和泉式部と赤染衛門
北島選手の金メダル。
時間を追う毎に感動、感激が増してきます。
北島を語るとき、並び語られるのは宿命のライバルハンセン選手。
成功物語、サクセスストーリーに用意されているのがライバルの存在です。
圧倒的に力のある万能選手は物語にはならないのでしょうか?
挫折して苦労して、そしてすぐ前を歩いている強力なライバルの姿に励まされて成長する主人公の姿に感動するということか、、、
こうしたライバルについて思うとき、私が何故か思い出すのは平兼盛と壬生忠見。
以前選ぶということと言うエントリーを挙げたことがあります。
アテネオリンピックでの馬術選考が不透明であったことを受けての記事です。
そこで選ぶことの難しさとライバルについて書きました。
と、言うことで今日はライバルについて遠く昔に遡り、
女流歌人、赤染衛門と和泉式部について書こうと思います。
無名抄「式部赤染勝劣事」で有名になったこの二人のライバル。
実はこの二人、後に伝えられるようなライバルというわけではなく、友人として交流深かったそうですが。
優しくてそつなくて誰にでも好かれて如才のない赤染衛門。
対して歌の才能は抜群ながら恋多き女とされた和泉式部。
紫式部は日記にも「けしからぬ方こそあれ」と和泉式部の人柄を批判しています。
が、その紫式部も和泉式部の才能については「面白うかきかしけれ」と認めています。
『拾遺和歌集』の歌と言う記事に以下の下りがあります。
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四条大納言に、子の中納言の「式部と赤染といづれまされるぞ。と尋ね申されければ、「一口にいふべき歌よ
みにあらず。式部は、ひまこそなけれあしの八重ぶきと、詠めるものなり。いとやんごとなき歌よみなり」とあり
ければ、中納言は、あやしげに思ひて、「式部が歌をば、はるかに照らせ山の端の月と申す歌をこそ、よき歌
とは、世の人申すめれ」と申されければ、「それぞ、人のえ知らぬ事をいふよ。くらきよりくらき道にぞ、といへ
る句は、法華経の文にはあらずや。されば、いかに思ひよりけむとも覚えず。末の、はるかに照らせといへる
句は本ひかされて、やすく詠まれにけむ。こやとも人をといひて、ひまこそなけれといへる詞は、凡夫の思ひ
よるべきにあらず。いみじき事なり」とぞ申されける。
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ここで無名抄の鴨長明は、貞頼もおそらく感じたであろう
藤原公任の和泉式部評にいささか疑問を呈しています。
「くらきよりくらき道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月」
ううううう〜〜〜ん。
読み込むほどに素晴らしい。
ダイナミックな構図と大いなる自然の前に立ち往生する人間。
冥いならば冥いでいいではないか、
その道を進むしかない。
ずっとずっと彼方には月がある。
ならば照らしてくれ、月よ。
ただ見ているだけでなく此方に光を与えてくれ、、、、
和泉式部の渇きにもにた貪欲が感じられ、
この貪欲こそ公任が畏れたものでもあったのでしょうか?
