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2009.01.16

「意識とはなにか」を読んで

茂木健一郎さんの意識とはなにか—「私」を生成する脳 と、欲望する脳を読んでみました。
茂木さんの本は初めてなので期待ワクワクで本を開き、一体、何を得ることができるか胸膨らませ、ピカピカの窓に映るキラキラの青い空に私の「クオリア」を重ねたものです、、、

はぁ?????
なんて言わないでください。
私のクオリアは私の物であって、あなたのものではない。
私があなたのことを分からないように、あなたも私のことはわからない。
だってそれが「クオリア」なのだから。


上の様な理解で宜しいのでしょうか?茂木さん>
いや、そうじゃない。
もっと深く読めと、言われるかもしれません。
と、言う事で以下、意識とはなにかを本文にそって検証していきます。
なお要約なので文章は私の言葉で書いています。

==============
本文は以下の三部だてです。
1 心と脳のミステリー—クオリアと同一性
(「私」の心をめぐる問題;「あるもの」が「あるもの」であること;「同じこと」と「違うこと」)
2 「私」というダイナミズム—コミュニケーションと生成
(やさしい問題とむずかしい問題;「ふり」をする能力;コミュニケーションから生まれるもの)
3 意識を生み出す能—
「私」とクオリアの起源(「私」の生成とクオリアの生成;意識はどのように生まれるか;生成としての個を生きる)

まず、第1部1 心と脳のミステリー—クオリアと同一性と言うことで、「科学の発達でこの世界から不思議なことは次第に姿を消しいきつつある」と冒頭に掲げ、物理学の発達で今や錬金術のような妄想から人々は解放されてきた。
が、それでも今、ここにある自分という物の不思議は一向に解決されず、むしろ不思議は増すばかりであると述べています。
そしてクオリアへと導かれます。
クオリアとは、もともとは「質」を表すラテン語のことで、私たちが感じるさまざまな質感を表す言葉であると定義。私たちが感じる、考える、ほぼすべての意味や概念はクオリアであるとのこと。
この説明として今日の脳科学の到達点として脳の全体像と、機能を語ります。
そして神経細胞の活動は客観的にはわかるが、その結果生み出される意識は主観としてしか感じることができない。
科学は人間を客体として扱うあまりに「哲学的ゾンビ」と人間を化した。
ニュートン以来科学は人間から意識を奪い、意識の存在を無視した。
しかし、私たちは本来意識的動物であり、クオリアを持ち、感じるものである。
「あるものがあるものである」と言う心のクオリアのミステリーを解明することを試みたい。
と著者は述べ次の、「あるもの」が「あるもの」であること;「同じこと」と「違うこと」へと続きます。
まず著者自身の幼い頃の体験、それは「ただいま」と言う言葉から感じた著者自身の記憶から端を発して言葉の意味に迫ります。
本来は個別の感情である言葉も、いずれ暗黙の了解となる過程を例を挙げて説明。
クオリアは個別の物であるにもかかわらず、脳の中の1000億の神経細胞となんらかの関係があるはずだ。
クオリアとは認識の結果を質感として把握する脳、意識の働きである。
第一部はこうして終わります。

第二部は「私」というダイナミズム—コミュニケーションと生成。
ここでは一番目にやさしい問題とむずかしい問題について述べます。
ある固有の言葉は本来は突き詰めればむずかしい言葉であるが、普通はそこに立ち止まらず、立ち入らずやさしい言葉として処理していく。
その方法が人間関係を円滑に、日常生活を無難にすることが出来ると主張。
コンピュータの振る舞いから言葉は理解しているが意識は理解していないと言うチューリングテストを紹介。
コンピュータから次に人間へと対象は移ります。
人間には「ふり」をする能力があり、これはコミュニケーションから生まれた「人間の知恵」であるということを幾つかの例を提示して説明。
「心の理論」とミラーニューロンの発見に言及。
人間らしさの中心は「ふり」をすることである。
つまり人間とは社会的動物であり、人との関係に自分のアイデンティティがある。
ゆえに人は与えられた像や期待される像に寄せて「ふり」をするものである、というのが著者の意見です。
認知プロセスにおける生成原理としてのコミュニケーションの起源を探ることは難しい。が、探ること、理解することが「あるものはあること」の解決になるのだろうと言う内容で第二部は終わります。
第三部。
意識を生み出す脳。
「私」とクオリアの起源と言うことで、
私と他人は違うと言うことから始まります。脳は意識を生み出す臓器である。
科学は普遍的な法則を求めてきたが脳の生成、とりわけ意識については未だ解明されていない。
脳は外界からの刺激の以前に自発的な活動を行っているのだが、外からの刺激を受ける過程でさらに新しいクオリアが発生。
そのような連続の中に「私」はある。
そして意識はどのように生まれるかと言う問題を提示。
まず機能主義について言及。
機能主義は脳を含む身体の客観的な振る舞いに基づいて認知のプロセスを理解しようとする。
が、著者はそれでは「わたしはわたし」と言う問題の解決はみない、として、新しい理論の構築を試みるべきではと提案。
このために本書は今まで書いてきた第1章から戻り、改めて確認する作業を繰り返します。
そしていよいよ最後の詰め、「生成としての個を生きる」へと繋がります。
が、
ここでも同じことが繰り返し書かれています。
つまり機能主義では「わたしはわたしの解決にはならない」と。
最後の結論は実に温かい言葉で締められます。
「私たちが生きている限りどんなに退屈しても行き詰まっても脳の神経細胞の活動に支えられ生成しながらこの世に存在しているのである」
「私たちは生成としての個を生きているのである」と。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

以上が意識とはなにかの本文にそった要約です。

感想。
茂木さんの主張は分からないことはないし、そうだと思うところも多々あります。
あるのですが、
はきっり言ってこの本は脳科学者と言う肩書きを持つ人物の書くものとしては如何かと思いました。
専門書にしては、著者の実験、観察、研究は一切言及なしでした。
ご自身の5歳の時の「ただいま」不可思議記憶や高校生の時の数学体験では専門家としてのそれとは言えないでしょう。
では啓蒙書なのかと言われれば、これまた疑問ですね。
この本からどのように蒙を啓いてもらえるのか?
迷っているあなた、悩んでいるあなたへの指針になるのか?
と、考えるならば、それこそ内観をもっとキッチリ語っている禅や気功の本が力になるだろうし、宗教ならひろさちやさんでも山折さんでも上座仏教でも、もっと励ましになるだろうし、、、
哲学なら哲学の装いがあるだろうし、、、

なぁんていうのか、
中途半端な感がしてなりませんでした。
そもそもタイトルの意識とはなにか、、、ってなんだったの?茂木さん>

さてさて、それにしても私という感覚。
これはこれで興味深いものがあります。
知的フレームを壊せ!と言うエントリーを挙げた愚樵さん。
コミュニケ外伝 について言及されているアキラさんのことを思いながら本書を読みました。

また、茂木さんについては、その発言のアレコレに少なからず危惧を感じていらっしゃるa-geminiさんやblupyさんやpoohさんの記事を読みながらかなり暗澹たる思いもしました。


今回の記事にした本は2007年発行です。
2年まえの茂木さんと今の茂木さん。
あんまり変っていませんね、言われていることは。
尤も今の方がさらに雑になっているようです。
今後も注目です。

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コメント

え、まだ茂木さんに注目し続けるんですか? (^_^;)
どのあたりが、注目に値すると思われてますか?

投稿: アキラ | 2009.01.16 18:16

アキラさん。
こんばんは。
コメントありがとうございます。
エントリー、楽しくというか凄く共感を覚えながら拝見しました。

さてさて茂木さん。
本当にアキラさんが言われるように「何を注目しようか?」です、本音は。
いやぁ、私は今まで茂木さんのこと、余り知らなかったのですよ。
それでも先日、エントリーに挙げたので、挙げたからにはチョイト本を読もうと上に書いた2冊ばかり昨日、読みました。
読みながら、ウウウウウウ====ンでした。
唸るばかりだったのですが、
ただここで「注目」と書いたのは、
危い茂木さんの脳科学がマスコミにバンバンと出ている今、そうした情報に無菌で曝露されることへの危機感を表明したいと思っているんですよね、、、

と、言うことで私個人は、今後の茂木さんの言動にはやはり「注目」です。

それはそれとして、またアキラさんの刺激的なエントリーは楽しみにしています!!!
ではまたね(*^-^)

投稿: せとともこ | 2009.01.16 18:53

TBありがとうございます。

まず、拝見していてビックリしたところ。

>専門書にしては、著者の実験、観察、研究は一切言及なしでした。

へ? 専門書だったんですか? なんじゃい、そりゃε-( ̄ヘ ̄)┌

私がいうのも何なのですが、私の肩書きは「樵」ですからねぇ(笑)。アキラさんは整体師だし。

「意識が機能主義からは解明できない」というのは、私などからすれば「そんなの当たり前だろ」ってなものですが、科学者がそのテーマに迫るのなら、「なぜ解明できないのか」、その不可能性を普遍性をもって追究してもらいたいものですが...。

ちなみにクオリアなんですけどね。この言葉、私のところでも使いたいという誘惑に駆られるんですけど、ガマンしてるんです。〔識る〕なんて「クオリア」を使うとぴったりなんですけどね。

ガマンの理由は実は茂木さん。私は個人的には好感はもってるんだけど、「クオリア」は妙に科学的なニオイがついてしまっていて...。すっきりと「クオリア」は科学の範疇外としてくれれば使えるのですけどねぇ。

けれど、「クオリア」をテコに意識へ斬り込んでいこうという意気は評価できるのではないか、と。長い目で成果を見守りたいと思います。

投稿: 愚樵 | 2009.01.16 19:23

おおおおお〜〜〜愚樵さん。
今晩は。
コメントありがとうございます。

「へ? 専門書だったんですか? なんじゃい、そりゃε-( ̄ヘ ̄)┌
私がいうのも何なのですが、私の肩書きは「樵」ですからねぇ(笑)。アキラさんは整体師だし。」

