「偶然と必然」を読んで
「宇宙の中に存在するものは、全て偶然と必然の果実である」というデモクリトスの言葉から始まり、
「生物学が諸科学の間で占める位置は、周辺にあると同時に中心にあると言えよう」と言う言葉から読者に語りかけていく「偶然と必然」。
著者は、ジャック・モノー(Jacques Lucien Monod)。有名な生物学者。経歴は以下のとおり。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
1910年フランスに生まれる。1934年Paris大学助教授となる。1945年Pasteur研究所に入り、1954年以後同研究所細胞生化学室長。1957年来Paris大学教授兼任。微生物の酵素合成の遺伝的制御を研究し、1965年Jacob、Lwoffとともにノーベル医学生理学賞を受賞した。コレージュ・ド・フランス教授、Pasteur研究所所長を兼ねていたが1976年6月死去。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
そして、
さらに序では
「私が信じているように、あらゆる科学の究極の野心がまさに人間の宇宙に対する関係を解くことにあるとすれば、生物学に中心的な位置を認めなければならなくなる。というのは、あらゆる学問のうちで生物学こそ、《人間の本性》とは何かという問題が形而上学のことばを使わないでも言えるようになるまえに、当然解決されていなければならないような問題の核心に、最も直接的に迫ろうとするからである」。と言う。
そして、科学者がたとえ自然という言葉がつこうとも哲学を語ることのそしりは免れないかもしれないが、敢えて書く、と著者は宣言。
なるほど、
「現代生物学の思想的問いかけ」と言う副題がついている本ですが、
確かに、訳者も書いているように当時はかなり反響があったようです。
こうした言葉はシュレジンガーの「生命とはなにか」にもありました。
時代がそうだったのでしょうか。
さて、先に書いた「意識とはなにか」を読んでと言うエントリーに頂いたコメントを拝見しているうちに、偶然と必然を思いだし、本棚から早速取ってきて、もう一度読み直しました。
と、言うことで、これまた忘れないうちにこの本のまとめを自分なりにしていこうと考え、エントリーとして挙げておきます。
まず、本文は、9章からなっています。
が私は勝手に2部構成として読み解きましたので、ここでは私のまとめということなので、2部立てで本文を見ていきたいと思います。
まず1部は、「生物と無生物」についてです。生物とは何かを、検証します。
まず「ふしぎな存在」として自然と人工は、誰でも見ただけで分かる。その違いはなにかと口火を切ります。
そして、その中から生物としての普遍的な法則を3つ浮かび上がらせます。
1,合目的性
2,自律的形態発生
3,不変性
がそれです。
つまり、
モノーは、もし宇宙人が地球にきて様々なものを見たらどの様に判断するか、という仮定で読者を「生物と無生物の狭間」に誘います。一定の条件のもとで変化しながら規則性や連続性をもつ結晶構造の岩石と、ごくミクロのレベルで細胞分裂を繰り返す細菌などをどうやって区別するか? なぜ前者は生物ではなく、後者は生物だと判定しているのか?
宇宙人はどう考えるか?
この問いに答えることは「難しい」と著者は言います。
そして、モノーはまず、この世界のなかで、自然物と人工物の区別を、単にそのものの形や構造、幾何学的な考察からのみ判別することは不可能と言うことで例を石英の結晶や蜜蜂の巣などで検討。
では、「人工的」とはいかなる意味なのか? それは、その物がなんらかの目的性をより合理的に実現するために存在していることであると著者は語る。
さらに、生物として規定し得るための条件の二つ目としてその物体そのものの構造の形成が、外部からの諸力が加わった結果としてではなく、あくまでもその物自体に内在する《形態発生上の》相互作用に負っていなければならないということを述べます。
さらに極めて複雑なものを含むこの構造形成が、その物と同一のもう一つの物体からの対応する情報の不変的複製に負っていることとして、先に書いた3つの特性となるのです。
次に生気説と物活説へ話は進みます。
「生物の合目的特性が近代認識論の根本原理のひとつの疑問を投げかけているように見える以上、全ての哲学的、宗教的、科学的世界観は事実上、この問題に対してはきっりしたものではなくとも、何らかの解決をもっていることが要求される」として、モノーは不変性と合目的性の間の優先関係について語っていきます。
生気説としてベルグソン、エルザッサーについて言及。
物活説では、とくに弁証法的唯物論についての検討が詳細にされます。
1,物質の存在は運動である。
2,宇宙は物質の総体出、たえず進化の状態にある。
3,宇宙についての真の認識は、しんかの理解に寄与する。
4,そしてこの認識は人間と物質の相互宇佐用の中からしか得られない。相互作用そのものが進化し、また進化の原因になる。
真の認識は実践的である。
5,意識は認識の相互作用と関係している。
6,宇宙自体の進化が弁証法的である。
7,8は略
と、エンゲルスの反デューリング論と自然の弁証法について述べます。
こうしてそれまでの哲学を検証した結果、著者は生気説と物活説を以下のように書き、纏めます。
「私がこれからしようとする提示テーゼは、生物圏のなかには予見できる類別された物体ないしは現象はひとつも含まれないで、ただある出来事(中略)から成り立っていると言うことなのである」と。
その後、本文はタンパク質へと進みます。
モノーのまさに専門の分野であり、当時の生物学の到達点をあますところなく検証しています。
とくに分子生物学、DNAの複製などにより不変性
について語ります。
こうして、いよいよ第2部に移ります。
イデオロギーとしての生物学です。
まず進化。
「生物という、きわめて保守的なシステムに
たいして進化への道を開くきっかけを与えた基本的な出来事は、たんに微視的な偶然的なもので、それが目的論的な機能にどんな影響をもつかどうかには、まったく無関係なものであった」
と、まず書きます。
そして、いよいよ「偶然と必然」へと話は展開していきます。
彼の一貫した主張は、
偶然が生み出したものが環境との関係で淘汰されるにしても、それを生み出す根拠は「純粋に単なる偶然、すなわち絶対的に自由であるが、本質は盲目的である偶然があるだけ」です。
何度も何度も言葉を変えモノーは伝えます。
「生物の持つ不変的複製という合目的的性格は、何らかの普遍的な「目的」によるものではなく、物理的なメカニズムに基づく盲目的な偶然性に依拠している」と。
魚が陸に上がるとします。このことによって海から陸へ、形態がどんな形になっていくか、というのは予想できますが、陸に上がること自体は予想できない。
そしてこの「陸に上がる魚」が一度生まれてしまう(より正確に言うなら「DNAの構造の中に書き込まれる」)と「幾百万、幾千万もの同一の複製ができてくる」つまりミクロ単位で起きた偶然がマクロになると必然になってしまう。
「合目的的装置の首尾一貫性を低下させてはならないだけでなく、むしろすでに起きている変化の方向に即してこれをさらに強化していくか、(中略)あらたな可能性を開くといったぐあいの突然変異でなければならない」として、必然について語ります。
そして進化の不可逆を指摘します。
最後のまとめは、モノー自身の思想によるところが多く、今回のエントリーでは、そこは敢えて取り上げません。
が、
モノーは何を最後に言いたかったのかについては考量するに、
「人間にとってどんなに不安で絶望的なことであろうとも、それが科学的で客観的な知識であるならば無条件で受け容れるべきだとし、他方で「にもかかわらず、現在の自己を超克・超越して理想に投企すべきである」ということでしょうか???
はじめに目的ありき、結果ありきではなく、
「知識の倫理」を追求することがモノーの目指したものなのでしょうか?
