雨の季節です。
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雨の日
雨が すきか
わたしはすきだ
うたを うたおう
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と歌ったのは早世の詩人八木重吉。
雨と歌
と言えば、八木重吉の「雨」という歌があります。
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♪雨のおとがきこえる
雨がふってゐたのだ
あのおとのようにそっと世のためにはたらいてゐよう
雨があがるようにしづかに死んでゆこう
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美しく静かで、語りかけるようなこの歌。
歌う度に胸が熱くなります。
「あのおとのようにそっと世のためにはたらいてゐよう
雨があがるようにしづかに死んでゆこう」
詩人八木重吉のつつましやかでささやかな願い。
それは「そっとあること」でした。
妻を愛し、子を愛し、
そして、信じるものを守ろうとした重吉。
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ある日
こころ
うつくしき日は
やぶれたるを
やぶれたりとなせど かなしからず
妻を よび
児(こ)をよびて
かたりたわむる
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こころうつくしき日は、
穏やかでたおやかで、ただそのままが嬉しい、と詩人は歌います。
私は
「母をおもう」と言う詩を学校で習ったことがあります。
あの時はよく分かりませんでした。
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けしきが
あかるくなってきた
母をつれて
てくてくあるきたくなった
母はきっと
重吉よ重吉よといくどでもはなしかけるだろう
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そうです。
あの時は分からなかった親への気持、子への思い。
今は分かります。
「母はきっと
重吉よ重吉よといくどでもはなしかけるだろう」
今は、
分かります。
母の思い、子の思い。
背中に染み込む母の思いを感じながら詩人重吉は、どんなにか「命」「続く者」を思ったことだろう、、、
やさしくそぼ降るように降る雨もあれば、
すべてを押し流すように降る暴れ雨もある。
それら、すべてを含めて「雨」が好きである、と詩人は歌う。
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雨
雨は土をうるおしてゆく
雨というもののそばにしゃがんで
雨のすることをみていたい
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そして詩人は静かに逝った。
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無題
神様 あなたに会いたくなった
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信仰の深さが静かに伝わります。
もう一つ無題を載せます。
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夢の中の自分の顔と言うものを始めて見た
発熱がいく日(にち)もつづいた夜
私(わたし)はキリストを念じてねむった
一つの顔があらわれた
それはもちろん
現在の私の顔でもなく
幼(おさ)ない時の自分の顔でもなく
いつも心にえがいている
最も気高(けだか)い天使の顔でもなかった
それよりももっとすぐれた顔であった
その顔が自分の顔であるということはおのずから分った
顔のまわりは金色(きんいろ)をおびた暗黒であった
翌朝(よくちょう)眼(め)がさめたとき
別段熱は下(さが)っていなかった
しかし不思議(ふしぎ)に私の心は平らかだった
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ふしぎにこころが平らであったと言う。
思いは怒涛のように有り、
押してはかえすものが、山のようにあったに違いない。
しかし、
重吉は、
ふしぎと心平らに今は在る、と歌う。
読む私はハラリとくるものがあるのですが、、、
読む私はこころ平らに詩人の魂を読み込むことはまだできないが、、、
だがしかし、
今、
雨は降っている。
そっと、そっと、、、そして強く、
雨は降っている。
生きている者のやることは、
おしつけがましくない「よのためにはたらくこと」なんだと教えてくれるように、、、
と、言うことで
雨と言えば八木重吉。
最後にもう一度、雨を。
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雨
窓をあけて雨をみていると
なんにも要(い)らないから
こうしておだやかなきもちでいたいとおもう
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