と、愚樵さん。
ハハハと笑う私。
専門書。うんなぁわけないでしょう(^-^;
とは言え、この「専門書」と言う言葉についてもクオリアと言うことでしょうかね?
言葉から連想されるイメージ。
それは同じ言葉でも原体験やその後の体験から少しづつずれてくる、、、ということでしょうか、茂木さん流に言えば。
私が専門書と書いたのは、茂木さんはご自分の肩書きの上でご自分の専門について書かれたのだから、読む側はそれ相応の「もの」を期待すると言う意味です。

で、
で、その後に続くコメントですが、、、
愚樵さんは樵さんでアキラさんは整体師さんですね。
あのぅ、、、これはどの様に理解したら一番愚樵さんのクオリアに近いのだろう???
「肩書き」とは別のことを誰だって考え書き発表しているんだよ、と言う意味でしょうか???
もし、そうなら、茂木さんは脳科学者という肩書きとは別にいろんな分野に言及されています。
そしてその言及の中身が、あるときは脳科学を振りかざし、あるときは素人に戻るという危うさを私は疑問に思っているところです。
今回の記事はプロとしての守備範囲で書かれたもの、専門を担保する分野ですから、相当に手厳しい評価がなされて然るべきではと思います。

が、肩書き云々については、
これは私が愚樵さんのコメントから貴方の意を仮定して、その仮定の上で書いたものなので、
もし違っていたラ、あるいはもっと正鵠を射る必要があるなら、お教えくださいね(*^-^)


さてさて。
実は私も個人的には茂木さん、嫌いではありません。
が、好悪とは別の所出、このところの露出、とその言論の中身にはチョイトチョイト物申すと言いたくなりますね、、、

「「クオリア」をテコに意識へ斬り込んでいこうという意気は評価できるのではないか、と。長い目で成果を見守りたいと思います。」
と、愚樵さん。


私もそうです。
クオリアや、あるいは茂木さんが目指そうとしているものには、とても興味深いものがあり、
今後の方向に注目、見守りたいですよね(o^-^o)
と、同時にあなたの記事も楽しみです。
ワクワクk、ハラハラ、ドキドキです!

では、またね!!!

投稿: せとともこ | 2009.01.16 20:52

>あのぅ、、、これはどの様に理解したら一番愚樵さんのクオリアに近いのだろう???

あはは。スミマセン。ちゃんと文章は推敲しなけりゃね(^-^; 自分だけ分かったつもりになっていたのでは、そりゃ「クオリアだ!」と言われても仕方がない。

意味するところはですね。もちろん科学者だって樵だって、自分の体験から出発して文章を書いたっていいわけです。で、樵ならば自分のクオリアを著わすのに自分の体験だけでもいいんでしょうが、科学者としての肩書きで語るなら、それだけじゃあイカンでしょう、といったような意味です。

もっともその「専門書」(←カッコつき)、読んでませんから“それだけ”と私が断定するのは危ないんですが。

投稿: 愚樵 | 2009.01.17 03:16

愚樵さん。
コメントありがとうございます。

「意味するところはですね。もちろん科学者だって樵だって、自分の体験から出発して文章を書いたっていいわけです。で、樵ならば自分のクオリアを著わすのに自分の体験だけでもいいんでしょうが、科学者としての肩書きで語るなら、それだけじゃあイカンでしょう、といったような意味です。」


OKです。OKです。
分かりました。
私と同じことを言われていたのですねヽ(´▽`)/

クオリアでしたね。
ハハハ。

このクオリア、なかなか便利ですね(*^-^)
ハハハ。

あっ、ところでまた凄く興味深いエントリーを挙げられましたね。
何回も読ませていただいています。
いずれまた書きたいと思いますが、今、センターを控え、次に二次と忙しいので、時間を見つけ挑戦しますね。


ではまた。

投稿: せとともこ | 2009.01.17 12:25

こんにちは、せとさん、 愚樵さん。

>樵ならば自分のクオリアを著わすのに自分の体験だけでもいいんでしょうが、科学者としての肩書きで語るなら、それだけじゃあイカンでしょう、といったような意味です。

実のところ、多少でも脳科学を知っている人間の間で「茂木は終わった」みたいな雰囲気があるんですね。もう科学者としてはとても認められない段階まで劣化しているという認識です。

そういう背景に、「マスコミが若い専門家を引きずり込んでは潰していく」という事に関する苦い思いがあります。さらにその背景には、視聴者が「自分が直感的に感じること」とは異なった専門的意見は聞きたがらず、「自分が直感的に感じることを追認してくれるような専門家の意見」を求めて選択しているという現状があるように思うわけです。本来、クオリアという言葉で表されている話は、脳科学の話というよりは心理学の話で、それも心理学者であればとてもじゃないけど断定的には言えない領域の話のように思っています。だからこそ、心理学者では無く、本来、隣と言ってもずいぶん離れた脳科学者に言わせている訳です。つまり専門性で言うなら、茂木と愚樵さんのあいだにあまり違いが無いから言える訳です。そういうものを視聴者がもとめ、それにより一人の脳科学者が学者として潰された来た結果が茂木だろうと思うわけです。

投稿: 技術開発者 | 2009.01.19 09:31

こんにちは
心理学というか哲学用語ですね。
>機能主義
では「わたしはわたし」と言う問題の解決はみない、として、新しい理論の構築を試みるべきではと提案。
という部分意彼のクオリアに関する主張がまとまってると思います。これは実は97年の著作から進歩していないんですね。それもそのはず、クオリアは科学的な方法で意識を探求することの限界を示す言葉なんですから。マスコミにつぶされたといってもクオリアを科学で探求できるとしている点で、疑似科学者の萌芽みたいなのが感じ取れます。

あと 茂木ははじめから「脳科学者」としてのキャリアは歩んでないと思いますよ。神経系の論文など自分ではほとんど書いてないようです。http://www.mumumu.org/~viking/blog-wp/?p=1917 vikingさんは研究者として正規のルートからはずれたためトリッキーなことをいってマスコミに出ないと食っていけないと推測しています。
そこらへんが基礎研究も一応やってる川島隆太氏とは大きく違うように思われます。

投稿: blupy | 2009.01.19 16:10

技術開発者さん。
blupyさん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。

昨日は出掛けていたので、コメントを頂きながら遅くなり失礼をいたしました。


技術開発者さん。
「実のところ、多少でも脳科学を知っている人間の間で「茂木は終わった」みたいな雰囲気があるんですね。もう科学者としてはとても認められない段階まで劣化しているという認識です。」

うううう====む。
そうですかぁ、、、
なるほど。
マスコミに潰されたというよりは、劣化した脳科学者(自称)だから「利用価値」があるのかもしれませんね???
なんだか、こうした廃用利用(もし言いすぎたら茂木さんゴメンナサイ。ただ、そう言わせない論文を出してください茂木さん>)のやり方がマスコミには使いやすいのだろうと実感しています、、、

困ったことだ。
やはり情報を受け取る私たちの力量が問われるのでしょうね、、、

フムフム。

blupyさん。
初めまして。
勝手にリンクを貼って、ご挨拶もせず申し訳ありませんでした。
今、センター試験が終わり、バタバタしています。
多分、二次まで続きそう、、、
と、言うことで勝手にトラックバックだけ、という失礼を皆さんにしていますが、どうぞこれからも宜しくお願いいたします。


それはそれとして、
blupyさんのブログ、拝見させていただきましたが、
茂木さん、本当に困ったものですね。
彼は本気で(つまり多少なりとも学者として)恥ずかしいと思わないのでしょうか?
この頃のとんでも発言、とんでも解釈の連発に対して、、、

それにしても論文、出していないのですか。
道理で、パッチワークのようなことしか書き込めないのですね。
ご本人の研究成果が一つもなくて、本当に不思議だったのですが納得です、、、

いずれにしても、
今後もキッチリとその論を見ていく必要はありそうですね。
またご意見、アドバイス、よろしくお願いいたします。
では。

投稿: せとともこ | 2009.01.20 10:15

こんにちは、せとさん。

>マスコミに潰されたというよりは、劣化した脳科学者(自称)だから「利用価値」があるのかもしれませんね???

私は仕事場で一般向きに「マイナスイオンの流行を批判する講習会」を開いたことからニセ科学批判者の世界に飛び込んでしまった訳ですが、その講習会で言ったことというのが「科学者は『しつけ』を受ける」という話なんですね。もともと、普通の人以上に「夢想的」なのが研究者となるものの本質では無いかと思うんです。そういう夢見る力がないと、基本的には失敗ばかりの中から成功にたどりつく研究なんて仕事はできないのかも知れないと思うんです。常にきちんとしたデータの上でしか科学や技術の事を語らないとかいうのは、そういう夢見がちな研究者が地道に道を拓く上で「しつけられなくてはならないこと」なのだろうと思っています。

>がマスコミには使いやすいのだろうと実感しています、、、

なんていうか、普通の人以上にもともと劣化しやすい性質があるのを、「科学的態度」という「しつけ」により強引につなぎ止めているのが研究者だとすると、しつけの甘い若者に夢のようなことを語らせて、周りで「スゴイ着眼だ」みたいに祭り上げたら簡単に劣化してしまうのだろうと思うわけです。もともとの「しつけ」の甘さはあるのでしょうが、それを徹底的に劣化させてしまう働きがマスコミの祭り上げにはあるように感じる訳です。

投稿: 技術開発者 | 2009.01.20 18:04

技術開発者さん。
こんにちは。
いつもながら示唆に富むコメント、本当に嬉しく思います。
開発者さんの経験とそこから引き出される洞察に、深い敬意をあらわすものです。
さて、さて。

「その講習会で言ったことというのが「科学者は『しつけ』を受ける」という話なんですね。」
と言われる開発者さん。
本当にそうだと思います。

そもそも研究者にはロマンがあって、そこが第一歩であるということは確かな事なのでしょうが、
そのロマンと、現実の地道な実験と、さらにそこから導かれる考察が、研究者の質へと繋がっていくのでしょうね。
マスコミは、その辺をうまく突いてくるんでしょうか???

