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2009.06.23

社会保障とは、、、

母子加算全廃問題についてエントリーを挙げたところ、いろいろコメントを頂き、
改めて社会保障について考えています。
Wikipediaによれば、
「社会保障(しゃかいほしょう、social security)とは、本来は個人的リスクである、病気・けが・出産・障害・死亡・加齢・失業などの生活上の問題について貧困を予防し、貧困者を救い、生活を安定させるために国家または社会が所得移転によって所得を保障し、医療や介護などの社会サービスを給付すること、またはその制度を指す。」とあります。

「ゆりかごから墓場まで」でお馴染のイギリスから始まった社会保障の制度です。
各国の考え方やその歴史を辿ると、経済や政治と不可分であることは言うまでもありません。

では日本はどのように変遷してきたかを主に社会保障裁判とともに考え、そして今後、どの方向にいくのか?について今日は書いていきます。

社会保障裁判といえば、まず朝日訴訟堀木訴訟
朝日訴訟の概要は次の通りです(wikipediaより)
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原告は国から月600円の生活保護給付金を受領して生活していたが、月々600円での生活は困難であり、保護給付金の増額を求めた。1956年(昭和31年)、市の福祉事務所は原告の兄に対し月1,500円の仕送りを命じた。市の福祉事務所は同年8月分から従来の日用品費(600円)の支給を原告本人に渡し、上回る分の900円を医療費の一部自己負担分とする保護変更処分(仕送りによって浮いた分の900円は医療費として療養所に納めよ、というもの)を行った。これに対し、原告が岡山県知事に不服申立てを行なったが却下され、次いで厚生大臣に不服申立てを行なうも、厚生大臣もこれを却下したことから、原告が訴訟を提起するに及んだものである。
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堀木訴訟は次の通り(wikipediaより)
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原告の女性は、視力障害者であり、1970年(昭和45年)当時の「国民年金法」に基づいて障害福祉年金を受給していたが、離婚した後自らの子供を養育していたことから生別母子世帯として児童扶養手当も受給できるものと思い知事に対し請求した。しかし、当時の児童扶養手当制度には手当と公的年金の併給禁止の規定があったことから、知事は児童扶養手当の請求を退けた。そこで、原告はこの処分を不服として提訴した。
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これらの背景には訴訟を支えた多くの人々の支援があり、またそれを支える主体的な力量と条件が備わったものとして、広く多くの国民に「基本的人権」としての生存権の意義を再確認させたものです。
その後、社会保障裁判は、国民年金裁判、生活保護費受給裁判などなどと全国各地で繰り広げられます。
1960年代半ばの池田内閣から1970年代の佐藤栄作内閣まで高度経済成長とともに、生活保護も積極的に評価され、改善された時代です。

が、1973年、第一次オイルショックで日本経済の低成長期に入り、社会保障政策もストップしました。さらに見直しや転換が決定されます。
鈴木善幸内閣のとき、中曽根康弘行政管理庁長官は第二次臨調で答申を発表。
「国民の自立、自助、自己責任」が出てきます。
国民一人、ひとりの自己責任、親族親類の連帯責任が前面に押し出されてきた時代です。
その後、さらに悪化したのは2001年、小泉純一郎内閣の登場。
新自由主義のもと、格差社会の本格的な到来です。
プライマリーバランスの黒字化を目標に「財政構造改革」「骨太方針」をもってして、
社会保障予算を大幅に削減(具体的には自然増分から2200億円カット)。
年金、医療、介護、福祉、あらゆる分野で締めつけが押し寄せてきます。
2002年、医療制度改革、診療報酬改定
2003年、介護報酬改定、年金物価スライド引き下げ、雇用保険制度改定
2004年、生活保護の老齢加算削減から廃止
などなど、、、、と今に続いています。

憲法25条には、
「第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」とあります。
この25条が今や形骸化され、憲法13条の精神「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」が踏みにじられようとしています。

そもそも社会保障とは、セフテイ・ネットでした。
資本主義社会のさまざまな事故や危険に対して、所得の再分配などによる貧困が生じることを予防し、貧困から救済する制度として創られていったものです。それは資本主義そのものを恐慌から守り、社会主義の対抗策でもあったのです。
社会保障とは、国民を貧困から守り、格差とは無縁の社会をつくるための安全弁であることを思うと、
その安全弁を機能的に活かすためには不断の努力が必要であり、それを守ることが肝要であると、強く思うものです。

冒頭、紹介した社会保障のwikipediaには以下のように書いた記事があります。
「19世紀から20世紀にかけては、各国で失業問題が最大の課題であり、その中から社会保障が進展してきた。また、本来、福祉とは正反対の戦争が契機となって社会保障の基礎がスタートしたといえる。20世紀後半に入ってからは、各国において経済の低成長・高齢社会が社会保障を考えていく上での課題である。」と。


社会保障とは、個人の問題ではありません。
すべからく私たち国民のものであると、私は考えます!!!