客観性の公準をもった、つまり科学的客観性に裏打ちされた知識にのみ依拠するという倫理的選択を行う、、、
生涯、そうした態度を貫き、もとめたモノー。
随分古い本なのですが今に新しい。
学ぶこと大です。
偶然と必然、、、
私にはまだまだ分かりません。
が、何事も偶然で出会い、それをさらに深めていく必然を感じながら、再読を致しました。
忘れかけた頃、また読み直そうと思いながら、、、
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コメント
せとさん。今晩は。
>生気説としてベルグソン、エルザッサーについて言及。
物活説では、とくに弁証法的唯物論についての検討が詳細にされます。
科学研究の方法論も大変面白そうですね。ネットサーフィンをしていたら、あのノーベル賞受賞の益川さんも弁証法的唯物論を研究の方法として重要視しているとの記事がありました。
http://kawausoblg.cocolog-nifty.com/index/2008/10/--f915.html
世界は広く、深いなぁと思いました。しっかりと自然を見つめ、感性を豊かに、意志を強固に、悟性、理性をヴィヴィットに、しなやかにと教えられました。
投稿: hamham | 2009.01.29 20:39
せとさん、おはようございます。
>「人間にとってどんなに不安で絶望的なことであろうとも、それが科学的で客観的な知識であるならば無条件で受け容れるべきだとし、他方で「にもかかわらず、現在の自己を超克・超越して理想に投企すべきである」
この信条、ご紹介のジャック・モノーの信条であると同時に、せとさん、それからおそらくLooperさんの信条でもあるのではないですか? これまでのやりとりからそんな感じがします。
しかし、私の信条はこれとは違います。上の表現を借りつつ書き換えてみますと
「人間はそれが科学的で客観的な知識であるならば、最終的には受け容れるしかない。その為には現在の自己を超克・超越して理想に投企してゆかねばならないが、科学はその為の方法を提供することはない」
私には「無条件で受け容れるべき」と出来てしまう根拠が分からないんです。受け入れるのは科学の示す結果とは全く別問題。受け入れる私自身の問題です。つまり「現在の現在の自己を超克・超越」の問題ですが、しかし、こちらは「他方で」としてしまう。そして「知識の倫理」といいますが、倫理は「自己」の側の問題であって、また知識が科学の側のものであれば、「他方で」と切り離してしまうのであれば、そもそも科学的知識に倫理など無関係なはずなのです。
そのように考えると「無条件に受け入れるべき」とするのは「信仰だ」という以外になくなるのですけどねぇ...。
投稿: 愚樵 | 2009.01.30 07:26
こんにちは、せとさん。ピンボケの話をしますね。
>「人間にとってどんなに不安で絶望的なことであろうとも、それが科学的で客観的な知識であるならば無条件で受け容れるべきだとし、他方で「にもかかわらず、現在の自己を超克・超越して理想に投企すべきである」
なんていうかな、刑事裁判の事を思い浮かべてしまうのですよ。形の事実をまず受け入れ、そして被告人の真実を推し量るなんて言い方をしますけどね。例えばね、DVを受けていた奥さんが台所から持ち出した包丁で、寝込んでいる亭主を何度も刺して殺したという「形の事実」があるとするじゃないですか?でも刑事裁判の審理というのは、「形の事実」では終わらないですよね。検察は「包丁を持ち出したのは明確な殺意があったからだ」というし、弁護士は「長年のDVにより判断力が正常に働かない状態であったと見なすべきで、明確な殺意と見なすべきでは無い」と言うしね。何度も刺したのも検察は「恨みをはらし、確実に殺そうとした行為だ」と言うし、弁護士は「相手が起きあがって暴力をふるわれることを恐れて、恐怖に駆られて何度も刺しただけだ」と言うしね。なんていうかな、「形の事実」については、検察も弁護士も認め合いながらも、この「被告人の真実」の部分で量刑が大きく異なったり、時には無罪がでることもあるのが刑事裁判なんですね。
正直な話をするとね。自然科学が宇宙や生命の「形の事実」を明らかにし、それを受け入れたからといって、「宇宙や生命の真実」を考えるのに、なんで問題が生じるのかが分からないんですよ。それは別系統の話のような気がするんですね。
投稿: 技術開発者 | 2009.01.30 09:03
愚樵さん、
「人間にとってどんなに不安で絶望的なことであろうとも、それが科学的で客観的な知識であるならば無条件で受け容れるべき」
の解釈ですが、まず、「科学的で客観的な知識」だと自分が納得できれば、私も受け入れざるを得ないでしょう。
ですから、
>「人間はそれが科学的で客観的な知識であるならば、最終的には受け容れるしかない。」
と、何が違うのかが、私にはわかりません。
>私には「無条件で受け容れるべき」と出来てしまう根拠が分からないんです。
で、私には、その突っ込みは言いがかりに見えます。
「無条件で受け入れるべき」っていうのは、本人が「科学的で客観的な知識」と理解・納得している前提での話をしているのですから、それがない状況で、「これは科学なんだから信じろ」だなんて、疑似科学者の言うような事を要求しているわけではないでしょうし、「強制的受け入れ」を求めているわけでもないでしょう。
>受け入れるのは科学の示す結果とは全く別問題。受け入れる私自身の問題です。
そんなことは当然です。その上で、ジャック・モノー氏は、その「私自身」の態度を問題にしているのでしょう。
つまり、科学の到達点は、自分の価値観に関係なくきちんと受け止めようとするのか?自分の思想に都合の良い事は受け入れるが、悪い事は無視・拒否するのか?という態度の問題です。で、ジャック・モノーは、そんな科学の成果に人の価値基準を持ち込んだ恣意的な受け止め・選択をすべきではないと主張しているのだと思います。
記述開発者さんも言っていますが、それらの成果を平等に受け入れ、人類の現在の科学的到達点を前提にした上で、哲学的問題を考察すればよいと私も思います。むしろ、恣意的に、人類の大事な成果を無視する必要や意味がどこにあるのでしょうか?
また、
「にもかかわらず、現在の自己を超克・超越して理想に投企すべきである」
が、何を意味しているのか(特に「理想」の意味するところ)が、私にはよく理解できませんでしたが、
>「その為には現在の自己を超克・超越して理想に投企してゆかねばならないが、科学はその為の方法を提供することはない」
私はそうは思いません。科学的思考の進歩の歴史は、方法論・思考法の進歩の歴史でもあります。科学の知見をベースに生まれた弁証法的唯物論もその一つですね。
投稿: Looper | 2009.01.30 11:38
hamham さん。
愚樵さん。
技術開発者さん。
Looper さん。
コメントありがとうございます。
今日は西田幾多郎を取りあげました。
実は私は金沢で育ちました。
西田や鈴木大拙が通った旧第四高等学校の前は、毎日通っていたのです。その頃は公園になっていましたが、レンガ作りの風情はまだ残っていました。
私には西田幾多郎や鈴木大拙、また室生犀星、徳田秋声、泉鏡花などなど馴染みが深いのです。
と、言うことで本を読んだり記事を書いているうちにコメントを頂き、ありがとうございました。
hamham さん。
ダーウィンの記事、面白く拝見いたしましたよ(o^-^o)
今日はきょうで、またコメントを頂き、刺激になりました。
これからも情報、お教えくださいね。楽しみにしています。
愚樵さん。
うううううう====ん。
実は今日も愚樵さんの信仰や宗教について考えながら記事を挙げたのですが、
愚樵さんの信仰ってなんなのだろう???
ちょっと別の話で恐縮ですが、
釈迦は仏教は信仰としては説いていません。
教えとして布教はしましたが、、、
また、「人間」を考えるにあたり、極めて分析、検証を重ね、
決してその上に恣意を重ねることなく行っているのです。
開発者さんやLooper さん。そして末席で私もですが、
いつも思い、願い、書き、伝えたいと思っていることも、実にそうです。
さて、私は、
愚樵さんの信仰には極めて「人為」を感じるのです。
如何でしょうか???
自然といつも言われる愚樵さん。
大いなる自然の掌の中で人の思うところなんて、ほんの小さなものであることを実感されている愚樵さんだと存じます。
が、
それゆえ、尚更、人がおのずと持ち合わせている知について軽んじられているのだろうか???
