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2008.09.21

水伝汚染が広がりつつあるのか?

不見識と言うタイトルでTAKESANさんが挙げているエントリー。
中身はううう===ん、と唸ります。
『教育現場に水のメッセージを』(『Hado』9月号)と言うブログで水伝の江本さんが学校教育者相手に講演、さらに美しい(?)冊子を配布という記事につてです。
この問題に関してはapjさん
poohさんもエントリーをあげていらっしゃいます。poohさんは別のエントリーで「迷信」について言及しているのですが、
この内容も面白い。
人は「不幸になりたくない症候群」「幸せになりたい症候群」から、
「迷信」や「一人ルール」をつくるのでしょうか?
さて、
さらにさらに国土交通省にも神戸市にも「水伝」汚染?と言う記事は渋谷の亀さんのブログ。調べまくっています♪
うわっ〜〜〜〜〜〜
もう、ウンザリするくらい蔓延っていますね。
めまい、くらくら。
それにしても、
由々しき問題です。
個人的にはこの問題、もっと煮詰めていきたいのですが、
今は、リーマンショックと後期高齢者問題と食の安全を調べだしたので、
まずはそちらを先に書き上げたいと思います。
と、言う事で、
この深刻で由々しき問題は、上記の分析深いブログをご覧下さい。


なおなお、
同じくTAKESANさん。
調べてみたでは、ゲーム脳について書かれています。
いわゆるゲーム脳。
信じやすくてとっかりやすく、まるで科学そのもののような装いをしながら、
立派な「偽もの」であることを、追求し続けているTAKESANさんです。
こちらもご覧ください。

それにしても、このエントリーで、
「ゲーム脳の方が教育の現場には親和性があるのかしらん」、と書かれている亀さんの言葉。
うううう〜〜〜ん。よく分かります。
私も考えてみました。
なるほど。
「水にありがとう」ってのは、ちょいと気恥ずかしい。
なぁんか、、、道徳って言われてもよ、、、なぁんて感じです。
が、
が、
「朝ご飯」やゲーム脳は「学力」と結びつけやすい。
と、いうことなのでしょうね。
本来、子どもは「知らない事を知りたい」という要求はもっているので、学校の順位づけのような勉強はご免だが、それでも「頭はよくなりたい」と思っています。
そんな思いに付け入ってくるんでしょうね、このゲーム脳云々論者は。
また、親にしても机に向かい勉強する我が子の姿には(たとえ勉強していなくても)安心するが、ゲームに興じる姿には「その時間に勉強しろ、、、」と思うものです。
親の気持ちにもフィットしていくんでしょうね、、、
そして、無批判に、いつのまにかゲーム脳を受け入れていくのだろうか?

つらつら考えると、
行き着く先は、やはり「ニセ科学」。
この問題、本当に根性をいれて取り組みたい物です。
ニセ科学フォーラム2008と言う講演会が 11 月 9 日 午後 1 時半から 5 時半まで 学習院大学・西 5 号館地下 B1 教室で開催されるそうです。
興味のある方、関心ある方は是非是非足を運ばれてください。
私も密かに検討中です♪
なお詳細はニセ科学フォーラム 2008 のお知らせ(http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/nk08/)をご覧下さい。

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コメント

「水伝汚染」ですか。由々しき問題だという意見には同感ですが、私の問題の捉え方は少し皆さんとは違うようです。まあ、いつものことですかね(笑)。

水を信じること、水に語りかける言葉を信じること、これら「信じる」ことを批判できる資格のある人間は誰もしないはず。けれど、そこで科学を語るのはルール違反。このことは、多少でも科学を知る者にとっては常識。常識のはずなんです。

ところがこのルール違反が、科学についての常識を弁えているはずの教育者たちにおいてもなされてしまう。由々しき問題だ...、それはそうでしょう。

しかし、むしろ問題はその背景の方、
“科学の装いをまとっていないと信じられない”
というところにあるのではないのか疑問を持ちます。つまり科学が多くの者にとっては宗教と化している。

これはおかしな話です。科学を育む基本姿勢は「健全な懐疑」。宗教の方は「健全な信仰」。この2つは本来相容れないもののはずで、ということは逆に2つが両立することは可能なはず。とはいっても実際問題、ひとつの人格のなかでこれは2つを両立させるのはかなり困難なようです。現在、ニセ科学という形の不健全な信仰が蔓延るのは、科学・宗教両立の困難性と科学の宗教に対する優位性からきているのではないか、と思うのです。これらのことが「健全な信仰」を阻害している。

だいたいにおいて、現代人たる私たちには「健全な信仰」なるものをイメージすることからして難しい。「健全な懐疑」はイメージできますが。しかし、「健全な信仰」をイメージできない状態というのは、人間にとってあまり健全な状態とはいえないように思います。

投稿: 愚樵 | 2008.09.21 19:46

こんにちは。トラックバックどーもです。

標題「広がりつつあるのか?」ですが、ぼくは別に「ここに来て増えた」とかいうわけでもないのかな、と考えています。特に水伝については、むしろ一時よりは減ってるんじゃないでしょうか(こういう調べ方は初めてなので、あくまで印象ですが)。

その辺については、「浜の真砂は」の続きのエントリを準備中(^^;;
以下は予告編(爆)

------------
ニセ科学もオカルトも迷信も呪術も都市伝説も、間違った批判も、もっと単純な間違いも、どこでどういうふうに言及されようとも、なくなりはしないし、アチャラカを擁護する人も出てくる。古いものも捨てられないし、新しいものもどんどん出てくる。そして、一定程度は常に受け入れられ続ける。

今回、検索して見つけた事例だって、「増えたかどうか」「多いかどうか」とかってことよりも、「局所的に話題になっても届かない」し、繰り返し現れるし、忘れ去られて放置される……ということなんだろう。時限爆弾とか地雷とか、そんな比喩も思い浮かぶ。
------------

だからこそ、考え続け、話題にし続けることに意味がある。そんなふうに考えています。

投稿: 亀@渋研X | 2008.09.21 21:37

愚樵さん。
亀@渋研Xさん。
こんにちは。
コメントありがとうございました。

麻生さんが自民党総裁になられましたね、、、
現時点では総理ということかぁ〜〜〜
さてさてどうなるのでしょう?
一連の失言なんかを見ると、国民にとっては少々期待薄の総理になるかも、、、なんて危惧しています。

と、言う事で、頂いたコメントのお返事遅くなり失礼をいたしました。(亀さんは次にお返事します)


愚樵さん。o(*^▽^*)o
はっはっは。

相変わらずの愚樵節炸裂ですね。
前半に関して(つまり学校教育の中での水伝の浸透)は、同意していただいたので、後半について、若干考えを述べさせていただきます。


>“科学の装いをまとっていないと信じられない”
>というところにあるのではないのか疑問を持ちます。
>つまり科学が多くの者にとっては宗教と化している。


むむむ。
そうでしょうか?
科学は宗教と化しているでしょうか?
私の実感としては、そうは捉えていませんが。
まず、この前提で躓いた私は、先へ進めないのですが、とりあえず、ご一緒します。


>科学を育む基本姿勢は「健全な懐疑」。宗教の方は
>「健全な信仰」。この2つは本来相容れないものの
>はずで、ということは逆に2つが両立することは
>可能なはず。とはいっても実際問題、ひとつの人格
>のなかでこれは2つを両立させるのは>かなり困難なようです。


愚、ぐしょうさん。
何をおっしゃる。
ご自身も書かれているようにこの二つは、まこと別のものです。
科学の対極が宗教ではないと私は思います。

>現在、ニセ科学という形の不健全な信仰が
>蔓延るのは、科学・宗教両立の困難性と科学の宗教
>に対する優位性からきているのではないか、
>と思うのです。これらのことが「健全な信仰」を
>阻害している。

御意。
科学が信仰かどうかはさておき、ニセ科学という不健全な考えが蔓延することは、科学、宗教において唾棄すべきものです。
愚樵さんの仰る通りです。

>現代人たる私たちには「健全な信仰」なるものを
>イメージすることからして難しい。
>「健全な懐疑」はイメージできますが。
>しかし、「健全な信仰」をイメージできない状態
>というのは、人間にとってあまり健全な状態とは
>いえないように思います。


なるほど。
そうですね。
宗教に於いても「にせもの」が跋扈しているのですから、健全な信仰は想像しがたいものがありますね。
健全な信仰とは何か?をも含めて考えていく事は大事です。


さてさてさて。
こうして、愚樵さんから頂いたコメントを検証してきたわけですが、
ことここに至って、ニセ科学を告発することが、健全な信仰を阻害していくこととも対置されるものとも思えないのですが、、、、
如何でしょう???

ふと、親鸞の言葉を思い出しましたので愚樵さんに贈ります。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし
(『真宗聖典』508頁)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
虚仮不実。
清浄、不浄、あれこれと賢しらな思いはさらにない。
区別は無い。

科学も宗教もよってたつところは同じではないでしょうか???

また、コメント、感想など頂けると嬉しく思います。
では、、またね。


投稿: せとともこ | 2008.09.22 17:02

亀さんへ。

示唆に富むコメントありがとうございます。


>標題「広がりつつあるのか?」ですが、ぼくは別に「ここに来て増えた」とかいうわけでもないのかな、と考えています。特に水伝については、むしろ一時よりは減ってるんじゃないでしょうか

ハッハッハ。
すみません。
分かりにくい、表題をつけたでしょうか???
私としたら一粒万倍(悪い意味ですね、、、今回は、こまったものだ)、のつもりです。


>今回、検索して見つけた事例だって、「増えたかどうか」「多いかどうか」とかってことよりも、「局所的に話題になっても届かない」し、繰り返し現れるし、忘れ去られて放置される……ということなんだろう。時限爆弾とか地雷とか、そんな比喩も思い浮かぶ。


はい、凄く分かります。
話は別ですが、私が拘り続けている平和もそうです。
決して眠りは許さない。
どんな小さく些細な事でも、いずれ大きな禍根になることを予想して、辛抱強く訴えていく必要を感じています。
地道ですが、草の根ですね。
私もニセ科学に関しては、その蔓延がいずれ人の思いにまで至る事を思えば、小さな芽でも潰していくことが肝要と思います。
どうぞ、これからもいろいろお教えくださいね。
では、、、また。

投稿: せとともこ | 2008.09.22 17:04

おお! 久々に瀬戸さんと意見が食い違った v(`∀´v)

>>つまり科学が多くの者にとっては宗教と化している。

>科学は宗教と化しているでしょうか?
>私の実感としては、そうは捉えていませんが。

瀬戸さんの仰る「私の実感」が瀬戸さんご自身の実感であるならば、私(愚樵)のそれもおそらく瀬戸さんと同じです。先のコメントで書いた「多くの者」に瀬戸さんも私も含まれてはいません。ですが、瀬戸さんの「私の実感」が「多くの者」についての感想であるならば、私たちふたりの実感は食い違いますね。

申し訳ないのですが、この先の展開は拙宅にて行うことにさせていただきます。コメント欄で短くお答えすることはとても出来そうにありませんので。今、「信じるのに勇気が要るのか?」という疑問と「科学は宗教か?」という疑問を絡めてエントリーを構想中ですので、そのなかで「私(愚樵)の実感」を述べてみようかと思います。

少々時間はかかりそうで、また、モノにできるかも定かではありませんが(苦笑)。うまくモノにできましたら、ぜひ瀬戸さんの批評を賜りたいと思います。

投稿: 愚樵 | 2008.09.22 20:16

愚樵さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
いつもの事ながらバタバタしていたのでお返事すっかり遅くなりゴメンナサイ。


さてさて。
ご一緒に山に芝刈りに出かけましょうか(◎´∀`)ノ

>瀬戸さんの仰る「私の実感」が瀬戸さんご自身
>の実感であるならば、私(愚樵)のそれも
>おそらく瀬戸さんと同じです。

はい。
私もこの箇所を書きながら、
既に愚樵さんの切り込み、突っ込みを想定していました。
そうくるだろう、、、と。
なにしろ、愚樵さんとの話のズレを埋めるための話し合いの歴史は長いですから、、、

そうです。
結局、「実感」なのですよね。
双方の。
この感とか好悪にかんしては「はぁなしぃはオワリィ ちゃんちゃん」なんですよね。
仮に、この「つまり科学が多くの者にとっては宗教と化している。」を感を抜きにして語るには、
もっと具体的に数字や事例がないと、検証出来ないのではないでしょうか???


>今、「信じるのに勇気が要るのか?」という疑問
>と「科学は宗教か?」という疑問を絡めて
>エントリーを構想中です


おおおお〜〜〜
楽しみにしてます。
その折はお知らせくださいね。
伺います(尤も声が掛からなくてもいつも伺っていますが、、、ハッハッハ)。

なお、麻生さん。
さてさてさて。
どうなるのか???
今後、どのようなリップサービス(?)が出るんでしょうか?
注目です。

では、またね。

投稿: せとともこ | 2008.09.23 17:57

こんにちは、せとさん。

 過去にも何度か書いた話として「弓矢の工夫と狩りの祈り」なんて話があります。原始時代に弓矢が発明されても、直ぐには「常に真っ直ぐ飛んで獲物に刺さる」なんて弓矢にはならなかったんだろうなと想像したりするわけですよ。でもって、弓や矢を工夫しては試し撃ちをして、「矢柄は真っ直ぐでないといけない。鏃は少し重い方が良い。矢羽根をつけると良い。」とかいろいろんなノウハウを身につけたんだろうと思うんですね。

 でもって、その時に「矢が真っ直ぐ飛んで刺さるかどうかは狩りの神様の思し召しだから、神様に祈ろう」という人も、たぶんいたんだろうと思うわけです。でもって、そういう人たちにとって「矢柄が、鏃が、矢羽根が」とやっている人たちは「神の領域に手を出す不敬な輩」だったかも知れないと思うのです。だから、「お前たち、そんな神様が決めることに手を出している暇があったら、狩りの神様に祈りなさい」なんてこともあったかも知れないと思うんですね。

 でも、結局の所、工夫した弓矢は村に獲物をもたらして飢えを遠ざけたけど、祈りは飢えを遠ざけてはくれなかった訳です。こうやって、人類は「合理性を尊重する」という姿勢を身につけてきたんだろうとななんて思うわけです。でもね、弓矢を工夫した者たちもまた、狩りの前には祈ったと思うんですよ「どうぞ、獲物をお授けください」ってね。でも、その祈りは「やるべき事をやり尽くしたあげくの祈り」なんですね。

 我々は自分の次の世代にいろんな事を伝え残さなくてはならないのだけど、なんていうか人知を超えた事に対する祈りというのを「やるべきことをきちんとやり尽くした後の祈り」として教え残さなくてはならないんだろうと思うんですね。道徳の一つである「丁寧な古葉遣いをしよう。酷い言葉遣いを慎もう」にしても、そこには、人類が社会を築き上げるうえで「人にして貰って心地よいことは自分もするように心がけろ、人にやられて嫌なことは人にもするな」という相互利害の中から生まれでた合理性という面はあるわけです。それをきちんと次の世代に伝えてこその教育であるわけです。なんていうか、「合理性の尊重」という文化を崩すなら、人はまた弓矢の工夫からやり直さないといけなくなるのかも知れませんね。

