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2008.11.03

大阪橋下知事の言説アレコレ

憲法公布の今日と言う事で、憲法を中心に見ています。
憲法を勉強すればするほど、、色々調べるほどに、
大阪府知事の発言が如何にメチャクチャかと浮き彫りにされてきます。

「国旗・国歌意識すべき」橋下知事、高校生に訴えと言うニニュースは11月2日、工業高校生ら約900人を前にあいさつし、「社会を意識しようと思えば、国旗とか国歌も意識せねばならない」と述べたと伝えています。

うううう====ん。
個人的には日の丸にも君が代にもアレコレは思いませんが、
教育現場での日の丸や君が代、そして先へとつながるものには危惧を表明します。

そもそも、
学校教育現場に「日の丸・君が代」が入り込んで来たのは昭和天皇逝去直後のことです。
国民統合の象徴としての機能を今上天皇プラス日の丸・君が代とすることで、国への帰属意識を強めようと計りました。
愛国心教育とセットで導入する事で、「こころ」を統合しようとしつつ、一方では、
学校選択制や副校長設置など管理体制増強、教員免許更新制、学校評価など一つ一つを分断孤立の政策も使い分けながら教育の現場に国がもの申す時代になってきました。

ただ、
これを見て、政府が即、戦前への復古主義を計ろうとしているのかと言うとそうではありません。
錯覚しやすいのですが、むしろ背景は新自由主義です。
実はこの愛国主義は国民を労働者として企業への忠誠を強いる為の手っ取り早い方法と見られています。
また、文化や伝統と言う言葉をちりばめる事で国民の心を纏めていく狙いです。

深刻な社会の分裂と解体。
このとき、必要なのは新自由主義的な構造改革を教育の現場からまず行う事でした。

またまた橋下知事登場ですが、橋下知事vs高校生「私学助成金削減」に賛否両論などテレビやネットでも話題になりました。
私学助成の問題から公立と私立の学校間格差は授業料だけでなく成績・偏差値の格差でもあることが映し出されていました。
そして、成績の格差の背景には少なからず保護者の経済力によることは周知の事実です。
私もこの間、大学の授業の値上がりを何回も話題にしましたが、折りに触れて、教育の格差と親の経済力に付いて触れてきました。
学校選択制や公立・私立の問題が、子ども自らが選択していったように語り、子どもにその選択を諦め、受け入れることを強いいる事は、擬制ではないでしょうか?
弁護士である橋下知事が、それを知らない訳はない。
にもかかわらず、高校生に向かって、あのように大雑把で乱暴な論理を展開するのは確信犯とも言えようかと思います。
学校評価や教員評価、全国テスト成績開陳などなど、をふんだんに現場に組み込む事で、大阪はいよいよ日本国憲法の精神からはずれていくのでしょうか?
新教育基本法でさえ前文に「日本国憲法の精神にのっとり」と謳い、現憲法との順接を示しています。(憲法学者は、この文言は同法全体の違憲性隠蔽の免罪符と見ているようですが、それでもこの文言を加えなければならないほど、現憲法は優れているということです)
ここで言う日本国憲法の精神とは、
勿論、教育を受ける権利のことです。
と、言う事で、今後の大阪から目が離せません。

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コメント

こんにちは、せとさん。たまには陽明学の話をしましょうか?

愛国心とかの話の時に私が話すのは「頭目をかばうに手をもってする。頭目を愛し手を悪むに非ず」「禽獣を養うに草木を持ってする。禽獣を愛し草木を悪むに非ず」なんて言葉なんですね。

頭に何か落ちかかってきたら、何も考えずに手で払いのけたり手で頭をかばったりしますでしょ。だからといって、その時「頭の方が大事だ手なんてどうなっても良い」と思っている訳ではないでしょ(笑)。

この話は、家の家族が食べ物を持って帰る時に路傍で物乞いに食を乞われたら、施しをせずに家族に持って帰る。家族を愛するのではあるが、路傍の人を悪むのではない。みたいに続くんですね。

なんていうかな、人の情には天然自然な傾斜があるのが当然なんですね。手を憎まなくても頭や目をかばうみたいに、家族が飢えていれば他人である路傍の人に食べ物は施せない。でもそれは路傍の人を憎むということではない訳です。

