« しばらく更新できません。 | トップページ | 第171通常国会 »

2009.01.06

知っていることと識っていること

今日6日の午後、実家から帰ってきました。
お正月のラッシュには無関係かと思いきや、子どもたちの冬休み明け直前と言うことで、
電車もバスも飛行機もみんな混んでいました。
やっと家に着いた頃はヘトヘト。
ちょっと家の中を掃除したりとアレコレして、、、
電話もかけてと一応の仕事をしたその後、ネットを開いてアチラコチラとROMしていました。
「あああ、、、日常に戻ったなぁ」と言う実感が湧いてきます。
私もまた大いに書こうと思っていた矢先。
ブログで親しくさせていただいている愚樵さんのエントリーがあまりに面白くて何回も読んでしまいました。
タイトルは知識
この記事に触発されたごんさんの記事やアキラさんのエントリーがまたまた面白い。
人のつながりって、こうして確かな形で広がるんだと新年早々思っています!

フムゥウウウウ。
とため息。

そもそもの世界は、
これは、もう愚樵さんならではの世界。
そして、
その世界をちょっと覗かせていただき、さらにそこから我に返り、今度は自分の世界に還元ということでしょうか。

フゥウウウム。

と言うことで私もまた、
愚樵さんの記事を拝見しながら、荘子を思い出しました。
荘子外篇(6)天道(てんどう)篇 車大工がそれ。
とても短い文なので、以下に掲載しておきます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
世の人々が道を学ぶことで尊ぶのは書物である。書物は言葉を書き連ねた物に過ぎないが、言葉には意味内容という尊いものがある。しかし意味内容のもとずいたものは言葉では伝えられないということがある。ところが世間では言葉を重視するため、書物を尊重している。世間がいくら尊重しても、尊重するに値しないものもある、真実尊いものでないからだ。
 目で見えるのは物の形と色であり、耳で聞こえるのは物の呼び名と音声である。悲しいことに、世間の人達はその形や色、呼び名や音声で、それらの実情が充分に把握できると思っている。形や色、呼び名や音声では、到底事物の実情を把握できない。してみると、ことわざにもあるように「本当に知っている人は、それを言葉で説明しようとせず、言葉で説明する者は実は知っていないのだ」ということになる。それなのに世間では全くその事実を知らないのだ。

 斉の桓公が堂の廊下で書物を読んでいた。廊下の下では職人が車の輪を作っていたが、職人は槌と鑿を置くと堂に登り、桓公に話しかけた「お尋ねしますが、殿様のお読みになっているのは、どんな言葉ですか」。桓公は答える「聖人の言葉だよ」。職人「その聖人は生きていますか」。桓公「もう死んでしまわれた」。職人「それなら殿様の詠まれているのは、古人の残りかすですねえ」。
 むっとした桓公は「わしが書物を読んでいるのに、車大工ふぜいが余計な口出しをするとは。申し開きが出来ればよいが、出来なければ死罪にするぞ」
 職人は臆せず答えた「私は自分の経験に照らして考えているのです。車の輪を作るのに、削り方が甘いと支え木がゆるくて締りが悪く、削り方がきついと窮屈で上手くはまりません。甘くも無く、きつくも無いという程度は手加減で会得して、心にうなずくだけで、口では説明できません。このコツは私はそれを子供に教えることも出来ず、子どももそれを受け継ぐことが出来ません。そのために七十歳になってもこうして車つくりをしているのです。
 昔の人もそうした人に伝えられない物と一緒に滅んでいきました。してみると、殿様が読まれているのは、古人の残りかすということになりますね」。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

最後の文が有名な諺「古人の糟粕」の語源でもあります。
「本当に知っている人は、それを言葉で説明しようとせず、言葉で説明する者は実は知っていないのだ」と荘子は言う。


知っていることと識っていること。
考えさせられます、、、、、、、、

|

« しばらく更新できません。 | トップページ | 第171通常国会 »

コメント

初めまして。よろしくお願いいたします。
TBありがとうございました。m(_ _)m
こちらからも送らせていただきます。

僕の記事は昔のものの蒸し返しですので反則ですね。 (^_^;)
せとともこさんの記事を読んで、確か画家の熊谷守一氏が「本というのは人間の考えの滓を集めたものだ」みたいなことを言っていたのを思い出しましたが、荘子のことが念頭にあったのかもしれませんね。

考えさせられる記事が大好きです。
これからはちょくちょく覗かせていただきますね♪

投稿: アキラ | 2009.01.06 23:36

こんにちは、せとさん。

私は良く「たとえ話」をしますよね。その時、できるだけ日常生活で想像しやすい場面を作り上げようとするんですね。悪徳商法批判者の頃に作ったたとえ話でこんなのがあります。