投稿: 技術開発者 | 2008.09.24 09:14

十分に世俗化された日本では、宗教と科学は完全に分離されていると考えられていますが、そうではない国も有るし、日本人の中でも分離できない人もいるようです。
両者は全く違う別々の物ですが、どちらも人類の文化的活動の産物で、個々の個人の段階では同じ一人の脳内で同居している。
元々両者には関連性があり、それで関係ない両者が混同される事は当然起こります。
愚樵さんの、『科学』に対して宗教的なアプローチをする人達の話は私としては納得できる。

科学に最初から正しいモノが有ったわけではなく、間違いも有れば正解も有った。
科学や技術tは、数々の間違いを原動力にして進歩してきた。
だからニセ科学批判(間違いを正す必要性)は正しくともニセ科学は撲滅出来ないし、これからも幾等でも生まれてくる。
ニセ科学は間違いではあっても、悪ではない。(商売として行えば詐欺行為で違法ですが)
科学に正誤はあっても、善悪は無いんですよ。

しかし宗教は逆で、宗教的な考え方の基本は、何かを正誤の問題と捉えず善悪の問題と捉えしかも絶対化する。

今の日本で『科学』を文字通り『宗教的に信じている』人は大勢いますよ。

投稿: 逝きし世の面影 | 2008.09.24 15:08

技術開発者 さん。
逝きし世の面影さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。

秋晴れが続きそうな気配。
ちょっと一息ですね、、、
しかし、政界は一息つく暇はなさそうですね。
嵐が巻き起こるのでしょうか???
目が離せません。


技術開発者 さん。
いつもながら分かりやすい喩え、ありがとうございます。
>我々は自分の次の世代にいろんな事を
>伝え残さなくてはならないのだけど、
>なんていうか人知を超えた事に対する祈りというのを「やるべきことをきちんとやり尽くした後の
>祈り」として教え残さなくてはならないんだろうと
>思うんですね。

凄くわかります。
科学は何も人知を越えた事への挑戦ではないのでしょうね。
自然、物事のありようを正しく理解するための「道具」なのでしょうね。
従って、科学は、
敬虔な祈りは祈りとして敬意をもって保護していこうとする人のあり方を批判する物ではないと私も思います。

技術開発者 さんがいつも私に教えてくださるように、科学的態度と、信じるもの、標榜するものとの関わりは、何も背反するものでないと私も思います!!!


と、言う事で、技術開発者 さん。
次に頂いた逝きし世の面影さんへのコメントにもおつき合いいただけると私はとても嬉しく感じます!!!


さてさて。
逝きし世の面影さん。
お久しぶりですね。
いつもトラックバックありがとうございます。
深い洞察と、ときどきひっくり返るようなユニークなエントリーに感心したり、笑ったりの私です。
で、
で、
頂いたコメント。
>十分に世俗化された日本では、
>宗教と科学は完全に分離されていると
>考えられていますが、そうではない国も有るし、
>日本人の中でも分離できない人もいるようです。


はい。
その様な方もいらっしゃるかもしれません。
ここには賛同です。
あくまで、「そういう人もいるかもしれない」と言う点に於いて。


>両者は全く違う別々の物ですが、どちらも人類の文化的活動の産物で、個々の個人の段階では
>同じ一人の脳内で同居している。
>元々両者には関連性があり、
>それで関係ない両者が混同される事は
>当然起こります。

はい。
それが、まさに先ほど開発者さんがご指摘くださったことですが、
この混同をマイナスと見るか、或はバランスと見るか???
で、次の一手は違ってきます。


>科学に最初から正しいモノが有ったわけでは
>なく、間違いも有れば正解も有った。
>科学や技術tは、数々の間違いを原動力にして
>進歩してきた。

はい。
私もそう思います。

>だからニセ科学批判(間違いを正す必要性)は
>正しくともニセ科学は撲滅出来ないし、
>これからも幾等でも生まれてくる。

はい。
だからこそ、先のコメントでも亀さんが言われているように、どんなに小さくても一つひとつを丁寧に告発していく事の必要を感じているのです。
私も亀さんには宮本百合子の「平和は眠りを許さない」を引用して、平和運動も同様であり、草の根の地道な運動であることをコメントさせていただきました。


>ニセ科学は間違いではあっても、
>悪ではない。(商売として行えば詐欺行為で
>違法ですが)
>科学に正誤はあっても、
>善悪は無いんですよ。


はい。
私たちがニセ科学と定義しているものは、
未だ、科学ではないにも関わらず科学の態を装いながら、いずれ詐欺なり人から考える力を奪う物をそのように定義してます。
これは「悪」なのです。
何も、未だ、未知の科学を偽もの呼ばわりしているのではありません。
ニセ科学の定義は、私よりも亀さんや開発者さんの方がお詳しいので、私は譲りますが、、、


>しかし宗教は逆で、宗教的な考え方の基本は、
>何かを正誤の問題と捉えず善悪の問題と
>捉えしかも絶対化する。


だがしかし、
釈迦に説法かもしれませんが、
本当に釈迦が導きたかった事は「自分で考える事」だったように私は理解しているのですが。
自灯明,法灯明はあまりに有名な釈迦の言葉ですが。


>今の日本で『科学』を文字通り『宗教的に
>信じている』人は大勢いますよ。

はい。
大勢いるから、科学は宗教ということではないでしょう。
科学の対極は魔術では、、、と思います。
科学は魔術には抗するものですが、宗教とは別の物です。
もし、言われる様な科学教が存在するとしたら、
それは科学の責任ではなく、そこに仲介して、そのように導くことでなんらかの利益をなす者の責任でしょうね。
そういう意味でも、
科学の誠意、善意として、このような力には抗していくことが肝要ではないでしょうか???


と、言う事で、またご意見頂けるととても嬉しく思います。

投稿: せとともこ | 2008.09.24 18:35

せとさん。今日は。
いろな考えがあるんですね。 何か一言発言したくなりました。触発されました。 ワイワイ言い合うのは楽しいですね。 ところで、学校の道徳という教科(時間ですか?)はどうなっているんでしょう。 その教科(時間)の内容が文科省から規制されているのでしょうか?
私は道徳という教科(時間)そのものをカリキュラムに組むこと自体胡散臭いなぁとは、思っております。国定道徳はあってはならないと思います。 しかし、学校で先生方が、人間としての原点に立って、良心にかけて、様々な教科、生活指導の中で、子供たちに道徳教育をするのを否定するものではありません。

投稿: hamham | 2008.09.25 11:57

hamhamさん。
こんにちは。
いよいよ麻生内閣発進ですね。
かなりきな臭く強硬路線が感じられますね。
安倍さんの内閣を思い出します。
ちょいとちょいと、見ていく必要がありそうです。

さて、頂いた道徳授業。
これも、ますます「しばり」が強くなるかもしれませんね。
http://fish.miracle.ne.jp/adaken/dotoku/sidouan.html
上のサイトなどを見てみると、
道徳の占める位置はかなり大きくなってきたように思います。
私も「こころのノート」導入の折りはかなり勉強会をして、その意図を危ぶんでいたのですが、、、
基本法が変わり、そろそろその実効が出てくる頃、
気がかりな事態です、、、

>国定道徳はあってはならないと思います。 
>しかし、学校で先生方が、人間としての
>原点に立って、良心にかけて、様々な教科、
>生活指導の中で、子供たちに道徳教育を
>するのを否定するものではありません。


はい。
全く仰る通りです。
さて、ここで良心や基準が何かとなると、
やはり「国」が「個人」の上にきてはいけないと言う事なのでしょうが、、、
さてさて。

今後も現場の教育減所なども見ながら記事を書きたいと思います。
その時は、またご意見など頂けると嬉しく思います。
では、、、またね。

投稿: せとともこ | 2008.09.25 13:25

こんにちは、せとさん、逝きし世の面影さん。

>と、言う事で、技術開発者 さん。
>次に頂いた逝きし世の面影さんへのコメントにもおつき合いいただけると私はとても嬉しく感じます!!!

とのことなので、少しだけコメントします。
私は「我々、人間って何だろうな?」と考えたりします。基本仕様論なんて変な考えもニセ科学批判の中では提唱したりもしています。我々、人間は生得的には決して論理的であったり理性的であったりが優先する様な仕様では無いのだろうと思うんです。

自動車に制動距離という基本仕様がありますね。「その速度に応じて止まるまでに必要な距離」が制動距離ですが、これ自身は無くするという事はできません(ASBとかで短くする工夫はされていますけどね)。でもね、じゃあ、「横から飛び出した子供は跳ねても仕方ないね」とはしないわけです。「道路の見通しに応じてスピードを落として走りなさい」というのが運転マニアルですね。そうすれば跳ねなくて済むかも知れないし、跳ねても軽い怪我で済むかも知れませんからね。私は自動車に基本仕様に即した運転マニアルがあるように、人間にも人間の基本仕様に即した生存マニアルというのがあり、それがきちんと代々受け継がれ、強化されてきたのだろうと思うんです。この生存マニアルにあたるのが、文化だと思うわけです。

「弓矢の工夫と狩りの祈り」のたとえ話の様な事はおそらく人類の歴史の中で何度もあり、その経験則から人類は「合理性を尊重する」という文化を創り上げ、強化して来たのだろうと考えています。そして、その文化というのは類型をまとめて規範化するという形をとります。つまり「善悪観」が構築されるわけです。

善悪と言うこと事を考えてみると、必ず「人の群れが成り立ち、永続する」という事につながります。「殺す無かれ、傷つける無かれ、盗む無かれ、騙す無かれ」と一つずつ、それがなぜ、人類にとって必要な規範なのかと考えていくと、人が群れ、すなわち社会を構成する上でゆるがせにすると社会を構成する価値を損なってしまうということに思い至る訳です。ただ、「社会を構成するのに守らないと不都合かどうか」まで一つ一つの現実的事象に思いを巡らせるには、人類の基本仕様は向いて居ないのだろうと思います。そこで、算数でいうと公式化、つまり証明を忘れても公式だけ覚えていれば実際の計算ができる様にするのと同じように「規範化」という事が文化として成立する訳です。「なぜ、
やってはいけないのか」もとりあえずは教えるけど、その証明を忘れても社会が成り立つようにするために「これをやるのは悪」と嫌悪感や禁忌感が出るようにするという文化があつたわけです。

水伝には実は2つの道徳的観点からの問題があります。一つは「騙すなかれ」という社会の基本規範の一つに抵触するということです。これは現代の日本に特に顕著に表れている気がするのですが、自分が「本当かどうかは分からないが面白い」と思った話を人にするときに「本当でなければ自分は人を騙すことになる」と考えて、その「人を騙す」という事に本来は発生するハズの禁忌感が発生しない、あるいは弱くしか発生しなくなっているという状態です。また、「本当かどうか分からない話」を「本当であるかの様に話す」人を見たとき、本来感じるはずの「いい加減な人だな」という嫌悪感もまた発生しない、あるいは弱くしか発生しなくなっている様に見えます。

もう一つが、道徳観の軽重感の混乱というのがあります。人類の文化は物理的強制力を働かせることを言葉による強制力を働かせるより重く見る文化を持っています。だからこそ、「手を出すな話せ」という事を言うわけです。麻生太郎に近づいてぶん殴るよりも「麻生太郎の馬鹿野郎」と叫ぶことの方がどちらも悪いことでも叫ぶ方が軽いこととするのが今までの文化です。水伝の話をされる先生方は「この話にはインパクトが高く『良い言葉を使いなさい』という教育の上で有用である」と感じられる人が多いです。でも、そこで「なぜインパクトが高いのか?」を考えて欲しいのです。人を殴って傷つけるのは人をけなすよりも悪の度合いが大きいという概念があるから、「あいつは人をけなした」よりも「あいつは人を殴った」の方が「その人は悪いことをしたね」となる訳ですね。「悪い言葉を人に掛けると、その人の身体を構成する水に悪い影響を与える」という言い方も実は物理的な影響とすることで「けなす」を「殴る」に等しくしているわけです。だからこそ「ああ、悪いことだ」という高いインパクトになるわけですね。でも、それは道徳的規範の軽重を狂わせることで出ているインパクトであるわけです。

投稿: 技術開発者 | 2008.09.26 08:46

技術開発者 さん。
こんにちは。
コメントとおつき合い頂き、本当に有り難うございます。
いつもながら、とてもよくわかりました。
亀さんちでのブレーキーのお話もよくわかりました♪


「私は「我々、人間って何だろうな?」と考えたりします。基本仕様論なんて変な考えもニセ科学批判の中では提唱したりもしています。我々、人間は生得的には決して論理的であったり理性的であったりが優先する様な仕様では無いのだろうと思うんです。」
と言われる開発者さん。
本当に良く分かります。
決して生まれながら倫理や理性や善をもっているのではないのでしょうね。
いつも言われる「弓矢」のたとえのように、
そういう価値観を持ち備える事が、集団として生きていく上で、より生きやすいという経験の賜物なのでしょうね。

なお水伝の二つ目の意義、面白かったです。この表現が適切でないならユニークというか、目から鱗です。
「もう一つが、道徳観の軽重感の混乱というのがあります。」

本当にそう思います。
そして、すごく混乱していく様が分かりやすく書いてくださっていて私はとても面白かったです。

「それは道徳的規範の軽重を狂わせることで出ているインパクトであるわけです。」

本当に!!!

