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2008.12.03

ネットってアゴラですね

ネットてアゴラのようなものなのですね、、、
いつも巧みな譬えと丁寧なまとめを下さる技術開発者さん。
私もこんな風に書く事が出来たらいいなぁ〜〜と感心しきりです。
昨日は、ネットでの討論でつい勝ち負けに拘るとか、相手を折伏させるようなやり取りを見受けることについて、こんなコメントを頂きました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
>討論では、直接の対話の相手ではとくにネット上では噛み合ないもどかしさをお互いに感じ、ついには物別れが多いように思うのです。
>討論する時、なぜか勝ち負けや折伏させよとするように感じることがままあります。
↑ここまでが私。
↓以下が開発者さん。

私はネットの議論というのにこんなたとえ話をしたことがあります。街のあちこちに出入り自由な会場があって、そこのステージでパネリストが自分の意見を述べている訳ね。でもって、観客はただ意見を聞いて居るだけでも良いし、ステージに上がってパネリストになっても良いわけです。でもってパネリスト同士で意見が合わなければ議論にもなるんだけど、それは他に人が居ないところで議論しているのとは違って観客の前の議論だという事ですね。だから、観客が「こっちの人の言っている事の方が筋が通っているな」と思ってくれたら、別にその討論相手のパネリストが納得しようがすまいが関係ないのじゃないか、なんてね。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

確かにそうだと思います。
ネットでは、直接の討論相手とは意志の疎通がはかれないことや、
「アアーーー言った」「こう書いた」と言うところに目が行き、
議論が迷路に入ると言うか小さくなってしまう事ってありますね。
もったいない事です。
存外、第三者の方が冷静にしっかりと見て、読んで、理解なさっているのでしょうね。
自分が書く記事については感情に流される事無く、丁寧に書く必要があるんだと今更ながら思っています。
以前、華氏451度と言うブログの管理人の方に「あああ、ここは無印良品ですね」って言ったことがあります。
いや、本当は無印なんてトンデモナイ。
賢明なブログ主で有名なところなのですが、そういう事ではなく堅実に書かれている姿に思わず「無印良品」って思ったのです。
自然体で、けれんみがなくて、あんな文が書けるといいな、、、と羨ましくさえありました。
(華氏さん、このごろお忙しいのかしらん)
お玉さんなんかも、素直で伸び伸び。
でもこちらにズドンときます。

で、
で、
またまたで恐縮ですが、ニセ科学関連。
この問題で親しくさせていただいているブログの数々。
恒常的にニセ科学の流布に対して粘り強く、警告、告発なさっています。私個人は多いに啓発されまた敬意を表しています。
が、
そうした論の末と言うか、枝葉に付いて回るのがいつでも「批判」批判です。
私自身も批判のあり方や方法には関心があるのですが、
結局、直接の相手ではなく討論を見ている方々が如何に思うかが結構、重要なんだと思っています。
この間もいくつかのブログでアレコレのやり取りがあり、
私も拝見。
その中で一番感動したのは『digital ひえたろう』 編集長の日記★雑記★備忘録と言うブログ。
ちょっとの前の「ニセ科学と大衆(何か見逃してる?)」と言う記事です。
フムフム。
フムフム。
むむむ====と、言いながら読みました。
記事の一部を引用。
「専門家とそうでない人の間には、かけている情熱や覚悟やリソースという面で圧倒的な差がある。
にもかかわらず、その人が積み上げてきたものへの敬意とか、かけたリソースへの想像力といったらいいのか、そういうものが全くない。知識人は知識人として、単にそこにできあがってると思ってる。
そういうものは「わたし」という個人には無力であり、「わたし」の思いつきはそんなリソースをかけた人の結論以上の価値があるのだと。」

ううううう〜〜〜ん。
含蓄ある言葉。
襟がただされます。
専門家のそれこそ血を吐き出すような思いで積み上げているものへの敬意なしに、
どうして私たち素人がそれを理解することができようか、想像する事ができようかと、、、
深く思いました。
さらに先にすすめば、私自身はネットを通して知り合った方々のそれまでの経験・体験も敬意を込めなければ、、、

私はまだ「大衆の反逆」と言う本を読んでないのですが、今度図書館で探してみようと思いました、、、

ネットって、本当に学ばせて貰える機会がそこここに鏤められていますね。
得した気分。

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コメント

ネットでの遣り取りで『過度に勝ち負けに拘る』傾向は私も不思議に思っていました。
ホント不思議です。どうしても理解できない。
話相手の言葉の言い間違いとかミスを見つけてやりこめるなどは、もしもこれが実生活なら確実に人間関係をそこね、みんなから顰蹙をかうだけ。
良い事は何も無い。
何故ネット社会(仮想空間)ではそんな実生活の普通の常識が通じないのか実に不思議。
私の考えでは、誰かに自分のミスなり間違いなりを指摘されると言うことはただで勉強さしてもらったんですよ。大喜びすべきです。
誰にでも間違いはあります。長年の自分の勘違いを訂正するのは実によい気分ですよ。
ところがネットでは逆で間違いを認める事は、負けることで許されないらしい。
人前で間違いを訂正する事や、謝罪する事が余程の重大事のように思えるらしい。
今の若者達は余裕がなくなっているのでしょうか。?
誰しも失敗して多くを学びます。
安易な成功より失敗や間違いの方が人生にとっては利益が得られる場合があるし、現実社会では多分其の方が多いはずだ。
それに幾等謝っても命まで取られる訳でもない。
勝ちにしろ負けにしろどんな話でも真面目にやれば何らかの教訓は得られるものです。
以前に華氏451度で靖国参拝に対して口汚く罵るネットウヨの若者が我が物顔で罵詈雑言の書き連ねるのを見かねて『ネオナチモドキの暴言を放置すべきでない』削除なり反論なり行動すべきとコメント。
しかしブログの管理人さんは削除しない主義なので言いだしっぺの手前仕方なくネットウヨの妄言を一つずつ潰していく気の遠くなるような作業をやる破目に。
この若者は最期に言い逃れ出来なくなって『最高責任者には責任は無い』と発言。
みなさん。これは素晴らしい名言だと思いませんか。?
正に日本の右翼思想の真髄を一言で言い表しています。
そこでこの言葉をもってネットウヨ君の完全勝利を祝福して討論を終了。
今でも『最高責任者に責任は無い』の名言は時々使わしてもらっています。

投稿: 逝きし世の面影 | 2008.12.03 19:54

こんにちは、せとさん。

なんていうか、容易に納得せずにがんばってくれる討論あいてというのは、私のように「読み手に理解して貰いたい」と書いていると、良い「合いの手」の人になったりするんですね。

悪徳商法批判をしていると、マルチ商法にはまり込んでしまった人なんかのお相手もしますよね。でもって、「中間経費が無いから優良だ」とか「同じマルチ商法の中に悪い参加者がいるからといって全部の参加者を悪く言うな」とかがんばられると、嬉しくなった時があるんです。というのは、それにかこつけて読み手の人に「中間経費ってなんだろう」とか「商号の持つ統一的イメージってなんだろう」とか、普通ではなかなか説明を始めることができないことが違和感なく説明し始められますからね。

簡単に説明すると「問屋は何をするところ」になるんですが、要は「倉庫とトラックを持つところ」なんですね。文房具問屋なんかを例に出しましたけどね。紙の商社からノートを大口に仕入れ、筆記具の商社からエンピツやボールペンを大口に仕入れして、倉庫に分類してストックしておいて、街の文房具屋が「ノート30冊、エンピツ10ダース」と注文するとさっさと届ける事で手間賃を貰っているなんてね。でもって、この「貯蔵と分配と流通」というのは、どんな流通したって或る程度どこかでやらなくてはならなくて、その費用はかかるんですね。そんな説明を普通は人になかなかできないけど、お相手が「中間経費」にこだわってくれると、素直な流れで説明出来るのね。

二番目の方は「商号使用権契約」なんて話をするきっかけね。マグナルドなんかを例に出すけど、はじめ行った街でもマックのカンバンを見れば何が食べられるかはだいたいわかるし、店員の対応まで予想出来てしまうなんてね。これが商号の統一イメージなんですね。それがあるから、「マック**店で食中毒」なんてことになると、別なマックでも売り上げがおちる訳です。でもって、例えばマルチ商法の参加者も「私は***のDTです」なんて、マルチ商法会社の商号を使うよね。契約していない私が「***のDT」なんて言うことはできない。ここに商号の使用権が契約に含まれると言うことなんですね。でもって同じ商号を使う以上、他の販売員のイメージは自分のイメージにも成ってしまうという事なんです。そんな説明を普通は人に説明する機会がないのに、お相手が話を振ってくれるから説明出来るのね(笑)。

なんていうか、ニセ科学批判に対する批判みたいなものでも、何度も何度もよく考えながら「読み手に向けて」書いていると、どんどんとうまく説明出来る様になる面があるよね。そういう自分の考えをきちんと固めてきちんと説明するのをブラッシュアップすることを考えていると、ニセ科学批判に対する批判も、或る意味で「良い合いの手」にも成るんですね。

投稿: 技術開発者 | 2008.12.04 08:23

逝きし世の面影 さん。
技術開発者さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。

今回のお返事はお二人、同じ内容にさせてください。
と、申しますのも、
お二人から、私は学ぶこと大です。
適宜、ご忠告、ご意見、そして感想やさらには指針を頂き、本当に嬉しく思っています。
これからもよろしくお願い致します。

ときどきの話題や内容ですれ違ったり、もどかしい思いをすることも、有ろうかと思いますが、
そこはそれ。
感情に流されるよりは理解・納得の方向に生産的に議論するように努力しますね(*^-^)

ネットでは、本当にいろんな方から学ばせていただき、
とても楽しく、また励みにもなります。
幸せです!!!