少なくとも開発者さんやLooper 。そして私は、
姿勢として「事実に忠実でありたい」と言う事から出発して、その延長にある社会、文化に対しても誠実でありたいと願っています。
今回の話はあなたの考える「信仰」とは、ちょっと違うような気がします。
が、
またお時間がありましたらお聞かせください。
お待ちしてます。
開発者さんとLooper さん。
お二人のご意見や思いから、私は「そうだ」と確信するばかりです。
教えて頂き、ありがとうございます。
では、またねヽ(´▽`)/
投稿: せとともこ | 2009.01.30 13:41
せとさん、Looperさん、技術開発者さん。どうもです。
「人間にとってどんなに不安で絶望的なことであろうとも、それが科学的で客観的な知識であるならば無条件で受け容れるべき」
「人間はそれが科学的で客観的な知識であるならば、最終的には受け容れるしかない。」
この2つの違いですね。「受け容れるべき」をLooperさんのように自己に課したものであると解釈すれば、「受け容れるしかない」と違いませんね。が、前者は、他者の「私」に対する説教のようにも受け取ることができますし、そう読むのは間違いではないでしょう。
また重ねて申し上げておきますけれども、この他者が「私」のなかの別の「私」であるということもありえる。これだとLooperさんの解釈と同じではないかと思われるかもしれませんが、2つの「私」が合一していないことも十分ありえるわけです。ありえるというより私にはさまざまな「私」が合一できていないのが普通だと思えます。
たとえばです。「私」の大切な人が何らかの理由で亡くなったとする。それは誰がどう見ても、「私」自身から見ても揺ぎ無い客観的事実。受け容れざるをえないのですが、直ちに受け容れらるものではない。現在の「受け容れらない私」を超克していくほかないのです。この超克は合一でしょう。そこで頼りになるのは科学ではないだろうと思う。
私が3人さんに思いを致してほしいのは、科学と「私」との距離のあり方の差異です。科学・客観的事実などとあって、そのあとすぐに「受け容れるべき」と続いたときに、それをすぐに「私」への課題だと受け取る者と、そうでない者の差。これはせとさんが比較として取り上げた仏教でも同じことだと思います。釈迦の仏教のみが仏教であるなら、大乗仏教はありえないし、これを仏教と呼ぶのは間違いということになってしまいます。
3人さんはまぎれもなく科学者なのでしょう。そのことに私は何の異議も差し挟みません。それは正しいと思います。が、科学者でない者も世の中には多いのです。私もその一員です。科学と聞くと、すぐさま「外部のもの」と認識するのです(元理系ですが(笑))。そして、そうした者にとって科学は制度なのです。これは以前にも申し上げたことです。
それと人為的という批判について。
>姿勢として「事実に忠実でありたい」と言う事から出発して、その延長にある社会、文化に対しても誠実でありたいと願っています。
ここにおそらく私とせとさんたちとの掛け違いがあります。姿勢としては私もせとさんと同じです。けれど、せとさんたちは客観的事実は人為を排した自然そのものだと捉えておられる。反対に私は誰にも認定できる客観的事実こそ人為だと思っている。自然科学の基礎になる数学など、人為の極致です。
個々の人間にとって事実とは、先に話題になったクオリアでしょう。けれども、クオリアはLooperさんが指摘されたように、科学にはなり得ない。ところが人間は意思伝達ができます。それは、クオリアに人為的・意識的な制約を加えることで成立するものです。客観的事実とは誰もが認識できるはずの事実です。ということは、それだけ人為的な制約が多いということです。同じ風土のもとで暮らし体験を多く共有しているもの同士は、異郷者よりもよりクオリアに近いところで意思伝達できますが、これはそれだけ自然に近いということです。私が自然とともにありたい考えているのは、科学に象徴される人為をなるべく排したいという立場であって、客観的・科学的事実を自然と捉える立場とは正反対のものです。
投稿: 愚樵 | 2009.01.30 15:40
愚賞さん、
> 前者は、他者の「私」に対する説教のようにも受け取ることができますし、そう読むのは間違いではないでしょう。
私は、そういう意図はないと感じます。その人は、「そうすべき」だと思っている。それだけの事だとね。「XXすべきだと思う」と言われたって、愚樵さんも、それに賛同したらするでしょうし、そうでなかったらしませんよね。私だってそうです。
だから、そういう読み方は「言いがかり」に見える言いました。そして、少なくとも私はそういった「強制」とは無縁だと考えていると説明しましたね。ですから、それは素直に受け取っていただかないと困ります。言葉遊びをしているわけではないのですからね。
> これはそれだけ自然に近いということです。私が自然とともにありたい考えているのは、科学に象徴される人為をなるべく排したいという立場であって、客観的・科学的事実を自然と捉える立場とは正反対のものです。
それには同意できません。
人の行為とは全て人為的なんです。科学の研究も、神を感じることも、花の美しさを愛でることもね。しかし、科学の探求対象は、人為を廃した自然の仕組みそのものです。それを調べ、解き明かす行為は極めて人為的な行為ですが、その得られた結果には、人為を超えた普遍性があります。その自然の普遍性を見つけ出す能力、頭脳を持ちえたのが、今のところ人類(の一部)のみである、ということです。ですから、科学の結果に、人為性はありません。もしあったら、それは疑似科学です。
ですから、私には、愚賞さんが、科学を自然と一番遠いものと考えることにこそ、大いなる違和感を感じます。私などは、逆に自然の営みの仕組みを深く知れば知るほど、その自然・宇宙の奥深さ、偉大さを理解し、命の尊さを深く感じるに至ったと思うぐらいです。同様のことは、技術開発者さんも繰り返し述べておられますね。
ちなみに、大自然のなかでありのまま生きている野生動物たちは、人が感じるような自然への意識を感じているでしょうか?恐らく感じてはいないですよね。ですから、愚賞さんが言う、「自然をありのまま感じる」という行為は、むしろ、高度な頭脳を持った人間だけが行うことの出来る、実に高度な人為的行為であると私は思いますよ。
投稿: Looper | 2009.01.30 22:16
Looperさん
> これはそれだけ自然に近いということです。私が自然とともにありたい考えているのは、科学に象徴される人為をなるべく排したいという立場であって、客観的・科学的事実を自然と捉える立場とは正反対のものです。
>それには同意できません。
ふう。困りましたね。Looperさんの主張を拝見するとますます科学を宗教だと言いたくなってくる。私はLooperさんに私と同じ所へ立ってくれと言っているのではない。私は自分の立ち位置を表明しただけ。くりかえして申し上げますと、
>私が3人さんに思いを致してほしいのは、科学と「私」との距離のあり方の差異です。
私の立ち位置は私独自のものではない。多くの人が共有しているし、人類がずっと保持してきたものでもある。
>逆に自然の営みの仕組みを深く知れば知るほど、
これは自然科学のことを仰っているのでしょうが、すると、自然科学を知らなければ
>その自然・宇宙の奥深さ、偉大さを理解し、命の尊さを深く感じるに至
ることができないとLooperさんはお考えですか?
>「自然をありのまま感じる」という行為は、むしろ、高度な頭脳を持った人間だけが行うことの出来る、実に高度な人為的行為であると私は思いますよ
そうした考え方を間違いだとは言いません。ですが、そうした考え方、感じ方では把握できないものがあると感じたことはないのでしょうか?
まあ、おそらくないのでしょうね。いえ、あったとしても、そんなのは錯覚というのがLooperさんのお立場かな。けれど、そうなると科学を知る以前の先賢たちは、ずっと錯覚に基づいてさまざまな知恵の体系を組み上げてきたことにしかならない、となりそうですね。
投稿: 愚樵 | 2009.01.31 05:24
Looper さん。
愚樵さん。
おはようございます。
昨夜はビュンビュン風が吹き、雨ジャージャーでした。
愚樵さんのお仕事、如何でしょうか???
気になります。
くれぐれも無理なさらないように。
さてさてさて、、、、
愚樵さぁ=====ん。
うううううう〜〜〜〜〜〜〜〜ん。
です。
と言うことで、愚樵さんから頂いた多くのコメントのうち、直近のものにだけ私なりの考えを述べさせてください。
(Looper さんとは、この問題での立ち位置は同じだと思います)
「私が3人さんに思いを致してほしいのは、科学と「私」との距離のあり方の差異です。」
と、繰り返し言われる愚樵さん。
つまり、科学と「私」との距離。そして、それは人それぞれであり差がある、と言われます。
ここまでは了解です。
異論を挟むものではありません。Looper さんも、科学と「私」の距離については反論や異論を言われてはいないと思います。
さてさてさて、私にとって問題は次からです。
「私の立ち位置は私独自のものではない。多くの人が共有しているし、人類がずっと保持してきたものでもある。」と愚樵さん。
??????????
ごめんなさい。
寡聞にして知りませんでした。
愚樵さんの立ち位置、つまり二つ前のコメントの最後の締めが、愚樵さんの立ち位置表明と思いますので、もう一度確認。
「私が自然とともにありたい考えているのは、科学に象徴される人為をなるべく排したいという立場であって、客観的・科学的事実を自然と捉える立場とは正反対のものです。」と言うことですが、、、
これが、あなたの立ち位置であることは了解。
だがしかし、
この認識が、言われるように、あなた独自のものではなく多くの人が共有し、人類がずっと保持してきたものでもあると言うのは如何でしょうか?
「多くの先人は科学を人為と捉え、自然と対立するものとして扱ってきた」と言われるのでしょうか???
自然と科学(この場合、人為とみなしている)は対立するものではない、と言うことを縷々Looperさんは語られていますが、、、
また、何回も折りに触れ書いているように仏陀の説かれたことは自然を科学として捉えています。
ここで言う科学は分析と言う意味です。
そもそも科学の「科」とはイネ科の植物を枡に分類することから出てきた言葉です。
さて、次に愚樵さんはLooperさんに以下の質問をされました。
============
>逆に自然の営みの仕組みを深く知れば知るほど、
これは自然科学のことを仰っているのでしょうが、すると、自然科学を知らなければ
>その自然・宇宙の奥深さ、偉大さを理解し、命の尊さを深く感じるに至
ることができないとLooperさんはお考えですか?
===========
うンなわきゃないだろう。
とLooperさんに変って。
と、言うか、
なぜそのような質問が出るのでしょう?
そもそもの話題は「偶然と必然」の本を読んで、
自然、つまり宇宙や生物は、人為なき偶然、たまたま、こうした生命、知性、形、を得たと言うモノーの話を土台に、
科学とは、事実を恣意なく分析、判断するものである。
と、いうことを出発点にして、
この偶然の所産ではあるが「今、こうしてここにある」ことに大きな意味を見つけ、文化を継承し、作り、伝える者であらんとしている。
そのことを、開発者さんやLooperさんは言われています。
科学とは、そんな大それたものではなく「日常」なのです。
科学を知らなきゃ、深遠な宇宙の偉大さ、哲学が分からないとは言っていません。
そして、
次にまたまた愚樵さんらしからぬ疑問が投げられるのですが、実際の所、こうした疑問になんの意味があるのか?