投稿: せとともこ | 2008.09.26 15:18

「弓矢の工夫と狩りの祈り」を科学技術と宗教、或いは物質世界と精神世界と解釈したんですが、
一言で宗教(精神世界)と言っても、低級から高級まで色々。
これを言うと真面目の宗教者には叱られそうですが、科学的な裏付けの無い精神(観念論)世界、例えばオカルトや魔術、占い、迷信、まじない、呪術なんかも低級ですが極初期の宗教の一部と考えられる。
『科学の対極は魔術』はたぶん間違い。
科学と魔術、或いは科学と宗教は対立概念ではなく並立します。
今でこそ魔術と科学は分離していますが、昔はそうではありませんし占星術から天文学が、錬金術から化学が発展的に分離していった。
科学者が魔術師だった時代や聖職者が科学者や医者だった時代の方が、今のように完全に分離している現在社会よりはるかに長い歴史が有る。
もともとの原始キリスト教は病気を治す(医学)宗教だったんですよ。
当時コレラやペストが大流行して交易都市を滅ぼしたりしたが、そのため医学宗教だったキリスト教は世界宗教になれたわけです。
それで今でもキリスト教を標榜する医科大学が有るのは元々両者には深い関係が有る為です。
日本でも新興宗教の天理教や世界救世教等は病気を手かざしや祈祷で治すとしている。(殆ど魔術ですね)

2千数百年前のブッダの真理は、今でこそ宗教と考えられていますが、当時においては最新の革命的な科学的思考方法です。
仏像が乗っているハスの花は、実と花が一体となっており仏教思想を体現しているモノと考えられているが理由は、ブッダの真理では、原因と結果は一つの関連したもので万物も相互に関連している。全てのものは時間と共に変化しどんなに強いものでも最期には滅びる。諸行無常、因果応報なんかは科学的思考方法の典型例とも考えられる。

投稿: 逝きし世の面影 | 2008.09.26 15:39

技術開発者 さんの 「弓矢の工夫と狩りの祈り」を科学技術の宗教に対する勝利と解釈できるんですが、それでも宗教の完全敗北ではないんですよ。
北京五輪で北朝鮮の射撃の選手が鎮静剤を使用していたとしてメダルを剥奪されていますが、同等の道具を使用して技量も同等なら後は精神的な差が成績に影響する。
『狩の祈り』の効用は十分に考えられます。
マンモスのような大型獣相手の槍や石斧の狩では、戦いの踊りのような興奮系が有効だが、氷河期が終わった後の小動物相手の弓矢の狩では『狩の祈り』のような鎮静系の宗教(まじない)が有効になってくる。
狩とはスキーと射撃が一緒になったバイアスロンみたいなもので、如何にに早く精神を鎮静化させれるかのによって大きく結果が違ってくる。
そういう意味で『宗教』(まじないを含む)は十分に科学的な存在価値があった訳です。

投稿: 逝きし世の面影 | 2008.09.26 16:18

逝きし世の面影 さん。
コメントありがとうございます。
なぁんだかワクワクしてきて、とても嬉しく楽しい思いでコメントを拝見しています♪


さてさて、面影さんのコメントを拝見しながら、
私は、全体に流れる筋というか理解は同じでは、、、と思いながら最後まで読ませていただきました。


>『科学の対極は魔術』はたぶん間違い。
>科学と魔術、或いは科学と宗教は
>対立概念ではなく並立します。

はい、私自身、この書き方をしたときは以前の記事を思い出していました。
それは、http://ts.way-nifty.com/makura/2004/04/post_22.html(それでも地球は回っている)
というものです。
森毅の「魔術から数学へ」という本の感想、主にはガリレオその人について書きました。
もし、お時間がございましたらご覧下さいね。

その中で私は以下のように書いています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
同じ科学は「魔術」だったのです。
占星術のような学問が大勢を占めていた頃、
ガリレイは実験という方法で、近代科学を打ち立てていく
推進力になった人です。
著者はこう書いています。
「創造の過程においては、
しばしば逆説的な現象が見られるのが普通である。
科学の黎明期を、合理的精神だけが、
新しい世界観を作り出したと、考えるのはおそらく正しくない。
一種の非合理的精神もまた、時代の推進力であったのである。」と。
また、こうも書いています。
「時代の歯車が回るとは、激しい、むしろ不条理な動きにおいてだろうと思う。
宗教裁判が最も多く、魔女狩りが最もひどく、、そして
科学者が最も魔術的だった時代」

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
一種の非合理的精神もまた、時代の推進力であったのである。
この非合理こそが名をつけて「魔術」。
混沌とした時代にあって真理を求めようとした者たちは妄想し、それがその時代の魔術になり、時を経て科学になっていく様を森さんは筆致豊かに書いています。

面影さんご指摘の内容は、私も同意見です。
また、ブッダが説いた仏教が極めて科学的である事には大いに賛同します。
仏教は「教え」なんですよね。
因も果も全て、人の行いであって、そこに神秘はないんですよね。
仰るように科学的思考の典型と私も考えています。
そして開発者さんが、いつも私に教えてくださる本流もまさにそれです。

さてさてさて。
私たちがそもそもの問題にしていたことは、
科学は宗教、科学教ということです。
ここで言う宗教とは何か?
あるいは科学とは何か?
これは面影さんが先に書かれたコメントで言うところの「しかし宗教は逆で、宗教的な考え方の基本は、何かを正誤の問題と捉えず善悪の問題と捉えしかも絶対化する。」と言う捉え方について、
考察をしたのであって、
ブッダの教えとは(宗教ではありませんね、、、こしてみると仏教は。教えです)相反するものである事は面影さんが言われる通りです。

そして、私たちは、
科学は絶対化などはしない、流動的であるもの。
絶対な価値や神秘などではない。
だがしかし、
今、問題にしているニセ科学は「水」に神秘な力を持たせている、、、
これに関して私たちは危惧を表明しています。

と、言う事で、みてきたところ、
面影さんと私は、ちっとも違っていないと思います。
如何でしょうか???

投稿: せとともこ | 2008.09.26 17:14

こんにちは、せとさん、逝きし世の面影さん。本当はそれぞれの所に書くときにそれぞれ違う話とか書けると良いのだけと、そこまで頭が良くないので、これもまた、あちこちで書き散らしてきた話です。

私は科学と宗教(あるいは宗教哲学)に関して「Howの答え」「Whyの答え」なんて話をします。その時にするたとえ話が、「脚立のある理由」なんてたとえ話です。ある日皆さんが仕事場の部屋に行ったら部屋の真ん中に脚立がたっていたとしますね。「なぜ、ここに脚立があるの」という問いかけに対して「さっき、Tさんが持ってきて置いて行ったからあるの」という答えと「蛍光灯を取り換えようとしたんだろうね」という答えと両方あるわけです。前者の答えだと脚立がそこに立っている経緯は分かるけど目的は分からない。後者の答えだと目的は理解出来るけど、誰がいつ持ってきたのかわからない。経緯への答えが「Howの答え」であり、目的への答えが「Whyの答え」だなんていうたとえ話です。

例えば、私が肺ガンになったとしますね。「なぜ、肺ガンになったのだろう」という疑問に関して、「君はヘビースモーカーだから、タバコの発ガン性物質が肺の細胞に作用して」と実に詳細に説明してくれそうな友人が何人もいます(というより自分で説明してしまいそうです)。でもね、実はそれはあくまで経緯の答え、つまり「Howの答え」なんですね。この宇宙に「肺ガン」という病気が存在すべき目的、自分がそれに掛かることの意義みたいなもの、つまり「Whyの答え」については、科学は何も答えてはくれないのですよ(笑)。でもって、私は「天が自分に与えた試練である」とみなしてしぶとく生き延びようとするかも知れないし「命あるもの皆何らかの死に方をする。これは天が用意した死に方の一つであろう」とあがきもせずに死ぬかも知れません(もう充分に生きたと思うので、後者の可能性が高いかも・・・:笑)。

何が言いたいかというと「How」も「Why」も人間が持つ疑問だという事です。人間はどちらの答えも欲しがる訳です。そして自然科学は「How」に対して答え、宗教は「Why」に対して答えるのが人間の文化としてのおそらく正しい有り様なのじゃないかと思っています。もともと、歴史的にもこの区分はかなり曖昧であった訳です。ただ自然科学は「自分はWhyには立ち入らない」と割り切った面があります。この割り切りが自然科学を発達させた一因であろうとも思います。宗教も「自分はHowには答えない」とするならもっと純粋に発達できるのかも知れないと考えたりします。そういう純粋に「Whyの答え」と文化として宗教が発達し切れていない感じを受けるわけです。

投稿: 技術開発者 | 2008.09.26 17:25

ブッダの説いた真理は現在の『既存宗教』とは遠い位置に有る『科学的思考方法の典型』で、ブッダは仏教の始祖で有ると共に『科学』の、或いは科学的な思考方法の先達でもあった。
しかし残念なことに今の仏教はブッダの真理からは遥かに遠いモノになっている。中でも創価学会やラマ教のようにカルト臭いものは特にそうです。
単に『宗教』と言うときは、『ブッダの真理』は別にしないと混乱が生じるでしょう。
『宗教』の定義は、最初から仏教(ブッダ)の精神とはかけはなれている一神教系とか、既存の其の他の宗教に限定すべきです。


科学は物質世界を正しく検証する道具として最も優れているので現在、人類の文化の最高峰の地位を得るに至った。
科学と争って勝てるものは今や誰もいないので、『科学』には誰も逆らわない。
しかし、この科学の『絶対的な勝利』は昔からのものではなく、つい最近の事(多分150年前の進化論論争での勝利以後)で其れ以前は宗教が其の地位に就いていた。
其れ以前。(日本は唯一の例外らしい)は、政治や科学や其の他全ての人類の文化の最高峰の地位に宗教が座っていた。
科学の全面的勝利以後は、科学は物質世界全般全てを取り仕切り、宗教の受け持つ範囲は個人の精神世界(道徳)という極狭い範囲に限定される。
『科学』は全ての事に対して正しいか間違っているかの判定を下し、『宗教』の受け持ちは個人の道徳観(物事の善悪)といるふうに住み分けているわけです。

投稿: 逝きし世の面影 | 2008.09.27 11:16

『水からの伝言』は一般社会に対して、最初科学として紹介されたらしい。
それで当たり前ですが科学的に間違っているので『偽科学』の烙印を押された。
しかし美しい言葉は良い結果(美しい結晶)を生むとする『水からの伝言』は科学ではなく、如何見ても宗教(宗教モドキ?)ですよ。
だから『水からの伝言』をニセ科学として批判する皆さんの行為には如何しても違和感を感じざるを得ない。
正しい批判なら『似非宗教である』とか『教育(科学)の中に宗教(道徳)を持ち込むのはルール違反で有る』とかにすべきで、批判そのものがえらく宗教的なんですよ。

それでは何故宗教モドキの『水からの伝言』が自らを科学を名のるかの不思議ですが、科学が全面勝利している現代社会では『科学の看板』は『宗教の看板』の1万倍は信用度が有るからです。
今流行のただ同然の汚染米を食用とした食品偽装とか耐震偽装やインチキブランド品と同じ手口です。
『水からの伝言』を科学的に間違っているとして批判するのは正しい。
この態度は科学的態度と言えるが、しかし批判がエスカレートして「水からの伝言」を『科学的に悪い』とするのは科学的批判からは逸脱している。
批判そのモノが科学的批判ではなく宗教的(道徳)な善悪の判断をしてしまっている。
私も科学(科学者)は道徳的であって欲しいとは思いますが、科学自体には本来正誤はあっても善悪は無いんですよ。
善悪はまったく別の次元の話です。
科学と宗教は御互いに完全に住み分けるべきで、科学に対して宗教が介入すべきでないし宗教に対して科学が介入すべきでない。
しかし自民党や政府文部省の教育部会の会合でいつも話題に上がるのが『宗教的な情操教育』で、宗教を如何にして教育現場に持ち込むかの相談です。
だから『水からの伝言』が科学ではない、ニセ科学であると幾等批判されても連中は懲りずに持ち込むのです。
元々ニセ科学ではな無いので、『偽科学』との批判は、連中にとっては十分承知の上で行っているので、痛くも痒くもないのです。
『水からの伝言』批判なら宗教を教育(科学)に持ち込むなとするべきです。

投稿: 逝きし世の面影 | 2008.09.27 12:00

こんにちは、逝きし世の面影さん。

なんだか、話が微妙にかみ合って居ない気がするんですね。まず、お考えに成っている「水伝批判者」というのが、私が現実に見ている水伝を批判している人たちと異なっている気がします。

なんていうか、私も水伝を批判していますが、「科学者としてのみ批判」という形そのものがあり得ない概念ではないでしょうか?なぜなら、私を含め科学者が「この社会から切り離されて存在している」のでしょうか?それとも「この社会の中でこの社会の構成員として存在している」のでしょうか?

私は、少なくともこの社会の中でこの社会の構成員として存在してるつもりです。そのため、この社会の規範に従うばかりでなく、この社会の秩序が守られることを願う存在です。逝きし世の面影さんに言わせると「科学者は科学者である限り、むこの社会から切り離され、この社会のことに社会の構成員として善悪感を持って何かをしてはならない」と言われている様に見える訳です。

私は良く消防署の職員が避難訓練などに呼ばれて話をするとき火災報知器の取り付け義務化に言及した際に「消防署が報知器を売り歩くことはありませんから消防署を騙る訪問販売に気を付けてください」などの注意喚起をするという話を引き合いに出したりします。逝きし世の面影さんに言わせると「消防署員は世の中の構成員ではないから、世の中の善悪などに基づいて注意喚起などしてはならない」と言われると思います。消防署員の業務のに「悪徳な商取引への注意を為す」は当然ありません。逝きし世の面影さんのように、消防署員は社会の構成員から除外すべきだ、だから、消防署員は、社会の構成員として善悪の判断などしてはならないし、社会の秩序が守られることを願うべきでもない」と言われる方は、「消防署員が悪徳な商取引に口を出すのは間違っている」と言われるだろうと思います。ただ、私の知る限り、消防署員は社会の構成員です。それか科学者が社会の構成員であるのと同じ事です。だから、社会の構成員として善悪判断を行い、「騙り」という社会的悪に対して批判するべきだろうと思っています。そしてその「騙り」の内容が「消防署が報知器を売り歩く」といった自らの詳しい部分で為されるときに、「消防署は報知器を売り歩いたりしない」という形で誤った情報をただそうとするのし当然の事だと思います。

投稿: 技術開発者 | 2008.09.29 09:38

おはようございます。
実は今、出先でチラリと見ているので、
ゆっくりと書くことができるネット環境にいないのです。

お二人のコメント拝見しながら、また後ほど私も参加したいと思いますが、これからもご意見は書いて下さいね。
では取り急ぎ。

投稿: せとともこ | 2008.09.29 09:52

私の書き方が悪かったのかも知れませんが、『微妙にかみ合って居ない』ではなく、水伝に対する認識の違いではないでしょうか。?
私の言いたい事は、極単純です。
『水伝とは『美しい言葉が美しい結果(結晶)を招く』と主張するもので、これは『科学』ではなく『宗教』或いは『道徳』です。』
水伝を科学として人々に紹介するのは近頃流行りの食品偽装とか産地偽装とかの偽装行為、詐欺行為である。

一部の保守的な人達が水伝を教育現場に持ち込んだ動機は『科学教育の発展』が目的ではなく、
『宗教的な情操教育』或いは『道徳教育の一環』として水伝はピッタリの素材だったからです。
昔の小学校の校庭に立っていた二宮金次郎の銅像(質素倹約と勤勉)が示していた道徳教育の素材と同じ目的が『水からの伝言』には期待されているのでしょう。
彼等はは『水からの伝言』が科学的に正しいから学校現場に導入しようとしているのではなく、道徳(宗教)的に正しいと思っているから賛成しているのです。
『水からの伝言』を科学的に間違っているとして批判するのは正しい。
しかし、元々科学でないものに対して『ニセ科学で有る』との批判は適切でない(効き目が無い)ばかりでなく、水伝信者たちにとっては自分たちの核心部分(宗教、道徳)を批判していないので効果は全く有りません。


『科学に正誤はあっても善悪は無い』
の意味は、今までコメントに書いてきたように、

科学の全面的勝利以後は、
『科学は物質世界全般全てを取り仕切りって、科学は全ての事に対して正しいか間違っているかの判定を下す』

科学的に正しければ正しく、間違っていいれば間違っている。
この世で起こった全ての事柄に対する『正しいか』あるいは『間違っているか』の判断は、すべて科学が受け持っているのです。
この意見には皆さん、賛成していただけると思います。
技術開発者さんは多分、そのあとの、
『宗教の受け持つ範囲は個人の精神世界(道徳)という極狭い範囲に限定される。
『宗教』の受け持ちは個人の道徳観(物事の善悪)といるふうに住み分けている』
、に対して不満なのではないでしょうか。?

