このところ訪問していなかった内田さんのブログ、
またまた内田節、全開、ブイブイ言わせています。
人を見る目と言う直近のエントリーがソレ。
読んでの感想は「あらあら、、、内田さん」と、いつものソレでした。
が、
が、
このところ、学校道徳に水伝や、あるいは以前、ちょっと取りざたされた江原さん大学講義やらやら、
教育の現場に「見えないもの」を有り難がたがろうと言う流れがある中での、
今回の内田さんのエントリーはチョイト危惧を覚えます。
と、言う事で、
久しぶりに内田さんにお付きあいさせていただきましょう。
まずつかみとして、山形浩生さんが毎日新聞に書いた文章を引用。
「ノーベル賞に比肩するような世界的な賞を作ってみてはどうだろうか?」と提案しつつも日本では賞が絡むと政治(ロビイング)が絡むから無理だろうし、それ日本の抱える問題である」と言っているようです(原文をまだ読んでいないので内田さんの引用文から要約)。
さて、ここからが内田節の展開となるのです。
山形さんを受けて、すぐに内田さんは以下のように書く。
「私たちの社会のたいへん深刻な問題のひとつは「人を見る目」を私たちが失ってしまったということである。」と。
ううううううう====ん。
山形さんは「人を見る目について云々」しようと思ったのだろうか?
百歩譲って、山形さんが「人を見る目」を話題にしようと思ったとしても、
それは、内田さんが後から展開するソレとは違うでしょう。
山形さんは、
科学の功績に対して、評価を下す立場の人間は、科学に通じていなければならない事はもとより、水面下のロビイングにも確固とした態度を保つ事が必要であると言われているのではないでしょうか?
決して、内田さんのように、「個人の力量や能力を計る為の「人を見る目」(内田さんの言葉を借りて)が養われていない事を憂いている」のではありません。
と、言う事で、
まず引用の山形さんの文に関して、内田さんと袂を分ちながら、、、(保留として)
では、次に進みましょう。
内田さんは、
人が以前は持っていたであろう「人を見る目」がアメリカン・グローバリズムの到来とともに消失したと述べます。
ここで、内田さんはまず「グローバリズムとは何か」を説明。
その定義は、
「誰にでもわかるもの」を基準にして、すべての価値を考量することであるそうです。
そして、
〜〜「わかる人にはわかるが、わからない人にはわからない」ようなものは、グローバリズムの風土では「存在しないし、存在してはならない」のである。〜〜と断言。
うううう〜〜〜〜ん。
アメリカン・グローバリズムとは、
「わかる人にはわかるが、わからない人にはわからない」ようなものは、グローバリズムの風土では「存在しないし、存在してはならない」ものであるとのこと。
初めて知りました。
ええええ???
本当かよ???
いえいえ。違うでしょう。
ただ、本エントリーはここはサラリと流してあるので、私もこれにはあまり拘らずに次へと進みます。
内田さんの説によれば「グローバリズムの到来で、存在しないものを感知する能力が欠落。形あるもの、数字で表されるもののみが意味を持つようになった」と述べています。
そして、
「evidence で基礎づけられないものは「存在しない」と信じ込むのは典型的な無知のかたちである。」と述べ、
顕微鏡のミクロの世界へと私たちを誘っていきます。
「見えないものでもあるんだよ、、、と言う態度が科学的態度であり、そこから現代科学は開けた」とも言います。
そして、
そして、、、
この後に続く文が、ダンダンと怪しくなってきます。
「私たちの現在の自然科学では、「未来はわからない」ということになっている。」
↓(順接)
「「人がなしたこと」については評価は可能だが、「人がこれからなすこと」についての評価は不可能であるということになっている。」
↓(逆接)
「「人がこれからなすこと」については現に高い確率でそれを言い当てている人が存在する。
「人を見る目がある人」というのは、まさにそのような人のことである。」
↓(順接)
「「『超能力』や『霊能力』のようなものは現に存在する」
とここで閑話が入ります。
この閑話がまたスゴイ。
頭クラクラします。
内田さんって大学教員だったよね???