と
私は悩みました。
が、それはともかく検証しましょう。
==============
そうなると科学を知る以前の先賢たちは、ずっと錯覚に基づいてさまざまな知恵の体系を組み上げてきたことにしかならない、となりそうですね。
===============
うううううう〜〜〜〜ん。
科学とはなんだろうと、立ち止まってしまいました。
科学、、、、
少なくともあなたと私のソレは違うようです。
まず、科学を知る以前の先賢と、言われますが、
先賢たちの時代にも、その時代の科学はありました。
それは私たちの時代の科学とは違うかもしれないが、、、
科学はいつでも発達、発展の途上だから。
未来においては私たちの時代も「科学を知らなかった人々」と括られるのかもしれません。
錯覚に基づいて体系を組み立てる、と言われるが、
それが科学の「マチ」であり、余裕であり、健全さでもあるのですよね。
科学は無謬ではないのです。
だからこそ、
そうだからこそ、
事実に誠実でありたいと願っています。
愚樵さんの本当のテーマ、
「科学と私」については、近い将来、考察いたします。
では、また!!!
投稿: せとともこ | 2009.01.31 10:20
せとさん、こんにちは。
なんだかお騒がせしているようで、大変申し訳ありません。
私はせとさんやLooperさん、それに技術開発者さんも、みなさんそれぞれに誠意をもって自分の思うところを述べられているということには、100%といってもいい、確信を持っています。また私の方も、自分の誠意については自信を持ってはいます。
けれども、です。今の状態はどうもよくない。どうにも話がうまく噛み合いませんね。噛み合うどころか、対話をすればするほど齟齬が大きくなって行ってしまっているように思います。
TB送らせていただいたロックにかこつけた記事にも書いたとおりですが、このような場合は「待つ」のがいちばん良い選択ではないでしょうか? 互いに言わんとしていることが通じないのは、それぞれのモノの捉え方の根本に大きな隔たりがあるということでしょう。なかなか容易に溝は埋められそうにない。
いえ、これは決して溝を埋めることを諦めるというのではありません。そこらは私は非常に諦めが悪いです(笑)。ただ、今は、互いに互いの思考回路を働かせるほどにかけ離れていってしまうようなので、一度動かしている思考回路を止めてみた方がよさそうだ、ということなのです。
そんなわけですので、しばらく間を空けさせてください。この手の話題とは関係のないことにはコメントさせてもらうでしょうけれど、この方面ではしばらく控えさせてもらいたいと思います。私は私で自分の思うところに従って記事を挙げていきます。よろしければご覧になってください。もちろん私の方でも、こちらは欠かさずチェックさせてもらうつもりです。
それではせとさん、しばらくの間、失礼させていただきますね。ごめんなさい。
投稿: 愚樵 | 2009.01.31 15:44
愚樵さん。
コメントありがとうございます。
いつも刺激に満ち、考えさせられるコメントを頂き、私も楽しみにしていました。
これからも、ワクワクするコメント待っていますね(*^-^)
エントリーもいつも拝見していますよ。
新鮮な視点と切り口で楽しいです。
では、またね。
投稿: せとともこ | 2009.02.01 10:36
せとさん、はじめまして。Johannes-Chrysostomosといいます。
じつは、私のブログでもJ・モノーの「偶然と必然」のことを書いたばかりでして、コメントさせていただきます。
(trackbackを送ろうとしたのですが、なぜかうまくいきませんでした。一応URLを書いておきます。http://ameblo.jp/johannes-chrysostomos/entry-10200260478.html)
せとさんのブログは以前から読ませていただいています。その優しい語り口と冷静な判断には感心させられています。以前「ここで近代科学の獲得した最大の成果は自然現象の説明に目的論を排したことである」と書かれているのを見て、先に言われちゃったと感じたことがあります。
その目的論を基礎に持っている生気説と物活説を批判した「偶然と必然」の書評を書かれているのを見て、その延長上にあるのかなと思いました。
物活説を否定して、宇宙は自分たちに無関心であるという悟りに達するのは、やはり抵抗あることなのでしょうね。
これだけ、自然科学の有効性が証明されているのに、占いやスピリチュアルが後を絶たないのは、その現われであるのかなと思いました。
投稿: Johannes-Chrysostomos(黄金の口) | 2009.02.01 13:19
全く同じ科学的知見から、違った結論が出て来ることは良く有ることで、社会科学、特に経済学なんかでは有る意味当たり前のように正反対の意見(結論)が出て来る。
例えば私は現在の金融崩壊で、中曽根民活からの新自由主義経済の問題点は明らかで言うまでも無い『自明の理』だと思っているが、今頃気付いた人や、未だに構造改革を主張する竹中平蔵や池田 信夫もいる。
同じ数値から全く逆の結論(主張)が、専門家から出て来るのが普通です。
本来同じ意味しかない『数字』さえもそうですから、今回のように意味が幾つも解釈できる『言葉』ならもっと揉める可能性が有る。
今回の記事やコメントを読んで感じた事柄ですが、
『無条件で受け容れるべき・・・・自己を超克・超越して理想に投企すべき・・』
一番愚樵さんの違和感が感じた部分は一連の『・・・・べき』から直感的に上からの目線を感じ取り『命令』や『指示』『義務』の臭いを嗅いだのではないでしょうか。?
それなら大概の人々(国民の大部分)は嫌います。
『義務』の大好きな人はいません。
しかし私のジャック・モノーの解釈は大分違います。
彼は欧米人でしかも99年前に生まれた人で歴史的文化的背景が違います。
現代人とは置かれている環境が違いすぎて現代風の解釈には無理が有るでしょう。
彼の生きていた当時の日本では、今では考えられないでしょうが(室町末期の戦国時代かと見紛うような)日本国に布教に来たキリスト教の宣教師が街角に立って辻説法をしていたんですよ。
廃仏毀釈後の当時の宗教界は文字どうり戦国時代だったらしい。
日本の戦国時代、西欧は宗教改革でキリスト教の権威は大きく傷つき、その反動で世界的な布教活動(ミッション)も起こっていた。それで日本(ジパング)まで宣教師がやってきた。
当時の欧米は進化論の影響で、人類文化の最高峰の地位は宗教から科学に移り変わり、相対的にキリスト教の権威は薄れていた。
それで日本(大日本帝国)まで布教に宣教師が来る事態になる。
ですからジャック・モノーも全く別の解釈も出来ます。
この『言葉」は今の日本人に向けた言葉ではなく、目の前の欧米人向けの発言で有ると判断できる。
それなら、当時未だに進化論を認めたくないキリスト教根本主義に影響されている一般市民向けに発言していた。
聖書原理者にとっては、『人間という種の特権性(神の寵愛)』をダーウィンの進化論が否定する事が耐えられない。
自分がキリスト教的な生物のヒエラルキーにおいて下流に属する類人猿などを祖先に持っているのは論外であり我慢できない。
『人間にとってどんなに不安で絶望的なことであろうとも、それが科学的で客観的な知識であるならば無条件で受け容れるべきだとし、他方で「にもかかわらず、現在の自己を超克・超越して理想に投企すべきである』
の意味は、キリスト教根本主義者に対して発せられた警句とも解釈できる。
それなら日本人は誰でも納得できるでしょう。
投稿: 逝きし世の面影 | 2009.02.01 14:44
こんにちは、せとさん。役にたつかどうか分からないけど、ふと思い出したので書いてみますね。
以前kikulogで「脳死を死とするのは自然科学の役割ではない」みたいな話題が出たことがあります。なんていうか、自然科学として言えるのは「脳死に至れば、回復することは無い」というところまでのハズなんですね。その「回復する事はない」という厳然たる事実を基に「それを死と認めるかどうか」は本来、社会がきめる事であるはずなんです。にも関わらず「脳死は科学的には死である」みたいな言い方をしてしまう人がかなり居る。こういう越権的なことが当たり前の様に社会に出てしまう雰囲気が問題なのかなと思うわけです。
前に刑事裁判を例に出しました。「包丁を持ち出したのは被告人である」とか「十数カ所に渉って何度も刺した」とかいう事実は捜査の資料から証明可能ですね。でも、その事実を基に「被告人が殺意を抱いていた」とか「恨みを晴らすために何度も刺した」かは、証拠がきめる訳ではなく裁判という社会的システムがきめなくては成らないわけです。裁判員制度が始まれば、皆さんもそれを決める役割を持たなければならないかも知れないわけですね。
そういうのと同じように、自然科学的な事実の知見を基に、人文学的な考察をするという事が為されないと、自然科学と人文学の両方に良くない影響があると思うんですね。
投稿: 技術開発者 | 2009.02.02 09:04
Johannes-Chrysostomos(黄金の口)さん。
逝きし世の面影 さん。
技術開発者さん。
おはようございます。
寒も、もうわずか。
昨日の朝は山バトが鳴いていて、実感として感じています。
さて、いつもながら示唆にとむコメントをいただき、私も考えさせられています。
本当にありがとうございます。
Johannes-Chrysostomos(黄金の口)さん。
はじめまして。
私も以前、あなたのブログを拝見したことがあるんですよ(*^-^)
最初の目ブログ名と背景にドキッ。
その後、エントリーを拝見して、とても深い考察と話題のテーマに関しての誠実さを感じたものです。
そんなJohannes-Chrysostomos(黄金の口)からコメントを頂きとても嬉しく思っています。
トラックバックに関しては失礼いたしました。
私の方からも送れない方や、あるいは反対の場合もあったりして、やはり機械科、、、と苦笑したりしています。
さて、偶然と必然。
まだまだ考察に値する本ですね。
今後もエントリーを挙げていきたいと思っていますので、その折はまたご意見を頂けることを願っています。
では、、、これからも宜しくお願いいたします。
逝きし世の面影 さん。
コメントありがとうございます。
このテーマはまさに面影さんの守備範囲。
以前からコメント頂けると予想していました(*^-^)。
言われること、とてもスムーズに納得。
確かに、当時のモノーが何を思い、何を言いたかったかを考察すれば、ご指摘の通りと私も思います。
技術開発者さん。
裁判員制度。
本当に、突きつけられることの重要さ、重大さに、
今はたじろぐばかりです。
先日も死刑執行と言うニュースが流れました。
また、裁判にビデオ導入やら、なんだか感情が先行されるような危惧もあります、、、、、
この問題。
本当に、
ほんとうに、
真剣に見ていくときが来ていると強く思っています。
また考える折りには手助けとしてのアドバイス、お待ちしています(o^-^o)
ではまた。
投稿: せとともこ | 2009.02.02 11:42
せとさん、お返事ありがとうございます。
>私も以前、あなたのブログを拝見したことがあるんですよ(*^-^)
(ドキッ)どのエントリーを見られたのかな?
