしたりして唄ってみたが、どうも違うなと考え(当時は歌手が唄うのを見たことがなかった)、色々試行錯誤の上、遂にトレモロ(バイブレーション)を声に出して作ることに成功したのである。これが後に市民混声合唱団へ入会する事となり、カラオケが出てくるようになると、同窓会等で唄って楽しみ、大きなステレオを買ってクラシックのレコードからCDカセットなど、オーデイオで音楽を楽しむ趣味を持つに至っている。(つづく)

投稿: hitoriyogari | 2008.07.07 17:01

  習字との出会い
 国民学校に入学と同時に習字の時間が一番楽しみであった。実家の祖母は網野の○○家の出身で、○○家では祖母の弟の○○氏とその息子の○○氏が網野町で有数の達筆家であり、その流れを引いて流麗な書を得意としていた。そして父がそれに似て達筆であったことが、残されたアルバムに書いた鉛筆の字から伺えた。
 祖母は私に新聞紙を切ってB4版の草紙を作ってくれた。そして習字というものは日々練習をしないと、なかなか上手にはなれないと言って厳しく練習をさせられた。兎に角毎日、新聞紙の草紙が墨で真っ黒になるまで書くことを繰り返したのである。
 この草紙による習字は二年生までで終わってしまい、敗戦によるGHQの方針だと思うが、教育勅語の廃止に伴って教育基本法が制定され、学校の教科書が大きく変わったのである。つまりアメリカ式の民主主義を導入したものとなり、自由と平等の精神を教育に取り入れた画期的なものとなった。そのせいかどうかは解らないが、戦後の教育は大きく転換し、習字の時間は殆ど無くなり、国語教育の一環として位置づけられ、ボールペンの発明と共に、段々筆文字の活用分野は狭くなって来ていることは周知の通りである。
 それは又論ずるとして、兎に角人より多くの練習をしたことにより、筆文字の基礎は出来たのではないかと思う。従って、その後習字からは遠ざかったのであるが、中学校で書道の時間が復活し、クラブ活動に書道部というのが設けられたが、何故か私は入部せず、文化活動は演劇部であった。しかし、学校では書き初め展が一回だけ開催された事があった。当時の習字の先生は国語の先生であったが、書道部の人たちは当然出展するのだが、先生は私に一般の生徒から選んで出展せよということになり、何という漢文を書いたか忘れたが、金賞に次ぐ銀賞を貰ったものである。金賞は当然の事ながら書道部の部長であった。その君とはその後友達となり、習字以外のことで競い合ったり、また喧嘩をしたりしたことが懐かしい。(つづく)

投稿: hitoriyogari | 2008.07.08 17:00

 また、字が巧いことで得をしたのは、就職をする時に書く履歴書を筆で書いて認められたことと、祖父が常々言っていたことの中に、「字で飯を食うな」というのがあったが、それを破って39歳の時、筆で食える職を見つけて独立、25年間に亘って書き文字をなりわいとし続けたのである。それはまた後の章で述べることにして、兎に角これで得た教訓は、「好きこそものの上手なれ」と共に、「芸は身を助ける」ということに尽きる。

  敗戦記
 昭和二十年(1945年)八月十五日は、日本人として永遠に忘れられない日となった。
 私は国民学校の三年生の夏休みであり、故郷ではお盆の最中であった。もう語り尽くされていることで、今更なにをか況やというところであるが、日本人としてその時に遭遇した者にとっては、それぞれの体験を語る意義はあろうかと少し述べてみたい。
 その日の朝、回覧板で「正午には天皇陛下のお言葉があるから、必ず聴くように」という知らせがあった。何事かと思って当時の「五級スーパーラジオ」の前に座って神妙な面もちで、かの有名な「天皇の玉音放送」に耳を傾けたのである。雑音の入る中で、、天皇の声は心なしか震えているように私には感じた。何を語っているのか、九歳の子供には理解出来なかったのであるが、それは容易ならざる事態であることは察しが付いた。後で祖父から戦争に敗れたことを知り、さてこれから日本はどういう事になるのだろうかと、何となく不安な気持ちになったことを覚えている。(つづく)