ちょっと専門でへたっている研究者に「ちょっとやってみませんか♪」なんて甘い言葉で、ロマンの情熱を擽る、
はじめは専門としての誠意や誠実もあったのだろうが、そのうち、相手(マスコミ)の期待するように応えていく、、、
そんな構図が見え隠れしますね。


結局、視聴者である私たちの力量だと改めて思います!!!

これからも、いろいろエントリーを挙げていきたいと思いますので、折りにつけ、アドバイスやご意見をいただけると本当に嬉しく思います。

では、、、またね(*^-^)

投稿: せとともこ | 2009.01.21 11:18

せとさん、こんにちは。

> そして神経細胞の活動は客観的にはわかるが、その結果生み出される意識は主観としてしか感じることができない。
>科学は人間を客体として扱うあまりに「哲学的ゾンビ」と人間を化した。
> ニュートン以来科学は人間から意識を奪い、意識の存在を無視した。

うーん、これは嘘と言っていいでしょう。
しかも、自分で脳科学を否定しちゃってる気がします。

> しかし、私たちは本来意識的動物であり、クオリアを持ち、感じるものである。
> 「あるものがあるものである」と言う心のクオリアのミステリーを解明することを試みたい。

「脳の長期記憶のメカニズム」に関する修士論文を書き、脳神経科学をちょっとだけかじった事のある私の「クオリア」なるものへの感想ですが・・・

結論から言うと、「クオリア」とは、個々人の脳の総合活動そのものです。
と私なら言ってしまいます。

例えば、砂丘が脳で、砂の一粒一粒が脳細胞で、風が外部刺激だとすると、風が形作る砂丘がクオリアです。それは、決して一定ではなく、長年の風の作用(=積み重なった体験)によって日々、徐々に変化し続けるものだとね。

脳科学っぽく言い換えると、
さまざまな刺激の結果として生まれたユニーク(同一のものはないと言う意味)なニューラルネットワークにある刺激を与えたとき、それで活性化されるネットワーク全体のユニークな活動パターン、これがクオリアである。
てな感じです。
で、ニューラルネットワークは個々人で全て違いますから、同じ刺激を受けてもその発現=クオリアは当然違います。

「個々人の刺激からの感じ方」というは、その個人の過去の体験=脳で整理された記憶(=その時のその人のニューラルネットワーク)に依存します。生まれて初めて色を見た赤ちゃんは、それのクオリアを得ることはできません。まず、視神経が波長の違いによる刺激差を認識できるようニューロン回路を構築していきます。それが出来て初めて、色の違いが認識できます。

だから、「マリーの部屋」なる思考実験が有名なようですが、モノクロの世界で育ったマリーなら、多色の世界に出て来ても、視神経は正常でも、モノクロでしか認識できず、新たな色を体験することも、感じることもできない(赤のクオリアを得られない)ということすら知らないのか?と正直その考察の稚拙さに呆れました。

そして、私の考えでは、当然、クオリアなる「区別できる質的な特徴」が存在しているという議論も否定することになります。

それは、クオリアは個々人で異なるし、新たな体験によって変わっていくものだからです。例えば、火事の被害にあってしまったがために、その後は赤を見ると猛烈な炎を無意識に連想して怖くなったりなどです。

で、このクオリアの議論は、色々な不確定要素の積み重ねの結果として生まれたものに、なんらかの普遍性を要求している不毛な議論にしか私には写りませんでした。

例えば、砂浜で綺麗な貝殻を拾った人が、「私がこの貝殻に出会ったのは、なぜなんだろう?どんな意味があるのだろう?」と、思い悩んでいるような感じです。

以上、クオリアに関する感想でした。

投稿: Looper | 2009.01.21 16:59

Looper さん。
こんにちは。
とても深く本質をえぐるコメントを頂き、私は刺激されています(o^-^o)
ありがとうございます。
このようなコメントを頂くと、私もさらに意欲が湧くのですよ!!
と、言うことでLooper さんのコメント、私自身のために今一度おさらいいたしますので、宜しければお付き合いくださいね。

「脳の長期記憶のメカニズム」に関する修士論文を書き、脳神経科学をちょっとだけかじった事のある私の「クオリア」なるものへの感想ですが・・・


あっ、そうなんですか。
「脳の長期記憶のメカニズム」に関する修士論文。
そうだったのですか、、、
それは頼しい。
いろいろお教えください。


「結論から言うと、「クオリア」とは、個々人の脳の総合活動そのものです。
と私なら言ってしまいます。」

わかります!!!
脳の総合活動。
私の分かりますが、どの程度かはほどほど自信がないのですが、それでも分かる気がします。


「例えば、砂丘が脳で、砂の一粒一粒が脳細胞で、風が外部刺激だとすると、風が形作る砂丘がクオリアです。それは、決して一定ではなく、長年の風の作用(=積み重なった体験)によって日々、徐々に変化し続けるものだとね。」


はい。
わかります。

「脳科学っぽく言い換えると、
さまざまな刺激の結果として生まれたユニーク(同一のものはないと言う意味)なニューラルネットワークにある刺激を与えたとき、それで活性化されるネットワーク全体のユニークな活動パターン、これがクオリアである。
てな感じです。」

フムフム。


「で、ニューラルネットワークは個々人で全て違いますから、同じ刺激を受けてもその発現=クオリアは当然違います。

「個々人の刺激からの感じ方」というは、その個人の過去の体験=脳で整理された記憶(=その時のその人のニューラルネットワーク)に依存します。」


はい。
凄く分かります!!!


「生まれて初めて色を見た赤ちゃんは、それのクオリアを得ることはできません。まず、視神経が波長の違いによる刺激差を認識できるようニューロン回路を構築していきます。それが出来て初めて、色の違いが認識できます。」

目からウロコです。
面白い!!!

「だから、「マリーの部屋」なる思考実験が有名なようですが、モノクロの世界で育ったマリーなら、多色の世界に出て来ても、視神経は正常でも、モノクロでしか認識できず、新たな色を体験することも、感じることもできない(赤のクオリアを得られない)ということすら知らないのか?と正直その考察の稚拙さに呆れました。」


マリーの部屋ですか。
なんだか新しい世界が開けました。
なるほど。
機能は正常でも認識や判断は「育てるもの」なのですね、、、
そうかぁ。
改めて、環境や生育と生まれつきの関係を考えさせられます。

「そして、私の考えでは、当然、クオリアなる「区別できる質的な特徴」が存在しているという議論も否定することになります。」

なるほど。
そもそも区別できる質的特徴があるわけではなく、
それは作られた物、後天であるということですか、、、

「それは、クオリアは個々人で異なるし、新たな体験によって変わっていくものだからです。例えば、火事の被害にあってしまったがために、その後は赤を見ると猛烈な炎を無意識に連想して怖くなったりなどです。」

はい。
分かります。

「で、このクオリアの議論は、色々な不確定要素の積み重ねの結果として生まれたものに、なんらかの普遍性を要求している不毛な議論にしか私には写りませんでした。」


本当に、、、
ほんとうに。
茂木さんに言ってやりたいですね、、、

「例えば、砂浜で綺麗な貝殻を拾った人が、「私がこの貝殻に出会ったのは、なぜなんだろう?どんな意味があるのだろう?」と、思い悩んでいるような感じです。
以上、クオリアに関する感想でした。」

ありがとうございました。
クオリアがクリアになりましたヽ(´▽`)/

巧みな譬えと的確な評価をしていただき、本当に分かりました。
こうした分かりやすさは、Looperさんがこの分野に熟知なさっているからですねぇ、、、
私自身は、すごく、すごく了解しました。
そして刺激も受けました。
なんだか凄く得した気分!!!
またぞろ、書こうと思いましたよ♪

これからも、いろいろお教え下さいね。
ではまた。

投稿: せとともこ | 2009.01.22 14:32

せとさん、

せとさんのように、生物学的にも人の脳を捉えられる方はともかく、前回のコメントでも、まだクオリアに対する反証としては不十分だと感じています。それは、「意識とは何か?」という問題です。

「クオリア」の定義はどうにも曖昧(私の理解力のせいかもしれませんが・・・)なのですが、一般に脳科学者などから提起されている「現象的意識」の問題は、本当に不毛な観念論的議論だと前々から思っておりました。これは、根源的には「意識とは何か」という問題なのだろうと思うのです。

我々の脳は、一つの刺激で一つの部位のみが活性化される訳ではありません。

例えば、「いーしやーきいもー」という音の刺激は、聴覚野だけの処理では終わりません。
まず、言語野も刺激され、石焼芋屋さんや石焼芋として高次脳で理解されます。
他にも、味覚の刺激も無いのに、甘い芋の味思い浮かべられます。
これが、味覚野を経由するのかどうかは知りませんが、少なくとも味覚野が刺激されたのと同等の刺激を高次脳に与えられる回路が出来ているという事です。

その他にも、色々な高次脳部位が次々と連想的な刺激を受け、その複雑でユニークなニューラルネットワークの興奮状態を形成します。それが、新聞紙に包まれた黄色くて、ほかほかとして、甘い焼き芋を売る焼き芋屋さんを連想し、ほっこりとしたような、暖かい気持ちになる、あの複雑な「感じ」として認識されるのです。

そうした感じが認識できるのは、過去の多くの刺激(経験)により、神経回路網が可塑的に変化し、そうした連想刺激が生まれる状態が構築済みであるからに他なりません。

このように、様々なユニークな意識や「感じ」というのは、ニューラルネットワークのユニークな興奮パターンそのものであり、それらの違いを脳の高次部位で整理・認識して「感じ」として我々に認知させている。と考えるのが一番自然です。