内職商法の資料を取り寄せて電話したら「もう契約手続きに入っているので、断れません」みたいな話をされて、「断れないのかな」なんて悩んでおられる方に「お友達と『今度ディズニーランドに遊びに行こうよ』と言われて『良いよ』と言ったら、月曜日に『昨日、駅で待っていたのにすっぽかした』と怒られたら、なんて言いますか?」なんてね。「約束というのは、具体的に細かいことを決めて『これで良いよ』と合意するのが約束ですよ」なんて説明をしていたんすけどね。

なんていうかな、老子や荘子もたとえ話が多いんだけどね。たとえ話というのは「知」と「識」を結びつけようとする試みの一つだろうと思うんですよ。「知」は先人の「識」から生じた物で、先人の心の中では強く結びついている。でもそれを言葉にして残すとき、「識」を付けたまま言葉にすることはできない。だから、読む人のけっして多くは無い「識」を頼りにして、その「識」と再度、「知」を結びつけて「知識」としようとするとき、想像しやすく、その人の中にある「識」を喚起しやすい話をこさえる訳です。

愚樵さんの話というのは、私には「識」そのものの部分があるんですよ、高校生くらいかな、親父と山の手入れをしていて、ちょっと大きな木を倒さなくてはならなくなってね、「ちょっと太いな、でもくさびを持って来なかったな。お前がロープを書けてひっぱていればなんとかなるだろう」なんてので、半分くらいの所でチェーンソーを噛み込ませちゃった事があるのね。でもって、家までくさびを取りに帰ったのね。愚樵さんの写真のくさびは現代のくさびだけど、私の家にあったのは鉄の塊の重たい奴ね。そいつを抱えて、再度山登りね(死ぬかと思った:笑)。愚樵さんは、嗤うだろうけど親父も樵じゃないからね(祖父は樵だったから家にくさびなんかも有ったんだけどね)、そういうドジを踏みながら山の手入れをしていた訳ですよ。

投稿: 技術開発者 | 2009.01.07 08:47

こんにちは、せとさん。連投になってしまうけど、愚樵さんのエントリのコメント欄で出ている「右傾化・左傾化」について少し説明させてください。

もともと、人間は小さな群れで暮らしていました。小さな群れでは「知」よりも「識」で生きていける訳です。私は良く小さな村の鍛冶屋と農民なんて話をしますけどね。鍛冶屋は自分が経験的に培った技能で使いやすい道具を作り、その道具を使う農民もまた自分が経験的に培った耕作能力で作物をつくり、鍛冶屋もまたの作物を食べるなんてね。そこには、識から離れた知の必要性はあまり無いんです。

「労働運動は産業革命と共に生まれた民権運動であった」なんて事を良く書きます。産業革命によって工業が大規模化し、家内制手工業の労働者が工場労働者になり、厳しい搾取にあえいだときに、最初に起きたは「機械打ち壊し」だったなんて事を何度も書いていますが、「知」によらず、自分の経験的な感覚に従うなら、自分を苦しめているのは目の前にある工場の動力装置である訳です。そして、それでは解決する事ができないと分かったとき、「知」が必要と成ってきた訳です。普通選挙を求め、労働者の代表を議会に送り込んで、自分たちの生活を守る法を作ろうとする動きをするのには経験的なものだけではできなかったのです。社会の成り立ちを「知」として表し、その認識を共有して力を合わせなくてはならなかった訳です。

整理しますと、産業革命そのものも「知」による「識」の破壊をもたらしたんですが、それに対しての抵抗運動も「知」を用いなくては成らなかった訳です。

やがて、労働運動は自分たちに力を与えてくれる「知」として、共産主義・社会主義と結びついて行きます、これがいわゆる「左傾化」でしょうね。実はその時、産業革命を起こした社会の上層部も、大量生産に必要な原料供給や市場を確保する「知」として「国家覇権主義化」しています、右傾化と言って良いのだろうと思うわけです。

このように考えると、右傾化・左傾化のどちらが「知」による「識」の圧迫を行ったかなんて話は意味を持たなくなりそうですね。或る意味で歴史の必然として「人の群れ」が大規模化し、そのなかで「知」を重視する必要性が生まれ、それが「識」の軽視に綱勝った大きな流れの中に、社会の上層部・下層部ともに巻き込まれたに過ぎないわけです。