其の前に、
『科学者個人が個々に其々道徳観や宗教観を持ってはいけない』などとは一度も言っていないのに、上記にコメントは何か大きな誤解が有る様に思います。
各個人が其々正しい世界観や道徳観を持つのは何も科学者や消防士に限りません。
このことは科学などに限定しなくても全ての市民全体に言える原則でしょう。技術開発者さんの上記のコメントは理解に苦しみます。

しかし『科学』が正しい科学の範囲を超えて、『正義の科学』とか『善なる科学』とかを主張したら如何でしょうか。?
正義の科学が存在するなら当然其の反対の『悪の科学』も存在する事になる。
当然悪の科学には社会的制裁を加えるべきで、当然教えた教師は処罰される。
これは過去に実際に行われてきたことですが、反科学的で有るばかりでなく非人道的な犯罪行為ですよ。
科学は正誤を判断し、善悪まで判定してはいけない。
善悪の判断は道徳(宗教)の受け持つ範囲で、科学の介入は宗教にとっても科学にとっても不幸な出来事を招くでしょう。

投稿: 逝きし世の面影 | 2008.09.29 12:24

技術開発者さん。
実は極最近、自分自身がニセ科学を批判(告発)して大変な目に合いました。
嫌がらせコメントが毎日何百と送られてくる。当時は記事を校正する時間も無いほど掃除するのに忙しい忙しい。
彼等はニセ科学を心底信じているんですよ。ニセ科学信者恐るべし。
2008年7月9日放送NHK番組ためしてガッテンを偶然見てしまい愕然と。
何と、氷の早作りの裏技として『熱湯の方が冷水より早く凍る』ので一旦沸かして冷蔵庫に入れる、と言う凄まじい内容です。
裏技は間違いで有るとする記事を書いたんですが、『お前は科学を知らない』なんてのは最上級で、此処には書けない様な低レベルの罵詈雑言の嵐。
これは実際に実験すれば簡単に判る話なんですが、NHKの大失敗の放送で、NHK自身も再現に失敗している。
だから熱湯から作った氷は放送していない。しかし放送もしていない熱湯氷を信じている信者達は見ているんですよ。
勿論、信じていない者が見るとヤッパリ見えない。当たり前ですね。
日本では信じられないかも知れませんが、『科学』を宗教として信じている人が大勢いるんですよ。
仕方なく、当方のブログで10回も連載記事を書く破目に。
この事件に対して、科学的な見地からの感想が聞いてみたいと前々から思ってましたが、これに関して何か当方の関連記事にコメントを頂ければ有り難いです。

投稿: 逝きし世の面影 | 2008.09.29 17:04

こんにちは、せとさん、逝きし世の面影さん。
なんだか、少し皮肉な書き方をしてしまったために意がつくせない面がでてしまいました。

以前、せとさんに「共同体と機能体」という話をしたのを覚えておられますか?もともと、人間という生物が集まって群れ、つまり社会を構成したものが共同体です。この群れには「何かを為す」といった目的は明確には存在せず、寄り集まることで「生きやすい」という部分が発生するという曖昧さを持った集団です。多くの動物が群れを作るのですが、たいていは本能的な集まりです。人間の集団にも当然本能は働いている訳ですが、理性の薄皮をかぶっている人間の群れには本能だけではないものが生じます。それが社会的規範というものです。上で言った「殺す無かれ、傷つけるなかれ、盗む無かれ、騙す無かれ」なんていう部分は、それなりの理性を持った個人が群れ作る際に必要となる規範であり、共同体の維持のための規範なんです。

でもって、人間という理性の薄皮をかぶった個が社会を構成するとき、その共同体の上に機能体という組織ができあがる事があります。共同体に獲物を供給するための「巻き狩りのチーム」などを例に出して説明しましたね。でもって、機能体ができるとその機能体独自の規範というのもできるわけです。巻き狩りチームでいうと、「見張りが持ち場を離れる」は悪であり「勢子が一生懸命に獲物を追い込まない」は悪である訳です。でもこれは、あくまで、共同体の上にできあがる機能体の規範であるということです。問題は、共同体の目的は曖昧な「生きやすさ」であり、機能体の目的は明確であることにあります。そのため、善悪の判断も共同体の善悪は曖昧であり、機能体の善悪は分かり易く明確です。世の中が分かりやすさを必要以上に求めるとき、機能体の善悪観が共同体の善悪観を押しつぶして君臨するということがおこるということをスパルタの例なんかを出して説明しました。

この考え方をニセ科学批判に対する逝きし世の面影さんの批判に当てはめて考えて見たのが上の批判なんです。「人を騙してはいけない」は曖昧な規範ですが、共同体の規範です。では「科学者は」という言い方はどうでしょう。共同体の中で、「疑問に答えて欲しい」という欲求が生じ、それに答える職能として、科学者が発生する。自然科学にたずさわる科学者の中では機能体として、「善悪判断をするな、正誤判断をしろ」という規範も当然できる訳です。でもそれはあくまで機能体としての規範であり、共同体の規範よりも下位に位置づけられるべきものです。もしも機能体にしか所属せず共同体に所属しない個というのがあるなら、機能体の規範は絶対なものとなりますが、そのような機能体はそんざいせず、機能体の構成員は共同体の構成員でもあるということなんです。それゆえ、科学者という機能体構成員でも、共同体構成員として共同体の規範がないがしろにされることを憤り、批判する事がゆるされる訳です。そのことを言い表したくて「消防署員」という機能体の構成員が「悪徳商法に気を付けなさい」という注意喚起をしても良いのだという事を述べました。

別に逝きし世の面影さんに何か含むところがあるという事ではないんです。ただ、現代を生きている個々の人が「機能体」にばかり目を向け、その元にある共同体とか共同体規範というものに目が向きにくくなっているということを表されている様に感じたので、皮肉な書き方をしてしまった訳です。

投稿: 技術開発者 | 2008.09.29 17:09

こんにちは、逝きし世の面影さん。最新のコメントを読む前に上は書いてしまいましたのでね。

>しかし、元々科学でないものに対して『ニセ科学で有る』との批判は適切でない(効き目が無い)ばかりでなく、水伝信者たちにとっては自分たちの核心部分(宗教、道徳)を批判していないので効果は全く有りません。

私が言いたいのは、きちんとした社会規範性を持つ人には「これは科学的ではありません」という否定が、社会の「人を騙してはいけない」という規範への抵触であるという事と結びついて、批判と成るということです。それは、消防署員が「消防署は報知器を訪問販売したりしません」が「消防署の方から来ました」という販売員の言葉の欺瞞性を明らかにし、「騙す無かれ」という社会的規範と結びつくからです。

問題は、そういう社会的規範が忘れ去れれてようとしている現代というものにあり、「それは科学的ではありません」という批判の仕方にあるわけでは無いのです。「嘘も方便」なんて事で混乱される方に、「方便として嘘を言うのも、不妄語戒という戒律を犯すことであり、戒律を犯す以上、自分が悟れなくなるという覚悟の上で行うべき事です」なんて書いた事があります。仏教には喜捨という修行がありますね。自らの持ち物を喜んで人のために投げ出してこその菩薩行であるわけです。自らが戒律を破り、自らの悟りの可能性すら喜んで投げ出して迷える人を救いたいと思うとき「方便として嘘を言う」が成り立つ訳です。人が皆救われるまで自らは救われなくて良いとした菩薩もいましたね。問題はこういう覚悟もなにもなしで「嘘も方便」という言葉がまかり通ることにあるわけです。

教育として道徳を教えるというのは本来とてつもなく難しいことなんです。例えば瓜仙人なんてお話がありますね。瓜売りに貧しい乞食が売りを恵んでくれと言い、けちでののしりしか与えない瓜売りを乞食の格好をした仙人がめくらましをして瓜を巻き上げて周りの人にもふるまう話です。一見、「恵まれない人に優しくしなさい」だけで終わる話ですが、もしこの話を聞いた子供が「でもやはりこの仙人がやったのは泥棒じゃないかな」と言い出したら、教える教師は何と答えるべきなのか?なんてね。社会規範は様々な定量性をもって絡み合うものなんです。その全てとは言わないけど、かなり深く社会規範の成り立ちまで考えたものでなければ、道徳を教えようとすることそのものが間違いになってしまう面があります。

そういう「考え深さ」の価値が失われている現代というものにきちんと考察することなく「こういう言い方は価値がある、無い」と判断して仕舞うことは、結局、「自分が考える力」を失うことに綱化って居るんじゃないでしょうか?

投稿: 技術開発者 | 2008.09.29 18:03

『科学」を詐称するインチキ臭い道徳である『水からの伝言』に対する判断は皆さん。殆ど同じではないでしょうか。?
『科学』であれば其の正誤は簡単に判り、しかも万人に共通する。
しかしですね。
科学とも宗教とも道徳とも判断が付きかねる代物に対しては、難しい。
何故なら宗教や道徳は、しばしば科学の領域で有る『物事の正誤の判定』にまでくちばしを突っ込みたがるし、其の正当な受け持ち範囲である筈の『道徳的な善悪の判断』も、人それぞれで万人に共通する永遠に変わらない『絶対の正義』は存在しない。

正誤だと万人に共通するが、善悪だと万人に共通しないんですよ。

瓜仙人の話ですが、
これなんかも、見方を変えれば幾等でも色々な解釈が出来るし色色な道徳観が考えられ好例ですね。
『絶対の正義』とは、『絶対の宗教』でもない限り無理なんですよ。
瓜仙人の話は、関西では弘法大師伝説として古くから伝えられていて、大阪市の南部には瓜破という地名まであり地下鉄の駅名にまでなっています。
土地の伝承では、
瓜の喜捨を断られた旅の乞食僧(弘法大師)が瓜売りが食べ散らかした瓜のタネを拾い地面に蒔くと、芽がでて蔓が延び花を咲かせ瓜を成らせる。
自分も食べ周りのみんなにも瓜を振舞って何処えとも無く去っていく。
去った後で商人が気が付くと売り物の瓜が一つ残らず無くなっていた。
現代風に解釈すれば引田天功かミスターマリックのイリュージョンワールドですね。
人は二つのことに同時に全神経を集中できない。
この商人は目の前で起こっている奇跡的な出来事に目を奪われた自分の瓜がどんどん減っていく事に気が付かなかった。
なにやら日本人全体が騙された小泉マジックとも共通するテクニックですね。

投稿: 逝きし世の面影 | 2008.09.30 10:06

技術開発者さんも『教育として道徳を教えるというのは本来とてつもなく難しいことなんです』と仰っておられる様に、自民党文教族を考えているような愛国心教育をすれば愛国心が育ったり、道徳教育をすれば道徳心が育ったり、見たいなふうに簡単にはいかない。
煙草の煙がもうもうとしている職員室で喫煙が見つかった中学生に喫煙を注意する教師とか、『暴力はいけない』といってイジメをした生徒に体罰を与える教師とか。
道徳とは誰でもが主張出来るが、誰が言っても良いわけでもない。
幾等良いことでも発言する人物や場所、時間によっては効き目が無いばかりでなく逆効果になる。

基本的に道徳教育は家庭あるいは地域社会が受け持つべきで公教育に馴染みません。
しかし戦前はそうではなく公教育における道徳教育の占める役割は非常に重かった。
戦争の悲惨な教訓から戦後10年程は日本で公教育での道徳教育は行っていませんでしたが、今から50年ほど前に(反対を押し切って)導入される。
そして学校に道徳の時間が設けられるが、しかし肝心の教師達は何を教えてよいかが判らない。
仕方が無くホームルームみたいな事や読書会みたいにしてお茶を濁していた。
そりゃ~あ、そうでしょう。
教えるべき道徳が判らなかったんですよ。
今まで正しいと信じて教えていた道徳(忠君愛国)や一般常識(鬼畜米英、一億玉砕)は完全に間違いだった。
正しいものだった八紘一宇が悪い思想として排斥されていたんですよ。
道徳は時代により組織により、あるいは個人個人、人により宗教により別々でしかも変化する。
道徳とは、時には完全に善悪がひっくり返る危うい代物です。
矢張り学校のような公教育で教えれるような普遍的な科学的事実とは根本的に違うモノなのです。

皆さん憶えていると思いますが、アメリカが始めた9・11アタックへの報復戦争を、ブッシュ政権は最初『無限の正義』作戦と読んでいました。
私なんかは理性以前におぞましい報復殺人(戦争)を正義と呼ぶことに道徳的、生理的に反発しますが、アメリカ国内でも反発の声が沸き起こった。
理由は何と。!!
『無限の正義』を持っているは神のみである。
多国籍軍の事を『十字軍』になぞらえる失言?も有りましたが『無限の正義』とは言いえて妙。
対テロ戦争の実体を一言で表している名言です。あれは善と悪の戦う宗教戦争なんですよ。
そして宗教が、道徳的な『善悪』を判断するんですよ。
そして道徳は、一般的に宗教と切っても切れない一体不可分の密接な関連が有ります。

投稿: 逝きし世の面影 | 2008.09.30 11:27

逝きし世の面影 さん。
技術開発者さん。
おはようございます。
コメントありがとうございます。
昨日から今朝にかけてお二人のコメント、何回も拝見させていただきました。
実は私も書いていたのですが、
書くごとに「これは違うな、、、」とか
「問題はここか」とかとか言いながら書いては消し、消しては書いていました。
おかげさまで書くごとに論点整理ができてきました。
と、言うことでこのあたりで、一度まとめを書かせて下さい。

では、お二人のご意見のまとめ。
面影さんのご意見。
未だ科学が確立していない時代は宗教が自然をも含め社会規範や道徳を提唱していた。
だがしかし近代科学の発展で宗教はその場を科学に明け渡した。そして「ある科学」は本来の役割である正誤からさらに考えを発展させて善悪にまで侵犯していった。
そこで「ある宗教」は科学の隙間に滑り込むように正誤と絡めて善悪を提示していくことでその存在を誇示している。
科学と宗教、正誤と善悪が混沌と混ざり合っているのが今の状況である。

一方、開発者さんは、
科学は自然や物事の性質を実験や調査で調べ、結果、法則や公式を見つける学問ではある。
が、
そこには当然、科学者としても社会規範の下にいるのだから社会の善悪を考量して科学の判断を下すことはある。
また科学から導かれた事実や公式、正誤を社会の規範へと返すことで社会を引っ張る役割も担う。


お二人のご意見はこのようなものです。
こうしてみると、改めて思うことは、
そもそも「科学とは何か?」「宗教とは何か?」という極めて古くて新しい問題の考察を深めることを感じている私です。
そもそも愚樵さんが最初に疑問を呈した事へと戻ります。

科学とは何か、宗教とは何か、という問題意識に立ち返り、立ち返りながら、考えを構築していかなければ、
その隙間にとんでもない偽物や罠が仕掛けられるのでしょうね。
科学と宗教という合間に政治という糊が介在してくるとさらにさらに、とんでもなく分かりにくく見えにくくなるのでしょうね。
科学は時の権力に利用され、
宗教は時の権力の手先なる。
よく見て来た構図です。

科学は絶対ではない。
科学とて無謬ではありえない。
科学者もまた時代の子である。
宗教は本来ならば「生きる力である」
それは利害や対立や政治とは無縁のものである。