また、まれに「神を感じる」という方がいらっしゃいますが、その方はなぜ「神」を「感じる」と意識できるのでしょうか?それは、その方が、夢を見てか、風の音を聞いてか、瀕死状態になってかは分かりませんが、その刺激によりある興奮パターンが脳に発生し、その状態を「神」という概念と結び付ける処理を高次脳内で行ったからです。ですから、その方が「神を感じている」時の脳の興奮状態と同じ状態を人工的に作ってあげることが出来れば、その方はいつでも「神を感じる」ことができるでしょう。

しかし、「脳科学」の一部の「先生方」は、例えば赤色を見たときの意識は、先天的な神経回路処理の共通性から似ている部分はあっても、やはり個々には色々な赤い物を見てきた個人がもつ「ニューラルネットワークの反応の総体」であるにも関わらず、それを「赤色を見たときの感じ」として普遍化し、物理学的議論に載せようといい、それは「ハードプロブレム」だというわけです。

それは、
波の浸食で出来た様々な形をした岩の一つ一つを、「クオリア」とか「意識」と名づけて、なぜその形になったのかを岩石と波や水の作用の法則で説明できない「ハードプロブレム」だと悩んでいる。
ビックバン以後、宇宙の成り立ちの法則を物理学は示すことが出来るが、この地球が太陽系に生まれ、日本列島が今の形になった必然的理由を物理学の法則は示せない「ハードプロブレム」だと言っている。
ようなものです。

私の解釈が正しければ、これは不毛で無価値な議論としか思えず、そもそも命題の立て方がおかしいと感じます。

分子生物学や神経科学をかじった方なら、「ある意識」=「脳のある活性化状態」というのは、なんら疑念の無いところだと思いますし、そう理解していれば、そもそも「クオリア」問題、「現象的意識」問題は生まれなかったのではとさえ思います。

で、こうした考えだから、「意識」や「心」や「魂」は、人の体を離れて存在しえない、という話にも繋がるのですが、それはまた別の話ですので、ここまでとします。

投稿: Looper | 2009.01.23 17:18

Looperさん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
週末はバタバタしているので、ゆっくりとネット前に座ることができず、お返事遅くなり、失礼を致しました。

さて、
頂いたコメント、考えました、、、

〜〜前回のコメントでも、まだクオリアに対する反証としては不十分だと感じています。それは、「意識とは何か?」という問題です。〜〜〜


はい。
私も茂木さんの本を読んでもサッパリでした。
サッパリでしたが、茂木さんが売れている理由は、どこかこの辺りにあるのだろうと思います。

「意識とはなにか???」


〜〜一般に脳科学者などから提起されている「現象的意識」の問題は、本当に不毛な観念論的議論だと前々から思っておりました。これは、根源的には「意識とは何か」という問題なのだろうと思うのです。〜〜

と言われるLooper さんですが、
私もそう思います。
不毛かはともかく観念論のドップリどまんなかだから、
結局、結論はでないのでしょうね。

〜〜我々の脳は、一つの刺激で一つの部位のみが活性化される訳ではありません。
(中略)
そうした感じが認識できるのは、過去の多くの刺激(経験)により、神経回路網が可塑的に変化し、そうした連想刺激が生まれる状態が構築済みであるからに他なりません。
このように、様々なユニークな意識や「感じ」というのは、ニューラルネットワークのユニークな興奮パターンそのものであり、それらの違いを脳の高次部位で整理・認識して「感じ」として我々に認知させている。と考えるのが一番自然です。〜〜〜とLooper さん。

詳しく分かりました。
OKです。
そして、これからが本番ですねぇ、、、

〜〜また、まれに「神を感じる」という方がいらっしゃいますが、その方はなぜ「神」を「感じる」と意識できるのでしょうか?それは、その方が、夢を見てか、風の音を聞いてか、瀕死状態になってかは分かりませんが、その刺激によりある興奮パターンが脳に発生し、その状態を「神」という概念と結び付ける処理を高次脳内で行ったからです。ですから、その方が「神を感じている」時の脳の興奮状態と同じ状態を人工的に作ってあげることが出来れば、その方はいつでも「神を感じる」ことができるでしょう。〜〜〜

なるほど。
なるほど。
なるほど。

以前、痛みを感じる「脳」についてテレビで放送していたのですが、幻肢痛を思い出しました、、、

「ハードプロブレム」ですかぁ。
そうですね。


〜〜〜分子生物学や神経科学をかじった方なら、「ある意識」=「脳のある活性化状態」というのは、なんら疑念の無いところだと思いますし、そう理解していれば、そもそも「クオリア」問題、「現象的意識」問題は生まれなかったのではとさえ思います。〜〜〜

御意。
分かります。

〜〜で、こうした考えだから、「意識」や「心」や「魂」は、人の体を離れて存在しえない、という話にも繋がるのですが、それはまた別の話ですので、ここまでとします。〜〜〜

是非、機会があれば、また此方の話も聞かせてください。
凄く分かりやすいお話でした。
別の意味でクオリア、興味を持ちました!!!

ありがとうございます。

投稿: せとともこ | 2009.01.25 17:16

せとさん、Looperさん、こんにちは。

私も大変興味深くLooperさんのお話を拝見しました。

無神論の立場に立たない私が、拝見しながら思ったことを少しだけ。

Looperさんのお話からは、私たちの外部に神がいる――創造神――という説は否定できるかもしれませんが、神は私たちの内部に在るという説――汎神論――の否定まではできそうにない。そんな感じを受けました。

あくまで感じですし、その感じからLooperさんに反論を試みようと思っているわけではないので念のため。

投稿: 愚樵 | 2009.01.26 17:50

すみません、もうひとつ。こちらはLooperさんのお話とはあまり関連がありません。

ふと思ったのですけど、私や、それから技術開発者さんがよく用いるたとえ話。これって考えてみれば、クオリアを伝えたいがための手段なのかもしれません。

クオリアは、言われてみれば誰にもその感触はあるのだけれども、けれど決して言い当てることが出来ない性質のものですよね。そんなクオリアを伝えようと思うと、今、伝えようと思っているクオリアと似た感触で、しかも誰もが体験しているであろうと思われるものを探し出す。そしてそれを提示することで、伝えようとしているクオリアを想像してもらうことを期待する。これがたとえ話を持ち出す理由なのではないかと思うわけです。

けれども、このたとえ話はよく失敗するんですね。というのも、誰もが体験していても、その同じ体験から皆別々のクオリアも感じてしまうから。私は似ていると思っても、せとさんは似ているとは思わない。そうなるとたとえ話は???となってしまう。

最近もそんなようなことがありましたよね(笑)。ま、でも、クオリアを伝えるにはそれ以外にあまり有効な方法も見当たらないような気もします。お経の中の話にたとえ話が多いのも、クオリアを伝えんがためと考えれば合点がいきますし、また有効な方法であることの証明にもなっているかもしれません。

投稿: 愚樵 | 2009.01.26 20:15

愚樵さん、

> Looperさんのお話からは、私たちの外部に神がいる――創造神――という説は否定できるかもしれませんが、神は私たちの内部に在るという説――汎神論――の否定まではできそうにない。そんな感じを受けました。

いえいえ、そもそも私の話は神の存在を否定できる話ではありませんし、それが目的でもありません。「神を感じる」の刺激の原因が、本当に神様からのものだったのか?単なる思いこみなのか?その区別はつかないからです。

しかし、その刺激が神様からのものだったかどうかに関わらず、それと同じ興奮を脳に作ることが出来れば、「人為的」に「神を感じた」時と同じクオリアを作ることが出来るという事です。

つまり、どんなクオリアも、個々人の経験の積み重ねの結果できた可塑的な脳のネットワークが作るものであるということが一番言いたかった点です。
たとえ生まれたときから獲得している知覚でも、個々人のDNAの違いや発生過程でのさまざまな不確定要素によって、やはり神経回路網の詳細は個々人全て異なりますので、得ているクオリアは、似てはいても、例え一卵性双生児であっても完全に同一のものは存在し得ないのです。

クオリアとは、そうした不確定要素の積み重ねの結果に左右されるものなのだという理解の仕方をしていれば、茂木先生などが出している疑問は、最初から生まれなかっただろうと思います。

あと確認ですが・・・愚樵さんの「神は私たちの内部に在る」というのは、人だけに神が在るのですか?それとも木や山にも神が宿っているという意味なんでしょうか?

投稿: Looper | 2009.01.27 00:50

こんにちは、皆さん。

私は良く「人間の基本仕様」と「人間の取り扱いマニアルとしての文化」なんて話をします。仕様を無視したマニアルは意味を持たず、マニアルのないむき出しの仕様は時として危険である訳です(灯油用のストーブには「灯油を使用しろ」と明示しないとガソリンを入れて火事になりますからね)。

私は以前に、自然科学的蓄積と人文科学的蓄積に不均衡が生じているという事を書きました。文化がバランス良く発達していないという思いがあるわけです。それらの基になる仕様とはなんだろうと考えると「知りたいという思い」だろうと思います。人が知性を発達させる基である「知りたい」と思うようにできている仕様は、或る意味で全方向なんだろうと思います。私は「脚立のたとえ話」というのをします。ある時部屋の中に脚立が置いてあったとして、「なぜ、こんな所に脚立があるのか」の答えに2通りあるという訳です。「今朝、Aさんが持ってきたからある」は経緯に関する答え、「蛍光灯を取り換えるため」は目的に関する答えです。「世界はなぜ存在するのか?」「人はなぜ存在するのか?」「人はなぜ存在に関する疑問を持ち答えを求めようとするのか?」に関しても、答えは2とおりあるのだろうと考えています。「ビックバンが起こり、対称性の破れにより片方の素粒子だけが残り、物質が生まれ・・・・」これは経緯に関する答えの一部です。「原始の海の中で様々な刺激から有機物が生まれ・・・生命は進化し、やがてほ乳類の中に大脳を進化させたものが生じ・・・」これもまた経緯に関する答えです。或る意味で、自然科学というのはこの「経緯への説明」に自らを限定することで発達した訳です。その間、目的への説明である宗教や哲学も発達はしてきた訳です。しかし、その道は経緯の説明である自然科学よりもはるかに険しい訳ですね。「クオリア」とは何か、それは果たして「経緯」の説明なのか「目的」の説明なのか、目的の説明を経緯の説明で誤魔化したものなのか、経緯の説明が目的の説明に足を踏み外したものなのか、曖昧模糊としているがゆえに、人が惹きつけられる面は持つわけですが、誤魔化しや踏み外しは、決して正しい文化とは成り得ないものだろうと考えています。