投稿: せとともこ | 2008.12.04 16:58

せとさん、こんばんは。今回はちょっと失礼して、ニセ科学批判・批判の立場でコメントをば。

ご紹介のブログ記事、見て参りました。

「専門家とそうでない人の間には、かけている情熱や覚悟やリソースという面で圧倒的な差がある。」

その通りだと思いますし、私も含めた一般人は、そこに敬意を払うべきだと思います。「失礼な奴だよな」という言葉もよく理解できるような気がします。しかし、これはニセ科学批判の枠内で語られるべきことでしょうか? 

情熱と覚悟とリソースに劣る一般人が、それらに勝る専門家と同等なところに立とうとする行為には愚かしいものがあります。それはわかります。が、「失礼」という評価には、「愚かしい=誤っている」という評価軸だけではなくて、「愚かしい=善くない」という評価軸からも批判がなされていますよね? 

ニセ科学批判・批判の焦点は、このような評価軸の混同にあるのだと私は思っています。科学はあくまで科学的正誤の判断しかできないはずなのですが、得てしてそこに善悪の判断が紛れ込む。そうした傾向を指して(あるいはそうした傾向が自覚されていないことを指して)、私は科学が宗教になっているといいたいのです。これは逝きし世の面影さんもおそらく同じだと思います。

そうした観点から見ると、ニセ科学信奉者もニセ科学批判者も、同じ科学教という宗教の枠内にいるように見えます。違いは、信奉者が異端、批判者は正統というだけで、つまり、正誤と善悪の評価軸を混同したニセ科学批判は、異端審問に過ぎないということになってしまいます。

付け加えますと、オルテガが「大衆」としたのは、専門家、特に科学者のことだったはずです。大衆の大衆たる所以はその「知的閉鎖性」にあるわけですが、オルテガは、近代における大衆の典型を「専門主義の野蛮性」を振り回す科学者だとした。これは別の言い方をすると「教養主義の没落」とすることもできるでしょうか。専門的知識への圧倒的な情熱と覚悟とリソースゆえに「知的閉鎖」に陥る人々を、オルテガは「大衆」と呼んだのだ、と私は思いますが...。

投稿: 愚樵 | 2008.12.04 23:42

こんにちは、 愚樵 さん。

変なたとえ話ばかり書いています。別な所では秋の蓄えを少しずつ食べて冬を越そうとしている村で「今年は春が早い」といういろり端の希望的観測が力を持ち、何人かが蓄えをよけいに食べ始め、皆にも「今年は春が早いんだからもう少し食べようよ」と勧めはじめたときに「春が早いなんて何の根拠も無い」と批判するのは、たんなる気象予報論だろうか、なんて書きました。

今朝もkikulogに「堤防少年」のたとえ話を書きました。海より低い干拓地の少年が堤防に水漏れの穴をみつけ自分の手で塞ぎながら凍死するなんて話ですけどね。この話は作り話だそうですが
この少年が英雄視されるのは、その話を聞いた人が「自分たちは堤防に守られている」という認識があり、「その堤防は小さな穴でも放っておけばやがて堤防が崩壊して自分たちの住むところが海に浸かる」と思っていなければなりません。そういう認識がなければ、その少年はただの馬鹿な子供としか見えないでしょう。今、我々は、そういう干拓地で堤防に小さな穴をあけては「水が噴き出すぞ、面白いな」と遊んでいる人たちがいる世界に生きている様な気がします。

ニセ科学批判は基本的に科学論ではなくて社会問題論なんだろうと思います。それも、堤防の穴のような「放っておくと穴が大きくなって堤防が崩壊して干拓地が海に戻る」といった、「今はこの程度だけど、このまま放っておいてはいけない」といった形の社会問題論なんだろうと思っています。もちろん、「そんなことはあるもんか」と考えるのは自由です。でも、実のところ誰もが社会の一員なんですね。もし現実に社会がおかしくなるなら、そのなかで苦労することは変わらないのです。自分たち自身が、皆と一緒に蓄えを食いながら冬越しをしている村人であることとか、干拓地に住んでいるという事を忘れているのではないかという事を考えていただいて、社会問題論としてニセ科学批判を見て頂ければ幸いです。

投稿: 技術開発者 | 2008.12.05 08:43

愚樵さん。
開発者さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。


愚樵さん。
とても考えさせられました。
私は「科学」ってそんなにたいしたものだと思っていないのです。
誤解しやすい言葉ですみません。
つまり、科学も道具だと思っているのです。
少なくとも、科学(とくに自然科学)に携わっている人々は、「目の前」の現象を追う事、解決することで精一杯で、「科学とはなんぞや」とか「科学は万能」とか「科学は信仰か」なんて思っていません。
ひたすら実験、観察、検証の日々です。
科学って、事実とか結果から導くものだから、
予断や独断は入り込む余地がありません。
もちろん、結果の予測はすべきですが、、、
事実の前にひたすら謙虚であらねばと考えているのです。
そこには人のアレコレの斟酌が介入することはない。
信仰とか云々って、後づけのように思うのです。
科学に携わることないところで。

なお元ネタのエントリーに関しての表現については、私は「温度差」だと思うのです。
私は愚樵さんのような捉え方はしませんでした。
「失礼な」と言われた大先生も「だからどうなの」とは言わないで、軽く言われたのだと思います。
ただ、その表現の微妙な部分については私は想像しかできないし、私の答える部分でもないので、大先生の言葉についてはここまでにさせてください。

ズバリ私が言いたかったのは「専門家」への敬意という言葉からさらに竿頭を一歩進めて、人が経験したこと、学んだ事への敬意を伝えたかったんですよね。
また、元ネタのブログ主の方もそうだと思って、私はエントリーに挙げました。

では、また貴重なご意見おまちしています。
ありがとうございました。

開発者さん。
愚樵さんあてということで、ここでは私は沈黙!!
では、、、またね!!!

投稿: せとともこ | 2008.12.05 17:00

こんにちは、せとさん。

>愚樵さんあてということで、ここでは私は沈黙!!
>では、、、またね!!!

それで良いと思います。以前、別のところで「ニセ科学批判は出遅れた」と書きましたが、実はその出遅れこそが、ニセ科学批判は科学論のような清談ではなく、社会問題論として出てきた事を示していると私は考えています。

上のたとえ話で言うと、冬を越す村人が粗食に耐えながら「今年はきっと春が早いよね」とか話していたって、実のところ何の問題もないんだろうと思っています。でもって、そういう話だと思っていたら、いつの間にか「春が早いんだから蓄えをもっと沢山食べよう」という動きになっていた。そういう動きになっていると気が付いてから動き始めたから、「出遅れた」訳です。

実際私なんかも「マイナスイオン批判」みたいなことからニセ科学批判に入り込んだんですが、マイナスイオンなんて言葉が流行はじめた時期から6年くらいたってから批判をはじめている訳です。最初は「また、ホラ話で盛り上がっているな」と思っても、「そんなに気にすることはない、やがて収束するだろう」くらいの気分です。でもどんどんと「実際にマイナスイオンはある」みたいな話になって、ついに家電メーカーがこぞってマイナスイオン製品を出し始めた訳です。「これはいかん」とそれから腰を上げたので「出遅れた」訳ですね。「これはいかん」と考えたのは、やはり「日本製品の将来の信頼が傷つく」みたいな意識があります。外国に輸出した製品もあるという情報に接した時には訴訟も心配しました。幸いにして、米国で懲罰的賠償訴訟などは起こりませんでしたというかこれまでは起こっていませんが、私は一歩間違うと日本の家電メーカーが揃って懲罰的賠償訴訟を起こされる危険性すら感じたんです。米国の食い詰め弁護士が動くとあり得ない話では無いんです。その昔、日本のあるメーカーが「60万回に1回程度起こるハードディスククラッシュ」の可能性を把握しながら購入者に通知しなかったという事で賠償請求訴訟を起こされた事があります。実際にクラッシュしたハードディスクはなしでです。あくまで、「購入者の危険性を放置したその姿勢が懲罰的賠償にあたる」という訴訟をおこされる世界なんです。

全然、科学論なんかじゃないんです。生臭いお金の世界の危険性も含めて感じたから動きはじめたんです。でもその危険性を言うためには「マイナスイオンは科学的なものじゃないよ」から言い出さなくては成らなかったんです。それを言うのが「科学主義者ぽいからダメ」と批判するなら、私はどこから批判をはじめれば良かったのか教えて欲しいんですよ。

血液型性格診断でも、水からの伝言でも、ゲーム脳でも、皆、「出遅れて」いますよね。それは、それが「清談」じゃないからなんです。単に「科学的じゃないから批判する」のなら出遅れたりしないんです。「科学的じゃないけどまあ世の中にそう悪い影響は出さない程度でおさまるだろう」と見ている内に、「血液型を人事に使う」なんて会社が出てきて、日本から概念が輸出された韓国で「B型バッシング」が起こって「これはいかん」なんです。いつの間にか小学校で「言葉は人の身体を構成する水に影響する」なんて教えはじめられたという情報に接して、「これはいかん」なんです。でも、「これはいかん」で動き始めても、最初のとっかかりは「それは科学的なことではないよ」からはじめる以外にどういう方法があったのか、私には想像がつかないんです。

投稿: 技術開発者 | 2008.12.05 17:46

せっかくですから再度コメントさせてもらいますね。

せとさん

>私は「科学」ってそんなにたいしたものだと思っていないのです。

う~ん、どうでしょう? 私のような門外漢にはやっぱり「たいしたもの」だと思えるのですが? 道具であることは間違いないでしょうが、それでも、「たいした道具」ですよ。人類は技術・文明とともに生存してきたわけですから、それを飛躍的に向上させた科学はやっぱり「たいしたもの」だと評価していいと思います。