この天然自然な傾斜はもっと広く考えても存在する訳です。顔見知りの近所の人は顔も知らぬ隣町の人よりも心を配りやすいですし、同じ方言を話し同じ風景・風土の中で育った同郷者は違う方言を話し、違う風景・風土の中で育った人よりも心を開きやすい。でもね、それは、異郷者を憎むと言うことでは無いのですよ。

その情の傾斜の先に同じ国で同じ言葉を共有しながら生まれ育った者同士と違う言語、違う文化の中で育った者との間には違いがあるというだけだとお話するわけです。それは天然自然な情の傾斜であり、そこにあるのは「より愛おしい」だけであり、「より嫌い」ではないということです。

なんていうかな、本来の愛国心というのはそういう情の傾斜の現れに過ぎないものなんですね。或る意味で言うなら、日本国旗よりも、同じ町内で同じ法被をきて担いだお御輿の方が「尊い」と感じて当然だという事なんです。国旗よりもお神輿が尊いからと言って、それは別に国旗を憎むという事でも無い。

結局の所、こういう天然自然な情というのがわからなく成って居るんじゃないかと思うんですよ。家族を愛し、町内を愛し、地域を愛する意識の延長線上にあるものとしての愛国心というのが天然自然なものなんですね。

投稿: 技術開発者 | 2008.11.04 10:05

戦前の異常は別にして、愛国心はどんどん低下してるんでしょうか?低下の原因が教育でしょうか? なぜ愛県心・愛都市心でもなく愛地球心でもなく、愛国心でなくてはいけないんでしょうか?
県の旗ですら知らない人が多いのに・・・。日の丸はほとんどみんなすでに知ってますよね。

どうもよくわかんないです。

投稿: あゆ | 2008.11.04 10:34

技術開発者さん。
あゆさん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。

技術開発者さん。
いつもながらとても分かりやすい譬え話。
大いに納得です。
本当に仰るように、
ことさらに愛国心なんて言わないでも、天然自然の情として国を愛するきもちって誰でもあるんだと思います。
そしてそれが、他国を憎むと言うのではない。
と、言う事も。

今、学校でなされようとする愛国心は、そうした意味でも危険を感じる私です。
いずれにしても、この問題、今後もしっかりと考えていこうと思います。
その折はおつきあいくださいね。
では、、、
おっと、そうそう。
麻生邸ツアーの方は、今の所、動きが無いようです。
私もこの件は、一件落着したら書こうと思うのですが、、、
どうなることやら。
じゃ〜〜〜ね。


あゆさん。
本当に言われるように、
県の旗、知りませんね、、、
と、言うか自分の家の家紋(あるのですが、一応は、、、)さえよく知らないのに、
日の丸は知っていますね、、、
これ以上、何をしろと言うのか、国は。
と、言いたくもなりますが。
形から引き込もうとしているものの本質を、隠しているようですね、、、
と、言う事で、このごろ、彼方此方で日の丸、君が代が自然に登場していますね、、、
ううう===ん。
と、いうことでしょうか???
さてさて。

投稿: せとともこ | 2008.11.04 14:24

こんにちは、せとさん。

>本当に仰るように、
>ことさらに愛国心なんて言わないでも、天然自然の情として国を愛するきもちって誰でもあるんだと思います。
>そしてそれが、他国を憎むと言うのではない。

なんていうか、天然自然の情の傾斜に背くときに、無理が生じるのですよ。路傍の人のたとえ話をしましたが、「ごめんね、私はあなたよりも家族が大事なんです。もし私とあなたの立場が逆だったとき、私はあなたが私に施さずに家族に持って帰っても、私は当然と思いあなたを恨んだりはしません」が素直に言えたら天然自然の情です。でもね、「なんか悪いことをしたな」なんて思い始めると、「いやいや、きっとあの人は怠け者だからああやって路傍で施しを乞うていたに違いない」なんてね。これが「悪む心」になるわけです。

