« ルーリン彗星接近 | トップページ | 2〜3日更新できないかもしれません。 »

2009.02.24

絶滅言語

世界2500言語消滅危機、ユネスコ「日本は8語対象」と言うニュースがつい先頃出ました。
このニュースによると、以下の通りです。
==============
「世界で約2500の言語が消滅の危機にさらされているとの調査結果を、国連教育科学文化機関(ユネスコ、本部パリ)が19日発表した。日本では、アイヌ語が最も危険な状態にある言語と分類されたほか、八丈島や南西諸島の各方言も独立の言語と見なされ、計8言語がリストに加えられた。
調査は、全世界で6千前後あるといわれる言語を調査。538言語が最も危険な「極めて深刻」に分類された。続いて「重大な危険」が502語、「危険」が632語、「脆弱(ぜいじゃく)」が607語だった。
また、1950年以降消滅した言語が219語にのぼった。最近では08年、米アラスカ州でイヤック語が、最後の話者の死亡で途絶えた。
日本では、アイヌ語について話し手が15人とされ、「極めて深刻」と評価された。財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構(札幌市)は「アイヌ語を日常的に使う人はほとんどいない」としている。
このほか沖縄県の八重山語、与那国語が「重大な危険」に、沖縄語、国頭(くにがみ)語、宮古語、鹿児島県・奄美諸島の奄美語、東京都・八丈島などの八丈語が「危険」と分類された。ユネスコの担当者は「これらの言語が日本で方言として扱われているのは認識しているが、国際的な基準だと独立の言語と扱うのが妥当と考えた」と話した。(原文まま)
==================

フゥ〜〜〜ム。

危機に瀕する言語についてはwikipediaによると、
言語を失うということは、「言葉だけでなく文化や生物の多様性をもう失うことである」として危惧を表明してます。
本当にそうですね、、、

方言や民族特有の言葉は生活、それも主には自然との触れ合いから出てきた言葉故、
自然を感じ、自然を理解し、知るという大いなる働きがあったものと思います。
そんな言葉が消えていくということは、
自然を感じる機会が一つ失われるということでしょうか???

民族特有の文化や育んで来た思想が、
失われていくといくことでしょうか???

この記事を読みながら、
以前、観た映画のアレコレを思い出しました。
ククーシュカ ラップランドの妖精と言う映画では言葉を理解しなくても、そして初めは敵であっても、
人はお互いに理解し合い愛し合えることを伝えていました。

クジラの島の少女では、やがて消えていく運命にある民族が祖先の神がまた戻ってくると信じて海に出ていく中で、小さく素朴な願いが伝わってきました。

「言葉」。
多種で多様で、その言葉を語る人々の歴史と思いがいっぱい詰まっているもの。
そして、
多種で多様なその底に潜んでいるものは、
自然と共に有り、人々と共にあることでしか生き抜けない知恵なのではなかったか、と私は思います。
共通の理解、共有の思い。
それこそが過酷な自然とともにあった先祖の生き抜いてきた力なのだろうと考えるとき、
言語の絶縁が意味することは、
文化や歴史が薄っぺらで浅いものになることでは、と思います。

言葉。
大切に伝えていくことを思い、
その連なる思いに想像を巡らせると背筋にピシッと筋が通るようです。

|

« ルーリン彗星接近 | トップページ | 2〜3日更新できないかもしれません。 »

コメント

こんにちは、せとさん。

私みたいに古代史までやっていると、今の日本語だってずいぶんと色んな言葉を失ってきているなと思っています。まあ、その分、新しい言葉もでてきているんだけどね。

変な事例を挙げましょうか、古事記とか日本書紀に熊襲の征伐なんてのがあって、耳垂(みみたり)なんていう「まつろわぬもの」が出てくる訳ね。名前からすると耳が垂れているみたい(そう説明している本もある)だけど、これって、古代の原日本語で言うと「み」つまり「良いもの」が2重にかかっていて、「たり」つまり「満ちあふれている」という意味なのね。良い物を沢山持っている部族だから「みみたり」なんです。