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コメント

こんにちは、せとさん。

>社会保障とは、国民を貧困から守り、格差とは無縁の社会をつくるための安全弁であることを思うと、
>その安全弁を機能的に活かすためには不断の努力が必要であり、それを守ることが肝要であると、強く思うものです。

国民から見ると「安全弁」であり、実は国家から見ると「オートスタビライザー」でもあるのがセーフティーネットなんですね。サムエルソンという新古典派総合学派の人の話になってしまうんだけどね。彼は、「福祉的な支出は反資本主義的であろうか」という問いに対して、「『第一ラウンド』では、これらの支出は直接に財貨やサービスを消費しない。しかしそれは、それを受け取る人たちの購買力をふやすことにより、『第二ラウンド』では、自由私企業のための注文や仕事を作り出すことになる」と答えているのね。

余談だけど、彼はケインズ経済学を古典経済学と統合しようと試みた人なのね(だから新古典派総合なんて言われる)。業績としてはむしろケインズの考えたことをより分かり易い教科書にまとめた人なんて言われる(「サムエルソンの経済学」というのはとても有名な教科書ね:笑)。でも彼とか彼の師のあたりから、厚生経済学なんかも派生しているとも言える人でして、経済学史ではとても重要な人なのね。

なんていうかな、不況が起こった時に政府が「税金が入らないから」と緊縮財政を行うと、不況はむしろ悪化して長引くというのがケインズが出した結論で、今の日本でも「マンガ喫茶」も含めて、「政府は不況対策に金を出せ!」と大合唱が起こる訳ね。でもって、実はこの不況対策に出す政府の金というのは、「貯蓄に回らない限り」は実は何でも有効なのね。上のサムエルソンの回答というのがそれを表しているのね。罵愚さんがどういうつもりで書かれたかはしらないけど、浪費癖のせいで多重債務に陥った人に回しても、それが債権として回収されて貯蓄に回らないなら有効になります(笑)。

ただね、不況が起こるたびに「じゃあ、マンガ喫茶でも」なんて支出先を探さなくて済むのが、いわゆるセーフティネットの良さで、これがオートスタビライザーと言われるゆえんね。一度作り上げてしまうと、不況時にはセーフティーネットを必要とする人が増えて政府の支出が増え、好況になると必要性が縮んで支出が減るという自動応答性があるからね。

経済学には「合成の誤謬」という言葉があります。不況に成れば収入が減るから消費者の家計も締まり、会社の会計も締まる訳です。個々の選択としては正しいんだけど、日本中で家計が締まると、それらが合成された効果として、さらなる景気の沈滞が起こって不況は悪化し長引く訳です。個々の人や会社が「景気悪化」望んでいる訳でもなく、長引くことを望んでいる訳でもなくても、結果としてそうなってしまうのが、「合成の誤謬」なんですね。
だから、政府は個々の選択とは反対の選択をしなくてはならないというのがケインズが世界不況の解析から導き出した結論だった訳です。

或る意味で、この個々の選択を政府に当てはめて、政府の政策を個々の選択と同じにしようとしてきた面が我が国はあるわけです。「わたしは経済学のヶの字も知らない無学者ですが、」なんておっしゃる罵愚さんが「福祉なんて止めてしまえ」と書かれるのも当然なんです。個々が「正しい」と感じる経済感覚と逆の行動を政府に要求するのがケインズ経済学だからです。ただ、現実問題として世界不況は起こっている訳です。そしてここから先は、私の予想になりますが、社会保障が充実している国(北欧諸国など)から順番に不況から脱出するだろうと予想しています。世界の先進国の中で最低水準に近い社会保障をさらに切りつめた日本が不況から脱出するのはかなり遅れるのではないかというのが、私の予想です。

投稿: 技術開発者 | 2009.06.23 18:03

離職や病気のとき、そして老後などの心配の少ない国、それでいて国民全員が働く事に責任を持つ国、またまた、それでいて共産・社会主義でなく民主主義で小さな政府の国、こんな国の在り方が私の理想ですが、日本はアメリカに倣って逆の道を歩みつつあります。国民に安心感が在れば経済も真に成長します。自己責任論を振りかざし、競争一辺倒、格差の助長を容認する社会では、表向きは著しい経済成長を遂げているように見えますが実際は中身の無いバブルのような数字だけの経済成長だから、一つ弾けると全体が弾け何も残りません。日本はバブル崩壊で机上の数字の危うさを身を持って実感したにも拘らず、まだ、バブルの夢から目覚めていません。バブルとグローバリズムは根本的に違う事を認識し、実の在る国際競争力を着け、世界が滅びても日本は生き残るというような国民が安心出来る政治を確立して貰いたいものです。難しい事は解りませんが、これが、社会福祉国家としての理想の日本のような気がします。話がチグハグになってすみません。