投稿: 技術開発者 | 2009.01.27 08:33

愚樵さん。
Looper さん。
技術開発者さん。
おはようございます。

とても刺激になり考えさせられるコメントを頂き、実は何回も読んでいました。
愚樵さんのコメントを読んで「なるほど」。
Looper さんのコメントを読んで「そうかぁ、わかった」。
開発者さんのコメントを読んで「そういう理解が分かりやすい」。
などなど、、、
本当に教えられる事ばかりです。
と、いうのも先に書いたように、クオリアという事について、今回初めて知ったのです。
ゆえに自分の中での整理もおぼつかない状態だったのですが、
愚樵さん、Looper さん、開発者さんから頂いたコメントで、実態の輪郭が掴めて来ている自分を感じています、、、クオリアかぁ???
ハハハ。
あっ、ごめんなさい。
つまらない脱線をして。


さて、愚樵さんとLooper さん。
お二人のお得意の分野と言うか「神」がでてきましたね。
これに関しては、私個人はLooper さんの説に納得するものです。
凄く詳らかに分かったようで,実は感激しています。
とは言え、愚樵さんの拘り、テーマについても深く関心を寄せていますが、ただ此のテーマは、クオリアで説明をすると「逃げ」が用意されているのだと、改めて思うものです、、、
クオリアという一見、科学を装いながら、神秘の領域にドカドカと入り込むやり方が、茂木さんを筆頭とする(江原さんもはいるかな???)、方々なのかと思います。
汎神論、
私もLooper さん同様に愚樵さんにお聞きしたいです。
自然は神を感じ、自然は神を表すなにものかを獲得しているのでしょうか???
いえ、私も広大な自然を目の当たりにしてその静謐で豊かで大きなもののまえに畏敬の念を感じるものではありますが、それは、先ほどLooper さんが既に説明された通りだと了解しています。
さてさてどうなのでしょうか???愚樵さん>
また機会があれば是非お教えください。

開発者さん。
いつもながら、本当によくわかりました。
「自然科学というのはこの「経緯への説明」に自らを限定することで発達した訳です。その間、目的への説明である宗教や哲学も発達はしてきた訳です。しかし、その道は経緯の説明である自然科学よりもはるかに険しい訳ですね。「クオリア」とは何か、それは果たして「経緯」の説明なのか「目的」の説明なのか、目的の説明を経緯の説明で誤魔化したものなのか、経緯の説明が目的の説明に足を踏み外したものなのか、曖昧模糊としているがゆえに、人が惹きつけられる面は持つわけですが、誤魔化しや踏み外しは、決して正しい文化とは成り得ないものだろうと考えています。」


社会の中での自然科学と、文化とのそれぞれの役割、関わりが、私にはとても理解できました。
ありがとうございます。
そして、そのうえで鑑みたとき、茂木さん提唱のクオリア説が如何に危ういかも承知しました。

ところで、
開発者さんは汎神論についてはどのように思われますか?
愚樵さんとLooper さんは、ともに深い考察を試みながらご意見を下さるのです。
とくに「神」についてのお二人のご意見が面白い。
またお時間がありましたら開発者さんも貴重なご意見、お聞かせください。
楽しみです。


では、、、またね!!!

投稿: せとともこ | 2009.01.27 10:08

こんにちは、せとさん。

>開発者さんは汎神論についてはどのように思われますか?

なかなか、難しい質問ですね。いわゆる汎神論とは違う意味で陽明学の「万物一体論」を取り入れているのが私ですからね。

私は、自然科学で飯を食いながら、理神論者として創造主の存在を認める訳ですよ(宇宙も地球も生命も人類も今このようにあらしめるべく自然法則を定めた創造主ですけどね)。でもって陽明学にかぶれるものとして「万物一体論」も私の中にある訳です。

万物一体論というのは、儒教が仏教の「全てのものが仏性をもつ」に刺激を受けてできあがった面があるんですけどね。王陽明自身も若いときに禅に傾倒しましてね。最近、映画の宣伝かなにかでTVから「あるがまま」なんて言葉が聞こえて来ることがありますが、禅の「あるがまま」とかなり近い話なんです。

前に書いたかも知れませんが、例えば花壇の雑草を見て「雑草がはびこる」と嘆く弟子に「君が花を愛でたいと思うから、花は良く、雑草が悪いと思うのだよ」と相対論を説明し、「では雑草を抜くべきでは無いのでしょうか」と問われれば「抜くべきだよ」と答えるのが陽明学の万物一体論なんですね。

実は伝収録のこの話には解説もなにも無いんですね。単に「抜くべきだよ」で終わっている話し何です。私なりに理解すると、花も雑草も万物であり一体であるだけではなくて、それを眺める自分自身も万物の一つとして一体なんですね。でもって、その万物の一つである自分が天然自然な情として「花が愛でたい」と感じ、そのために「雑草が邪魔だ」と思うなら抜くことにも万物一体の理はあるとするわけです。昔、この話に関して、「自然に花が愛でたいと感じて抜くのは良いが、他の動機、例えば花を丹精して育てた事を自慢したくて抜くのだったら、王陽明は抜くなと言うかも知れないね」なんて事を書きました。人に花を自慢したいもまた万物一体の中の一つの自分の情ではないかという理屈もあるかも知れないけど、陽明学ではそういう情の弁別機能は、やはり万物一体の中の自分に自然に備わっているとするからね。

私は化学屋の端っこにいるけど、若いときには公害問題とか自然破壊ということでずいぶん悩んだんですね、こういった話でね。
なんていうか、生活を良くしたいと思いそのためには自然を破壊しても構わないと思うのも人間だけど、破壊した後で「しまった、やるべきではなかった」と思うのもまた人間なんです。人間の天然自然な欲求を深く観相するなら、そこには自ずと天然自然な理につながるものがあると考える訳です。陽明学は「心が動くことによって善悪が生じる」と考え、その善悪を見極める事のできる「良知」もまた人間に備わっているとする訳です。禅における「あるがまま」とは、表層的なあるがままではなく、自らの中の仏性をあるがままに見ろということだと思うんですね。

以前、理神論について簡単に説明した時に、「自然法則に従って知性が生じた」の後に、「知性がまだまだ進んでいくことを自然法則は求めているのかもしれない」なんて事を書いたかもしれませんね。私は本気でそう思っている面があります。そして、できるだけ迷い道に入りこまずに知性を発達させたいと思っています。

投稿: 技術開発者 | 2009.01.27 14:12

技術開発者さん、こんにちは。

> 自然科学というのはこの「経緯への説明」に自らを限定することで発達した訳です。その間、目的への説明である宗教や哲学も発達はしてきた訳です。しかし、その道は経緯の説明である自然科学よりもはるかに険しい訳ですね。「クオリア」とは何か、それは果たして「経緯」の説明なのか「目的」の説明なのか、目的の説明を経緯の説明で誤魔化したものなのか、経緯の説明が目的の説明に足を踏み外したものなのか、

その区別、私もとても大事だと思います。
科学に、目的、意味、意志などというものを持ち込むのは正しくありません。その用語が入った瞬間に、もう疑似科学となります。水伝などが典型ですが・・・

実際、ビッグバンから宇宙が出来、太陽系に地球が出来、そこに生命が誕生し、様々な進化を遂げた生物の発生・絶滅を繰り返しながら、今に至っている。この「経過」説明に、「生命を誕生させよう」とか、「進化させよう」とか、「人類を発生させよう」などという何らかの「意志」の導入は全く不要です。宇宙には、ただ単に物質が、その物理的性質に従った運動や総合作用があるだけです。その積み重ねが、地球に生命を生み、人類を発生させた。その課程での一つの偶然が違っていたら、人類は地球に生まれなかった。つまり人類の誕生は偶然であり、必然などではないのです。

しかし、自他を認識出来るまでの高度な頭脳を持つに至った人類は、それが単なる偶然であっても、何らかの理由や意味、また本来は無関係な物とでも、その関連を求めてしまう性質(そういう傾向を持つ脳)があるようです。私はそれは、様々な連想記憶を構築できるように発達した脳機能のなせる業の一つであろうと思っています。だから、私も書いたように「海岸で自分がなぜ美しい貝殻を拾ったのか?その意味や理由」を考えてしまうのです。

しかし、それは実際には単なる偶然の積み重ねに過ぎず、実は何の意味も理由もないのですから、理由のない物に理由を求めても、科学は「理由はありません。偶然です」としか答えられません。でも、それでは満足できない人類は、宗教を生み出したのでしょう。

しかし、クオリアは、これとはちょっと違います。
あえて言うなら、「経過の結果」への説明を要求している。ようなものでしょう。しかも、人の経験などの不確定要素が山ほどある「経過」の「結果」なのですから、一意に決まるものであろうはずが最初からありません。

それでも、私は、脳神経認識科学がもう少し発達すれば、人の意識の仕組みについても、もっときっちり機能論で説明可能であろうと思っています。「哲学的ゾンビ」という、脳機能は人類と同じで、意識だけ持たない頭脳を想定した議論がありますが、仮に人工的に人類の脳と全く同じく可塑性を持つ脳機能を作る事ができ、人体と同じ五感を与えられ、同じ経験を積み重ねさせる事ができれば、意識やクオリアを発生させ、自己意識や他意識も生まれてくるのは当然であると考えています。

人が意識を育むのに、人の体に備わっている物質とその機能以外には何も要らない。もちろん神もね。あとは、経験を積み重ねるだけだ。ということです。

投稿: Looper | 2009.01.27 15:14

こんにちは、Looper さん。

>この「経過」説明に、「生命を誕生させよう」とか、「進化させよう」とか、「人類を発生させよう」などという何らかの「意志」の導入は全く不要です。

実はこの部分で問題を感じるんです。自然科学のみで人間の文化が完結するなら、まさに不要です。その前提には、人間は「経緯のみを知れば満足し得る存在であって、目的を知りたいと思うようにはできていない」という前提が必要です。あくまで、「自然科学という文化の成立」には「全く不要」なのです。では、Looperさんは、部屋の中に脚立があったとき、「どういう経緯でここにあるかさえ分かれば満足する」という風にご自身ができておられるかどうかを考察して欲しいわけですね、「どういう目的で脚立があるのかは全く考える必要が無い」とお思いでしょうか?