「み」っていう言葉はかなり後代まで残っていて、例えば「みの」という地名は「良いもの」という「み」と土地をあらわす「の」で「良い物が沢山取れる土地」の意味なのね。ところが「たり、たる、たれ」は比較的早い時期に意味が失われて、下に垂れ下がっている様な意味でしか使われなくなるのね。ついでにいうと随の煬帝に手紙を送った王の名前は多利思比孤(タリシホコ)で原日本語で言うと「沢山の矛を持つ者」という意味なんだけど、多くの人はその意味を考えてはくれないわけです。

最近、少し地名に関する記事を書く事があって、「タルミ」という地名に関して、「垂れ水=水の豊富さを表した地名」という教育委員会ご推薦の説と、「たる(沢山の)み(良い物)」という原日本語解釈を併記して説明してしまいました。まあ、農耕が始まると、水の豊かさは稲作の豊かさにつながるので、どちらでも同じになっちゃうんですけどね(笑)。

投稿: 技術開発者 | 2009.02.24 13:51

せとさん、こんにちは。

今、私の所では、このことがテーマのエントリーで、このことと関係のないことが騒動になっていますが...( ̄Д ̄;;

ま、それはいいとして、言葉が亡ぶとき。なんとも表現しがたい寂しさを感じますね。その寂しさは、ある生命種が絶滅してしまうと知ったときのものと同じでしょう。とある言語が亡びても、またある生命種が絶滅しても、それが私たちの暮らしと直接関係ないものならば、なんら感情を催すことがなくても不思議ではないのですが...、やはりそうはいきません。

言葉によって表現する叡智というものがあったとして、その叡智を共有するには言語は共有されていた方がよい。叡智といったものが言葉と離れて――例えば科学によって解明される自然現象のように――あれば、言語の共有には利点はあれどなんらデメリットはないはずなのですが、そういった論理には賛成しかねる部分がどうしてもあります。

では、叡智は言葉と共にあるのか? 言葉が亡ぶと共に亡んでしまう叡智もあるのか? そう考えたりもしますが、それも少し違うような気がする。叡智は人間のもっとも良質な属性であり、人間とともあるとは言えるかもしれませんが、その叡智が言葉の下部構造だとは考えがたい。では、言語そのものが叡智なのか? そうかもしれませんが、その感触も、生物種が亡びると知ったときの感情と比較すると、もうひとつしっくり来ないところがあります。

現時点での私の答えは、言語が亡びることで叡智そのものが亡びることはないにしても、「叡智のあり方」が亡びてしまう、ということではないか、です。生物種の滅亡でいいますと、ある種が滅亡したとしても自然はその位置にかならず別の生命を用意しますから、生命がそのものが亡びるということには当たらない。けれども、何かが失われたことは事実で、それは「生命の在り方」。つまり個々の種とは「生命の在り方」ではないのか、ということになります。

しかし、叡智とは「叡智の在り方」そのものではないのか? 生命とは個々の種、もっというと個別の個体のことではないのか? 考えば考えるほどに思索の種は尽きません。全と個も、ともに叡智あるいは生命と呼べるこのような「在り方」を「個にして全、全にして個」と言うのではないかと想像していますが、それをそうだと断言するにはまだまだ言葉が不足しているように感じます。

...とまあ、いつものごとく、得体の知れないようなコメントで申し訳ありませんでした(笑)

投稿: 愚樵 | 2009.02.24 15:46

技術開発者さん。
愚樵さん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。

私の住んでいるところは今日は曇り。これから雨の予報です。
折角の彗星大接近なのに残念。
お二人のお住まいはいかがでしょうか???


さて、技術開発者さん。
そうですよね。
言葉って生きているんですね。
滅びる言葉もあれば、生まれる言葉もある。
時代の鏡でもあるんでしょうね。
鏡といえば狂言や能でも、
「鏡」は面白く悲しく伝えられていますが、
言葉を通して、
そして言葉から離れ、
人はなにか息ずくものを描きたかったのでしょうか???
興味はつきません。


愚樵さん。
実は最初のあなたのエントリーを読んで、その後20日の記事を読んで、、、考えていたところなのです、、、
トラックバック差し上げようと思ったのですが、
コメント欄が本文と離れていったようなので、逡巡したというのが本音です。