投稿: hitoriyogari | 2008.07.09 16:51

 身の回りを振り返ってみると、三男叔父が19歳で海軍へ、二男叔父が陸軍一等兵として、ビルマ(現ミヤンマー)へ出兵と成人男性は病人を除いて、みな戦地へ動員されていた。何年かして帰郷した叔父から聴いたところに寄れば、ビルまでは食べるものが無く、明けても暮れても芋ばかり作って食べていたそうである。
 こちらの田舎では、食べるものには余り不自由しなかったが、それでも白ご飯は滅多になく、麦を混ぜたり山から採ってきた「ムシこ」と呼ばれる木の葉を混ぜたりして、結構非農家の方達と同様のご飯を食べていた。唯、白ご飯の回数がどちらかと言えば、少し多いくらいかなと言うことは、網野の母の実家と比べて解る程度であった。(つづく)

投稿: hitoriyogari | 2008.07.10 16:55

申し訳ありませんが、病気療養のため、ここで取り敢えず休止させて頂きます。

投稿: hitoriyogari | 2008.07.14 15:51

hitoriyogari さん。
こんにちは。
ご病気、心配です。
季節の変わり目故、体調を崩していらっしゃる方が多い時期です。
どうぞ、ゆっくり治させれて下さい。
その後、
続きを、存分にお書きください。
楽しみにしています。
なお、このエントリーにお書きいただければ、続けて拝見できるので、
このエントリーはhitoriyogari さんにトラックバックいたします(快癒後、書かれる時、探さなくていいように)。

いずれにしても、どうぞゆっくりとお治しくださいね。
一刻もお早いご快癒をお祈りしています。

投稿: せとともこ | 2008.07.14 16:09

 瀬戸サン 長い間休みまして申し訳ありません。
 やっと病から抜け出す事が出来ました。また元気に書こうと思いましたが、結論から言いますと自分史の続行は不可能となりました。もう敏感なあなたですからお解りと思いますが、そう、自律神経失調症より先の「老人性うつ病」なのです。この病気は過去を振り返ってはダメなのです。未来に向かって思考しなければいけないのです。従って、「独りよがりの人生」はやはり家族だけに、私が死んでから読んで貰います。
 誠に独りよがりで申し訳ありませんが、この苦しい事情をご察し頂きますようお願い申します。
 

投稿: hitoriyogari | 2008.11.01 13:45

hitoriyogariさん。
こんばんは。
コメントありがとうございます。
心配していたのですが、
コメントを頂けて、とても嬉しく思っています。
が、
どうぞ、ご無理だけはなさらないでくださいね。

コチラの方はどうぞお気になさらないでください。
個人的には楽しみしていましたが、
やはりお体の方が一番。
私も持病が在るので、とてもよくわかります。
とにかく前向きにう、前向きにですよね、、、
お互いにゆっくりと、じっくりといきましょうね!!!
いずれにしても、
こうして、またお話が出来る事、とても嬉しく思っています。
また、
経済などお教え下さいね。
そうそう、俳句も、、、ね。
奥様にも宜しくお伝えください。
では、、、また。
これから寒い季節ゆえ、お体お大切に!!!

せとともこ

投稿: せとともこ | 2008.11.01 21:25

 瀬戸さんに申し上げます。
 実は家内に日々あなたとの交信を逐一話して居りますが、あなたが私に会いたいと言っていると話しましたら、病気が治ったらにしてはどうかと、言われました。
 そこでご相談ですが、私の病気は罹患してからもう8年目に入ります。最初に診てもらった先生は、大体6年は掛かりますとのことでした。しかし、有名人の例を聞いてもみな10年くらいは掛かっています。
 さすれば後2~3年は掛かるのかなと思っています。でも、あなたに会えるという希望が生まれたので、ひょっとして来年当たりになるかも知れません。
 その時は、私の書いた自分史「独りよがりの人生」の原稿の全てを持参したいと考えています。
 この案は如何でしょうか。その際はご主人も一緒にお出でくださると有り難いです。私も家内を連れて行きます。出来れば宇治の「花やしき」あたりでお昼ご飯をご一緒したいと思いますが、どうでしょうか?ご返事お待ちしております。

投稿: hitoriyogari | 2008.11.22 15:24

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