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2008.12.09

科学の大衆化

「科学は社会に於けるイデオロギー・上部構造であったが、この社会的所産は、社会が所有する一種の財産(文化財とも呼ばれる)の性質を持っているのである。」
と、述べたのは戸坂潤です。

前のエントリーネットってアゴラですねに示唆にとむコメントを多く頂きました。
なかでも私自身が考えさせられたのは「科学の大衆化」についてです。
そもそもはひえたろうさんのエントリーで紹介されていた大衆の反逆と言う本を受けて、愚樵さんから頂いたコメントに触発されています。
最初のコメントでは愚樵さんの拘り、問題意識がどこにあるのか分からなかったのですが、直近(12月9日 8時46分)のコメントを読んで、漸く納得いたしました。
なるほど。
愚樵さんの問題意識は「そこにあったのか」と。
では「そこ」とは何か?
これに関しては私がへんに要約するよりは、愚樵さんのコメントをそのままご覧下さい。
さて、
私はこのコメントを読みながら思い出したのは、もちろん戸坂潤です。
戸坂潤の科学論
早速本棚から取り出して来て、読みました。
とくに「五 科学と社会」の科学の大衆化についてです。
青空文庫に全文がありますのでお時間のある方はどうぞご覧ください。
格調高いです。

と、言う事でこれからは科学の大衆化について戸坂をなぞってみたいと思います。

「今特に科学の大衆性に就いて分析しておく必要がある。というのは、科学は社会に於けるイデオロギー・上部構造であったが、この社会的所産は、社会が所有する一種の財産(文化財とも呼ばれる)の性質を持っているのである。今この財産の所有関係から、科学を見よう。」

まず、
戸坂は財産(社会が保有する財産と言う意味)の所有について述べていきます。
過去において「科学(一般に文化も亦)は決して人類全般、社会全般のものではなくて、或る特定の而も支配的な社会階級乃至社会身分の、占有物だったのである。」と言います。
そして、
科学を所有し、かつ利用するのは政治的な支配権を握った社会層であると戸坂は分析します。
それについて以下のように述べます。

「科学が支配者の占有物だというこの一見非文化的な社会現象は、資本主義の文化に這入っても少しもその本質を改めなかった。資本制によって支配壇上に登場したものは、少数の封建君主・貴族・僧侶達に代った多数の市民であったが、併しそれにも増して多数の無産者が、依然としてそして又愈々、被支配者の深い層を形成しなければならなかった。之が今日の科学の所謂ブルジョア的階級性に他ならない。——階級的社会支配が存在する限り、科学は支配者の占有物に止まる(少くとも夫が対立科学—— Oppositionswissenschaft でない限りは)。即ちその限り科学は大衆化されず大衆性を有つことが出来ない。」

つまり、
科学の大衆化とはとりもなおさず階級闘争であると言うのです。
科学はいまだ、大衆・庶民のものではない。
なお獲得の為の闘争を必要とする。
して、大衆化において注意すべき事は通俗化ではない、と申し添えています。
では大衆化と通俗化を見ていきましょう。
ちょっと長いのですが、全て必要なので以下に掲載します。

「だが科学の大衆化・大衆性と云ったが、之は必ずしも科学の通俗化のことでもなければ、まして又卑俗化のことでもない。元来通俗(popular)ということは、支配階級自身を標準として計った社会全般(people)の平均値のことであって、従ってブルジョア社会に於て通俗と呼ばれるものは、実はブルジョアジー自身の通俗性を物語るものに他ならぬ。処がこの支配者層は今も見たように、決して社会大衆ではなかった。——又卑俗ということが、この通俗ということを感情的に云い表わした一つの表現である限りは、この言葉も亦支配者的観点に立ってしか内容を持たないものである。云うまでもなく之は大衆性とは全く別な規定だ。
 大衆化とは併し、科学なら科学という事物を、与えられた多数者の平均水準にまで近づける(恐らく低めることによって)ことではなくて、却って、与えられた多数者をこの科学にまで近づけるべく(恐らく高めることによって)組織することである。大衆化とは多衆を組織化することだ。多数者を大衆にまで組織化すことによって、初めて科学がこの大衆みずからのものとして所有され利用されるということが、科学の大衆化・大衆性の唯一の意味なのである。だから例えばブルジョア科学を大衆化すると云ったような言葉は、元来無意味なので、ここから、唯一の大衆的科学は所謂「プロレタリア科学」の他にはあり得ない、という結論にまで来るのである。」

なるほど。
なるほど。
もう一度確認。
「与えられた多数者の平均水準にまで近づける(恐らく低めることによって)ことではなくて、却って、与えられた多数者をこの科学にまで近づけるべく(恐らく高めることによって)組織することである。」

そうなんですね。
さらに科学と大衆に付いてはイデオロギーの論理学に詳しく述べられています。
ここではまず「大衆」とは何かが述べれています。
そして科学を語るにあたり、通俗化、報道化、実際化について分析を試み、以下のように現状を述べます。

「かくて科学の大衆化は、通俗化・報道化・実際化——要するに普及化——である理由が無かった。併し之は寧ろ初めからそうありそうなことであったのである。何故なら、大衆化とは階級化であったのに、今まで挙げた様々な普及化は必ずしも階級との関係を示す必要はなかったからであり、又、科学の大衆性が、科学概念を批判・変革する程、科学にとって根本的なものである約束であったのに、科学のかの普及化は、科学のもつ真理価値——科学のこの根本的なるもの——へ何の変化をも影響しないのだから。普及化は超階級的啓蒙であり、超価値的啓蒙であった。大衆化は然るに、そうではない。」
こうした未だ、成熟しない大衆化の中にあって、科学は如何にあるべきか?
その後、政治との帰着をみながら、戸坂は最後に以下のように纏める。
「科学の大衆性は、論理の階級性の一つの名に外ならない*。そして論理の階級性は、科学の階級性の最も優越な顕著な場合であるだろう**。科学の大衆性とは、かくて科学の階級性の一つの実質であった。」と。