メロドラマ大好きな私には水村さんの本からさらにメロドラマ論にまで到達した海難さんの記事、面白く拝見しました。
本当はもっと愚樵さんにマルクスが誘い込んだ袋小路についてお聞きしたいのだが、、、
如何でしょうか???
お時間がありましたら、また機会をみつけてお書きくださいね。
楽しみにしています。
では。

投稿: せとともこ | 2009.02.24 17:20

こんにちは、愚樵さん、そしてせとさん。

愚樵さんには「お疲れ様」としか申し上げようが無いんですけどね。私に言わせると、マルクスを経済学者として、その説を経済学として学ぼうとする一般の人がとても少ないという気がして居るんです。まあ、マルクス自身が経済学者として始まりながら、かなり社会学にはまり込んだ面があるから仕方ないのかも知れないですけどね。でも経済学としては秀逸であり、その対抗馬として近代経済学も生まれたし、今のマクロ経済学だってマルクスの経済理論を下敷きにしなければ成立出来ないだけのものがあります。

マルクスが見た労働者階級というのが、今の労働者階級とはかなり異なるものであっただろうというのは、私もときどき説明します。私はせとさんに「共同体」と「機能体」という話をしますが、実のところ貧しさと共同体意識というのはかなり密接に関係します。私は原始共産制の話で良く狩猟民が狩りの獲物を私有化せずに村全体で食べるという事例をだしますが、基本的に生産価値としての狩りの獲物が不定期で乏しく、私有化すると村全体が滅びかねないからです(優れた狩人が骨を折って1ヶ月狩りに出られないと私有制の下では死ぬしかないけど、原始共産制では1ヶ月後に復活して村に獲物をもたらしますからね)。農耕が始まり生産価値が増大することで私有制は始まる訳です。そして、どの時代でも、もっも貧しい階層が最も強い共同体を構築します。そうしないと「生き延びにくい」からです。

現代というのは或る意味豊かな階層から貧しい階層まで「共同体」意識を失っているという意味では特異的かもしれないと思ったりしています。

投稿: 技術開発者 | 2009.02.24 17:57

せとさん。

>コメント欄が本文と離れていったようなので、逡巡したというのが本音です。

ああ、なんということ! 逡巡したのはよくわかりますが...残念  (´Д⊂

泥仕合のようなコメント欄は...、まあ、正直なところ楽しんでいるところも大いにあるのですがσ(^o^; 、そのくらいでないとやっていられないところもありまして...、でも、楽しんでいる自分を省みると虚しさも覚えてしまって、なんとも複雑です。

とはいえ、

>本当はもっと愚樵さんにマルクスが誘い込んだ袋小路についてお聞きしたいのだが、、、

ははは。これは本当にまだまだ「嗅覚」とくらいにしか言えません。「嗅覚」のもとになる「状況証拠」はいくつかあるのですが、それだけで断定すると陰謀論ですしね。「物証」をつかむに至るには...、至れるのかなぁ...(=´Д`=)ゞ

投稿: 愚樵 | 2009.02.24 19:01

技術開発者 さん。
愚樵さん。
こんにちは。

今、私用で出かけていますが、
ちょっと時間ができたのでパソコンに向かっています。
大急ぎなので、ゆっくりと書くことができません。
もしヘンチクリンなところがあっても、
お許しください。


技術開発者 さん。
私もマルクスについては時代の違いを思います。
確かに、今は古い。
あわない、、、
が、
マルクスがなした偉業の上に近代経済学はなかったと思います。
以前も書きましたが、私も資本論を読みながら迷路に入るのです。
だからこそ、愚樵さんの迷路にとても興味をもっているのですが、、、、
今度、ゆっくりと書きますね、このあたり。
その時はまたご教示くださいね。
どうぞよろしくお願いいたします。

愚樵さん。
はい、あなたが楽しんでいらっしゃることは傍からもよぉおおく分かりますよ。
私は面倒くさがりだから、議論やネットでの討論のそもそもの目的が、理解や納得でなく折伏や押さえ込み、感情の流露であるような相手には、2〜3回でやめるのです。
が、
そういう意味ではあなたは本当に偉いです。

