「善の研究」から
1911年、1月30日。
西田幾多郎の「善の研究」が刊行されました。
今では青空文庫で読むことが出来ますので、興味のある方は是非ご覧ください。
京都大学では西田の手書き原稿をPDF、として公開しています。
直筆の原稿をみると、やはり迫力が違い、感動します。
是非ぜひご覧ください。
さて、そんなわけで「善の研究」。
難解なことと、解説がないことで、読者泣かせの本です。
私も幾度か挑戦したのですが、あえなく脱落。
言葉が難しいのですね、、、
今は解説も出ているようですが、やはり難しい。
が、
難しいながら、今日は挑戦しようと思います。
と、言うのも、このところ、茂木健一郎さんの「意識とはなにか」やモノーの「偶然と必然」などを読みましたが、
今回は、
「哲学という観点」で、上記関連について考えていこうと思うのです。
微力ですがお付き合い頂き、またご意見を頂けると嬉しく思います。
と、言うことで、
まず第一編 純粋経験。
「経験するというのは事実其儘に知るの意である。」で始まる有名なところです。
「全く自分の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、豪も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。」と続きます。
そして、「たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自已の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。」となります。
まさに禅です。
まさに白隠ですね、、、
===========
衆生本来仏なり
水と氷の如くにて
水を離れて氷なく
衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
いわんや自ら廻向して
直に自性を証すれば
自性即ち無性にて
すでに戯論を離れたり
この時何をか求むべき
寂滅現前する故に
当処即ち蓮華國
この身即ち仏なり
(坐禅和讃より)
============
フゥ====ム。
西田幾多郎は禅の影響を深く受けた哲学者です。
さてさて、
茂木さんのクオリア。
思い出しますねぇ、、、、
内観でしったけ???
茂木さん>
まぁ、それはそれとして。
そして、西田は、意識とか意味は過去の経験により形成されるものであり、本来の純粋経験ではない、と書き締めます。
その後も西田は分析と検証を重ねますが、
私は、自分の関心と言うことで、今回はズバリ宗教について西田はどのように考えているかを次に見ていきます。
第四編第一章「宗教的要求」がそれです。
「宗教的要求は自己に対する要求である」と定義しています。
西田にとって「自己」とは「統一」であり、したがって体外的に感知される「世界」もまた「統一」です。
それは、あくまで唯一実在である「純粋経験」です。
「純粋経験」とは、「自己」「世界」の大本
↓
「自己」や「世界」以前の領域で<遍在>している「純粋経験」が、「統一作用」によって「自己」や「世界」といった枠の中にたまたま<偏在>。
↓
「自己」という枠の中に<偏在>してしまっているものは、その本質的に何を要求するのか。
↓
それが、「宗教的要求」であり「絶対無限なる力」という神。
↓
<遍在>する「純粋経験」へまた帰ることだと確認。
では、
「宗教的要求」とはなにか?
それは、「絶対無限なる力との合一」の「絶対無限なる力」とは、あからさまに唯一実在と思しき表現である点で「純粋経験」のことだと西田は言います。
そして、
「宗教は人間の目的其者であって、決して他の手段とすべきものではない」と述べます。「宗教は自己の安心の為であるということすら誤っているのではないかと思う」と言い、人間が信仰をもつことに先行して存在している宗教的要求、つまり「絶対無限なる力に合一」することであり、、「宗教的要求は自己に対する要求」だというわけです。
そして自己と他。
内と外について考察。
その繰り返しのなかで、行き着く先は、
我々のレベル・領域における「主/客」とはまったく異質な、あらゆる主観を排斥した「絶対客観的実在」というものを想定していきます。
この「客観的実在」は、「宇宙其者」「物我一体」とも呼ばれたりします。
勿論これは「主/客」が非分離だった頃=「純粋経験」のことへと再帰します。
西田は「神は宇宙の根本であって兼ねて我らの根本でなければならぬ」とか
「神は万物の目的であって即ちまた人間の目的でなければならぬ」
「神は生命の源である。我々は神において生く」と言います。
ここで言う神もまた「純粋経験」のことです。
神という言葉に込められた「純粋経験」という呼称だけでは担保しえない人格性を西田は強調しようとしたのでしょうか。
「神に対する真の敬愛の念はただこの中より出でくることができる。愛というのは二つの人格が合して一となるの謂(いい)であり、敬とは部分的人格が全人格に対して起す感情である。敬愛の本には必ず人格の統一ということがなければならぬ。故に敬愛の念は人と人との間に起るばかりでなく、自己の意識中においても現われるのである。」と西田は言います。
敬愛とは、何も他人に対してだけでなく自分にも表れ、返るものであること、それが神であり、「純粋経験」なのでしょうか。
そして、西田もまた宇宙を出します。
「神とは宇宙の根本」
「神と宇宙との関係は(中略)本体と現象との関係」
「宇宙は神の所作物ではなく、神の表現」と。
ここでいう「宇宙」とは、先日みたモノーの宇宙とはちがい「世界」のことでしょうか。そしてまたまた「宇宙=純粋経験」へと結びつけるのですが、、、
「最も根本的なる説明は必ず自己に還ってくる。宇宙を説明する秘鑰(ひやく)はこの自己にあるのである。物体に由りて精神を説明しようとするのはその本末を顛倒(てんとう)した者といわねばならぬ。」と。
西田にとって神や宇宙は結局は座りの良い言葉として選んだだけで、
本当に主張したかったことは、やはり「純粋経験」です。
事実を事実としてのみ捉えること、と言い直しても過言ではないと私は考えています、、、
主観や客観と言っても、所詮、人は過去の経験や思いから逃れられない。
ならば、
意識的に、意識的に「純粋経験」に立ち返る努力をすべきでは、と哲学者西田幾多郎は後世に伝えたのでは、と私は思います。
つまり、西田は神に頼ることなく(はっきりと述べています)、なんら恣意をはさまず、事実を見ることを、伝えたかったのではないでしょうか?
モノーの言うところの「「人間にとってどんなに不安で絶望的なことであろうとも、それが科学的で客観的な知識であるならば無条件で受け容れるべきだとし、他方で「にもかかわらず、現在の自己を超克・超越して理想に投企すべきである」と同じものを感じる私です。
先の「意識とはなにか」、「偶然と必然」と続いて示唆にとむコメントを沢山頂き、
学ぶことだらけの私です、、、

京都 秋の哲学の道。
一年中、西田はこの道を散策し、思索に耽りました。
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