投稿: 技術開発者 | 2009.01.07 10:03

アキラさん。
技術開発者さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。

アキラさん。
初めまして。
とは言え、私は折に触れアキラさんのブログを拝見しているので、私の中では初めましてとは思わないくらい親しくさせていただいていたのです。
が、
ここで改めて
「初めまして、これからも宜しくお願いいたします」

実は、
私自身が坐骨神経痛なので、コッソリ、ひそかに拝読していました。
アキラさんの深い洞察と優しく温かなお人柄と姿勢に学ぶところばかりです。
自分と向き合う物が何か、
何をして判断の基準とするか、
いつも教えられているんですよ(*^-^)

と、言うことで今後ともご意見やアドバイスを頂くことが出来たらとても嬉しく思います。


技術開発者さん。
>たとえ話というのは「知」と「識」を結びつけようとする試みの一つだろうと思うんですよ。「知」は先人の「識」から生じた物で、先人の心の中では強く結びついている。でもそれを言葉にして残すとき、「識」を付けたまま言葉にすることはできない。だから、読む人のけっして多くは無い「識」を頼りにして、その「識」と再度、「知」を結びつけて「知識」としようとするとき、想像しやすく、その人の中にある「識」を喚起しやすい話をこさえる訳です。

はい。
本当に。
私は開発者さんの譬え話で、どんなにいろんなことが理解できたか、、、
数限りなくお世話になったと思います。
的確でズバリ、そして想像しやすい譬えを頂き、凄く納得いきました。
納得のついでに、2番目のコメントも御意。

>右傾化・左傾化のどちらが「知」による「識」の圧迫を行ったかなんて話は意味を持たなくなりそうですね。或る意味で歴史の必然として「人の群れ」が大規模化し、そのなかで「知」を重視する必要性が生まれ、それが「識」の軽視に綱勝った大きな流れの中に、社会の上層部・下層部ともに巻き込まれたに過ぎないわけです。


私も全くその通りと思います。
「ためにする議論」ではないかと訝るくらい右傾化や左傾化ってレッテル(?)の無意味さをつくづく思います。

歴史の必然として、
時代の流れとして、
人は今ここに、このように在る。
と、言う一つの真実。
そして、それを変える力も同様に人は持っている。
と、言うことを改めて思います、、、、

投稿: せとともこ | 2009.01.07 14:15

せとさん、技術開発者さん、こんにちは。

こちらにてコメントのお返事をと思いましたが、書き始めると長くなってしまいまして、我が家にて新たなエントリーとしました。

よければご覧になってください。

投稿: 愚樵 | 2009.01.08 14:30

こんにちは、愚樵さん。

どちらに書こうかと悩みつつ、こちらに書く方が連続性が有って良いかと思い、こちらに書きます。

以前、せとさんに、労働運動の内部統制なんて話で、「自己矛盾」のことを書いたのですが、私自身、常に内部に矛盾を抱えながら生きている訳です。せとさんにご説明したのは、横暴な権力に対して自由を求めて戦う時ですら、力をきちんと結集するために指導者は内部統制を行わなくては成らないという矛盾ですね。そう言うときに、内部統制を進める指導者というのは、それぞれ怒りを持ち、それぞれの戦い方で戦おうとする人たちにとっては「自由を縛る存在」に成ってしまうわけです。これが、システム化しなくては何事もなしえないほど大きくなってしまった人の群れというものの本質的に抱える矛盾なのだろうと思うわけです。

私自身は幸運にも若いときにあこがれた研究者という職を得て、そして研究開発という仕事の中でそれなりに充足している面がある訳です。なんていうか、労働の権利については充分に満たされるために、私自身に関しては「労働者の権利」を求める意欲がかなり薄い存在なんです。でありながら、労働組合の役員としては、「労働者の権利」を求める活動をしていると言う部分も矛盾していますね。例を挙げると、学会への参加旅費がわずかしか認められなかった時代に、年次休暇を使い私費で学会に参加していて、そのことに実のところ自分自身では不満も何も無いのに、「そのような現状はおかしいのではないか?」とお役所と交渉してきた訳です(公務員だったのでね)。

笑い話になるけど、労働組合と関係しながら、若いときから何度も愚痴ってきたんですね、「たぶん私は、この職場の中で労働組合の保護を一番必要としないタイプの労働者だろう、なんで私が人一倍労働組合の事をやっているのだろう」なんてね(笑)。実際に嫌になったことも何度かありますからね。