>偶然です」としか答えられません。でも、それでは満足できない人類は、宗教を生み出したのでしょう。

私は、「福引きの特賞」というたとえ話をしたりします。Looperさんが福引きの特賞にあたって大型の液晶TVが手に入ったとします。Looperさんに当たったのは偶然です、福引きにイカサマがあったから自分に当たったと思う必要はどこにもありません。しかし、実は福引きには必然があります。それは、特賞を示すのが金色の玉だとして、その金色の玉が抽選器の中に入っている事が必要条件なんですね。この場合、金色の玉が「偶然に入った」と仮定することもできるし、「誰かが入れた」と仮定することもできる訳です。「当たったのが偶然である」という経緯説明から導き出されるものは、そのどちらの仮定をも認めうる」ことになるのです。「当たるのは偶然だから、当然、玉が抽選器に入るのも偶然でなければならない」は成り立たない拡張です。

理神論は自然法則を尊重します。自然法則の中には「物質が生まれる」要素がありますし「生命が生まれる」要素がありますし、生物が進化する要素」がありますし、「生物進化の中から知性が生まれる要素」があります。これは自然法則の中にあることです。これを「抽選器の中に特賞の金色の玉が入っていた」という表現で表している訳です。もちろん、その知性を得たのが人類であったというのは偶然です。そこにはイカサマもなにもありはしません。しかし、自然法則の中にそれらの要素が入ったことを「偶然である」と言い切るのは成り立たない拡張なのです。別に「だから、創造主がそのように自然法則を定めた」という理神論を信仰しろなんて言う気は全くありません。しかし、成り立たない拡張を振り回して、「自然法則の中にあるそれらの要素は偶然であると信じなければならない」というのなら、それは、自然科学というものの「越権行為」につながる話になってしまう訳です。

とまあ、あたかも理神論にべったり傾倒しているかのように書きましたが、私の場合、或る意味で「仮定を妨げず」レベルであるわけです。人間が「知りたい」と思うようにできていて、そしてそれが全方向性である場合に、「経緯の説明のみで良い」としてしまうことができないなら、知性の発達を妨げない方向で「どのような目的かは分からないが目的はあるのだろう」と思うことを否定する必要性は無いと思っています。

なんていうか、儒学は「天」というのを仮定する訳ですね。でもって、政権が腐敗したときに「天命が革(あらたま)った」とする革命論なんてのを導入する事で、政権の交代というより交代後の混乱を最小限に抑え、文化の伝承を円滑化しようとしてきたりする訳です。それと近い意味で私は理神論的創造主論まで廃する必要はないと思っている訳です。あくまで、人文学的意味でですけどね。

投稿: 技術開発者 | 2009.01.27 16:27

こんにちは、せとさん、皆さん。連投になってしまって申し訳ない。どうも言葉を尽くしてうまく説明出来ない面があるんですね。

上で福引きの特賞の話をしましたが「自分に当たったのは偶然である」は確かなことなのですが、「なんだ、商店街の人が自分をえこひいきして当ててくれたのじゃないなら、こんなTVは意味がない」とうっちゃる人はいないでしょ(いるかもしれないけど:笑)。なんていうかな、「商店街の人も『当たった人が喜んでくれたら良いな』と思いながら金色の玉をいれたんだろうな(もちろん「こんな出費は痛いな」と思いながら入れたと思うこともできるけどね:笑)」と思いながら、特賞のTVで綺麗な画像を楽しむ方が、たぶん気持ちよく楽しめますよね。ある意味で「理神論的創造主の仮定を否定せず」という部分にはそれがあるわけです。

宇宙の誕生から知性の発生までの偶然は、福引きの特賞を当てるよりも、もっともっと確率が低いわけですよ。でも人類は「知性をもつ」ところまで、当てちゃったのですね(笑)。「その知性を大事にしようよ」、という事なんです。大事にする上で「特賞の玉を入れた創造主」を思い描く方が知性を発達させることを楽しめる(納得出来る)なら、「そう考えようよ」でもあるわけです。

投稿: 技術開発者 | 2009.01.27 17:00

せとさん、こんにちは。それからLooperさんと技術開発者さん。なんだかこちらはおだやかで楽しいですね( ^ω^ ) 私の所は今、どうも雰囲気が良くない。まあ、自分が蒔いた種なのですけどね。

その汎神論といっていいかどうかは私も最近よく分からなくなっているところもあるんですけど、その話は近いうちにエントリーを挙げる予定でいます。ほら、『光るナス』のアキラさんがアブラハムが息子を神に捧げる話をしていたでしょう? あれにのっかって書いてみたいことがあるんです。

そのことが頭にあったもんで、先のコメントは逃げを用意したようになったのかな。言いたいことは自分ちで書こうと思ってたんで。

例によって長文になると思いますけど、読んでみてください。

投稿: 愚樵 | 2009.01.27 18:41

技術開発者さん、

まず、誤解のある点から述べます。

>自然科学のみで人間の文化が完結するなら、まさに不要です。その前提には、人間は「経緯のみを知れば満足し得る存在であって、目的を知りたいと思うようにはできていない」という前提が必要です。あくまで、「自然科学という文化の成立」には「全く不要」なのです。

まず、私が「意志」と呼んでいるのは、「人の意志」ではありません。「自然」には「意志」はないという話をしています。

つまり、人類が生まれた課程の説明には目的も意志も必要ありません。
しかし、偶然の積み重ねで生まれた人類は、目的や意味を求める性質(頭脳)を持っているという事です。
そこを混同すると、話がごっちゃになります。

例えば、人類と体の仕組みも頭脳の構造も殆ど違わないチンパンジーでさえ、「どうして自分は生まれたのだろう?」とか、「なぜ自分は生きているのだろう?」という概念までは持てていないでしょう。しかし、人類はその疑問を持てる境界を越えられるだけの頭脳を持ち得た生物なのです。だから、自然科学も宗教も生み出すことが出来たのでしょう。

>では、Looperさんは、部屋の中に脚立があったとき、「どういう経緯でここにあるかさえ分かれば満足する」という風にご自身ができておられるかどうかを考察して欲しいわけですね、「どういう目的で脚立があるのかは全く考える必要が無い」とお思いでしょうか?

ここにも誤解が在りますね。
私は人類は、理由を欲しがる生物としての性質(そういう頭脳)を持って生まれたと言っているわけです。ですから、なぜ「脚立があるのか?」という事を考えてしまう性質を持った生物だと言っています。しかし、その種の生物が生まれる「経過」には、何らかの「意志」は全く必要ない。偶然の積み重ねのみである、という事です。

何も、意志を持つ生物は人類だけではありません。全ての動物は、食料を求めるという「意志」を持ちます。しかし、その「意志を持つ動物」を発生させた自然には、それを生み出そうという「意志」はないのです。

今年は、ダーウィン誕生200年だそうですが、現在主流を占める進化論の理解は、「進化する」という性質・意志を生物が持っていたというのでは無く、様々な遺伝の変異の中で、たまたま生き残りに都合の良い変異を偶然身につけたものが生き残りやすかった。そうした意志のない自然淘汰の結果が、「進化」として見えている。というものだと思います。ですから、十分生き残れたものは、何億年も進化していませんし、生き残りに不必要な特質は退化していく。人のしっぽもその一つです。これは、「進化する」とか、「退化する」とかいう意志が自然にはない証拠の一つだと思います。

次に、共感している部分です。

>宇宙の誕生から知性の発生までの偶然は、福引きの特賞を当てるよりも、もっともっと確率が低いわけですよ。

はい、その通りです。これはまさに奇跡とも言える偶然の産物です。

>でも人類は「知性をもつ」ところまで、当てちゃったのですね(笑)。「その知性を大事にしようよ」、という事なんです。

はい、私も折に触れ、人類という生物の発生の奇跡を述べ、その可能性を大事にしましょうと述べているのです。
無神論者であったり、人類発生は偶然の産物だと述べると、人類の価値を軽視しているかのようなレッテルを貼られることがよくあるのですが、実はむしろ逆なのです。
この地球という星が生まれた偶然の奇跡。そして、そこに生物が生まれ、人類という種が生まれた奇跡。これは、本当に奇跡であり大事にすべきであると私も考えているわけです。
むしろ、必然として人類が誕生したとか、神が人類を創ったと考えている方々よりも、人類発生の価値を重く、大事に受け止めているとさえ思っております。

投稿: Looper | 2009.01.28 00:10

技術開発者さん。
愚樵さん。
Looper さん。
こんにちは。

蘊蓄深いコメントを頂いて、私も私なりに考えています。

何回も読ませていただいて、個人的には、Looper さんの直近のコメント、とくに進化論については、深く同意するものです。
開発者さんが仰りたい事は、Looper さんも私も分かるのですが、、、
問題が人類発生にまでいったので、此の場合は「考える手順」としては、合目的を排した方が是と思います。
と、言うか開発者さんはすべからくお分かりの上で先を読まれていると思いますが、
Looperさんが書かれたように、ゴチャゴチャにならないための整理と言うか確認と言う意味です。

