教えるとは 希望を語ること
学ぶとは 誠実を胸にきざむこと
ルイ・アラゴン ストラスブール大学の歌より。
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大学はどうなるのかと言う内田樹さんのエントリーを読んで、なんとなくルイ・アラゴンの先の言葉が思い出されました。
いやぁ、本当になんとなくで、、、
内田さんのエントリーの内容とは全然違うのですが。
それにしても、内田さんのエントリー、本当に辛い。
教える方も学ぶ方も、幸せじゃないいんだなぁ、、、と思いますね。
受難の時代か???
フッ====
私も折りに触れ大学の現状に関しては書いているのですが、
大学が学問の府と言われたのは遠い昔のこと、となるのでしょうか???
そんな昨今の大学事情。
胸に詰まります。
さて、
先のアラゴンの詩には、こんなフレーズが続きます。
「教えるとは 希望を語ること
学ぶとは 誠実を胸にきざむこと
かれらはなおも苦難のなかで
その大学をふたたび開いた
フランスのまんなかクレルモンに
古今の学に通じた教授たち
審判者の眼差しをもった若者たち
君たちはそのかくれ家で
大洪水の明けの日にそなえた
ふたたびストラスブールへ帰える日に」と、、、
ナチの弾圧と戦渦を避けて疎開しても、なお学問を守ろうとした先人たちの熱い思いが伝わってきます、、、
改めて、
教えるとは、
学ぶとは、、、
そして理想と現実の狭間にねじれ喘ぐ人々へ思いをいたし、
なんとか、
学問が純粋に学問であることを願いながら、、、
と言う事で、もう一度「ストラスブール大学の歌」の詩を全文紹介します。
なお、今の現在の社会状況とはかなり違うので、此の歌の時代も、同時に味わい、噛み締めてご覧下さい。
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陽の色に輝やくカテドラル
ドイツ人どもに囚われながら
おんみは倦むことなく数える
めぐる季節を 月日を 流れる時を
おお ストラスブールのカテドラル
学生たちは別れを告げて逃れ出た
アルザスの空翔ぶ鵠鶴と
おんみの薔薇形窓の思い出を
いっぱいつめた背負袋を肩に
それは ながい別れとなる
教えるとは 希望を語ること
学ぶとは 誠実を胸にきざむこと
かれらはなおも苦難のなかで
その大学をふたたび開いた
フランスのまんなかクレルモンに
古今の学に通じた教授たち
審判者の眼差しをもった若者たち
君たちはそのかくれ家で
大洪水の明けの日にそなえた
ふたたびストラスブールへ帰える日に
学問とは永い永い忍耐
だが今 なぜすべてのものが黙っているのか
ナチどもははいりこんできて 殺している
暴力だけがやつらのただ一つの特性だ
殺すことだけがやつらのただ一つの学問だ
やつらは鉄の拳で撒き散らす
われらのかまどの灰までも
やつらは手あたりしだい撃ち殺す
見よ 教壇にうつ伏したあの屍を
友よ 何を われらは何をなすべきか
「無垢な幼児たち」の大虐殺を
もしもヘロデ王が命じたとすれば
それは君らのうちよりひとりのキリストが
あらわれでて 美しい血の色に
目覚めるのを怖れるからと 知れ
ストラスブールの息子たちはたおれても
だが 空しくは死なないだろう
もしも 彼らの赤い血が
祖国の道のほとりにふたたび花咲き
そこにひとりのクレベエルが立ち上るなら
今よりはかずかずのクレベエルたち
それは百人となり 千人となり
つづく つづく 市民の兵士たち
われらの山やまに 町まちに
義勇兵とパルチザンたち
われらはともに行こう ストラスブールへ
二十五年まえの あの日のように
勝利はわれらの頭上にあるのだ
ストラスブールへ だが何時と君たちは言うのか
よく見るがよい 震えおののくプロシャ人どもを
ストラスブールの プラーグの オスロオの
三つの受難の大学よ
よく見るがいい 銃をうつやつらの姿を
奴らはもう知っている 逃げだす日の近いのを
敗北こそ 奴らのさだめだと
よく見るがいい 奴らがおのれの運命を知り
士気もおとろえた その姿を
死刑執行人どもこそ罪人にかわるのだ
やつらに戦車と手先があろうと
やつらを追いだすのだ 今年こそ
武装を解除された英雄たちよ 武器をとれ
ストラスブールのためフランスのため世界のため
聞け あの深く どよもし どよもす
フランスの声を 祖国の声を
鉤 十 字の殺人どもは滅びるのだ
陽の色に輝やくカテドラル
ドイツ人どもに囚われながら
おんみは倦むことなく数える
めぐる季節を 月日を 流れる時を
おお ストラスブールのカテドラル
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