>少なくとも、科学(とくに自然科学)に携わっている人々は、「目の前」の現象を追う事、解決することで精一杯で、

それはそうなのでしょうけれど...。そうした「精一杯」の成果を享受させていただく者としては、やっぱり敬意を払いたいですよね。ただ、「たいしたもの」だけに、使い方には注意が必要だと思う。そこは技術開発者さんのおっしゃるとおり、社会問題論になっていくわけです。

というわけで、技術開発者さん。私の問題意識は、最初から社会問題論です。科学に門外漢の私には、科学の内側でニセか真かの判定は、もとより不可能ですし。

問題は、科学は何を発達進化させ、何を破壊したのかという点にあると思います。科学がせとさんのおっしゃるように道具でしかなかったとしても、新たな道具の発達は人間社会に影響を及ぼします。たとえば核兵器は科学の発達なしには考えられないものですが、核兵器の出現が人間社会に及ぼした影響を考えれば、それは「単に道具」というだけで済まされるものではありませんよね? 核兵器そのものに善悪はありませんが、それを所持することには善悪の判断が関わってこざるをえません。

本来、核兵器所持に対する善悪の判断に核兵器を製作することができたという成果を絡めてはいけないはずなのですが、これはなかなかそのようにはいかないということは歴史的にも検証できる事実だと思います。つまり、科学の成果が善悪の判断に影響を及ぼしてしまうんですね。

技術開発者さんの堤防の話をお借りしますと、危険な堤防で村を守るより、どこからか山を切り崩してくるなりして土地を嵩上げするとか、そうした選択も可能になってくるわけです。科学の成果によって。その成果はそれはそれで素晴らしいことなのですが、その成果によって村は何物も失うことはないのか? 科学の成果で実現できることはすべからく善なのか? ニセ科学批判・批判、いえ、科学批判の根底にある問題意識は、そういったところにあるわけなのです。

科学によってもたらされる成果は、人間を進歩主義に誘導します。科学はその進歩主義の限界を明らかにもしますが、まだまだ進歩主義のパラダイムが転換したとは言えないでしょう。私には、「堤防に空いた穴」は、進歩主義のパラダイムを崩壊させる穴のようにも感じられるのです。

投稿: 愚樵 | 2008.12.05 19:21

こんにちは、 愚樵さん。

>その成果はそれはそれで素晴らしいことなのですが、その成果によって村は何物も失うことはないのか? 科学の成果で実現できることはすべからく善なのか? ニセ科学批判・批判、いえ、科学批判の根底にある問題意識は、そういったところにあるわけなのです。

自然科学の発達そのものの哲学的価値を考えるという意味での科学批判は必要なことです。ただ、それをニセ科学批判と絡めることの価値を私は認めることができません。私には、それはそういうまじめな科学批判の真意すら貶めることにしかならないように見えます。

私は別のところで、理神論的宗教論から見た自然科学の発達観なども書いていますが、自然科学の発達そのものの哲学的価値を考えるという場合、哲学の命題である「人間とは何か」「人間の存在理由とは何か」を真剣に考えなくてはなりません。それは、ニセ科学批判などと絡めるべきではなく、真に哲学的命題として思考すべき問題だと考えています。

投稿: 技術開発者 | 2008.12.06 04:35

愚樵さん。
開発者さん。
こんばんは。
コメントありがとうございます。
週末は大忙しなので、お返事遅くなりしつれいをしました。

さてさて。
愚樵さん。
何回も読ませていただきました。
と、言う事で、また一緒に山へ何かを拾いにいきましょう♪
以下の部分で「」は愚樵さんから頂いたコメントを原文ママにして掲載しました。
では、、、、


「人類は技術・文明とともに生存してきたわけですから、それを飛躍的に向上させた科学はやっぱり「たいしたもの」だと評価していいと思います。」と愚樵さん。


はい。
私も思い、その様な意図で敬意を示していきたいと考えています。

「たいしたもの」だけに、使い方には注意が必要だと思う。そこは技術開発者さんのおっしゃるとおり、社会問題論になっていくわけです。」と愚樵さん。


はい。
まさに。
私も同様に考えています。
以下は開発者さん宛ですが、私も少し書かせて下さい。


「私の問題意識は、最初から社会問題論です。科学に門外漢の私には、科学の内側でニセか真かの判定は、もとより不可能ですし。」と愚樵さん。

ここまでは合意ですね。では先に行きましょう。

「問題は、科学は何を発達進化させ、何を破壊したのかという点にあると思います。科学がせとさんのおっしゃるように道具でしかなかったとしても、新たな道具の発達は人間社会に影響を及ぼします。たとえば核兵器は科学の発達なしには考えられないものですが、核兵器の出現が人間社会に及ぼした影響を考えれば、それは「単に道具」というだけで済まされるものではありませんよね?」と愚樵さん。

そうです。
そうです。
そうなんです。
私はここでも何回も書きましたが、ラッセルアインシュタイン宣言やパグウォッシュ会議で科学者の社会的責任について問うてきました。
科学が諸刃の剣であることを承知しています。
http://ts.way-nifty.com/makura/2008/07/post_e803.html
http://ts.way-nifty.com/makura/2005/04/post_f7ab.html)

「本来、核兵器所持に対する善悪の判断に核兵器を製作することができたという成果を絡めてはいけないはずなのですが、これはなかなかそのようにはいかないということは歴史的にも検証できる事実だと思います。つまり、科学の成果が善悪の判断に影響を及ぼしてしまうんですね。」と愚樵さん。


この部分、残念ながら分かりません。
科学の成果が善悪の判断に影響する???
ううううう〜〜〜ん。
別の次元ではないかと思うのですが、、、
科学の成果はあくまで「科学の成果」です。
その使い道は、あるときは政治が絡み、またあるときは経済が絡みますが、
善悪の判断に影響を及ぼすのは科学ではなくて、
政治や経済ではないかと思うのですが、、、
つまり「使う目的」と言う意味で。

「科学の成果で実現できることはすべからく善なのか? ニセ科学批判・批判、いえ、科学批判の根底にある問題意識は、そういったところにあるわけなのです。」と愚樵さん。

少なくとも科学に従事している多くの方は「科学の成果で実現できることが善」とは思っていないのではないでしょうか???
先に書いたパグウォッシュ会議などをご覧下さい。

「科学によってもたらされる成果は、人間を進歩主義に誘導します。科学はその進歩主義の限界を明らかにもしますが、まだまだ進歩主義のパラダイムが転換したとは言えないでしょう。私には、「堤防に空いた穴」は、進歩主義のパラダイムを崩壊させる穴のようにも感じられるのです。」と最後にまとめる愚樵さん。


はい。
だからこそ、謙虚に受け止めていきたいと思っています。

なお、前に頂いたコメントで「大衆、、、」の本についてはまだ読んでいないので、今度図書館で借りてみます。
いずれにしても、
私は開発者さんが直近で書かれているように、
ニセ科学云々を問題にするとき、哲学云々で絡める必要はないと思いますが、、、
愚樵さんの鋭い感性は、私にとって、とても刺激になり、今一度自分を見る機会になるので、本当に嬉しく、励みになります。
またお返事いただけるといいな、、、と思いながら。
では。

開発者さん。
ひえたろうさんのところのコメントも拝見しましたよ。
私はハテナのidがないのでトラックバックもコメントも出来ないのですが、どこかでひえたろうさんにお会い出来たらご挨拶しておきます♪
いろんな方からいろいろ教えられますね。
では、、、またね!!!

投稿: せとともこ | 2008.12.06 22:21

せとさん、おはようございます。朝早くからですが、山登りを続けましょうか(o^-^o)

せとさん、技術開発者さんはおふたりとも、政治経済と科学は別次元だ、というお立場なんですよね? 私も、別次元であるべきだ、ということなら支持いたします。が、現実に別次元かという話ならば、それは違うだろうと言いたいですね。

科学が成果を上げるためには実際に科学という営為が行われなければいけない。営為なしに成果は上げられない。当然の話です。では、科学の営為が政治経済と無関係になされることはあり得るのか? それは否でしょう。 科学には現実に「大衆」のカネが使われています。

科学に「大衆」のカネが使われるということは、そこに科学は善という「大衆」の判断が前提にあるはずです。 科学の営為を一方で善としながら、一方で科学の成果は善悪無関係だとする。この矛盾は、おそらく「大衆」には受け入れがたい。ゆえに「大衆」は「大衆」であるわけです。

これは逆に言いますと、この矛盾を受け止められる者は「大衆」ではないということ。すなわち「貴族」です。これは高貴な精神の保有者という意味でもそうですが、黙ってカネを出せという存在であるという意味にもなります。が、そういう貴族に大衆は反逆を企てずにいられるでしょうか? また大衆を反逆に乗り出させないようにするためには、哲学、あるいは宗教が必要なのではないでしょうか?

私は「水からの伝言を信じないでください」という教育に、貴族の大衆への抑圧を感じるわけなんですよ。けれども、現代では、大衆を抑圧するのもまた大衆なんですね。大衆の代表者が抑圧する。現代の貴族は孤高であるしかない。科学者に問われているのは、食えない貴族か、あるいは大衆の代表者かの選択ではないですか?

投稿: 愚樵 | 2008.12.08 05:50

こんにちは、愚樵さん。

>せとさん、技術開発者さんはおふたりとも、政治経済と科学は別次元だ、というお立場なんですよね?