こうした大きな幹を思いながら、
そこから生えて来る枝葉の行方を見守る必要を感じている私です。


またご意見を頂けると嬉しく思います。

投稿: せとともこ | 2008.09.30 11:37

そうですね。科学とは何か、宗教とは何か。?
科学が、今の人類の文化の最高峰で『全ての物事の正誤の判定を独占的にしている』最高権威である。
今の世の中で科学以上のものは有りません。普通の方法で『科学』に敵対すれば誰であれ勝てない。
それで賢い連中は科学で無いもの(宗教、道徳)に科学的な装いをして『科学である』として騙そうとする。
しかしこれ等(宗教、道徳)が科学的に正しくないの事実ですが、本来科学では無いので当たり前。
犬に向かって犬畜生と呼んで罵倒する様な、意味が有るのか無いのか判らない行為です。

私が、科学を偽装した『道徳』の『水からの伝』批判で、気になって気になって仕方が無い事が一つ有るんですよ。
不思議な事に、批判している側の『ニセ科学批判』がえらく宗教(道徳)臭い。
相手が科学を偽装した『道徳論』なので、それで道徳論が前面に出ているのかもしれませんが、これは矢張り間違いです。
科学が道徳に介入してはいけないし、道徳は科学に介入してはいけない。
此処で誤解されないように予め言っておくと、技術開発者さんの道徳観(論)に異議を唱えている訳では有りません。
道徳的な問題提起に対しては全面的に賛成したいと思いますが、科学に対する道徳的なアプローチだけは賛成いたしかねる。
自然科学と道徳とを関連付けるのは危険極まりない行為ですよ。
科学は万人に平等に共通に適用される。
しかし道徳(内心)は個人個人で別々であるべきです。
昔はそうでは無かったが今では、個人の心の中は誰であれ触れるべきではない聖域で、誰からも干渉されない自由がある。
道徳と社会科学とはある程度の関連性はあるが、其れも限定的であるべきです。
例えば、法律に介入すべきでない。
今イスラム世界で問題に成っているイスラム法は道徳を法律にしたもので、不倫は石打による死刑で、日本なら芸能人や保守政治家なんか殆ど全員死刑ですね。
イギリスでは1960年代までホモを罰する刑法が存在し普通の司法警察が取り締まっていた。
「鶴の恩返し」では有りませんが『決して見てはなりませぬ』言われると誰でもコッソリ覗きたくなるものです。
キリスト教の聖書の道徳を、法律に書いた結果が大変な事になる。
それで今でもイギリス人の男は一生のうちで一度はホモを試してみるし、十分一はホモになるらしい。

投稿: 逝きし世の面影 | 2008.09.30 14:25

こんにちは、せとさん。

>道徳的な問題提起に対しては全面的に賛成したいと思いますが、科学に対する道徳的なアプローチだけは賛成いたしかねる。

別に、賛成するも何も、ニセ科学批判は科学に対する道徳的アプローチなんかじゃないのです。「これは科学に対する道徳的ア゜ローチである」と決め込んで、私が動言葉を尽くしてもそこが変わらないのであれば、これ以上説明しても無駄なのでやめます。

せとさんに説明すると、わざわざ消防署の例を出したのは、消防署員が「消防署は報知器の訪問販売をしません」というのは、消防署の業務がいかにあるべきかを言いたいのではなく、社会に「消防署の方から来ました」と騙り報知器を売りつけようとする悪徳があるからにすぎないわけです。人間社会の問題ですから、当然、「こうやって人を騙すことは悪いことだ」という概念が根底にあるわけです。消防署員も社会の一員ですから社会に悪がはびこることは防ごうとするべきですから、まずとっかかりとして、「消防署は訪問販売しません」とあたかも消防署の業務説明のようなことを言うことで、社会的な悪である騙りの部分を明示しているにすぎないのです。ニセ科学批判も同じ事でして、まず、とっかかりとして「それは科学的なことではありません」と明示することで社会的な悪である騙りの部分を明示しようとしているにすぎないのです。

消防署の例の場合には、「消防署は訪問販売しません」と切り出すことで、悪質な訪問販売が振りまいた様々なイメージ、例えば、「この消防署員が売る報知器を買って付けないとばっせられるのかしら」とか「消防署が売るのだから、報知器としての性能は良いのだろう」とかいうイメージも全て「騙り」の範疇に含まれるわけです。全く居ないとは言いませんが「消防署の業務に悪徳商法対策が含まれてきたのだな」なんて思う人は稀です。

ところが、ことニセ科学の問題に関して言うと、我々のように自然科学の研究にたずさわっている者が「それは科学的な事ではありません」というと、「科学の話をしているのだな」と思いこむ人がいる結構居るわけです。本来、我々は、このとっかかりから、社会に対する「騙り・騙し」の部分を明示して批判しているにすぎないのです。

「水伝は道徳説話」という議論に関して言うと、「消防署の方から」に関する「方から」の言語論をやっているにすぎません。「方から」には「自分が消防署の関係者である」という紹介の場合もありますし、「消防署の立地する方角から」の意味もあります。訪販員は「自分は後者の意図で言ったのであり、消防署の関係者と思いこんだのは聞いた方の勝手だ」みたいな抜け道があるように見えます。しかし、実際にはこのような抜け道はありません。民事上の「詐欺・欺罔行為」というのは、言った人間の意図よりも聞いた人間の浮かべるイメージを社会通念に照らしてみるものだからです。「そのような状況で『消防署の方から』と言われれば、消防署の関係者と思いこむ事も十分ある」と社会通念から判断されるなら、それは民事上の「詐欺・欺罔行為」であるわけです。水伝を見ると、幾ら最初の提唱者が「ポエムです」と言おうと、読んだ人に「自然科学的なことなのかしら」と思わせるに充分な部分があります。つまり民事上の意味で「お話にすぎないものを科学的事象であると仮装している」訳で欺罔行為であるわけです。

投稿: 技術開発者 | 2008.10.01 08:35

技術開発者さん。
私のつたないコメントは読んで頂けなかった様ですね。
技術開発者の仰られている主張の内容が、なにも間違いであると指摘しているわけでは有りません。
其の逆で、主張は正しい。
ですから同じ事を何べんもお書きにならずとも、私だけでなくみなさんも、其の事は十分良く理解していると思いますよ。
私のコメントは、別の次元の内心の自由や宗教の自由、政教分離の話なんですよ。
時間軸で整理すると、
1)最初『水からの伝言』が科学である、と一般社会に紹介された。
2)科学的に正しいか間違っているかは検証すれば簡単に白黒が判ります。
3)検証の結果は勿論『科学的に間違いで有る』となる。
4)しかし科学論争としての『水からの伝言』論争は終結しても、信奉者達は科学的な検証結果を無視して宣伝活動する。
5)反科学的な宣伝活動に対して、科学者、有識者からの批判や啓蒙活動が行われる。
6)『水からの伝言』が科学的に正しくない(ニセ科学)ことを承知の上で、学校等教育現場への普及活動が一部の公教育関係者に因って行われようとしている。
7)何故ニセ科学として明らかな『水からの伝言』を学校現場に持ち込むのか。?と言えば、
文部省や自民党文教族(麻生や中山等)の道徳、宗教と「水からの科学」の主張が親和性が有るからです。
科学的に正しいからでは有りません。
其の逆で、科学的には間違い(矛盾)ではあっても彼等の主張とは矛盾しない。
8)現在、学校現場(科学)に対して、宗教、道徳を無理やり導入しようとしている。
9)「水からの伝言」は半世紀前から自民党政府によって始まっている、宗教や道徳の科学(教育)に対する侵犯行為の一環です。
10)全面的に勝利している科学の領域への侵犯行為(ゲリラ活動?テロ行為?)なので、正面切って『道徳である』とか『宗教で有る』とか名乗らず『科学』を詐称するのは、ある意味当然の行為です。

技術開発者さんの仰られている(3)4)5)は皆さん納得していると思いますよ。
統計をとってみたわけではないが、未だに『科学的に正しい』なんて、極一部の信者以外に誰も思っていませんよ。
そして、この極一部の信者達にとっては世間からの糾弾は、よりいっそう信心を深める結果になり逆効果。
カルト退治はなかなかに難しい。

今の私が問題にしているのは(6~10)の問題です。
『水からの伝言』をニセ科学で有ると糾弾しても懲りずに蔓延る原因は、『水からの伝言』が元々が宗教や道徳が科学を詐称しているものだからです。
いくら人間並みにブランド服を着ているからと言って犬に向かって『お前は犬だ。人間ではない。犬畜生だ』といってみても何の効き目も有りません。
この言葉は人間(間違った科学)には効き目は有りますが今回の場合には何の効き目もありません。
元々犬(ニセ科学)なんですよ。

投稿: 逝きし世の面影 | 2008.10.01 10:20

みなさんは気が付いていないようですが、
『水からの伝言』でも、ほんの少し表現を変えれば十分に『科学的に正しい』になるんですよ。
『美しい言葉が美しい結果(結晶)が得られる』と確定的に言うから宗教になるし、科学を詐称すれば『ニセ科学』と呼ばれる
しかし、これをほんの少し変換して、
『特定の条件が加わればで美しい言葉が美しい結果(結晶)を得られる事が有る』なら如何でしょう。?

美しい結晶が必ず確定的に出来るとするから、科学的に間違っている(ニセ科学)とされたが、確率的に出来る(たまに出来る)とすれば十分に科学的です。
そう、出来る時もあれば出来ない時も有る。
美しい言葉なら必ず汚い結晶になるも『水からの伝言』と同じで間違いです。
其の原因は美しい言葉と、結晶の間に関係が無いので、それで成功する時もあれば成功しない事も有るわけです。

『こんな簡単な違いに気が付かないはずが無い』と普通では思うんですが、何と驚くことにこの違いの判らない人が殆どなんですよ。
つい最近NHKが科学番組の時間枠で氷作りのウワ技として『熱湯の方が冷水より早く凍る』『温度の高い方が凍りやすい科学では未解明なムペンバ効果』『早く氷が欲しい時は熱湯を冷凍庫に入れれば良い』と放送。
実際にやってみれば誰でも判りますが、この放送は事実では有りません。
『水からの伝言』を批判している理科系のブログならニセ科学であるとする意見に賛成していただけると思ったんですが、事実は正反対。
何と、『科学的に有りうる』なんですよ。
理由は、『何らかの条件が加われば絶対に起こらないとはいえない。』
溜息しか出ませんね。
確定的な事例と確率的な事例とを混同しているだけではなく、この人たちは宗教と科学の違いも余り判っていないようです。
科学を宗教的に信じている人たちは、私たちが考えている以上に大勢いますよ。

投稿: 逝きし世の面影 | 2008.10.01 12:53

せとさん、お久しぶりです。

ちょこっと横レス失礼します。

>『特定の条件が加わればで美しい言葉が美しい結果(結晶)を得られる事が有る』なら如何でしょう。?

それでも科学とは言えません。
ある特定の条件を加われば、「必ず」美しい言葉が美しい結果が得られ、汚い言葉なら、「必ず」美しい結果が得られない、というのであれば科学的に真ですが、どんな条件を加えてもそんな事は起こせません。
ですから、「水伝」は、錬金術と同じく、どうこねくり回しても「科学」(金)にはなれません。

投稿: Looper | 2008.10.01 22:11

こんにちは、Looperさん。

ニセ科学批判の難しさの一つが、ニセ科学の一つ一つは異なる「欺き方」をしているという事にもあるんです。なんていうか、正しい道は少ないけど、誤った道は幾通りもあるわけです。「その道は誤っていますよ、あなたの目的地とは別なところに通じています」もあれば「その道は間違っていますよ、その先で行き止まりです」もあるといった感じですかね。

「ムペンバ効果」というのは「条件の揃い方の難易度の欺き」という意味でニセ科学です。ある特定の条件が揃うとお湯の方が早く凍る事もあり得ます。ただ、その条件を確実に揃えるのはとても困難です。逆にいい加減に条件を揃えても「たまたま条件に合致」という場合も生ずるので「確率論的」という言葉も出てくる訳です。「裏技」などという場合には、その揃えるのが難しい条件があたかも簡単に揃って普遍性があるかのごとくに言う言い方となりますから、その部分で人を欺いている訳ですね。

世の中には、こういうタイプのニセ科学を少し批判しただけで、「自分はニセ科学について理解した」と思って仕舞う人もいるわけです。水伝は「無関係要素の関係づけ」タイプのニセ科学ですからね。白玉と黒玉の当分に入った袋から5個取り出すときに、5回とも白玉あるいは黒玉となるというのは、普通の人が思うよりも頻度が高くて、がっこうの一クラスで各児童にやらせれば、1人か2人は出てもおかしくありません。その事例だけを取り上げて「特異な現象」と喧伝するのが「ムペンバ効果」だとすると、入れる袋が赤か黄色かで白玉や黒玉が出る確率が違うと言った事を言うのが水伝と考えれば良いかも知れませんね。

投稿: 技術開発者 | 2008.10.02 09:03

Looper さん。
仰られるように、「水伝」は科学ではありせん。
また私の主張(A)『特定の条件が加わればで美しい言葉が美しい結果(結晶)を得られる事が有る』は、
Looperさんの(B)ある特定の条件を加われば、「必ず」美しい言葉が美しい結果が得られる』にはなりませんね。
Aでは『・・・・事が有る』で確率論なので事実を断定していないので科学とか反科学とかの範疇には含まれません。
しかしBでは「・・・・得られる』と確定論となって断定しており事実(科学)と相違するのでニセ科学となる。
まあしかし、そんな細かい言葉遣いの議論以前に「水伝」は科学では有りません。
あれは宗教ですよ。
だから『ニセ科学である』といくら科学者が主張しても信奉している信者の連中には全く「ぬかに釘」効き目が無い。
しかも、相手が宗教なので批判する側も、なにやら宗教臭くなってくる。
それにしても宗教批判は難しい。
水伝騒動がわけがわからなくなるのは、神学論争だからしょう。神学論争の批判はいかなる形であれ、神学論争に取り込まれてしまう。
それが宗教の恐ろしいところだと思います。

「水伝」は自称科学者が『水からの伝言は科学である』と始めたらしいが、
誰か高名な聖職者、例えば清水寺の管主が『良い行いは必ず良い結果が訪れる、美しい言葉が美しい結果(結晶)を生みます』と説教を垂れても誰も文句は言わなかった筈です。
勿論どんな厳格な科学者でも、この高僧の説教は『ニセ科学で有る』何て野暮なことは言わない。
説教を聴く方も、説教の内容が『科学的に正しいか間違っているか』ではなく『宗教的、道徳的に善であるか悪であるか』にしか興味は無い。
科学的な正誤なんて最初から眼中に無いんですよ。
技術開発者さんも、もう少し冷静になって今一度『水からの伝言』を『果たして、その正体は何であろうか?』と考えてみるのも一つの方法です。
水からの伝言とは『美しい言葉が美しい結果(結晶)をつくる』話で、こんな物をニセ科学で有るとする理由が私には判らない。
何処から見ても典型的な宗教ですよ。
しかも宗教に科学論争を挑んだ段階で、宗教の神学論争に巻き込まれてしまっています。
そう、科学的な正しいか間違っているか(正誤)の範囲を超えて、「水伝はいかに悪であるか」とか(社会道徳的に)悪いとかの善悪(道徳)の話になっている。
科学を詐称する宗教である『水からの伝言』を批判する心算が、悲劇と言うか喜劇と言うか科学自身が宗教に近づいていますね。