>エントリーを拝見して、とても深い考察と話題のテーマに関しての
とんでもありません。遅筆で纏めるのも下手で、瀬戸さんには量も質も遥に及ばないと感じています。
しばしば訪れたく思いますので、よろしくお願いします。
逝きし世の面影 さん。
>ジャック・モノーは欧米人でしかも99年前に生まれた人で歴史的文化的背景が違います
とのことですが、偶然と必然が出版された1970年という年において、すでに現代とは時代背景が違っていると思います。
1970年という年は大阪万博が開催された年でもありますが、そのテーマは人類の進歩と調和 でした。
高度経済成長の波に乗って発展し続けてきた日本ですが、その頃、公害問題など発展に伴う歪が看過できない程になってきて、進歩だけではやっていけないという認識がテーマに調和という文字を入れさせた理由でした。
物の豊かさより心の豊かさとか言われだし、科学技術への信頼が揺らぎだした時代です。
個人的には、大学へ入りやすくなったという恩恵を受けましたが(私も理系です)
こうした傾向は日本だけでなく、先進国に共通したものじゃなかったでしょうか。
偶然と必然が出版された年はそういう時代だったということは、押さえておく必要があると思います。
それと、思想的にはベルクソン、テイヤール・ド・シャルダン、ヘーゲル、マルクス主義などがフランスでは実際、支配的だったのでしょう。そういう哲学に抗して書かれた書だったということも忘れてはならないと思います。
日本でも、前二者は知らず、ヘーゲルの弁証法哲学とマルクス主義が思想界を被っていました。
客観的事実とか、価値観を排した知識とか言おうものなら、そんなものは無い、あると思うのはおまえがブルジョワ的階級意識に侵されているからだと言われかなない状況でした。
私が大学に入学したのはもう少しあとなので、学生運動は大分下火にはなっていましたが、それでも上級生の活動家からのオルグはあったし、反対を向けばキリスト教原理主義のサークルからの勧誘もありました。
そんなお誘いを自分の思想信条とは違うといって退けるのに、「偶然と必然」を読んでいたことはずいぶん役に立ちました。
蛇足ですが、オウム真理教の幹部に大学の(特に理系の)出身者が多く含まれますが、彼らが「偶然と必然」を読んでいれば、オウムなんかに入信することはなかったろうにと思うことがあります。
私が「偶然と必然」を手に入れた1973年には、第4次中東戦争が勃発し、石油危機が始まりました。
深夜放送が無くなり、高速道路の照明も消え、トイレットペーパーが無いといってパニックになった。
これで日本の高度経済成長は終焉を迎えたわけです。そしてそれを理論的に裏打ちするかのようにローマクラブから「成長の限界」が出版され、人類の行く手には奈落が大きな口をあけて待ち構えているような予感が覆っていました。
そんな中、いたずらに宿命論に陥ることなく、自らの手で未来を選択せよと説く本書にはずいぶん勇気づけられたものです。
「偶然と必然」から何を感じ取るかは、読む人の自由だと思うのですが、すぐれた書物というものは時代の要請に応えようとするものです。少なくとも私の場合は、本書が世に出てから読むまで日が浅かったものですから、役に立ちました。
投稿: Johannes-Chrysostomos(黄金の口) | 2009.02.03 01:23
黄金の口さん。
せっかく『逝きし世の面影 さん』と名指しされたのですが・・・残念ながら仰りたい事柄が今ひとつ理解できません。
「偶然と必然」が大変役に立ったのは結構な事ですが、ジャック・モノーが当時の日本の現状を念頭において何かをしていたとか、日本人的な思考をしていたとは到底思えません。
お書きになられている事柄は、ジャック・モノーの「偶然と必然」とは殆んど関係ない話のようです。
殆んどの人間は20歳までの経験や思考方法でその後の考え方を組み立てていきますが、彼は第一次世界大戦も第二次世界大戦も経験しています。
このことは想像以上に大きな、多分フランス人にとっては日本で唯一の地上戦が戦われた沖縄戦と硫黄島と両方参加したような決定的な事件です。
しかも宗教やイデオロギーが『科学』に優先する一神教的な考え方の中で子供時代を過ごしている。
バチカンが進化論を公式に認め、科学の事は科学に任せるようになったのは彼が40歳の時です。
しかも彼は生物学者です。
当時、生物学で最も大事な事柄はキリスト教との進化論論争の勝敗です。。
しかも、当時のソ連は超大国としてヨーロッパの東半分で君臨していたが、生物学的にはイデオロギー優先のルイセンコ学説が猛威をふるっていた。
しかも当時のフランスで有力だったフランス共産党はソ連のもっとも忠実な実践者で、そのお陰でソ連崩壊の煽りを受けて20年後には壊滅状態になる。
マルクス主義は科学として出発したはずなのに、科学的な検証を疎かにすると、簡単に自ら決別したはずの宗教(一神教)と同じ過ちに陥ってしまっていた。
『人間にとってどんなに不安で絶望的なことであろうとも、それが科学的で客観的な知識であるならば無条件で受け容れるべきだとし、他方で「にもかかわらず、現在の自己を超克・超越して理想に投企すべきである』
の意味は、物事の善悪を一方的に判断する宗教(キリスト教)と宗教的な間違いを犯していたイデオロギー(ソ連型共産主義)の科学分野への干渉を否定する事である。と解釈できます。
宗教や哲学では善悪は最重要事項ですが、科学には本来正誤しかなく善悪は有りません。
そして欧米では、日本では信じられないでしょうが宗教の科学の分野への越境は、科学者にとっては最大の問題です。
ダーウィンの進化論とアメリカの福音派(原理主義) 宗教 / 2008年09月22日
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/2d655300bed438a5c7a7348e501fd9a3
投稿: 逝きし世の面影 | 2009.02.03 13:57
逝きし世の面影 さん どうもです。
昔の感傷にひきずられてしまって、余計なものを含んだ文章書いてしまって申し訳ありません。
この話、もとは愚樵さんの「偶然と必然」に抱いていた違和感に対し、逝きし世の面影 さんがジャック・モノーが生きていた世界、歴史的文化的背景を理解していないと、モノーの真意はわからないよと言われたことが端緒になっていると理解ています。
私もモノーが日本の現状を念頭において何かをしていたとか、日本人的な思考をしていたとは考えていません。
また、キリスト教というか、宗教が社会に与える影響が日本では想像もできないほど強いということも理解しているつもりです。
しかし、マルクス主義に関しては、日本もフランスも事情はさほど異ならなかったのではないでしょうか。
マルクス主義は、共産主義社会という理想郷の到来を求めるメシア思想で、本質的には宗教だと喝破したバートランド・ラッセルは正しいと思います。ですからフランス社会におけるキリスト教をマルクス主義に置き換えてもいいと思います。
日本でも階級史観でしか物事を見れない人が多くいたし、そういう状況を苦々しく思っているひともたくさんいたはずです。
各人の世界観は彼の属する階級に制約されているので、客観的な知識体系なぞはありえないというのが、マルクス主義の考え方でしょう。モノーが知識体系から価値を排除することを要求したとき、彼はマルクス主義をも念頭に置いていたでしょう。
で、何が言いたかったかと言いますと、
モノーの言いたかったことを理解するために
わざわざ日本人の経験のないクリスト教的伝統を想像するまでもなく、つい20年、30年まえの日本の思想界の状況に思い致すだけで十分なのではないか
ということを言いたかったわけです。
投稿: Johannes-Chrysostomos(黄金の口) | 2009.02.03 21:19
モノーのマルクス主義的弁証法的唯物論批判は、私は半分当たっているが、半分はずれていると思っています。
その辺、またお時間が取れましたら述べてみたいと思います。
今日は時間がないので、予告だけでご勘弁を・・・(笑
投稿: Looper | 2009.02.04 00:43
こんにちは、せとさん。少し変な話をします。
実はpoohさんのところで、茂木健一郎が社会のことについて対談しているのが話題になりましてね。「劣化もきわまっているな」みたいな事を言い合っている時に、私がついちょっとだけ政治的なことを書いたら、poohさんが「実は僕には『政治の季節』というのが無かった」なんて書き込まれたのね。青春の一時期に「政治は」みたいな話を若者同士が戦わせたりする、いわゆる青臭い政治論にはまり込む時期のことだろうと思います。
「政治の季節」と同じように「哲学の季節」というのも青春の通過点としてあったのかも知れませんね。「自分とはなんだろう」とか「人間とは何か」とか悩み様々な本とかを読みあさり影響を受ける時期です。
なんとなく、そういうかっての若者が通過してきた通過点がひどく失われている面がある気がしてきています。それが、今の社会にいろいろな影響として現れている感じがするわけです。
投稿: 技術開発者 | 2009.02.04 08:33
Johannes-Chrysostomos(黄金の口)さん。
逝きし世の面影 さん。
Looperさん。
技術開発者 さん。
おはようございます。
コメントありがとうございます。
いつものことなのですが、バタバタしていてお返事遅くなりました。
頂いたコメント、何回も拝見していました。
いずれ、私もモノーとマルクスは書こうと思いながら今回は敢えて目をつぶっていたのですが、また書きますね♪
Johannes-Chrysostomos(黄金の口)さんと逝きし世の面影 さん。
どうぞ続けて下さいね。
お二人のやりとり、興味深く拝見しています。
Looperさん。
楽しみです♪
待っています。
技術開発者 さん。
poohさんちのコメント、拝見しました。
焦燥感と言うか喪失感というのか、、、
どなんでしょう???