ただ、それとは別にして、
あなたのマルクス論、とくに善悪二元論ともとりかねるプロレタリアとブルジョアの関係。
ちょいと突っ込みたいです。
いずれ、時間ができたときにでも、、、


ではまた。


投稿: せとともこ | 2009.02.25 15:36

こんにちは、せとさん。少し経済学説を経済学として見るという事を書きたくなりました。

経済学も学問の一つであり、学問というのは蓄積していくものなんですね。例えば物理学で言うと、ガリレオは振り子の等時性を発見し、落下の法則も発見しています。でもガリレオの時代には、振り子の等時性と落下の法則はそれぞれ別な知見なんですね。ニュートンが慣性の法則(第1法則)と運動の法則(第2法則)を明らかにすると、この2つの法則で振り子の等時性も落下の速度も説明出来る訳です。こうやって、知見を増やすだけではなく、整理して知見間を結ぶ法則が出てきたりすることに学問のすごみがあり、発展というのがあるわけです。作用反作用の法則を含めたニュートンの3つの法則は、ニュートンが知らなかった様な物理現象の説明に使えた訳ですからね。

経済学も同じような事があるわけです。マルクス以前の経済学者も様々な知見を発見し整理していた訳です。「富とは何か」とか「成長とは何か」とかね。それはちょうどガリレオの時代に、様々な物理現象、例えば「振り子は長さが同じなら振れ幅が変わっても振れる時間は同じだ」と見つけるのに似ています。ただ、マルクス以前にはそれらの知見を統一的に考える「基本法則」という考え方が無かった面があります。それぞれの単独の法則性を見つけ、それを明らかにすることで経済を理解しようとしていた訳ですね。

マルクスは資本論を「経済学批判」として書きました。彼の批判は、個々の知見に対してではなく、個々の知見を結びつける基本法則を求めようとしない態度に対するものです。彼は「上昇と下降」という言い方をしていますが、個々の知見を全て説明し得る基本的な法則にたどり着こうし、そして法則を見つけたと考えるとそれが他の現象をも説明し得るかどうかを検証しようとした訳です。このやり方というのは自然科学の探索法に極めて近いもので、「唯物論」的です。

自然科学と経済学の違うところは「演繹・帰納」の問題があります。物理学の法則は実験条件を設定して試して見ることが比較的容易です。しかし経済学ではなかなか「じゃあ、実験してみよう」とはなりませんね。そこで、歴史の中の事例から法則を抽出し、歴史の中の事例に当てはめて、合うかどうかを確かめるという形の「帰納型」の探索になるわけです。マルクスの生きた時代は、産業が資本主義経済が飛躍的に発展し、すさまじい速度で経済成長が起きていましたから、検証する事例には事欠かなかった面があります。これが、彼が「歴史観」を重視した理由です。

こういった事を考えながら資本論を読むと、比較的迷路に入らないですむかも知れないと思います。

投稿: 技術開発者 | 2009.02.26 14:50

技術開発者さん。
ご教示ありがとうございます。
十分参考にさせていただきますね。
o(*^▽^*)o

今度、開発者さんのアドバイスにそってマルクスに再挑戦したら、
また書きますよ。
そのおりは、またご意見おきかせくださいね。
楽しみにしています。

投稿: せとともこ | 2009.02.26 23:43

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/15797/44160478

この記事へのトラックバック一覧です: 絶滅言語:

» 26年前の中川一郎怪死事件 [逝きし世の面影]
1983年1月9日 前年には自民党総裁選に出馬したほどの自民党の大物政治家であり、泥酔会見で国際的に超有名になった中川昭一前財務大臣の実父でもある中川一郎元農相(当時57歳)が宿泊先の札幌パークホテルの浴室で死んでいるのを発見される。 当初、死因は「急性心筋梗塞」と公表された。 ところが、2日後の11日になって、死因は「首吊り自殺」であったことが発覚する。 中川の首吊り自殺は不審な点が多く事件直後から『謀殺』説が囁かれていた。 何しろ(今では珍しくなくなったが)自殺方法が何とも不可解である。 中... [続きを読む]

受信: 2009.02.24 14:25

« ルーリン彗星接近 | トップページ | 2〜3日更新できないかもしれません。 »