もう一度。
「くらきよりくらき道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月」
一方、心やさしい赤染衛門。
「踏めば惜し 踏までは行かん かたもなし 心尽くしの 山桜かな」
いかにも衛門です。
山桜が山道一杯に落ちている。踏むのももったいない気はするし、かといって踏まなければ先には進めない。さて、どうしようかしら。
この逡巡は何も山桜を目前にしたときの思いばかりではない。
赤染衛門というその人なのだとつくづく感じさせます。
こうした古来の優しさ、風流をもった衛門は多くの人の心をつかみ、それは公任も例外ではなかったのでしょう(紫式部も)
「かはらんと祈る命は惜しからでさても別れんことぞ悲しき」
有名な歌です。子を思う母の気持、迫りますね。
「雲のうへにのぼらんまでも見てしがな鶴の毛ごろも年ふとならば」
産まれた曾孫のゆくゆく幸せを素直に祈っています。
和泉式部と赤染衛門。
対極に合った二人。
二人の歌をちょっと触れただけの私ですが、
いつのまにか絵巻の中に巻きこまれ、香しいかおりと風雅な思いで、なんとはなしに心焦りました、、、、
「夢や夢うつつや夢と分かぬかな いかなる世にか覚めんとすらん」と衛門が詠んでいる声が聞こえるような、、、
いかなるものも夢か、はたまたうつつか、、、
人はすべからく、
くらきよりくらき道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月
と願い、おのれの無明を知る。
そして、
夢や夢うつつや夢と分かぬかな いかなる世にか覚めんとすらん
なのかもしれない。
そんなことを思いつつ、綴ってみました。
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コメント
せとさん、こんにちは。
やっと、TBいただいたせとさんのこのエントリーを、じっくり読むことができました。TBいただいてから、すぐに一度目を通したのですけど、そのときは私の方が少し具合が悪くて、うまく受けとめることが出来ませんでした。ここにきて、やっと受けとめられる心の準備が出来たように思ったので、再訪した次第です。
...で、
「くらきよりくらき道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月」
うん。すごい歌ですね。バカみたいだけど、スゴイ、素晴らしとしか言葉が浮かばない。
くらき道。月の光。この歌を読むうちに、若かりし頃、月の光を頼りに夜の山道を歩いたときのことを思い出しました。少し趣旨は違うけれど。
それは、夏の、森林限界を超えた高山でした。視界を遮る樹木がないので遠くまで見渡せるなかに、月の光が煌々と...、そう、光が途絶えることない都会でしか月を眺めたことのない人には想像がつかないでしょうが、満月の明かりは“煌々”と言いたくなるくらい明るいんです。けれど、この明るさ、足元をよく見ようとライトを付け、その明るさに目が慣れてしまうと感じられなくなってしまいます。月の明るさも、暗さに目が慣れてこその明るさなんです。
せとさんは、拙ブログへのコメントで、解釈は禁物! ありのまま、と書いてくださいました。思うに、解釈とは、足元を照らすライトではないか、と。ありのまま、とは、冥さに目を慣らすことではないか、と。
都会は夜でも光に満ち溢れている。けれども人間のすること、どこかに必ず死角はできる。そして、死角の闇の中で人は足元をすくわれる。
今の世の中は、誰かが足元をすくわれたからといって、すぐ死角をなくす明かりを設ける。でも、世の中のすべての光を当てることなんて、出来っこない。してみれば、どこかで必ず足元をすくわれる者が出てくる。
ならば、人工の光を当てにするよりも、冥さに目を慣らすことを心掛けたほうがよいのではないか。人間には、冥き道を歩いていくことができる能力が、本来備わっている。なのに、明るく、明るく、解釈の光を当てようとして、思わぬ死角を作ってしまっている...。
投稿: 愚樵 | 2008.08.27 14:41
愚樵さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
お元気でいらっしゃることと思います。
私はこの夏は大忙しでした。
ネット環境もままならぬため、お返事が遅くなりごめんなさい。
さてさてさて。
頂いたコメント。
またまた示唆に富むものでありがとうございます。
>ならば、人工の光を当てにするよりも、冥さに目を慣らすことを心掛けたほうがよいのではないか。人間には、冥き道を歩いていくことができる能力が、本来備わっている。なのに、明るく、明るく、解釈の光を当てようとして、思わぬ死角を作ってしまっている...。
愚樵さんが最後に結ばれた言葉。
仏教を学べば学ぶほど、私は、
生きるとは、まさにそうのようである事と思います。
「それでいい」。
「そのまま」。
を受け入れようと釈迦は説いたと私は考えているのです。
ただ、それは精進を怠るとか怠けるための言い訳ではないのですよね。
「ますますの精進」をして言わしめる言葉と思います。
自己なんでしょうか?ひたすら。
他がどうであるとか、他からどの様に見えるかとか、
他をどう見るか、、、
そんなことは一切関係ない。
ひたすら己の「苦集滅道」を見極めていくことだと知りました、、、
いまだ冥き道を歩みながらも、月を感じています。
と、言うことで愚樵さんとは、これからも冥き道を探し物を拾いに歩いていきましょうね♪、
愚樵さんのブログにお集まりの素敵な方々の教えも頂きながら私は楽しく歩いています、、、
じゃ、、、またね
投稿: せとともこ | 2008.08.31 14:53