たぶんね、私を動かしているのは「知」なんですよ。大きな「人の群れ」の中で、その群れの中の「困り事」を解決するために、その群れが動くためのシステムを知り、そのシステムを何らかの形で動かすしか無い訳です。そして、その「知」は「識」とは違ってしまうわけです。私自身はその自己矛盾を「抱えている物」として、どうこうする気もなく「抱え続けている」訳です。

最近思うんですね、この自己矛盾を解決せずに認識し続けるという事こそが私という人間にとって重要な要素かも知れないとね。

投稿: 技術開発者 | 2009.01.08 18:10

技術開発者さんの仰ることはわかるような気がします。

私は本当のところは「知」と「識」とは等しく価値があるものだと思っています。自分のところのエントリーなどでは「識」を強調する書き方をしますが、これは社会が「知」を重視しているように思えるからで、その「知」重視の社会のあり方をずっと「科学教」と言ってきたわけなんです。

技術開発者さんのように、〔知る〕ことが自己矛盾の認識にまで至ると、もうそれは〔識る〕こととは区別がつかない。そんなふうに思うのですね。せとさんが引用された荘子なども、目指すところは〔知る〕〔識る〕の合一にあると思います。〔知る〕だけでは識ったつもり、〔識る〕だけでは自己満足ですから。

そういえば技術開発者さんは、たとえ話についてコメントされていましたね。〔知〕と〔識〕の渡り船としてのたとえ話。私思うのですが、聖書とか仏典とかにたとえ話が多用されるのは、決して偶然じゃない。あれらは〔知〕と〔識〕の合一を目指したものだとすると、渡り船のたとえ話が多くなるもの自然の理なんです。

私も技術開発者さんに負けず劣らずたとえ話が多いのですがね。それを“居酒屋談義”だとか“最強言説”だとか揶揄されたりしますけども。でも、それしかないんだよなぁ~。いくら論理を尽くしても、最後の最後、伝えたいと思っていることの肝心要は察してもらうしかない。...と私は思っているのですが。

投稿: 愚樵 | 2009.01.09 03:30

こんにちは、愚樵さん。

>せとさんが引用された荘子なども、目指すところは〔知る〕〔識る〕の合一にあると思います。

私がかぶれている陽明学では「知行合一」というのがあります。知ることと行うことが一つになるなんて言うと「知ったらその通りに動かなきゃ成らない」みたいに思われて、危険な行動主義哲学みたいに言われるのですけどね(まあ、私だと危険な行動主義と思われても仕方ない面もあるかもしれませんがね。色んな人の反対を押し切って「ニセ科学批判」の講演会を強行したりしますからね)。実のところそうじゃなくて「色を好み、臭を悪むが如く」なんですよ。綺麗な人とか物を見たら自然に目が惹きつけられる様に自然に善なる行為を為し、嫌な匂いを嗅げば自然と息を詰めるように自然に悪なる行為から遠ざかるのが理想なんです。論語に「心のおもむくままに従いて、矩を越えず」なんてありますけど、心を磨きに磨いた末には、行おうとして善を行うのでもなく、止めようとして悪を止めるのでもない、心のおもむくままに生きているだけできちんと善悪を分けて行動できる境地があると考える訳ですね。まあ、私はとてもその境地には達しないのですけどね(笑)。

投稿: 技術開発者 | 2009.01.09 12:57

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/15797/43658104

この記事へのトラックバック一覧です: 知っていることと識っていること:

» 暮らしに思いを馳せる経済学−−景気と暮らしの両立を考える [逝きし世の面影]
今週の本棚:松原隆一郎・評 『暮らしに思いを馳せる経済学』−景気と暮らしの両立を考える=山家悠紀夫・著(新日本出版社・1890円)  ◇二つの環に分断された日本経済   構造改革が景気を良くした、と自画自賛する元政府要人がいる。 だが02年からの景気回復の主因がアメリカと中国への輸出増であることは、自明であろう。 また物価下落(デフレ)が不況の原因だと徒党で唱える一派もいる。 しかしデフレのままで景気回復したのだから反証されたはずで、ともに事実からすれば疑わしい。 ここ十年の経済政策は、机上の論... [続きを読む]

受信: 2009.01.07 09:38

» 愚樵さんの『知識』 [光るナス]
ニケさんにせかされて(違?)さっそく愚樵さんのところに遊びに行ったのですが・・・。 特に元旦の記事が とても心動かされるものでしたので、ここを訪れる皆さんにも 是非是非読んでいただきたくて。。。 ま、お裾分けみたいなもんです♪ 『知識』 かなり長い....... [続きを読む]

受信: 2009.01.07 16:19

« しばらく更新できません。 | トップページ | 第171通常国会 »