別段、別次元というと言うほど離れているものでも無いでしょうね。まず、社会という「人の群れ」がある訳です。この人の群れにどのような形而上学的目的があって存在しているのかは誰も知らない。あくまで、個々の人間というのが本能に導かれて寄り集まり、「生き延びたい、できれば楽に生き延び、子孫を残したい」と政治や経済という社会システムを発達させてきたし、自然科学もその欲求の上に発達してきた面があります。

その社会システムの発達や自然科学の発達に置いて、或る意味「できる奴にやらせて、その成果は皆で分け合う」という事は基本的に行われて生きたというだけのことでは無いでしょうか。

私は「原始の村の巻き狩り」のたとえ話を良くします。巻き狩りというシステムを作る限り、見張りや勢子、そして仕留め役という分業は必然的発生します。そして、それぞれの役割にはしんどさや危険度の違いが生じます。気の弱い怖がりの個体に仕留め役をやらせれば、狂ったように自分の方に走ってくる猪に槍を繰り出すことができずに逃げてしまうわけです。そこで、「できる人間にやる気にさせる方法」として「村の勇者」を作り上げてきたのが人間なのだろうと思うわけです。「仕留め役をやるのは村の勇者だ」と社会的威勢を構築することで、「自分は逃げないで槍が繰り出せる」という個体は「俺が仕留め役をやるよ」と志願し、怖くても「俺は村の勇者なんだ」と踏みとどまって槍を繰り出すことで村に狩りの獲物を提供する。村の子供たちは「自分も大きくなったら村の勇者となるんだ」と志願者の予備軍と成るなんてね。

この人類が作り上げた「持ち上げることで候補者を確保する」という流れで重要なのは、現実問題として「おれが仕留め役をやる」という候補者群の中から「逃げない仕留め役」をきちんと選ぶという事だろうと思うんですね。

私に言わせると学者なんかも、複雑化したシステムの中で生じたある種の「仕留め役」だろうと思っています。普通の人よりも長い時間掛かって難しいと普通の人が思う勉強をし、普通の人にはわからないほどややこしい話を整理して、新規な事を見つけ出す。あまり割の良い役割ではない訳です。でも社会にとって有用だったから、「学者というのは偉いんだ」と持ち上げることで候補者を切らさずに確保する方策を社会はとってきたというだけだろうと思います。

巻き狩りで仕留め役を選んでいた頃にだって、たぶん、実際には怖くなって槍を捨てて逃げ出してしまう「ニセの勇者」を選んでしまった事もあるだろうと思います。そういうニセの勇者が現れるのは、「勇者を褒めそやす」といった文化を創った為であるのも確かです。だからといって、「勇者を褒めるのはやめよう」とはしなかった。なぜなら、村は獲物を必要としており、そのためには勇者や勇者の候補者を切らさずに確保することが必要だったからです。ニセの勇者を選んでしまったときの対処は、あくまで、「候補者の中から選ぶのを間違ったね」であったはずです。

「科学的である」という言い方がもてはやされるのも、或る意味では類似があります。そういう事によって「科学的である」ということの価値を高めて、「科学的であろうとする」候補群を増やしたいという事にすぎないと思うのです。当然、巻き狩りでニセの勇者がでるように「ニセの科学的」もでてきます。でもって、今、一つの考え方として「科学をもてはやすことを止めよう」という話をされている方もいるわけです。社会に科学的というか合理的な考えなどは不要だというのなら、捨てれば良いだけです。巻き狩りを行わないなら「勇者」は不要です。

投稿: 技術開発者 | 2008.12.08 09:03

愚樵さん。
技術開発者さん。
こんにちは。
もうすっかり枯れ枝になった公園の風景をみながら、冬を感じだしている私です。
これからインフルエンザとノロウイルスの時期でもあります。
どうぞ、お二人ともお体お大切に。


と、言う事で愚樵さん。
開発者さんもご一緒に山登りしましょう♪
(開発者さん>この山登りと言うのは愚樵さんと私の合い言葉なのです。つまり討論・議論しながら、何かをお互いに得ていこうね、、、という意味です。
開発者さんも、よろしければ山登りおつきあいください♪)

では、出発。
「せとさん、技術開発者さんはおふたりとも、政治経済と科学は別次元だ、というお立場なんですよね?」
と、のっけから言われる愚樵さん。
これに対しては開発者さんも言われていますが、
別次元ではあるが、不可分でもあるということです。
開発者さんのようにスマートに説明はできませんが、
何も科学に拘らなくても、芸術でも教育でも、その他多くの学問は社会、政治、経済の仕組みに織り込まれていってるのではないでしょうか?
愚樵さんの造詣深い音楽も。
あるいは作家や詩人や、、、
「時代の子」であるという柵から抜けられないと思います。
その一つが「自然科学」であるということです。
なにも自然科学だけが特別のものではありません。

「科学が成果を上げるためには実際に科学という営為が行われなければいけない。営為なしに成果は上げられない。当然の話です。では、科学の営為が政治経済と無関係になされることはあり得るのか? それは否でしょう。 科学には現実に「大衆」のカネが使われています。」
と次に展開される愚樵さんの質問に対して、
私は「はい、そうです」と答えます。
科学には確かに莫大な税金が投入されるというのは事実です。
が、その税金投入の理由を愚樵さんは以下のように言われる。
「科学に「大衆」のカネが使われるということは、そこに科学は善という「大衆」の判断が前提にあるはずです。 科学の営為を一方で善としながら、一方で科学の成果は善悪無関係だとする。この矛盾は、おそらく「大衆」には受け入れがたい。ゆえに「大衆」は「大衆」であるわけです。」と。

ううううう〜〜〜〜ん。
これはどうでしょう????
大衆のカネが使われるのは善だと判断したからではなく「有用」であると判断したからです。
善と有用は別のものではないかと思います。
つまり、今までの一連の流れから考えて、愚樵さんが「善」と定義したそれは、倫理や道徳と不可分のものですよね?
その定義の上では、善と有用は別のものではと考えます。

もし、善がまた別の概念で規定されるなら、その時はその概念での討論になります。

では次の展開にいきましょう。
「科学の営為を一方で善としながら、一方で科学の成果は善悪無関係だとする。この矛盾は、おそらく「大衆」には受け入れがたい。ゆえに「大衆」は「大衆」であるわけです。」と言われ、次にこのように言われます。
「これは逆に言いますと、この矛盾を受け止められる者は「大衆」ではないということ。すなわち「貴族」です。これは高貴な精神の保有者という意味でもそうですが、黙ってカネを出せという存在であるという意味にもなります。が、そういう貴族に大衆は反逆を企てずにいられるでしょうか? また大衆を反逆に乗り出させないようにするためには、哲学、あるいは宗教が必要なのではないでしょうか?」と愚樵さん。

ううううう〜〜〜〜ん。
です、またまた。
まず科学の成果を善と言う。
と言う前提が私とは違います。
前にも書いたように「科学の成果」はたんにそれだけです。
善と言うのは科学ではなく、その成果を使うときの便宜として「善」とすればいいと思う勢力がそうするだけのことです。
それが愚樵さんの言われる貴族であり、私ならば権力とか支配とかそんな言葉で表現するかもしれませんが。
そして、愚樵さんは支配する側の常套として宗教を持ち出し、最後に水伝の宗教生を述べられました。
そうです。
だからこそニセ科学批判を恒常的になさっている多くの方々は水伝の本質を警告、告発しているわけです。

さて、最後の結びが何回よんでもわからない。
「科学者に問われているのは、食えない貴族か、あるいは大衆の代表者かの選択ではないですか?」
うううううう〜〜〜〜ん。
どうして、今までの論理の先に、このような二者択一が求められ、かつ疑問として提示されるのか????
いやぁ〜〜〜〜〜
わかりません。
ごめんなさい。
今まで登っていた山道が突然、消えて、
別の山道に迷い込み、
案内板に「食えない貴族」「大衆の代表者」さぁ、どっちだ、、、と選択を迫られている気分ですぅ。
返答に困りますぅ。
ごめんなさい。
保留。
もし愚樵さんのお時間が許せば、また別の方法でお示しくださると、ありがたいです。

と、言う事で今日はここまで。
早く迷路から救ってくれっっぇ、愚樵さん>


技術開発者さん。
とても明快にわかりました(◎´∀`)ノ
人が生きていく上での「方便」の一つなんでしょうね。
科学にしても、あるいは宗教にしても、哲学でも。
いずれにしても人は生き延びていく事が最大の目的なのだから、、、

投稿: せとともこ | 2008.12.08 13:44

>愚樵さん

こんにちは。初めまして。

>オルテガが「大衆」としたのは、専門家、特に科学者のことだったはずです。……
専門的知識への圧倒的な情熱と覚悟とリソースゆえに「知的閉鎖」に陥る人々を、オルテガは「大衆」と呼んだのだ、と私は思いますが...。

すみません、私はオルテガは『大衆の反逆』しか読んでいないのですが、こういう理解には至らなかったのです。できればどのあたり(あるいはどの著書)に書いてあったのか教えていただければありがたいです。m(_ _)m

投稿: hietaro | 2008.12.08 15:20

こんにちは、せとさん。

>人が生きていく上での「方便」の一つなんでしょうね。

そう、或る意味では社会の持つ「騙し」みたいなものかも知れません。社会が「こういう能力の人間が必要」としたときに、そういう能力のある者を「偉い、偉い」ともてはやすことで、そういう能力を社会の中に作り上げるという「騙し」ですね。別に自然科学に限らないですよ、法律が複雑化すれば、「法律がわかって的確な運用ができる者」が必要だから「司法試験を受かる奴は偉い」だし、経済がグローバル化して世界経済の流れを読める奴が必要なら「外資に勤める経済アナリストは偉い」だしね。まあ、経済の方は素直に皆沈没状態ですが(笑)。或る意味で、そういう社会の仕組みというのは根底に理解しておいた方が良いと思います。補正予算の話にも書きましたが、いようがいまいが「自分たちはこういう政治家を尊敬する」みたいな態度を示していれば、そんな政治家になろうとする若者がいるかも知れないけど、「政治家なんて皆人間のくずだ」と言うなら、当然、真面目に政治を志す若者は現れないからね。

