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2009.02.11

ありのままについて考えてみたが、、、

“あるがまま”を観ることと言うエントリーを愚樵さんが挙げています。
NairFessさんも「あるがままに」と言う記事を書かれています。
お二人の書かれたものを何回も読ませていただきました、、、

「あるがまま」。
なんとも深くて広くて凄い問題です。
NairFessさん言われるところの「口に出した途端にスルスルと指の合間から消えて、既に「あるがまま」ではなくなるのかもしれません。
愚樵さんの書かれているように「これは何だろう?」と観察や分析をすれば、既に「あるがまま」ではないのかもしれません。

「あるがまま」。

お二人のブログを拝見しながら思い出したのは芭蕉との俳句とテニスンの詩について書いていた鈴木大拙を思い出しました。

「よく見れば ナズナ花咲く 垣根かな」芭蕉です。
これに対してテニスンはひっそりと咲く一つの花を以下のように詠みます。

「壁の割れ目に 花咲けり 
 割れ目より汝を 引き抜きて
 われはここに 汝の根ぐるみすべてを
 わが手の うちにぞもつ
 おお、小さなる花よ

 もしわれ 汝のなんたるかを
 根ぐるみ何もかも 一切すべてを 知り得し時こそ
 われ神と人との なんたるかを知らん」

フゥ〜〜〜〜ム。
芭蕉とテニスン。
鈴木大拙は、この二人を比較して西洋と東洋の「物の見方」の違いを語っています。

あるがままと言えば、そこにひっそりと咲く一つの花をそっと愛で、
それはそれでそのままが、「あるがまま」「ありのまま」自在であるということなのかもしれません、、、
が、
私の中では「あるがまま」は「受け入れる」ことと同義であったりします。
「受け入れる」あるいは「赦す」とかまたまた或いは「放つ」とか。
そして、そんな言葉の裏には、やはり強烈な感情が潜んでいなければ本物にはならないのだろうと、思っています。

そう、端的に表わしてくれているのが茨木さんの詩かな???と思ったりしています。
以前にも記事にしたことがあるのですが、もう一度載せておきます。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
怒るときと許すとき

 女がひとり
 頬杖をついて
 慣れない煙草をぷかぷかふかし
 油断すればぽたぽた垂れる涙を
 水道栓のように きっちり締め
 男を許すべきか 怒るべきかについて
 思いをめぐらせている
 庭のばらも焼林檎も整理箪笥も灰皿も
 今朝はみんなばらばらで糸のきれた頸飾りのようだ

 噴火して 裁いたあとというものは
 山姥のようにそくそくと寂しいので
 今度もまたたぶん許してしまうことになるだろう
 じぶんの傷あとにはまやかしの薬を
 ふんだんに塗って
 これは断じて経済の問題なんかじゃない

 女たちは長く長く許してきた
 あまりに長く許してきたので
 どこの国の女たちも鉛の兵隊しか
 生めなくなったのではないか?
 このあたりでひとつ
 男の鼻っぱしらをボイーンと殴り
 アマゾンの焚火でも囲むべきではないか?
 女のひとのやさしさは
 長く世界の潤滑油であったけれど
 それがなにを生んできたというのだろう

 女がひとり
 頬杖をついて
 慣れない煙草をぷかぷかふかし
 ちっぽけな自分の巣と
 蜂の巣をつついたような世界の間を
 行ったり来たりしながら
 怒るときと許すときのタイミングが
 うまく計れないことについて
 まったく途方にくれていた
 それを教えてくれるのは
 物わかりのいい伯母様でも
 深遠な本でも
 黴の生えた歴史でもない
 たったひとつわかっているのは
 自分でそれを発見しなければならない
 ということだった

茨木のり子・・・詩集「見えない配達夫」より
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「たったひとつわかっているのは
 自分でそれを発見しなければならない
 ということだった」
と、言うことで私にとって「ありのまま」とは、
強烈に生きる、「ソコ」にあること。
それをまさに自覚することかなぁ、、、と今の私は思っています。
もっと歳をとれば、
道元禅師の「眼横鼻直」には達することができるだろうか???
と、思う次第。

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コメント

せとさん。今日は。
>道元禅師の「眼横鼻直」には達することができるだろうか???
打座にも打ち込み、「絶対矛盾の自己同一」の哲理に達した西田幾多郎は常に「知情意の一」ということを強調していたそうです。世の中広く、深いもんだと思いました。

投稿: hamham | 2009.02.11 14:57

hamham さん。
コメントありがとうございます。

クラゲの方にも頂いていて、hamham さんのブログ模様替え書かなきゃと思っていたのですが、
この頃、確定申告やらなにやらとバタバタしていて、ゆっくりとパソコン前にいなかったりしています。
で、
とても清々しい雰囲気のブログになりましたね。
以前は、かわいかったのですが、今回はグ==ンとしっとりしましたね。(*^-^)
素敵です!!!
記事の中身も楽しみです。

さてさて、精神の問題については、
まだまだ煩悩多い悩み深く罪で身動きできない自分と、今日も向き合っています。
┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~

と、言うことで、
ハハハです。

じゃね!

投稿: せとともこ | 2009.02.12 10:58

あるがまま・・・ですか・・・

でも、「あるがまま」に「見る」、「聞く」などの感覚は、前にも言ったように、まず経験の積み重ねが前提としてなければ聞こえていても、見えていても、何の区別できず、「ありのまま」にも、「煩悩まみれ」にも感ずることができないのですが・・・

視覚の話は以前にしたように、生まれてから、色々な形、色の物を見ることで、まず視神経からの様々に異なる信号を脳で区別できるような整理をして、初めて物の色、形を認識・区別できるようになります。以前は色の話をしましたが、形も同じで、縦じま模様しか見せないで育ったら、それ以外の形、線は認識できなくなります。

聴覚も同じです。お腹の中にいるうちから、色々な高さ、強さの音を聞き、それを区別できるよう脳の回路が構築できていないと音を認識できないので、生まれつき音が全く聞こえない人は、ある年齢以上を過ぎてから機能的には正常に戻ったとしても、一生正常に聞こえるようにはなれません。これは、嗅覚なども同じです。

ですから、「あるがまま・・・」に感ずるためには、それ以前にいろいろな経験の積み重ねが必要であり、当然それらに左右されているのですね。本人はそれに気がつかなくてもね。生まれつきでは、「あるがまま」に何かを感じることなど、実際にはできやしないのです。

投稿: Looper | 2009.02.12 16:57

Looperさん。
おはようございます。
今、お忙しいのではないでしょうか???
コメント頂けて嬉しく思います(*^-^)

「「あるがまま・・・」に感ずるためには、それ以前にいろいろな経験の積み重ねが必要であり、当然それらに左右されているのですね。本人はそれに気がつかなくてもね。生まれつきでは、「あるがまま」に何かを感じることなど、実際にはできやしないのです。」

はい。
私もそう思います。
「あるがまま」と思うところに既に恣意というか経験が入ると思います。
私個人は、むしろ「あるがまま」にとらわれないで、
いきたいと思っています。

そうそう、
偶然の方で、黄金の口さんがLooperさんにご挨拶と「史的唯物論」について書かれています。
もしお時間がありましたら、またご覧ください。
実は私もLooperさんのご意見を読むこと、凄く好きで楽しみなのです。

と、いうことで、
またね!!!

投稿: せとともこ | 2009.02.13 10:09

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