Looperさんの最後の締めには深く共感します。

「はい、私も折に触れ、人類という生物の発生の奇跡を述べ、その可能性を大事にしましょうと述べているのです。
無神論者であったり、人類発生は偶然の産物だと述べると、人類の価値を軽視しているかのようなレッテルを貼られることがよくあるのですが、実はむしろ逆なのです。
この地球という星が生まれた偶然の奇跡。そして、そこに生物が生まれ、人類という種が生まれた奇跡。これは、本当に奇跡であり大事にすべきであると私も考えているわけです。
むしろ、必然として人類が誕生したとか、神が人類を創ったと考えている方々よりも、人類発生の価値を重く、大事に受け止めているとさえ思っております。」


私も納得です。
開発者さんから頂くいつものご意見も趣旨は全くそうです。

話は変わりますが,実は昨日はダーウインのホルモン発見を書こうと思っていたのですが,時間がなくて出来ませんでした。
今日も今からでかけるのですが、帰ったらエントリーを挙げたいと思います。


それから愚樵さん。
私もあなたのブログ、ちょっと気にしていました。
デリケートな話題を取り上げられたので、どうしても、皆さんの思いが錯綜するようですね。
コチラでは見守るしか出来ませんが応援しています!
また癒しに(ならないかもしれないが(^-^;)こちらに来て下さいね。

投稿: せとともこ | 2009.01.28 09:47

瀬戸さん ご無沙汰しています。
コメント欄が面白そうですね。
つい書き込みたくなってしまいました。
クオリアとか汎神論とか私にはハードルが高いのですけどちょっとだけお邪魔させてください。


Looperさんこんにちは
私は科学者ではないのでピンとはずれかもしれませんがLooperさんの偶然に少し違和感があるみたいです。


>「宇宙には、ただ単に物質が、その物理的性質に従った運動や総合作用があるだけです。」
でもそれとは別に
>「つまり人類の誕生は偶然であり、必然などではないのです。」
ともおっしゃっています。


私なんかの感覚では科学は「この世が必然に満ちていること」を前提に成り立っているような感覚があります。
(実は、私にはこのあたりを前提にできてしまうところに「西洋の神」の観念が隠れているのではないかと疑っています・・・とはいっても私の立場ではそれが科学だという感覚があるので別に問題ではないのですけど)
ただ、必然ではあっても、それを人が宇宙の全て認識できるわけではない、つまりは未知の部分が残っていて、その未知の部分が結果に決定的な影響を及ぼしてしまうから、現時点では未知ゆえに決定できないこれらを便宜上「偶然」として処理しているような。


科学によって解明された多くのことは科学以前の人にとってはまさに全て「偶然」であり、あるものは偶然をそのまま自然神を想定して受け入れ、あるものは神により予定されたうかがい知れない必然として受け入れていたのかもしれません。
そして、それを「偶然」のままにしておかずに「必然」に置き換えてきた営みこそが科学なのではないでしょうか?


科学の立場から見ると「(現に人としてここにある以上)人の誕生は必然ではあるけれども、いまだ十分に解明されていない」とするならばわかるのですが、「人の誕生は偶然に過ぎない」で終わってしまうとやはり違和感を感じます。


実は私もこの世は偶然に満ちていると思っています。
しかし、私の中では偶然と未知とが強く結び付けられていて、しかも人はその偶然や未知からは、どこまで科学が究明しようとも逃れられないと思っているので、科学の外の問題なのではないかと観念しています。


「偶然」は科学で語るべきものなのだろうか、「人の誕生は偶然に過ぎない」という結論は科学的には留保されるべきものなのではなかろうかと思うのです。


もちろん、偶然の問題は確率の問題でもあって、ミクロに法則性がなくてもマクロには法則性があるということもあって、不確実性を抱えた必然のようなものをどう扱うか、つまりさらに解明できる「未知」とするか、すでに解明された「既知」とするかで微妙なのだと思いますが・・・私の中では前者がより科学的だと思っていますがどうなんでしょう。


量子力学などでは振る舞いを確率で現すことに対していまだに論争もあるようですし。
アインシュタインは「神はサイコロを振らない」との立場らしいですが。


まあ、アインシュタインの言葉(神)は喩えに過ぎないのかもしれませんが、私が「科学」にもまた「西洋的な神」のようなものを見てしまうのは、今はまだ「偶然」でしかないことに「法則」があることを先取りして確信しているところなのかもしれません。(Looperさんはアインシュタインの持つ科学観とは違うようですが)


脱線しましたが、宗教とか神とかというと何かミラクルな神話的なありえない挿話を想起してしまいますが、それは「偶然」(や未知)の暗喩的表現であって、私の場合、それは「偶然」を「必然」に置き換えることなく「偶然」としてそのまま(西洋の神なら偶然を予約された必然のようなものとして)受け入れるかどうかってことなんじゃないかと思ったりしています。


忘れていましたけど、科学的かどうかは別にして、私も偶然が人の個性を裏付けているのではないかとよく考えます。

投稿: NairFess | 2009.01.28 11:04

NairFessさん、

お話としては、興味深く読ませていただきました。
ですが、お話の前提部分において、私の主張への誤解があるように思います。なかなか他人に意図を正確に伝えるのは難しいという証拠でもありますが・・・

> >「宇宙には、ただ単に物質が、その物理的性質に従った運動や総合作用があるだけです。」
>でもそれとは別に
> >「つまり人類の誕生は偶然であり、必然などではないのです。」
> ともおっしゃっています。

これが矛盾するとの感覚をお持ちなのでしょうね。
しかし、なんら矛盾しないのですよ。

宇宙には、物理的性質に従った運動や総合作用があるだけです。ですから、振り子の運動のような限定された理想系では、未来の運動を「必然」として予測可能ですね。

では、ビックバン時の初期条件が同じなら、太陽系や地球が、物理法則に従った運動の「必然」として必ず生まれるのでしょうか?
これは、残念ながら違うのです。
なぜなら、物質の運動や反応の多くは、確定的には求められない確率の世界だからです。この確率の世界の積み重ねの結果として、太陽系や地球が生まれ、そこに生物が発生したのです。
これは、本当に奇跡的な偶然の積み重ねであり、確定的には予測できない出来事なのです。
その偶然が少しずれれば、人類が発生していなくても、既に絶滅していても、恐竜の祖先に人類並みの高度な知能を持った生物が現れていても、なんら可笑しくありません。

> 私なんかの感覚では科学は「この世が必然に満ちていること」を前提に成り立っているような感覚があります。

「科学法則に従う=必然」といった捉え方をなさっているのだと思います。
しかし、その法則に支配されていれば、その結果をも一意に、「必然」として決められるのか?という問題なのです。

例えば、生物の突然変異は、突然変異の法則に従って起きますね。
では、生物の次の突然変異は必然として一意に決まっているのでしょうか?
いいえ、突然変異は多くの偶然の因子に左右されて起こりますので、一意にはとても定まりません。

このように、生物の進化の原因となった突然変異一つをとっても、生物は何らかの突然変異を起こすように出来ている、という必然的な法則はあっても、菌類、植物、動物という3界の生物の種の発生は、全て偶然因子の出来事の積み重ねの結果として生まれたものであり、何一つ必然的に生まれた種など存在しないのです。

だから、「人類の誕生は偶然であり、必然などではない」のです。例え、その誕生に関わる仕組みが確定的であろうとね。

投稿: Looper | 2009.01.28 15:44

NairFess さん。
こんにちは。
お久しぶりです。
お元気でいらっしゃいましたか?
コメントを頂けて、とても嬉しい!!!

先日「おくりびと」の映画を観ながら、
私の父のこと、夫のいとこのこと、などなどとともに
あなたのこと、お母様のことを思い出していました。
春のやさしい雨の日、逝かれたお母様。
きっとNairFess さんにいっぱい思い出を遺されたのでしょうね、、、
と,言う事で先日、あなたのブログを訪れたら,沢山エントリーが挙っていて,凄く嬉しく、読ませていただきました。


さて、
頂いたコメント。
私はあなたのコメントを読んで「偶然と必然」と言う本を思い出していました。
ちょっと、本棚を漁ってきます。
後ほど,記事に書こうと思っていたりして。
その折にはお時間がありましたら、またご意見など頂けると嬉しく思います。

では、まだまだ寒いのでお風邪引かないように、お体お大切に。

投稿: せとともこ | 2009.01.28 15:55

こんにちは、Looperさん、せとさん。

>問題が人類発生にまでいったので、此の場合は「考える手順」としては、合目的を排した方が是と思います。
>と、言うか開発者さんはすべからくお分かりの上で先を読まれていると思いますが、

>無神論者であったり、人類発生は偶然の産物だと述べると、人類の価値を軽視しているかのようなレッテルを貼られることがよくあるのですが、実はむしろ逆なのです。

実のところ、私が述べたいのも、この部分なんですね。知性をもっと良く使うためには、まず「なぜ人類は存在するのだろう」という人の基本仕様から発する疑問をまず、もっと良く考察し、疑問そのものをもっと明確にしなければならないわけです。その疑問の明確化が行われずに回答を自然科学や宗教に求めることで、知性が曇ってしまうことが起こると考えています。

「なぜ、存在するのだろう」を「どのようなメカニズムで」という疑問として純化するなら、その答えは自然科学というツールにより導き出すことになります。宗教に求めると「インテリジェントデザイン」のようなヨタ話に落ちこみます。

「なぜ、存在するのだろう」を「どのような目的で」という疑問として純化するなら、その答えは自然科学には当然存在せず、哲学や宗教など人文学的文化に求めることになります。宗教などで起きる「聖俗分離(宗教を信じることの利得は聖なる領域、つまり心のあり方として起こり、俗なる領域、つまり現世利益的なものではないとする考え方)」などもこの流れの中にあるわけです。

私は既に何回も「自然科学的文化と人文学的文化の不均衡が生じている」という事を書きましたが、この不均衡の原因の一つは、人文学の発達が自然科学の発達よりも困難な要素を多く含むことに有ると同時に、疑問の分類純化を行わないまま、発達した自然科学が自然科学としての答えを答えてしまっていることにもあるように感じています。「なぜ、人間が存在するのだろう」といった疑問に関しても、まず、「存在理由を知りたいのならそれは自然科学ではなく、哲学や宗教で問いなさい」とはねつけておいて、「存在に居たった経緯を知りたいのなら、自然科学はこうなっていますよ」という答えを提示するという形が必要なのだろうと思うわけです。

茂木さんにしても、彼の考えた部分は実のところ「哲学命題」なのだろうと思うんですね。では、まず「これは脳科学という自然科学の話ではない」と分離し、哲学的に思考すべきなんです。まあ、哲学的思考としてもかなりお粗末な気はしますけどね。

投稿: 技術開発者 | 2009.01.29 08:52

技術開発者さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
IDですかぁ、、、
フッ===

これは、なかなか手強いですね。
私のスタンスとしては、ひたすらダーウィンで行こうと思っています(o^-^o)
が、
また機会があればお教えくださいね。


さて、
「「なぜ、人間が存在するのだろう」といった疑問に関しても、まず、「存在理由を知りたいのならそれは自然科学ではなく、哲学や宗教で問いなさい」とはねつけておいて、「存在に居たった経緯を知りたいのなら、自然科学はこうなっていますよ」という答えを提示するという形が必要なのだろうと思うわけです。」


はい。
私もまったく同感です!!!