なんとなく、今の時代というのがそういう「社会の騙しのシステム」を捨て去っている様に見えるのね。なんていうかな、現実に金儲けに走る医者がいるよね。でも、孤島が無医村にならないようにがんばる医者もいる。その時にどういう事を言うかなのだと思うんですよ。「医者ってのは無医村があったら孤島にでも行く立派な者なんだ」と言いながら、「中には金儲けに走る失格医者もいるけどね」とするのか、「医者なんてのは金の亡者がなるものさ」と言いはやして、「中には孤島に行く変なのも居るけどね」とするのかなんです。前者だと志の高い若者が「よし医者になって無医村を救おう」と思うかもしれないけど、後者だと「金になるから医者になろう」という若者が医者になる(笑)。

世の中には大衆が、簡単になろうとしてなれない能力というのがあります。生知安行、困知勉行なんて言い方を中国ではするけど、生まれつきそういう差はあるのが現実です。だけどね、生知安行な若者を「自分たちに都合が良いように使う」という秘訣がこの「偉い奴はこうするもんだ」と自分たちの都合の良いエリート蔵を作ってもてはやすという事だと思うんです。「お前は偉いんだ、偉いんだ」と言い、そして「偉い奴はこうするものなんだ」と大衆に都合が良い方向に能力を発揮させる。これが「エリートを選ぶ」という事だと思うんです。

変な話をしましょうか?金色夜叉という小説がありますよね。帝大生の寛一がお宮に逃げられて、復讐のために高利貸しになって金持ちになるなんて話です。実はね、これって結構、その時代の大衆の意識を表して居るんですね。一つは「帝大生は頭が良いんだから高利貸しに走れば短時間で金持ちになれる」という認識ですね。現実にどうかは別にして、読者がそう思っていないとこの小説は非現実的過ぎる訳です。もう一つは「簡単に金持ちになれるけど、帝大生なんていうものはいやしくも高利貸しになんかならない」という認識です。この認識があるから寛一が高利貸しになるという部分でお宮を失った復讐心が大衆に伝わるわけです。

投稿: 技術開発者 | 2008.12.08 17:44

今朝のコメントには反発(?)があるだろうなと思って仕事から帰ってきたら、やっぱり(^-^; こうした応答は、寝起きの頭でやるものではないですね。ついつい飛ばしすぎてしまいます。

せとさん、私の職場はもうすっかり冬です。昨日今日と天気は良かったのですが、一昨日降った雪がべったりと残っていて地下足袋は溶けた雪でびしょ濡れ。おかげで足の指に霜焼けが出来てしまいました...

さて。まずはhietaroさんへのお返事からです。初めまして。hietaroさんにはまずお詫びを申し上げておかなければなりません。せとさんのところに投稿したコメントの一部は、本来ならhietaroさんのところに差し上げるべきものだったかもしれません。失礼をお許しください。

>>オルテガが「大衆」としたのは、専門家、特に科学者のことだったはずです。……

これはもちろん、『大衆の反逆』からのものですが。12章「専門家の野蛮性」をご覧いただければと思いますが、hietaroさんはもうすでにご覧になっているんですよね...。

>専門的知識への圧倒的な情熱と覚悟とリソースゆえに「知的閉鎖」に陥る人々を、オルテガは「大衆」と呼んだのだ、と私は思いますが...

オルテガは12章で科学者を「現代の貴族」の代表とした上で次のように記述しています。

「ところが、その結果、現代の科学者は大衆的人間の原型だということになる。しかも、科学者が大衆的人間であるのは、偶然の結果ではなく、またひとりひとりの科学者の欠陥によるものでもなくて、科学――つまり、文明の基盤――自体がかれらを自動的に大衆的人間に変えてしまうからである。」

「専門的知識への圧倒的な情熱と覚悟とリソース」を持つことは科学者の条件でしょうが、そのことが自動的に科学者を大衆に変えてしまう、と上の文章は読めると思います。また「知的閉鎖」としたのは「自動的に」、すなわち無意識的に流されてしまうことを指していったつもりですが、この表現は強すぎたかもしれませんね。

次は技術開発者さんへの返答になりますが、ここでいったん切りますね。

投稿: 愚樵 | 2008.12.08 19:40

hietaro さん。
技術開発者さん。
愚樵さん。
こんばんは。
コメントありがとうございます。

hietaro さん。
当エントリーで貴方のブログ、文を引用させていただきました。トラックバックをお送りしたのですが、届かなくて、ご挨拶が遅くなりました。
もし、不都合があればお申し出ください。
事後承諾になり恐縮です。
さて、エントリーに書きましたように、とても刺激になり考えさせられました。ありがとうございます。

どうぞ、今後ともよろしくお願いいたします。
では、また。


技術開発者さん。
先日、予算の方にもコメントを頂き、お返事と思いながら、こっちのエントリーを先にコメントしていたら、
なんだか話が進んでいって、お返事する間がなくなりました。失礼をしてしまいました、、、

予算の方への返事とも重複する予感がするのでコチラに書きますね。
開発者さんのように、その道での第一人者というか専門家の方も、初めからそうであったわけではなく、
積み重ねと時の偶然と、そしてそれらの必然で、そうなったということが、とても良く分かりました。
開発者さんはご謙遜で「仕方無し」と言われますが、それは、やはり必然だと思いますよ。
そして、先にも書いたように、その必然って、いろんな要素の偶然の積み重ねなのでしょうね、、、

前にも死刑制度でも書きましたが、
良い事も、悪い事も「縁」のなせる業なのかもしれません。
あっ、これって別に宗教とかそういう事ではなくて、
積極的に生きていくための人の知恵として「縁」と言う意味だとお取りくださいね。

そういう意味ではネットでも「縁」を感じます。
愚樵さんは、知性、感性が鋭くて、それでいて大胆なのです。ちょっとへそ曲がりですが、そこが面白い。
以前から、開発者さんと愚樵さんは、私にとって理性と感性を広め、高めると言う意味で、とても大切な方々です。
そして、今度はhietaro さんともお近づきになれたら、とても嬉しく思います、、、

そうそう、
このエントリーのそもそものテーマは「ネットはアゴラ」ということだったのだから(*^-^)
と言うことで、またね!!!


愚樵さん。
さらなる段階、楽しみにしています!!!

投稿: せとともこ | 2008.12.08 19:47

いったん切ったあと、技術開発者さんの新たなコメントが入っていましたね。「社会の騙しのシステム」というお話は私も頷けます。ですが、「原始の村の巻き狩り」のたとえ話は...、私には違和感が拭えません。

といいますのも、実際、私自身がいまだに「原始の村の巻き狩り」に近いような環境にいるからです。私は愚樵というHNですが樵というのは本当でして、日々、そうした役割分担を生業としているわけです。その実感からしますと、科学者を勇者だとするのはピンとこない。科学者は「原始の村の巻き狩り」の中には登場してきません。それよりむしろ、村の外部の出来事を聞かせてくれる坊さんといったイメージですね。そうした「科学は外部のもの」という感触が、私の科学批判の根源になっていると言ってもいいかもしれません。

>個々の人間というのが本能に導かれて寄り集まり、「生き延びたい、できれば楽に生き延び、子孫を残したい」と政治や経済という社会システムを発達させてきたし、自然科学もその欲求の上に発達してきた面があります。

確かにその通りです。自然科学は技術と密接な関係にありますしからね。これは科学の文明的な側面でしょう。ですが、人間の行為には文明的な側面と文化的な側面とがあるはずでして、ご理解いただけると思いますが、私が問題にしているのは文化的な側面の方なんですね。私の専門の山仕事でも様々な作業の技術的な体系の他に、仕事に関連する信仰、あるいは迷信といったものも同時にあるわけです。科学はそこを専門にしているかどうかに関わりなく現代の私たちの生活にはなくてはならないものになっていますから、当然文化的側面としての科学も大きな存在になっているわけです。

ですが、上でも述べましたとおり、私にとっては「科学は外部のもの」という感触が強い。文明的な側面、技術として科学は「使える」ので違和感はないわけですが、それが文化的な部分となるとどうしても違和感を覚える。そんなところにまで科学が踏み込むなよ、と言いたくなる部分が多々あるわけなんです。そして、同じ仕事仲間の様子などを観察していますと、踏み込まれて従順に従う人と反発を感じる人とがいたりする。

いえね、私は今は樵ですが、大半の樵仲間とは違って、まあ、それなりの教育は受けているわけです。だもんで、時折、稚拙な科学的な知識を披露する場面なんかもある。そんな場面において「科学的」という言葉がどのようなインパクトを与えるかというと、それはやはり権威、それも外部の権威なんですよ。そんなときには、どこか宣教師のような気分になって(笑)、変な感じがします。

これは推測ですが、技術開発者さんも、それからせとさんも、科学に対して「外部のもの」という感覚はないだろうと思うのですね。話がかみ合わないのは、この感覚の差ではないのでしょうか? 私もたとえ話はよく用いるので何となくわかるのですが、たとえ話は、そのたとえ話を用いた感覚を読み手が誤解してしまうと全く伝わらない。技術開発者さんの「原始の村の巻き狩り」のお話には、そういう感覚の違いを感じてしまうんです。