投稿: 逝きし世の面影 | 2008.10.02 09:43

こんにちは、皆さん。

ニセ科学批判なんかをしていると、「思いこんで揺らがない」人というのが居ます。 逝きし世の面影さんも手を焼かれたことがある様ですが、「もっと自分の言っていることを真剣に聞いてください。聞けば分かるはずだから」なんてね(笑)。でもって、まあ、それなりに真面目に聞いてあげても間違っているから「間違っている」と言っているのに、「真剣に聞かないからだ」と判断される訳です。

そういえばどなたかも
>私のつたないコメントは読んで頂けなかった様ですね。
と自分の言いたいことが「間違っている」と言われるのは、「読んで貰えなかったに違いない」と判断されていますね。つまり、この根底には、「自分の言っている事は絶対的に正しいのだから、読んで貰えさえすれば、分からないハズはない、『正しい』と言って貰えないはずはない」があるわけです。すなわち、自分の確信している事に一毛の疑問も自らとしては疑問を差し挟む気はないという姿です。

中には「もっと勉強しなさいよ」という反応もありますね。つまり、「自分の言っている事は絶対的に正しいのだから、読んで『正しい』と言って貰えないはずはない、そうならないのは相手の知識思考が足りないからだ」となっている訳です。そういえば、どなたかも

>技術開発者さんも、もう少し冷静になって今一度『水からの伝言』を『果たして、その正体は何であろうか?』と考えてみるのも一つの方法です。

なんて書かれましたね(笑)。

なんというか、「自分が思いこんだ事は正しいのだ」という人の相手はとかく難しい訳です。ニセ科学は科学の普遍性に対する信頼をかすめ取ることで、成立するヨタ話にしかすぎません。それをまあ、なんとも「宗教だ」と思いこむというのもなかなスゴイ思いこみではありますね。

でもって、仮に宗教だとしても、科学の普遍性のイメージをかすめ取ろうとすれば、科学者は反発するでしょうね。たとえ相手が既存の宗教の高僧であっても、それは変わらない訳です。普通、自分がどうするか以外の話については、「本当にそうかな」という疑問がわき、書き方が多少は曖昧になったりするものですが、「思いこみ」に突き動かされていると、「人はこうする」と断定しますね。

どなたかが
>勿論どんな厳格な科学者でも、この高僧の説教は『ニセ科学で有る』何て野暮なことは言わない。

と他者である科学者の行為を予想的ではなく「断定調」でかかれていますでしょ(笑)。

なんていうかな、ニセ科学批判できを付けなくてはいけないことの一つに「批判者と信者しかいない」みたいな二元論に落ちこまない事なんです。私はロジャースの普及理論といった経済学的な話も持ち出して、批判者と信者の間に膨大な量の「どっちでもない人」がいる事を説明したりします。そして、その膨大な量の人の中には、普及理論で言うアーリーアダプター、つまり「これは科学的な事ではありませんよ」と言うだけで「そうか、嘘話なんだな」と分かってくれる層もいれば、そういう層がある程度「嘘話だよ」と言い出さないと「嘘話なのか」とならない、アーリーマジョリティやレイトマジョリティといつた層もいる訳です。もちろん最後まで「嘘話だな」とならないラガード層も居ます。そして、真に何かを普及したければ、アーリーアダプター層への働きかけをきちんとするべきだというのが、ロジャースの普及理論である訳ですね。そういう意味ではラガード層のことなどはなから問題にしていない面が私なんかにはあるのですが、人のやっている事の目的を「カルトの根絶だ」と思いこまれたりした人は、「そんなことでは意味がない」を絶対的真実として言い続けられる訳です。

どなたかも
>犬に向かって犬畜生と呼んで罵倒する様な、意味が有るのか無いのか判らない行為です。

なんて書かれて居ますでしょ(笑)。

投稿: 技術開発者 | 2008.10.02 13:18

Looperさん。
技術開発者さん。
逝きし世の面影 さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
毎日がバタバタしています。
なかなか新しいエントリーを書く時間もなく、
また頂いているコメントにお返事が出来なかったりと失礼をしていました。
が、
ここしばらくはネット環境復帰なので、
討論に参加させていただきますね。


Looperさん。
お久しぶりです。
お元気でいらっしゃいましたか?
コメントを頂けて、とても嬉しく思っています。
Looperさんや技術開発者さんは日々科学と向き合い研究されている方々ですから、通暁暢達のコメントはズバリ、核心なので、私もよく理解できます。

>ですから、「水伝」は、錬金術と同じく、
>どうこねくり回しても「科学」(金)にはなれません。


御意。
どうこねくりまわして周りを見ても「科学のかの字」も見当たりません。
それ以外の何者でもないですね、、、


技術開発者さん。
いつもながら分かりやすいたとえ話。
私自身はウウウウ〜〜〜ンンと唸りながら読み込んでいますよ。
閑話。
どうして、そんなたとえ話をスラスラと思いつくの?
って感じです♪
休題。
開発者さんから以前頂いたコメントを思い出しています。
「なんていうかな、こういう「本質的な意識喚起の方が大事で、その意識を阻害するような事はやるべきではない」と云われる皆さんの想定される人間は「とても理性的で合理的」なんだろうと思うわけです。私もできればそう思っていたい面はあるんですけどね。でも私が認識している人間というのは私も含めて「大きな不合理性の上に薄皮のような理性が乗っている」存在にすぎないんですね。」
http://ts.way-nifty.com/makura/2008/05/post_f9a0.htmlの開発者さんのコメント一部)

本当に、そうだと思います。
科学、科学と言っても、それだって日進月歩。
昨日の真理は今日は違う。
そんな薄皮の上にいながら、それを理解して、
そうLooperさんいわれるようにあらゆる面からこねくり回してまわして、それでも成果はほんの些細なものであるかもしれないが、
そんな積み重ねであることを、科学研究に携わっている方々は実感なさっているのだとお二人のコメントから伝わってきます。

と、言う事で。
さてさてさて
逝きし世の面影 。
頂いたコメント、何回も拝見いたしました。
結局面影さんが声を大にして仰りたかった事は、
「水伝は宗教である」と言う事だったのでしょうか???
科学(しかも立派な偽物)を装いながら、
人の生き方、行動にアレコレと口を挟む宗教である。
と、言うことなのでしょうか???

これに関しては私もそうだと思います。
開発者さんも、是と言われていますが、
ただ面影さんは、
さらにそこから「科学者なら宗教に口を挟むな」とも思われるコメントを多々書かれています。
これに関しては、
私は「おいおい。そりゃないだろう」と思いました。
私は政治家ではありませんが政治には意見をします。なぜなら生活に影響するから。
科学者はニセ科学を装った宗教には断乎異を唱えてしかるべきと思います。
なぜなら、本来の科学の足をひっぱるものであるから、いずれ禍根を残すことが分かっているから、
これに対して科学者が、科学の立場で異論を挙げてもなんら問題は無いと思います。

さらに面影さん。
開発者さんも言われているように「断定・決定」をズバリなさるのは、危険です。
物事にはいろんな側面があります。
面影さんは体験や経験が多く、それに裏打ちされたご意見は学ぶ事大です。
だがしかし、世の中広いし大きい(釈迦に説法かもしれませんが、今回はご容赦を)
面影さんは直近のコメントで以下のように言われる。
「水からの伝言とは『美しい言葉が美しい結果(結晶)をつくる』話で、こんな物をニセ科学で有るとする理由が私には判らない。
何処から見ても典型的な宗教ですよ。」と。

ううううううう〜〜〜〜
面影さん。
宗教ではなくて何処からみても詐欺・悪徳商法を行っている提唱者への批判をするべきと、
今、科学者研究者が立ち上がっているんですよ。

「科学を詐称する宗教である『水からの伝言』を批判する心算が、悲劇と言うか喜劇と言うか科学自身が宗教に近づいていますね。」

???????????
面影さぁ〜〜〜〜ん。
今回は水伝が教育現場に及ぼしていることを言及したのですが、
何回も書いているように、
水伝は、それだけではないのです。
この辺りについては、どうぞもう一度いろんなサイトやブログでご確認頂けると嬉しく思います。
宜しくお願いいたします。

ではまたご意見お待ちしています。

投稿: せとともこ | 2008.10.02 14:46

技術開発者さん、

大変分かりやすい例えの数々、せとさん同様感嘆して読ませていただきました。

>ニセ科学批判の難しさの一つが、ニセ科学の一つ一つは異なる「欺き方」をしているという事にもあるんです。

そうなんでしょうね。
その辺は、勉強させていただきたく思います。

逝きし世の面影さん、

>あれは宗教ですよ。

「信じたい」という気持ちは「宗教心」かもしれませんが、現実に、単純に宗教と片付けられないから問題になっているんだと思いますよ。

なぜなら、あの水伝は、「科学的」な実験という装いでデマを真実であるかのように欺きますよね。ですから、「科学的に証明されてるんだ~」と思ってしまう人がいる可能性は十分にあります。巷のエセ科学商売と全く同じ手法です。

そんな嘘を教師が教えたら、生徒がそれは「真実」「科学」だと誤解してしまう恐れが十分にあります。こんな嘘を見抜く力を育てることも教育のはずなのですから、これはまずいですよね。

また、そんな嘘を根拠に「言葉の大切さ」を説くのは、教育としてどうよ?という問題もあります。
そんなもの使わなくても、嘘じゃないまっとうな教材はいくらでもあるわけですからね。

だから、せとさんも教育現場にあれを持ち込むことを批判しているのですね。

つまり、あの水伝が、「実験で検証された科学的真実」であるかのような装いをしていなければ、疑似科学として批判する必要もありませんでしたし、本当に単純に宗教だったら、最初からこんな批判をする必要もなかったわけです。

投稿: Looper | 2008.10.02 17:32

こんにちは、せとさん。

なんていうかな、面影さんの言っている事でそれなりに理解はできる面があるんですよ。

>科学が、今の人類の文化の最高峰で『全ての物事の正誤の判定を独占的にしている』最高権威である。

実のところ、これは正しくは無いんです。そんなに大それたものではない。でもそういうイメージが科学に詳しくない人ほど強く持っておられるという事はあると思っています。我々に言わせると、それは我々の先人の科学者の努力によって築かれた「普遍性」のたまものなんです。普遍性なんて難しい言葉をつかうとわかりにくいけど「起こると予想された事は確かに誰がやっても起こるし、起こらないと予想された事は誰がやっても起こらない」みたいな確実性の事だと思ってください。その「確かさ」というのは、「発見者や開発者が、まず自分を疑う」という姿勢を持つことや、仲間内で厳しく揉んでからしか社会に出さないという事を守ってきた結果として信頼が得られている訳です。

消防署ばかり例にだして申し訳無いけど、消防署が火事の消火や防止に詳しいと信頼されているから、消防署を騙ると消火器や報知器が売れる訳です。それと同じで「科学的ですよ」と直接言おうと言うまいと「科学的なことなのかなぁ~」というイメージを喚起するだけで、「確実に起こることなんだろうなぁ~」と思って貰いやすくなる訳ですね。実のところニセ科学問題の基本はこの「信頼の剽窃」の部分にある訳です。私の仕事場の前は消防学校でしてね。訓練している姿がよく見えるんですよ。さすがに見えないけどバスなんかで乗り合わせた消防士さんのタマゴの人たちの話をそれとなく聞くと座学の勉強もしっかりやらされている感じですね。そういう努力の上で消防署の信頼が築かれていることを考えたら、その信頼を盗むという行為がいかに卑劣な事かは分かる訳です。

詐欺とか窃盗というのはもちろん自然科学の世界では無いわけです。ニセ科学批判というのが自然科学の正誤論なんかではなく、人間として、社会人として、対応すべき社会問題だというのは当然の事なんです。そういう根底の理屈を知る気もなく、上っ面で「科学の問題か」と思いついただけのことを、あたかも自分が「自分なりの正しい新たな視点を持っている、俺は偉いだろう」と
自説に固執されても、放っておくしかない訳です。

投稿: 技術開発者 | 2008.10.02 18:15

技術開発者さん。
色々と貴重なご意見や御注意、御教授頂き痛み入ります。
2008.10.02 09:43の私のコメントは時間差で『投稿: 技術開発者 | 2008.10.02 09:03』を読む前に書いて投稿したもので、読んでいれば全く違った内容になっていました。何か、大きな誤解をしてしまい大変失礼しました。

NHKが科学番組の時間枠でつくった『氷の早作りの裏技』として『熱湯の方が冷水より早く凍る、科学では未解明なムペンバ効果』
『早く氷が欲しい時は熱湯を冷凍庫に入れれば良い』との番組について、『再現出来無いのでニセ科学で有る』と書いたところ嫌がらせが山ほど送られてくる。
最初は『家庭用冷蔵庫で誰でも出来る裏技とNHKが言っているので再現実験に成功してからもう一度コメントを御願いします』と返事していたが内容が『NHKが嘘をつく筈が無い』的な低レベルで自分で実験し様なんて人物は誰もいない。
『自分で実験したが再現に失敗』との常識的なコメントは極少数で百人に一人もいないんですよ。
いや~あ。驚きました。
理由が解りません。
30分か1時間、自分で実験すれば誰でも解る程度の話ですよ。
何で時間をそんなに惜しむんですか。?
トンデモナイ量の罵倒コメントを読んでみると、この人達は本当に信じているらしいんですよ。
信じる理由が解らない。日本人がそれほどニセ科学に親和性が有るとも思えない。
それで日本人のメディアリテラシーに問題が有ると解釈したんですが、其の後『水からの伝言』をニセ科学で有ると告発していた幾つかの理科系ブログにコメントしてみると、殆どが『ニセ科学ではない』との返事。
ニセ科学を告発している理科系の人達なんですよ。こけそうになりました。
水が美しい言葉で美しい結晶が出来る話も、氷の早作り熱湯の話も水繋がりでどちらの再現性も限りなく低い同程度のインチキに思えるのは私だけでしょうか。?
どちらも、時には出来る事も有るが確実性は限りなくゼロに近いにも拘らず一方はニセ科学で一方は科学と主張する。
これを如何、解釈したらよいのでしょうか。?