確かに団塊の世代は良いに付け悪しきにつけ、「やってきた自信」ってあるように思います。
その残り火をチロチロと燃やしていたのが私の世代で、
さらにpoohさんたちは、もうバーチャルなのでしょうか?????
ふぅ〜〜〜〜む。
さてさて、どう考えたらいいものか?
投稿: せとともこ | 2009.02.04 09:55
技術開発者 さん はじめまして。
いつも、独特の切り口でのコメント、おもしろく読ませていただいています。
先のlコメントで「政治の季節」とか「哲学の季節」とか、書かれていましたので、それにあやかって、私にも少し話をさせて下さい。
先に、自分の書いたコメントの中で、左を向いたら学生運動、右を向けば怪しげな宗教のようなことを書きましたが、実際はそういうものに囲まれていたわけではないんです。むしろ自分の最大の敵は"無関心"でした。
私の属している世代は政治活動に参加するより自分の時間を大切にしたいと考えている世代です。ただ、2学年ほど上の世代は学生運動などを積極的に行っていた世代です。
大学の授業で、講義が始まる前に学生運動の活動家がやってきて10分だけ時間を借りますとかいって、アジ演説をするんですが、聞いている方は"それがどうしたの"とか"言っていることがわかんない"という反応なんですね。
ま、それはいいのですけども、哲学とか思想といったことを話そうとしても、関心持っている者が回りにいないのに困りました。
たまたま関心を持っている人を見つけて話していると、学生運動の活動家だったり、新興宗教に関係していたりするわけです。
そういうわけで、"偶然と必然"のことを話そうとしても、聞いてくれる相手がいなかったです。
購入したのが1973年ですから、36年目にしてようやく話せる場に遭遇して、感慨無量です。
>なんとなく、そういうかっての若者が通過してきた通過点がひどく失われている面がある気がしてきています。それが、今の社会にいろいろな影響として現れている感じがするわけです。
というのは、全く同感ですが、そうなった最初の世代に属するものとして、後の世代にたいしてなにやら責任めいたものを感じています。
投稿: Johannes-Chrysostomos(黄金の口) | 2009.02.05 01:21
予告していた、モノーの弁証法的唯物論批判についてです。
ちょっと長いですが、ご勘弁を・・・
まずは、ジャック・モノーの主張のおさらいから、
従来のキリスト教的世界観などでは、「生物も人間も全ての存在は神の意志、目的に沿ったもの」=合目的性を持つと考えられていたが、それに対して、「進化論」(特に自然選択論)などの現代科学はそれを否定してきた。しかし、生物には強固でよく統合、組織化された合目的性(種の特徴をなす不変性の内容を世代から世代へと伝達することなど)を持つという矛盾に生物学は直面していた。しかし、現代生物学は、この矛盾に対する答えを示していることをモノーは説明している。
つまり、生物が、生命活動のエネルギー効率の良さや、多様な生物種の進化という特性を持つのは、本質的にはタンパク質の構造などの分子レベルの特性(=物質の特性)のみに、その原因であることを現代生物学は解明した。そこには、ある種の目的性や情報の不可逆性などは存在せず、また、外界との関係でなんらかの必要性に基づいて(目的を持って)特性を獲得していくのでもなく、単なる分子工学上の偶然にすぎない遺伝情報の伝達ミスと、それが間違った情報であろうとも忠実に複製を行うという、分子特性に支配された機構が原因で種に変異がおきる。
そして、この偶然が生み出したものが、環境との関係で淘汰され、生き残ったものが「進化」した種と見えるのであるが、その変異を生み出したのは「純粋に単なる偶然、すなわち絶対的に自由であるが、本質は盲目的である偶然があるだけ」だとモノーは解説しています。
以上は、現代生物学の一般的理解と一致しており、私も100%同意します。
そして、この理解は、
「あらゆる科学分野のあらゆる概念のうちで、もっとも根本的に人間中心主義を破壊するものであり、合目的性を強く信じてきたわれわれ人間という存在にとっては、本能的にもっとも受け容れがたいもの」だとモノーはいい、哲学論を展開するわけですが、ここがこの本の独特なところです。
確かに、今でも多くの皆さんが、この科学的真理の受け入れを拒否されますので、モノーの主張は当たってると言えそうですね。
そして、その批判は、マルクス主義者、弁証法的唯物論者にも向かいます。
確かに、エンゲルスは「自然の弁証法」で進化の「自然選択説」や熱力学第2法則を拒否し、物質の進化は弁証法的(合目的)でなければならないと述べています。現在でも、日本共産党を含め、多くのマルクス主義者が、宇宙や、生物の進化が弁証法的な合目的性を持つと考えているようです。実際、坂田モデルの「無限階層論」(私はこの考えは間違いだと思っています)などもこうした考えがベースにありますし、東大物理学科出身の不破哲三氏などもこれを信奉しているようです。
しかし、私も思想的には左に位置しますが、これらの考えには賛同していませんし、モノーのこのマルクス主義者たちへの批判は、むしろ実にそのとおりであると思っています。
例えば、物質の進化には、合目的性(アウフヘーベンしようとか、より真理に近づこうとか、より複雑になろう)などというものは存在しません。物質の持つ性質に、ただなんの目的も無く従ったこれまでの宇宙の歴史が、我々には「進化」しているかのように見えるだけなのです。
実際、宇宙の未来はどうなるかはまだ明らかとなっていませんが、現在加速度的に膨張を続けている宇宙は、「全ての物理的構造がバラバラになってしまうビッグリップによって終焉する」という説もありますし、少なくとも、生命が生きていける環境が宇宙からなくなってしまう事はほぼ確実とされています。
つまり、すでに現代科学は、宇宙の歴史は、物質がより高度なものへと永遠に発展をする歴史ではないし、生物もやがて宇宙から消えて無くなる存在だ、という事実を示しています。
私は一貫して、科学の根拠に、目的やら意志やらを持ち込んだら、それは疑似科学に陥ると述べています。ですから、マルクス主義者の、こうした宇宙や生物の進化には「合目的性」があるのだという「信奉」は科学とは言えず、「宗教」と呼ばれてもおかしくないというモノーの批判はそのとおりだと思います。
>「人間にとってどんなに不安で絶望的なことであろうとも、それが科学的で客観的な知識であるならば無条件で受け容れるべきだとし、他方で「にもかかわらず、現在の自己を超克・超越して理想に投企すべきである」
議論を呼んだこの文章は、マルクス主義者をも含めた人たちに、こうした科学的事実に誠実に向き合わないと「宗教」に陥りますよという警告を述べたものであり、その客観的知識の上に、哲学的考察を行うべきだという事を述べたものだと理解しています。そして、その指摘は、現代の多くのマルクス主義者にも当てはまります。
ですから、ここまでのモノーの主張にほとんど同意します。というか、私も同様の事をリアルに左翼運動家達に言い続けているぐらいです。
しかし、それでも、弁証法的唯物論=「合目的性を持つ考え」としてまるごと否定するのは、ややその価値を矮小化しすぎだと私は思っています。
確かにエンゲルスやレーニン、その他多くの人たちはその過ちを犯していますが、弁証法的唯物論の本質は、宇宙や物質の変化(それを「進化」と呼ぶかどうかは別として)を、定常状態としてではなく、階層的な運動の歴史として捉えた点こそにあります。ですから、自然界では、その変化を生み出す原因には「合目的性」がないことを現在の科学的知識の上にきちんと導入し、そうした修正を行えばよいと思っています。