投稿: 愚樵 | 2008.12.08 20:27

>愚樵さん

こんにちは。

『大衆の反逆』は随分前に読んだものだったので、すっかり抜け落ちていました。
早速該当箇所に当たってみようと思います。これが抜け落ちているということは、読んだときの問題意識のありようで理解内容が全然違ったものになるのだろうなあ、という驚きを感じています。(^^;

助かります。ありがとうございました。m(_ _)m

>せとさん

全く問題ありませんので、気にしないで下さい。

これからもよろしくお願いします。m(_ _)m


あと、これは話の流れには影響を与えませんが、該当エントリの「先生」の専門は、法学でした。

投稿: hietaro | 2008.12.09 00:29

こんにちは、 愚樵さん。

>私は愚樵というHNですが樵というのは本当でして、日々、そうした役割分担を生業としているわけです。

私も大学に行くために家を出るまでは「山の子」だったんですよ。そして、今、いろんなことを書いていますが、その中にも「山の子」として育った環境が影響しています。

中学生くらいの頃ですかね、休みの日の朝に親父にたたき起こされて、軽トラックで山に連れて行かれるんですね。まあ、親父が子供の頃はその山まで薪を取りに歩いて行っていたと言うから、里山と言えば里山なんですが、街の人が思い浮かべる里山よりはずいぶんと山奥という山ですね(家そのものが山の中だからね)。でもって、親父からいろんな話を聞かされながら檜の枝打ちとか雑木払いするなんてね。別に枝打ちとかは辛くはなかったんですよ。親父も一人で山に入るのが嫌だから私を連れて行った様なものでね、「疲れたら休み休みやって良いぞ」なんて言う程度だからね。親父はその山に植えられた檜を良く覚えているのね。「これはお前の爺さんが若い頃に植えた木だ」とか「これはお前の姉ちゃんが生まれた頃に植えた」とかね。

でね、私の頭の中になんて言うか世代を超えて受け継がれていくもののイメージが根付いているのですよ。山の木を伐り出して家を建てた者が、その山にまた新たな檜とかを植えてね、子供はその家に住みながら、その山の木を育て、孫やひ孫の代くらいになって家が傷んでくれば、育った木を伐って家の普請をするなんてね。そういう孫ひ孫のために木を育て続けた文化みたいなのが、私の思考の原点にはあるんですよ。

私は「ニセ科学批判批判」では「科学批判」にならないなんて言うけど、それとともに「科学批判」では「文化批判」にも成らないんじゃないかと思っている面があるのね。なんていうか、現代人が「科学主義的」になっているのは、自然科学が発達したせいというよりは、人文的な哲学が衰退したせいのような木がするんですね。哲学なんて言うと、眉間にしわを寄せて考え込むようなイメージになっちゃうけど、もっと私が子供の頃に山で感じたような「在野のおおらかな人生観」みたいな哲学ね。山が木を育て続けるように、その山の側で人間が代替わりしながら農業をし山の手入れをしながら連綿と生活を営む、それを素直に肯定する人生観のようなもの、そういう庶民の哲学ね。

まあ、自然科学が発達して生活が目先に振り回される様になったから、そういう庶民の哲学が衰退したんだと言えば、科学批判をする方向に成ってしまうんだけどね。でもね、別に家電製品に囲まれて自動車で仕事場に通いながらでも、持とうと思えばもてたりするんですよ、そういう庶民の哲学というのはね。なんていうか、自然科学とか技術が発達したから衰退したというより、現代人が自分の手で捨ててきてしまったもののように見えるのね。

投稿: 技術開発者 | 2008.12.09 08:22

せとさん、おはようございます。せとさんへのお返事を昨日のうちに書こうと思って書きかけていたのですが、眠くなったので中断してしまいました。私、夜はまったくダメで、普段の就寝時刻はだいたい9時といったところ。もう頭が回らなくなって。断念しました。

というわけで、今朝、再度チャレンジです。迷ってしまったところをもう一度辿ってみましょう。
「科学と政治経済は別次元」。それと科学は「有用」なのか「善」なのか。このあたりですね。

そうですね。ここもなにか具体的なことを例に取った方がよいでしょう。そう...、遺伝子組み換え作物を取り上げてみましょうか。

ある企業が遺伝子組み換え技術で、それまでにない特徴を持った作物の種子を開発したとします。収穫量が多いとか、病気への耐性があるとか、農薬に強いとか、いろいろ特長があるわけです。つまり「有用」というわけですよね。が、一方で、そうした作物は自然環境に何らかの副作用を及ぼすかもしれないが、それはまだ未知数。その未知数を明らかにするのも科学の役割で、そうした意味でも科学は「有用」。で、前者の「有用」と後者の「有用」の成果を踏まえて、遺伝子組み換え作物を導入するかどうか政治的に、あるいは経済的には判断する。科学と政治経済が別次元。せとさんが考えておられる科学のイメージはこういったところだろうと思うのです。

昨日朝のコメントでも申しましたとおり、私はこの立場を支持します。が、これも申しましたとおり、現実はみながそうした立場ではない。「遺伝子組み換え作物が開発された」ことをそのまま政治的・経済的判断に直結させてしまうようなケースは非常に多いですね。こうしたケースは、穀物メジャーのように確信犯的に行っている場合もあれば、科学への漠然とした「善」のイメージでなされる場合もある。遺伝子組み換え作物については、日本では不信感は高いところがありますから「善」のイメージとは言い切れませんがアメリカあたりはそうでしょうし、日本でもかつて農薬には「善」のイメージがあったはずなんですね。また、こうした「善」のイメージを持つ者たちには、技術開発者さんへの応答で申しましたように、「科学は外部」なんですね。

すこし詳しく申し上げましょう。「科学は外部」という者たちにとって、「有用」という言葉が当てはまるのは、前者の「有用」だけだと私は感じているわけです。後者の「有用」は科学の内部にいる者にとっては紛れもなく「有用」でしょうが、外部にいる者には実感できない。その部分でしか科学に接点はないのですから。環境への影響といった観点での「有用」は、科学を外部と思っている者にとっては、迷信混じりで伝承されてきた知恵といった形をとっているものなんです。では、科学外部の者は科学を限られた前者の「有用」だけで評価しているかというと、それはそうではない。後者の「有用」も、よく実感できないながらも評価している。そこを私は「善」という言葉で表現したのです。

もう少し続けましょう。今日、朝からニュースで今年のノーベル物理学賞を受賞した科学者たちの事が報道されています。彼らの功績は素晴らしいものですが、私も含めてその素晴らしさの内容は全然把握できていない者が大半です。そして把握できないものを「有用」だなんて判断できない。前者の「有用」のみを「有用」とするなら、ノーベル賞を受賞した理論なんて「有用」からはほど遠いものです。けれども、そうした理論が完成されたことは「善いこと」だと思っている。すなわち科学そのものが「善」だというイメージになる。これが「大衆」の科学に対するイメージで、だから、科学にカネを費やすことを「大衆」は是認する。


次に移りましょう。「科学の営為を一方で善としながら、一方で科学の成果は善悪無関係だとする。」
ここで考えてみたいのは、「大衆」の科学に対する「善」にイメージを否定してみたらどうなるか、ということです。仮に、あのユニークな益川教授あたりが「私のノーベル賞受賞は、私にとっては善いことだが、一般大衆には関係のないことだ。私の理論があなた方の生活に役立つといったようなことはない。私は私の知的好奇心を満たすために研究をし成果を上げた。そのために情熱と覚悟を傾けてきたのだ」とでも発言したら? もちろん、そんなことはあり得ないでしょうが、そう発言したとしても、全くの嘘ではないはずですね。実際、彼らの情熱と覚悟は一般大衆とは隔絶したものだったでしょうし。
結果は容易に想像できます。バッシングが始まるでしょうね。科学にカネを使うなという意見も出てくるでしょう。すなわち「反逆」です。「大衆」と科学とを結びつけているのは、この程度のものではないでしょうか?

こう見ると、「科学者に問われているのは、食えない貴族か、あるいは大衆の代表者かの選択ではないですか?」の二者選択も、つながってはきませんか? マスコミで報道される益川教授は、みごとに「大衆」のイメージする「善」に乗っかっているわけです。つまり「大衆の代表者」となっているのですね。もし「貴族」ならば、上のように発言するのが相応しいが、そうはしない。そして「大衆の代表者」が宣伝されればされるほど、「大衆」は科学を外部のものとしていく。いえ、この宣伝は、科学を自らの内部としようと志す者も増やす効果はあるでしょう。それは善いことのように思えますが、結局は志す者とそうでない者との差異を際だたせるだけのこと。内部とした者は科学を「有用」とするだろうし、外部とした者は「善」のイメージに終始する、その差異。

私が科学を宗教だというのは、この差異の取り扱いを指していうわけです。科学には、専門家と素人の差は厳然として存在するのに、あたかもそれが存在しないかのように振る舞う。そして、なかにはそれを信じ込んで、素人も専門家と同等のように思い込む者も出てくるが、専門家は、それを「失礼」とは感じても大声ではなかなか言えない。まるで「神の前の平等」ならぬ「科学の前の平等」。

...おっと、いつもの事ながら飛ばしすぎましたね(;´Д`A ``` ですが、もう少し。

「科学の前の平等」は、建前として機能するだけでなく、「大衆」を実質的にその方向へ動くようにも働きかける。それが「水伝」批判に代表される科学教育でしょう。すなわち、全員が科学内部の人間であるべきだ、というように考えるわけです。
これは私には、科学外部の者であることの選択を阻む圧力になっているように映るんです。それゆえの、ニセ科学批判・批判、ひいては科学批判。さらには時代性そのものへの批判につながっていきます。

投稿: 愚樵 | 2008.12.09 08:46

hietaro さん。
技術開発者さん。
愚樵さん。
こんにちは。
こちらは雨です。
すっかり冬支度の自然を見ながら、まだまだ片付いていない家の中をみてため息の私です。


さて、hietaro さん。
ご快諾いただきありがとうございました。
私もハテナのidを取ろうかしらん、、、
これからもhietaro さんのブログ、楽しみにして訪問しますね(*^-^)
では、またね!!!