実は、彼等が信じているものは『科学」でな無いのではないか。?
少なくとも、今まで自分が正しいと信じていた『科学』とは別物らしい。
これは科学に似ているが、科学ではなく『科学を宗教的に信じる科学教?』では無いのか。?
それならこの不思議な事実、現象とも合致する、と思ったわけです。
技術開発者 さんの前のコメントにはムペンバ効果への言及が無かったので『読んで頂けなかった様ですね』と書いたんですが、全くの誤解で、
『「ムペンバ効果」というのは「条件の揃い方の難易度の欺き」という意味でニセ科学です。』は感激。
久しぶりにマトモな科学的な意見が聞けました。地獄で仏ならぬニセ科学の山でほとけ。
みんなが言っている「水からの伝言」はニセ科学で有ると言っても、みんなが知らない初めて聞く『ムペンバ効果』は科学で有ると言い張る人達が大勢います。
しかもこの人たちの多くは自分では再現実験に成功していないんですよ。
理科系の学生で、自分が失敗しても『成功する可能性が有る』『科学で有る』と言いはる凄い人がいるんですよ。
この人たちを如何理解したらよいのでしょうか。?
今回の丁寧な説明のコメント。有難うございました。まだまだに日本にも『科学」を科学として理解している人達が大勢いると信じたいものです。

投稿: 逝きし世の面影 | 2008.10.02 18:27

こんにちは、皆さん。あちこちで書いたのだけど「社会の健常な保守性」なんて話をさせてください。

人間というのはけっこういろんな事を思いつくんですね。でも不幸なことに思いついたことの大半は「愚にもつかないこと」なんです。「思いつくな」といってもどうやら人間は思いつく様にできているみたいなので、「深入りせずに捨てる」という文化を育ててきたように思うんですね。つまり保守性です。将棋の名人がまだコンピューターに勝てるのは、「枝きり能力」のせいだといわれます。つまりある局面を予想したとき「味が悪い」とそこから先の読みを行わずに「味が良い」と思う局面に先読みを集中させることができるわけです。コンピューターはそういう「枝きり」が不得意で、全部の局面をかなり先まで分岐しながら読んでいくので、まだ人間に勝てないというわけです。

もともと社会は新規な説に対して保守的に「嘘だろ」と耳を傾けさえしないという傾向があったと思うんですね。私は「東京-大阪を3時間で結ぶ列車」なんて話を例にしますが、これは実際の話ではなく、あくまでたとえ話です。誰かが思いついてそういっても「嘘だろ」と相手にされないのが普通という社会があるわけですね。このままだと、実際にできるものも出来ませんよね。そこで出てくるのが科学者や技術者の集団である学協会です。ここでは、「3時間で走る」なんて信じてはもらえなくても「話だけは聴く」という保守性を崩した文化があるんです。でもって専門家が話を聴くと根拠の吟味ができるわけですね。「モーターはこのくらいの出力で・・・」「なるほど馬力的には可能だね」とか「線路は新たに線形のよいものをこういう風に・・・」「なるほど可能だね」なんてね。こうやって学者や技術者集団が納得すると、今度は集団で社会にアピールする面が出てくるわけです。「できます、誰々も彼々もできるといっています」「そうなの?」「理屈を聞く限りで来そうですね」「じゃあ、作ろう・・・」なんてね。

なんていうか、「科学者なら頭から否定せずにきちんと取り上げて考えろ」なんてね。これはこれで意味があるんです。私もそういう教えは受けました。でもね、それは世の中に溢れかえる「思いつき」に対してのものじゃないんです。きちんと根拠を添えて学会に出されたものに対しては、科学者の行動規範として、社会人として必要な保守性をいったん棚上げして、謙虚に根拠を吟味するというだけの話なんですね。

何が言いたいかというと、社会が保守的であるから科学者や学協会が保守性を棚上げする意味があるということなんです。社会が「思いつきはなんでも事実と思う」という文化になったのなら、科学者が保守性を棚上げする価値なんて何もないんです。むしろ「これもダメ、あれもダメ」と捨て役になる方が価値があるでしょう。でもね、それって将棋でいう全部読みなんですよ。おそろしく効率が悪いんです。

投稿: 技術開発者 | 2008.10.03 05:20

こんにちは、皆さん。連続になってしまって申し訳ない。

なんていうかな、 逝きし世の面影さんがちょっとしたニセ科学批判をしたときの世の中の反応に吃驚されているみたいだったので、上の話を書いてみた面があります。

考え方は単純です。人間は思いつく動物であり、そして思いつきでも何でも、一度「本当かも」と思いこむとなかなか後戻りできない生き物だということです。人間の基本仕様論で言うところの基本仕様ですね。でもね、それでは生き延びにくいんですよね。いつ間違った道に全員で突っ込んで行っちゃうか分からないからね。そこで、基本仕様に即した操作マニアルとしての文化が生まれる訳です。それは「きちんと考えよう」じゃあないんです。きちんと考えるができれば理想的だけど、人間の基本仕様がそうはなっていないからそういう文化じゃ成り立たないんです。どういう文化かというと「頭ごなしに否定する」という文化なんですよ。新しい事はとにかく否定する、とにかく受け入れまいとする、そういう文化、つまり保守性です。

しかし、社会が保守性のみだと進歩しなくなりますよね。それも困る訳です。そこで、ロジャースの普及理論におけるイノベーター(先駆的採用者)の部分を機能体化するわけです。「お前らだけは、保守性を捨てて確かめてみろ」みたいな機能体ですね。それが科学者や技術者であるわけです。こういうと格好良く見えるかも知れないけど、原始時代なら「食えるかも知れない茸をお前らまず、食ってみろ」という毒味役みたいなもんです。実際放射性障害の知識が分からなかったキュリー婦人は白血病で死んでますよね。でもってそういうイノベーターは自分で「思いつき」を確かめるだけでなく、「本当だ」と思ったら社会の比較的保守性の弱い人、つまりアーリーアダプター(初期少数採用者)に「これはどうやら本当ですよ」と伝える役割も受け持つわけです。アーリーアダプターが採用すると、やがてアーリーマジョリティ (初期多数採用者)、レイトマジョリティー(後期多数採用者)へと広がり、社会に新たな事が受け入れられる訳です。

理解して欲しいのは、これは文化でありその文化を前提としたシステムだと言うことです。人間の基本仕様が「食えるかもと思ったら毒茸かどうか考えずに食ってしまいかねない危うさ」をまずもっているので、「分からない茸は食うな」という保守性文化が生まれ、それではくえた茸を見逃すかも知れないから、おっちょこちょいを選んで「お前らだけは食え」とやる。でもって、おっちょこちょいが食って腹をこわさないのを見てからゆっくり全体で食い始めるというシステムなんです。

問題は、ここ数世紀のあいだ、おっちょこちょいがなかなか良い物を食って腹もこわさずに社会に提供したということなんです。そのために、社会が「保守性」というものを失い始めて、本来はおっちょこちよいたちだけにあった「おまえらはあまり保守的でなく色々食えよ」という規範が群れ全体に広がり始めていめ様に見える訳です。それは、とても怖い事だと思うんですね。

投稿: 技術開発者 | 2008.10.03 08:26

Looperさん。
逝きし世の面影さん。
技術開発者さん。
こんばんは。
示唆に富むコメントを頂きありがとうございます。
今日、午前中はいろんな仕事をしていたのですが、
とても素敵な年配の方に会い、
いろんな事を教えていただきました。
辛い事や苦しい事があったら、二倍得したと思いなさい、と言われ、その方のいろんな人生経験をお聞きして学んでいました。

またネットではネットで、こうして沢山の事を教えていただき、本当に嬉しく思っています。
とくに今回は私自身、大忙しで、書き込む事ができなかったのですが、それが却ってよくて、皆さんの蘊蓄あるお話をお聞きする事ができて、良かったなと思っているのです。
今更ながら有り難うございます。

今回のエントリーは、あまりに有名な(?)水伝がテーマだったので、
皆さんと共有している部分はありつつも、
その捉え方や対応が人それぞれ違う事を学びました。
また、Looperさん、面影さん、開発者さんの丁寧なコメントの数々から科学、宗教、道徳、教育と多岐に亘り考えさせられました。
開発者さんがいつも言われる「人間の仕様」についてまで改めて思いが至り、私としたら随分得した気分です。
同時に、納得や理解するために「言葉」を積み重ねていく有り様を教えていただき、本当に学びました。

極めて明快な事の、ほんの隙間にしのびよるものについて曖昧にしてはいけないんですね、、、


さて、Looperさん。
「また、そんな嘘を根拠に「言葉の大切さ」を説くのは、教育としてどうよ?という問題もあります。
そんなもの使わなくても、嘘じゃないまっとうな教材はいくらでもあるわけですからね。」
とのご指摘、本当にそうだと思います。
そのまっとうさを嫌がる教育行政がドンドン布かれていくのでしょうか?
十分、見ていく必要がありそうです。
「心のノート」は今は教材としては使っていないんでしょうか???
どうなのでしょう。
いずれにしても学校で道徳は大手を振っています。
フッ〜〜〜ため息です。
また、ご意見、アドバイス頂けるととても嬉しく思います。


逝きし世の面影さん。
まず、先のコメントで敬称を略してごめんなさい。
お名前を間違えてはいけないので、どなたのお名前もコピーするのです。
それで、うっかり敬称を忘れて失礼をしました。
また、コメントが承認制なので、
時間差が出てしまい、意思の疎通をはかるうえで少々問題があったようなので、これについても失礼をいたしました。
が、これに懲りずにまたコメントを頂けると嬉しく思います。
それにしても、数々のコメントを拝見しながら、
面影さんの拘りがなんだったのか、わかり、私としてはスッキリしました。
私自身、「ムペンバ効果」についてはよく分からないのですが、いつも頂くトラックバックや今回のコメントから、また勉強しなければと思いました。
機会があれば書きたいですが、今は当分、無理なので、、、
またいずれですね。


技術開発者さん。
直近の二つのコメント、身にしみました。
「生きやすさ」について以前頂いたコメントと重ねながら拝見しました。
なんだか人間て度し難く愚かで、
でもなんだか、、、可愛いものですね♪

では、またいろいろお教えくださいね。

投稿: せとともこ | 2008.10.03 18:30

こんにちは、せとさん。

なんていうか、「プロセス論」みたいなものがあるんですよ。昔、福知山線の事故の時に、「時間厳守の文化」みたいな話を議論したことがあるんですね。多くの人が「日本人は時間をきちんと守る。これは素晴らしい文化だ」みたいに誇りに思う訳です。ただ、時間厳守の文化というのは、一面、貧しさから生まれたものなんですね。例えば、鉄道の車両にゆとりがあって、どこかについた機関車が、折り返して出発するのに1時間ゆとりがあるなら、「時間通りに着かないと全体のダイヤが狂う」という意識は生まれない訳です。乗った乗客も例えば8時半に会社について、8時40分からは今日の朝礼とスケジュールがきちんと決められているから、「電車はきちんと時間通り駅についてよ、でないと朝礼に顔が出せないから」となってしまう。出勤時間こそ8じ30分でも、人と雑談をしているうちに9時になり「さあそろそろ千代憂いでもやるべえか」みたいなのんびりムードの会社なら、電車が10分遅れてもそうそう「なにやってんだ!」にはならない。なんてね(笑)。

なんていうか一つの文化の背景にその文化を必要とするものがきちんとあるわけです。そこまできちんと把握して欲しいんですね。「ムペンバ効果」に関して言うと「ニセ科学」というより「ニセ技術」と言う方が的確かも知れないんですけどね。いずれにしろ「世に出してはならない段階で出す」というのは、良くないのです。

 私は幾つかの分析法を世の中に送り出してきましたでしょ。でね、「たまにはうまく分析出来る」なんて段階が研究の途中にはあるんですね。理屈ではうまくいくはずだ、なんて理屈を作って、でもっていろいろとモデル試料を作って分析方法を作り上げていくよね。最初はうまく行かないんだけど、うまく行かない理由を考えてはそれを潰していくうちに、10回に1回くらいはうまく行ったりする時期というのがあるのね。うまくいかない障害を全部殺せて居ないんだけど、たまたま、幾つかの障害が発動しなかった訳ね。「理屈は間違っていなかった」と嬉しいんだけど、でも、そんないい加減な分析法を世の中には出せないよね。

実際、そういう「たまにはうまく行く」時期に、大学の先生とかが私の研究を聞きつけて「今、その分析データがなくて困って居るんだ。自分の試料を測ってみてくれ」なんて言われて試料が届く事もあるのね。でもね、「まだ開発段階ですから、もう少し待ってください」とお待ち願うよね。でもって、その後も苦労して「うまくいかない理由」を潰して「10回のうち9回は確実な値が出る」くらいにしてから、「まだ、開発段階で、確実な値とは言えないけど」という前振り付きで分析データをお出しする訳です。結局1年近く待って貰ったんだけどね(笑)。

なんていうかな、「10回のうち1回はうまくいく」段階というのは、科学的なというか理論的な可能性はある段階であって、「科学的に可能か」といえば「可能」ではあるのね。でも、技術という意味で世の中に出してはならない段階なんです。「ムペンバ効果」でいう、「お湯の方が水より早く凍る可能性」に関して言うと、科学的にあり得る」けど、それを「こうやれば良いですよ」と出してはならない段階ね。なぜなら、そんな特殊な事が起こる条件を揃えることが難しいからね。それをNHKが「裏技」として世の中に広げたのは、やはり問題なんです。

投稿: 技術開発者 | 2008.10.06 09:01

技術開発者さん。
こんにちは。
コメントありがとうございました。

私も面影さんの影響を受けて少し「ムペンバ効果」なるものを調べてみたいと思っています。
面影さんが声を大にして仰りたかったことも開発者さん、Looperさんと同じことなんだと考えています。
この間の皆さんのやり取りを拝見して、ちょっと結論や出口を急ぎすぎた自分への反省もあるのです。
時々で私自身が面影さんの仰る事を誤解した事もあり、スッキリと見えてこなかったのです。
が、
粘り強く対話をしてくださる開発者さんや面影さんには学ぶ事大でした。
科学と宗教、さらに社会的役割を見据えて問題意識を育てていく事って、難しいんですね、、、
私は「ムペンバ効果」は知らなかったのですが、
例えば原爆とか、あるいは水伝とか、あるいはプラセボとかとか、、、
そんなものに取り囲まれながら、生活していく中での情報のアレコレに振り回されます。

仰るように「なんていうか一つの文化の背景にその文化を必要とするものがきちんとあるわけです。」はその通りですね。
文化を牽引していくものも、やはりその文化圏の者であるということですよね。
必要なものが「生き残るのか?」
そして、それはやはり出来るだけ多くの集団に適用されるものでなければならないんでしょうね。
考えさせられます。

投稿: せとともこ | 2008.10.06 16:50

こんにちは、せとさん。少し変な話をしましょうか。

ニセ科学批判の旗頭みたいになっている大阪大学の菊池先生とブログでやりとりしていて、「我々は既に負けたところから始めている」なんて話をしたことがあるんですよね。これって実はとても大事な認識だと思っています。ニセ科学批判に興味を持って、自分も何らかの形で何かのニセ科学に対して「それってニセ科学だよ」をやり始めた人が直面する問題として「最初は簡単に問題を指摘すれば、皆、素直に『なんだニセなのか』と納得してくれるだろうと思っていたけど、現実は『面白がって居るんだから批判するな』とか『それでも、何か本当の部分は有るんだろ』とか言い出して、素直に納得してくれる人は本当に少ない」という事なんです。これを、私とか菊池さんは「負け戦から始めている」という言い方で言っている訳です。

もともと、人間は「吃驚するような話」が好きですし、そういう話には尾ひれが付きやすいものです。ましてや、その話が「周りの人もそれなりに少しはあると思っている」なんて状態になれば、まあ、そう簡単に「ヨタ話か」とはならないものなんです。でも、それだと社会が危なくて仕方ないんですね。全体で不合理な方向に暴走しかねない危うさがあるからね。だから、人類は「文化」として「ヨタ話を嫌う」という面を作り上げてきたんです。少なくとも公共の面前で「ヨタ話」をするものは「いい加減な奴であり、社会人として信頼に足らない」とされる程度の嫌悪感は有ったわけです。でもって、個人も「自分は本当かもと思って話そうとしているが、本当に大丈夫な話なのか」と自分がヨタ話をしてしまうことを禁忌する面が有ったわけです。問題は、その文化が崩れてきている訳です。TVのようなマスコミが「受ける話なら、何でも良いから取り上げよう」と取り上げる、つまり禁忌感を失っている訳です。そしてその話を視聴する視聴者も「面白いから、ヨタ話でも良い」ともてはやす。そこには、むき出しの人間の欲望があるだけで、それを制御しようとする文化は崩壊している訳です。

だからこそ、我々は「負け戦から始めている」と認識しなくてはならないのですよ。我々はもはや社会にあった「ヨタ話を嫌う」という文化に頼ることはできないんです。その文化を再構築しながら「ヨタ話だよ」をやっていくしか無いと言うことなんです。

投稿: 技術開発者 | 2008.10.07 08:31

読売テレビがこの問題で女性校長会に取材しようとしたがノーコメント。当該の自治体や教育委員会の方もノーコメントらしい。
科学的に『水からの伝言』がマズイとは少しは自覚しているようです。
ニセ科学と自覚しないで(科学として信じて)やったら単なる無知から来る過失ですが、自覚が有ってそれでも実行している所にこの問題の重要部分が隠されているのではないでしょうか。?