と、言うことで、やはり茂木さん。
テレビ露出が気になりますねぇ、、、
困ったことだ。
最初に戻るならマスコミには都合のよい寵児なのでしょうね、茂木さんのような立場が。
ならば、なおさら地道に、伝えていくことが大事だと思いました、、、
ありがとうございます。
では、またね。

投稿: せとともこ | 2009.01.29 15:45

瀬戸さんにはあのときは温かい励ましの言葉をいただきましたね。
ありがとうございました。
おくりびとの記事を読ませていただいたとき、実は私自身も母のことを思い浮かべていました。
もうすぐ一周忌なんです。
時が流れるのは早いものですね。


さて、偶然の件ですが、少し長くなりますがスイマセン
Looperさんの言われる
>なぜなら、物質の運動や反応の多くは、確定的には求められない確率の世界だからです。
は、ある意味最大限同意できることなんです。
ある意味というのは、科学がまだ至っていない領域をも含めれば、世界は確率の世界のように「見える」と考えらるからです。(科学が前提にしているものを基準に考えるならば・・・ですが)


理想系では法則的でも、それが集まった世界は「偶然」というお話も私からすればまさにその通りなのです。

でも、複雑系の問題でもそうですが、「科学は」と限定した場合、科学として原理を抽象するには複雑系ですらも条件や環境やなにがしかを限定して理想系の中で行う以外手だてがない。
科学そのものがそういう「理想系」のものなのではないでしょうか?


Looperさんが提示された
>しかし、その法則に支配されていれば、その結果をも一意に、「必然」として決められるのか?という問題なのです。
という問題提起もその通りなんですが
「理想系では法則的」こそが科学で、それが集まった世界で一意に決定できない問題はその対象ではあっても「未だ」科学で説明される領域ではないとするのが妥当であると私には観念されているのです。
科学は「至っていない」のです。(と思っています)
科学は偶然(に見える事)から必然(に見える事)を「人が世界を認識できる姿に抽象」する営みだと思うのです。
お分かりとは思いますが、「至っていない」ということはいささかも科学を否定するものではありません。
「至って」いたら科学はもはや必要ありませんので、むしろ至っていない限りにおいて科学は必要とされるのです。(もちろん、これは人の「意味」の領域の話です)

だから、私の答えも「必然として一意に決まらない」なのですけど、それは私にとっては「科学が想定する真実に未だ科学が至っていない」(至ることができない)問題なのです。
それは「未だ」人には知りえない。(たぶん今後もより良くは知り得ても知り尽くせない)


何と言ったらいいのでしょう。
そうですね
「偶然」に向き合ったとき科学はそこで立ち止まるか
というのはどうでしょう。
もし突然変異が「偶然」(確率的)だとして、そこでさらなる探求をその時点の「偶然」ゆえに断念するだろうか
量子力学が不確定要素を含む確率論だとして、不確定な部分を探ろうとするさらなる探求を「不確定要素」「不確定性原理」ゆえに断念するだろうか
なんていうのはどでしょう。


私は科学はその仕組みを深く、あるいは角度(アプローチ)を変えてさらに探究しようとするだろうな。
と思っているということなんです。
実際にそのようにして、さらなる原理を「発見」し、結果的に(「偶然」が無くならないことは強く予感しながらも)より精度の高い「偶然」を手に入れ、そして、これからも延々とそうするだろうなということなんです。


科学はそれが科学である限り「偶然」を探求のスタート地点とはしても、そこで探求を終わりにするゴールとはしないだろうな。
と思うのです。


そして、それを意識しているかどうかは別にして、科学は正しい方向で深く調べ仕組みをよりよく知れば、より精度の高い「偶然」(確率)を手に入れることができること(手は届かないけど真実がそこにありそこに近づくこと)を「先験的に担保」しているだろうなと思うのです。


先見的に担保しているということで言えば、直接その全体像に触れることはできなくても限定された理想系として正しく切りとれば、「どこを」切りとっても法則に沿っているであろうことを、切り取る以前に期待している。(全体像[世界]に信頼を置いている)
同時に全体像(世界)に対するこの信頼は、どこを切り取っても当てはまる法則性こそが「より正しい」ということをも担保し、科学の根本的な部分を基礎付けている。
世界のどこかをたたけばそれがどこであろうとどのようなたたき方をしようと世界は必ずそれに応じた反応を返し(因果、必然)、その反応の正しさへの「無条件の信頼」は「科学において」は揺るがない。
疑うのは反応に対する解釈であって、けして反応そのものではない。

前回はこのような部分を伝えたくて「科学は」と限定したうえで「この世が必然に満ちていることを前提」と表現したのですがかえって誤解を与えてしまったようです。


この話は、科学というものの性質の話で、「科学が先験的に真実を担保している」ということから「だから未来を確定的に予測できる」という話を結論付けしようとするものではないのです。


予感し、担保はしているのだけれど、無数のレイヤーを持つ世界の未来を一意に予測することは今の人の限界ゆえにできないし、おそらく未来の人にもできないと私は考えるのです。


「偶然や不確定要素により一意に確定できない」として数々上げてくださった事例の一つ一つに対してはなんら反論があるわけではなく、むしろ積極的に一つ一つにうなずきながら受け止めているのです。
私はこの逃れ得ぬ「偶然」や「未知」あるいは「不可知」により、かろうじて科学が結論付けかねない「決定論」から距離を置いていられるのだろうなとも思っています。


でも、それは科学的なものというよりも、「未だ」個人的な領域(信仰)に近いものとして扱うのが妥当だと私は考えています。


この点でいえば、Looperさんは「偶然」を「科学」に取り込んで「決定論」を否定し、私は「偶然」を「科学の限界」として「決定論」を否定しているのがこの議論なんだと現時点では思っています。


私も積極的に支持する「偶然」ではありますが、科学の在り方から考えると、世界を見たとき「先験的に真実を担保」するのではなく、その「偶然」を前提(原理)として世界を説明してしまうことへの「躊躇い」がぬぐえないということなのです。
「先験的に真実を担保」を前提としない科学が想定できないのです。


ところで、瀬戸さん 「偶然と必然」のエントリー 楽しみにしています。

投稿: NairFess | 2009.01.29 16:48

NairFess さん、

> 科学そのものがそういう「理想系」のものなのではないでしょうか?

いいえ、そうではありません。
不確定性原理はご存知でしょ?
電子の位置ですら、完璧な「理想系」ですら確率でしか決められないのです。
ですから、その電子がある素粒子とぶつかるというのは、ある確率で起きるという表現しか「理想系」でも言えないのです。

これは、科学が未熟だからではなく、物質は位置をきっちりとは決められないという「性質」を持っている。ということです。

ですから、どんなに初期条件を正確に全て合わせても、素粒子の世界では、粒子と粒子はぶつかることもあれば、ぶつからないこともあるのです。

投稿: Looper | 2009.01.29 19:55

Looperさん 素人の発想にお付き合い頂きありがとうございます。


今、この世界で「偶然」について考えるとき「不確定性原理」は避けられないだろうなということは(概略的には)分かっているつもりです。
そして、世界をよりよく説明したこれらの理論が現在ある基本理論から数学的に裏付けられてもいることも。
私にとっても、偶然に裏打ちされた個性の可能性に光をもたらした「不確定性原理」というものに出合った時の感動は今も残っています。
そのことに疑問を呈することの困難さは十分自覚してはいるのです。


それでも猶予を持つのが妥当だと考えたのは今を可能にしたかつての人々がそうであったようにあたりまえなそれを「わからないこと」「予見できないこと」を探求し克服しようとする科学自身が覆してきたからです。


たとえば究極の理想系である数学もかつて一つの系でしかなかったものがそれ以外の系を創出したように、古典力学から相対性理論や量子力学に変遷したように、100年、200年後には今から想像もできない系や理論を作り出すかもしれないとも思うからです。


人が長く探求してきた「偶然」が幸運にも私たちの時代で完全にしかも科学の手で究極の部分で「分からないこと」として確定し、以降はそれがいつまでも当たり前のこととして定着すると考えてしまっていいのだろうかと。


ただ、Looperさんにお付き合い頂き自分の意見を整理しながら気づいたのは、科学は「決定論的」というステレオタイプが、確かに私の中にはあるのかもしれないということです。
だから科学が「わからないこと」を「わからない」まま放置するはずがない・・・と考えるのかもしれない。


確かに長い歴史の中で今回ばかりは「わからないこと」「予見できないこと」をありのまま科学的に「わからないこと」として結論付けそれ以上探求することなく恒久的に受け入れる可能性は少なくないかもしれません。


今度は、そのあたりのことを加味してゆるゆると考えてみたいと思います。
参考になりました、ありがとうございます。

投稿: NairFess | 2009.01.30 03:12

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