と、思わず確認している私。
閑話休題後、
内田さんは、
「超能力や霊能力」を「推理する力」と言い、
それは何も超自然ではないと述べます。
そして、あろうことかホームズを例に挙げています。
あらあら、、、
内田さん。
分かっているんですね。と思う私。
つまり、
人を見る目とは、未来を見ることが出来る力ではなく、
与えられた材料から押しはかる力であることを内田さんご自身が言われています。
と、言う事でツラツラとここまで見ていくと、
これだけを言う為に何も大仰にノーベル賞や自然科学を持ち出す必要はない。
にも関わらず、
そうせざるを得ない所が内田さん。
内田さんにかかっては、未知の領域はすべて「存在するもの」「仮定」としてありうるものになるのですね、、、
思い出します「おむつ論争」。
あの折りも、未だ確立していない三砂さんのおむつ論から始まり、フェミニズムにまで走りましたねぇ〜〜〜〜
唖然・呆然でした、、、
まぁ、
ここまでくるとやはり「内田節」。
本気でアレコレ言う事も無いのかもしれません。
が、
やはり、最後の結論にはもの申す必要ありかな、、と感じます。
内田さんの結論をそのまま引用。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「「見えないはずのもの」が私たちには現に見えている、ということである。
その「直観」の構造を解明しようとして、先人たちはたいへんなご苦労をされてきた。
私はその先哲の偉業を多とし、せめて「人を見る目」の涵養プログラムくらいは学校教育に取り入れたいと念じているのである。」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
うううううう〜〜〜〜〜ん。
これは、ちょっと、ちょっとですね、内田さん。
ここで言う涵養プログラムとは具体的にどのようなものをイメージしているのでしょう?
少なくとも先に「人を見る目」とは推理であると言いながら、
直感に逃げ込み、さらにその直感を鍛えよ、と言う内田さん。
あらっ〜〜〜〜〜
一体、この文の流れはどうなっているんだろう?????
と、結論のあまりの唐突さに「今までのアレコレはなんだったのか?」と思いながら首を傾げます。
ガック。
ご自分で、ご自分の考えて来た論理の流れをメチャクチャに壊して、
最後の結論が、
「山形さんの悲観的見通しに与するならば、これもまた不可能な企てのようである。」とは。
山形さんもダシに使われたようですね。
山形さんが仰りたかったことは、
先にも書いたように「評価・判断する側の能力向上」であり、それは、科学にも通じていくものです。
山形さんが言われると言う「みえざるもの」を判断する力は「あるもの」なのですよね。(本当に山形さんがそのような意向をお持ちかは引用文を何回読んでも未だ分からないのですが、、、)
つまり、
人を判断する材料として、それまでの経験とか、それまでの考えとか、あるいはその人の将来に対しての考え方とかとか、、、評価するものはちゃんと存在しているのです。
一方、
内田さんの結論は一見、学問の装いをしながら直感に逃げ込み、神秘に場を譲るもの、
つまり「科学」を閉ざすものであり、180度違うものではないかと危惧を表明します。
とは言え、
内田さんの雑で乱暴な意見から離れて、
私は個人的には、人の潜在能力に関しては一考するべきものとは考えています。
ヒトから人間へと高度に精神を鍛え発達して来た私たちは、
複雑で巧妙な「暗示と被暗示」の構造を作り出し、社会空間を作ってきました。
宗教(宗教は教えであると私は思うのです)や哲学、倫理学など社会科学が、学校教育の中で丁寧に重層的に接する事ができるならば、それはそれで是と考えます。
未知のものを神秘や霊に置き換えることではなく、
人の潜在力としての「未知を感じる力」に対しては否定する者ではありません。
だがしかし、教育の現場で殊更に取り扱うものでは無いだろうと思います。
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