私のコメントに対する瀬戸さんの『「科学者なら宗教に口を挟むな」とも思われるコメントを多々書かれています。』は全くの誤解です。

「科学者なら宗教に口を挟むな」何て何処にも一言も有りません。
何故そのように解釈されてしまったのか。?
私の意見は全くの反対です。
欧米でも日本でも、科学者が宗教を批判する事は憚られることとされています。
ですから普通科学者は『ニセ科学批判』はしても宗教批判をしません。
私の主張は、科学者こそ宗教批判の戦闘(先頭と書くつもりの誤変換ですがこちらの方が正しいかも)に立ち上がるべきである。
どれ程奇怪な考えでも個人の脳内に止まっている範囲では問題ではない。
個人の内心は犯すべきでない聖域です。
しかし社会に彷徨い出でて政治や科学にくちばしを入れそうな段階で、宗教批判を躊躇うのは犯罪的な誤りである。
欧米では科学者のリチャード・ドーキンスやカール・セーガンが正面切って宗教批判(キリスト教批判)をしていますが日本では大槻義彦がオカルト超能力批判をしているぐらいで一流の科学者で誰も宗教を正面から批判するものはいない。
政治を語るブログで当方は数少ない宗教のカテゴリーを設けています。読者は少ないようですが読んでいただければ誤解であると解ってもらえると思います。

聖書で読むアメリカ(続) 宗教 / 2008年06月05日
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/2fb1300f6b094e503f5e06d2bc12f693

私の意見は『宗教で有るから批判すべきでなない』では無く、水からの伝言はニセ科学程度の代物ではなく『科学を偽装した宗教であるからもっと徹底的に、その犯罪性を追及するべきでる』です。宗教はニセ科学より強敵です。

『水からの伝言』は100%ニセ科学か。?
もちろん「水からの伝言」がニセ科学で有るのは誰にでも判りますが、何故それなら未だに科学の現場であるはずの学校に持ち込まれ様とするかの疑問には答えられない。
あれは多分、ニセ科学は上っ面の鍍金で中身は別物かもしれない。
どんなものでも境界線の不思議な代物はいくらでも有ります。
水伝は「ニセ化学」でも有るし「ニセ宗教」でも有り「道徳モドキ」でも有る、が正解ではないでしょうか。
日本では、各種のウイルスで発症する風邪に対して、細菌に効き目が有る抗生物質を多用する傾向が有るようですが其れが抗生物質に対する耐性菌を生む結果をまねいている。
細菌とウイルスを一緒くたにして対処する方法は感心しません。それぞれにはそれぞれの対処法が違い正しい方法で行わなければ成らない。
『水からの伝言』はニセ科学であると共にニセ宗教あるいは偽装道徳で、純粋なニセ科学批判一本やりでは効果は薄いのではないかと心配しています。。


投稿: 逝きし世の面影 | 2008.10.08 17:55

こんにちは、せとさん。

少し科学と宗教の事を書いて見ましょうか。私は或る意味で信仰を持っている訳です。創造主もいると思っています。ただ、私の持っている信仰は理神論に分類される訳です。「神は自然法則を定め賜うことによって、宇宙と人類を作られた」という考え方ですね。科学は自然法則を明らかにします。でも誰か何のために自然法則を作ったかは考えません。実のところ、そこに科学と宗教の並立出来る可能性があるわけです。自然法則とか自然のなりたちをどれ程解き明かしても神の意志に近づくことができるかどうかは分かりませんが、ひょっとしたら、多生は近づけるかも知れません。

私のような理神論者は、例えばインテリジェントデザイン説を唱える人を、科学的というわけでは無く、私の信仰に反する邪説を唱える邪教として宗教的に批判する事ができるわけです。なぜなら、偉大なる神は「宇宙に生命が発生する様に自然法則を定めることで生命を発生させ、進化が起こるように自然法則を定めることで生命を進化させた」と考えるのが理神論だからです。自然法則の否定はそのまま、理神論的な神の能力の否定となる訳ですね(笑)。

そういう意味では、水伝も同じ事でしょうね。偉大なる神は水が意識を持たない様に自然法則を定められたのに、それを否定する訳ですからね。

とまあ、変な事を書きましたが、別に理神論の宣伝をしたいという事ではなくて、宗教というものを「自分が見ている宗教がこうだから宗教とはこういうものだ」と限定して考え、それ以外の宗教観を認めず、「自分の考える科学と宗教の関係こそ絶対である」とお考えのどなたかの言説へ皮肉の一つも書いて見ただけのことではあります(笑)。

投稿: 技術開発者 | 2008.10.09 17:29

逝きし世の面影 さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
今、大忙しで(と、言うか、いつもバタバタしています)で、お返事遅くなり失礼をいたしました。

では、早速ですが頂いたコメントご一緒しましょう。


>ニセ科学と自覚しないで(科学として信じて)
>やったら単なる無知から来る過失ですが、
>自覚が有ってそれでも実行している所に
>この問題の重要部分が隠されているのでは
>ないでしょうか。?

はい
私も確信犯かな、、、と思います。

>私のコメントに対する瀬戸さんの
>『「科学者なら宗教に口を挟むな」とも思われる
>コメントを多々書かれています。』は全くの
>誤解です。


はい。
失礼をいたしました。
その後頂いたコメントを拝見して了解。
開発者さん、Looperさん、それに末席ながら私。
みんな面影さんと同じように「水伝」に関しては理解しているものと思います。

>「科学者なら宗教に口を挟むな」何て何処にも
>一言も有りません。
>何故そのように解釈されてしまったのか。?

「科学が道徳に介入してはいけないし、道徳は科学に介入してはいけない。」と9月30日のコメントで頂き、その後の宗教と科学についてのお考えを拝見させていただき、そのように感じたのです。
ただ、これは感じた事であって、
「そうではない、むしろ全く反対であると主張している」ことをその後、納得しましたので、
私の誤読と受け取ってください。

面影さんが以下に書かれていることはまことそのとおりです。
「欧米でも日本でも、科学者が宗教を批判する事は憚られることとされています。
ですから普通科学者は『ニセ科学批判』はしても宗教批判をしません。
私の主張は、科学者こそ宗教批判の戦闘(先頭と書くつもりの誤変換ですがこちらの方が正しいかも)に立ち上がるべきである。
どれ程奇怪な考えでも個人の脳内に止まっている範囲では問題ではない。
個人の内心は犯すべきでない聖域です。」


さてさて、以下の部分は未だ理解が及びません。

「しかし社会に彷徨い出でて政治や科学にくちばしを入れそうな段階で、宗教批判を躊躇うのは犯罪的な誤りである。」

??????????


『水からの伝言』はニセ科学であると共にニセ宗教あるいは偽装道徳で、純粋なニセ科学批判一本やりでは効果は薄いのではないかと心配しています。。


との最後のまとめ。
はい。
そうです。
だからこそ、科学者や心ある宗教家、教育者ともに手をとりあって行く必要を感じています。

なかなか難しい問題ではありますが、
息長く取り組んでいきましょうね♪
では、、、また。


投稿: せとともこ | 2008.10.10 10:59

技術開発者さん。
こんにちは。

理神論!!!
凄くわかります。
「偉大なる神は「宇宙に生命が発生する様に自然法則を定めることで生命を発生させ、進化が起こるように自然法則を定めることで生命を進化させた」と考えるのが理神論だからです。自然法則の否定はそのまま、理神論的な神の能力の否定となる訳ですね」

はい。
神と言う名の自然法則と言うか「ありのまま」「そのもの」と言うか、、、
深遠な法則や一糸乱れぬ規則と、その間のゆらぎ。
それさえも、ある意味合理的であるということでしょうか???

なんだか、、、
広く深く、そして大きい世界に入り込んだようで
ワクワクしています。
是非ぜひ理神論のお話聞かせてください。
興味は尽きませんので、、、
楽しみにしてます♪

投稿: せとともこ | 2008.10.10 11:06

こんにちは、せとさん。

>広く深く、そして大きい世界に入り込んだようで
>ワクワクしています。
>是非ぜひ理神論のお話聞かせてください。
>興味は尽きませんので、、、

なんだか、横道の話題を振ってしまいましたかねぇ(笑)。

もともと、私が完全に理神論者かというと少し違う面はあるんですが、インテリジェントデザイン論者なんかと議論していると、まあ、広義には理神論に含まれるタイプの信仰心があるわけです。

人には「自分に価値があると思いたい」という意識がどうしてもあるわけで、「人類は偶然の産物だよ」なんて考え方は、あまり受け入れたく無い部分が有るんじゃないかと思うんですね。それが、インテリジェントデザイン説なんかを生み出しているわけです。

例えばね、せとさんが、年末に買い物をされて、福引き券で抽選器を回したら、金色の玉がでてきて、地デジテレビの大きいのがあたったとしましょうか?せとさんは喜んでおうちに持って帰って、紅白とかのお正月番組を楽しまれるとしますね。

せとさんに金色の玉が出たのは偶然です。商店街の大将が「せとさんに当ててもらおう」としてイカサマをやった訳ではないんですね。でもね、抽選器の中に大将が金色の玉を入れるとき、「誰かに当たって、当たった人が、このTVでお正月を楽しく過ごしてくれたらいいな」と願いながら入れたかも知れないでしょ。そういう大将の思いがあり、偶然にでも自分に当たったなら、素直に喜んでTVをみれば良いんじゃないですかね。なにも大将がエコヒイキして自分に当てるようにしてくれなくても、自分は充分に特別な存在であり得るんじゃないですかね(笑)。

なんていうかな、人は「存在理由」に対してなんらかの慰謝が必要な生き物なんですよね。だから、私は「あなたは価値のある特別な存在ですよ」という事を言うのを否定はしない。ただ、それを言わんが為に、自然法則をねじ曲げる必要なんてどこにもないのだろうと思うんです。神が「そうなるように自然法則を定めたんですよ」で充分な慰謝となりえると思っています。それ以上の特別な存在に成りたいのは、まあ、私に言わせるとワガママですね(笑)。

投稿: 技術開発者 | 2008.10.10 13:06

こんにちは、せとさん。もう少し書きましょうかね。

まず神は自然法則を定めることでビックバンが起こり宇宙ができるようにしたと考えます。

さらに神は自然法則を定めるときに、非常に特殊な条件が重なったとき「生命が誕生する」という条件を書き込んでおいたと考えます(当たりの玉を抽選器の中に入れておいたのですよ)。宇宙の沢山の星の中には、その条件をみたすものも生まれます。こうして地球という星に生命は誕生した訳です(当たりの玉が出た訳ですね、この地球にね)。

さらに続くのですよ、神の定めた自然法則の中には「誕生した生命が複雑化する方向に進化する」という事が書き込んであつたわけです。だから、地球に誕生した生命は複雑化する方向に進化した訳です。

まださらに続きます。神の定めた自然法則の中には「進化の過程で形而上学的な思考ができる理性が発生する」という当たりの玉も入れてあった訳です。だから地球に発生して、進化する途中に生まれた人類には「知性が発生した」訳です。そして、その知性は「様々なことを知りたい」と思うようになっています。おそらく知性がそのように知識を求めるのも、そのようになるように、神の定めた自然法則の中にそういう方向性をもたらす何かがあったのだろうと思うんですね。

だからね、皆さん人類は「特別な存在」なんですよ。その神が定めたもうた法則により知性を持った事を大事にして欲しいんですね。

ここから先は、「だろう」ですけどね。たぶんね、知性も変化するように定められているのじゃないかと思ったりするんですよ。私の知る人類の歴史の中でも知性は変化しているからね。もっともっと変化というか進化するんだろうと思うんです。途中で滅びさえしなければだけどね。

投稿: 技術開発者 | 2008.10.10 16:58

技術開発者さん。
こんにちは。
コメント頂きながら、連休は掃除、そうじで明け暮れていました。
先日は産総研のロボットをみてきました。
とても面白かったですよ♪

さて、優しい言葉の中に教えられる事大のコメントを頂きながらお返事遅くなり失礼いたしました。

>人は「存在理由」に対してなんらかの慰謝が必要な生き物なんですよね。だから、私は「あなたは価値のある特別な存在ですよ」という事を言うのを否定はしない。

はい。
とてもよく判ります。
存在理由を求めてなんと多くの先人たちが文学に芸術に手哲学にと学問の道を啓いてきたことか、、、
そしておっしゃるとおり、
それを通さんが為に「事実」をねじまげる噴飯ものが出てくる事も、ある意味「織り込み」なのでしょうか???
そして、そんなバランスと淘汰の末、知性が進化していくのかもしれませんね、、、

奥は深く、裾野は広い。
楽しい限りではないですか♪
ねぇ、開発者さん。

では、、、またね!

投稿: せとともこ | 2008.10.14 17:21

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受信: 2008.09.29 18:17

» ためしてガッテンNHKムペンバ効果成功のコツ(裏技の裏技) [逝きし世の面影]
NHKの番組ためしてガッテンでは、常識逆転! お湯は水より早く凍る、として『誰にでも出来る裏技』として、次の様に説明しています。 「驚きの氷早作り技」 急に氷が必要になったとき、氷をもっと早く作る方法はないものでしょうか? 常識逆転! お湯は水より早く凍る ※ご注意:お湯は熱いほど早く凍りますが、やけどには十分ご注意ください! (となっている) しかし裏技の成功例は限りなく低く、このNHKの裏技(ムペンバ効果)を成功させるためには、下記の別の『裏技の裏技』が必要です。 裏技を成功さ... [続きを読む]

受信: 2008.09.29 18:18

» 「水伝、教育現場に導入」(2)…怒りの矛先は何処? [dr.stoneflyの戯れ言]
 水伝(2)を書こうと思っているのだが、どうも混乱している。考えがまとまらず、何を書いていいのか解らない。この混乱は前の「水伝」エントリーから始まっていて、コメント欄では愚樵選手の剣先が茹だった脳みそに突き刺さる。  で、じっくりこの混乱が何なのかを考えることから始めたい。この混乱はワタシだけの問題かもしれないので、自明な方は笑ってくれ給え(爆)... [続きを読む]

受信: 2008.10.02 13:56

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