なんていうかな、前に共同体と機能体なんて話をしましたでしょ。もともと家族愛、地域愛、郷土愛、そして愛国心というのは共同体において育まれるものです。単に「群れている方が生きやすい」と人が群れ集ったもの、それが共同体です。そして、その共同体の帰属意識としてこれらの愛が必要となるのです。

今の日本では、共同体がその影を薄れさせている訳です。だから、或る意味で地域に対する愛情、郷土に対する愛情なども目に見えなくなっている面があります。実のところ、共同体としての国に必要な愛国心と、その共同体の上にできあがった機能体としての国家にたいする愛国心は全く別なものなんです。その違いが理解出来なくなっているところに「無理な愛国心」が起こる訳です。そして、その無理をする限りやがて、その外の世界に対して「悪む心」を育まないと維持出来なくなるんです。

投稿: 技術開発者 | 2008.11.04 16:41

技術開発者 さん。
こんにちは。
頂いたコメントを拝見して、
改めて、愛国心が統治に必要な理由がわかりました。

外の世界を憎む心を育む。
かぁ〜〜〜〜

なんともですが、
愛って、そんなものだと仏教は言ってたりして。
つまり愛は執着ってことです。
そして愛に代わるものとして「慈しみ」を教えます。

学校でも愛国心ではなく慈愛教育を。
なぁんて、、、思ったりしています。
叶いませんが。
ははは。

さてさて。どうなるんでしょう???

投稿: せとともこ | 2008.11.05 11:00

こんにちは、せとさん。

私はずいぶん長い間、伝習録という陽明学の基本の書物を読んで来たのね。でもって、意味が捕まえきれずに悩んだ話がいくつも有るんだけど、その一つがある時突然理解出来たのは、上で紹介した路傍の人に施しができないときの心の持ち方と付き合わせて考えたからなのね。

その悩んだ話というのは、王陽明と弟子が花壇を見ながら話した部分ね「先生、人の心もこんな風に花だけでなく雑草も生えてしまうものなのでしょうか?」「花をよしとして雑草を悪いとするのは君の心なんだよ、本来花と雑草に区別は無いんだ」「では雑草を抜くべきでは無いのですか?」「それだと仏教だね。抜くべきだよ」なんて話なんですね。万物一体という論の説明の一部なんだけど、なにせ話の終わりが「抜くべきだよ」ですからね。何とも悩ましいのね。

でね、ずいぶんと悩んだあげくに伝習録の別なところに書いてある上の話を思い出しながら考えたら理解出来た(気になった)のね。なかなか、言葉にする度にうまく表せない気になるんだけど、雑草を憎まずに「花を愛する心」で「抜くべきだよ」となっているんだろうと思うんですね。

なんていうかな、例えば家族と家族じゃない知り合いが同時に困っていて、私が1人にしか手をさしのべられなかったら、私は家族に手をさしのべます。それが天然自然の情というものだからね。その時にね、知り合いに手をさしのべなかった理由なんて何も必要ないんですよ。ただ家族を助けたかっただけね。それと同じ事で例えば日本人と外国人のどちらに手をさしのべるかという時に日本人に手をさしのべるだけの話ね。別に日本人の方が助ける価値が高いとか言う事も必要は無く、外国人の方がどうだとか言う必要もなく、私は日本人に手をさしのべたかったからさしのべただけと言える様になりたいと思う訳です。


投稿: 技術開発者 | 2008.11.05 12:07

技術開発者さん。
こんにちは。

そうですね。
私もそのような二者択一を迫れたら、やはり自分により近いものを選ぶと思うし、
また他の人も同様だと思います。
さすれば、
「おたがいさま、恨みっこ無しよ♪」と、なればと思うのですが、
そうならない所に人の世の難しさを思います。

私は怒りん妨なので、少しでも自分の怒り虫を減らそうと、いろんな本を読むのです。
すると、今度はそれに縛られる自分と言うものがいて、なかなか「放せない」のでうよね、、、
家族にも、本を読んだ方が、なおさら悪くなっているんでは?と揶揄されたり。
ハァッ、、、ですぅ。

悩み多く業深い自分と言うものをまざまざと感じている者です。

投稿: せとともこ | 2008.11.06 12:28

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受信: 2008.11.05 08:32

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