そして、人類社会のマルクス主義的理解である史的唯物論にも、同様の事が言えます。確かに、資本主義から社会主義・共産主義へと移行していくことは必然であり、善であるという「宗教」を信じている人たちもいます。しかし、自分さえよければ他人を不幸にしても平気な人もいれば、自分がどうなっても他人を助けようとする人もいる。そうしたそれぞれの時代に制約を受けた意識を持つ色んな人の運動の歴史が、国家を生み出し、民主主義や人権といった概念を生み出し、国連を生み出すにまで至っている。といった、人類史を個々にはばらばらである人々の運動の歴史として捉える人類史観としての史的唯物論の先進性までをも切り捨てる必要は無いし、ある「合目的性」を持った集団(共産党)の社会建設方向を示す羅針盤的史観としては、明らかに有効であろうと思うのです。
ですから、モノーの主張は実に正しいのですが、だからといって弁証法的唯物論を捨て去れというのは極端で、若干の修正を加えれば十分なのではないのか?というのが私の見方です。
ただ、頑なで、無謬主義な左翼運動家には、モノーの言う「人間にとってどんなに不安で絶望的なことであろうとも、それが科学的で客観的な知識であるならば無条件で受け容れるべき」という主張は、重く受け止めて欲しいと私も常々思っています。
言いたいことの半分も言えてませんが、とりあえずここまでとします。
投稿: Looper | 2009.02.06 11:52
こんにちは、Looperさん。少し変な話をしますね。
>ですから、モノーの主張は実に正しいのですが、だからといって弁証法的唯物論を捨て去れというのは極端で、若干の修正を加えれば十分なのではないのか?というのが私の見方です。
私は古代史なんかもやるんですけどね、日本の古代史なんかは、イデオロギーに引っかき回され続けた面があるんですね。かえって、江戸時代の国学の方が冷静に古文書を古文書として見ている面があるんです。
なんていうかな、明治の中頃から戦争までは、古事記や日本書紀などの記載を国体論に合うように解釈しては絶対化するという流れがあり、逆に戦後は古事記や日本書紀を徹底的に「史実とは違うもの」として扱う見たいな流れがあるんです。戦前は国体論に合わない解釈は糾弾され、戦後は「史実が含まれると真面目に扱うなんて馬鹿だ」みたいに扱われた感じですかね。
実際のところ、8世紀の政権が8世紀のイデオロギーに合うように歴史を書いた物という素直な読み方ができるように成ってきたのは本当に最近の流れなんですね。当然8世紀の政権が正統政権であるという事を言うために書かれてはいるけれども、「自分の先祖はこうであった」という有力氏族もまだ現役でいる中で書かれるわけですから、全くの絵空事も書くことはできないという制限の中で書かれた物としての研究がなかなかできなかった訳ですよ。まあ、そういう史学会の混乱につけ込む形で邪馬台国みたいにあらゆる思いつきが幅を利かせる事も起きたわけです。
なんとなく、似ている気がするんですよ、ある種のイデオロギーが幅を利かせると、そのイデオロギーに痛めつけられた方がその反動として「全て馬鹿話」と片づけてしまいたくなるという部分がね(笑)。
投稿: 技術開発者 | 2009.02.06 16:45
技術開発者さん、
> 私は古代史なんかもやるんですけどね、日本の古代史なんかは、イデオロギーに引っかき回され続けた面があるんですね。かえって、江戸時代の国学の方が冷静に古文書を古文書として見ている面があるんです。
なるほど、どこでも似たようなことがあるのですね。
ソ連時代の生物学なんかも酷いもんでした。トロフィム・ルイセンコなんかの非科学をイデオロギーに都合が良いという理由で採用したスターリン。科学にイデオロギーを持ち込むとろくなことが起きません。モノーの強い口調も、その辺りへの危惧が強いからでしょう。
>なんとなく、似ている気がするんですよ、ある種のイデオロギーが幅を利かせると、そのイデオロギーに痛めつけられた方がその反動として「全て馬鹿話」と片づけてしまいたくなるという部分がね(笑)。
確かに、そういう反動は良く分かります。
でも、実はモノーはマルクス主義を全否定しているわけではなく、弁証法的唯物論を絶対視するな、科学に忠実になれ、といっているように思います。しかし、それを読んだ反マルクス主義者たちは、モノーが「マルクス主義を全否定している」と極端に(意図的に)解釈するのですね。
いずれにしても大事なのは、明らかとなった客観的事実に予断無く、真摯に向き合えるか?という態度に尽きるように思います。
で、これが結構難しいのですよね。
投稿: Looper | 2009.02.06 17:24
Johannes-Chrysostomos(黄金の口)さん。
Looper さん。
技術開発者さん。
こんにちは。
コメント、何回も読みました。
また本も読み直したりと、
なかなかすぐには書ききれない思いです、、、
とくに、皆さんのコメントがグイグイと近づいていくんですねぇ、マルクスに。エンゲルスに。
うわっ〜〜〜〜。(^-^;
ジャック・モノーの著書をたたき台にして、最終的には「生物とはなにか」に肉迫しようと言う思いは、いずれ哲学の門を叩く事になるんですね、、、
と、言う事で、
Johannes-Chrysostomos(黄金の口)さん。
「政治の季節」とか「哲学の季節」。
そうですよね。
なんだかそうした時代が懐かしくもありセピア色でもあり、、、
と、思うこの頃です。
子どもたちに勉強を教えているんですが、
時々の話題や課題に反応が変わって来ている事を身にしみて感じます。
なんだか大きな忘れ物をしてきたのか?
と、不安になる事もあったり。
あるいは、それが「時代のエネルギー」となんだか責任を時代に押しつけたりと、、、
画策しています。
いつまでたっても、そうなのでしょうね。
黄金の口さんのコメントで、いろいろ思い出していました。
ありがとうございました。
さて、早速Looperさんや開発者さんがモノーについて書かれていますので、宜しければ、ご意見くださいね(*^-^)
Looper さん。
ありがとうございました。
凄くわかりました!!!
とくに「人間中心主義」あたりが。
モノーは亜流について鋭く批判していますね。
「弁証法的唯物論にとっては(中略)、もの自体が変質することなく欠ける事無く、またある特性だけが選択されることなく、その意識のレベルに到達する事が必要不可決なのである」
と、述べ、亜流の論理的一貫性を求めていますね。
そしてLooper さんがご指摘の以下のようにも。
「私は一貫して、科学の根拠に、目的やら意志やらを持ち込んだら、それは疑似科学に陥ると述べています。ですから、マルクス主義者の、こうした宇宙や生物の進化には「合目的性」があるのだという「信奉」は科学とは言えず、「宗教」と呼ばれてもおかしくないというモノーの批判はそのとおりだと思います。」
私も全くその通りと思います!!!
そしてさらにご指摘のように、「その客観的知識の上に、哲学的考察を行うべきだという事を述べたものだと理解しています。」も、同意です!!!
これは私たち自身への警告ともとっています。
後から開発者さんが書かれているように、
「ある種のイデオロギーが幅を利かせると、そのイデオロギーに痛めつけられた方がその反動として「全て馬鹿話」と片づけてしまいたくなるという部分がね」
と、言う感覚を持つ事で人は、あるバランスを取り、
精神の安寧をえるものであるという側面もあるのでしょうね。
こうした現象をも考量にいれて、
科学や哲学をさらに深める事の必要を今、あらたにしています。
どうもありがとうございました。
技術開発者さん。
側面からのアドバイス、バッチリでした。
とてもわかりました!!!
擬似科学、ニセ科学が隙間に入り込む有様が見えて来たようにもおもい、
ウカウカしてはいられないのだろうと、考えたりして、、、
先日もチラリと書いたように「批判」のやり方や、その批判批判する側のお互いの言い分に、
なんとなくステレオタイプなものを感じていますが、
頂いたコメントをみて、
イデオロギーにぶつけてくる「批判は楽」なんでしょうね、、、
自分自身の問題として、
もっと学習する必要を感じたりと、悩ましいです、、、
なんだか違う話になりましたが、このところのいろんなやり取り(開発者さんもコメントを残されている多くのブログ)に、ちょっと気をもんでいたので。
と、言う事で。
またね!!!