投稿: よ | 2009.06.24 00:51

こんにちは、とさん。少し説明させてくださいね。

>共産・社会主義でなく民主主義で小さな政府の国、こんな国の在り方が私の理想ですが、日本はアメリカに倣って逆の道を歩みつつあります。

私は「社会システムに関する主義」と「経済システムに関する主義」を分けてお考えになることをお勧めしています。民主主義というのは社会システムに関する主義でして、対立する概念は専制主義となります。一方、共産主義とか社会主義というのは経済のシステムに対する主義でして、対立する概念が資本主義とか自由主義と言われます。

社会のシステムと経済のシステムに相性というのはありますが、基本的には組み合わせが可能です。例えば中国は全人代という形式的民主主義をもっていますが、現実には共産党の専制政治でして、その共産党は共産主義経済政策では無く新自由主義的な経済政策を推し進めている訳です。サッチャー以前のイギリスなどは社会システムは民主主義で、政策はフェビアン社会主義政策をとってました。どうにもかってソヴィエトが共産党独裁の専制国家として社会主義経済政策をとったイメージから、「社会制度が専制的でなければ社会主義的経済政策は取れない」とか「社会制度が民主主義なら経済政策は資本主義であるはずだ」とか思われがちなのですが、いろんな国のシステムを調べて比べるなら、社会システムを表す主義と経済システムとしての主義はいろんな組み合わせが可能であることが分かると思います。

>難しい事は解りませんが、これが、社会福祉国家としての理想の日本のような気がします。話がチグハグになってすみません。

上で「この世界恐慌から最初に抜け出すのは北欧などの高福祉国家であろう」と予想を述べさせていただきましたが、実は高福祉政策は資本主義経済とは矛盾しません。むしろ資本主義経済の競争を加速できる面があります。資本主義経済の良いところは、競争淘汰が働いて効率の悪い企業が衰退し効率の良い企業が伸びるというところにあります。この競争淘汰が働くことで社会全体産業競争力が高まる訳です。ところが、この競争淘汰というのは基本的に経営者の経営能力の競争とも言える訳です(社員を選んだり、社員の能力やモチベーションを高めるのも経営能力に含めまて考えています)が、競争淘汰により無能な経営の報いを受けるのは社員も含まれてしまうという面があるわけです。社会保障というセーフティネットが充実していると、その経営者の無能により社員が受ける報いは軽減され、経営者の経営能力に関する競争淘汰を激しくしても社会は大きな影響をくらいません。ところが社会保障を削減していると、会社の規模が大きくなると競争淘汰による栄枯盛衰に任せるということができなくなります。米国のGMの例を見ていただくと分かるのですが、本来市場競争に任せ、勝手に潰れるにまかせなくては成らないはずのGMやクライスラーに政府が支援して計画的に再生しなくてはならなくなっています。それは経営の無能による報いを多くの社員や関連会社の社員が受け、それを放置すると「食えなくなった労働者」が多く成りすぎるからです。つまり、社会保障をケチると資本主義経済の根幹である競争淘汰が機能しにくくなり、政府が私企業を国有化して再生する共産主義経済政策を行わざるを得なくなる訳です。

投稿: 技術開発者 | 2009.06.24 09:21

山ほど書くことありますが・・・。
自己責任の本場はアメリカといわれたりしますが、アメリカを勉強して、その後もみてきて一つの仮説です。

自己責任ではなく、フロンティア魂では?国や社会からの束縛から逃れた人中心なので。

多分自分達が御互い協力するところはしたのでは?社会保障は自助と共助だったのでは??
という仮説です。


 御互いおもいやり、行政とは別に近くの困っている人を支援する社会がもうすこし成熟すると暮らしやすいかもしれませんえ。
誰もが助けがいる状態になる可能性があることでもあるし。

投稿: あゆ | 2009.06.24 09:28

技術開発者さん。
よさん。
あゆさん。
こんにちは。
コメントありがとうございます。


技術開発者さん。
相変わらず、丁寧に分かりやすくお教えいただき、
とても納得です!!!
悪循環の構造が手に取るようにわかります、、、
フゥム。
ふぅむ、、、

ですね。

なんとか、断ち切りたい。
そのためには、やはり私たちの力量をつけること、体力をつけることですね、、、、、
ふぅむ。
ため息ばかりです。

よさん。
開発者さんが、詳しくコメントをくださっているので、
私は多くは書きませんが、
理想とする国の構想は同じです。
つまり「離職や病気のとき、そして老後などの心配の少ない国、それでいて国民全員が働く事に責任を持つ国、」
いいですね、、、
安心して国民が働き、老後も保障される国つくりを政府には目指してもらいたいです、、、
そのために、
今の現実をどのように分析して、
今後、どうすればよいか、、、
真剣に考える時では、と思います。
またご意見お聞かせくださいね。

あゆさん。
マッタク同意見です!!!