技術開発者さん。
そういえば、以前も開発者さんの山のお話、伺いましたね。思い出しました。
「自然科学とか技術が発達したから衰退したというより、現代人が自分の手で捨ててきてしまったもののように見えるのね。」
あっ。
これはまさに愚樵さんの持論でもあるのです。
私が思った通り、やはりお二人の考え深いところには共通の何か、そう、言ってみれば「体験に根付いたもの」を感じます。
机の上での議論のやり取りでない確かさというものです、、、
尤も、お二人の方向はちょっとばかり違う方向に走っているようですが( ̄Д ̄;;

ははは、、、
です。
ではまたね。


愚樵さん。
OKです。
愚樵さんが何に対してもどかしさを感じているのかが。
今日は科学の大衆性について戸坂潤の科学論をみていきましたので、また感想など頂けると嬉しく思います。
なお、
愚樵さんの問題意識に対しては少しは近づく事ができました。
が、
それを是としていない私がここにいます。
そもそも「科学とは何か?」
愚樵さんと私の認識は違うように思います。
その違いを「内部」と「外部」という言葉で分断されたら、
私は次の言葉がない。
ただ一言、ぼそり「それはないよ、、、」としか。
愚樵さんの問題、多くは現状認識、現状規定は、戸坂のそれと大差ないと思います。
が、
次の一歩が大きく違う。
戸坂は科学を大衆化するために如何にすべきか、階級闘争か(ちょっと今にあわないね、、、)と自問自答する。
愚樵さんは、科学の宗教性と言う風に進んでいく、、、
この辺りが私にはいかんともしがたい。
のです。
うううううう=====ん。
もう少しお時間をください。
ちょっと考えてみます。
では、、、またね!!!

投稿: せとともこ | 2008.12.09 15:46

こんにちは、せとさん。

>尤も、お二人の方向はちょっとばかり違う方向に走っているようですが( ̄Д ̄;;

う~ん。善悪の捉え方の違いかも知れませんね。善悪とは本来、目的に対する行為の適合により生ずる概念だと私は思っているのです。そのため、私なんかは「善だ、悪だ」と言われると、「どの目的レベルの善なのか、悪なのか」と考えてしまう和気ですね。神様が定めてくれた「善悪」というのを持たない者だからね(笑)。

私の様に性善説の儒学にかぶれたものが性悪説の法家思想を語るのは変だけど、韓非子なんかにはこういう主旨の説明があるのね。「為政者が将来の飢饉に備えて備蓄しようとすると、平年に年貢を大目に取り立てなくてはならない。人というのはそういう取り立てを嫌がるものである。それゆえ、法を定めえこひいきの無いように取り立てるべきだ」なんて話ね。儒家だと後ろの部分が「仁愛をもち、良く説き聞かせて供出させなくてはならない」となるけど、最初の部分、つまり「飢饉の備蓄のためでも、平年の取り立て(供出)は嫌がるだろう」なんて部分は同じだったりするのね(笑)。

或る意味で「為政者が今は政治を行うのに必要ではないものを出せと言うのは悪だ」と感じる庶民の「悪」と、「将来、飢饉もあるからそれに備えるために、今、余分に出してくれ、これは善だ」と感じる為政者の「善」は、ここに相反している訳です。それを調整するためには「社会の目的」というものが必要で、「我々は今も将来も生き延びなければならない、できれば楽に生き延びたい」という目的のようなものを導入するとき、為政者の善に軍配が上がるだけのことだと思うわけです。

今の日本の社会を見ていると中国の文化大革命を思い出すんですよ。文化大革命で弾圧された「知識人」というのは7千万人と言われていますけどね。もともと、中国のモラル、まあ、儒教的モラルですが、それを保っていたのは「漢字の読み書きができる一部の知識人」が儒教的モラルを大衆に押し付けていた面があるんですね、上で言う善悪のぶつかり合いの時に「将来を見つめた善」を押し付けるような役割です。中央の権力争いが「孔子批判」の様相を帯びて全土に広がったときに、まさに大衆が感じる「悪」を、「これは広い目でみれば善だよ」と押し付けていた儒教モラルは徹底的に破壊された訳です。その破壊は今でも中国を苦しめている様に見えるんですね。

投稿: 技術開発者 | 2008.12.10 09:08

技術開発者さん。
こんにちは、、、

そうかぁ。
と、いきなり切り出すのですが、
なるほど「善悪」の捉え方が違うのかもしれませんね、、、
なるほど。
なるほど、、、

愚樵さんって、自らの教育を打ち捨てて山に入った方で、その人生観や死生観は、自然とともにあるところがあります。
以前も「言葉」の魂について、いろいろ討論したことがあるのですが、
なんて言うかここに息づいている空気にもビ〜〜〜ンとした魂があるような、そんな感性の方です。
開発者さんは、私の中では、そうした身内から弾けるようなエネルギーを感じつつも、理性と知性とで身を絡めながら、、、それでも、時々弾けるお茶目なところが私は好きです。
愚樵さんと同じ匂いがどこかでするんですね、、、

いずれにしても私にとっては、寛容を感じられる大切な方々です。
これからも宜しくお願いします。
なお、
性善説と性悪説、面白かったです。
感想はいずれまた(o^-^o)

投稿: せとともこ | 2008.12.10 12:31

こんにちは、せとさん。

>愚樵さんと同じ匂いがどこかでするんですね、、、

前に、労働運動の内部統制の所でも少し書いたかも知れないんだけどね。権威・権力に実力で反発するために内部に対しては権威・権力となってアンコントロール状態を防がなくてはならないみたいな自己矛盾をやるのが私なんですよ。

私は一面でリーダーでもあるんです。そしてリーダというのは本質的に権力なんですよ。自分で望もうと望むまいと、「リードしてくれ」と言われて引き受ければ、私のプランに皆を従わせるために権力とならざるを得ないんです。

私は、労働組合の中でいろんな人の不満も聞くのね。でもって、「うちの経営者は権力的だ」という事に対する不満に関しては、時々だけど「権力的と言う意味では私も同じなんですよ」なんて説明をすることもあるのね。労働組合を例に出しても良いけど、それだとナマナマしいから、所の一般公開とかを例に出してね。「プランを出して、皆に『こうやってくれ、ああやってくれ』て言うよね。或る意味で『俺に従え』をやるという事では私も同じなんだよ」なんてね。

結構、私がそれを言うと、皆さん困っちゃう(笑)。みんななんとか「あんたのは違うだろう」といろんな理屈を考えてくれるんだけどね(けっこう意地悪かな:笑)。皆が行き着く結論は「あんたは、人がやりたがらない事のリーダーを引き受けているから皆が従わざるを得ない気分になるけど、うちの経営者なんてやりたくてやっている奴ばかりだろ、そいつらが権力的だったら従いたくも無くなるよね」みたいな結論かな(笑)。「俺にだって『俺ならできる』みたいな自負心に突き動かされて引き受ける面もあるし、人が自分の指示に従うことを楽しんでいる面があるかも知れないよ」なんて、ほんのたまにだけど言ったりもするのね。陽明学というのは自分の心を徹底的に見つめようとする思想だからね、これもまた、嘘ではないのね。

権力ってのは常に「悪」ではあるんです。そして悪には常に「蜜の味」の部分はある。私が例え皆が尻込みをすることに対するりーダーであっても、そこには蜜の味は常にありますからね。こういう部分もまた「事上磨練」なんだと思っています。蜜の味に溺れることなく権力という悪を「必要悪」のレベルに押さえ込むというは、かなり難しい事でもあるんですね。

投稿: 技術開発者 | 2008.12.10 16:35

せとさん、おはようございます。また出勤前の短い時間でのコメントなので、舌足らずになってしまうと思いますが...。

>愚樵さんの問題、多くは現状認識、現状規定は、戸坂のそれと大差ないと思います。
>が、次の一歩が大きく違う。

はい。私もそう思います。まだ時間がなくてご紹介の戸坂潤の文章は見ることが出来ていないのですけど、たぶん方向性は違うでしょうね。せとさんの記事で「プロレタリア科学」という言葉が出てきたとき、あ、それは違う、と思ってしまいました。

なんていうのかな、科学というのは光なんですよ。闇を照らす光。光は、それが照らし出す部分は明るくしますが、同時に光が当たらない部分により深い闇を作る。ほら、「和泉式部と赤染衛門」のエントリーでも触れたではないですか。あの「光」なんです。私のイメージでは。

闇に光をあてる。これはまた別の言葉で言い換えると、啓蒙主義でもある。私は戸坂潤には、その啓蒙主義を感じられるのですね。科学を大衆化しよう、すなわち、科学の光を世界の隅々にまで当てよう。うん、その心意気みたいなものは買うのですけれど、私には闇を無くしてしまおう、みたいな考えは同意できない部分があって、そうした考えこそが闇をより深くしてしまうのではないか、と。闇を照らす光は、これもせとさんがお使いになる言葉を借りますと、自灯明の光で十分なのではないか、と。

もう少し付け加えますとね、私は科学を自灯明の中に組み入れることはできると思っているんです。でも、別にそれは自灯明に必要不可欠な要素ではなかろう、と。科学なしでも明かりは灯せる。が、これは時代性だと思うのですが、明かりに科学は不可欠だといったような風潮があるように感じるのですね。科学を自らの明かりの中に組み入れることを選択した者には科学は内部ですが、そうした選択をしなかった者に科学の光を押しつけると、それは外部からの光になって、闇を余計に暗くするのですよ。

科学を自らの光とするか、外部のものに留めるか。こうした選択は、まさに宗教的なそれに似ているように思いませんか?