これは1930年に書かれたものです。
それから80年近く経ったいまなお、新しい。
科学が社会に果たすべき役割、それを利用するものの意識の高まり、などなど深く考えさせられました。
愚樵さんの思いにはまだ達していない私ですが、
愚樵さんの抱える歯痒さにちょっと近づけた気がします、、、

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コメント

こんにちは、せとさん。

なんていうかな、貴族階級の文化がだんだんと大衆化するという概念そのものに西洋的なものを感じるんですよね。実際、西洋では、科学も芸術も上流階級のものとして始まり、大衆化してきたという歴史があるのは確かなんですけどね。

昔の科学者は貴族であったり、貴族のお抱え錬金術師であったりしたわけです。それは多くの画家が貴族の「お抱え」であったという部分でも同じでしょう。

私は何か違う流れというのがあっても良いと思うんですね。実のところ科学では良い例えが浮かばないんですけどね。芸術に関して言うと、浮世絵みたいな「大衆から自然発生した芸術」というのもあるんですね。確かに日本でも土岐頼芸のような大名にして芸術家がいたり、狩野派のように権力者の「お抱え」として発達したものも多いんですが、浮世絵だけは大衆から発生して居るんですね。もともとは、年末年始に知り合いに配る暦の木版刷り技術が発達することで多色刷りとなり、そのうち風景画やら役者絵やらが作られていく。豊国とか広重という人気のある作家も出てくるのですが、そういう人気絵にしても、そのころの値段で32文程度ですから、今の価格で千円くらいの値段で庶民が買っていたわけです。でもって、庶民の浮世絵を見る力というのも相当なもので、黄表紙本などには、売れない浮世絵作家の話なんかもあるんですが、やはり人気のある作家の浮世絵は芸術性が高くて、売れないのは低いんですね。そういう作家は双六の絵とかを描く訳です(笑)。

なんていうかな、西洋的な階級闘争観とは少し違う、大衆でもきちんとした「ゆとり」をもつと独自に絵画を楽しむことができたという文化がある様に、必ずしも階級の上の文化が大衆化するという視点以外の大衆化というのも考えてみたくなったりするんですね。

投稿: 技術開発者 | 2008.12.09 17:52

こんにちは。
技術開発者さん。
コメントありがとうございます。

「なんていうかな、西洋的な階級闘争観とは少し違う、大衆でもきちんとした「ゆとり」をもつと独自に絵画を楽しむことができたという文化がある様に、必ずしも階級の上の文化が大衆化するという視点以外の大衆化というのも考えてみたくなったりするんですね。」

はい。
私もそう思います。
今では階級闘争なんて言葉も死語でしょうか???
ちょっと時代にあわないというか実際的ではありませんよね。
開発者さんの言われるように、階級と言う土台(マルクスが言ったのですよね?)の上にある文化ではなくて、文化そのものが大衆のものである、そんな大衆化って目指したいですね、、、
そうしたとき、ニセ科学も今とは違った有り様ではと思うのです。
つまり、そんなものが入り込む隙間がないという意味で。
どうなんでしょうか???

投稿: せとともこ | 2008.12.10 12:22

こんにちは、せとさん。

>今では階級闘争なんて言葉も死語でしょうか???

誰かが「一世代の間に生ずるのが格差、格差が世襲されると階級」なんて言っていました。なるほどな、と思ったりするんですね。或る意味で日本のこれまで60年は、階級感の少ない時代だったんじゃないでしょうか?農民の子が医者になったり経営者になることもあれば、社長の子が普通のサラリーマンになることもある。それを誰も不思議とは思わない(笑)。

どこかに書いたかも知れないけど、マルクスが見た時代は「労働者の子は労働者、経営者の子は経営者」だったわけです。ドイツやイギリスでは労働者には選挙権すらなかった時代です。マルクス自身も弁護士の子だったから大学に行けて勉強することができた訳です。彼が「階級」という概念を持たなかったら返って不思議ですよね(笑)。

なんていうかな、江戸時代の日本とか宋の時代の中国とか考えてみると「階級=文化格差」じゃないんですね。「時間や生活のゆとりの差=文化格差」なんです。ヨーロッパでは、階級差がそのままゆとりの差につながっているから、文化も階級の上が高くてそこから下へ流れる様に見えてしまう。江戸時代の根付けとかキセルとかとても芸術性の高い物が多いけど、階級が上の武士はあまり持っていなくて、職人の親方とかが良く持っている訳ですね。

江戸時代考察を良く書いている石川英輔のSF小説に「未来妙法蓮華経」なんてのがあります。スペースコロニーで生活するほど科学が発達した社会で生きながら、貧しい精神世界しか持ち得ない人類を描いていたりするんですけどね。

なんていうかな、ギリシアでは奴隷制によって「ゆとり」のできた市民が色んな文化をつくりましたよね。我々も産業発展により「ゆとり」を持つことができるハズなんです。でも、心に感じるゆとりは、現代より江戸時代の方がはるかに大きく思えたり刷るわけです。

投稿: 技術開発者 | 2008.12.11 17:06

技術開発者さん。
コメントありがとうございます。
とてもよくわかりました。
時代の拘束と言うか、あるいは積極的な意味で時代のエネルギーを感じますね!!!
開発者さんのコメントを拝見しながら、
それこそ大衆の生きる力、知恵、したたかさ、、、もろもろを想像しました。
大きなうねりを感じますね、歴史から。

そうした意味でも、
いろんなことを学びたいと思います。

投稿: せとともこ | 2008.12.12 16:08

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