投稿: せとともこ | 2009.02.06 17:50
Looperさん、はじめまして
史的唯物論を捨て去るというのは極論だとのことですが、
これって、史的唯物論をどうとらえるかだと思うんですよ。
これを経験科学の一種、
つまり、歴史的事実を積み上げた中からなにか法則のようなものを取り出したのか、
それとも、ほかの原理から導出されたもの
たとえば、ヘーゲルの弁証法論理学から演繹されたものと捉えるか
によって、毒にも薬にもなると思います。
マルクスは歴史を動かす主体として、生産関係を置きました。
これによって、従来の、歴史は王侯や英雄が動かすという考え方からずいぶん進歩したわかです。これはマルクスの功績だといえます。
ただ、彼(というか、そのエピゴーネン)はそこで止まってしまったのです。それで史的唯物論はドグマ化してしまったわけです。
史的唯物論は、いわば生産関係を唯一の独立変数として、その他の歴史事象を従属変数として扱う考え方です。
しかし、他の独立変数は無いのか。
自然現象--たとえば気候変動とか。
また、人口の圧力をどうとらえるのか。
他の社会からの影響は考慮しなくてもいいのかとか。
合目的性を排除した史的唯物論というものが、修正はそれだけなのか、あるいはもっと歴史学の新しい成果と取り入れることのできるオープンな構造になっているのか
それによって、今後も我々を導く指針になってくれるのかがきまると思います。
せとさん、もとのエントリーからずいぶんずれてしまって、すみません。
投稿: Johannes-Chrysostomos(黄金の口) | 2009.02.06 23:33
こんにちは、黄金の口さん。
モノーに付いて、みなさんが色々精細に書いておられるので、付け加える事はそれ程有りませんが一つだけ。
科学者の立場から、宗教の科学への干渉を『科学的に』批判したものが『偶然と必然』だと思うのですが、その文脈の中で史的唯物論等のマルクス主義批判とも読める『言葉』が出てくる。
モノーの宗教(科学を含む世界の全ての物事に介入してくる一神教)批判は当然で、皆さん異論は無い筈です。
宗教が科学に口出しすべきでない。
許してはいけないし、絶対にしてはいけないことがらでしょう。
ただ、共産主義批判の部分で若干の解釈の違いが有るようです。
しかし私の解釈では、彼は全く同じ話をしているのですよ。
宗教(哲学)であれ、宗教モドキ(ソ連型共産主義)であれ科学に口出しすべきでない。
人類文化の最高峰は科学であり、科学の上に君臨する『何もの』も認めない立場です。
それなら、日本人ならごく当たり前の自然な考え方で一々他人(モノー)から指摘されるほどではない常識ごとです。
ですから(日本では)大の大人が指摘されたら愚樵さんのように不愉快になるのは当たり前です。
マルクスがそれまでの経済学や歴史学など社会科学を経験論的な別々の事物の積み重ねから、科学的に検証する事によって法則性を発見して『科学』として位置づけをする。この功績は大きい。
ここからが問題です。
日本人的には、科学は正しく本物で、宗教はその反対と思っているが事実はそれ程簡単ではない。
宗教と科学は対立するものではなく並立します。
それどころか『正しい科学』が、何時でも『正しい宗教』に変化することが出来る性質を持っている。この事をみなさんはうっかりしています。
その代表例がソ連の共産主義ですね。あれは多分間違いなく宗教です。或いは宗教モドキ。
そしてフランス共産党の信奉していたのがソ連型共産主義です。
だから本山(ソ連)が崩壊すると簡単に潰れてしまう。
その辺の事情は、日本共産党の一部幹部は知っていたようで、早くから自主独立路線を掲げるし、マルクス主義と呼ばずに科学的社会主義と名称まで変更する。
欧州の共産党と日本共産党は同じとの主張は正確では有りません。
まあしかし、確かに似ているところも有る。
3年ほど前に共産党幹部がセクハラを理由に辞任した後離党して事件で、党員のブログで批判記事が連載されていたので『身内の恥はみんなの恥』で『創価学会のようで見っとも無い』し『共産党(選挙)の為には逆効果』であると説明しようとしたのですが会話になりません。
党の方針を批判(反対)するものは自動的に反共分子で、敵と認定される始末。
この人たちは共産党の方針は神聖な教義であり、間違いなどあろう筈がないと信じている。
反対するものには文字どうり宗教的な情熱を燃やして反撃しようとする。
怖い話です。
科学的に正しいから宗教にならないではなく、正しい科学ほど逆に宗教的に無条件で信じる人は多くなるので、宗教化する危険があるわけです。
誰であれ科学的な検証を否定して、他からの批判を軽視(敵視)すると、科学は何時でも宗教になります。
以前のニセ科学批判の批判でも指摘したのですが、『科学』にとって一番大事なのは、正しいか間違っているかの問題ではなく、他からのあらゆる検証(他所からの批判)を認める事が出来るかどうかですね。
検証が正しく行なわれるならば、何れは正しい正誤が明らかになる。
科学とは『間違い』を原動力として進歩していくもので、科学的間違いは単なる『間違い』にすぎず『悪』では有りません。
投稿: 逝きし世の面影 | 2009.02.08 14:50
逝きし世の面影さん、コメントありがとうございます。
>日本共産党の一部幹部は知っていたようで、早くから自主独立路線を掲げるし、マルクス主義と呼ばずに科学的社会主義と名称まで変更する。
>欧州の共産党と日本共産党は同じとの主張は正確では有りません。
ああ、そういうこともあったのですね。
ただ、私の回想しているマルキシズム的日本の状況というのは、大学生協の本屋で立読みした書籍とか、学生運動の活動家が配っているビラ等から得た印象でして、日本共産党を念頭に置いたものではありません。
社会党も毛思想との親和路線をとってましたし、あのころはいろんな人がいろんなマルクシズムの立場からものを書いてましたね。もっとも、そういうのも昔話となってしまいましたが。
>科学的に正しいから宗教にならないではなく、正しい科学ほど逆に宗教的に無条件で信じる人は多くなるので、宗教化する危険があるわけです。
というのは、おっしゃる通りだと思います。科学の活動ではなく、科学の成果を絶対視すれば、それは宗教になります。
>人類文化の最高峰は科学であり、科学の上に君臨する『何もの』も認めない立場です。
>それなら、日本人ならごく当たり前の自然な考え方で一々他人(モノー)から指摘されるほどではない常識ごとです。
この点は、すこし異論があります。
もちろん、私も大抵の日本人はおっしゃる通りだろうと思います。しかしそうでない日本人も少しづつ増えてきているのではないかという気もします(こういうのは、オウム真理教の事件がその底流にあるわけですが)
ごく普通の常識人と思っている人と話していて、え、この人、そんなこと本気で信じているの?と驚ろくことがあります。日本人の科学的リテラシーというのも、存外基盤が脆弱なのかもしれません。
その意味で、「偶然と必然」は過去の書物になったのではなく、現在もまだ果たすべき役割が残っているように思えます。
引用の順序を勝手に変えたことを、お詫びします。
投稿: Johannes-Chrysostomos(黄金の口) | 2009.02.09 17:04
今晩は、初めて投稿させていただきます。
私は、内村鑑三の信仰を強く支持するキリスト者としての立場に立つと同時に、ジャック・モノーの「偶然と必然」が書かれた時代に、分子生物学を専攻していた人間です。現在は既に退職していますが、40年にわたって研究に従事し、分子生物学の驚異的な進歩発展を、現場で検証して来た人間の一人でもあります。最近モノーの著作を読み返してみて、彼の預言的な警鐘(と私は読んでいますが)は今こそ再検証されねばならないものと思うに至っています。
最近それらのことに関して色々と思う事を、私が書いているブログメダカ通信 (http://8223.teacup.com/medaka/bbs )の中で時折書き綴っています。もし良ければご一読いただければ幸いです。
投稿: zebramedaka | 2012.07.01 22:22
zebramedaka さん。
初めまして。
コメントありがとうございました。
早速ご紹介いただいたzebramedaka さんのブログ、拝見いたしました。
内容が豊富で、ワクワクしながら読ませていただきました。
とくに子どもたちと深く関わられている記事を読みながら、私も共に考えました、、、
さて、モノーの本。
私も何度となく読んでいるのですが、
そのたびに感想が微妙に変化していて、理解がユラユラと揺れている中途半端な自分にもどかしくあったりもするのですが、
それでも、今に新しいその精神に触れるたびに、初心に戻るようで自分なりの到達点に満足しています。
zebramedaka さんのエントリーを拝見しながら、また考える事大でした!!!
これからも、色々とご教示頂けたら本当に嬉しく思います。
またブログ、伺いますね。
では。
投稿: せとともこ | 2012.07.02 15:20
生物としての普遍的な法則を3つ
1,合目的性
2,自律的形態発生
3,不変性
が挙げられてるんですか。
なんのことかさっぱりわかんないです。
うちは日常生活では理屈なして当たり前に自然物と人工物を区別できてるような?
でもそれは理論伴わないんです。
ふと整備された都市公園の木をみて
これは自然なの?人工なの?
と思うことがあります。
投稿: あゆ | 2012.07.03 08:28
あゆさん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
今、忙しくしている理由は、罵愚さんへのお返事にも書いたのですが、ちょっと新しいことへ挑戦しているのでバタバタしています。
といっても、何か仕事をするという事でなく、自分だけの趣味ですが、、、
さて、頂いたコメント。
じつにあなたらしい。
とても直というか、新鮮です。
〜〜〜〜〜〜〜〜
生物としての普遍的な法則を3つ
1,合目的性
2,自律的形態発生
3,不変性
が挙げられてるんですか。
なんのことかさっぱりわかんないです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
だって、みんな分からないのですから。
いろんな研究者が「あとづけ」というか、解釈でいろいろと分類していると言うことで、
実際のことなんて、本当は分からないし、
あなたが言われるように最終的にはふと思った疑問というのが「生きる上での目的」なのかもしれませんね、、、
だからこそ深いというのか。
うまく書けないのですが。
投稿: せとともこ | 2012.07.09 19:42