投稿: 愚樵 | 2008.12.11 06:05

技術開発者さん。
愚樵さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
いよいよ年末も近くなり、私もちょっと家の掃除なんかを気休め程度にしていますが、なかなか根性ある埃たちですぅ。
ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…
って感じ。


開発者さん。
「権力ってのは常に「悪」ではあるんです。そして悪には常に「蜜の味」の部分はある。私が例え皆が尻込みをすることに対するりーダーであっても、そこには蜜の味は常にありますからね。こういう部分もまた「事上磨練」なんだと思っています。蜜の味に溺れることなく権力という悪を「必要悪」のレベルに押さえ込むというは、かなり難しい事でもあるんですね。」

うううん。
なるほど。
確かに「必要悪」ってのは、その名のとおり必要でありますよね。
遊びの部分というか「マチ」というか、、、
冗長なものって絶対に必要なんでしょうね。

事上磨練。
これは陽明学の教えですか???
よろしければ、またお教えください。
楽しみです。

愚樵さん。

「くらきよりくらき道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月」
ですね。
そうですね、、、和泉式部でもコメント頂きましたね。
今、もう一度読み直しました。
まぁ、それはともかく。
「科学というのは光なんですよ。闇を照らす光。」
と、言われる愚樵さん。
ここで私は逡巡します。
「そうかな???」って。
闇を照らす光。
そうですね、、、
懐中電灯ですか???
なにしろ私は科学は道具だと思っているから。
ははは〜〜〜
ゴメン。
確かに闇に光りがあたれば、さらに闇は深くなります。「投げ打つ闇の深さ」です。
が、
が、
科学は闇を否定しているわけではないと思うのですが???
どうなんでしょう???

投稿: せとともこ | 2008.12.11 15:49

こんにちは、せとさん。

事上磨練はまさに「事の上において心を磨き練る」です。例えばリーダーシップをとることに成る前に「もし自分がリーダーだったらこういうリーダーになりたい」と思うかも知れない。それは大事なことです。例えば「いつでも仲間が支えてくれる事に感謝するリーダーでありたい」とかね。そして実際にリーダーになる。現実にとても苦しいけどがんばって何かに成功する。人から「良くやったな」と褒められる。自分が苦しかった事の思い出が頭をよぎる。ついつい「自分がやったんだ」と嬉しさに浸って、「仲間が支えてくれた」が心に浮かばなくなっている自分が居る。その状況で、実際に事の上に居る前に思っていたリーダー像を思い出し、「皆に支えられたな」ときちんと思い、皆に感謝ができるかどうかですよ。事の上にたってはじめて、真に心を磨き練る事ができるという意味はね。

今の日本人も或る意味で事上磨練の時なのかも知れませんね。便利な道具もなくて、色んな事に手間と時間が掛かった時代、「自分にゆとりがあったら、これもしたい、あれもしたい」があったかも知れませんね。でもって、実際にいろんな便利な道具に囲まれて、時間にゆとりはできたけど、結局、たいしたこともせずに一日が過ぎていくなんてね(笑)。

明治の頃に「文明開化」と「自由民権」をペアで考えた人が居たと思うのね。名前が出てこないのだけどね。文明が開化し、人にゆとりができて、はじめて「まつりごと」に意識が向けられるなんて考え方ですね。そうなっていますかね。

投稿: 技術開発者 | 2008.12.11 18:07

せとさん、おはようございます。

昨日放った矢は、やっぱり大きく的を外したようですね(;;;´Д`)ゝ こんなときは、ブログを経由して話をすることにもどかしさを感じなくもない。私は言葉を選ぶのが下手くそですから。

でも、互いに通じ合う言葉を探すのがブログの醍醐味でもあると思います。今回は、とりあえず一定の成果を見たと言うことで、これ以上欲張るのはやめましょう。機会はまだまだあるのですから。私は諦めませんよ(笑)。

時間が出来たら戸坂潤を読んでおきますね。

で、技術開発者さんへ。

事上磨練。これ、もっと短く「仕事」でもいいじゃないでしょうか? 事に仕える。自分が果たすべき役割(≒職業)を労働と捉えるか、仕事と捉えるか? 外形的には同じ作業をしていても、主体的に仕事として捉えるか、単に労働力を提供するだけのものとするかで、全く違いますよね。

>明治の頃に「文明開化」と「自由民権」をペアで考えた人が居たと思うのね。

そう、そういう思考。「文明開化→自由民権」という命題は必ずしも真ではない。文明開化は自由民権の十分条件ではない。でも、そう考えがち。啓蒙主義ですなんですね。

明治以降の自由民権運動は、それ以前に日本の共同体社会にあった「寄合い」という直接民主主義を破壊した。それと同様に、科学は、それまで様々な形で存在していた「仕事」を破壊したと思うのですよ。「仕事」は、単なる技術・作業ではないんです。作業という文明的な部分に付随して様々な文化的な側面があんですが、科学はそこを破壊する。そして多くの「仕事」を解体して「労働」にしてしまったんですね。

投稿: 愚樵 | 2008.12.12 05:12

こんにちは、 愚樵 さん。

う~ん。なんていうか、陽明学というのはどちらかというと非常に内省的な面を持っているのでね。事上磨練というのも、基本的に「自分を磨き練る」という事を目的とするのね。自分を磨き練る上で「現実に自分が置かれた状況の中でできるか」を厳しく問う面があるんですよ。

そういう内省的な面から見ると問題は「磨き練ろうとするかどうか」にポイントがある感じになります。論語に「中人以下もって語るべからず」なんてありましてね、「あるレベル以下の人には語っても仕方ないよ」なんて孔子が言うわけですよ。でもって、王陽明の弟子がね、「人には賢く聡い者も、愚かで鈍い者もいますが、愚かで鈍い者には語っても仕方ないのでしょうか」なんて問うたりしたときに、「生知安行、困知勉行の差はあるが修行するならその到達点において差はないよ。ただね、賢かろうが愚かだろうが、自分を磨く気が無い者はどうしようもない。そういうことを孔子は言ったんだよ」なんて言うわけです。

なんていうかな、「自分はどういう存在でありたいのか」そのものを忘れて、自らを変えることを忘れてしまうなら、そこには何も無いのかも知れませんね。

投稿: 技術開発者 | 2008.12.12 08:03

技術開発者さん。
愚樵さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。


技術開発者さん。
「事上磨練はまさに「事の上において心を磨き練る」です」
そうなんですか、、、
なるほど。
イメージトレーニングって感じでもあるのでしょうか???
それとも平静に遭って、戦を忘れずというかなり引き締まったものなのでしょうか???
いずれにしても、
「こうでありたい自分」というものの追求は絶えずしていきたいと思っている私がここにいます!!!
また、いろいろお教えくださいね。

では。


愚樵さん。
大きくはずしましたか???
ははは。
私もそうだろうと思いました。

と、言うかそもそもの前提でためらう私なのですよ。
そんな科学って大それたものかしらん、、、ってね。

いずれにしても、
こうして粘り強く言葉を通して理解できたらと願っています。
楽しみです!!!
これからも宜しくお願いいたします。
お手柔らかに!!!

投稿: せとともこ | 2008.12.12 16:03

こんにちは、せとさん。

>イメージトレーニングって感じでもあるのでしょうか???
>それとも平静に遭って、戦を忘れずというかなり引き締まったものなのでしょうか???

逆でして、「イメージトレーニングができたからといって実戦で使えるとは思うな」という意味も含みますし、「イメージトレーニングができないからと実戦に飛び込むのをためらうな」みたいな過激な意味も含みます。王陽明が生きた明の時代というのは、実は今の日本と少し似ています。科挙という官吏登用試験が非常に緻密になり、重箱の隅をつつくような問題も多くなります。そして受験勉強としての儒学が発達する訳です。でもって若者はとても熱心に勉強するのだけど、座学はあくまで座学です。儒学はモラルを扱うことの多い教えなんですが、モラル論は良く勉強していて知識もあるのに、それで合格して、いざ官吏になるとモラルのかけらもない官吏になったりするという事が起こった訳ですね。それに対して出した考え方が「事上磨練」だと思ってください。

投稿: 技術開発者 | 2008.12.12 16:52

技術開発者さん。
コメントありがとうございます。

「逆でして、「イメージトレーニングができたからといって実戦で使えるとは思うな」という意味も含み」

あああ===
そうなんですかぁ、、、

なるほど。
座学はあくまで座学。
わかります。
なんとなく
「学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆うし」
孔子を思い出しました。
やっぱりバランスてしょうか???
先人の知恵から学び、さらに実践。
実践の経験からさらに知恵を深めていきたいものです。
またいろいろお教えくださいね。
楽しみにしています。

投稿: せとともこ | 2008.12.14 11:59

こんにちは

トラックバックの件ですが、こちらのMovableTypeがスパムとして非公開の処理をしていました。(^^;

つまり、せとさん側の問題ではありませんでした。

公開に変えましたのでよろしくお願いします。

投稿: hietaro | 2008.12.15 08:26

hietaroさん。
こんにちは。
ご丁寧にありがとうございます。

これからは、ドンドンとトラックバックできますね(*^-^)
また、いたしますので、どうぞ宜しくお願いいたします。

では、、、またね!!!

投稿: せとともこ | 2008.12.15 12:13

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受信: 2008.12.03 17:14

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