投稿: せとともこ | 2009.06.24 12:17

 湯浅誠を、イデオロギーに市民運動の仮面をかぶせた偽善家だろうと、わたしは先入観で誤解していた。どうやら順番が逆で、現場から出てきた活動家が、政治に注文をつけはじめているらしい。…で、、このさき将来のことはわからない。かれが、これからどう変身するのかの予想なんかに興味はないのだが、スタート近くの経験として忘れてもらいたくないエピソードを、かれ自身が語っている。
 路上生活をはじめて、残飯あさりをはじめて経験したときに…ポリバケツに捨てられたコンビニ弁当のふたを開けると同時に、いままで自分がもってきたプライドがプツンとはじけ飛んでいった経験。この経験者への同情心、理解がこの話題の大前提だと思った。
 湯浅誠自身は、それでも緊急避難的に食職住の提供を活動の中心にすえているわけだが、おそらくかれは、それで終わりだとは考えてはいない。失われたプライドの再生。失われる前での自立支援。そう、救済ではない。自立支援という言葉を使っていたなぁ…

投稿: 罵愚 | 2009.06.29 05:27

罵愚さん。
こんにちは。
いきなりの湯浅さん登場で,ちょっと面喰っています。
おっしゃりたいことは,
湯浅さん個人にたいしてのことか,あるいは湯浅さんからさらに導かれる何か,なのかは,今のところ,分からないので,申し訳ありませんが,このコメントへの言及はいたしません。

いずれにしても,
何回も書いているように,今,パソコンの調子が悪いのと,出かけることが多くて時間に余裕がないので,」いろんな事が書けないので,このあたりで,失礼します。

投稿: せとともこ | 2009.06.29 16:12

 言葉足らずで申しわけございません。 野生動物を餌づけして、自然保護と誤解するように、弱者救済を問題解決と誤解した意見が多すぎる。とりわけ、救済対象は人間だから、プライドを奪った福祉なんて意味はない。
 母子加算どころか、生活保護以下の収入のなかで、福祉に頼らずにがんばっている親子を支えている自立心を、どうやって援助しようかの発想の転換が必要だ。育児放棄の父親や、自堕落のすえの母親は、福祉の対象からはずすべきだと思う。子どもに罪はなくても、両親には責任をとらせるべきだ。

投稿: 罵愚 | 2009.06.29 16:28

こんにちは、せとさん。罵愚さんは単に思いついただけのことをきちんとした理屈も無しに「垂れ流し」ておられるだけみたいだからあまり気にしても仕方ないと思いますよ。

なんていうかな、猿の群れと人間の群れの差というのは、その社会性の違いなんです。猿学(動物行動学)とかをおやりの研究者の方は、「どうやって、その社会性が発達してきたか」が研究命題だったりするんですけどね。

なんていうかな、猿の群れでは弱い個体が手に取った食べ物を強い個体が強奪して食べてしまうなんて事も頻繁に観測されます。それに対して狩猟採取型の生活をしているいわゆる未開部族を見たって、人間の群れでは「分配」という事が行われている訳です。その違いとは何なのか?ということなんですね。人間は、その分配などの社会性を発達させることで、「他の動物よりも『生き延びる力』の強い群れ」を作り上げる事で、この地球の優勢種となってきた訳です。

なんていうかな、私はそういう社会性を「文化」という言い方をするけど、これは遺伝子に刷り込まれた「本能」じゃないんです。本能そのものは猿とたいして違う訳じゃないんですね。直接の教育だけじゃなく社会がそれとなく成長段階で刷り込む「文化」によって「文化的人間」ができあがっているだけなんですね。「文化を崩して本能を解き放つ」様な社会の中に居れば、当然、「本能のままに」生きるのが普通で、文化を「不自然」と感じる人間ができあがる訳です。

投稿: 技術開発者 | 2009.06.29 17:21

その湯浅さんの椅子とり、あゆ版で書いちゃいました。

投稿: あゆ | 2009.06.29 18:51

罵愚さん。
技術開発者さん。
あゆさん。
こんにちは。
ご無沙汰していました。
今、ようやく、忙しさも通りこしたかな、、、と言うところです。
夏休みが近いと、毎年、そうなのですが。

と、言うことで、コメントも書くことができませんでしたが、
今後ともよろしくお願いいたします。

このエントリーで頂いたものは、後日、あらたにエントリーを挙げます。

では、、、また。

投稿: せとともこ | 2009.07.07 18:15

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